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金曜日, 7月 04, 2014

穂村 弘 Homura Hiroshi|歌人

 


穂村 弘 ことばから生まれる世界



穂村 弘(歌人)
2014年7月4日に、歌人の穂村弘さんをお招きしてトークイベントを開催しました。
穂村さんが独自の視点で集められた「気になる言葉」や短歌を鑑賞しながら、「言葉とは何か」を考える密度の濃い時間となりました。








人の世界像は言葉でできている


僕は昔から、言葉のことが気になるたちで、言葉って何かなとずっと思っていて。
僕たちは普段、言葉を一種のコミュニケーションツール、表現ツール、思考ツールとして使っている。
つまり、自分が主人のようなイメージで言葉を使っていますが、実はそれだけではない。時には言葉の方が主人であるような感触を、みんな感じながら生きているだろうと思います。

僕は子どもの頃、引っ越しがとても多くて、父の転勤に伴って何度も転校していたんです。その頃の話を父としていたとき、「転校するのが嫌だったけど、転勤だったんだからしかたないね」と言ったら、父に「引っ越しはしたけど、転勤はしていない」と言われて。
混乱して、なんで引っ越したのか聞いたら、「お母さんが占い師に引っ越せって言われたからだ」って言うんです。
よくよく話を聞くと、僕は昔からちょっと持病があるのですが、それを心配した母が占い師に相談したところ、引っ越しなさいと言われた。その言葉を母が真に受けて、父も合意して引っ越したんだと。
そのとき、世界が歪むような感じがして、「あ、これか」と思いました。つまり何かと言うと、決定的な言葉を聞く前と聞いたあとで、世界は物理次元では何も変わっていなくても、その人にとっての世界像が変化してしまう。
僕も含めて、人間は世界を物理レベルでは生きられなくて、必ず一人一つの世界像の中でしか生きられないんだろうと。
そして、その世界像は言葉でできているんだろうと。
だから世界像は言葉で決定的に転換されてしまう。


「ママ、舌も生え変わるの?」

これはインターネット上で、子どもにこう言われたと書いているお母さんがいて。
僕は年を取っていて、舌は生え変わらないと知っているから、この言葉に衝撃を受けました。詩のようなものを見たという感じがしたんですね。
この言葉の背後にあるのはその子どもの持っている世界像で、言葉が出たときにその世界像が明らかになる。
大人の世界像と子どもの世界像は、経験の差によって違っていますよね。
たった一言で人に振られたり、人を好きになったりするのは、その言葉がその人の世界像を示しているということを、僕たちは敏感に感知するからなんです。




自分と違う世界像は
なかなか受け入れられない



その世界像にも、マジョリティとマイノリティがあると思います。ある結婚式に出たとき、新郎新婦に

「チューしろ」

と言い出した人がいました。そのときの二人はシャイでできなかったんだけど、それでも当然のように「チューしろ」と言い続ける人たちがいっぱいいたんです。
僕は怒りを覚えて黙らせたいと思ったんですが、むこうの方が数が多いから、黙らされるのはこっちだなと。
じゃあいつまでも「チューしろ」って言い続けるのが正しいのか。もちろん正しさなんてものはなくて、単にマジョリティかマイノリティかの違いがあるだけですよね。
でも世界像というのは恐ろしくて、何か一言言うと魔女狩りにあうみたいなことが起きる。 たった一言でその人の世界像がわかってしまうようなケースはよくあります。

たとえば、おじさんが若い恋人と付き合っていて、メールに

「がんばってネ」

と書いて出したら、振られてしまった。

振った女性に話を聞いたら、「この『ネ』から、おじさんなんだってことが伝わってきて、だめだと思いました」って。

すごく恐い、かわいそうな話ですよね。
あとは、飲み会をしていて、同じテーブルの三人が全員忌野清志郎のファンだと分かって盛り上がったことがあった。その中の一人が

「キヨシがさ、キヨシがさ」

と忌野清志郎のことを呼んでいたんですね。ところが2時間経った後で、別の一人が「清志郎って言ってくんない?」と言ったんです。全員が忌野清志郎のファンだったのに、名前の呼び方ひとつで決定的な亀裂が生まれたというのが恐い。

「がんばってネ」も「キヨシ」も大したことじゃないんです。ちょっとした言葉の問題なんだけど、言葉は言葉で完結しなくて世界像を構築しているから、それを受け入れると自分が壊れるって思っちゃう。そういうセンサーみたいなものってありますよね。

たとえば、洋服なんかもそう。

前のボタンを何個開けるかとか、靴の先が丸いかとんがってるかとか、時計の直径がどれくらいのサイズかとか。それがその人の所属する世界像を物語るってところがありますね。




世界像の見えない言葉が持つ引力

 

