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木曜日, 8月 23, 2018

Mario Luciano(マリオ・ルチアーノ)|インタビュー

 

マフィアの一族に生まれ、ヤクザ社会で生きた男の自伝「破界」


ふと書店でこの本が目に留まった。どう生きるかというテーマは表社会に生きる私たちだけが抱えているテーマではないだろう。暴力を共通言語として、命の取り合いをしながら生きている裏社会でこそ、むきだしでさらされているテーマではないのか。マフィアの一族に生まれ、ヤクザの世界で生きた男マリオ・ルチアーノの半生を聞いた――。


――『破界 山口組系組員になったゴッドファーザー末裔の数奇な運命』(徳間書店)はタイトル通り、あなたの数奇な半生を赤裸々に明かした本です。なぜ、書こうと思ったのですか。

「裏社会」で生きてきた人間が表に出るメリットはありません。過去やいきさつがありますから。実際、本を出してから、様々な人間が私のレストランに現れました。本を書いたのはたまたま縁があって、出版社から声をかけられたからです。どこで私の話を聞いたのかわかりませんが、「あなたの人生をまとめてみませんか?」といわれてね。私は裏社会から身を引いてから、ずっと自分が歩んできた人生について考え続けています。本を書くことで過去を整理できたら、と思ったのがオファーを受けた理由です。でも、本を書いて良かったのかどうか、いまも答えは出ていません。

――なぜ裏社会の道を歩むようになったのですか?

自分のことを特別な人間だと思ったこともありません。あなたと同じですよ。私の母がマフィアのファミリーに連なる人間でした。あなたがカタギの家に生まれて、カタギの世界で生きてきたように、私はマフィアの血を引く一族に生まれたのです。裏社会で生きていくことは自然なことでした。いいとか悪いとかの問題では語れないし、そこには自分の意志もありません。




――最初の仕事はマフィアの手伝いだったそうですね。

9歳の時でした。当時、私は父の仕事の関係でニューヨークに住んでいました。ニューヨークには母方の祖父や叔父ら「ファミリー」がいて、建設業や不動産業、飲食店など幅広くビジネスをしていました。祖父は地元の顔役でトラブルの処理や仕事の仲介もしていました。そんなある日、ファミリーに関わるマフィアの人間から、このかばんをある場所に持っていってくれないか、と頼まれたのです。後で知ったのですが、かばんの中身はカネでした。かばんを運ぶとお小遣いがもらえました。いまだからわかりますが、子供に「運び屋」をやらせるのは警察のマークを逃れるためでもあったのです。10歳になると、仲間とつるんで、駐車中の車からパーツを盗んで売り飛ばして稼ぐようになりました。その世界での才能をファミリーのメンバーからも認められて、彼らに囲まれる日々を送りました。

――23歳の時、来日しました。

それまで私はギリシャ、イタリア、米国、コロンビア、パキスタン……といろいろな国で生きてきました。日本に来る前は父とフィリピンで暮らしていました。当時のフィリピンは貧しくて、外貨を稼ぎに多くの人々が海外に働きに行っていました。父は彼らを海外に送り出す人材派遣の仕事をしていました。一方で、マルコス政権に食い込んで、マルコス大統領一族の資産を海外に移す手伝いもしていて、大金を稼いで優雅な暮らしをしていました。私は大学に通うかたわら、拳銃の密売を手がけていました。ところが、1986年にフィリピンで革命が起こり、マルコス政権が崩壊すると、私たち親子も一転して、命を狙われるようになったのです。父は日本のヤクザともコネクションがあり、彼らが「日本に来たら?安全だよ」とすすめてくれたので、脱出することにしたのです。最初に住んだのは兵庫県の芦屋です。

――その日本であなたはヤクザになります。最初は西海家総連合会系の組員になりました。

日本に来ても言葉はわからないし、知っている人もいませんでした。上京してぶらぶらしているときに、「会長」と呼ばれる人物と知り合いました。銀座のイタリアンレストランで食事をしているときに、別の席で食事をしていた会長から「どちらから来られたのですか?」と声をかけられたのがきっかけです。それから、会長の手伝いをするようになったのです。毎日、企業を回って集金し、集金したお金を会長に渡しました。支払いの名目はわかりませんが、その頃は企業も裏社会と関係を持っているところが少なくなかったのです。会長は右翼の大物でしたが、西海家総連合会系の組長でもあったので、組織に入ることは自然の成り行きでした。ずいぶんかわいがってくれてあちこち連れて行ってくれました。政財界の大物といわれる人物にもけっこう会いましたよ。

――次に日本最大のヤクザ組織・五代目山口組系の組員になります。

当時、私はブランドものの洋服や宝石の輸入販売をてがけていました。ファッションや宝石の販売・流通の一部はマフィアが握っており、そこから仕入れる必要がありました。でも、どんなジャンルでもそうですが、ビジネスや人間関係のトラブルは付きものです。そういうときにいろいろ助けてくれる山口組系の組織の人間がいて、盃を受けたのです。これも私にとっては自然な流れでした。組員になった効果ですか?もちろん、ありましたよ。山口組の代紋は絶大でしたから。組織に入るとすぐに「雑音」は消えました。





――本に書いてありますが、知人のヤクザの組長は、あなたがヤクザになったことを聞いて泣いたそうですね。

親しくおつきあいしていただいた山口組系組長のヒロシさんのことですね。そうです。ヒロシさんはがんで入院中でしたが、「お前バカだね。ヤクザなんかになったのか……」「俺は長年ヤクザをやったけど、いいことは一つもなかった……」、そういって怒りで体を震わせて泣きました。裏社会で生きていくことは厳しい。仕事でのトラブルや失敗は即、生命に関わってくる問題になります。だから、細心の注意を払わないといけない。緊張感もプレッシャーもハンパではありません。私が知っているヤクザのトップで、お酒を飲んでいる人は一人もいませんでした。

――あなた自身も襲われたことがあるそうですね。

いくら細心の注意を払っていても、どう思われるかは相手の問題ですから。思わぬことから恨みを買うこともあります。私も2回、刺されました。もちろん、被害届を警察に出したりしませんよ。事件になれば、面倒なことになります。日本の警察は優秀ですからね。医師には「店で仕込みをしているときに、誤って包丁を落とした」と言ってごまかしました。






――日本の警察はそんなに優秀ですか?

そうです、優秀ですよ。捜査能力も高いし、物腰もスマートです。世界でトップクラスだと思います。私は米国やフィリピンにもいましたが、彼らのやり方は荒っぽい。いきなり拳銃を突きつけて、「動くな!」ですから。動けばもちろん撃たれます。米国は人種差別が強い国ですから、いやがらせもひどかった。やっていないことでも、証拠がなくても、彼らの一存で身柄を拘束されます。幸い私は一度も日本の警察に逮捕されたことはありませんが、一時期、ある案件に絡んで警察からマークされていたこともあったようです。後からそう聞いて、ぞっとしました。







裏社会で生きる者から見た表の社会は「汚い」


――裏社会で生きるあなたの目に、表の社会はどのように映りましたか?

これは私のような人間が口にすべきことではないかもしれませんが、一言で言うと汚い。裏社会のように組織の統制もありませんから、ある意味、めちゃくちゃ、自分の欲やお金のために何でもやるという感じですね。企業の経営者や政治家、弁護士、医師……特に社会のトップ層やエリートにずるくて汚い人が多かった印象を持っています。

――というと?

社会のトップ層やエリートたちは、実に巧妙に合法的に人をだましたり、裏切ったりしますからね。そもそも、裏社会で人を裏切ったり、だましたりするのはそれなりの覚悟が必要です。へたしたら殺されますから。でもカタギの世界では、人を裏切っても命まで取られることはないでしょう。だから平気で汚いことをするのです。裏社会は「暴力」の形が見えやすいだけ。表の社会でも、見えないだけで「暴力」はあふれているのです。とはいえ、私は裏社会を肯定したり正当化したりするつもりはありませんから誤解しないでください。私が見た世の中の現実とはそういうものだったということです。

――なぜ、裏社会はなくならないのでしょう?

仕事があるからです。この世の中を動かしているのは法律でもルールでも正義でもない。「もっとカネが欲しい」「権力や地位が欲しい」という人間の果てしない欲望です。日本の社会でも「自分の利益のためなら人のことはどうでもいい」と考える傾向は強くなっているように思います。裏社会のビジネスは、こうした表社会からのニーズから成り立っているのです。よく言われることですが、世の中にはお金を借りて返さない人がいます。彼らの多くは、はじめからお金を返すつもりがない確信犯です。餌食になるのはそんな彼らを信じて、事業や生活に必要な大切なお金を貸した人たち。時間も費用もかけて裁判で争っても、取り返すことは難しいでしょう。その間にお金を貸した人間の生活や人生が破綻(はたん)するかもしれません。どんな手段を使ってもいい、貸してしまった100万円のうち半分でも取り返せたら……と思ったとしても理解できなくありません。









――暴対法(暴力団対策法)、暴排条例(暴力団排除条例)によって取り締まりも厳しくなっていると聞きます。

暴対法や暴排条例による取り締まりもそれなりの効果はあるでしょうが、「悪いやつらはいなくなれ」というだけで、裏社会の人間がいなくなることはありません。シチリアのマフィアの歴史を調べてみてください。シチリアの歴史は他民族の支配と圧政の連続でした。搾取や貧困の中で、暴力はそれらに対抗し生きていくために必要な手段だったのです。

つまり、私が言いたいのは、裏社会が存在するのは社会が生み出している側面もあるということです。人は聖人君子でばかりはありません。生きていくのが困難な状況に追い詰められた人たちの中には、「悪」に手を染める人も出てくるのです。貧困、差別、格差、家庭の崩壊……日本でもいま、いろいろな問題が起きていますが、こうした社会の問題の中から裏社会の担い手は生まれてくるのです。最近は暴対法の適用対象にならない、組織に属さない人間たちがトラブルや面倒を起こすケースが増えていると聞いています。私には誇るべき人生もありませんが、もし、裏社会で生きてきた私の経験を語ることで、困っている若い人たちが悪の道に入ることを踏みとどまるために役立てるのであれば協力は惜しみません。

――話を戻しましょう。裏社会で生きてきたあなたは最後、家族に裏切られて、財産をだましとられてしまいます。

信頼していた身内に裏切られることはとてもつらいことでした。結果的に、父とも姉とも弟ともバラバラになり、私の家族は崩壊してしまいました。どんなに信用や忠誠を重んじ、結束を誇っていても、裏社会で生きる人間もまた利害打算で動く人間なのです。大金を動かしているうちに、欲でおかしくなることはありますし、人を裏切ることもあります。この世界では、どんなに羽振り良く暮らしていても、最後はカネを失い、人も去り、女にも逃げられ、孤独に死んでいく人間が少なくありません。








――いまの生活はどうでしょう。あなたはヤクザをやめて、一介のレストラン経営者です。平穏に暮らしているのでしょうか?

