火曜日, 1月 15, 2019

運命の法則

 

まず最初に


運命とか運勢って目には見えへんよね。目には見えへんのに、なんとなくみんなが確かにあるように感じて、みんながみんな、運が上がる事を望んで、できるかぎり運の下がる事は避けようとする。

最終的に頼るんは、案外実力なんかやなくて、そう言う目に見えへん部分の力やったりするっていう人も多いんちゃうかな。
せやからこそ色んな開運グッズ集めてみたり、なんやわからんけどジンクス守ってみたり、パワースポットや言われてる神社仏閣を巡ってみたりしてるんちゃうかな。

そういう見えへん運の力について、私が某組織から入手した極秘資料を、自分なりの言葉に咀嚼したもんをここで紹介していきたいと思います。ネタ元の本の名前は『運命の法則』言います。

とは言うてみたものの、なんとなく運命って言うてしまうとちょっと大袈裟な気もするんでここでは『運勢の法則』くらいにしておこうかなあと思います。

この本は昔私が所属していた組織で読まれていた小冊子で、運命ってのはこう言う法則のもとに動いていますよーって言う内容が書かれています。占いの本と言ってもええかな。ただ、中にはこの内容は現代社会には相応しくないかなー? とかそう言うのも含まれていますんで、ここではそれらの記事は省く事にします。

 

 

運勢の原理

 

因縁果の法則

時は昔、明治時代に入った頃、外国人が牛肉を食べる言うんで日本人は大変嫌ったものでした。
そんなん牛肉ですが一回日本人に食べさせてみますと、三千年間守ってきた四つ足を食べないと言う伝統と歴史を破って、見事牛肉党に転向してしまいました。

それと同じように私達も一番嫌いな因縁の話を聞かされた時、これこそ心理であると飛び込まずにはいられなかったのです。

心理とはまつげのごとく目の一番近いところにあってそれが解らないのです。
因縁とは何か難しい様に思われますが、これほど解りきった話はありません。

因縁とは因縁果の法則と言い、因縁果と言うのを略して、因縁とか因果とか言っているのです。

因縁の因とは種、縁とは大地の事。種は大地に蒔かねば永遠に生えません。

一粒の種が大地に落ちて水の縁にあって芽を出し、芽は太陽の光線と熱との縁にあって葉を付け、葉は空気と風との縁にあって成長して花を開いて実を結びます。

その実は最初に大地に落ちた種と同じ性質のものであるばかりでなく、万倍に殖えているのです。
世の生命あるものの運命はこの因縁果の法則に支配されていないものはありません。

野の畑を眺めてみますと大根、人参、ごぼうが並んで生えています。同じ大地に同じように火水風の縁を吸って成長しますが、大根は白くなり、人参は赤くなり、ごぼうは黒くなってゆきます。

それはどこが違うのでしょうか?
それは最初に蒔かれた一粒の種が違うからです。

バナナは美味しいからと言って台湾から北海道に移植しても生えません。
リンゴが美味しいからと言って北海道から台湾に移植しても実りません。

それは土地の縁が違うからで、同じ縁でも種が違えば姿形が違ってきます。
 
「物が成る」即ち果が成ると言う事は一つに因、二つには縁、この二つが合致するからなのです。


 

同因吸合の法則

同因吸合どういんきゅうごうとは同じ性質を持つ者同士が結ばれる事を言います。これはつまり違う者同士は決して結ばれないと言う事でもあります。

夫婦と言うのは同じ因縁の者が引き寄せられ結ばれるものです。恋愛でなったり、見合いでなったりと、嫁ぐ道は違っても結ばれる者は同じ因縁の魂の者であると言う事になります。
 
絹糸と木綿糸は結ばれません。絹糸は絹糸に、木綿糸は木綿糸に結ばれていきます。畑の中を見てみても万花が爛漫に咲き乱れ、その中に蝶や蜂は花から花へ飛び廻り花粉を運び合い、風はどんな花の上にも平等に吹いて花粉を散らします。
しかし、千花万花の花の中でもキュウリの花粉はキュウリの花に宿り、茄子の花粉は茄子の花に宿る。決してキュウリの花粉が茄子の花に宿ると言う事はありません。

ここに、同種類の因子は吸合しあい結ばれますが、種類が違うと縁は結ばない、即ち結果は生じないと言う事が悟れます。

これから思案してみますと、自分の夫がキュウリだと思う人は、その人に結ばれている妻もまたキュウリの因縁があると悟り、妻がカボチャだと思う人は、その人に結ばれている夫も又、カボチャの因縁があると悟らなければいけません。

それで私は良い人間だからと言って幾度夫を替え、妻を替えても年齢と姿形が違うだけで同じ因縁の者が結ばれていきます。

同因吸合の話が解ると”因縁と言う爆弾は自分が抱えているのだ、自分が因縁通りの者と結ばれるのならば、自分自身が立派な者に立て替わらなけばならない”と言う事に気が付くのです。