それから、言葉がどんな世界像を示しているのか計り知れないとき、興味を持つということがあります。

インターネットのニュースの見出しを見ていたら、

「七三分けの男 路上で下着奪う」

という見出しがあって、興味を持ってクリックしました。「刃物男」だったらクリックしないけど、「七三分けの男」だと世界像が見えないから、興味を引かれる。あとは、

「鈴虫の匂いがする」

松尾スズキさんの舞台で、最初に出て来た人が客席を見渡して、第一声でこう言ったんです。鈴虫といえば声、っていうのがマジョリティの世界像なわけで、鈴虫の匂いをキャッチする人間なんていない。素晴らしいですよね、その背後の世界像が見えなくてぐーっと引きつけられる。

また別の例で、

「この花火はぐろぐろ回ります」

中国製の花火の注意書きにこう書いてあった。「る」が最後まで巻き切っていなかったんですね。
「ぐるぐる」なら、われわれの世界像とぴったり合致して、何の問題もない。でも、「ぐろぐろ」。その瞬間ひとつの詩が生まれてしまいます。ぐろぐろ回る世界。




大人になると失ってしまう愛や祈り



あるとき、Twitterで

「キニキリームキロッキ」

という女子中学生のツイートを見たんです。さかのぼってみると、数日前のツイートに「今日の晩ごはんは、カニクリームコロッケ。『カ』『ク』『ケ』『コ』、カ行が四つも入ってる。でも『キ』だけ入ってない、かわいそう」と書いてあった。
それから数日して、突如として「キニキリームキロッキ」。

素晴らしいなと。これは、「キ」をかわいそうだと思ったその子が「キ」のために作った、「キ」のためだけの異次元のカニクリームコロッケの名前ですよね。

愛の中で一番価値があるのは、こういう、カ行の「キ」とかに対する愛だと思います。
非常に崇高なものだと思いますね。

ただ、彼女が10年後、「キニキリームキロッキ」とツイートできるのかというと、非常に厳しいだろうとも思います。

大人になった彼女は、ボーナスのことや、欲しいブーツのことや、彼氏のメールが感じ悪いことなんかの優先順位がすごく上がっていて、もはや「キ」をかわいそうだと思う感受性は、維持できていないだろう。

この崇高な魂を維持できるのは、男か女かで言えば女、中年か思春期かで言えば思春期、貧乏か金持ちかで言えば貧乏、権力があるかないかで言えばない、そういう人だと思うんですよね。

ほかにも、

ペガサスは私にはきっと優しくて
あなたのことは殺してくれる
――冬野きりん

という短歌が18歳の女性から送られてきて、本気だなあっていう気がしました。

この短歌は、僕を含むほとんどの中年男性には作れない。なぜかというと、誰かを殺したいって思ったとき、体力や権力やお金があれば多分なんとかなる。ペガサスに本気で頼む人はどういう人かというと、弱くてお金がなくて、権力もない人です。

これって祈りですよね。そして、祈りと短歌はとても近いものです。

もちろんこれは「あなた」を憎んでいるわけじゃなくて、愛なんですけれども。



社会と世界はイコールではない



もし僕たちが自由に世界像を選択できるのなら、いくらでも素敵な人になれるはずです。ところがそうはいかなくて、世界像の形成には強烈なマジョリティの強制力があるんです。

たとえば、僕のような人が25分ぐらい昼間の住宅地にしゃがんでいると、不審に思った人がおまわりさんを呼ぶでしょう。で、おまわりさんは僕に、何をしているのか質問してきます。そこで僕が「コンタクトレンズを落として探している」と言うと、おまわりさんはフレンドリーになって、一緒に探してくれたりしますよね。それは、僕がマジョリティの側の人間であるということが証明されたからです。

でももし、何をしているのか聞かれたときに、

「このアリの列、どこまで続いてるのかと思って」

と答えてしまうと、NGです。おまわりさんは警戒心を解いてくれません。
やっていたことは同じで、ただ言葉を返しただけなのに、なぜOKとNGとに分かれるのか。それは、言葉がその人の世界像を示すからです。ではなぜ、コンタクトレンズはOKなのか。それは、コンタクトレンズが世界の有用性を端的に代表するものだからです。