本にも書きましたが、私のこれまでの人生は「喪失の歴史」でした。家族も財産もなにもかも失いました。残ったものはありませんし、もうなにも欲しいと思いません。友だちも欲しくないし、誰とも会いたくない。いま、私を悩ませているのは私の過去です。ふりかえると、いろいろなことが頭の中をフラッシュバックして来るのです。私が人生を間違えて生きてきたことはわかっていますが、どこで自分が道を誤ったのか、どうしたらよかったのか、これからどうしていくべきなのか……なにもかもいまは答えられない。過去と向き合う作業はほんとうにつらく、眠れない夜もままあります。

――そういう時はなにをするのですか?

 夜中にドライブして海に行ったりして気を紛らわせています。

――気を紛らわせる?

 そう。いまの私にできる唯一のことです……。






〈マリオ・ルチアーノさん プロフィール〉
レストラン経営者。1964年、イタリア・シチリア島生まれ。映画「ゴッドファーザー」のモデルの一人、マフィアのボス、ラッキー・ルチア-ノの血を引く。幼少期をニューヨークで過ごし、23歳のときに来日。ヤクザ組織の西海家総連合会系組員、五代目山口組系組員になる。現在は裏社会から身を引き、都内でレストラン「ウ・パドリーノ」を経営する。著書は『破界』(徳間書店)のほか、『ゴッドファーザーの血』(双葉社)がある。

木曜日, 4月 06, 2017

INTERVIEW 押井守|実写版『攻殻機動隊』を見て何を思ったのか?

 

 

実写版『攻殻機動隊』を見て押井守監督は何を思ったのか?




4月7日(金)から公開される映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』。

今までに公開されている予告編では1995年の劇場用アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』をオマージュしたシーンも見受けられ、興奮が収まらない『攻殻』ファンの方もいるのではないでしょうか。

今回は『ゴースト・イン・ザ・シェル』の公開を前に、本作に多大なる影響を与えた劇場用アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』、そして続編『イノセンス』を手がけた押井守監督にインタビューしてきました。



生身の人間が肉体を通さないと表現できない

 




――電脳や義体、ネット犯罪など時代を先取りしていた『攻殻機動隊』(以下『攻殻』)ですが、最近はVRやAIが身近な存在になり時代が少しずつ追いついてきているように感じます。そういった時代の流れの中で、今後の『攻殻機動隊』はどんな作品になって行くのでしょうか?

押井守:いやーそれは誰にも分からない。ただ、バーチャルとかデジタルとかハッキングも、『攻殻』が作られた当時から概念としてあったんだよね。小説の世界では昔にやってたことばかりで、それが現実になったってだけの話です。デジタル社会の警告とか、テクノロジーの警告とか、僕は関係ないと思う。『攻殻』でやりたかったのはもうちょっと古めかしい事だから。20年どころか200年前から変わってないこと。

要するに人間だけがなぜ身体を再確認する過程が必要になるのかとか。身体論だと思う。人間ってどう言う風に意識ができてるのか、本当に横にいる人間とおんなじ現実を見ているんだろうかとか、そういうことを誰がどうやって保証するのとか、だから人間が生きることのリアリティって本当はなんなのっていう。それは僕が『攻殻』に限らずずっとやって来たこととほとんど変わらないと思う。人間にしか興味ないから。だからテクノロジーやバーチャルに実際そんなに興味があるわけじゃないんだ。だからこそ、わりと冷徹に見てるのかもしれない。あまりそういうものに極端に希望を持ってないし絶望もしていない。





ただ実際、1995年の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は時期的に攻めてたから、ちょっと早かったのかもしれない。そもそも士郎正宗さんの原作がなければあり得なかった話だけどね。あれを通過することで自分なりに読み替えただけだから。今回の映画はそれが随分整理された。“記憶を感知する”ということで決着つけちゃっていいんだろうかという。言っちゃえば哲学的には大幅に後退している。でもその分、人間が体を失うこととか記憶を失うことの意味を具体的な映像や絵面で説得しているんですよ。これはとても大きなことで、アニメーションにはできない。やっぱり具体的に生身の人間が肉体を通さないと表現できないよ。役者さんの身体がささえている映画であることは間違いないと思います。
だからこそアニメーションはアニメーションでできることを考えるしかない。同じようなことはできないから。でも今は途方に暮れてるところ。自分がアニメを作る機会があるとしたら、結構な作品を完成させるっていう自信はあるんだけれども。それ以上のものにならないんだったらあんまりやる意味がないからね。でも『攻殻』や『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』でやったような、アニメで表現できる新しいテーマは今のところ思い付かない。今は正直ハリウッド映画の方が表現としては質・量ともに上というか、逆転しちゃったんだよね。だから今の日本のアニメーションがハリウッド映画とかアメリカ映画に与えるものは何もない。演出も含めて停滞してるんだよね。


映画自体がゲームに水をあけられている




押井守:全然関係ない話なっちゃうけど、もっと言えば映画自体がゲームに水をあけられている。この2年間、ゲームばっかりやってきた結論として、これは映画ヤバイんじゃないって感じた。映画だと2時間で終わっちゃうけど、Fallout(核戦争後の地球を舞台にしたゲーム)は200時間やっても飽きない。終わらないし終わる必要もない。終わる必要がないってのは新しい形式だと思った。オープンフィールドの環境とキャラクターを用意すれば、あとは自分でストーリーを作れるからね。

映像体験としても全然いいですよ。時間が進むと光も変わってくるし、雨が降ったり風が吹いたりさ。僕ならロードショーに3回行くんだったらゲームを買う。もちろん優れたゲームだけの話になってくるけど、それが形になっちゃったことがショックだった。かつては一生懸命映画の真似してるなーってくらいに思ってたんだけどさ。今は眼中にないよね。2年近くゲームをやってきた結論として、こういう危機感を持たずに映画を作っていいのかっていう気がした。

だから、いい時代に映画作ってきたなぁと思うよ。あらゆることを体験したし、好きなことをやって来たしね。これからは作る人はそういうところが大変だよ(笑)。でもさ、余計思うんだけど今の映画っていろんな目先は変えられるんだけど、表現というレベルでは明らかに停滞してるよね。なんでもそうだけど結局デジタルってさ、目先はともかく表現の本質を変えなかったという気がしてる。だから映画にできることは何ひとつ変わっていないです。そういう意味で割とさ、冷たくというか突き放して見れるのは、僕がデジタル表現の人間じゃないからですよ。最近は80%、YouTubeしか見てないから。しかもYouTubeでゲーム見てるだけ。映画より面白いもん。みんな違うから。100人の人間がそれぞれ違う印象で席を立つっていうのを地で行ってんのがゲームなんだよね。100人が100人、違う物語を見てる。


スクリーンの世界にゴーストが吹き込まれている





――今作は、『攻殻機動隊』シリーズの中でどういった立ち位置の作品になると思いますか?

押井守:むこうのインタビューでも言ったけれど、今までの攻殻シリーズの中で一番ゴージャスな映画で。ゴージャスっていうのは金がかかっているっていう意味もあるんだけど、要するに情報量の話だよね。やっぱアニメの『攻殻』ってなんだかんだ言っても最後は言葉なんですよ。神山がやったのもそうだし、黄瀬がやったのもそうだけれども、言葉なしには成立していないから。自分の『攻殻』なんて盛大に喋ってる。本来アニメーションは情報量を補完するために言葉を導入せざるを得ないんですよ。

だから実写の『攻殻』は決定的に違うんだよね。ハリウッドと日本映画の差とかそういうレベルじゃなくて。やっぱり役者さんに支えられてるのが映画の王道なんだよ。アニメーションとは原理的に違う。だから映画はアニメーションの表現力には永遠に追いつかない。ただ、良さもある。やっぱりスカーレットが演じた素子はスカーレットだった。他の何者でもない。アニメーションは違う。ゲームと一緒で、100人がみたら100人がみて成立するのがアニメーションなんで。そういう原理的な違いがある。




どちらが鑑賞大会でゴージャスかって言ったら実写映画でしょ。あれもこれもさ、見たいシーンいっぱいやってるじゃん。でもそれはどうでもいい。トータルの印象で世界観で圧倒しようっていう意思があるかどうか。それはブレードランナーみたいなもんだよね。近未来モノをやる上で一番避けて通れない生々しい臨場感とか、架空の世界のリアリティとか。だから今回のはそう言うのに真っ向から挑んだ作品でもある。でもブレードランナーほどうまく言ってるわけではない。なぜブレードランナーがうまくいったかというと、お金がなくて、CGに頼れなかったから知恵を使った。映画ってのは面白いもんで知恵を使わないと本当に良くならない(笑)。金をかければなんでもできると思ったら大間違い。でも今回のはそれとはまた違ったレベルで勝負してる。

