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火曜日, 6月 21, 2016

「LINEの中身」 慎ジュンホ(5)














LINE開発前夜、振り切った「決断」

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(5)

 



2011年6月、アップストアに「LINE」が登録された瞬間、当時の技術陣に笑みがこぼれた


東日本大震災後の2011年6月、韓国のインターネット大手、ネイバー(当時はNHN)の日本法人であるネイバージャパンから、LINEというメッセージアプリがリリースされた。ネイバージャパンは後にLINEへと社名変更、今年7月中旬、日米同時上場を果たす。

韓国のネイバー本社から慎(シン)ジュンホ氏が来日し、ネイバージャパンという組織の礎を築いてから約3年。慎を中心とするメンバーは、幾多の艱 難辛苦を乗り越え、LINEを生み出した。しかも、本格開発を決めてから約1カ月半で完成させるという驚異的なスケジュールで。

「LINE誕生の起点、慎ジュンホ」編の5回目(最終回)は、LINEの本格開発に着手する前夜、検索事業を捨て、メッセージアプリの開発にすべてを注いだ「決断」に焦点を当てる。

「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)からお読みください)



 

 

報酬「52億円」の理由

 

LINEという会社はあらゆる点で規格外だ。プロダクトそのものの展開もさることながら、経営体制やその処遇も“普通”じゃない。

代表権を持ち、社長CEO(最高経営責任者)を務める出澤剛がLINEの顔であることは間違いない。出澤ら経営陣は今、7月中旬の日米同時上場を 前に、ロードショー(投資家向け説明会)のため海外ツアーに出ており、上場当日は鐘を鳴らす出澤の顔が世界中で報じられるだろう。

だが、報酬を見ると出澤が突出しているわけではない。

上場に際してLINEが提出した有価証券届出書には、2015年度の報酬額が1億円を超えた役員として、出澤のほかに取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)の舛田淳と取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎(シン)ジュンホの2人が名前を連ねている。

これによると、出澤が約1.3億円、舛田が約1億円(総額の6~7割がストックオプション)。

対して慎は、約52億円と突出している(約98%がストックオプション)。

これは、慎がLINEの前身であるネイバージャパンを実質的に立ち上げた功績への「報い」なのだが、自らのクビを懸け、組織全体のリソースをLINEへと一気に集中させた、かつての決断への報いでもある。




LINE取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホ氏
2010年秋、慎を中心とするネイバージャパンの主要メンバーは、途方に暮れていた。

韓国で7割以上のシェアを誇る「NAVER検索」を日本でリリースするも、マイナーなサービスとして埋もれたままだった。ライブドアを買収するという奇策に走るが、それも不発に終わる。

ホームランを狙い何度も打席に立つが、打てども打てども空振り。よくてヒット。先行投資がかさみ、メンバーの精神は限界に達していた。誰よりも責任を痛感していたのが、慎だった。

当時、ネイバージャパンは、ゲーム事業を手がけるNHNジャパンの子会社で、韓国ネイバー(当時はNHN)からすれば孫会社。NHNジャパンの社長だった森川亮がネイバージャパンの社長も兼任していたが、事業開発や現場のオペレーションは、ほぼ慎に委ねられていた。

「自主独立」「カルチャライゼーション」の経営方針のもと、韓国本社からは一線を画した経営を貫き、独自のサービスを矢継ぎ早に打ち出すも、結果を出すことができない。

慎はネイバー創業者の李(イ)ヘジンから絶大な信頼を得ていたが、慎は「必ずしも韓国本社の全員が自分のやり方に賛同していたわけではない」と感じていた。何より、慎が来日して以降、ライブドアの買収も含めて100億円以上は費やしていることへの引け目があった。





「ゲーム、画像、コミュニケーション」に特化

 

次に実績で「証明」できなければ、退場せざるを得ない。追い込まれていた慎は、連日連夜、主要メンバーと議論を重ねる。

慎と森川に加え、企画・戦略・マーケティング全般を見ていた舛田。「NAVERまとめ」の立ち上げなど現場リーダーを務めていた古参の島村武志。慎が韓国から一緒に連れてきた「技術の要」の朴イビン……。

達した結論は、「日本中のユーザーが使ってくれるようなスマートフォン向けのサービスにすべてを懸ける」というものだった。

もはや、「検索事業」にこだわっている場合ではない。「圧倒的な集客力」があるサービスを作らなければ、この数年の「暗黒時代」を正当化することはできない。

ちょうど前年の2009年秋に日本でも初めて「iPhone」が発売され、スマートフォンの波が訪れつつあった。今から挑戦して圧倒的なユーザー規模を得られる可能性があるのは、これしかない。メンバー全員の意志が一致した2010年10月、慎はある指針を打ち出す。


 「ゲーム、画像、コミュニケーション。これに特化しましょう」



ゲーム、画像、コミュニケーション。この3つは、パソコン、フィーチャーフォン、いつの時代も新たなプレイヤーが勃興するチャンスを与えてきた。スマートフォン時代にも同じことが起こると慎は踏んでいた。

このうち、スマートフォンに特化したゲーム事業は、NHNジャパンが手掛けることにした。NHNジャパンの「ハンゲーム」事業は、パソコン向けでは好調だったものの、携帯電話向けゲームサイトで勃興した「GREE」や「モバゲー」に押され、テコ入れが必要だったからだ。

一方、ネイバージャパンには、画像とコミュニケーション関連の新規サービスを模索するチームが立ち上がる。2010年の年末が近づくと、スマート フォンで写真を共有する「アルバム」アプリや、「名刺」を起点としたSNS(交流サイト)など、さまざまなアイデアが現場から上がった。同時に浮上したの が、LINEの原型となるアイデアだ。

「米スタンフォード大学の論文をみんなで読んだりして、人間関係をベースにしたアクションを徹底的にリサーチした結果、『親しい人同士のコミュニ ケーション』に活路があるのではないか、という提案をしました。ツイッターやフェイスブックを使ってはいても、毎日会う友達とは絡まないよねと」