より安全に、効率よく、便利に生き延びましょうという社会合意に、きわめて適合するものだということなんですね。

娘の友だちの名前が「ユミちゃん」だってことを、どうしても覚えないお父さんがいます。でも、

「○○株式会社の財務部の課長代理の娘」

ということは、すらすら言えたりします。これは情報の有用性の差ですよね。
娘の友だちのお父さんの社会的地位は、社会的にきわめて有用な情報だということです。

僕がまだ会社員だったころの話で、部長と取引先の人と喫茶店で打ち合わせをしていたときに、ウエイトレスがお盆にプリンを乗せて運んできたんです。そのプリンを見て私は、

「部長、ほら、プリンがふるふるしてますよ」

と思ったけど、言いませんでした。

でも、もし「部長、プリンでかいっすね」とか「うまそう」だったら、言ってもよかったのか。

もちろん社会人としてはNGなんだけど、その度合いに差があるんじゃないかと思うんです。

「でかい」とか「うまそう」とかは、まだ学生気分が抜けていない、でもちょっとおもしろい奴かもという、ぎりぎり圏内です。

しかし「ふるふる」は完全に圏外です。それは、プリンの「でかさ」や「うまさ」は、社会的価値基準の枠内だからです。

大きくて安くておいしいものは、社会的に善だとされている。

しかしプリンの「ふるふる」度は、価値基準の枠外なんです。

同じように、名刺をもらった瞬間に「小林一茶」とか書いてあっても、

「あ、シンメトリー!」

と言ってはいけないんです。部長とタクシーに乗っているときに

「今の信号、色がちょっと変でしたね」

これも言ってはいけない。

「私、日本狼アレルギーかもしれないんです」

「スーパーの肉屋で手羽先のパックを見たら中身が全部奇数だったんです」

これも言ってはいけない。

それは、これらは社会的な合意の範疇にないからなんです。
つまり、少しでも全員が効率よく、安全に豊かに生きのびるためには、社会と世界を同一視する必要がある。


しかし本当は、社会と世界はイコールではない。

そして今挙げたNGワードは、社会と世界がイコールではない破れ目を示唆するものだからなんです。

でも詩の機能は逆で、詩はその破れ目をこそ示唆する。
真っ向から対立するんです。

コピーライティングはきわめて特殊なジャンルで、破れ目を示唆しつつ、社会的合意を勝ち取るという非常に高度な感覚を要求されるジャンルですよね。





一人の人間の中にも二重性はある

これは同時に、一人の心の中のせめぎ合いでもあります。
僕たち一人一人の中に、アリを見ている自分と、何してるんだって突っ込みを入れる警官が両方いる。これが、われわれのリアルな生の構造だと思います。
そしてそれぞれの世界像に、二種類の言葉がフィックスしている。
たとえば、新聞記者をやっていて、同時に詩人でもある人が記事を書くとき、「雨がしとしと降っていた」とか「ざあざあ降っていた」って書くと思います。
決して、独創的なオノマトペは使わない。デスクから赤が入ってしまうから。でも、同じ人が雨の詩を書くときに、「しとしと」とか「ざあざあ」
とか書くかというと、決して書きません。

これが、一人の人が持つ言語の二重性というものです。

今日は便宜上、詩やマイノリティの言葉を擁護するようにしゃべっているように見えるけれど、実際はマジョリティが使う社会合意された言語も、とても重要です。たとえば、歯医者さんが治療しながら「キニキリームキロッキ」とか言ってたら、嫌ですよね。もっと詩的な才能のない人にしてくださいって言いたくなります。

社会的なチューニングのズレが
いい短歌を生む



私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない
――田中有芽子

奇数本入りのパックが並んでる
鳥手羽先の奇数奇数奇数
――田中有芽子

さっきのNGワードの例は、実は短歌だったんです。ここからは、いくつか短歌を紹介したいと思います。


まずはこちら。

目薬は赤い目薬が効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――河野裕子

この短歌をだめにすると、次のようになります。


目薬はビタミン入りが効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――改悪例1

目薬はVロートクールが効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――改悪例2


目薬を買いに行って、「Vロートクールください」と言うと、1秒で出てきます。
「ビタミン入りのください」と言うと、いくつか出てきて、その中から選ぶことになります。

「赤い目薬ください」と言うと、困った客、社会的なチューニングがズレた客ってことになります。でも短歌としては、「赤い目薬」が一番よくて、下に行くほどだめなんです。
もしも薬局の人がその晩、その日あった話を奥さんにするとして、話題になる可能性があるのは「赤い目薬」の客のことです。
これは一種の愛だと思うんですよね。
一番困った客のことが一番記憶に残り、話題になる。
これは何かというと、その人固有の何かがそこにあるからですね。でも社会的に良きユーザーになれという教育では、それを捨てろということになる。

大仏の前で並んで写真撮る私たちってかわいい大きさ
――平岡あみ

大仏の前で並んで写真撮る私たちってとても小さい
――改悪例

意味は同じで、情報伝達の方法としては下の方が確かです。
でも短歌として見ると、この「とても小さい」を「かわいい大きさ」と言えるかどうかに命がかかっている。
「とても小さい」では抜け落ちてしまう何かが、「かわいい大きさ」には含まれている。それは、その日のデートが楽しかったね、という感じです。この二つの短歌のどちらを作る女の子と付き合いたいかと言ったら、「かわいい大きさ」っていう把握ができる人と付き合いたい。社会的チューニングを最後まで生理的に拒む人が、いい短歌を作るんです。

雨だから迎えに来てって言ったのに

傘も差さず裸足で来やがって
――盛田志保子

「雨だから迎えに来て」って言ったら、「傘忘れちゃったから2本持ってきて」っていうことですよね、社会的合意の言語としては。
ところが、迎えにきたんだけど、傘を1本も持ってなかった。
雨の中ずぶぬれで、しかも靴も履いてない。
もちろん二人でずぶぬれで帰りますよね。
社会的には、このプロジェクトは大失敗です。
でも世界的には、もしかしてこのときが二人の愛のピークなのではないか。
なぜなら、「雨だから迎えにきて」という約束は守られたから。
約束だけが守られて、何の役にも立たなかったという感動がある。もしかしたらこの瞬間を、僕たちはいつも待っているのかもしれない。だからこの歌は、怒っているような口調で書かれているけれど、怒っていません。むしろ感動している。
いろんな話をしたように見えますが、全部同じ話です。
世界像と言葉の話ですね。