結果的にそうなったのか意図してかどうかは別として、今作はスクリーンの世界にゴーストが吹き込まれている。僕に言わせれば相当奇妙な映画だと思うよ。

まあ僕は余計なとこばっか見てるから、正直なところ、見終わった後にこれ大丈夫なのかと思った。でもたぶん、普通のお客さんはそういうの気にしないし、スカーレットを見続ければちゃんと終わる映画です。そのへんがハリウッド映画の良さでもあるし、強さでもある。本当にすごいことをやってます。やった人間は気がついてないかもしれないですよ。やっぱり面白いね。お金をかけるととんでもないことになるなって。もし意図せざる効果だとしたら、それはやっぱり物量だけじゃなく質で勝負した、質と物量を両方共成立させようと思ってやった結果なんだよね。だからこそ、こういう技術的な冒険ってのはどんどん向こうでやってほしいね。その成果がしっかり見届けられるように。




映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』を「奇妙な映画」と評したのが印象的だった押井守監督。今作は漫画/アニメでの『攻殻機動隊』というフレームの中では実現できなかった、新しい表現のステージに立っているのかもしれません。








映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は4月7日(金)より全国ロードショー。












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水曜日, 2月 08, 2017

ROLA ローラ★ |INTERVIEW



ROLA ローラ★

超ロングインタビュー



ハリウッド女優デビュー決定後のローラの、初のロングインタビューをお届けします。






ROLA the NEXT morning

新たなる朝を迎えて



2008 年ViVi にデビューするやいなや瞬く間にトップモデルとしての地位を確立。誌面はもちろんバラエティ番組などTV で見ない日はないほどの人気者になったローラ。決してすべてがスムースだった訳ではないけれど「どんな壁にぶつかっても決して諦めない!」と本人も言う通り、強い気持ちで前に進んだ結果遂にハリウッドデビューという夢をつかみ取った……。今回はそれを記念して、ローラ初のロングインタビューが実現。幼少期のこと、モデルになったきっかけ、将来の夢etc.すべてを語ってくれました。





Vol.1

モデルの仕事を始めるまで




 最初は‟ここで生き残っていこう” 
  と思っていたわけじゃなく、
  楽しいなっていう気持ちが一番だった  




―今回、初のロングインタビューということで、ViViデビューの頃からのローラのページをすべて見返していたら、改めて気づいたことがあったんだよね。なぜだか、「単純に元気でハッピーな子」という感じがしなかったの。そんな人にこんな繊細な表現は出来ないんじゃない?って思ったの。


R(ローラ以下同)「そうだね、ちょっと当たってるかも。6歳の時にベンガル語しか話せない状態で初めて日本に来て、言葉が何も分からないまま小学2年生として学校に入ったの。だから、会話はジェスチャーで乗り切る。そんな感じだったのを覚えてるけど、不思議なことにまったく嫌な思い出はなくて、コミュニケーションを取れなくてすごく大変だったという記憶がひとつもないの。楽しかった!という記憶だけ。毎日ザリガニを取ったり、ドジョウすくいをしたり、神社に行って遊んだとか、たまごっちやリカちゃん人形で遊んでたなとか――。

ようやく片言ながら日本語が話せるようになってきた小学4年の頃に、またバングラデシュに戻ったんだけど、今度はベンガル語を忘れてしまってて、現地の英語学校に入ったんだけど、英語の勉強も初めてだから、意味をバングラデシュ語で説明されてもわからなくて、結局その時覚えたのは発音だけだったの。あとは、ずっと美味しいフルーツ食べて、日本に戻ってきた。そんな記憶なの(笑)」

―今のローラというか、そこからさらに成長するきっかけになったことって覚えてる?


R「高校生になって、家のことも支えなきゃと思ってアルバイトを始めたんだけど、それはひとつの転機だった気がする。人と接することがさらに好きになったの。老若男女、いろんな人がお店に来て、そういう人たちとかかわれることが楽しくて、そ
こから一気に大人になっていったのかな~って。同時期にスカウトされるようになって、それまではスチュワーデスになって世界中を回るのが夢だったけど、モデルの道が目の前に突然現れたの」



―ちなみに、その頃には日本語もペラペラに?


R「アルバイトを始めた時には話せてたよ。中学2年の時に、友達にすごく一生懸命説明したのに『ちょっと何を言ってるのか分からなかった』って言われたのがすごくショックで、そこからかなり頑張って中3の頃には普通に会話も出来てたと思う」



―モデルの仕事を始めた時って、どう思ってた? 


R「最初は“ここで生き残っていこう”と思っていたわけじゃなく、楽しいなっていう気持ちが一番だった。だけど、私って『一度これをやる!』と決めると、いいモノが出来上がるまで頑張りたいと思う性格で。だから、撮影した写真も必ず自分で見るし、『ダメだな……』と思うたびに悔しくて泣いて、毎月毎月がドキドキというか――。でも、それが勉強でもあって、落ち込んでは反省して『次こそは必ず!』って、誰に言われたわけではなくやっていたの。学校の勉強はあまり入り込めなかったけど、モデルの仕事においての、予習、復習みたいなことは全然苦じゃなくて、むしろどんどんはまっていった。やっと真面目に取り組めるものをひとつみつけた。そんな感じだったんだと思う」






Vol.2

ブレない姿勢






 ぽっかり空いていた穴を埋めてくれるような、
 そんな存在だったのかも。
 バラエティのお仕事は 

 


ローラは、心の中に収めてきた本音を話す時、必ずといっていいほど冗談めかして笑う癖がある。例えば、「嫌われてるっていう感覚があった」というような言葉を発する時ですら、そこに重苦しさはなく、明るいトーンのまま――。彼女はずっとこうして生きてきたんだろう。泣きたいくらい悲しいこと、辛いことがどれだけあろうが、それを訴え同情を誘うようなことはしない――。現実を嘆いたところで何も変わらない。自分の中で消化し、明るく振る舞うことで道を切り開き、自分の力で打破していくんだ。という姿勢にブレはない。


―インスタに料理をアップしたりしてるけど、そういう家庭的な一面って、小さい時から家のお手伝いをしていた影響なのかな?



R(ローラ以下同)「家事のお手伝いとかはしていたけど、料理は18歳で一人暮らしを始めてから覚えたの。自分で作らなきゃいけない環境になって作ってみたら楽しくて。モデルの仕事と同じ感覚で、盛り付けを考えたり、もっと美味しく作るには?って考えながらトライしていくのが楽しかったの」



―そこも、一度やりたいと思ったらこだわるっていう性格の表れだね。そういえば、以前、ViViに出ていたローラの部屋、すごく姫っぽかったけど、今もあんな感じ?



R「今はもっと大人っぽい感じだよ。昔の姫部屋は、仕事を終えて家に帰ったときに、現実から違う世界に切り替われるような部屋にしたいなと思って作ったの。あの家は当時の自分へのご褒美みたいなモノだったんだよね」



―そこに帰ってくると幸せだった?
 


R「うん。ペットを飼いだしたことで孤独や寂しさもなくなったし、ペットにはすごく助けられた」


―もしや、友達っていなかったの?
 


R「モデルをはじめてから数年は、撮影が終わったらお花屋さんとスーパーに寄って家に直帰。友達とご飯を食べに出たりっていうようなことをするようになったのはホントについ最近なの。その楽しさを知ったこともあるし、何より、自分の中に余裕が出てきたんだと思う」



―今は親友って呼べる人も出来た?



R「うん。最近ね。学生時代は出来なかった。仲のいい子はいたけどふざけ合う仲という感じで、内面の話を真剣にするような相手はいなかった。ふふ(笑)」



―ホント、そういう時、笑うよね。笑うとこ違うから! 話を仕事に戻すけど、バラエティのお仕事についてはどう?




R「バラエティはね、20歳の時にオファーがきて、やってみたらすごく楽しかったの。実際に芸人さんと話してみたら、気質が似てる気がして居心地も良かったし、そもそも楽しいことが大好きだったから、笑いで溢れてることがすごく心地良くて、リビングに一緒にいるみたいなくらいの感じでリラックスできたの。人恋しさもあったのかもね。もちろん仕事ではあるんだけど、温かいなって――。今思うとだけど、ぽっかり空いていた穴を埋めてくれるような、そんな存在だったのかも。バラエティのお仕事は」

 

―テレビでローラを見ない日がないというくらい色んな番組に出演してたけど、あれも自分で望んだこと?



R「そう。どんどんやりたいとお願いして、たくさん出させて頂いたんだけど、ある日『あれ? 私これでいいのかな?』って思ったの。レギュラーもたくさんオファーを頂いていて、本格的にバラエティをやっていくならレギュラーは絶対にあったほうがいいし。でも、それをやると決めたら、スケジュールはずっと先までそれで埋まってしまう。これからの自分というものを考えた時に、私はまだひとつに決めるタイミングじゃないなって――。他にも学びたいことがたくさんあるし、自分は何をやって生きていきたいのか、そういうことをしっかり考えて、実行に移していく時期がきたのかなって思って、徐々にいろんなレッスンに通いだしたのもその頃から――。実は、オペラもやってるんだよ。オペラ独特の世界観に入り込む感じがたまらなく好きで、将来はオペラも歌ってみたくて!」
 


―そうだったんだ。今回のハリウッドへのチャレンジも、そういう夢の実現のひとつ?