因縁相続の法則


種を蒔くと種通りのものが生えます。「瓜の蔓には茄子はならぬ」と言う諺の通りです。

米を蒔けば米が生えてくるのはアメリカであろうとロシアであろうと変わりませんし、神世の昔も今もそうであり、永遠にそうであらねばいけません。
場所は変わっても一定不変なもの、これを真理と言います。

今から1世紀昔、オーストラリアにメンデルと言う人がいました。彼は動物や植物の研究をしている内に、親の持っている性質や形が子に伝わると言う事を発見致しました。

例えば朝顔の花は白と白とを交配すれば白い花が咲き赤と赤とを交配すれば赤い花が咲く。

しかし、赤と白を交配すれば白と赤と桃色の3通り咲くと言うのです。ですから2代目に白い花が出て来たと言っても安心出来ません。3代目か4代目にその花の花の種から赤い花が出てくる事もあると言う事です。

エンドウに致しましても、背の高いエンドウと背の低いエンドウを交配しますと、2代目は全部背の高いエンドウが生えてきますが、3代目、4代目からは、ぼつぼつ背の小さいエンドウが生えてきます。

これは表面には出ていないが、先祖の因縁は3代も4代も相続して、時が来たらならばその姿を表に現すと言う事です。これを隔世遺伝と言い、世にメンデルの法則と言います。

生物には遺伝子があり、その遺伝子が子孫に伝わっていくから親の性質と形が現れてくるのです。

ところが家系の因縁を調べてみますと、夫婦養子をしても、そこの家系の先祖の因縁通りやってきて、3代も4代も夫婦養子をせねばならないと言うところがあります。また、後家、或いは再婚家系と言うのもあります。

このように因縁は相続してゆくのだと言う事が解りますと、良い種は伏せ込んで繁殖させ、悪い種は晒して根絶さす様にして運命を開拓していかねばならない事に気が付きます。




家系の因縁

因縁には2つあります。1つは自己魂の因縁と言って、自分1個人が今生した行いの実を今生受け取って果たしていく姿を言います。
そして、もう1つが家系の因縁です。

それは今生自分がした行いの償いを今生果たし終わる事が出来ない場合に、子供がそれを受け継いで果たしていかねばならず、子供はまた親より余計に因縁を積んで+になったものを今度は子孫に持ち越して子孫が苦しんでいく因縁。

こうして代々積んできている相を家系の因縁と言います。
これは丁度、川の流れのようなもので川上が濁っていると川下が濁るのと同じ理屈になります。

家系の因縁の中でも病気の相を持って現れてくるものを業病と言って、これは医者も薬も手が付けられず、本人も苦しみますが、それを世話する人も苦しみます。

また、痛みもしない、世話もかけないが世間から嫌われる為、その兄弟、親類縁者の結婚に影響するような厄介な病気も指します。

その代表的なものが盲目・肺病・ハンセン・いざり・癌・おし・つんぼ・中風の8つの病です。

事情として1番悪いのは一家全滅の因縁です。その次に夫婦養子で他人の子を養子として迎えなければならない悪因縁、それから女の子は生まれても男の子を養子として迎えなければない因縁です。
日本では昔から女の子は頭を下げて貰って頂くのですが、男の子の方は貰う方が頭を下げて頂くのです。

次に男の子は生まれたが長男が若死をして次男、三男が跡継ぎせねばならない因縁。
次に長男が相続していたが、子を残して若死をして残された妻子が苦労して成人していかねばならない悪因縁があります。
これを長男の立たない家系の因縁と言います。

家系を家屋に例えてみますと、女は土台で柱が男の理と悟ります。
頭が鬼瓦で脊髄せきずい棟木むなぎ、両手両足が四隅の柱、丁度人間が四つんばいになっているのが家屋の姿なのです。

土台が崩れると家が倒れます。嫁が何回も縁が変わると、それは土台石の揺らぐ家ですから、出来る子供は分散する、親の役には立たない。

馬鹿気狂いあるいは脊髄、両手両足の不自由な不具者の居る家は、棟木が腐ったり四隅の柱が立っていないのと同じで、男の立たない養子因縁か、一家全滅の因縁であり、病んでいる一個人の因縁だけではありません。世話どりする人も同じ因縁です。

病んで果たすか世話して果たすか、ただ果たす形が違うだけなのです。

一家全滅は大変な凶事ですから、火難、水難、風水害の難、その他自殺、他殺の難、交通事故による頓死等がその家に前兆として現れてくるのです。



配偶者の因縁

配偶者とは、夫は妻、妻は夫、即ち夫婦の縁の事を指します。夫婦仲が良ければ何も問題ははありません。
しかし、幸福になろうと思っても出来ない悪因縁の相が男のやもめ、女の後家です。

