日曜日, 7月 21, 2019

90sのスケーターとファッション業界の盗用

90sのスケーターとファッション業界の盗用

スケートフィルムの先駆者、ウィリアム・ストローベックが語る

 

アメリカで20年以上にわたりスケーターを撮り続けてきたフォトグラファーで映像作家のウィリアム・ストローベック。スケート映像のパイオニアである彼が、i-D Japan no.7 ヒーロー号のために撮り下ろしたマーク・ゴンザレスとタイショーン・ジョーンズ、「ダーティな」90年代の文化について語った。


「テーマはヒーローなんだけど、周りにいるスケートキッズを写真に撮ってほしい」とお願いして3日とも経たずにマーク・ゴンザレスとタイショーン・ジョーンズの写真が送られてきた。
ポートレイトを撮ってくれたのは映像作家のウィリアム・ストローベック。
彼が監督したスケートビデオ『BLESSED』が世界の主要都市でプレミア上映され、iTunesで配信が始まったのも記憶に新しい。
「Supremeはカルチャー全体へのアピール力がある」と語る彼が、映像への思いと共にスケート文化が与えるファッション業界への影響やこれからのことについて語ってくれた。







「マーク・ゴンザレスは真のレジェンドであり、仲間」タイショーン・ジョーンズ


——あなたがビデオを撮るようになったのは?

地元のアップステートから、フィラデルフィアに引っ越したとき。1996年に。いや、95年だったかな。引っ越したばかりの頃は、スケート三昧で撮影はしてなかった。カメラはおばあちゃんがくれたんだ。でもずっとほったらかしにしてた。あるとき、面白いものが映るかもと思って写真を撮ってみた。あとで家で見ようぜ、っていうくらいの軽い気持ちで。数ヵ月後には、スケーターを撮るのが楽しくなって、それが仕事にもなってた。規模の大きいビデオをつくらないか、って〈Alien Workshop〉から声をかけられたんだ。当時は普通に仕事してたんだけど、毎日給料払うって言われたから、「オーケー、仕事辞めるわ」って。それが1997年。


——そこで撮った映像があなたにとって初めての作品?

そう。初めてのビデオが超大作だった。本当にラッキーだったよ。会う前から知ってたスケーターを撮影できたんだ。いわば僕のヒーローたち。超興奮してたけど、完璧にやらなきゃっていう重圧もあった。ここが自分の正念場だ、100%の力を出し切らないとって。


——最初のスケート映画『cherry』を撮ることになったきっかけは?

それまでSupremeは長編スケートビデオを作ったことがなかった。僕はタイショーンが13歳とかそれくらいのときに、(ジェイソン・)ディルと一緒にSupremeの広告ビデオを手がけたことがあって。2011年くらいのことかな。その映像の評判がよくて、数ヵ月後に「長編の映画撮らないか?」って声をかけてもらったんだ。






「TJは最高だよ。彼が滑っている姿を見るのはとにかく楽しい」マーク・ゴンザレス


——その作品を撮ったあと、何か変化はありました?

Supremeはスケートをやらない人にも広くアプローチしてる。だから僕の映画も、スケートをやらない多くの人に観てもらえた。そのおかげで僕のキャリアが一歩前に進んだ感じ。Supremeのおかげでスケートだけじゃない、より大きなプラットフォームを手にすることができた。そのあと、自分たちのレベルも上がったし、もう一本長編を撮りたいよね、と言い合うようになった。それが『BLESSED』。


——あなたの映像からは、キッズとの親密な関係が伝わってきます。あのように撮る秘訣はどこにあるんですか?

僕はいつも彼らと一緒に生活するんだ。その人をその人らしく撮りたいからね。スケートには独自の言語がある。でも業界の外に出れば、彼らの言語は伝わらない。だから、ファッションの会社にスケートの写真とか映像のポートフォリオを持ち込んでも何の役にも立たない。


——ファッション業界がスケート文化を多く参照している状況についてはどう思いますか?