R「そうなの。いつかハリウッド映画に出てみたい。素敵な歌も歌ってみたい。そういう色んな夢をひとつずつ真剣に勉強しながらチャレンジしていきたくて、実は、今回のハリウッドの映画の話が来る1年前くらいから、LAと日本を行き来していたの。ただやりたいと言っても、日本にいるだけじゃきっかけも作れないし、環境にも慣れる必要があるし、まずは実際にLAに行って、本場のワークショップでレッスンをしたり、そういうことを去年一年やってたの」







Vol.3

ハリウッドデビュー決定の裏で……






 亡くなった猫ちゃんが 
 夢に出てきてね、
「もう泣かないで」って。




実は今回のハリウッド映画デビュー。たまたま舞い込んできたラッキーな話とはいえないほど、ローラは夢に向かって一歩づつ努力していた。その賜物だったのだ。そんな折、彼女はもう自分の居場所がなくなるんではないかと思いつめるような壁に当たった……。今、ローラがまた笑顔でみんなの前に立てるようになった理由を聞くと?
 


R(ローラ以下同)「緩やかな気持ちの変化かな。大丈夫だよ。って言ってくれる人たちもいたけど、大丈夫にはなれなくて。人前にどんな顔して出ればいいのかも分からなかった。せめて自分のことで迷惑をかけないように、やるしかないんだと続けていたら、その時間の経過と共に、少しずつだったけど、苦しさとか悲しい気持ちが和らいでいって――。そんな時に、6年間一緒に寄り添ってきた猫ちゃんも突然死んでしまったんだけど、それもひとつのきっかけだったかな」

―悲しみを持っていってくれたのかもしれないね。


R「私もそんな気がした。亡くなった猫ちゃんが夢に出てきてね、『もう泣かないで』って。私を空に呼んでるようなアニメみたいな、お部屋の中を浮きながら一緒にグルグル回って遊ぶ夢を見て、ビックリして起きたら、不思議と涙が止まって――。死を受け止めたというよりも、『もっと頑張って!』って猫ちゃんがチャンスを与えてくれた。そんな感じがして、霧が晴れたように悲しい気持ちがなくなってたの」


―毎日一緒に過ごしてきた家族だもんね。一番辛い時を支えてくれて、最後に悲しみを持っていってくれた。本当にそういう奇跡ってあると思うな。


R「高校生になって、家のことも支えなきゃと思ってアルバイトを始めたんだけど、それはひとつの転機だった気がする。人と接することがさらに好きになったの。老若男女、いろんな人がお店に来て、そういう人たちとかかわれることが楽しくて、そ
こから一気に大人になっていったのかな~って。同時期にスカウトされるようになって、それまではスチュワーデスになって世界中を回るのが夢だったけど、モデルの道が目の前に突然現れたの」

―ちなみに、その頃には日本語もペラペラに?
 


R「それから、本当に頑張っていたら、夢だったハリウッドの話が来たの」


―ちゃんと頑張って積み重ねてきた人にだけ、開ける道がある。今、そんな言葉を思い出しちゃった。折れたり、諦めなくて良かったね。


R「私の事務所の社長は、私をスカウトしてくれた人でもあるんだけど、猫が死んだ時も一緒に泣いてくれるような優しい人なの。今までいろんなことがありながらも頑張ってこれたのは、そういう人との出会いだったり支えがあったからだなって本当に思う。仕事も人間関係も、ちゃんと培ってきたものは脆くない。そう改めて感じられることができたことは、私にとってすごく大きなこと」



  実際に、その一歩を踏み出してみると、
  頑張ったぶん素敵なことが待っていたし、
  刺激的で人生楽しいなって思えた 

 

―ちょっと話が前後してしまうけど、ハリウッドを目指して昨年からLAとの行き来を始めたのは、自ら決めたことだった?



R「事務所にも負担をかけてしまうことだから、そこは社長と一緒に決めたの。いろいろ考えたけど、順調ならこのままでいいやって思うことのほうが普通かなとは思う。挑戦することって大事かもしれないけど、リスクも大きいし、簡単じゃないから努力もしなきゃいけない。先が見えないぶん、怖くもある。私も、もちろんそうで、だからずっとためらっていたけど、やっぱり挑戦しなきゃって思ったの。そして、実際に、その一歩を踏み出してみると、頑張ったぶん素敵なことが待っていたし、刺激的で人生楽しいなって思えた」


―この先ってどんなことを考えてるの?




R「私が一歩踏み出して、楽しいなって思えたように、誰かのきっかけになれたり、刺激になるようなことをどんどん発信していきたいの。例えば、インスタで料理をアップしていると、たくさんの人がフォローしてくれる。若い人が料理するのが珍しいことであれば、そういう刺激を与えられたらいいなって思うし、ファッションや英語もそう。インスタで英語を使うようになったのは、私自身の英語の勉強にもなるし、日本がもっと英語社会になったらいいなって思ったからなの。実際に、英語に親しんだことで私の視野もすごく広がったし、自分がチャレンジして良かったなって思えたことだから、誰かの『やってみようかな』っていうきっかけになったり、一緒に楽しんでみようよ。っていう感覚なの」




―影響を与えたいというよりも、役立ちたいっていう感じ?


R「そう! 小さいことでもいいから、そうなれることをどんどん発信していきたいなって思う。自分の仕事も頑張りつつ、それとは別の部分でね」







Vol.4

大事にしていること、恋のこと




 ぶっちゃけ、
 ぜんぜん恋愛してなかった。
 6年くらいはなかったかも 




―発信=仕事ではないんだ。自分のライフワークってこと?。ローラはそこがハッキリ分かれてるんだね。ドサクサ紛れに聞くけど、そういう時って、恋愛ってどうなの?

R(ローラ以下同)「ぶっちゃけ、ぜんぜん恋愛してなかった。6年くらいはなかったかも。出会いの場にも行かないし、男性に連絡先を渡すこともまったくないし、モテなかったのかな(笑)」

―でも、噂があった方もいたじゃない?


R「番組がきっかけで仲良くなったのは本当だけど、恋愛とは違う。あの時も、正直ショックだった。結局、楽しい時間もなくなってしまったから――。いまだに結婚とか記事にされるけど、それも誰かの作り話。結婚って女の子にとってすごく重大なことで、それを軽々しく扱っても欲しくないのに、気にするなと言われても、やっぱり傷つくし悲しい」


―有名税とは簡単に割り切れないよね。芸能人といえど、ひとりの人間だし。良くも悪くも注目を浴びたり、晒される世界で、自分自身を見失わないように大事にしてることってある?


R「私が大事にしなきゃいけないと思ってるのは、強い心。どんなに強い風が吹いても流されない、折れない、そんな強い心が大事だなって思ってる」


 言い訳って、
 現実から逃げてる感じがして嫌なの 



―その強さの軸になるものってなんだろう?
R「それは今までの経験なんじゃないかな。たくさんの壁にぶつかって砕けて、それでも諦めないでまた進んで――。それがあったから、強くもなれたし、ひとつ、ひとつ、乗り越えることでなりたい自分に近づいてこれた。あとは、言い訳しないことも大事だと思う。自分は◯◯だからいいや、とかじゃなく、こうだからこうしよう。って逃げずに向き合うこと。私だって自分の声やしゃべり方が好きじゃないっていうようなコンプレックスはたくさんあるけど、“だから仕方ない”っていう考え方が嫌いだった。ファッションもそうで、“似合わない”で絶対に終わらせないし、言わないの。『似合うような体になればいい』『似合うような髪型にする』『自分に合うものを見つける』とか、すべてに対してベクトルを転換してきたの」



―それは昔から?



R「そう。言い訳って、現実から逃げてる感じがして嫌なの。逆にね、これはローラにしか似合わないよっていう言葉も好きじゃないの。どうしようっていう部分があっても、誰だって似合うようになれると思うし、チャレンジしてみようよって思う」

 

―それを褒め言葉には取れないんだ?


 
R「ぜんぜん嫌(笑)。嬉しくない。ありがとうとは思うけど、私は背も高くないし実際はそんなことないでしょ。英語にしても、ちゃんとやる気があれば誰でも出来るようになると思う。私だって、いつも『仕事は10時からにして』ってお願いしてるのは、7時に起きて2時間は英語のレッスンしたいからだし」



―それ毎日の日課? ちょっとビックリした!


 
R「うん。そうやって時間を作って努力しなきゃ覚えられないし、何かしたいことがあるならその時間を作ればいいじゃない?」



―そうなんだよね、努力なくして何事も成しえず。


 
R「ホントそう。他にもいろいろやりたいことだらけで、今、ぜんぜん時間が足りないくらいなの」



―恋愛する余裕もないくらい?



R「そこはね、最近はちょっと気になる人が出てきたりしたりして(笑)。やっぱり恋愛したいなって気持ちになってきたとこ♥」


 


―目標がひとつ達成できたことで気持ちに余裕が出来たって言ってたけど、恋愛の隙間も生まれたと。それじゃ、ますます時間足りないはずだ!(笑)









Vol.5

ハリウッド・これから……




 今こうして私がここに居られるのは、
 差し伸べてくれる手があったり、
 諦めないでいてくれた人たちがいたから—— 




―ハリウッドでの撮影を終えて、初めての夢の現場はどうだった?
 


R(ローラ以下同)「ホントに最高の時間で、幸せすぎて死んじゃうかと思ったけど台本はすべて英語で書いてあるから訳したりするのは大変(笑)。でも、セットに入ったら、うわ~って舞い上がっちゃって。衣装もどれもすごく素敵だったし、何より、人が素晴らしくて共演者の人たちとも仲良くなれたのが嬉しかった。一緒にディナーに行ってお互いの国の話をしたり。ちょっと恋愛みたいなドキドキ感もあったり(笑)。毎日がすごく刺激的だった。ミラさんもすごく優しかったよ」



―英語で会話してたの?


