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火曜日, 6月 21, 2016

ボクたちはみんな大人になれなかった |第二部

 

 

ボクたちはみんな大人になれなかった

 

#1

アイツが仕事をやめるとき、〝勝手にしやがれ〟とラジオDJは言った


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――
フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部がはじまります。






ラジオからDJが、英語なまりの低いバリトンボイスで恋を語っている。
「恋愛とは、から騒ぎだ。つまり中心には何もない。どんなにお手軽な恋愛だろうが、どんなに運命的な恋愛だろうが、それは、から騒ぎだ。つまり答えはひとつ〝勝手にしやがれ〟。そしてすべての音楽は、そのBGMとして寄り添っていくでしょう。曲はUAで『数え足りない夜の足音』」

カーラジオから流れ始めた歌声が車内に充満して、窓から見える風景を少しだけ変えた。 アシスタントが運転するワゴン車の後部座席で、ボクは27時間ぶりの睡眠をとろうと横になってウトウトしていた。とにかく今週、来週の休みは合計しても9時間もない。

この車で煙草は吸うなとあれほど言っておいたのに、アシスタントはまた匂いの痕跡を座席シートにびっしりとこびりつけていた。くっせえ。その時、車は急なカーブをきった。
うずくまっていたボクの三半規管が明らかにエラーを起こす。

「あと少しで着きます」アシスタントのぶっ切らぼうな声が聞こえた。
「くせえよ」ボクの文句に返答はなかった。



ほどなくワゴン車は、東横線中目黒駅の高架下の脇に停まった。
立ち食いそば屋の前でカチカチカチとハザードを灯す。

「もう、来てらっしゃいますね」とアシスタントは後部座席のドアをスライドさせた。
ボクは横になったまま、外の空気に身を縮めた。3月の中旬だっていうのに風は冷たくて、春の兆しなんてまったくなかった。

「おぉ、忙しいのに悪いねぇ」
 
ドアが開くなり金髪坊主の関口が声をかけてきて、ワゴン車に乗り込んできた。パジャマみたいなTシャツにジャージ姿のボクは、体を起こして彼のスペースを空ける。
「おつかれさまです!」アシスタントがボクには絶対にかけないテンションで関口に挨拶をした。ここまでわかりやすいと、どうでもよくなる。

180cmある長身に細身の黒のスーツに黒のシャツという出で立ちは、昨日まで昼間の仕事をしていた人間とは思えなかった。

「おつかれ、それで関口、いつ東京離れるの?」ボクは眠気を押し殺して聞いた。
「最短で今月末」そう言いながら関口は細い煙草に火をつけた。
「禁煙、ここ」ボクはその煙草を取り上げ、飲みかけだった缶コーヒーの中に投げ入れた。
「おまえもな」続けざまに、サイドミラーごしにアシスタントをたしなめる。



関口は、18年と8ヶ月一緒に働いた同僚だった。唯一の同期であり戦友だった。18年と8ヶ月前に社長含めて3人だった会社はこの期間に27名に増えていた。

時計は午前5時10分をさしている。次の打合せがほぼ1時間30分後。ボクはもう一度、火をつけようとしてる関口の煙草を取り上げて、出会った頃の話をしはじめた。
薄暗い車内で18年と8ヶ月の思い出を90分で話さなければならなかった。

霧雨が降っている。アシスタントがワイパーを起動させた。めずらしく気を利かせたのか、ラジオのボリュームを少しあげた。



雨が段々と強くなってきていた。ワイパーが活躍している。中目黒の駅で雨が上がるのを待ってる女性が、手をかざしている。
関口は、これが最後とは思えないぐらい下らないゴシップを語り始めた。座席が揺れるほど二人して笑った。アシスタントは呆れ顔で、たまにチラッとサイドミラーで目が合ったが、後はだいたいスマホをいじっていた。

「スー、きれいだったな」
 関口は、クラブ『REQUIEM』のバーテンダーの名前を出して、ボクを小突いた。
「あいつ、何してるかな」とボクは、ゴールデン街の『BAR レイニー』のオーナーだった七瀬の名前を出した。

「あ、あとアイツ、初日に昼メシ買いに行かせたらそのまま金持っていなくなった伊藤」
「伊藤タダシ! いた! 平成の世の中に向いてねーよなぁ」

ふたりで手をたたいて爆笑した。

「それに、真田だろ」ボクのその一言に関口の笑い声が消えた。
 車からすぐの立ち食いそば屋に入っていくサラリーマンを、ふたりして眺めていた。

ボクは当たりさわりのない言葉を口にした。「いろいろあったね」
「いろいろあるだろ、そりゃ」関口が口を開く。

ワイパーは、もう雨を処理できなくなっていた。打ちつける雨と行き交う車のヘッドライトで、外の風景はにじんで見えた。
ラジオから聴こえるDJの声とカチカチカチという規則正しいハザードの音だけが車内を満たしていた。




DJがまた英語なまりの低いバリトンボイスで、人の出会いの不思議について語っている。

「永田町の国会図書館には日本の出版物がすべて、保管されています。文芸誌から漫画、ポルノ雑誌まですべてです。私たちがあと50年生きるとして、1日1冊ずつ読んだとしても読みきれぬ量の出版物がすでに保管されているのです。一方、世界の人口は60億を超えて今日も増え続けています。私たちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間も残ってはいません」
 
そしてFMからビルボードを賑わせてるヒットチューンが流れ始めた。

確かにそうだ。今日の昼間に、渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことは二度とない。 関口とこうして肩を並べて話すことも、もう二度とないだろう。

ラジオからは続けて、南米の甘いラブソングが流れ始めていた。どこかの化粧品会社の夏のCMで使われた曲で、聴き覚えがあった。アシスタントがハンドルをリズムに合わせて指で弾いている。

恋愛だけじゃない。この世のすべては、〝から騒ぎ〟なのかもしれない。ラジオから流れる暑い国の歌は、言葉は分からないけれど、男女の別れを歌ってるように感じた。

関口との18年と8ヶ月。バーテンダーのスー、『BARレイニー』のオーナー、七瀬。そして真田。一つの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた。