後家と言っても2通りあります。

1つは若後家と言って、20代30代に夫と生別死別して1人で暮らさなければならない薄命の人、これは前生夫を不足に思い、夫を捨ててきた魂の因縁の生まれ変わりと言われています。
次に再婚の因縁です。若後家であると子供が1人前に成人していない為に生活が苦しい。そこで再婚せねばならない様な運命になってきます。

同じ再婚でも前方も1人自分も1人の場合は簡単にゆきますが、連れ子があるかそれとも可愛い子供と別れて行かなければならない。女性としてこれほど切なく罪なものはありません。

また、嫁いだ先にも先妻の子があり、その上自分も子供が産まれる処から2腹3腹の子となって愛情が卍巴まんじどもえになり、複雑な心遣いをせねばなりません。
他人の入った生活を水の入った生活と言い、これは気の遣う苦労の多い生活です。
再婚に留まらず、3婚4婚をしていく人は尚以って因縁が深いのです。

次に男難女難と言って、結婚前に契った人、約束した人がいるのにその人と一緒になれず、別の人と結婚すると言うのがあります。
或いは結婚はしたものの、最初の恋は氷のごとく冷えて他に愛情が移り、三角四角の因縁事を起こす。そこに子が産まれると堕胎の罪を作ったり、庶子を産んでいく。
産んだ親は平気でいても、産まれた子は父親の顔を知らなかったり、自分を産んでくれた両親を恨むような悲劇を起こす因縁。

次に夫婦相剋ふうふそうこくの悪因縁。嫌いな者、憎み合っている者が一緒になって、毎日夫は妻を叱り、妻は夫を罵り、活劇を演じる部類。
その活劇を演じている間はまだ愛情があるが、もう夫は妻に冷たく当たり、妻は夫に言葉を交わさない。いわゆる冷たい戦争をしている。もう別れようと毎日思いつめているが、子供の愛情に引かされて別れるに別れられない腐れ縁。

こんな夫婦の間に産まれてくる子供に奇形児、馬鹿気狂い、精神薄弱児と言って、男なら職が点々と変わって長続きしない3日坊主、女なら男から男へと愛情を変えていく不貞女等が出て来ます。

次に、親と意見合わずにする結婚です。

人間の愛情には2通りあり、1つは親が子を思う愛情で、今一つは男女の愛情です。親の愛情に従えば異性の愛情に逆らわなければならないし、異性の愛情を求めるならば親の愛情に逆らわなければならない。
この状態になる事を板挟みの因縁と言い、これもまた深い因縁です。

板挟みにあって自分の意志を通していく処に出来た子が親の仇討ちの理として産まれて来て親不孝をするのです。

後家になるのも再婚するのも夫婦喧嘩も、これ皆前生からの約束で、家に相続してきた悪因縁なのです。



行い

運命の原理は天地を貫く因縁果の法則による事は明らかです。その因と言う種を構成しているものは言葉と心と行いの3つです。
その中で、言葉も大切心も大切ですが、行いはその人の運命を決定的にして取り返しが付きません。

例えば、言葉で「お前を殺してやる」と言っても、殺さなかったらただ脅迫しただけです。
また、相手を殺してやろうと心の中に誓って刃物を持ってその人の傍らまで行っても、殺さずに帰ってくればそれは神様だけがご存じで何の影響もありません。

しかし、殺してやるとも言わず、心の中で殺す気持ちが無くても交通事故の様に実際に相手を殺してえば、もう取り返しが付かない。
行いでも、金銭や物質の損害なら謝罪をして償えば済みますが、人の生命と女の貞操は今生一代では償えない。

来世生まれ変わって来て殺した人に殺して貰わねばならない。貞操を奪った人は来世人のお古をお嫁に貰わねばならない。どうしても今生取り返しの付かない行為をした理は来世生まれ変わって果たさねばならない。

これを前世持越因縁と言います。

徳を積んでも親の積んだ徳を親が受け取らずに子が受け継ぐ理は大きい。貯金と同じで年限の古いものは利子が多い。

人間世界の銀行ばかりでなく、自然界を見ても、今年蒔いて今年収穫する米や豆は収穫が少ないが、桃や柿になると、種を蒔いて何年間か空白が続く。
それが20年30年後になると毎年多くの実が取れるのと同じ事なのです。

畑に人参を蒔くと人参が生えてきます。その人参を大根に変えようと思って百万回唱え言を言っても百万の人が天に向かってお祈りを捧げてもそれは大根になりません。
しかし、それを大根に変えようと思ったら簡単です。一旦人参を抜いてその後に大根の種を蒔いておけば、後は神様が火水風の縁を注いで大根が生えてきます。

これは行いの力です。

一旦蒔いた種は実際に行いの上で通ってこそ果てるのです。今日私達がしつつある行いの中で悪い事をしていても悪いと気付かずにいる事があります。

実際、人の物こそ盗まないが、毎日のらりくらりと遊んで一ヶ月15万円の仕事しかしていないのに、20万円の月給を貰っているのは5万円の月給泥棒をしている事になります。