こう振り返るのは、チームのメンバーだった稲垣あゆみ。時期は重なっていないが、舛田がいたバイドゥ(百度)日本法人から2010年5月にネイ バージャパン入りしたメンバーで、今ではLINE本体や店舗向けアカウント「LINE@」の企画・開発を担う最年少の執行役員である。




「もしダメだったら、責任をとろう」

 

親しい人とのコミュニケーションをテーマとした「メッセージアプリ」は、ありなのではないか。2011年の年明けから、稲垣の提案をベースにLINEの骨格が作られていった。

世界を見渡せば「WhatsApp(ワッツアップ)」や「カカオトーク」といったメッセージアプリが勃興しているが、その波はまだ日本には届いていない。そろそろ開発に着手しようか。そんな矢先の2011年3月、東日本大震災が起きる。

電話はつながりにくくなり、福島の原子力発電所の事故で先行きが不透明となり、外資系企業の多くは業務機能を東京から大阪などへ移した。ネイバージャパンも一部業務を福岡へと移し、業務連絡はツイッターなどを通じてやり取りしていた。

実は、メッセージアプリの開発については、ネイバージャパン社内で賛否があったのだが、この震災を経て、慎と舛田が振り切るのである。



「既に、ワッツアップやカカオトークといったメッセージアプリがある中で、それらに勝る機能を打ち出せていない」「カカオトークの韓国での爆発的な普及が日本やアジアにも伝播するのではないか」……。

ネイバージャパンがメッセージアプリを開発することに対して、そういった反発が社内の一部であった。

とは言え、ワッツアップもカカオトークもまだぎりぎり、日本に上陸してはいない。しかも、震災で日本全体が不安に襲われる中、親しい人とのコミュニケーションの重要さが改めて注目されていた。

「今しかない」「絶対にこのトレンドは来る。フルコミットしよう」「もしダメだったら、責任をとろう」――。福岡で震災対応のオペレーションを行う中、慎と舛田がそう腹を決める。

そして社内が落ち着きを取り戻した2011年4月、慎は最後の勝負に向け、大号令をかけるのだった。





「クローズドコミュニケーション」に的

 

世界で普及しているメッセージアプリのことを考えると残された時間はわずかしかない。1秒でも早く出すべきだ。

慎が掲げたターゲットは2011年6月。

開発開始から、わずか1カ月半でリリースするという、開発現場にとっては地獄のような目標を達成するため、社内のエース級の開発要員のほとんどをメッセージアプリ開発に振り向ける決断をした。

開発と平行してコンセプトを担ったのは舛田。徹底して「クローズドコミュニケーション」を死守した。

舛田の頭の中では、買収したライブドアや、グループのハンゲームのIDを活用し、ツイッターやフェイスブックといったオープンなSNSに対抗した方がいいのでは、という思いもあった。

だが、それでは個性が失われる。

「電話番号という身近な人でなければ知り得ないカギを起点としたクローズドなコミュニケーションツールだからこそ、ツイッターやフェイスブックを使わない若い層や主婦のみんなにも使ってもらえるはず」

舛田がそう意を決すると、開発現場は「不夜城」状態に突入する。


開発は、韓国時代からの慎の懐刀である朴が仕切った。1カ月半で完成させるという慎の無茶な要求に、「開発が理由で遅れるようなことはさせません」と満額回答で臨んだ。

落ち着き払った朴は新たに韓国から呼び寄せたエンジニアを含む約15人の開発チームを束ね、土日もなくシャワーを浴びにだけ帰宅する日々をメンバーとともに送った。

かくして2011年6月23日、当時はまだメッセージ機能だけだったが、スマートフォン向けアプリ「LINE」が配信されるのである。

配信から約2カ月後の8月、LINEのダウンロード数は公開後2カ月で50万件を突破。翌9月には中東地域でのダウンロード数が勝手に伸び始め、 100万件を突破。10月に、無料通話機能と感情をイラストで伝える「スタンプ」機能を追加すると、台湾など東アジア地域でも急成長し始め、ダウンロード 数は300万件を突破した。

その後もLINEは、国内のどの企業も経験したことのない、前代未聞のスピードで日本とアジアを席巻していったのは周知の通りである。




「誰でもいいから、決めてやれ」

 

結果として、どんぴしゃりのタイミングで投入されたLINE。絶妙な判断を下した慎は、当時をこう振り返る。

「サッカーで例えると、90分間、頑張って、これで終わりかなという段階で、ディフェンダーでも、ゴールキーパーでも、誰でもいいから、決めてやれ、という瞬間でした。

1度しかない、一瞬のチャンスを見逃してはいけないという意識が、みんなにあった。2~3年の辛い時期を、みんなでともにしたから こそ、1つになれたのだと思います」



「LINE誕生の起点、慎ジュンホ」編 







「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(5)





「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)













LINE開発の引き金となった「暗黒時代」

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(4)


なぜ検索事業での成功を夢見ていたチームが、LINEを開発することになったのか。LINEの前身であるネイバージャパンの歴史を知らずして、その謎を解くことはできない。
 「LINEストーリー」は、ネイバージャパンを立ち上げた慎(シン)ジュンホ取締役CGO(最高グローバル責任者)の来日に端を発する。
 「日本市場で検索事業を成功させる」というミッションのもと、組織の風土を固め、チームを形成。競合だった中国の検索大手、バイドゥ(百度)の日本法人で取締役を務めていた舛田淳氏を迎え入れたところから、本格的なサービスの開発が始まった。
 だが慎が築いたチームはしばらく、苦悶の日々を送る。連載4回目は、舛田氏がネイバージャパンに合流した2008年から、LINEの開発に着手する直前までの、知られざる「暗黒時代」を追う。


(「「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)」からお読みください)







「全社員がうなだれていた」

 

「LINE、純損失79億円」。6月10日、LINEの上場が確定し、有価証券届出書が開示されると、一部メディアはそう見出しをつけて報じた。非上場だったLINEは、連結の最終損益を明らかにしていなかった。

届出書によると、2015年12月期決算(国際会計基準)は、連結売上高が前年同期比39%増の約1206億円。一方、最終損益は約79億円の赤字だった。

赤字の主な要因は、2015年3月に米マイクロソフトから買収した元ノキアのラジオ型音楽配信サービス「MixRadio」の事業撤退だ。成長が見込めず、日本とタイで展開する定額制音楽配信「LINE MUSIC」に集中するために精算した。