人波に巻き込まれて不意に押してしまったこの状況をまだ受け入れられない自分がいる。言葉がまだ見つからない。何体もの亡霊が、立ち尽くしたボクの周りをすり抜けていく。

ボクは時間が止まったように〝友達リクエストが送信されました〟の画面を眺めていた。



 モデル:瀬戸かほ

 

#2

東京という街に心底愛されたひと


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部がはじまります。
横殴りの雨がさらに勢いを増し、ワゴン車を打ちつける雨音が不規則なリズムで車内に響いていたメールの募集をした後に、関東地方に大雨注意報が出ていることを告げていた。



「こんなに朝っぱらからよく食欲あるもんだよなぁ」

立ち食いそば屋で、そばをかっ込んでる大学生風の若者二人を見て、関口は感心している。

「しかしあの店員の髪型やりすぎだろ?」
「そうやって人の髪型いじるの、ホント悪い癖だよおまえ。この金髪坊主が!」

山手通りの交通量が明らかに増えてきていた。東京都江戸川区の“新米主婦”からのリクエスト曲、DREAMS COME TRUEの『決戦は金曜日』がラジオから聴こえてくる。

「あれ、今日って金曜日だっけ?」若者のかっ込むような食いっぷりに目を奪われながら関口は声をかけてきた。
「火曜だよ」
「だよなぁ」関口がこちらを向いて話しかけてくる。

「おまえ、スーのことまだ覚えてるよな?」
「そりゃまぁな」
「あの夜の東京、俺は忘れられないわぁ」
「えげつなかったね、いろいろと」
「いやぁ実に若かったねぇ。また六本木くり出しちゃう?」
「ぜっったいにイヤだね」

そう言いながらボクは、悪い意味で色褪せない、美しすぎたひととあの下品な夜たちを思い出していた。

 それは今から12年前の2004年の出来事だ。





その夜は、六本木のクラブ『REQUIEM』で飲んでいた。そこは3層構造のフロアの最上階で、絵に描いたような「ザ・VIPルーム」というやつだった。
都内でコンセプトの違うカフェやクラブを12店舗経営してるサファイヤプロモーションの10周年記念イベントで、そのオープニング映像を制作したということで、ボクらはその打ち上げにお呼びがかかった。



あの頃、関口はちょっと放っておけない状態にあった。
完全に仕事がキャパを超えていた。ボクも同じような仕事量だったけれど、生放送をメインに組まれていた関口の方がプレッシャーは途方もなかったはずだ。絶対に遅れるわけにはいかない仕事を、彼は一日に3番組は抱えていた。
昼間にふたりして睡眠薬1錠を割って、缶ビールを買ってきて半分ずつにしてよく飲んだ。夕方にその儀式を、関口一人でもう一度やっているのに気づいたのがその頃だった。少し頭をボゥとさせて仕事に臨まないと精神的に持たない感じの現場だった。

だからその日は、いつもは縁がない類いのパーティーに、関口と担当した女性デザイナーを連れ出して、気晴らしかたがた参加することにした。

下々の制作会社をこんなド派手なパーティーで労ってくれるなんて、と最初はすこし感動しかけていたけど、そんなほっこり気分はすぐに吹き飛んだ。
大仰な装飾がほどこされた鉄の扉と黒服のセキュリティの奥に隠れたその部屋は完全な防音で、ダンスフロアの喧騒が嘘であるかのような驕り高ぶった空気に満ちていた。
革張りの黒光りしたソファに座れば、マジックミラー越しに、階下でうごめく一般客を足を組んで見下ろせる。テーブルには、宝石みたいなシュリンプカクテル、ローストビーフ、なぜだか寿司などが銀のプレートに大量に並んでいた。

関口はその冗談みたいに悪趣味なVIPルームがツボに入ったらしく、ギュウギュウの一般客を眼下に見ながら「うわぁ、なんか東京だよね〜、この景色」と分かりやすく浮ついていた。そんな関口を見るのは久々で、ボクはホッとしたのを覚えている。

部屋に備え付けられてるモニターから会場の模様が流れ始めた。

「では、ここで本日の主役、サファイヤプロモーション社長、佐内様の登場です!」

フロアは暗転してボクらが2週間徹夜して作ったCG映像が流れ始めた。煽り映像に乗せられて客が一斉にカウントダウンを始める。関口もフロアの観客と一緒にものすごい大声でカウントダウンを始めている。
ボクと女性デザイナーは、この居心地の悪さに早くも辟易していて、抜け出すにはどうしたらいいかをさっきから声を潜めて話し合っていた。
「今、じゃないですか?」女性デザイナーが小声でボクに耳打ちしてきた。
「よし、抜けよう」
中腰になった瞬間「お座りください、のちほど佐内様が直接ご挨拶をさせて頂きたいとのことですので…」とグイッと両手で、ソファに押し戻された。
それがバーテンダーのスーだった。

スーは、涼しげな目と黒髪のショートカットが印象的な美女だった。細身のわりに胸の膨らみが良く分かるタイトな白いシャツを着ていた。
ボクはこの手のタイプの子と話がまったく合わないし、見下すような視線を勝手に感じてしまうので正直、心底苦手なタイプだった。

「何かお持ちしましょう」彼女の言葉にすっかりくじけたボクは、「なんでもいいです」とぶっきらぼうに答えた。
ビヨンセの『Naughty Girl』あたりがずっと流れてるVIPルームでため息をついて、自分たちも一役買った熱狂が収まるのを待つ。レーザー光線がこの部屋の天井にも反転して映っていた。フロアの度を越した熱狂が、モニター越しでも伝わってくる。

スーがなめらかな手つきで、薄張りのロンググラスに厚めのライムが沈んだドリンクを持ってきた。ボクはあんなに美味しいジンリッキーを、あれ以来どこでオーダーしても飲めた試しがない。
常温の希少価値の高いジンと冷凍保存したジンの2種類を微妙に調整して合わせて作る彼女のジンリッキーのレシピは、後から教えてもらったのだけど、絶対にあの時の味は再現できなかった。一口目を飲む瞬間に、ふわっと弾けるような爽快な香りが鼻にぬける。氷はなめらかでどこにも角がなかった。



関口も騒ぎ疲れ、ボクと女性デザイナーが3杯目のジンリッキーを飲み干し、少しアルコールが回った頃に、サファイヤプロモーション社長、佐内が現れた。美しい20代前半の女性を5、6人従えて。