また、私は長男と意見が合わない、嫁とも合わないと言って腹を立てて、長男にかからないで家を末子に継がしたり、後妻が先妻の長男を倒して自分の子に家を継がせると言うのがあります。

それは家庭内の事で何でもないように思われますが大変な誤りで、かかり子にかかれない長男の立たない因縁を積んだ事になります。そんな家には足腰、脊椎の立たない病人が出てきます。

その他、私達は今日まで気付かない事が沢山あります。




言葉

私達は何も悪い事はしていないのに運が悪いとこぼしている方を調べてみますと、大概言葉が悪いようです。

私達の運命の原理は因縁果の法則によるものであり、その因である種の構成が言葉と行いと心の3つでなされている事は周知の通りです。
卵で言いますと、白身は言葉であり、黄身は行いであり、1点は心であり、生命です。

ところで、誰しも自分のした行いのみ反省して、その出した言葉を反省してみようとは思いません。
私達は日々手足を使うよりもむしろ言葉を使っている事の方が多いのです。

言葉は予言也と言います。「あれはあかん奴や」と言えばあかん者になるのです。
実に言葉は予言です。「切り言葉捨て台詞冗談にも言ってくれるな、言ったら言った通りになるで」と言う言葉もあります。

例えば、「もうやめた。」と言うのが切り口上で「勝手にせい。」が捨て台詞です。この言葉が出るようになったらどんなに栄えた事業も衰微致します。
親の不足を言っている者は神様の御守護に切られ、夫や妻の悪口や不足を言っていると夫婦の縁に切れていき、金の不足を言っていると金の縁に切れていきます。

古語に「己より出ずるものは己にかえる」と、ありますが、よく自分の出した言葉で自分を十字架に掛け、自分の言葉で釘付けにして、自分自ら滅んでいく人がいます。
陰の離間語と言って、人と人との親しい仲を喧嘩させて引き裂く言葉を出している者は、後家と申しまして夫婦の縁がうまくいきません。嘘付きは泥棒の始まりです。

次に言葉は引き寄せる神通力を持っています。それは同じ言葉を3回唱えると、それは呪文となるからです。

ニャンニャンと言えば猫が寄ってくる。ワンワンと言えば犬が寄ってくる。泣き言小言愚痴の多い家には差し押さえがくる。結構結構と常に喜びの言葉を出している家には結構が飛んでくる。

大切な事は結構になってから結構と言うのではありません。一番困っている時こそ結構と唱えるのです。そうすると、一番苦しい事が結構の種となって一番結構な花が咲くのです。

良い言葉を出す、これが栄える人の言葉なのです。




因縁果の法則の因は、言葉と行いと心から成り、言葉は耳に聞こえ、行いは目に見えますが、心は目にも見えず、勿論聞こえたりもしません。
ですが、あるかと問えば誰でもあると答えます。心は種の中では中心であり、一点であり、生命なのです。

心は智情意の3つに解れ、或いは怒り或いは泣くのです。

心が怒れば言葉は激しくなり、身体は青くなって身震いします。心が笑えば言葉は朗らかになり、手足は踊り出します。心が泣けば言葉は涙にむせび、肉体は萎えます。

この通り心の持ち方が言葉に肉体に現れてきますが、言葉にも行いにも現さず、ただ心の中で思い詰めている事を思念と言います。

古語にも「精神一到何事か成らざらん」とあります。
これは思念し続けているとその間に色々な障害物に出会いますが、そこを屈せず思念し続けていると一つ一つと条件が揃って来て、最後は思念通りに実現していくと言う事です。

米が欲しいと思念していると、米を買わないかと言う人が寄ってくる。家が欲しいと思念していると、家の話を人が持ってくる。
しかし、思念だけでは手に入らない。やはり言葉で誓約が成立し、金の取引で手に入るのですが、必要なものを思念しているとそのものが寄ってくる事は明らかなのです。

次に思念は如何なる遠隔の人の心にも自由自在に活躍します。思念は時間と空間の2次元に支配されないのです。
例えば、東京に行こうと思えば、心だけは汽車にも乗らず、時間も掛からず、直ちに飛んでいく事が出来ます。

そんな思念が一番相手に作用するのは夜、しかも丑満時の午前2時から4時までが最も通じます。キリスト教、回教の祈りはこの時刻に行われます。
日本でも丑の刻参りと言って、相手を呪う為に神社にお参りして人形に釘を打ちつけます。これは昔からよくきくと伝えられています。

これは思念が乱れず集中するからで、この思念が集中持続する事を精神統一と言います。この精神統一の出来る人は人を呪い殺す事も出来ますが、反対に人の病気災難を助け上げる事も出来ます。