ただ、LINEにとって、会社の存続を憂うほどの問題ではない。年間で1200億円以上もの売上げを稼ぐLINEという金城湯池が、今もなお成長の途上にあるからだ。

それにLINEの前身であるネイバージャパンは、ヒットに恵まれず、赤字が積み重なる「暗黒時代」をくぐり抜けてきた。その時代に比べれば遥かにましだ。



慎ジュンホ取締役(左)と舛田淳取締役(右)は、ともに「暗黒時代」をくぐり抜けてきた盟友



「私が入った頃のネイバージャパンは、ひどく落ち込んだ雰囲気でした。せっかく作った完成間際の(Q&Aサイトの)『知識iN』をつぶしたばかりの頃で、全社員がうなだれていたんです」

2008年10月、慎(シン)ジュンホの導きでネイバージャパンへ入った舛田淳は、当時の社内をこう振り返る。

韓国の本社、ネイバーが検索事業のシェアをQ&Aサイトと両輪で伸ばした手法は、日本では通用しそうにない。しかし、ヤフーやグーグルを相手に検索サービス単体では、勝負にならない。

舛田が合流した以降も、日本の文化に合う、新しい形の知識共有サービスの開発、そして、「知識共有サービスと検索サービスの融合」への挑戦を続けていた。舛田曰く、「この時からずっと、暗闇の中でホームランだけを狙って素振りを続けていた」

“素振りチーム”には、慎、舛田の2人に加え、数人のメンバーが加わり、昼夜問わず議論を続けた。そんな折、メンバーは1つの光明を見出す。当時、急速に広まりつつあった、膨大なウェブコンテンツをテーマごとにまとめる「キュレーション」のサービスである。



お酒を飲みながら男泣きした日々

プロジェクトをけん引したのは、現在、LINEでメディア事業を統括する上級執行役員の島村武志。島村はネイバージャパンが検索事業から撤退する前の2004年から同社に在籍する古参だ。

その島村を中心に開発に着手。数回の大幅な手直し、数回のお蔵入りの危機を乗り越え、翌2009年7月、ようやく「NAVERまとめ」をリリースする。同時に、日本では2回目となる検索サイト「NAVER検索」もオープンさせることができた。



2009年7月にオープンした「NAVER検索」の画面(当時)


NAVERまとめは、いわゆる「まとめサイト」の走り。例えば「彼女を誘いたい渋谷の夜景が見えるバー」といったテーマで、一般ユーザーがウェブサイトから独自の視点で情報をまとめていく知識共有のプラットフォーム。ネイバージャパンとして初めて、日本で存在感を見せたサービスとなった。

今では、NAVERまとめは月間約24億件ものアクセス数を稼ぎ、近年、日本で最も成長したウェブサービスとも言える。だが当時は、出足が好調だったとは言え、ヤフーなど国内大手に伍するようなウェブサービスには成り得ない規模だった。

一方、肝心の検索サービスはと言うと、NAVERまとめとの相乗効果はあまり得られず、利用はほとんど伸びない。

検索をテコ入れするため、その後も、慎を中心とするメンバーは馬車馬のように新規サービスの開発を続けた。オンラインストレージの「Nドライブ」、マイクロブログの「Pick(ピック)」に加え、「映画検索」「グルメ検索」など的を絞った検索の新メニューを増やしていく。が、どれも刺さらない。



徒手空拳、暗中模索、迷走……。お酒を酌み交わしながら夜な夜な男泣きをした日々のことを、慎は今でも忘れない。

「その時期、お酒を飲んだりすると必ず、誰かが泣いちゃうんですよ。何回も日本での成功を諦めようかと思うくらい、あまりにもストレスが溜まっていたので。私も、もどかしさや、いろいろな思いが混じって、気づいたら、泣きながら何かをしゃべっていました」

慎、舛田、島村。そこに、慎が「日本のお父さんのよう」と慕う、ネイバージャパン社長の森川亮も参加して、毎日のように昼食と夕食をともにしていた。

森川は、韓国ネイバー(当時の社名はNHN)の日本法人で、ゲーム事業を手がけるNHNジャパンの社長も兼ねていた。ネイバージャパンはNHNジャパンの子会社で、検索事業の挑戦は基本的に慎らに任せていたのだが、苦悶するメンバーを見かねて、飲みに誘うことも多かった。

その森川も、飲みながら泣く慎らメンバーにつられ、一緒に泣いていた。それほど、ネイバージャパンは追い込まれていた。

目先を変えるしかない。悩みに悩んだ末に仕掛けた起死回生の策が、旧ライブドアの買収である。



「新生ライブドア」買収に活路も、不発に

 

2006年1月にライブドア創業社長の堀江貴文ら4人の幹部が証券取引法違反容疑で逮捕されて以降、多くの社員や役員が去っていった。その中で、残ったメンバーは必死でライブドアの看板とサービスを守り続けていた。その筆頭が、出澤剛だ。

2004年にライブドアの前身であるオン・ザ・エッヂに入社した古参の出澤は、事件後の2007年に新生ライブドアの社長に就任。ブログやニュースサイトなど、残された主力サービスを着実に回復させていた。

一方、当時の新生ライブドアの株主だったファンドは、ライブドア株を売却しようとしていた。そんな情報を得た舛田が、触手を伸ばす。

自分たちでゼロからサービスを作るのではなく、既存のウェブサイトを買い、そこに検索エンジンを供給すれば、時間短縮が図れる。ライブドアは売上げもあるし、いい人材も残っている――。そう考えた舛田は、森川と慎にメールを送り、翌日には買収のGOサインが出た。

「ブランドも事業も独立性も守ります」「僕たちが幸せにします」。森川、慎、舛田が総がかりで、出澤を中心とするライブドア幹部を説得。2010年4月、ネイバージャパンの親会社、NHNジャパンによるライブドアの子会社化が決まった。



2010年4月、ライブドアの子会社を発表するNHNジャパンの森川亮社長と、ライブドアの出澤剛社長(当時)