90年代のスケーターたちはぶっきらぼうでお金もないし、でも女の子にはモテてた。みんな等身大だったよ。辺りを騒々しくうろついて、お金もなくて。何かを得るためには、自分の個性を最大限に利用するしかなかった。たとえば、ピザひと切れがほしかったら、知り合いの店員の女の子に話しかけてみる、とかね。
スケーターはとにかくお金がなかった。90年代はダーティな時代だったんだ。グランジとかスケートとか。で、ファッション業界の人は誰もスケートについて知らないから、盗用してることにも気づかない。スケートカルチャーってストリートキッズありきだけど、最近はお金を持ってる人が集まっている感じがするよね。
90年代のスケーターは、もうひとつの〈ファミリー〉を求めるキッズたちだった。彼らはスケートをしようがしまいが友人たち(つまりそれがファミリーなんだけど)といつも一緒で。彼らはマジで貧乏だったし、家庭の事情も複雑で、家族と一緒に居たくないと思ってた。スケートは普段の生活から逃げるための手段だったんだ。






——今回は本号のために、タイショーンとゴンズを撮り下ろしてもらいました。彼らを選んだ理由は?

マーク・ゴンザレスの視点は唯一無二。美学がある。彼は世界をすごくワイルドに見つめているし、一緒にいるとその特別感を強く感じる。会うのは久々だったから、昔僕らが一緒に出かけてた場所をぶらついた。
僕が撮ったなかでも最年長で、史上最高のスケーターだよ。彼は彼なりの特別なやりかたで、偉業を成し遂げた。誰にも真似できない。トップだよ。彼が最年長で、最年少がタイショーン。彼は2018年のスケーター・オブ・ザ・イヤーも受賞した。お互いのことをよく知ってる友人同士だ。今や彼は、スケート界のキング。13歳から20歳の道のりを目にしてこられたのは感動的だよ。卓越した身体能力を誇る若いアフリカ系米国人とメキシコ系の重鎮。彼らを撮影するのは楽しいよ。とにかくふたりとも最高。他にもヒーローとして名前を挙げたい人はたくさんいるけどさ。ジェイソン・ディルにはすごく助けられた。つらいときには寄り添ってくれて。彼は本物だよ。


——スケーター以外ではヒーローはいますか?
 
いっぱいいるから難しいな。でもデニス・ホッパーかな。彼の映像作品が大好き。彼こそが、我が道を貫いた第一人者なんじゃないかな。
自分のヴィジョンがあって、それをもとにすべての作品をつくった。彼はキャリアを通してずっと〈デニス・ホッパー〉だった。そういう意味で、彼は僕のヒーローだね。時間と労力を費やしてものづくりをすれば、それが自分のやり方になっていく。










——あなたもパイオニアですよね。スケート業界以外の人にも届くようなビデオを作ったのはあなたが最初です。
 
みんなが観たいのは、とにかくリアルな映像。その場で何が起きているか。僕の映像は、ただスケートを撮ってるわけじゃない。僕たちがいるその場所で、起きている出来事を記録してる。僕自身いつも映画をやりたいって思ってるんだ。アイデアもある。本当の映画じゃないけど、映画っぽい作品というか、スケートビデオだけど他の何かにも片足を突っ込んでるというか。


——映画の制作はいつごろになる予定ですか?

どうだろう、短編も何本かつくりたいし。キッズたちといろいろやってみて、それの進捗次第かな。写真ももっと撮りたい。個人的にね。クロスカントリーの写真とかも好き。僕って〈イメージコレクター〉なんだよね。写真もビデオも映像もすべて大事だし、全部やりたい。死んだときには、すべてのイメージが僕の人生を総括するんだ。最高だろ。













PHOTOGRAPHY WILLIAM STROBECK
MODELS MARK GONZALES. TYSHAWN JONES.
MARK AND TYSHAWN WEAR ALL CLOTHING MODELS’ OWN.