「今日はお忙しい中、ありがとうございますぅ!」

多分、日焼けサロンで焼いたであろう小麦色の肌、オールバックの髪型。どこをとっても50才を越えているとは思えなかった。前歯全部を、紙が貼り付いたように白い差し歯にしていて、ニンマリ笑いながら握手を求めてくる。
笑いながら話しかけてくる人間に善人はいない。それがボクのいくつかある座右の銘のひとつだ。

テレビで見かけたことのある有名なファッション誌の編集長が佐内のところにすり寄っていった。何人かの誰でも知っている女性アイドルの名前を出していた。佐内がそのファッション誌でやってる対談コーナーのゲストを、にやにやと笑いながら立ち話で決めていた。



会社自体が、来る仕事をなんでも受けなきゃいけなかったあの頃、ボクの下品な種類の人たちは、この東京という街に心底愛されていた。つまりボクは、あらゆる欲望とネオンに照らされたこの東京という街が心底苦手だった。

サファイヤプロモーションは、そのパーティーからほぼ6年後に脱税事件を起こし、佐内は失脚する。その後、裏で何種類もの風俗産業の経営者だったことを週刊誌に暴露され、表舞台から一旦は消える。しかし脱税事件での逮捕は免れ、佐内は介護ビジネスの新規事業を開始。業界でまた風雲児と呼ばれる存在になっていく。
ボクにとって生理的に受け付けない、東京に溺愛されたタイプの人間は、呆れるほどしぶといという特徴もあった。

あの夜、ボクたちに短くお礼を言って回った後、佐内は延々と若くて美しい女たちに自慢話を続けた。アルコールが回ってきた佐内は貼り付いた笑顔のまま、女たちに高圧的な質問をぶつけ始める。

「おまえは今日、俺と寝れるか? 5秒以内に答えてみ。よーいどん!」

一人の20代前半であろう美しい女に指をさして問いかけた。 ニヤケ面で興味を隠せない関口の横で、ボクは思わずそのやりとりを真顔で追っていた。そこにいた他の人間は、それがいつものことなのか何もなかったように雑談を続けていたし、ボーイは忙しそうにカクテルを運んでいた。

「え! っていうか逆にチョーうれしいかも」

その女は間髪入れずにそう答えて、周りの女たちと手をたたいてカラ笑いをしていた。
そのやりとりの最中、スーが耳元で「もうすぐ、佐内社長がサプライズでDJをやりに席を立ちます」と言ってきた。
しばらくして佐内が、スーに呼ばれて下のフロアに消えていく。彼が扉を閉めた途端に残された女たちが全員、携帯電話のチェックを始めた。女性デザイナーは気づくとカウンターの隅っこで、さっきの雑誌の編集長に口説かれていて、まんざらでもなさそうだ。関口は、またしてもダンスフロアを眼下に見ながらグラスを持って踊りはじめている。ボクは彼らを置いて、この特殊な空間を抜け出すことにした。

細い廊下を抜けて曲がりくねった階段を早足で下りる。エイリアンに捕食されているような激しいキスをしている白人男性と日本人女性の横を通り過ぎる。
何人かの知人が声をかけてきた気がするけど、曖昧な返事でやり過ごし、とにかく出口を目指した。

裏口の関係者専用の鉄の扉を開けて、やっとの思いで六本木の街に解き放たれた瞬間「ふぅう—っ」と大きく息を吐いた。
六本木交差点を目指して歩き出そうとしたその瞬間、背中から突然呼び止められた。

「そんなにつまんなかったですか?」

思いがけない声に振り返る。するとそこには誰の言いつけか、眉間にしわを寄せたバーテンダーのスーが立っていた。

あの猥雑な空間から飛び出して、六本木の路上に降り立った彼女は、街灯に照らされた影まで造り物のように美しく見えた。
彼女の後ろに東京タワーの赤が滲んで見える。

ゆっくりとにじり寄るスーに、僕は思わず後ずさる。冷めた大きな瞳が美しい。ソファで引き止められた時のようにそのままボクを鉄の扉に押し付けると、彼女は耳元でイタズラっぽくささやいた。

「あなた自分がどんな顔してるか知ってる?」

金縛りにあったように体が動かなかった。彼女の吐息からアルコールの甘い匂いを感じながら、視線をさまよわせた。彼女以外の人間は背景に溶けて存在が消え去る。

「死ぬほど退屈だ! はやく帰りたい!って、大きく顔に書いてある」

「それ褒めてないですよね」かろうじてそう切り返しながらも、ボクは彼女の放つ妖艶な気迫に動けないでいた。

「いいの。今夜もまたつまらない夜になると思ってたから」

ただひんやりとした鉄の扉を背中全体で感じていた。彼女はこの東京の支配者に見えた。

「あの部屋で、あんなにつまらなそうにしてる男、初めて見かけて笑っちゃった」

鼻と鼻がぶつかりそうな距離に彼女の顔が近づく。吸い込まれそうな瞳の奥に六本木の点滅する灯りがチカチカと映る。男モノの香水の匂いが彼女の鎖骨付近からする。その匂いをかいだ瞬間、ボクの脳のドコカのスイッチが押された。
彼女の腰に手を回し、力任せに体を反転させる。今度はボクが彼女を鉄の扉に押し付け、鼻と鼻が当たりそうな態勢になった。

「ねえ」彼女は小さくつぶやく。

スポーツカーが猛スピードで闇を切り裂く音がこだました。

ボクが顔を近づけようとした瞬間、スッと彼女が手のひらをボクの顔にくっつけ、「ねえ」ともう一度つぶやいた。
「はい?」なんて言って、彼女の右手の手のひらを払って、もう一度迫ろうとした瞬間に今度は彼女の左手の手のひらが、ボクの顔にくっついた。

「ねえって」

「ん?」

「ミクシィやってる?」

 そう言うと彼女は目を細めて、ニッと笑った。遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。




モデル:瀬戸かほ



 