日本デザインセンター社員による短歌:
テーマ「ティッシュ」



「ティッシュ」というテーマで、みなさんに短歌を作っていただきました。
その中から特に素晴らしいと思ったものを紹介します。
何かのテーマをもとに、短歌やコピーを作るということは、ある意味ではとても似ていると思いますね。両方とも短い日本語で、そのテーマをくっきりと浮き立たせるわけだから。


2年後もあの子がさっとだす横で
「きのうは持ってた」っていう係
――長瀬香子

これはちょうど、短歌とコピーの領域が重なった部分にある歌かなと思いました。
多分この作者は、最初から「ティッシュ」という言葉を入れずに考えたでしょうね。
コピーであれば、ビジュアルを念頭に置く習慣があるだろうから。
でも短歌を作り慣れた人でも、「ティッシュ」と入れないことはあります。
そうすることで、単にティッシュの話では終わらなくなるからです。
この歌は、その人の行動パターンや世界像を表している。
ティッシュだけでなく、常に「あの子」と自分には差があって、何のときにも一手遅れる自分である、という歌になっているんですね。
それから、感情移入もしやすい。さっと出す側よって言われたら、引いてしまうわけで。誰だって、自分は不器用で誤解されやすいと思っている。その意味でも、短歌の特性をよくつかんでいると思います。


あの日交換したのはティッシュじゃなくて
ちり紙なんです確かに父と
――内藤充江

これは、ノスタルジーですね。その時代は「ティッシュ」じゃなくて、「ちり紙」だった。「落とし紙(トイレットペーパー)」、「蝙蝠(傘)」、「衣紋掛け(ハンガー)」とかね。今は使わなくなった言葉です。うまいのは、「確かに父と」という表現。
これって逆説で、実は全然確かじゃないんですよ。もう自分の記憶だけのことで、お父さんも死んでいるかもしれなくて。だからこそ「おぼろげに」ではだめで、「確かに」って言葉を使っているんです。
これは、全ての愛の不確実性と関係があります。
愛には実体がなくて、おぼろげだからこそ、「確かに」と言う。
「あの日」「確かに」ときたら、もう確かじゃないに決まっています。


最後から2枚目にある青い線どこに行ったのすぐ泣いた君
――吉岡奈穂

韻文と散文の違いは何かというと、散文は言葉が上から下へしか流れないけれど、韻文はループするってことなんです。
つまりこの歌で言うと、「どこに行ったの」が、上と下とにかかっている。
「最後から2枚目にある青い線」、昔そういうティッシュがあって、あれ最近見ないけどどこに行ったの、という意味と同時に、すぐ泣いてティッシュを使ってた、あの繊細で弱かった君はどこに行ったの、もうずいぶん君の泣き顔を見ていなくて、鼻をかむときにしかティッシュ使うの見てないよ、という構造です。
完成度が高いですね。


母の手が次々引き出す純白に雛人形は徐々に埋れて
――矢内里

これも「ティッシュ」って書いてないですよね。雛人形はすぐに片付けないとお嫁に行けなくなるんでしたっけ。
雛人形を純白のティッシュで包んで、徐々に埋もれていく。
人形が真っ白い紙に埋もれていくということの中に、深い眠りを思わせる死のようなイメージがあって、それが非常に恐い感じがしますね。


足りないとわかりつつも立ち向かう
ちりがみ一枚牛乳の海
――大川高志

この短歌の見事さは、社会と世界の隙間を捉えていること。
社会的にはないことになっているけれど、世界には絶対的にあるゾーンを書いているということです。これが社会的に「ない」ことにされている理由は、こんなことにとらわれてはいられないからですね。
社会には、世界の段階にあることを決して持ち込むな、というルールが強烈にあるので、みんな世界の匂いに憧れるわけです。
女優さんの写真を見ていて、蚊に食われた跡があるとそこだけ凝視したり。
単に牛乳とちり紙の問題ではなくて、圧倒的に敗北しているということが官能的なんです。「足りない」「つつ」「立ち向かう」「ちりがみ」「一枚」と、タ行も繰り返しつつ、シチュエーションを説明する言葉が最後に来ているのも望ましい。


人の部屋で勝手に鼻をかんでいることの
あわあわとした光よ
――原麻理子

これもまさに、社会の中に持ち込まれないゾーンですよね。
しかし、人のうちのトイレを借りるとかではない。その方がよくあるわけで。
「人の部屋で勝手に鼻をかんでいる」ことのリラックス感というか、奇跡みたいな感じ。
恋人の部屋で、恋人が眠っているぐらいのイメージかな。留守ではないような感じで、僕は読みました。留守だと、もうちょっと当然のように鼻をかめてしまう感じがあります。
こういう瞬間がどれだけあるかが、生きていることの価値だと言いたいぐらいです。
思い出の多い人生がいい人生だ、って考え方が一つあって、さっきの短歌のような、雨なのに傘を持たないで来たとかいうことは、まず忘れない。その一方でこのように、書かなければ本当に儚いことってあると思うんですよね。