「人を呪わば穴二つ」と言って人も倒れ、続いて自分も倒れます。逆に人を助けようと願えば我が身助かる、とも言えるのです。

神様にお祈りしなくても心の中で相手を呪っていると、相手は神経痛、リュウマチなどの病気による不動の金縛りになります。
最も不思議な事は母胎の妊娠中、父母の遣った心遣いの通りの運命の子が生まれてくる事です。

結婚に恵まれない人に「あなたの妊娠中、父と母は夫婦別れをしようと思っていた」と言えば百発百中です。
その人の性格と運命は妊娠中の父母の心遣いによるものなのです。



移転の理


「私は東京に行きたいと思いますが、運命は如何なものでしょう」と、問われた時は、その人の目を見て直感します。大望を抱いている人の目は希望に輝いています。
そんな人には「意志を強固に持っていくなら宜しい」と、進言します。

ところが、目が血走って言葉にも怒気を含んでいる者には、「最近あなたは人と衝突なさった事があるでしょう」と、言うと、「そうです」と、答えます。人と争う癖のある人は何処に行ってもその癖を持っていくので同じ事、良くありません。

人参が何処か他に移転したら大根の様に白くならないかと想う心が迷いです。此処にいるのが嫌いで他方に行こうと考えた時、前方にはその嫌いなものが形を変えて待ち伏せているのです。

不徳な者は苦労を嫌がります。
ところが不徳の間は嫌いなものが追いかけて来て、好きなものは逃げて行くのです。

此処で人に好かれ惜しまれている人は、何処に行っても人に好かれ惜しまれる人です。自分を磨いて光ってさえいれば、何処へ行こうと人に愛され立てられ尊敬されて常に上座に運ばれていきます。

ここに移転の原理が悟れてくるのです。

 

 

旬刻限

運命の原理は、因即ち種と縁即ち土地とが結ばれて果になっていく事は明らかですが、もうひとつの重大要素は、目に見えない時旬です。この時旬の事を「旬刻限しゅんこくげん」と言います。
旬と言うのは一ヶ月の上旬中旬下旬とあるように約何日と時を区切った日数を言うのです。

およそ百姓が種を蒔く時期と言うのは最適当な時が10日間ありまして、これに遅れたら収穫は激変します。一ヶ月も遅れたら芽を出し、葉まではつきますが、花も咲かず、実も結びません。

刻限と言うのは何分何秒のようにごく短い時刻を言います。この時期に外れたら最良の時は再び来ないと言うものです。

例えて言うならば、親の危篤の電報を見て東京に行こうと駅に来てみたら1分の遅れで乗れなかった為、時間が遅れて到着した時にはもう死んでいたと言う様な事を言うのです。

「時は金なり」と昔から言われています。そして「時は神様だ」とも言うのです。

金の証文を書く時は必ず借りた月日と支払う月日を書きます。「月」、「日」は神様の御名です。書類に月日を記入すると言う事は天地神明に誓いを立てた事になるのです。

その月日に狂いなく支払いをする人を信用ある人と言って、再び貸し借りが出来るのです。月日を粗末にして常に狂わせている人は、人の信用を失うばかりでなく神様の信用も失って貧乏していきます。



生霊

世の中には、夫婦が悪いとか、子が親の意見と反対ばかり行動するとか商売がうまくいかんとか、自分が思う様にならない、むしろ反対ばかりになって苦しんでいる人が多い様です。
そう言う人は生霊につかれていないか反省してみる必要があります。

人に恨まれている人を生き霊のかかっている人と言って、世の中でやる事なす事が皆反対になって、この世で地獄の苦しみを受けて生活しています。

例えますと、自分はこの夫は嫌いだと家を飛び出して別の男と結婚した場合、前の夫は女を呪っていますが故に、その女は第二の結婚がうまくゆきません。

それと反対に、子供もいるのに他の女を家に引き入れて妻を捨てた場合は、その妻が陰で恨んでいますが故にその結婚は幸福になれません。

結婚はしなくても、恋愛はしていたが別に良いのが出来たからと言って馬上馬を乗り換えるのも、人の純情を踏みにじるが故に恨まれます。従って次の結婚はうまくゆきません。

親の反対を押し切って家を飛び出し、勝利の結婚をする物は必ず破れます。一時は夫婦仲が良いように思われますが、最後は幸福になれません。

しかし、一生涯幸福に暮らしている人もいると申しますが、夫婦仲が良ければ、子供が家を飛び出すなど因縁は歯車の様に巡って来ます。

生霊は身上にも現れてきます。親が恨まれている人は、その本人にリウマチ、神経痛などが現れ、子供に肺病、ろくまくなどが現れます。

また、生霊はその人の顔に映ります。失意の人が居る場合は目尻から頬にかけて青気が立っています。家を飛び出して来ている場合は頬の中に黄気が立っています。

この像は室内で心を静めて見つめていると、だんだん解ってきます。これを画像と言います。



死霊

死霊とは思っている人が死んでこの世にいない状態を言います。
死んでいても残念無念と言う思いは生きていて、金銭問題とか縁談事に問題を起こす事が多いのです。

或る所に後家さんが居ました。子供がいない処から娘の子を貰っていました。養子は財産が自分の名義になるまでは大人しくしていましたが、一旦自分のものになると姑である後家さんを邪魔者扱いにしました。姑は残念に思って首を吊って死んでしまったのです。
これが死霊でこんな家の財産は長く持てません。その財産は子供が配分の時に争いの種になります。