#3

彼女が他の男に抱かれてる90分は、永遠みたいに長かった


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。



「ちょっと雨、おさまったかもなぁ」

関口が車の窓を少しだけ開けて、外に手をかざした。アシスタントも外を見やると 、ワイパーを止めた。
中目黒駅は、朝のラッシュが始まろうとしている。若いサラリーマンが畳んだ傘を持って走っているのが見えた。

立ち食いそば屋の自販機もサラリーマンが数人並び始めていた。忙しそうに従業員が仕事をこなしている。

「スーとはなんかあったの?」関口は黒いイカツイ革靴を脱いであぐらをかくと、ボクの顔を覗き込んだ。
「何も」
「何も?」
「何も」ボクはできるだけ真面目な表情を心掛けた。
「俺には1回だけやらせてくれたけどなぁ」そういうと関口はゲラゲラ笑った。

「そっか」別に動揺はなかった。文字通り、本当に、スーにとっては「1回やらせてあげただけ」なのはわかっていたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。嫉妬するようなことでもない。スーの人となりを思い返せばそんなことはわかった。そう思いつつ、ニヤケ顔の関口の後頭部を引っ叩いた。




初めて会ったあの下品な夜。ボクは彼女に〝何も〟できなかった。
彼女は『REQUIEM』の名刺にアドレスを書いて、すぐに鉄の扉をあけ、またあの喧騒の世界に戻っていった。
ボクは夢(悪夢だけど)のような時間を振り返りながら東京タワーに向かってあの夜、ホテホテと歩いた。あのあと泥酔した関口が、VIPルームの革張りのソファーで大の字で眠ってしまい、六本木の街に放り出されたこと。女性デザイナーがあの雑誌編集長にうまいこと口説かれ、お持ち帰りされたこともあとから知った。



スーのmixiのページは、完全に偏っていた。彼女はホラー映画のコミュニティーに軒並み参加していて、なんならいくつか主催していた。誰も知らないような海外のB級作品から最新のハリウッド映画まで、突飛な意見をぶちまけていた。彼女が書いていた日記を読んでいくと、同じホラー映画を5本ばかり、毎日ローテーションで観ていることが見て取れた。

なんで、同じものばかり観るの?と聞いたことがある。すると彼女は「観続けるとね、どんな怖いものも慣れるんだよ」と言ってニッと笑っていた。
数ヶ月が経った頃だろうか、ボクのページの〝足あと〟は、彼女に踏み尽くされるようになっていた。その頃、負けじと書いてた世迷い言だらけの長文映画レビューをまともに読んでいたのは彼女だけだろう。
しばらくすると彼女から電話番号だけが書かれたダイレクトメッセージが届く。ボクが慌てて電話をすると「ねえ。渋谷の『bar bossa』ってお店、わたし好きなんだけど、今度行かない?」と、スーは言った。「ロイヤルホストでシーフードドリアを食べてもいいし、そのお店でもいいし、はい」なんて動揺して0点の答えが口をついた。「やっぱり、あなた変わってるね」





最初のデートは、本当に渋谷のロイヤルホストのシーフードドリアだった。
そのあと、ふたりでボーリング場に行った。ボクが彼女に観てもらいたくて『バッファロー’66』に関するレビューを長々と書いた時期だった。
深夜のボーリング場は閑散としていた。一投目でピンを1本残した彼女は、振り向きざま、『バッファロー’66』の中のクリスティーナ・リッチのモノマネをして、ゆっくりとタップを踏んでこちらを見て「どう?」って顔をした。



彼女と落ち合うのは大体、午前3時過ぎ。お互いの仕事が終わった後だった。彼女がシラフだったことは数えるほどだったと思う。
待ち合わせ場所はいつも、クラブ『REQUIEM』の出口からちょっと行った、ひと気のない駐車場だった。体育座りでフェンスに寄りかかっているラフな私服の彼女は、どこにでもいる女の子に戻っていた。音楽に夢中のスーの肩を、ポンポンとたたく。すると彼女はイヤフォンを一つボクの耳に突っ込んでくれた。宇多田ヒカルの『Automatic』が途中から流れた。

「あのさ、スーって本名はなんていうの?」
「スー」
「だから、本名」
「スーだって」
「そんな人間いるかよ」
「ここにいるわよ」彼女はそう言って笑った。
 たしかにあの時、彼女はそこにいた。

彼女の部屋は五反田の風俗街の脇にあった。
6階建ての最上階で、ウイークリーマンションのような簡素な内装のワンルーム。テーブルの上にティッシュボックスがひとつあった。無印良品のベッドの横に小さいプラスチックのゴミ箱。湯沸かし器と電話機はコードがこんがらがったまま、無造作に床に置かれていた。やけに大きなテレビがあって、部屋の隅には背丈の低い木製の本棚があった。そこに女性誌と少女マンガとDVDがごっちゃに入っていた。

突然の告白は、その部屋に2度目に行った時のことだった。

「このマンションね、住んでる女の子、全員風俗やってるの」彼女はそう言うと、紅茶のティーバックを入れたままのマグカップを「熱いよ」と言って渡してくれた。

「ん? スーもってこと?」ボクはそれを受け取りながら聞き返した。
「うん」彼女はニッと笑って熱すぎる紅茶をフーフーしながらすすっていた。
「お金が足りないの?」率直に失礼なことを聞いてしまった。
「うーん、それもあるけど年からいってもあと2年以内に海外の舞台に立ちたいの」
 彼女はそう言うとちょっとだけ真面目な顔になって、相当ショックなことを言った。
「佐内にこの仕事、紹介されたんだよねえ」
「え、何それ? どういうこと?」
「家賃も、英語のスクール代も、ダンスのレッスン代も出してもらう代わりにこの仕事を引き受けたの」
「えっと……なんで? マジで俺には謎だそれ」
「うんと彼はね、自分の女が他の男に犯されてるのを聞きながらスルのがスキなのよ」
 
彼女はその時、別に悲しい顔などしなかった。何度も説明してきた自分の将来の夢を話すかのように、ボクにそれを告げてから「でも彼のことは好きなんだよね」と言って笑った。



その瞬間なぜか、ボクは佐内がVIPルームで「あとでブラックジャックやろう、商品はこの子たちだよお」と引き連れてきた若い女性たちのひとりの胸を人差し指で押しながら高らかに声をあげて、周りの堅気でない風情の客たちが爆笑しながらシャンパンをあけている図がフラッシュバックしていた。
 ボクの社会に出てからのコンプレックスは、主に佐内によって作られている。