320枚160組もどれない
ふるさとの森はあまりに遠すぎて
――川原綾子

さかのぼると、ティッシュはもともと木からできているということですね。その発想を、この「320枚160組」という書き方で表現したことが非凡です。
きわめてデジタルで、社会の側の中枢にあるような表記ですよね。「ふるさとの森」って世界の側にあるもので、結果的に人間の社会が滅ぼそうとしているものなわけです。
その二つのギャップを、最大限に言語表現の中に閉じ込めている。「320枚160組」って言われると、大量虐殺めいたイメージも少しあると思います。


私には来ない種類の幸せを見た日は
ティッシュをふたつに剥がす
――高久麻里

「ティッシュをふたつに剥がす」というのも、いわゆる徒労に属するものです。
効率の反対にある徒労感は、われわれが社会で最も忌避して憎んでいるものですよね。
だけど本当は、徒労こそが一番セクシーで。
丸山健二の小説のタイトルで、『風の、徒労の使者』というのがあって、すごくいいタイトルだなって思ったことがありますけど、やっぱり世界の扉というのは徒労にあり、みたいな感じがあると思います。









穂村 弘 Homura Hiroshi
歌人。1962年生まれ。1990年に歌集『シンジケート』でデビュー後、短歌のみならず、エッセイ・短歌評論・絵本翻訳など幅広い分野で活躍。2008年に評論集『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞を受賞、連作『楽しい一日』で第44回短歌研究賞を受賞。





 http://www.ndc.co.jp/polylogue/report130704/

木曜日, 9月 19, 2013

ハルカ(ハルカトミユキ)×穂村弘 |INTERVIEW

 

 

驚異を生む言葉の作り方 ハルカ(ハルカトミユキ)×穂村弘

 

インディーズシーンで話題を呼んでいる女性ユニット、ハルカトミユキが1stアルバム『シアノタイプ』でいよいよメジャーデビューを果たす。

その名前が示す通り、ボーカル、ギターで全曲の作詞を手掛けるハルカと、キーボード、コーラスのミユキによる二人組であるハルカトミユキの持ち味は、選び抜かれた鋭い言葉で人間の本質をあぶり出す歌詞と、リリカルな詩情あふれるフォーキーなメロディー。

内面から湧き出る怒りや苛立ちはパンクスのような刺々しさを感じさせるが、アウトプットはあくまでもポップであり、マスへと開かれた視点を感じさせるところが素晴らしい。いわば彼女たちのメジャー進出は、一面的な感情の共感を強制するような生ぬるい音楽への、最後通牒だと言ってもいいかもしれない。

彼女たちの魅力を様々な角度から分析していく。

主役は、音楽を奏でるよりも先に、言葉を綴り始めていたボーカル、ギターのハルカ。

インディーズで発表した2枚のEPのタイトル『虚言者が夜明けを告げる。僕達が、いつまでも黙っていると思うな。』『真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。』が、共に五七五七七を基調としているように、彼女は歌人としても活動しており、今年の3月には自ら歌集『空中で平泳ぎ』も出版している。


そして、ハルカが短歌の世界へと足を踏み入れるきっかけとなったのが、今回の対談相手である歌人・穂村弘だ。1990年代のニューウェーブ短歌で知られ、エッセイから絵本の翻訳まで、幅広く活動する穂村は、はたしてハルカの歌詞をどう読み解くのか? 緊張感を伴って始まった対談は、結果的には言葉で表現を試みる者同士の、世代を超えた魂の交感となった。


 

短歌って31文字なんですけど、31文字だけじゃないんですよね。(ハルカ)

 

―ハルカさんはもともと「音楽の人」である以前に「言葉の人」で、歌集も出していますが、短歌とはどのように出会ったのですか?
ハルカ:大学1年生のときに、穂村さんの『もうおうちへかえりましょう』のページを開いて、空白の中に1行だけあるという見た目と、読んだときの衝撃で、「こんなものがあるんだ」ってびっくりしたんです。

ハルカ(ハルカトミユキ)


穂村:僕も最初に短歌を見たときは異様に感じました。今の経済原則からすると、もし本を買って白いページに1行しかなかったら、「これは損だ」となりますよね。コストパフォーマンスが悪い、と。

でも、僕はそれを見て、自分が知っている世界を支配してる原則とは違うルールがあることにショックを受けたんです。テレビやラジオでも、誰もしゃべらない10秒ってないですよね? でも僕はそれを見たら、逆に興奮すると思うんです。