これにより、慎・舛田率いるネイバージャパンとライブドアは兄弟会社となり、シナジーを模索していく。だが、結論を言うと目論見は外れ、いよいよネイバージャパンは、ついに「限界」に達するのだった。



買収発表から約5カ月後の2010年9月、ライブドア上の検索すべてが、ネイバージャパンによる「NAVER検索」へと刷新され、ネイバージャパンの月間利用者数は約1000万人まで増えはした。だが、事業シナジーはそれで頭打ちとなる。

買収当時の力関係を数字で現すと、ゲーム事業の「ハンゲーム」が好調のNHNジャパンは国内で約4000万件のユーザーID数があり、売上高は2009年12月期で約120億円だった。

その子会社となったライブドアの売上高は約93億円(2009年9月期)で、月間利用者数は約3000万人の規模。対して、ライブドアと兄弟会社になったネイバージャパンの月間利用者数は約134万人にすぎなかった。それでも、ネイバージャパンは買った側。一方で買われたライブドアにもプライドがあった。

慎と舛田、そしてライブドアから出澤が出席する会議では、互いの主張が噛み合わない。

「ライブドアさん、赤字でもいいので、膨大な顧客基盤を生むナンバーワンのサービスを作ってください」。そう迫る慎や舛田に対して、収益化を重視してきただけに戸惑いを隠さなかった出澤。ライブドアの独立性を守ると約束した手前、慎や舛田もそれ以上は干渉できない。

結局、ネイバージャパンは独立独歩でヒットを出そうと、打席に立っては空振りする日々に舞い戻り、舛田は、ライブドアの買収を「我々のスキル含めて、上手く生かすことができなかった。失敗だったかもしれない」と思い悩むようになる。



スマートフォンに懸けた不退転の決意

 

結局、不発に終わった起死回生策。舛田は当時をこう振り返る。

「呼吸することも忘れるぐらい、ものすごいスピード感で開発を続けていたので、無理をさせていた組織にも限界が訪れ始めていた」

そして2010年末、慎と舛田は、ある決断を下す。しばらく続いた暗黒時代が2人に決断を迫った、と言ってもいい。

パソコン向けのサービスは捨てよう。「検索」にとらわれるのもやめよう。とにかく、日本中のユーザーが使ってくれるようなスマートフォン向けのサービスを作ろう。それに、すべてを懸けよう――。

組織をリードしてきた慎、そして舛田自身も限界に来ていた。これまで投じた先行投資を考えると、もはや自身の責任からは逃れられない。これがダメなら……。

この不退転の決意が、LINEという超特大級のヒット作を生む直接的な引き金となったのだ。




 (続く)






「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)











「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)













LINEチームの形成、“戦略家”との出会い

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(3)



出澤剛社長CEO(最高経営責任者)を支える「知られざるナンバー2」、慎(シン)ジュンホ取締役CGO(最高グローバル責任者)。韓国ネイバーの創業者である李(イ)ヘジン氏から「日本市場で検索事業を成功させる」というミッションを与えられ、2008年5月に来日した。

LINEの前身である第2次の日本法人、ネイバージャパンに検索事業トップとして合流し、「社風」と言うべき組織の土壌を築いた。

韓国企業の日本法人ではあるが、日本の文化に体を合わせ、深く浸透していく「カルチャライゼーション」を掲げ、韓国本社の論理や成功体験から一線を画した「自主独立」の体制へと導く。

一方で、慎取締役は日本で検索事業を成功させるためのチーム形成でも貢献。特に、現在取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)を務める舛田淳氏の採用は、LINEの誕生や成長にとって最も大きな要素の1つと言える。舛田取締役は、出澤社長、慎取締役とともにトロイカ経営の一角を担うキーパーソンだ。

連載3回目は、この慎取締役と舛田取締役との出会いに着目した。

(「「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)」「「LINEの中身」 慎ジュンホ(2) 」からお読みください)






貢献を物語る慎の持ち株比率

 

6月10日、EDINETで公開されたLINEの有価証券届出書。今まで明かされなかった多くの事実を含む膨大な文章の最後に、現在のLINEの主要株主一覧が載っている。

ここに、取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎(シン)ジュンホがLINEにとって、いかに大きな存在であるかが示されている。

株主1位は親会社である韓国ネイバーで約87%。後に個人が続くが、2位は慎で5.12%もの持分比率がある。ネイバー創業者の李(イ)ヘジンの2.78%(3位)をも上回り、個人としては圧倒的な存在感を見せている。

LINEが生まれる土壌を築いた慎の貢献が可視化された格好。慎は、チームの形成でも大きな貢献をしていた。



6月10日に公開されたLINEの有価証券届出書。慎ジュンホ取締役CGOは株主として大きな存在感を示す



慎が家族を連れて来日した2008年当時、ゲーム事業を手がけるネイバーの日本法人、NHNジャパン(2003年にハンゲームジャパンとネイバージャパンが合併して社名変更)は好調だったが、韓国で7割以上のシェア誇る検索事業は、日本では形無しだった。

2000年と早期にネイバージャパンを設立し日本市場に参入するも、刃が立たず2005年に検索事業から撤退。再挑戦のミッションを帯びた慎は、ほぼゼロから組織を立ち上げざるを得なかった。

ただし、社長はいた。後にLINEの初代社長を務める森川亮だ。

日本テレビ、ソニーを経て2003年にハンゲームジャパンに入社した森川は、ゲーム事業の拡大とともに順調にキャリアを積み重ね、2007年10月、NHNジャパンの社長に就いた。その森川が、NHNジャパンの子会社として設立された第2次ネイバージャパンの社長も兼務することになった。

2008年に来日した慎を迎え入れ、日本語がまったく分からない慎や、その家族の世話をしたのも森川。当時を慎はこう振り返る。

「森川さんは日本のことが何も分からない私の面倒をいろいろと見てくれました。日本と韓国、両方の文化や生活を理解していらっしゃったので、『こういうことが問題になるだろう』『家族にはこういう面で配慮した方がいい』など、多くのアドバイスもいただきました」