「さっきコンビニの入ってるビルの横に風俗の案内所あったでしょ?」
「あ、あった」ボクは、なんとか平静を保とうとしながら答えた。
「あそこで受付して、指名した女の子とコンビニで待ち合わせして、この部屋でプレイするの。おもしろいっしょ……? リアルってやつ?」





彼女が副業でやっている自分の部屋を使った風俗の形態は、風俗業界でもモグリの違法だった。後に週刊誌などによってまことしやかに報道された記事によると、六本木と渋谷で佐内は会員制高級売春クラブも経営していた。現役のグラビアアイドル、モデルなども在籍していたとの噂は今でもインターネットの掲示板から消えることはない。もちろん、真相は今もってしてもすべてが藪の中だ。

次の瞬間、電話がけたたましく鳴った。
「ほらね」
 プレイ時間と客の外見を慣れた感じで聞き取りながら彼女は、それらをPHSに打ち込んでいった。
「はい、じゃ向かいます」そういうと電話を切り、スーはこちらを向いて、イタズラっぽく舌をちょっとだけ出した。

「びっくりしたでしょ?」
「いや」
「いや?」
「ていうか」
「ていうか?」スーは逃がしてくれなかった。
「いや、ていうか驚きはした」ボクは目を反らさないように注意を払った。
 
彼女はデニムのジャケットをはおり、身支度を始めている。
「今からコンビニでお客と待ち合わせをして、90分間、ここ使うことになったから」
「あぁ……」
「終わったら電話するね!」彼女は、何もなかったかのように普段通りの笑顔だった。

急いで身支度をして、一緒に部屋を出た。
「あ、机の上に紅茶置きっぱなしだった…」とボクが言うと「大丈夫、そっちの方がみんな好きだから。リアルってやつ?」
「そう……」
 彼女は最後にまたニッとした。

エレベーターの中でスーは、点滅する数字を見ながら腕を組んできた。エレベータが開くと「じゃね」とこちらも向かずに言うと、スッと腕を解いて歩きだした。腕時計を見た。ボクは時間を確認して顔を上げると、もう彼女の姿はなかった。





5分ぐらいで彼女は若い二十代の真面目そうなサラリーマンと腕を組みながら戻ってきた。さっきボクに笑いかけてくれた笑顔は、今はそのサラリーマンに向けられていた。そして二人はマンションに当たり前のように消えていく。

あの部屋に灯りがつくのを下から覗いていた。10分くらいだろうか、部屋は突然真っ暗になる。

マンション横の駐車場のフェンスに寄りかかり、ズルズル腰を落として体育座りをした。ポケットに彼女から借りっぱなしになっていたMDを見つけて、イヤフォンを耳に突っ込んだ。宇多田ヒカルが流れはじめる。

彼女が他の男に抱かれている90分間は、永遠のように長かった。


モデル:瀬戸かほ

 

 

#4

さよならにだけ敏感な自分を呪った


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――
フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。




「動物園と水族館って、普通どっちが好きなのかね?」

ボクがその質問に真面目に答えようとしてるそばから「ていうか、動物園も水族館も今どき行かねえか。暑いのと寒いのどっち好きなのよ? 俺は断然暑いのだね。あー、もう来週ハワイとか行っちゃおうかなぁ」と関口は重ねた。
ボクはそのテキトーさに呆れながら、換気のために車の窓を全開にした。

「結局、佐内の愛人って10人くらいいたんだっけ?」関口はそう言いながら自分側の窓も全開にし、そのどさくさでポケットに残っていたらしいタバコに火をつけた。
「10人ってやつがいれば、50人ってやつもいたかなぁ」ボクはそう返しながら、関口の口からタバコを奪って缶コーヒーの中にまた投げ捨てた。

関口は「フーッ」と、ため息まじりのタバコくさい息を吹きかけてくる。
「ったく」ボクは舌打ちをして関口の左肩に軽くグーを入れる。
「いってー。血出てない? 折れてる? どう? どう?」関口がアシスタントに大げさにアピールし、アシスタントが苦笑いをした。




彼女の部屋から灯りが消えて、それから途方もない時間が経ったように思う。
ボクは時計を確認した。時間はまだ20分とちょっとしか経っていなかった。
フェンスがしなるほどに身を預け、ボクは今置かれている状況に頭を抱えながらつぶやいた。

「なにやってんだ俺」

90分をこんなに長く感じたことはなかった。
頭の中は整理整頓がまったくつかず、気持ちもまるで追いつかなかった。童貞の時のボクが見たらこの状況はどう映るだろうか。
発狂か? 興奮か?
いや……発狂だな。でもスーは美人だし、人気者なわけだし、こんな状況にいたっても彼女と親密なことを喜ぶのかもしれない。いやでも免疫のない頃ならこの状況は発狂しかありえないか。いや普通ならまず帰るよな? 今からでも帰るか?  いや帰るって一番彼女が傷つくやつだよ。でもこの後に普通の顔で会えるのか? いやもうそうしなきゃダメでしょ人として。
混乱した。混乱したせいで感情の引き出しが全部同時に吹き出して、くだらない考えだけをぐるぐると巡らせては、その場から動けなくなって、駐車場に設置されていた看板の注意事項を時間つぶしに読んだりしていた。

その時、ボクは関口とスーと3人で初めて行った恵比寿の居酒屋での夜の出来事を、ふと思い出していた。



「はじめて日本人が南極を目指した時の話って知ってる?」彼女はキンキンに冷えたレモンサワーを美味しそうに飲みながら、ボクらに聞いてきた。
「なにそれえ、ヒィッ、ほんとの話すかぁ? ヒィッ」しゃっくりの止まらない関口は例によって泥酔していた。
「たぶん本当。友達から聞いたもん」スーもまた泥酔手前だった。
「え、知らない」 ボクはそう答えると炭酸の効いたレモンサワーをグビグビッとやった。