また、本妻に子がいない処から、男が外に出て女をつくる。そうすると子供が出来る。その本妻は邪魔者扱され残念無念と恨んで死んでいく。その思いもまた死霊です。
その妾の子らは死霊につかれてますから、不良少年になったり馬鹿とか精神異状者が出てきます。

死霊のタタリを受けている家は変死人が出てきます。

死霊につかれている人は額に白気が立っています。青白い白気は死霊であり、死んだ人の恨みです。ただの白気は死人の通知を受けるか、近親者或いは友人から法事の案内を受けます。

愛している人から裏切られる、憎しみあって夫婦親子が一生涯通っていかねばならない。信じて助けてやり、また貸してやった人から裏切られる、飼い犬に手をかまれる等の運命の裏面には、先祖にそうした種が蒔かれて子孫が刈り取っていると言う事があるのです。

人皆幸せになって頂きたいものです。



異性・親子愛情の原理


異性愛情の原理


私達の心は愛している人から愛して貰える。思っている人から思われるのです。これが法則です。
ところが最初は相思相愛で結婚したのに、愛している夫から裏切られる相が数多く見受けられます。それは捨てた夫に罪がある様に見えますが、捨てられる方にも捨てられる因縁がちゃんとあるのです。

親の愛情、異性の愛情を裏切った結婚の末路は、今度は裏切られる生活をしなければならないのです。

親子愛情の原理

男女の愛情は冷たくなったり、熱くなったり変化がありますが、親が子を愛する情は永遠に変わりません。
しかし、子供が一人の時は愛情はひとつですが、子には男の子あり、女の子あり、長男長女あり末子など色々あります。それで子を思う愛情は変化がないと言うもののそうではない様です。

親に可愛がられて溺れる、甘やかされている者は大人になってから成功しません。大抵不幸に落ちている人が多い。
叱られて来た、叩かれている子供が成功します。憎まれてもう見るのが嫌だといった子に最後は世話になってこの世を去って行く者が多い。

荷物を持たされ、その上叱られていく子供に神様は御守護下さっています。


十二支

世界は2つあります。即ち蔭の世界と陽の世界です。

蔭の世界はあの世と言って魂だけの存在の世界であり、陽の世界はこの世と言って天地自然の世界に抱かれ、肉体を持って生まれて来ている世界です。

この世生れ出しの元始まりは夜でしたから、このよと言います。
またイザナギの命、イザナミの命の2尊が最初子供を宿し込まれた時刻が子の刻と言いますから、夜中の零時であったとの事です。

夜露は零時頃から降り出します。人間は水一滴から生まれて来ましたから自分の事を自らと言います。

この零時を始まりとして、一日を12刻に分けたのが時間の始まり。
12刻が一日で30日が一ヶ月。
12ヶ月が一年。
12年目が一巡りです。

時の始まりは12です。
人間の体も大きい骨は12本で出来ています。両手両足で8本、脊椎が1本、頭蓋骨を割れば3つに分かれ、計12本です。
その骨を抱いているこの皮と肉の間が12開いています。
両目両耳鼻腔が2つで口が一つ、両乳ヘソ大小便の穴で12ヶ所です。

中国の聖人がその12に「子牛虎卯辰己午羊申鳥戌亥」と、動物の名前を付けて出来たのが12支です。

これは「ねはうしのうてもとられん、うんはたってみはうまれて、ひつねんせざるな、とりてもいんでいるなり」と、言うそうです。
ところが天理が逆に回ると、「ねはいてもいぬ、とりてもさってひつねんす、うまれてもそのみはたたん、うんはうしのうてとられん」となってしまうのです。


観相 

 