土曜日, 7月 20, 2019

Betty Tompkins / Fuck Paintings

政府に検閲された絵が40年後に再評価

 ベティ・トンプキンス「セックス・ペインティング」

 


ベティ・トンプキンス。近年では、“過激な”プロフィール画像が検閲され、Twitterアカウントが凍結されるなど、常に話題の絶えない現在73歳の彼女に、独占インタビューを行なった。



73歳のアーティスト、ベティ・トンプキンスは数年前にTwitterを始めた。プロフィール画像は、古いポルノ雑誌を参考にした自らのペインティング作品から選んだ、性器のクローズアップ。「抽象的だから、誰も気づかないだろうと思った」と彼女は説明する。

私たちがいるのは、ソーホーにある彼女のアトリエだ。彼女は夫であるアーティストのビル・マッター(Bill Mutter)とともに数十年前からこの広いアトリエで暮らし、創作に励んでいる。残念ながらTwitterは彼女のプロフィール画像を感知し、彼女のアカウントを凍結した。

しかし運命のいたずらか、アーティストのリチャード・プリンスが消される前の彼女のページをスクリーンショットで記録し、画像を絵画にして、SNS上の投稿をまとめたシリーズに加えて公開した。彼のペインティングは他のアーティストの作品とともに、トンプキンスのリビングの壁に飾られている。この作品によって、トンプキンスは長らくカルチャーを見つめ、女性のセクシュアリティとヘテロセクシュアルの性行為をテーマとしたイメージを描いてきたアーティストとして世界に名を知られることとなった。



Betty Tompkins, Collage #6, 1973, mixed media, 5 x 4 in. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.


トンプキンスの初期シリーズ〈Fuck Paintings〉は1960〜70年代に制作され、発表当時は美術評論家やフェミニストたちから追放されたが、最近になって知名度が上がっている。彼女はこれまでに、観る者をドキっとさせる、さまざまな作品を発表してきた。

〈Women Words〉シリーズでは、女性を表現した言葉をネットで募り、それを美術史の本から破ったページに記載。〈Apologia〉シリーズではセクハラの訴えへの謝罪の言葉を、女性が描かれた歴史的な美術作品に描いた。さまざまな紆余曲折を経ても、彼女は常に自分に忠実だ。排斥や検閲を恐れずに、大声を上げる。

今年3月から4月にかけて、ロンドンの〈J.Hammond Projects〉で彼女の個展「Fuck Paintings, Etc.」が開催。そのタイミングで、i-Dはトンプキンスにインタビューを敢行。美術界での経験、ジョーン・リバーズが個展のオープニングに来場したときの話、そして彼女の作品が何を表象しているかを語る。


——アートに関心をもつようになった経緯を教えてください。


私はフィラデルフィアで育ち、高校の美術室でグレディース・ブロックという教師に見出されました。友人の絵のモデルとして美術室に行ったんですが、着いたら友人はまだ忙しそうで、画材で遊んでて、と言われたんです。そこで、適当にキャンバスと絵具をとって小さな静物画を描いてました。私は美術が苦手だったし、中学でも美術の成績は最悪。でも突然、後ろに女性が立って、私の絵を眺めたと思ったら、キャンバスを掲げて「みんな、これを観て」と言いました。そしてその絵について講評を述べると、私のほうを向いて「美術部の活動は毎週水曜、場所はここ」って。今の私があるのはブロック先生のおかげです。



Betty Tompkins, Cow Cunt #1, 1976, acrylic on canvas 84 x 60 in. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.


——〈Fuck Paintings〉シリーズの着想となったのは?