「氷を割りながら船は進んでいくのです」

彼女は居酒屋の箸置きを船に見立てて話を進めていく。

「南極についた乗組員につかの間の休息が訪れますう。乗組員の奥さんから連絡が届くわけよ。日本初のメール!」
「初じゃないでしょ。だし、電報?」 デロデロに酔った彼女にボクは助け舟を出す。
「そうそう! それ。長く送れば送るだけお金がかかるやつ。それで奥さんは短く、3文字だけ送ったわけ。3文字。わたし、その話が一番ロマンチックで好きなの」

彼女はそう言うと、酒で真っ赤になった瞳から涙をこぼした。彼女は手でパタパタしながら、おしぼりで涙をふいた。

「わわ、大丈夫」
「だめ。休憩……」

そう言うと彼女はテーブルに突っ伏して動かなくなった。

「で、3文字。なんて送られてきたの?」彼女のあたまをぐりぐりやったが返答はない。

その問いに彼女はその夜、答えなかった。いや正確にいうと答えられなかった。いびきをかいてテーブルで寝始めた彼女のほっぺたをブルドッグみたいにしてもまったく起きなかった。ウーウーと言って手をはらうだけだった。
関口は畳の座敷で大の字でのびていた。

大将が、関口を指さして「いいよ、こいつ置いて帰って。冷凍庫入れとく」と言った。ボクは泥酔したスーのテキトーな指示を必死に聞きながら、タクシーで彼女のマンションまで運んだ。

その日はやっとこさベッドに彼女を寝かしつけると、ボクはそこで酔いと疲れが一気にきて、朝まで床に突っ伏して寝てしまった。それが彼女と初めて一夜を共にした日になった。

そして2度目の今日、彼女の突然の告白でボクの頭は今、完全にこんがらがっていた。



緑色が所々腐食して剥げてしまったフェンスに同化して、魂の抜け殻のようになったボクの携帯がふいに鳴った。時計をみると90分と少し経っていた。時刻は23時くらいだったと思う。

「どこ?」携帯電話ごしの彼女はいつになく暗く、怪訝な声で言う。
「駐車場のフェンス」ボクがそういうと「好きっ!」と、彼女は電話口で突然大声をあげた。
「なんだよ!」「なんでも!」彼女はすぐに外階段をすごい音をたてながら降りてきた。

降りてきた彼女に「あのさ」と一言かけるやいなやジャンプして抱きつかれた。

「なになになになになに」
「なんでも! うれしい」すごい力で抱きしめてくる。
「フェンス、長く乗れてた方がゴハンおごるゲームしない?」

スーは、ゼーゼーいいながらマンション中に聞こえるぐらい大きい声でそう叫んだ。

彼女のあんなにはしゃいでる姿を見たのは、最初で最後だった。
しなるフェンスで、グラグラと揺れながら彼女が言う。

「ねぇ、世界遺産何個言える?」
「世界遺産? えっとね、まずあれだ……」ボクもグラグラしながら答える。彼女はそのあとも矢継ぎ早に質問を連発した。沈黙なんて一切させなかった。

ボクたちはその時、気づきもしなかった。どこにでもあるような駐車場のフェンスの上で、爆笑しながらはしゃいでることが、人生の中で結構かけがえのないことに分類されるなんてこと。



あの頃ボクは、彼女が風俗で働いてることをあまり考えないようにしていた。佐内の愛人だという事実も、あの夜な夜な怪しいクラブのVIPルームで起きる下品な出来事についても、できるだけ考えないようにしていた。
ボクが何かできることなんて、一つもなかった。ただ、今夜はそこに彼女がいる。その事実にだけすがって彼女に会うようにしていた。

ある夜。スーのマンションに向かう時に、彼女は自分の仕事の話に触れた。
「やっぱりさ、いつまでも若いわけじゃないじゃん」
彼女はコンビニで歯ブラシとコンタクトレンズの保存液を買ってるボクに話しかけてきた。
「うん」
「ずっとはできないし、リスクあるからちゃんと終わりにはしたいわけ」
 彼女はそう言いながらトッポも買うように預けてきた。
「でも夢があるからさ」
「夢? 夢か。夢ね」
「こういうと引くかもしれないけど。わたし、この毎日があんまりキライじゃないんだな」
そう言うと彼女はボクの左手首を強くつかんだ。

〝ヘルス〟という文字や〝ソープランド〟というピンクやブルーのネオンがキラキラと輝く五反田の夜。 彼女の部屋にはカーテンがなかった。わざとカーテンをしてなかった。風俗街の片隅にあった部屋からは、外のネオンが天井に反射して美しかったからだ。
ボクはその天井を見ながら、彼女を抱きしめるのが好きだった。

「ねえ、石垣島と宮古島どっちが好き?」 眠る直前、彼女はポツリとそんなことを聞いた。
「んとね、石垣島」ボクは眠さがおさえられず、ほぼ両目を閉じてその質問に答えた。
「石垣島とハワイは? 本島ね」彼女の質問はその時もまったく終わらない。
「んと、石垣…」
「わたしも」

半分ベッドから落っこちていたタオルケットを足で回収してボクは本格的に眠りにつこうと思った。

「朝がくるよ、おやすみ……」 背中を向けたボクの左の肩口を、スーは一回だけ強く噛みついた。
「痛っ…」
「いつか一緒に石垣島。石垣島に住みたいね」



一度眠りに落ちたあと、明け方にボクはまどろむように目を覚ました。
湿度が高くて消毒液の匂いが混じった空気にむせ返るように起きた。ピンクとブルーが点滅するネオンに照らされた天井をおぼつかない目で見ながら、脳みそのカセットテープのスイッチが、ガッチャンと音をたてた。



ボクの祖母は静岡県の沼津で、国鉄職員相手の立ち飲み屋をやっていた。
10人入れば満杯の店で、割烹着を着た祖母は午後6時から午前1時まで立ちっぱなしで働いていた。
ボクはカウンターの内側、祖母の足元で、目の前が霞むほどのタバコのけむりと酔っ払いたちに囲まれ、祖母の威勢のいい歌を聴きながら育った。

午後4時には祖母は店に立ち、日替わり弁当を作っていた。近くの飲み屋、ストリップ劇場、風俗店への出前のためだ。ボクは小学校から戻ると、ラップでフタがされ、それぞれ届け先のメモ書きが置かれた弁当たちを配達順に並べた。そして、それらをおか持ちに入れて何度も行ったり来たりしながら配達して回った。