 
R「したした! まだ勉強中の下手な英語なのにみんな理解しようとしてくれて、笑ってくれたり――。日本と同じであまり気を使わずに思ったことすぐに口にしちゃってたせいか、『ローラ、面白いからアメリカのテレビに出たほうがいいよ』とか、『こんな人、会ったことない!』『そんなこと言われたの初めて!』っていつも爆笑されてたの」

―ローラの親しみやすさって万国共通なんだ

ね! すごすぎる! ちなみにどんな暴言を?
 

―ローラの親しみやすさって万国共通なんだね! すごすぎる! ちなみにどんな暴言を?




R「あなたの目は顔に対して大きすぎる。too much big eyes みたいなことをイケメンで有名な人に言ったり、すごくショックを受けてたみたいだけど、逆に仲良くなって、あの時は最高に楽しかったね~って」



―ローラ恐るべし(笑)。そこで好かれてしまうのがローラたる所以なんだろうし、どこでも生きていけちゃうのが分かったけど、これからのローラってどうなっていくんだろう?
 

R「日本のバラエティも大好きだし、これからも日本のお仕事も続けていきつつ、アメリカでも次の映画を目指していきたい。基本的には女優のお仕事のキャリアを頑張って積んでいきたいけど、歌も歌いたいし、今はまだ1個に絞るよりも、自分の好きなこと、可能性のあることには貪欲に挑んでいきたい」



―さっき話していた“発信”もそのひとつ?

R「そう。LAに行くようになってから、日本のことを聞かれる機会が増えて、日本の食事や文化にもカッコいいものがたくさんあるし、それをもっと伝えたいなっていう発信もしていきたいし」



―なるほど。日本の中から見る日本ではなく、海外に行ったことで改めて感じた日本の良さがあったんだね。
 


R「そうなの。それを教えてあげたいし、逆にLAで知ったいいものも伝えたいなって。本当にいいなと思ったモノをシェアし合いながら、もっとビューティフルな世界があるよ。って、みんなで気づけたらいいよね!」



―ローラのやりたいことの根底にあるものって、誰かの笑顔に繋がることとも言えるよね。それって、やっぱり自身の体験が影響してる?


R「それは、ある。事務所に入った時に社長さんに話した夢というか、最終的な目標があって――。お金がなくて勉強できない子供たちってまだ世界にたくさんいて、その気持ちは私もすごくよくわかる。自分が苦労してきた部分でもあって、私にとってはすごく現実的なことだから。そういう人たちの役に立ちたいの。ずっとその想いは変わってなくて、これからはもっと積極的にやっていきたい。今こうして私がここに居られるのは、差し伸べてくれる手があったり、諦めないでいてくれた人たちがいたから――。私も誰かのそういう手になりたいし、そのことを諦めたりもしたくない」

―ホント、よく頑張ってきたよね。



R「ありがと。でも、まだまだ始まったばかりだから。この仕事を始めて10年くらい経つけど、今までが下準備というか、料理で例えれば、下ごしらえがやっと終わった。そんな感じ。これから何を作っていくか――。美味しいサンドイッチを作って、みんなにパクパク食べてもらうことで、誰かの栄養になれたり、これいいね!って喜んでもらえたら嬉しい。今までの経験をどう組み合わせていくのか、新しいレシピを考えるみたいでそれもすごく楽しみ! あ、でも、こんな例えで伝わるかな?(笑)


―ローラらしくて、いいんじゃない?



「そうだよね、ふふふ。こんなに自分のこと話すことってそうないから、なんかスッキリしちゃった! 最後になっちゃったけど、いつも応援してくれる皆さん、本当にどうもありがとう。これからもっともっと頑張っていくので、よろしくね!」



~Fin







Photo/Eiki Mori Stylist/Shino Suganuma(tsuji) Hair&Make-up/Sayoko Yoshizaki(NAP) Interview/Takako Tsuriya Design/attik
http://www.vivi.tv/topics/2015/12/757/




「GO! GO! TAIWAN」価格¥1300(税別)

金曜日, 12月 16, 2016

オレンジレンジ知ってる? |INTERVIEW




 

あなたが知らないオレンジレンジ。



2000年代に青春時代を過ごした人にとって、ORANGE RANGEというバンドは決して避けては通れない存在であった。TV、CM、映画はもちろん、学校、コンビニ、カラオケなど、ありとあらゆるシーンで日常的に耳にした彼らのサウンドは、否が応にも自らの身体に刻み込まれている。


だけど、僕らは意外とORANGE RANGEのことを知らない。結成から15年もの間、継続的に作品のリリースを続け、毎年ライブハウスからホール、大型フェスに至るまで、様々な規模でのライブ活動をストイックに行い、真摯に音楽と向き合ってきた彼らのことを思いのほか、知らない。


2016年、バンドは15周年を迎え、青年はいつしか大人になった。あなたが知らないオレンジレンジ。





今も昔もORANGE RANGEって”みんなの遊び場”みたいなバンドなんです。(HIROKI) 

 


— うちのサイトでORANGE RANGEの皆さんにインタビューさせてもらうのは初めてなので、まずは昔の話から。そもそも皆さんは、どういったキッカケでバンド活動をスタートしたのでしょうか?

YAMATO: 僕たちは全員が幼馴染で、同じ保育園、小学校、中学校に通っていました。バンドを組むことになったのは、中学校の卒業パーティーがキッカケで、NAOTOと元メンバーのKATCHANがバンドを組んだんです。そのバンド自体は卒業と共に解散したんですが、高校になってから、そこにベースのYOHが加わって遊ぶようになって。その内にHIROKI、RYO、そして僕が加わる形で、ORANGE RANGEが出来上がりました。


— インディーズデビューは2002年となっていますが、その当時からバンドとして「プロになろう」というような将来的な目標はあったのでしょうか?

YAMATO: 僕個人で言えば、そんなに無かったかもしれないですね。

HIROKI: たしかに。個々人で差はあれど、全体としてそういう思考は無かったように思います。「あそこでライブをやろう」とか、そういう具体的な目標さえ無かったかと……(笑)。ライブやイベントは、誘われたら出るって感じで。もちろん、そうやって僕らに声をかけてくれることは、素直にすごく嬉しかったんですけどね。その延長線上で、今までバンドが続いてきたようなものかもしれません(笑)。


— メジャーデビューからブレイクまでのスピードは当時の時代感を考慮しても、かなり早かったように思うのですが。

YAMATO: 本当にその通りですね。僕ら自身、全く予想していなかったし、気付いたら名前も顔も覚えてもらっている感じで。驚きというか、当時は「どうしてこんなことになっているんだろう」って疑問に思う気持ちがありましたね。毎日、すごいスピードで時間が過ぎていって、メンバー同士で会話することも少なかった。色々な事に追われ過ぎていたのかもしれません。今の方がメンバー同士の会話はずっと多いような気がします。

HIROKI: RYOはどう思う?

RYO: うーん。多分……。同じ……かな(笑)

HIROKI: ダメだ、こりゃ(笑)

YAMATO: 取材だからちゃんと答えてね(笑)?

HIROKI: 「同じ……」じゃないよ! 何が同じか、全然分からないからね!

一同笑

RYO: 高校の時から、ずっと同じメンバーでバンドをやっていて、何か他の仕事をすることも無いまま、気付いたら大人になっていたって感じですかね。年々会話が増えてきたっていうのは、みんなそれだけ歳をとったってことでもあるのかなと(笑)。でも、もしも何か他の仕事をしていたとしても、このメンバーの関係性は変わらなかったと思います。NAOTOはどう?

NAOTO: ……同じ……。

一同笑

NAOTO: まぁまぁ、一応お約束かなと思って(笑)。YAMATOがさっき話していたように、本当に目まぐるしい毎日でしたね。けど振り返ると、僕自身はその状況を楽しんでいたようにも思います。当時は若かったし、好奇心も旺盛だったから。もちろん、今も毎日楽しいですけどね。

YOH: あの頃、色々な人達と知り合えたのはすごく良い経験だったかもね。ずっと沖縄で暮らしてきた自分たちには知らないことって、すごくたくさんあって。例えば、こういう取材1つにしてもライターさんがいて、カメラマンがいて、テレビだったら、もっとたくさんのスタッフがいて。CDでも何でも同じですけど、そうして、多くの人達が関わって創り上げているモノだってことさえ、知らなかったから。今振り返ると、良い機会になっていたんだなと思います。

HIROKI: 当時は、自分たちが「今、何をやっているのか」さえ把握しないまま物事が進んで行ってしまうくらい、時間に追われていたけど、とにかく色々吸収してやろうっていう気持ちはあったのかもね。結局、その時の結果が成功なのか、失敗なのかって後にならないと分からないじゃないですか。それでも恐れず、僕らが前に進めていたことは良かったのかなと。


ORANGE RANGEのアルバム『1st CONTACT』




— とはいえ、多分今の時代にあれだけのフィジカルセールスを記録しようと思っても、そんなことが出来るバンドは現存しない訳で。皆さん自身は、当時、世の中にあそこまでORANGE RANGEというバンドの音楽が浸透した理由をどのように考えていますか?