―そういったある種の異様さに衝撃を受けて、その後より深く短歌にはまったのは、どういった要因が大きかったですか?
ハルカ:31文字に無理やり収めてる感じでしょうか。
31文字なんですけど、31文字だけじゃないんですよね。何も説明していないのに、書かれている言葉以上のことが書いてあるように読めたんですよ。
「これは私にとって小説や散文詩を読むよりも面白い」と思って、そこからいろんな歌集を読むようになりました。

穂村:普通の言葉って、足し算のイメージなんですよね。
でも、詩的な言語は、掛け算で、文字を読むことで生まれる情報量が全然違うんです。
だから逆に言うと、真っ白な中に1行だから読めるのであって、小説と同じだけ言葉を詰め込んじゃうと、情報量が多過ぎて読めなくなっちゃう。



「怒り」の言葉は使いますけど、「恨み」の言葉は使いたくない。(ハルカ)



―ハルカさんの中で、短歌と歌詞はどのように分けているのですか?
ハルカ:私の中では短歌も歌詞も同じような感覚ですね。歌詞を書いてるときに短歌が生まれるときもあるし、その逆もあります。ただ、歌詞の方が文字数が多い分、難しいです。「1行でいいのに」って思うのに1曲に広げないといけない難しさは、短歌を書く感覚を持っているからこそ感じます。

―穂村さんはハルカトミユキのこれまでの音楽作品と、ハルカの歌集『空中で平泳ぎ』に対してどのような印象を持たれましたか?
穂村:歌詞だけを見ると、軋むような、もがくような感じがありますけど、歌声を聴くと印象が全然違って、驚くほど透明な瞬間がありますよね。そこに強く惹きつけられました。

さきほど短歌と歌詞は同じものっておっしゃっていたけど、でも書き方は明らかに違っていますよね。
例えば、歌詞の一人称は「僕」で統一されているけど、歌集はほとんど「わたし」で、「ぼく」と「わたくし」がちらほら。「ハルカ」って本名なんですか?

ハルカ:はい、本名です。

穂村:性別がわからない名前ですよね。
短歌でも、一人称に「僕」を混ぜてくる女性は結構いるのですが、ペンネームが性別不明になってるケースがあって。
枡野浩一さんという歌人が「性別不明なペンネームは女性」という名言を残しています。

見た瞬間に「女性だ」とわかる名前だと、女性性の枠をはめられて、読み方が限定されてしまいがちなんです。
ハルカさんが女性の肉声で「僕」って歌っているのを聴いたときに惹かれたし、今日お会いしたらすごくボーイッシュな方だったので、ステージで見たらもっと衝撃がありそう。そういうバランスから、必然的な一人称だと思います。

ハルカ:使い分けてると自分で思ってなかったので……言われて今気が付きました。








―ハルカさんの歌詞には男っぽい印象があって、「僕」という一人称もそうだし、暴力的な表現が多いことも要因だと思うんですね。そのあたりに関しては、どういった考えをお持ちでしょうか?
ハルカ:いつも考えてるのは、「怒り」と「恨み」の言葉は違うということで、「怒り」の言葉は使いますけど、「恨み」の言葉は使いたくなくて。

自分の感情を追っていくと、「恨み」には対象がいて、感情に任せて「恨み」の言葉で書くほうが簡単なんですけど、その根本には「怒り」がある気がしていて、そっちを表現しなきゃいけないなと思うんです。

穂村:「恨み」だと、完全に個人的なものになりがちだけど、「怒り」だと、代弁することができますよね。
 
“プラスチック・メトロ”の中に<もしも触れれば跳ね飛ばされる ぎりぎりのところに立っている>という歌詞がありますけど、これは電車のホームのイメージですよね。

でも、彼女の肉声で聴くと、もっと大きなことを歌っているように聴こえる。
この社会の中のぎりぎりのところ、触れると跳ね飛ばされそうな何か大きなもののそばに立つ決意みたいな、そういう感じがするんです。

ハルカ:はい、そうですね。

穂村:そういう決意や大きな志とリンクするには、「恨み」じゃなくて「怒り」の周波数じゃないと太刀打ちできないというか。

あと、「恨み」の場合は原因がなければ発生しないけど、こういうタイプの「怒り」は、世界中が幸福にならないと消えないと思います。
お金持ちになって、彼氏と上手くいって、人気者になったら消えるような「怒り」は、表現としては弱いですよね。

ミュージシャンが、活動のピークで自殺したりするのは、やっぱり魂が本物なんだなって思うんですよ。そういうのを見ると「自信ないな」って思います。「俺、金持ちでモテるようになったら、怒りとかなくなっちゃうかも」って(笑)。


左から:穂村弘、ハルカ(ハルカトミユキ)


ハルカ:(笑)。

穂村:だから、今日は声をかけていただいてすごく嬉しかった反面、「この人(ハルカ)、すごく純度高そう」と思って、ちょっと来るのが怖かったんです(笑)。
年をとると、自分の純度に対して不安になるんですよ。「維持できてるのかな?」って。

ハルカ:「不安」とおっしゃいましたけど、私は穂村さんの本を読むと、穂村さんの「怒り」を感じるんです。言葉は穏やかなんですけど、「怒って書いてるな」っていうのがわかる。それは若さから来るものとは違う、言葉を書くことで磨かれていったものだと思うので、そこにすごく憧れます。