まだ夜の帳が下りる前の歓楽街の店を十数件、何度も行き来しながら弁当を届けて回る。
『スナック夜汽車』のマスターは口数が少なかったけど、たまに五百円札をボクの半ズボンのポケットにねじ込んでくれた。
ストリップ劇場のお姉さんたちは、みんないつも忙しそうだった。ホコリっぽい部屋の強烈な香水の匂いが、今でも鼻の奥に染み付いている。
「チビ、こっちきな」手招きされて、お姉さんのところに行くと後ろを向かされた。その日は急いでいてランドセルを背負ったまま配達をしていた。ベロンとランドセルをめくられ、中から教科書を、全部出された。お姉さんはくわえ煙草をしながらペラペラとやった。

「ん?」と彼女が声を出した。教科書がビリビリに破られていたのが見つかってしまったと思って、ボクは振り向けないでいた。その頃、ボクは酷めのいじめにあっていた。いじめられていることが、家族にバレるのが申し訳なくて、誰にも言わない日々が続いていた。あまり親しい友達もいなく、学校に居場所もなかったボクにとって、祖母から任された歓楽街を回る配達は、あの頃の生きがいだった。
そこで出会う一期一会の大人たちが、ボクにとって唯一の口きかぬ友達だった。くわえ煙草をしているお姉さんが、教科書を全部ランドセルに戻したのを背中で感じた。

「あんた、まだ何軒も回るの?」
「……はい」恐る恐るボクは答えた。
「じゃランドセル置いてきな、後で勉強教えてあげるから。帰りに寄りな、私にもあんたと同い年ぐらいの子供いるんだよ〜、見えないだろ?」そう言うとガウンの前を外して、おっぱいを見せてくれた。

ボクは動揺しながらランドセルを彼女に預けて、配達に戻った。サウナ店に最後の弁当を届けると、ボクはあのストリップ劇場に向かった。楽屋に行くとさっきのお姉さんの姿はない。

ボクが届けた弁当のプラスチックの入れ物はキレイに洗われて、入り口近くにまとめられていた。畳の奥の鏡台の横に置かれていたランドセルを見つけた。クツを脱がずに四つん這いで畳の上を這って、やっとランドセルに手がかかった瞬間、大柄で太っていた毛むくじゃらのオーナーに見つかってしまった。

「おう、見てくか?」
「だいじょうぶです」
「まぁいいからいいから、いこいこ」

そう言われて、両脇を持ち上げられ劇場の袖に連れて行かれた。ピンクというより、桃色のライトの輝きは今思い出しても夢の中のようだった。ホコリっぽい匂いもした。サンポールの臭いもした。石川さゆりの『天城越え』が割れた音でフロアに広がっていった。
舞台を見ると、あのお姉さんが踊っている最中だった。
オーナーが、ボクを後ろから押さえて「おう、こっからまだまだいくゾォ」というと、まな板ショーが始まった。観ている客から一人選んで、舞台で本番をするという見世物だった。
10人ちょっとの観客の中から相当な年齢のお爺さんが手を挙げ、舞台に上げられる。ライトが舞台の真ん中に集中する中、お姉さんに導かれて、セックスが始まっていく。さっきかかった『天城越え』がもう一度あたまからかかり始めた。ボクが生まれて初めて見たセックスは、あのお姉さんと知らないお爺さんのセックスだった。
オーナーは面白半分に「へへへ、すげえだろう、なぁ?」と、ヤニ臭い口で耳打ちをしてきたけれど、ボクはただ呆然としていた。
そのあと歓楽街の薄暗い裏道を選んで走って帰ったことを、かすかに覚えている。

次の日、学校に行くといつものように机は裏返しにされていた。毎日の儀式のようにボクはその机を戻し、椅子に座る。ランドセルを開け、教科書を開くとビリビリに破れていたはずのページが、セロハンテープで丁寧に貼られていた。ボクは驚いて、他の教科書も出してみる。どの教科書も1ページごとに丁寧に、セロハンテープでとめられている。どのページも、どのページも綺麗に直されていた。
ボクはどんなに机が毎日裏返されても、給食のスープに消しゴムのカスがぶち込まれても、絶対に泣かなかった。泣いたら負けなんだと思っていた。だけど、そのセロハンテープで綺麗にとめられたページをなぞった時、気が狂ったように泣いた。
クラスの連中が、どんな顔でその光景を見ていたか覚えていないぐらい、ボクは泣いた。

そしてその日から2日間、家から出られなくなってしまった。子どもながらに憔悴して、ほとんどの時間を布団の中で過ごした。3日後、学校へいく前にストリップ劇場に寄った。あの控え室に走っていった。控え室ののれんをくぐると、毛むくじゃらの太ったオーナーがいびきをかいて寝ていた。
ボクは揺り動かして、あのお姉さんの居場所を尋ねた。
「カホさんか? あのね、大人はみーんな忙しいの。もう次の町いっちゃったよ、商売繁盛! 繁盛!」と言うやいなや大きなあくびとおならを一緒にした。その時直感的に、もう二度とあの人には、お礼が言えないんだと子どもながらに悟った。
彼女の使っていた鏡台を見ながらボクは完全に固まっていた。オーナーは、ボクの顔をまじまじと覗き込んだあと、椅子に腰を下ろして、セブンスターの濃い煙を悪気なくボクに浴びせかけた。そのあとに肩をポンポンとされて、オーナーはもう一度大きなおならをした。



なんでこんなつまんないことを覚えているんだろう。あの踊り子のお姉さんの顔すら薄ぼんやりとしていて、記憶が定まらないっていうのに。

霊感はない。ただこれを思い出すとボクは別れを感じてしまう癖があった。そう感じつつボクはもう一度、眠りに落ちていった。
まどろむ意識の中で、誰かが頰をさわる感触を感じた。気付くと裸のスーが、指で涙をぬぐってくれていた。
「大丈夫。大丈夫だから」彼女は、かすかな声でそう言うと自分の涙も指でぬぐった。
 
ボクは、別れにだけ敏感な自分を呪った。



 

#5

東京が大好きだ、それは下品だからだ

18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――
フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。