韓国から連れてきた技術の要

 

ただし、森川には好調なゲーム事業をさらに拡大させる責務があり、ネイバージャパンのチーム形成は慎に委ねられる。慎がまず頼りにしたのが、韓国から一緒に連れてきた懐刀の朴(パク)イビンだった。


LINEの技術部門の要、朴イビン上級執行役員CTO
慎と朴は、韓国ネイバーに入る前からの盟友。一緒に「1NooN(チョッヌン)」という検索サイトを立ち上げた創業メンバーで、朴はチョッヌンのCTO(最高技術責任者)だった慎の右腕的な存在だ。慎は、彼女の技術力もさることながらチームの統率力を高く買っており、朴も慎を信頼している。チョッヌンがネイバーに買収された際も、慎が来日した時も、慎は朴を連れていった。

この朴は後にLINEの開発において、技術統括として開発チームをけん引。現在はLINEの上級執行役員CTOを務める技術の要となっている。

LINEの企画・戦略・マーケティングの要はと言うと、取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)を務める舛田淳。この舛田もまた、慎が引き寄せた人材だった。



よく知られているように舛田は、LINEの誕生からこれまで八面六臂の活躍を見せている。「ビジョナリスト」、あるいは戦略家として、どこへ向かうべきかのビジョンを掲げ、そこへの戦略を描き、さらに具現化のため事業の立ち上げや推進までもをこなす。

そんな舛田がネイバージャパンに入社したのは、慎が来日した5カ月後の2008年10月のことだった。

中国の検索大手、バイドゥ(百度)の日本法人で取締役を務めていた舛田はもともと、中国式の検索サービスを日本市場で展開しようと画策していた。しかしネイバー同様、苦慮する。

「ローカライズの方針について総論賛成・各論反対の状態が続いた」と舛田。判断の速度は遅く、市場に合わせたサービスも出すことができず、サービスは目立った成長を見せられずにいた。日本進出時からの念願だった日本人社長の就任が決まったタイミングの2008年6月、舛田は一つの区切りとして退任を決める。

「疲れきっていた」と語る舛田は、次に何をやるかを決めずに関係各所へ「退職の挨拶」のメールを送る。その1通が、舛田がネイバージャパンに入るきっかけとなる。





社内の反発を抑えた慎の策

 

ネイバージャパン社長の森川とは、同じ日本を目指す外資系検索サービス同士として、旧知の仲。森川に送ったメールの返信は「お疲れ様会をやりましょう」というものだった。

「日本市場で成功するには、ちゃんと日本に合わせるローカライズと、本社の責任あるエース級の人間がアサインされていないと難しいですよね」。そう経験を語る舛田に、「そういった本社からの人間はいますが、まだ戦略を担う人材がいないんですよね」と返す森川。「もう一度、やってみませんか?とりあえず、会ってみてほしい人間がいるんです」。森川が引き合わせたのが、慎である。

日本語を習いたての慎と2人、ネイバージャパンの会議室。片言の英語と日本語で何とか話し始めるが、お互い検索事業に携わっていたため、共通言語は多い。「グーグルやヤフーに勝つには、それらと違うことをやらないと」「ローカライズは重要」「パーツはこれが必要」……。

意気投合した2人は、ホワイトボードに書きなぐりながら盛り上がり、2時間があっという間に過ぎた。舛田の慎に対する印象は、「すごい人だ。検索自体のことも、普通にやったらグーグルに勝てないことも、ローカライズの重要性もよく分かっている」。

慎に惚れ、バイドゥで果たせなかったことをネイバージャパンで実現したいと考えた舛田は、森川に「戦えると思います。もう1回、やってみたい」とメールした。



だが、事はそう上手く運ばない。



「グーグルやヤフー出身ならまだしも、なぜ負けているバイドゥの人間をとるんだ」。バイドゥという競合出身の人間を迎えることへの反発が、一部であった。

これに対して、「彼はネイバージャパンに必要。スカウトすべき」と主張し、反発を抑えたのが慎である。慎は言う。

「私としては、ちゃんとした観点や考え方を持っている方が必要でした。それに、舛田さんと最初にお会いした時、言葉の壁を越えるくらい話が通じて気が合いました。それは、2人の背景が似ているから。どうすれば日本で検索サービスを浸透させることができるか、という同じテーマや悩みをそれぞれ追っていたからだと思います」

慎は社内を説き伏せるための策も考えた。それは、「役なし」「報酬は前職から大幅減」という条件を舛田に飲ませること。社内に対しては、条件がよい、ということで納得させられる。

この時、舛田は反発の事実を知らなかったのだが、「検索では最後発、2度目の挑戦、鳴り物入りの感じもない中で、無謀な挑戦をしようとしているのが面白そう」と感じ、慎が提示してきた条件を飲む。



「日本語、変じゃないかな?」


慎ジュンホ取締役(左)と舛田淳取締役(右)の出会いも、LINE誕生の大きな要素となった

かくして2008年10月、ネイバージャパンに入った舛田。「カルチャライゼーション」のため、慎ら韓国人のメンバーが必死で日本語を覚えようとしている姿に感銘を受けたことを、今でも覚えているという。

定例会議を翌日に控えたある日の夜遅く、社内で慎が連れてきた朴や、その部下の韓国人技術者が、プレゼンテーションの日本語スピーチを互いに確認しあっていた。

「日本語、変じゃないかな?」「これで、分かるかな?」。舛田はこの時のことをこう語る。「その姿を見た私は、『このチームはいける。戦える』と確信しました」。バイドゥで疲れ果てていた舛田は、ふたたび、サービスの開発に全力を尽くすことになる。

慎によって、LINEが生まれるための重要なピースが徐々にそろっていったネイバージャパン。慎が築いた礎がなければ、LINEの誕生も成功もなかった。その意味で、LINEにとって慎の存在は大きい。

だがこの後、慎が築いた日韓の混成部隊は、数年に渡って苦悶の日々を送ることになる。


(続く)






「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)


「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)










LINEを生んだ土壌、8年前の英断

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(2)

 