ひとりめの夫が膨大なポルノグラフィコレクションを所有していたんです。当時は米国の郵便でポルノを送ることは禁止されていました。私と出会う前、彼はわざわざカナダのバンクーバーに私書箱を開設して、ポルノ雑誌の後ろのほうにある広告に連絡し、ワシントン州から車で国境を越えて私書箱に届いたポルノグラフィを取りに行ってたんです。だから圧巻のコレクションでしたよ。

いっぽう私はその頃、いろんな美術展を観に行ってたんですが、作品がどれも最悪で、会場でいつも退屈してたんです。なので毎回、受付にいるひとと話をして、私の作品集を観てくれるか、と訊いてみた。すると返事は、「テーマを見つけたらその10年後にまた来てくれ」とのことでした。というか、「どうせ女性の作品は扱わないから戻ってこないでくれ」って言ってましたね。それでも私はめげませんでした。むしろ、すごく自由になった気分でした。どうせ誰も私の作品を気にしないんだから、私は好きなことをしよう、って。だから、自分が展覧会で観たいと思うような作品を描こうと決めたんです。

そしてある日、私は前夫のポルノコレクションを観てみることにしました。そこで、指でポルノグラフィをクロップして、それから紙を手にとってみると、自分が何をしているかが、さらにはっきりみえてきたんです。それは抽象性があってゴージャスで、エネルギーがあった。思わず目を奪われるような。その翌日に私はキャンバスを組み立てて、〈Fuck Paintings〉の第1作目に取りかかりました。私は、ここだ、と思うまで写真をクロップして焦点を絞り、手、足、毛など、あらゆる要素を取り除きました。3〜4時間で9作品を描き上げました。


——オリジナルの〈Fuck Paintings〉は公開されたことがありますか?


〈Fuck Paintings〉は合同展で二度展示して、そのあとパリの合同展に送られましたが、パリの地を踏むことはないまま返送されてしまいました。私の手元に戻るまでに1年かかりました。

当時はインターネットもEメールもありません。長距離電話は高額だし、やり取りの手段は郵便しかなく、実に時間がかかりました。結局手元に戻ってきたけど、不愉快な経験だし、嫌な思いをしましたね。そのあと、このシリーズの制作をしばらくのあいだ中止することにしました。政府の検閲対象になってしまったので、他の作品にとりかかろうと。当時はSNSもインターネットもなかったけど、どういうわけかみんなこのシリーズについて知ってくれてました。でも、30年以上も合同展に出品することはできなかったんです。



Betty Tompkins, We the People..., 1983, acrylic on paper, 25 x 40 in. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.


——ではそのあとはどんな作品を?


同じテーマのドローイングを、ソフトコアポルノを使って描くようになりました。90年代後半から2000年代初頭の話です。すると知人が電話をかけてきて、「昨夜、討論会に参加したんだけど、(美術評論家の)ジェリー・サルツがセックスをテーマにした美術展をキュレーションするらしいよ」と教えてくれたんです。そこで私はジェリーに手紙を書きました。実際に顔を合わせたことはありませんでした。手紙の内容はこう。「拝啓 サルツ様、セックスをテーマにした美術展のキュレーションのご予定があるとのことですが、もしそうであればぜひ私の作品をご検討ください。敬具 ベティ・トンプキンス」。でも返事はありませんでした。

そしてある日ミッチェル・アルガスが、合同展をやるから、と電話をかけてきて、私のもとへ作品の講評を伝えにきました。そのときに、「誰に作品集を渡されたの? どうやってこれについて知ったの? 誰も知らないはずなんだけど」と伝えたんです。その事実こそ、彼が私の作品に興味をもつきっかけだったみたいです。彼は画商として、昔のアーティストの作品を現代的な文脈に即して提示し、彼らに二度目のチャンスを与えることを得意としていました。昔、というのは、60、70、80年代。ときには50年代の作品もありました。そして彼は、「ジェリー・サルツだ」と答えたんです。だから私は、「もし展覧会で私の作品を展示してくれるなら、彼が来て、講評してくれるはず」といいました。

結局その合同展は彼が望んだ通りに進まず、彼は計画を白紙に戻したんですが、私に「〈Fuck Paintings〉シリーズの展覧会をやりたいと思ってる。開催は3週間後だ」と伝えてきました。「でも作品は木枠に張ってないし」と訴えると、「僕らが張るよ」。「ドローイングは額に入れてない」と訴えると、「僕らが予定までにやっとく」という答え。そこで私は「プレスリリースを打ってない」という問題を指摘しました。当時、プレスリリースを打つときは、かなり厳密なスケジュールで動かなければならなかったんです。すべて郵便ですからね。なので、3週間前には書類を封筒に詰めて、各所に送付してないといけなかった。だけど、「僕は適当な文章を書くのが得意だから大丈夫」とかわされました。だから、ちょっと考えさせてくれ、と答えたんです。


Betty Tompkins, Sex Painting #4, 2013 acrylic on canvas, 84 x 60 in. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.