哲理の抄

仰げ大空月に星 伏せば可愛し花に露
人の生命のその運命 神秘の扉開かなん

叩いて開け理の扉 天然自然のそのすがた
何かよろず相互扶助たすけあい 栄ゆるものの命運ぞ 

天は許さず利己主義を 弱肉強食歴史見よ
恐竜マンモス滅びたり 自然淘汰の厳しさよ

大千世界大宇宙 小千世界身の内ぞ
世上世界の相見て この身の内の理を悟れ

目は月日で肉は土 草木毛髪骨は岩
地下水脈は血管ぞ 天地型どる陽と陰
 
聞けやこの世の道理ことわりを 徳も不徳も末代に
相続をしてゆくものを 果たせ因縁積めよ徳

幾度ところ変えるとも 癖性分を変えざれば
集まる類い皆同じ 同因吸合法則ぞ

この身の内に前生の 徳と因縁刻まれて
この世に産まれ来るなり 通り返しの今生ぞ


時の抄

あゝ悠久の昔より 無限に時は流れゆく
その泡沫うたかた一滴ひとしずく 尊い人生極むなり

月は変わりて星移り 人は生まれて去り逝くも
変わらぬ相天地を 貫くものは因果律

蒔いたる種は皆生える 生える姿は種どうり
伏せたる種は萬倍ぞ 晒せば生えぬ実ものらぬ

今年の種は今年刈る 少なき量ぞ気を長く
桃栗三年柿八年 梅はすいすい十三年

万物皆に性のあり 時に流れに陰と陽
午前の時は陽にして 午後の時には総て陰

この身の内に十二穴 大きな骨は十二本
十二ヶ月で1ヶ年 十二刻で一日ぞ

時の始まりねえと言う 十二で終わり又元へ
春夏秋冬去りゆかば 六十年で還るなり

子は丑のうても寅れんぞ 卯んは辰って巳は午れ
羊念せ申な酉てもな 犬で亥るなり天の徳

子年生まれはこそこそと 細かい事に気が付いて
無駄使いせず綺麗好き 経済観念旺盛ぞ

志士先覚の丑の年 辛抱強く根気よく
言葉少なく押し強く 腹の立つ時止められず

強情我慢寅の年 考え深く落ち着いて
人の頭に立つけれど 目上の者に吠えたがる

にこにこ顔の卯年かな お世辞と愛敬降り撒いて
人気福徳あるけれど 色の為には苦労する

義侠と短気の辰の年 人に立てられ威勢良く
思わぬ人にひいきされ 負けず嫌いで損をする

美人の多い巳の年よ 心の奥の深くして
金に一生不自由なく 執念疑い深き性

おっちょこちょいの午の年 調子宜しく間にも合い
陽気ばかりで根気なく 上辺飾るが損のもと

味のあるのが羊年 人を憐れみ品も良く
芸はあれども高ぶらず くよくよ思うが臆病ぞ

駆け引き要領申の年 才知に長けて器用なり
上手に人の機嫌とる 誉められたさに嘘も付く

ばたばた暮らす酉の年 あれやこれやと忙しく
働きながら世を送る 気変わり多く夢も抱く

言葉の偏屈戌の年 礼儀を守りて正直に
人の為には陰もなく 骨折り損を多くする

決まりの良いのが亥の年で 大望貫く気性あり
後先見ずに気が早く 負けず嫌いが損のもと

 