LINEの日米同時上場が確定した。米国時間の7月14日にニューヨーク証券取引所(NYSE)で上場し、日本時間の15日に東京証券取引所に上場する。公募増資などで両市場から約1000億円を調達する見込みだ。

2011年6月のサービス開始から、5年1カ月での上場。米フェイスブックの8年3カ月、米ツイッターの7年8カ月を上回る早さで、日本企業が東証とNYSEに同時上場するのは初めて。

「前代未聞の連続」を重ね、日米同時上場という1つの節目に至ったLINE。その知られざる経営の内幕に迫る連載2回目は、慎ジュンホ取締役CGO(最高グローバル責任者)が来日して以降の月日を追う。

LINEの前身であるネイバージャパンという日本法人は、LINEという独自の大ヒットを生む土壌をいかにして育んだのか。

(「「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)」からお読みください)






自ら範を示した「日本語」ルール

 

出澤にとっては、生涯でも忘れられない誕生日となっただろう。

上場承認を翌日に控えた6月9日深夜、東京・渋谷の複合ビル「ヒカリエ」に入居するLINE本社。ここで、社長CEO(最高経営責任者)の出澤剛の43回目の誕生日を祝う、ちょっとしたパーティーが開かれていた。

出澤を支える取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)の舛田淳が「おめでとうございます!」というコメントを添え、フェイスブックに投稿した記念写真。出澤の両隣を舛田とともに固める人物こそ、「トロイカ経営」の一角を担う取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホである。


舛田淳取締役がフェイスブックに投稿した記念写真


 慎の胸にも、こみ上げるものがあっただろう。

2008年5月、韓国NAVER(ネイバー、当時の社名はNHN)からネイバージャパン(LINEの前身)に来てから約6年。来日した当時は日本語がまったく分からなかったが、今では日本人の社員と日本語で笑い合うことができている。

「ネイバージャパンの公用語は日本語」。このルールを自らに課すところから、ネイバージャパンという組織の土壌作りが始まった。


ネイバー創業者の李(イ)ヘジンから直々に日本市場開拓の命を受けた慎は当初、言葉の壁にぶち当たる。最初は通訳を介して会議に参加せざるを得なかったが、家に帰ると通訳の顔しか思い出せない。

「日本人のメンバーに申し訳ない気持ちになると同時に、これは自分の言葉でコミュニケーションしないと危ないな、と思い、腹をくくって日本語を勉強することにしました」

こう話す慎は、帰宅して以降、自由に使える束の間の数時間を使い、必死で日本語を学んだ。教材は、日本のドラマのDVDだ。

当時のお気に入りはオフィスのシーンが多い「ハケンの品格」。数カ月もすると、「心の琴線に触れるような」といったドラマで覚えたての日本語を使い、日本人のメンバーを驚かせたこともある。



来日した2008年当時、慎氏は日本語を学ぶためにドラマ「ハケンの品格」を好んで観ていた


やがて慎は、韓国人の同僚にも「これからは日本語を学び、なるべく日本語を使うように」と指示。メール上でも「まずは日本語で書き、補足で英語や韓国語などを使う」という社内ルールが生まれた。

ここまで日本語にこだわった背景には、もう1つの理由がある。韓国を発つ時、ネイバー創業者の李から餞別代わりに得た言葉が慎の脳裏にあったからだ。

「海外にいけばその国のことを中心に考えるべきで、その国のユーザーのことを最も理解しなければいけない」という言葉である。



グーグルを駆逐した成功モデル


この李の言葉を、慎はこう咀嚼して表現する。

「よく外資系の企業がほかの国に根付くことを『ローカライゼーション』という言葉で現しますが、LINEでは『カルチャライゼーション』と言った方がいいかもしれません。『地域』ではなく、その国の『文化』にいかに深く浸透できているか、そのために何をすべきか、を考えることが、その国で成功する近道だと理解しています」

日本の文化に浸透するためには、その文化の基礎である日本語をまず会得しようというわけだ。もちろん、日本語を学ぶことは「カルチャライゼーション」の一歩に過ぎない。

次に考えるべきは、李から課せられたミッションを、日本の文化に合う形でどう遂行すべきか。ミッションとは、韓国で約7割のシェアを誇るネイバーの検索サービスを、一度は撤退した日本市場で成功させることである。


日本向けのサービスを作っては壊す、という試行錯誤の日々が続くのだが、結果としてこれが後のLINEを生むことにつながるとは、この時、夢にも思わなかっただろう。
 
ネイバーは2005年に日本での検索事業から撤退しているが、ゲーム事業は継続し、成功を収めていた。運営会社は2003年にネイバージャパンとハンゲームジャパンが合併して出来たNHNジャパン。社名変更は、ハンゲームコミュニケーションを買収・合併したネイバー(当時はネイバーコム)が、2001年にNHNへと社名変更したことに伴う。

このNHNジャパンの子会社として2007年11月、第2次ネイバージャパンが発足。その約半年後に慎が来日してから、検索事業で再参入するための具体的なプロジェクトが動き出す。最たるものが「知識iN」だ。

知識iNはネイバーが韓国で2002年に開始した、いわゆる「Q&Aサイト」。瞬く間に人気を博し、韓国のQ&Aサイトのデファクトとなったのだが、これが検索サービスでも圧倒的なシェアを握るカギにもなった。ネイバーは、2000年に韓国に参入したグーグルなど、ほかの検索サービスが知識iNのコンテンツを検索できないようにしたのだ。

知識iNのコンテンツを検索したければ、ネイバーの検索を使うしかない。ネイバーはQ&Aとの両輪で検索シェアを約7割まで伸ばし、グーグルに勝ったのである。




慎が吹かせた「自主独立」の風

 

2008年、第2次ネイバージャパンに合流した直後の慎ジュンホ氏
慎ら、新生ネイバージャパンのメンバーは、このQ&Aサイトに活路を見出した。

当時、日本でもユーザー参加型のコミュニティーや、「教えてgoo」「OKWave」「発言小町」といった老舗のQ&Aサイトが人気を博していた。2004年に開始した「Yahoo!知恵袋」は、ネイバー同様、検索サービスとのシナジー効果を生んでいた。