穂村:ありがとうございます。ただ「磨かれる」というのは「繰り返す」ことでもあって、芸風みたいになっちゃう怖さがあるんです。

この間ピースの又吉さんとしゃべったときも、「これが自分のキャラクターだって思うことは拒否したい」と彼が言ってて、その感じはよくわかります。

ハルカ:自分のモノマネみたいになっちゃうっていうことですよね。

穂村:そうそう。音楽にはそれがはっきり出ちゃいますよね。
今思うと、若い頃はRCサクセションやTHE BLUE HEARTSを聴いて、ものすごく残酷に見定めようとしてました。
インタビューの一問一答の回答が1つでも気に入らないと、「魂が腐った」ぐらいに思ったり(笑)。

ハルカ:怖いリスナーですね(笑)。

穂村:でも、忌野清志郎とか1個も間違えないんですよね。すごいなって、ずっと思ってました。

 

「死」に対する感受性っていうのは、表現者にとって決定的な切り札だと思うんです。(穂村)


ハルカ:穂村さんの本を読んでいると、「安易な言葉に対する怒り」がよく出てきますが、それは常に感じていることですか?

穂村:音楽や絵画は、表現の専用ツールじゃないですか?
ギターを持ち出した瞬間、絵筆を持った瞬間、その人は表現をするわけです。
でも言葉は、表現の専用ツールじゃなくて、それ以前にコミュニケーションツールだったり、日常の生活ツールだったりする。

ハルカ:生きていくための言葉ですよね。

穂村:ええ、サバイバルツール。絵や音楽がうらやましいのはそういうところで、例えば、絵を見て、「この絵って、どこまで本当ですか?」とは言われないじゃないですか。

でも、歌詞だと「この歌詞、どこまで本当にあったことですか?」って言われますよね。それにイラッと来るというか、絵画や音楽と同じように、言葉に翼を与えてはばたかせたいと夢を持って書いてるのに、地に引きずりおろされる。

「あんたは現実にしか興味がないんだ!」って言いたくなるんだけど、それは結局自分の力のなさでもあるのかなって。

ハルカ:歌詞ってすごく微妙な立ち位置にあって、コミュニケーションツールとしての言葉で書いてしまえば、わかりやすいし、共感しやすいですよね。
でも、それじゃあ全然面白くなくて。周りの人に「この部分わかりにくいから、わかりやすく変えよう」と言われると何か違うなって思うけど、かといって読んだ人が全然わからないものを書くわけにもいかないし。

穂村:さっきの<もしも触れれば跳ね飛ばされる ぎりぎりのところに立っている>っていう言葉は、「次の瞬間死ぬかもしれない」っていう意味でもありますよね。

その事実ってみんな知ってるはずなんだけど、意識すると生活できなくなるから、何となく「まあ10年は死なないだろう」とか思って毎日生きてる。

でも、人から「10年は死なない」と言われたら、「何を根拠に!」って思いますよね。
常にその二重性の狭間で生きてるんです。




穂村弘


ハルカ:わかります。

穂村:多くの人にとってお札はお金に見えますけど、「明日死ぬ」とわかった瞬間に、お札はただの紙に見えると思うんです。つまり、「明日死ぬかもしれない」という感覚で生きてる人にとってお札は単なる紙であり、やっぱり超絶的な詩人や天才的なミュージシャンは、お札が最初から紙に見える人で、そういう人が本当のクリエイターだと思う。

安定して札束に見える人は、人を感動させられないし、「死」に対する感受性というのは、表現者にとって決定的な切り札だと思うんです。

ハルカ:やっぱり、今はどうしても「死」より「生」の方向というか、生きるための言葉に共感を持たれることが多いですよね。実際そういうことを歌ってる人のほうが多いし、それに共感して聴く人も多いと思うんですけど、「そうじゃないだろう」というつもりで書いてはいます。

穂村:恋愛すると、「この幸せが終わるのが怖い」という感じが強まるじゃないですか?あれは不思議な作用だと思うんですけど、それを感じたくて恋愛したくなるのかなとも思うんですよね。
「この死の感覚が生きることの本質だよな」って、確認したいのかなって。





「私たちは言わない間にすごいことを考えてるから」みたいなところはあります。(ハルカ)


―「共感」というキーワードが出ていますが、それって世代意識とも関わってくると思うんですね。
ハルカさんは、いわゆる「ゆとり世代」と呼ばれる世代で、アーティストプロフィールには「言わない世代」という言葉も出てきています。ハルカさんはそう呼ばれることに対して、どう思っていますか?