YAMATO: それも今考えると結局は縁とタイミングだったんじゃないかなと、個人的には思います。自分たちがバンドを始めた当時流行っていたのは、いわゆるメロコアで、ミクスチャーという言葉がまだ日本に入ってくる前だったってこともありますし、メジャーデビュー出来たのも色々な巡り合わせがあってのことなので。


— 2000年代初頭は、CCCDの問題があったり、音楽業界としても大きな転換期でしたよね。

YAMATO: そうですね、音楽がデータの世界に入って行くギリギリの年代。そういったことも含めて、やっぱり縁とタイミングが全てだったように思いますね。当時はセールスに関しては全然意識していなくて、ライブのことばかり考えてたんですけど(笑)。

HIROKI: 同じく、根底には絶対的に人との出会いって要素があるかなと思います。でも、その中でも”面白い大人”にたくさん出会えたことが良かったですね。先ほどもお話ししたように、僕たちのバンドにはあまり自我がなくて、絶対的な何かを持っている訳でも無かった。だからこそ、”面白い大人”の意見を取り入れて、自由に遊べたのかもしれません。僕が思うに、今も昔もORANGE RANGEって”みんなの遊び場”みたいなバンドなんです。なので、結局セールスは、ORANGE RANGEというチーム全体が楽しく自由に遊んだ結果を上手くファンの方々に伝えられたってことなんじゃないですかね。


— 逆にあれだけ”売れた”からこそ、見えた景色、学んだことは何かありますか?

YAMATO: 2010年に自主レーベルを立ち上げてから、今年で6年目になるんですが、それまで、僕らは大きなレコード会社に所属していて、担当者もたくさんいて、自分たちは音楽とライブだけに集中すれば良いっていう環境にいたんです。贅沢だし、ありがたい話ですよね。それ以外の事は、全て周りの大人たちがやってくれるんですから。

けど、自分たちの会社を立ち上げてからは、それこそ自分たちのバンドの方向性や、「ORANGE RANGEはこうあるべき」という話から始めて、皆が同じ方向を見ながら進んでいける体制を作り上げました。もちろん大変でしたし、時間も掛かりましたけど、昔よりも今の方が充実しているようにも思います。細かいことを気にするようになって、責任感も生まれたと思うし、当時は気付けなかったことにも気付けるようになった。そういう意味では、以前とは全く違う環境でやることにして正解だったのかもしれません。




ORANGE RANGEのアルバム『TEN』



— 音楽的にも自主レーベルを立ち上げた辺りが、大きなターニングポイントになっているように思います。

YAMATO: そうですね、一般的にウケるような曲じゃない楽曲が入ったアルバムがあれだけ売れたことで、自信に繋がった部分もあったし、自主レーベルを立ち上げてからは、もっと音楽と僕らの動きがリンクする体制を作ろうと思って。ちょうどSNSが世の中で流行りだして、MVなんかもそうなんですが、もっと自由に発信していきたいと思ったんです。1度インディーズで出したからこそ、またメジャーに行こうと思えたのかもしれませんね(注※2012年からはSPEEDSTAR RECORDSと提携を開始し、メジャーで作品を流通)。


— バンドとしての歴史を振り返ってみると、非常に多作なバンドだなという印象を受けるのですが、アルバムや楽曲の制作方法に何か変化はありましたか?

YOH: それぞれ趣味趣向に変化はありますけど、やり方としては13年ぐらい前からほとんど変わらないですね(笑)。アルバムにしても、1枚アルバムが出来たら、また1から構想を考えて作っていくって流れは変わらないので。

YAMATO: 具体的にはNAOTOとYOHがベースとなる部分を作ってきて、それにみんなでデモを入れていく感じです。


— 年間で考えるとライブもかなりの本数やっていると思いますが、ライブに関してはいかがでしょう?

YAMATO: 昔よりは周りが良く見えるようになったというか、改めて色々な人たちに応援されているんだなってことが実感できるようになりましたね。自分たちを応援してくれる人たちに良い音と良いライブをきちんと届けたいという意識が強くなったし、ライブハウス、ホール、それぞれの楽しみ方がやっと分かってきたような気がします。

NAOTO: 僕はメンバーの中で一番ライブに対する意識が低いかも(笑)。お客さんの感覚に一番近いと思っているんですけど。結構立ち位置も端の方ですし……。

YAMATO: 立ち位置、変えても良いんだよ(笑)

NAOTO: え、本当に? 全然分からなかった……

YAMATO: 何年やってるの……(笑)

NAOTO: と、まぁ普通にいつも端っこにいるんですよ(笑)。だから、ボーカルの3人の動きも良く見えるし、MCを見ても普通に笑っちゃうし。そういう意味ではメンバーの中で一番楽しめてるのかも。




ORANGE RANGEのDVD『ORANGE RANGE LIVE TOUR 008~PANIC FANCY~at 武道館』



— 自分のバンドのライブを俯瞰で見られるというのは、ある意味、すごく贅沢な気はしますけどね。

NAOTO: そうかもしれないですね。僕が楽しんでいる時はお客さんも楽しんでいるし、それで良いのかもしれないです。「こうした方が良いんじゃない?」とか思うことも特にないし……ライブは楽しいですね!

HIROKI: NAOTOはライブを目がけて曲を作ってこないので、それをどうアレンジして、ライブで見せるのかっていうのは自分の楽しみでもあります。ORANGE RANGEってライブはライブだし、音源は音源というか、それぞれが別個に存在しているんですよ。だから、それらを上手く組み合わせられた時が一番楽しいかもしれないですね。

RYO: 自分にとってはライブが一番真ん中にあるというか、ライブがあったからこそ、今までやってこれたような部分はあるのかもしれません。自分にとってライブはそういう存在。


— 皆さん、それぞれソロでも色々な活動をされていますけど、メンバー個々にソロをやり始めるとバンド本体の動きが鈍くなるってケースも多いじゃないですか? でも、このバンドの場合は常にバンドとしても動き続けているというのが面白いなと。15年バンドをやってきて、この5人でバンドをやる意味について改めて考えることはありますか?

YAMATO: 結局、ORANGE RANGEはこの5人じゃないとダメなんですよね。ソロにしても、やっぱり基盤となっているのはORANGE RANGEで。ソロ活動は、ORANGE RANGEとしての視野を一歩広げるためにやっているような感覚なんです。

RYO: 僕も同じで、あくまでORANGE RANGEあってのソロ活動というか。ある程度、自分の感覚をずっと研ぎ澄ました状態でいるためのソロって感じですかね。





ORANGE RANGEのアルバム『縁盤』



— そうしてソロ活動で得たものをバンドに還元した結果、全体が尖り過ぎたり、急激な変化にファンが付いていけなくなるということも良くあると思うんですが、このバンドはその辺のバランスが絶妙ですよね。少し話は変わりますが、今夏リリースされた15周年記念コラボベストアルバム『縁盤』について、お話を伺えますか。

YAMATO: あまり数字とかは気にしないバンドだったんですが、10周年のお祝いをした時に、15周年では何をしようかって話をなんとなくして。3、4年ぐらい前から少しずつ動き始めた感じですかね。ベストアルバムは過去3回リリースしているので、今回はリアレンジという形に辿り着きました。レーベルを立ち上げてから『縁舞』という2マンイベントを定期的にやっているんですけど、そのイベントを活かす形で、色々なアーティストとコラボレーションすることにしたんです。

HIROKI: 今お話しした『縁舞』がスタートしたり、バンド全体としての動き方が変わって来たのがここ3、4年。15周年は結構遠いモノだと思っていたんですけど、気付いたらすぐそこでしたね(笑)。


— 楽曲単位での配信が主流になった今、ベストアルバムというフォーマット自体に価値は無くなりましたもんね。そういう音楽業界の流れを考えても、今回のコラボベストアルバムというのは良い選択だったんじゃないかなと思います。

YAMATO: 自分たちが主体となって企画して一生懸命になれた分だけ、意味はあったのかなと思いますね。仕上がりにはとても満足していますし、これだけ多くの人達とコラボレーションをするのも初めての経験でした。



— 新しいモノを柔軟に取り入れるというのが、ORANGE RANGEの大きな特徴の1つなのかなと個人的には思います。2000年代以降は、ものすごいスピードで技術的な変化があったと思いますが、時代や環境の変化については、それぞれどのように感じていますか?

RYO: 今の時代、届け方はとにかく沢山あると思うんですが、届ける相手は結局”人”なので、それを間違えなければあまり時代には左右されないんじゃないかなと。色々な届け方がある分、規模は小さくなるかもしれないんですが、自分たちがどこにいるべきなのか、どういうスタンスで音楽やファンの皆さんと向き合っていくのか、そういう事を大事にしていきたいですね。
まぁ、良いタイミングで自主レーベルを始めたし、良いタイミングで15周年だし、偶然もあると思いますけど、振り返ってみると色々と良かったなと思います(笑)。

HIROKI: 音楽業界を背負うような使命感は全く無いんですけど(笑)、新しいことにトライしようという気持ちは今でも強くありますね。いちユーザーとしては全然、技術の進歩に付いていけていませんが……。でも手段が増えることは悪い事では無いし、音楽が無くなる訳でも無いですからね。

NAOTO: 僕も同じで選択肢が増えることはすごく良いことだと思いますよ。その分、個性が出しやすくなりますし。「どういう風に売っていくか」って部分もバンド毎に全然違うじゃないですか。テレビに出ない個性的なアーティストの映像もインターネットのお陰で簡単に見られるようになったし、今の流れには概ね賛成というか、良い刺激を受けてますね。








— 来年の2月25日には久々の日本武道館公演も控えていますよね。

HIROKI: ずっと今年を目がけてやってきたし、まだまだツアーも続いている中で、武道館は久しぶりだけど、あの頃には無い余裕が今はあるから。どんなライブが出来るのか、凄く楽しみです。


— 15年前と今、個人的にはどちらの方が楽しいですか?