Q&Aコンテンツの延長線で検索サービスを伸ばす手法は、日本の文化にも馴染むのではないか。慎はそう考え、開発プロジェクトを走らせたのだが、完成間近というところで、慎自身が「やめましょう」と、お蔵入りにしたのだ。

開発に携わったメンバーからすれば、数カ月の苦労を水泡に帰す判断。それでも開発中止にしたのは、日本のネット文化を知れば知るほど、先行する有力サービスが根付いていることがわかり、「今さら遅い」という思いが次第に膨らんだためだと慎は振り返る。

それ以上に慎を突き動かしたものがある。それは、慎が韓国を離れる際に創業者の李から言われた、もう1つの言葉だ。


「韓国で今まで経験したこと、常識としていたこと、成功体験は全部頭から消して行きなさい」。慎は李から、そうも言われていた。

カルチャライゼーションを念頭に置きながらも、一方で自分たちは、安易に韓国での成功モデルを持ち込もうとしているのではないか。そのことに気づいたからこそ、慎は中途半端なサービスを捨てるという決断に至ったのである。

8年前に下した慎の判断は、長い目で見れば「英断」と言える。なぜなら、ネイバージャパンは韓国本社のやり方や命に従う単なる日本法人ではない、ということを、ネイバージャパンのメンバーに示したからだ。

韓国での成功体験は持ち込まず、日本法人は独自に日本のやり方で事業を進めるべき――。ネイバージャパンに吹き始めたこの「自主独立」の風が、後に、スマートフォン向けメッセージアプリという日本独自のプロダクトを呼び込むことになる。



内向きな日本人の文化にフィットしたLINE

カルチャライゼーションの思想も、LINEのヒットにつながっている。

フェイスブックは今でこそ日本で普及しているが、LINEが登場した2011年当時は、「会社の上司や同僚、過去の同級生ともつながってしまうSNS(交流サイト)は日本人に馴染まない」とされ、普及度で欧米と大きな差があった。

そこに登場したLINEの売りは「親しい知人・友人とつながる」こと。携帯電話の文化が発達し、かつ、オープンなコミュニケーションを苦手とする日本人の文化にフィットし、急速に普及した。

ネイバーが韓国の流儀を押し付けることはせず、日本のメンバーがカルチャライゼーションを徹底したからこそのヒットと言える。そのヒットを生んだ土壌を築いたのは、慎に他ならない。

もう1つ、黎明期の慎の功績をあげるとすれば、舛田という、LINEの誕生と成長に欠かせない人物をネイバージャパンに呼び込んだことだろう。


(続く)







「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)

「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)






 

LINE上場、知られざるナンバー2

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(1)





LINEの上場まで秒読み段階に入った。10日にも上場承認され、約1カ月に渡るロードショー(投資家向け説明会)を経て、7月中旬、東証1部とニューヨーク証券取引所に同時上場する見通しだ。


今年3月、LINEカンファレンスでプレゼンテーションする出澤剛社長。この時すでに、今夏の日米同時上場を腹に決めていた


スマートフォン向けメッセージアプリとして2011年6月に日本で産声をあげてから丸5年。早々に海を超えたLINEは、台湾、タイ、インドネシアなどアジア各国を塗りつぶし、月間利用者数は世界で2億1840万人まで拡大した。

その軌跡は、成り立ちから成長速度、日米同時上場まで、日本のIT企業としては「前代未聞の連続」と言える。

しかし、実のところ、LINEがどのような組織なのか、どのような経営スタイルなのか、については、あまり知られていない。その最たるものが、日韓のマネジメントが絶妙に融合した「トロイカ経営」だろう。

LINEには、社長CEO(最高経営責任者)の出澤剛氏を支える「ナンバー2」が2人いる。
1人は取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)を務める舛田淳氏。もう1人は、グローバル戦略のトップ、LINE取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホ氏だ。

「慎なくしてLINEを語ることはできない。そして、LINEが誕生することもなかった」――。舛田氏が、そう評する人物である。

今回、国内メディアで初めてとなる慎氏の取材も含め、これまで語られてこなかったLINEの経営の深部を探る長期の取材を敢行。世界的に見ても極めて独特と言えるLINEのトロイカ経営について初めて掘り下げる。連載初回は、「知られざるナンバー2」の実像に迫る。




すべての起点となった慎の来日

 

「このように大勢の記者の皆さんを前にお話しするのは、初めてのことです。自分の性格的に前に出ることが苦手なのですが、たまたまLINEのタイ法人のワークショップへの参加もあってタイに来たので、この場にご挨拶も兼ねてお邪魔しました」

今年5月3日、タイの首都、バンコクのホテル。LINEのタイ法人がパートナー企業などを集めて開催したメディア向けのイベントに、珍しい人物が顔を見せた。

LINEでグローバル戦略の責任を負う取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎(シン)ジュンホだ。LINEの誕生からこれまで、常にLINEの中枢にいた「超」がつくキーパーソンである。



今年5月、タイのメディア向けイベントに初めて顔を出したLINEの慎ジュンホ取締役。日本ではその存在すらあまり知られていない


メディアが集まる場に慎が顔を出すのはこのイベントが初めて。過去に一度、ウォール・ストリート・ジャーナル韓国版の電話取材に応じたことがあり、一部の韓国メディアなどは慎の存在や来歴を報じてはいるものの、対面取材に応じたことは一度もないという。

そのため、慎がLINEの誕生や成長にどう関わったのか、具体的な評伝は皆無だ。しかし、LINEというプロダクトと会社を語るうえで慎を欠くことはできない。

広く知られているように、もともとLINEは韓国インターネット最大手であるNAVER(ネイバー)の日本法人、ネイバージャパン(当時)が独自に企画・開発したプロダクトだった。本社が「スマートフォン(スマホ)向けメッセージアプリを作れ」と命じたわけではない。

それどころか、ネイバーは「NAVERトーク」という本社サイドで開発した同種のアプリをあっさりと捨て、グループのグローバルプロダクトとして、LINEを採用することに決める。以降もネイバーは、LINEの企画・開発・運営について日本法人の自主性を尊重し、任せ、本社は人材や資金面での後方支援に徹してきた。