ハルカ:「勝手に言っとけ」って感じですよね(笑)。「私たちは言わない間にすごいことを考えてるから」みたいなところはあります。

「言わない世代」に対して、「言う世代」がいるとしたら、勝手に言ってればいいと思うし、どっちが普通ってこともないですよね。

まあ、「言わない世代」だと思われてるんだったら、言ったときによりびっくりするだろうし、黙ってるからといって、怒ってないとは限らないし。





穂村:僕たちの頃は「新人類」って言われてたけど、今となっては完全に意味不明ですよね(笑)。
ハルカさんの言葉を拝見する限りでは、そういう世代のカラーみたいなのは特に感じなかったですけどね。

ハルカ:穂村さんのエッセイの中で、「若い人の短歌を読むと、自分が若かったときの感覚に比べて、虚無感とかあきらめが言葉になってる」と書かれていたのがすごく興味深くて、それは自分の世代として実感があるんです。
ただ、私がもし誰かに「ああしろ、こうしろ」って言われたらむかつくので、むしろ私が独り言のように言ってるのを聴いて、何か気づいてくれればなっていうのが一番の理想ですね。



ハルカさんみたいな書き手は、「魔女狩りにあいそうなタイプ」(笑)。(穂村)



ハルカ:この前フェスに出たんですけど、ああいう場所って踊りたい人たちが来てて、コール&レスポンスをやったり、みんなで飛び跳ねたり、そういうバンドが8割なんですね。
私たちはまったくそういう風にはならないから、「フェスには私たちみたいなバンドは必要ないのかな」とか「言葉を聴いてる人たちはいないんじゃないか」とか自分たちの立ち位置を考えさせられたんですけど、でも、一方では決してそんなことはないとも思ってて。

あの空間でも私たちの言葉を聴いてくれた人はいたと思うし、育てるなんて偉そうなことは言えないですけど、そこに立ち続けなくちゃいけないのかなと思いました。

―今の日本のロックフェスの現場って、かなり偏りがありますよね。
音楽の楽しみ方って本来自由なものなのに、「みんなと一緒に同じことをする」という楽しみ方しかないような感じを受けるんです。
一番わかりやすいのが、曲に合わせてみんなで手を前後に振る動きで、もちろんそれをしなくちゃいけないルールなんてないんだけど、それをするのが当然のことのようになっていて。
ハルカ:楽屋である人が「みんなを固まらせちゃうようなロックスターがいなくなっちゃった」と言ってて、それがショックだったんですよね。
第一声で聴いた人を固まらせちゃうような、そういう人がいなくちゃいけないんだなって思いました。







穂村:表現には「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」があって、詩や音楽の本質はワンダーだと思うんだけど、今は圧倒的にシンパシーの時代ですよね。少なくとも僕が青春期の頃までは、「誰も見たことがないものを見たい」とか、「自分がそれを最初にやる」というようなワンダーの価値が大きかったと思うんだけど、それがここまで値崩れしたのがショックで。
「見たことがない、聴いたことがない」ものへの憧れって、どこに行っちゃったのかなって。

―なぜここまで値崩れしてしまったんだと思われますか?

穂村:1つは社会が厳しくなったこと。
同調圧力が強くなって、「変なおじさん」みたいな人の存在が許されない。
僕みたいな人が昼間に住宅地の公園に行くと、お母さんたちがみんな警戒して、「いるだけで罪」みたいな(笑)。
そういう厳しさと、シンパシーの強制力はリンクしてると思います。今は逸脱した魂の居場所がない。

―今の話を聞いていて、渋谷でトウモロコシにスリッパをはかせて散歩させてるおじさんが話題になってたのを思い出しました……。

穂村:隕石が地球に突っ込んだりして、社会の価値観が激変したら、「トウモロコシを散歩させてたのは、こういうことだったんだ!」って理解される可能性もあるかもしれなくて、僕らの仕事も基本は隕石と同じ役割なんですよね。

散文は現在を補強するけど、韻文は未来の価値観の提示なんです。

ただ、それって今はまだ証明できないから、すごくわかりづらい。そこでリトマス紙的に大事なのは、若い人の反応で、なぜかというと、若者は生きている未来だから。

「何かわかんないけど、これいい」というのは、未来を感じ取る感覚ですよね。




―これまでハルカトミユキとして2枚のEPをリリースする中で、同世代の人や、ハルカさんよりも若い人からのリアクションはいかがですか?

ハルカ:私は絶対に反応してくれる人がいると信じて、共感や生きるための言葉に対してちょっと違った角度から球を投げたんですけど、思った通りの反応があったので嬉しかったし、これがどんどん広がれば間違いないなって思います。今はまだ共感勢力の方が強くて戦ってますけどね(笑)。

穂村:共感性の勢力に対して、ハルカさんみたいな書き手は、「魔女狩りにあいそうなタイプ」ですよね(笑)。
椎名林檎にしても、Coccoにしても、リスペクトされる日本の女性アーティストって、「魔女狩りにあいそうなタイプ」が多いのですが、そういう魂の存在感は、例えば、戦時中に投獄されたような詩人や俳人を見ても明らかで。

つまり、そういう人たちが提示する未来の価値観は、戦争をやりたいという現在の世界にとって危険だと思われたわけですよね。未来の言葉を使える人たちというのは、やっぱり光ってるんですよ。




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