面相の抄

諭す一つは因縁果 曇った額に立つ白気
思いの人の影法師 死霊生霊早よはらえ

額のホクロは家出の相 観音菩薩に主人無し
釈尊妻捨て子を捨てて 衆生教化の旅に出る

目尻の下の黒い星 恋焦がれても山吹の 
実らぬ花よなすな恋 男難女難と易者言う

額の良いのは良き祖先 光り輝く希望の相
曇った額の眉しわは 悩み苦しみ果て知らず

目頭の下のそのホクロ 夫婦不和の啓示かな
涙ボクロは子について 所謂悲劇を悟すかな

歩く時は胸張って 座った時には落ち着いて
瞳は少しやや上へ 正しき姿勢が貴相です

口は大きく締まりあり 耳は大きく色よくば
度量寛容慈悲情け 晩年幸福富貴(ふき)繁盛

鼻筋通れば名を挙げる 肉付き良き鼻財をなす
ホクロに傷は破財の相 神一条を行けば良い

眉目秀麗立身す 兄弟縁者の助けあり
欲と高慢目が濁る 人を恋せば目が潤む

魔風恋風世の中は 金の光がものを言う
痩せ鼻獅子鼻金持てぬ 鼻のホクロは財破る

歯はその人の脳を見る 乱れし歯並びは空想家
天才気狂い紙一重 詩人歌人音楽家

歯並び良くて虫歯無し 政治実業軍警に
努力実戦責任感 棟梁運を持てる人

上歯出る物積極家 外交官に再適ぞ
内に向かえば内気なり 家の留守居に内仕事

耳は大きく厚ければ 心も大きく情けあり
小さく薄きは小心ぞ 秘密保てず短気なり

上耳張る人才知あり 中耳出るは意地根性
耳たぶ厚きは情深し 祖先の余徳福耳ぞ

目尻の三枚魚眉好門 ホクロに傷は再婚の
因縁あると悟るべし その周辺もまた同じ

天照らします月日かな この両眼は月日なり
大小ある人隠れたる 異母兄弟のあると知れ

法令線の広ければ 心も広く気も永し
狭く短く口に入る 我身思案で胃弱なり

長寿の相ともし聞かば 丈夫な歯にて胃病無し
朝起き正直働けば 陽気暮らしで腹立てぬ

男の目には弓を張れ 威厳と情兼ねそなう
女の目には鈴を張れ 優しく涼しく朗らかに

男の眉は柳葉眉 太く素直に乱れずに
眉の根元の逆立ちは 短気と気まま慎めよ

女の眉は三ヶ月ぞ 細く優雅に上にあれ
男に似たる眉あらば 良き配偶に恵まれず

男の口は大きくて 真一文字に締まりあれ
厚き唇人情家 薄き唇理性家

髪の毛太きは気も強い 顎髭荒きは情もろい
細く素直は優しいぞ 禿げた頭に馬鹿は居ぬ

肩幅広く眉は濃く 頬骨張りて枯れた声
額の広きは俗に言う 女主役で後家の相

鼻の上部に立筋の 出てくる人は人の子を
養う事のあると知れ その子頼りになる故に



手相の抄

大きな掌実際家 小さき手型は神秘相
肉付き厚きは努力家 細き指先派手好み

艶なき白きたな心 死人病人出る知らせ
暗縁絞に紫斑点 怪我過ちに注意せよ

バラか桜か頬の色 掌一杯色付けば
恋愛結婚産普請 吉き事近づく啓示しらせなり

昇る立ちすじ掌は 命運盛んな時なるぞ
横断線に障害線 投機口論慎めよ

指の関節高くして 掬えば水の洩れる音
器用貧乏村たから 大工左官の真似上手

中央に向かって昇る線 運命強弱見るところ
女は家庭の主役線 X線は転換期

掌の中天人地 天紋感情職業線
人紋脳の働きを 地紋は寿命と健康ぞ
 
小指に向かうが責任線 家の荷物はみなかかる
よしや次男に生まれても 長男の役目果たすなり

太陽線は金運線 昇れば集まる名も金も
障害線は赤信号 我慢高慢出さぬよう

親指の根元の良き色は 希望の光の兆しかな
細き網の目文芸家 多情多感で恋愛す

艶失える肌の色 その上立すじ現れて
指先軽く震えなば 神経衰弱身の疲れ

爪は個性を観るところ 幅の広きは貧欲家
爪先細きは見栄坊ぞ 四角な爪型実際家




骨相の抄

骨相学は科学なり 心の働き脳にあり
脳を包む頭蓋骨 その発育で個性みる

癖性分は個性化す 個性が運命作るなり
良き個性にて開運し 癖性分で身が滅ぶ

個性の区別智情意 顔の上部は知恵才能
中部かん骨意志を見る 下部の豊満人情家

理性過ぎれば薄情家 意志が過ぎれば強情家
情に流れて損をする 3つ平均大吉相

円い顔は円満家 弘法大師は人攻めぬ
法然親らん吾を攻め 在家凡夫の道を説く

ビリケン頭は自尊心 自尊過剰は排他する
挺身国難良く叫ぶ 日蓮東条児玉源

額の骨で知識みる 広い額は博識ぞ
原因訪ね推理して 正しき判断下する

頭の頂き信仰と 道徳霊感宿るなり
ナマコを縦に乗せた様 高く見えるが宗教家
 
頭の両側自衛心 自衛過ぎると他を破壊
特攻隊も自衛から 酒が過ぎると無茶を言う

頬骨厚く張り出すは 強情我慢と言うけれど
堪忍不抜持久力 頬骨張るは議論好き

後骨張るが愛情家 故郷思うが愛国心
子を思うが母性愛 異性思うが家庭愛

目の真下には言語性 肉付き多きは良く喋る
朝目覚めれば喋り出し 昼は無論夜中まで

鼻骨たくまし攻撃性 ナポレオンヒトラーロシア迄
攻撃しすぎて破れたり 女は夫をよく攻める

叩れ蹴られそしられて 尚ニコニコと笑顔する
よしや鼻筋低くとも 女の幸福お多福に



声相・雑相の抄

声相の抄

声は魂の響きなり 怒った響きは運破る
悲しき声は薄命ぞ 徳ある人の笑い声

雨も嵐も皆結構 結構々々と良き言葉
唱える声に結構が 磁石の如く寄ってくる

言葉と心と行いと 3つ揃えば誠なり
人の心は鏡なり 胸に浮かぶが神心

言葉は己の予言なり 切り口上に捨て台詞
不平泣き事みな悪い 人をそしれば身が滅ぶ

さてその人に不吉なる 言葉が重ねて出るならば
物事成らず身は病みて 人生の終わり近づけり

 


雑相の抄


因縁自覚がついたなら 心の扉開かられん
逆境こそが親神の 深き情けの御恵みぞ

頭と骨の患いは 男の立たぬ養子すじ
肉や皮や婦人病 切って切られし恨みあり

あゝ世の中は名か金か 恋が命の因果率
君宿命に泣くなかれ 我開運の道をいく

小さき恩も返す人 末は大吉大繁盛
恩を恩とも思わずに 仇で返すが地獄ゆき

金と人との御守護は 第一腹を横にして
悪い言葉を吐かぬよう 理を立てきって繋ぎする