——どうして出品に気が進まなかったんですか?


このシリーズは長年否定されてきたので、ポジティブな反応というのを信用できなかったんです。そんなとき、現在の夫であるビルがディナーに連れていってくれて、そのときに「何でそんなに悩んでるの? どうしてためらうことがある? このせいで君に傷がつくことはないだろう?」といわれました。「ちょっと時代遅れの作品な気がするから怖い」と答えると、「じゃあ家に帰ったらいっしょに観てみよう」と。

私は、作品を丸めて長いことビリヤード台の下に放置していたんですけど、自分で自分を褒めてあげたいのは、絵を内側ではなく外側にして巻いていたのと、各作品のあいだにコットンの布を挟んでいたこと。なので、放置した当時と同じコンディションを、数十年後も保っていたんです。私たちは3作品を床に広げ、その周りを歩いてみました。するとビルが、「どう思う?」と尋ねてきたので、「ちょっと綺麗にしないとね」と答えました。ビルが「何を考えてる?」というので、「今描き上げたばかりみたいにみえる」と答えると、ビルが「ミッチェルに電話して、話を受ける、って返事すれば?」と。だから私は夜の9時くらいにミッチェルに電話して、「作品を確認してみたんだけど、ぜひやらせて」と伝えました。それで2002年、初の個展が実現したんです。


——ついにこのシリーズを展示したときのお気持ちは?


気分は良かったですよ。初日はすごく緊張しました。きっと始まる前のほうがナーバスになって、イベントに行ってしまえば大丈夫なはず、と思ったので、早めに会場に足を運びました。ドアから中に入ると、ミッチェルが「あ、アーティストのお出ましだ」といい、その声でひとりの男性が大きな笑みをたたえて私のほうを振り返りました。それが『New York Times』の美術評論家、ホーランド・コッターだったんです。彼には、「おめでとう、すばらしい個展だ」と声をかけてもらいました。その場ではあまり会話しなかったんですが、翌朝の7時に親友が電話をかけてきて、こういうんです。「朝早くにごめん、でも今日は金曜だし、あとあなた『New York Times』に載ってるから!」
それを聞いた私がビルを起こすと、彼は新聞を買いに走って、5部買ってきました。当時、フェミニストの美術展が、私の展覧会以外にふたつありました。でも彼の書いた論評の真ん中あたりで言及されたのは、私と私の展覧会だったんです。「この論評でおもしろいところ、どこだと思う?」とビルが訊くので、「何?」と答えると、「論評全体にひとつしか形容詞が使われていないこと」と教えてくれました。しかもその形容詞というのは、〈formidable(圧倒的)〉だったんです。


Betty Tompkins Women Words Installation view, WOMEN NOW Austrian Cultural Forum, New York, NY, 2018. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.


——展覧会のオープニングはいかがでした?



混んでました。ギャラリーは当時チェルシーにあったんですが、私の個展と同じ夜にすべてのギャラリーで展示初日を迎えたんです。まるで波が動いているかのようでした。ジョーン・リバーズも来ました。私は数年間、彼女の絵画の先生を務めてたので、個展に招待したんです。私は有名人に出会ってガチガチになったり、富や名声に気後れするタイプではないけど、でもやっぱり彼女が歩くと海がふたつに分かれるような感じでしたね。そのあと、ポンピドゥ・センターが1作品、そしてロバート・ゴバーとドナルド・モフィットが1作品を購入してくれました。ふたりは数年前、私の許可を得てブルックリン美術館にその作品を寄贈してました。


——この主題にもういちど取り組もうと決めたのはいつ頃ですか?