HIROKI: 15年前か……

RYO: 楽しかった……

YOH: 楽しかったね……

一同笑

YAMATO: まぁ、楽しいの種類が違うよね。あの頃も楽しかったし、今は今の楽しさがあって。


— アイドルやヒップホップ、ダンスミュージックと比較して、バンドに勢いが無いとも言われる時代ですが、これからバンドをやろうと思っている若者に向けて、最後に何かメッセージをお願いします。

HIROKI: 全然悪い事じゃないと思うんですけどね。
バンドが正義なんて訳はないし、単に自分たちはそこにゾクゾク来たってだけの話なので。

誰にとっても、そういうものがあることは良いことだと思いますよ。実際、今の若いミュージシャンの子たちに「いつも聴いてました!」って言われて、「全然ジャンル違うけど!」って思うことも多いですから(笑)。

好きなモノを見つけて、いかに楽しく遊べるかってところが全てなんじゃないかなと思います。






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完全生産限定盤(CD+DVD+MOOK) VIZL-1013 5,926円 + 税
通常盤(CD) VICL-64609 3,056円 + 税
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セミファイナルは約8年2ヶ月ぶりの日本武道館、そしてツアーファイナルは地元・沖縄市民会館 大ホールにて大団円を迎える。
http://orangerange.com/tour016_017/






ORANGE RANGE

メンバー



YAMATO
1984年1月14日生まれの32歳。高音域ボーカルとMC担当。

HIROKI
1983年6月29日生まれの33歳。中音域ボーカル、MC担当。

RYO
1985年10月1日生まれの30歳。低音域ボーカル、MC担当

NAOTO
1983年5月8日生まれの33歳。ギター、プログラミング、コーラス、シンセサイザー、パーカション、ベース、ドラムなどの楽器担当、バンド内のほとんどの楽曲の作曲、編曲を手がけています。

YOH
1983年12月11日生まれの32歳
ベース担当メンバーのRYOとは実の兄弟

KATCHAN 旧メンバー
ドラマーとして活躍していましたが、音楽性の違いにより脱退しています。
現在はKCB(KICK CHOP BUSTERS)のボーカル、アコースティックギターとして活動

火曜日, 12月 13, 2016

ピアノが好きな女の子がデビューするまで Chara|INTERVIEW

 

 

ピアノが好きな女の子がデビューするまで Chara

紡ぎだす曲も、個性的な声も、しなやかな生き方も。「Chara」という世界はいつの時代も私たちの心をつかんで離さない。ピアノが好きなちっちゃな女の子が、時代のアイコンとなるミューズへ。そのルーツをCharaさんが語る。






ちっちゃい女の子の音楽の思い出



――幼少期はどんな女の子でしたか? 当時の音楽の思い出は?

背がちっちゃくて、本名が美和なので「みーちゃん」って呼ばれてました。幼稚園の先生がオルガンを弾く姿に憧れて、目で見て耳で聴いて覚え、休み時間にオルガンを触らせてもらって。それを先生が見ていたのか、ある日帰りの会で歌を歌うときに、「みーちゃん、弾いてみる?」と声をかけてくれて。みんなが私の伴奏に合わせて歌を歌ったの。「小さいみーちゃんでも役に立ってる! 何かを動かせた!」みたいな感覚を初めて味わい、音楽ってすごいなぁ、って感動したのを覚えています。

ピアノを習い始めたのは、小学校に上がったころ。隣りに住んでいた同級生の女の子が音楽教室に通っていて、「私も行きたい」と親に頼み込みました。その教室で試験を受け、作曲のメソッドを勉強する専門コースに進むことに。譜面を起こして曲を作ったり詞を書いたりと結構本格的だったなぁ。合奏するカリキュラムなんかもあって、楽しんで通ってましたね。



――ご家族は音楽好き?
 
普通。家にレコードは何枚かあったけれど、映画音楽とかクラシックとか。ビートルズが1枚だけあったなぁ。ただ、実は母が昔バスガイドになりたかったらしく、歌が大好きで。お母さんって即興で適当に歌とか作ったりするじゃん? うちの母はそういうのがめっちゃ得意で、謎のオリジナルソングを歌ってました(笑)。童謡も好きで、よく一緒に歌いました。

あと、私はちっちゃいころからおばあちゃんが大好きだった。妹が生まれたとき、おばあちゃんに連れられて病院に行ったんです。もうすぐ2歳になろうとしていた私は、新しい仲間ができてうれしい半面、なんかヤキモチもあったみたいで、「早く帰ろうよ」ってせがんだんだって。おばあちゃんにおんぶされた帰り道、空には月がぽっかりと浮かんでいた。それを見ながらおばあちゃんと一緒に「月がとっても青いから~♪」って歌ったの。そのときのきれいな月夜とおばあちゃんの歌声は今もはっきりと覚えていて。




「チャラ」というニックネームをくれた先生



――小学校、中学校時代の思い出は?

小学生のころは、おとなしいけどピアノは上手な女の子、っていう感じだったかな。
3年生のときに、代用教員のよしこ先生が「チャラ」っていうニックネームをつけてくれて。「切り替えが早くて、次のことにしゃらっと打ち込む」というような意味だったみたい。背がちっちゃくてチョロチョロしていたところに引っ掛けて、「しゃら」から「チャラ」になったのかもね。小学校の3年、4年って、体も脳も一気に成長して変わる時期。

小さくて泣き虫だった私も、急に足が速くなったり、人前で何かすることが嫌じゃなくなってきたりして積極的な部分が出てきた。そういう時期にキャッチーなニックネームをつけてもらったのは、なんだか特別な感じがして、とても気に入りました。

そして、このころやっとピアノを買ってもらえて。ピアノはずっと習ってたんだけど、家での練習はなんと紙の鍵盤(笑)。長続きしないと思ってたのかもね、親は。結局、父が酔っ払ってるすきに母と注文しちゃいました(笑)。

中学では放送委員に。委員長が音楽好きで、ソウルやニューウェーブのレコードを聴いたりしました。お昼の放送当番は楽しかった。「リクエスト募集中!」なんてDJ気取りで(笑)。そしたらツッパリから横浜銀蝿とかのリクエストが殺到して、曲をかけたら風紀委員の先生が慌てて飛んできたりしてね。時代だよねぇ(笑)。



――どんな音楽が好きでしたか?

ピンクレディは好きだった。あと、耳コピして初めて弾き語りをしたのは、小坂明子さんの「あなた」。曲というか、グランドピアノに憧れたんだよね。憧れすぎて、「私がお嫁さんに行くときにはグランドピアノを買って」って親にお願いしたんだって。そしたら、本当に結婚するとき母から「グランドピアノはどういうのがいいの?」と。いやいやいらないから! てか覚えてたんかい!(笑)。お嫁入り道具は何もいらないって言ってたんだけど、親心としては何か買ってあげたかったんだろうね。

初めて買った洋楽のレコードは、アイリーン・キャラの「Fame」。アイリーン・キャラは映画「フラッシュ・ダンス」で有名だけど、この「Fame」も彼女が主演した映画の主題歌。「何これ!? ピュンピュンしててカッコイイ!」みたいな(笑)。このレコードがきっかけでシンセサイザーが好きになりました。





デビューできたのは踊りがよかったから!?




――バンドを組んだりは?

高校に入ったぐらいから友達や知り合いから頼まれて、いろんなバンドで鍵盤弾きをしてました。フュージョン系がはやっていたので、高中正義さんとかガッツリ弾かされて。「これじゃないんだよなぁ」と思いながらも、友達と一緒にやるのは楽しかった。高校は女子校に進学し、学園祭ではガールズバンドを結成。マドンナとかゴーゴーズとか、女の子がやってかわいい感じの簡単な曲をコピーしました。学園祭の1日目は私服の衣装だったんだけど、2日目から私服禁止になっちゃって、制服でやることになっちゃったのはなんか悲しかったな。



――歌は歌っていなかった?

歌ってない。音楽は好きだけど、曲を作ったり楽器を弾いたりする人がカッコいいと思ってたし、そういうクリエーティブなことのほうが自分らしいと思ってたから。そもそも歌った経験がないからどうやって歌えばいいのかわからなかった、というのも正直なところだけど。

歌うことになったのは、高校時代からレコード会社の人と知り合いになる機会があり、「デモテープ作ってあげるから歌ってみない?」と誘われたのがきっかけ。プロのスタジオでデモテープって、なかなかできない経験で、なんかうれしいじゃない? それからライブでも自分で作った曲をちょいちょい歌うように。

そうこうしているうちに、あるライブで「今日はえらい人が来ていて、その人がOKを出したらデビューできる」と。へぇ、と思いながらライブが始まったら、最前列にめっちゃノリのいいおじさんがいて。私もそのおじさんに向けてノリノリで踊ったら、合格しちゃった。その白髪で紺色ブレザー姿のおじさんが「えらい人」だったの(笑)。受かった理由が「歌はまだまだだけど、踊りがよかった」。踊ってよかった~!って(笑)

そしてデビューが決まりました。「芸名どうする?」って聞かれ、何も考えてなかったけど「Charaでいいんじゃない?」って。個性的だけど覚えやすいし、何より呼びやすいしね。




――1991年、「Heaven」でデビューしました。

わからないことだらけで、正直、いやなことも結構あったかな。たとえばインタビューを受けるのも初めてで、今みたいにちゃんと話せないし、きっとプロのインタビュアーが引き出してくれるものだと思ってた。プロのデザイナーも、多くを言わなくてもちゃんとデザインしてくれるものだと思ってた。でも、どうもそうでもないぞ、と。ちゃんと言わないと伝わらないし、ときにゆがんで伝わっちゃうこともあると知りました。あとは、若かったからちょっとセクシーめいた雑誌から取材されたり。「なんか違くない?」っていうことは少なくなかった。91年はバブルの真っただ中、おもしろい時期だったけど、調子のいい人もいっぱいいたからね。

だから、イヤなことはイヤだって言うようになった。ときには泣いて訴えたことも。業界のよくないイメージや習慣みたいなものを、ちょっとずつでもいいから変えたい。そう思ったんだよね。








 

デビュー25年「今、自分の声を鍛えはじめている」



25年間、変わることなく「愛」を歌い続けてきたChara。
音楽、女優、結婚、出産、子育て、離婚、そして今――。
その半生と、ようやく見つけた「本当の声」とは。




グリコちゃんなら演じてみたいと思った



――ミュージシャンとしてだけではなく、「PiCNiC」(96年)、「スワロウテイル」(同)と、女優として映画にも出演されました。監督の岩井俊二さんとの出会いは?