一般的に、外資系IT企業の日本法人は、プロダクトの企画・開発などには関知せず、営業やマーケティングの出先機関として機能する。対してLINEを生んだネイバーの経営スタイルは、極めて異質だと言える。

このスタイルの礎を築き、LINEの誕生に大きく寄与したのが、慎だった。
慎の来日が「LINEストーリー」のすべての起点と言っていい。



グーグルも狙った慎のベンチャー

 

慎はもともと、韓国では「スター開発者」として知られた技術者だった。
韓国で著名なオンラインゲーム会社の技術者として頭角を現し、2005年6月には「1NooN(チョッヌン)」という検索サイトを創業メンバーとして立ち上げる。

「韓国中の天才技術者が集結した」との評判だったチョッヌンは、独自の検索アルゴリズムを開発し、当時、世界を席巻しつつあった米グーグルの侵攻に対抗しようとしていた。慎はここで、CTO(最高技術責任者)を務めていた。

グーグルはこのチョッヌンを買収しようと動くが、これを阻止したのが、韓国の検索シェアで7割以上を押さえていたネイバー(当時の社名はNHN)である。当時の報道によると、ネイバーは2006年6月、チョッヌンを約350億ウォン(約32億円)で買収。技術とともに、慎ら創業メンバーもネイバー入りした。



検索サイトを祖業とし、1999年に設立したネイバー(創業時の社名はネイバーコム)は、2000年にオンラインゲーム大手のハンゲームコミュニケーションと合併し、韓国ネット最大手の地位を磐石にしていた。韓国では、今でも検索サービスで7割以上のシェアを堅持し、グーグルの侵攻を許していない。その創業者、李(イ)ヘジンを、慎は尊敬していた。

「僕らが見ているのは韓国だけじゃない。世界だ。一緒に挑戦しないか」。理系の名門、韓国科学技術院(KAIST)の先輩でもある李の言葉に、慎は共感した。

「お金ももちろん重要だが、私にとっては『夢』の方が重要だった」。そう慎は述懐する。

ネイバーに入った慎は、グーグルに負けない国産検索サービスのトップという重責をしばらく担うが、2008年、創業者の李に請われ、日本へと渡った。LINEの前身であるネイバージャパンの検索事業を立ち上げるためだ。

それは、極めて難易度の高いミッションだった。日本市場から一度、撤退した経験があるネイバーにとって2度目の挑戦だったからだ。


日本で失敗した「ネイバー検索」

 

●韓国ネイバーと日本進出の歴史(2008年まで)

 

1999年6月 ネイバーコム設立、検索サイトを開始
2000年7月 ハンゲームコミュニケーションを買収・合併
2000年9月 ハンゲームジャパン設立
2000年11月 ネイバージャパン設立
2001年4月 日本向け検索サービス開始
2001年9月 ネイバーコムからNHNへ社名変更
2002年10月 韓国コスダック市場に上場
2003年10月 ハンゲームジャパンとネイバージャパンが合併、NHNジャパンへ
2005年8月 日本から検索事業を撤退
2006年6月 「1noon(チョッヌン)」買収
2007年11月 NHNジャパンの子会社として、第2次ネイバージャパンを設立
2008年6月 慎ジュンホ氏が検索事業トップとして来日



ネイバーが最初に日本進出を果たしたのは、韓国でハンゲームを買収した直後の2000年と早い。ゲーム事業を手がけるハンゲームジャパンを2000年に設立。その2カ月後、検索事業でも日本法人のネイバージャパンを設立し、翌2001年には日本向けの検索サービスを開始している。

ところが、2005年、日本での検索事業からの撤退を余儀なくされる。ヤフーの牙城にまったく歯が立たず、それどころかグーグルの侵攻にも押され、「ネイバー検索」は日本で存在感を示すことができなかった。

しかしこれは、一時的、部分的な撤退にすぎない。

社名が相次ぎ変わるのでややこしいが、ゲームのハンゲームジャパンと検索のネイバージャパンは2003年に合併し、NHNジャパンへと社名変更。検索事業の撤退後もNHNジャパンのゲーム事業は順調に育っていた。つまり、日本での事業基盤を失ったわけではない。

創業者の李は、この基盤を利用し、再度、検索事業で日本に再進出しようと試みた。2007年11月、NHNジャパンの子会社として、第2次となるネイバージャパンを設立。誰がこの再挑戦をリードするのか、紆余曲折を経て、慎に白羽の矢を立てたのである。


慎を抜てきしたのは、李本人だった。

韓国ではポータル(玄関)サイト首位の座を固めていたとは言え、グーグルの攻勢でいつ揺らぐか分からない。検索事業の要である慎を日本に送るという判断は諸刃の剣でもあった。

が、それでも、一度失敗した日本で勝つのであれば、検索を最も知り、最も信頼できる人間を送るべきだと李は考えた。

一方、慎は当初、戸惑っていた。

チョッヌンからネイバー(当時の社名はNHN)に合流して1年あまり。飛行機に乗るのは苦手だったし、日本語もまったく分からない。しかし最後は李の熱意に打たれたという。

「当時、私はネイバーでやっと基盤を固め、さらにやってみようと頑張っている最中でしたが、『グローバルの夢を一緒に実現するチームを立ち上げないといけない』と言う李に説得されてしまったのです」



「韓国での成功体験は頭から消しなさい」

 

チョッヌンをネイバーに売る時に、李から説得された言葉と同じだった。「グローバルで成功する」という約束を交わしていた以上、これを持ちだされたら首を縦に振らざるを得ない。

画して慎は2008年6月に来日。第2次ネイバージャパンの検索事業トップに就く。この時、李から言われた言葉を、慎は今でも忘れることはない。

「韓国で今まで経験したこと、常識としていたこと、成功体験は全部頭から消して行きなさい。海外にいけばその国のことを中心に考えるべきで、その国のユーザーのことを最も理解しなければいけない」

この李の言葉を自分なりに咀嚼し、新生ネイバージャパンを築いていった慎。「本社の目線は忘れ、郷に従え」という思想が、後にLINEというヒットを生むことになる。


(続く)