いちどやったことをもういちどやるのは好きじゃないんです。私が好きなのは、改めていちからテーマを再考すること。私はエアブラシで作品をつくってみたかったので、ニューヨークのキャナル・ストリートにある〈Pearl Paint〉という店に行き、エアブラシをふたつ買いました。面白かったですよ、最初に自分がこのテーマに取り組んでから、数十年間経ってますから。最初の2日はなかなか慣れず、でも3日目に脳が戻ってきた感覚があって、良い感じになりました。特にワクワクしたのは、エアブラシを手にしたとき、自分の手が、「こんな長いことどこ行ってた?」と語りかけてきたんです。身体からこんな反応を得るなんてそれまでなかった。自分自身に描きかたを教えてあげました。



——あなたにとってこのシリーズは何を表象しているのでしょう?


私にとって何を意味するか、それは話さないようにしてるんです。最初からそう決めてます。というのも、主題が主題ですし、鑑賞者それぞれがパーソナルな反応を抱くと思うんです。それは各々の経験、姿勢、セクシュアリティに関連している。もし私が自分にとっての作品の意味を語ってしまったら、鑑賞者にとっては簡単になります。自分の頭で考えるのをやめて、受け身になれば良いだけですから。でも私は彼らの反応に責任はもてません。それに簡単なアートは好きじゃないし。だから何も話さないでおこうと決めました。私が引き合いに出されている文章はグーグル検索すればすべて見つかると思うけど、「この作品の意味は?」という質問に関しての答えは、絶対にみつからないはず。


Betty Tompkins I'm going to..., 2018, acrylic on canvas, 24 x 24 ins. Courtesy of Betty Tompkins and P•P•O•W, New York.

















This article originally appeared on i-D US.

金曜日, 7月 12, 2019

バンドしようぜ<第27話>「夢見る少女じゃいられない」吉泉 知彦

 

バンドしようぜ<第27話>「夢見る少女じゃいられない」


ライブ出演にスタジオ練習……“令和のおとなバンド”としていよいよ活発になってきた“信濃リバーサイド”(読者の皆さん、これがバンド名ですよ。覚えてあげてくださいね)!  今日も今日とて……!?

 

第27話 『夢見る少女じゃいられない』

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コンテスト出場を夢見て「もっと激しい夜に抱かれたい!」女性メンバーに対して、「No Noそれじゃ(モチベーションやお小遣いが)届かない」男性メンバー……。優柔不断な土沼を仲間に、多数決で女性側が勝利を掴むのか!? 

 

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<登場人物 プロフィール>


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沢尻肇(ドラム)45歳 家電量販店勤務
高校生の時からコピーバンドを趣味で続けている。18歳の息子の竹夫は引きニートだが宅録が趣味。音楽の話をしようとすると煙たがられる。今のところ腕力では優勢。

 

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菊池ミキ(ボーカル)39歳 理容師だったが今はスナック勤務
佐々木と付き合っていた過去がある。カッとしやすい性格。酒が入るとヒートアップしがち。スナック「五色沼」のエースホステスとして、日々常連のボトルを飲み干している。

 

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佐々木達郎(ギター)40歳 自動車整備工場勤務
7歳の娘がいるが別れて暮らしている。現在の彼女は、aiko系女子・よし子。身近な女性にすぐ惚れがち。

 

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土沼孝之(ベース)44歳 高校の社会科教師
沢尻の高校の同級生で当時から一緒にバンドをしていた。
佐々木に車を直してもらった縁でバンドを始める。趣味はバス釣り。理不尽な怒りを向けられがち。

 

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桜井仁美 24歳 家電量販店勤務
一回り以上年の離れた上司、ドラム沢尻に好意を寄せている(すでに告白済み)。細身だがボイン。ピアノが上手く、バンド経験あり。客や同僚など、ストーカーを惹きつけがち。

 

♪第27話の楽曲♪

相川七瀬/夢見る少女じゃいられない
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