PiCNiC [完全版] [Blu-ray]





岩井さんが監督した「フライド・ドラゴン・フィッシュ」というテレビ映画のエンドロールで、私のファーストアルバム「Sweet」に収録されていた「Break These Chain」という曲を使いたい、と。それがきっかけで「スワロウテイル」に出演することに。でも、いきなり大作映画は不安だろうと、「PiCNiC」というショートムービーを経験させてもらうことになったんです。

なんで私を演者として使おうと思ったのか、その理由は岩井さんに聞いたことがないからわからない。でも、「スワロウテイル」の絵コンテは、私の3枚目のアルバム「Violet Blue」を聴きながら描いたと聞きました。



――演じることへの戸惑いや難しさはありましたか?

セリフが中国語だったのは難しかった。長いセリフのときは「代わりに歌わせて!」とかは言ったかも(笑)。でも、私が演じたグリコちゃんは私と同じ歌手だし、娼婦という役どころも大きかった。若いころからゴダールの映画に出てくる娼婦に憧れていて、「無償で与える愛」にも興味があったから。グリコちゃんは、まさに娼婦で愛する人のために歌を歌う役。それなら演じてみたいし、演じられるような気がした。それはあったかもしれないですね。



――驚いたのが、「スワロウテイル」の撮影は、長女SUMIREさんを出産された直後だったとか?

そうなの! 「スワロウテイル」の撮影予定の前の年、「PiCNiC」の撮影で恋に落ち、身ごもり、妊娠7カ月で入籍。出産してドラえもんみたいにパンパンになっちゃったから、実は「スワロウテイル」の撮影は、私の「痩せ待ち」をして始まったんです(笑)。

あのころは仕事も子育てもめちゃくちゃ大変だったけど、迷いはなかった。子どもができて楽しいし、お母さんになれてうれしかったし。音楽でもいろんな人とセッションして、もっともっといい曲を書きたいと思ってた。「まだまだこれから!」という前向きな気持ちが強かった。ただ、妊娠したとわかった直後は辛かった。公表できなかったから。





途中で中断した伝説の武道館ライブ



――妊娠判明の直後にあった94年の武道館ライブは、ライブが途中で中断するなど、ファンの間では伝説になっています。そのライブがドキュメンタリー映画となって、先日公開されました。

妊娠がわかったのはライブの2日前ぐらいだったような気がしていたんだけど、あのときのツアーメンバーによると「ライブの日の午前中に病院に行ってわかったんだよ」と。

あれ、当日だったんだって。メンバーは私の様子がおかしかったこともよく覚えていて、普段ライブの前は何も食べないのに、「あの日のChara、直前までハンバーグ食べてたし」って(笑)。

なにか食べなきゃ、体力つけなきゃ、って思ったんだろうね。衣装もとても妊婦が着るようなものじゃないし、パフォーマンスでジャンプもするにはするけど、母性が芽生えたのか途中からだんだん保守的な気持ちになっていって。そんな自分がイヤでパニックになっちゃったんです。

それでお蔵入りになっていた映像が、今回22年ぶりに解禁。自分のことだからそうそう驚かないだろうと思ってたけど、大画面で見て久々に口があんぐり開きました(笑)。今なら「イエーイ、ママになれたよ!」って堂々と言えるんだろうけど、当時はそれが許されなかった。その業界の常識みたいなものがイヤで、それから色々変えていったんだけどね。



――出産後の97年にリリースした「Junior Sweet」は、ミリオンセラーを記録する大ヒットとなりました。妻となり母となり、創作活動に変化はありましたか?

独身のころは、好きなときに曲を作っていたけれど、特に子どもが小さいときはそれじゃあダメだと思った。実は自宅でヘッドホンしながら曲作りをしていたら、旦那が「子どもが泣いてるよ」って。お前が見ててくんねーかなと思いつつ(笑)、やっぱり慌てて子どものところに行くじゃん。そのとき、どっちも中途半端だと思ったの。子育ても音楽も。そして、曲作りは「行ってきます」と家を出てから「ただいま」と帰ってくる間だけでやる、それができなければ音楽をやる資格はない。そう自分で決めました。
 
作品を作る上で大きく変わったのは、詞かな。

以前の私は、人と同じことはしたくなくて、誰もが使うような言葉をあえて避けてきた。でも、子どもがゼロから言葉を覚えていくのを近くで見ていて、シンプルな言葉が持つ力に気付いたんです。そこらへんに落ちている言葉にどんどん興味が湧いてきて、使える言葉の幅がグンと広がった。そして、自分の言葉に責任を持つようになりました。言葉って、一度出したら戻せないからね。




25周年のベスト盤



――デビュー25年を迎えた今年は、「Junior Sweet」のリマスター盤をリリースし、その全国ツアーを開催。映画「スワロウテイル」の劇中バンドであるYEN TOWN BANDも復活し、さらに11月には25年の集大成とも言えるオールタイムベスト「Naked & Sweet」を発売しました。

25年ってありがちだから、26年でもいいんじゃん? とかも思ったんだけど(笑)、25年をきっかけに懐かしい友だちに会えたり、その仲間たちと一緒に作った曲をじっくり聞き返したりできた。それは純粋にうれしかったですね。それに25年を振り返ることで、自分について気づくことがあったり、自分自身に影響されたりした。それは発見だった。

ベスト盤は3枚組で、1枚目がデビューから結婚、SUMIREちゃんが生まれるまで、2枚目が「スワロウテイル」から「Junior Sweet」、そして息子が生まれるまで。3枚目は離婚後も含めてこれまで、と、もうまさに私の半生そのもの。おもしろいのが、子どもが思春期に差し掛かってきたことで、3枚目に収録されている最近の曲に、私が忘れかけていた思春期を感じさせるものが多いんです。なんだか回ってるなぁ、と。それもまたおもしろくて。


Naked & Sweet(初回生産限定盤) CD+DVD, Limited Edition



――オールタイムベスト、どんなふうに聴いてほしいですか?

同世代の方には自分の思い出や人生と重ね合わせてもらうのもいいし、「ママが聴いてた青春の歌。歌詞カードに印つけといたから」みたいな感じで(笑)、親子で楽しんでもらってもステキ。25年分で曲数も多いので、聴く人それぞれの気分やシチュエーションでチョイスし「渾身(こんしん)の1枚」を作ってもらっても。そうやって愛する人や大切な人たちとシェアして、同じ時間を過ごすときに役立ててもらえたらいいな。愛を歌った曲ばかりだから愛の告白にも使えるし、活用法いろいろです。




やさしいミドルボイスを使えるようになりたい




――まもなく50歳。女性としてその年齢になって感じることは?

折り返しは過ぎたけど、その分豊かになってきた部分は多いと思うし、老いていくことにちょっぴり楽しみも感じていて。たしかに若いころにはなかったひざ肉が増え(笑)、生足はきつくなったけど、だったらいいストッキングを探せばいい。コスメもそうだけど、年相応にアイテムを増やすのはアリだし、それも楽しいと思うんです。

それに最近、よく笑ってる気がする。「わはははは!」って豪快に。笑うと目元にシワはできちゃうけど、それもいいじゃん。そんなこと気にする男なんて興味ない!(笑)。いくつになっても恋愛はしたいけど、誰でもいいって訳じゃないからね。恋愛でもなんでも、人がなんと言われようが怖がらずに挑んでいきたいよね。




――年を重ねたからこその豊かさ、それは音楽にも生きている?

生きると思う。歌を歌う「楽器」としては結構ビンテージものになってきたけれど、この5年ぐらいで、この楽器を上手に鳴らすにはどう歌うといいかがようやくわかってきた気がするんです。そんな中で、私の本当の声ってもうちょっと優しいミドルボイスなんだ、と。個性的な歌い方でデビューして、誰からも歌い方を教わることなくここまできたけれど、年齢と経験を重ねてようやくそのことに気づくことができた。

これからも歌い続けていくならば、そのミドルボイスを使えるようになっていきたい。実は、昔から時々お世話になっているボイストレーニングの先生がいて、つい先日のレッスンで「私はこれから『本当の私の声』を探したい。それに向けてのレッスンを手伝ってほしい」と伝えたら、「それを待っていた!」とめっちゃ感動してくれて。デビュー25年を迎えた今、自分の本当の声を鍛え始めてるんです。


先人たち、先輩たちの歌を聴いてグッとくることがある。目指しているのはあそこ。その領域に仕上がるのは……いつだろうね? 

自分でもその日を楽しみに歌い続けていくつもり。






Chara

1991年、シングル「Heaven」でデビュー。
1996年、岩井俊二監督映画「スワロウテイル」に出演、劇中のバンドYEN TOWN BAND のボーカルとして参加したテーマソング「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」が大ヒット。
1997年のアルバム「Junior Sweet」は、100万枚を超えるセールスを記録。
この頃からライフスタイルをも含めた“新しい女性像”としての支持も獲得。
2015年、伝説のバンド「Yen Town Band」 が復活、ライブ・楽曲制作が始動。

2016年、デビュー25周年を迎え、「Junior Sweet」のリマスター盤を9月に、オールタイムベスト「Naked & Sweet」を11月にリリース。



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Naked & Sweet



Charaオフィシャルサイト: http://charaweb.net/















リップヴァンウィンクルの花嫁