アシスタントがエンジンを突然入れた。前方に目をやると駐車禁止を取り締まってる男たちが2人見えた。

「この辺り、とりあえず一周しますね」車は、左にカーブして大通りにでた。幸運なことに車量はまだまばらだった。関口が腕時計を見た。ボクも時間を確認する。タイムリミットまであと40分を切っていた。

ワゴン車は大きく中目黒を一周して、また駅の脇の立ち食いそば屋の前に向かっていた。関口はずっと佐内とスーの話をしている。

ボクはそれを聞きながら、あの頃の今よりもっと不確定で不安定だった心情を思い出して、心臓がすこし硬くなった気がした。




「朝だよ」スーはとても優しい笑顔だった。

仕事に出て行こうと身支度をするボクに、裸のままうつ伏せに寝ていた彼女がポツリと言った。

「ねえ、手紙ちょうだい」


「手紙?」ボクは玄関で、ニューバランスのスニーカーを履きながら振り向いた。
「うん、わたしも返すから、手紙」

「いいけど、なんで?」ボクはドアを開ける直前に彼女に問いかけた。
「字がほしいの。あなたの書いた字。わたし、きっとずっと持ってるよ」
「ん? そんなんいくらでも書いてあげるよ」
「うん、でもほしいの。早めに」
「ん? んー、わかった。今日、会社から手紙出すわ。なんだこれ」ボクはちょっと笑ってしまったけど、彼女はこちらを向いてもくれなかった。

「きれいな字で書いてね」

それが彼女との最後の会話になった。



その日の12時ちょうどに佐内の自宅他に家宅捜査が入る。
クラブ『REQUIEM』はもちろん、何人もいた愛人宅にも多くの捜査員、マスコミが押し寄せた。スーの五反田のマンションも何日も前から張られてたらしく、あっという間に人だかりができていた。
ボクはそれをテレビ局のスタッフルームで知る。
佐内の自宅に、無表情の大人が列をなして入っていく映像だった。クラブ『REQUIEM』のVIPルームが映し出されていた。ボクたちがいた部屋の全面ガラスの壁をレポーターが開いて、奥にもう一部屋あるというどうでもいい事実を神妙な顔で伝える映像だった。
局のお偉いさんが集まって、その報道を見ながら「俺だったら自殺するね。もう一生分楽しんだでしょ」なんて雑談をしていた。
 
佐内の愛人たちの何人かは佐内からの性的暴力を週刊誌で暴露し始める。
六本木のVIPルームで佐内にキツイ質問をされ、笑顔で即答していた女が被害者の代表として連日泣きながらテレビのワイドショーに出て、引っ張りだこになっているのには失笑してしまった。
mixiをひらいてみたら一度だけ、スーからの足跡がついていた。でもそれっきりだった。彼女のmixiのページだけは今でも健在だけれど。



一度だけ、もぬけの殻になったスーのマンションを訪ねたことがある。それは一斉家宅捜査の数日後だった。あれほどいた報道陣の群れもほとんど姿を消していた。
ボクはマンション横の駐車場のフェンスにもたれかかって、彼女の部屋をしばらく見上げていた。外の下品なネオンの灯りが彼女のカーテンのない部屋にさし込んでいるのが確認できた。

最初に出会った夜、VIPルームの天井にレーザー光線が反転して映ったあの光景を、他の人間は誰も気に留めていなかった。ボクは天井に映る光の一瞬をあの部屋にいる間中ずっと眺めていた。あの部屋で唯一美しい光景だと思ったからだ。
彼女は上ばかり見ていたボクに誘われるように、あの部屋で初めてマジマジと天井を見たと五反田のマンションで、風俗街のネオン管がウネウネと反射する天井を見ながら教えてくれた。
美しい光は次々と形を変え、強さを変え、色を変えて消えていく。決して手にすることはできない儚さを、ボクはスーにも感じていた。
それはボクが思う、東京という街の感覚とも一致していた。



現在、クラブ『REQUIEM』の跡地には、立派なオフィスビルが2棟建っている。五反田のマンションは取り壊されて、10階建てのオフィスビルが建った。隣の駐車場もビルに変わり、街もどんどん姿を変えていった。
仕事の関係でたまに五反田を通る。その時にスーと寄ったコンビニに入ったりする。あのコンビニ以外、彼女との思い出の場所はもう東京には一つもなかったから。

世間はその後も、ドジを踏んだ芸能人や政治家、嘘をついた企業、ズルがバレた著名人を吊るし上げて、問題は散らかしたまま、また次のターゲットに移るということを繰り返している。
その生け贄が日々変わっていく中で、佐内の疑惑もスーもあの女たちもいつしかみんな忘れていった。



アシスタントがFMラジオのボリュームを少しだけ上げる。サザンオールスターズの『私はピアノ』という曲が流れはじめた。原由子のやさしい声がワゴン車を包んだ。

「消えた5億円、あれ本当にスーかな?」関口がスマホをいじりながらボクに尋ねてきた。
「5億?」ボクはビックリしてみせた。
「知らない? 週刊誌に載った佐内事務所の金庫から消えた5億の謎」関口は楽しそうにグーグルで「佐内 5億 愛人」で検索してヒットしたページをボクに見せてくれた。

「あー、俺はあのまま、スーと付き合って高飛びすればよかったわあ」そういうと関口は、ケラケラ笑った。
「あ…」関口は突然何か思い出したように笑うのをやめた。
「ん?」

「あの時、おまえ宛てにきてたファックスなんだったの?」
「ん?」初耳だった。
「あれだよ、あの気持ち悪いやつ」
「どんな?」胸騒ぎがした。

「多分、佐内がらみだと思うんだけどさ。真田が処分しちゃったのかなぁ」
「どんなだよ?」
「大きくカタカナで3文字書かれただけの差出人不明のFAXだよ」
「3文字?」
「そうそう、大きくカタカナで3文字だけ。気色悪くない?」

「なんて書いてあった?」ボクの両手が少し汗ばんだ。
「あ な た」
「ん? なんて?」
「いやだから、『あなた』ってだけ。カタカナで」

「ア ナ タ」ボクは声に出してゆっくりと言ってみた。

「ア…ナ…タ…」

ボクはスマホに「日本初の南極観測隊 3文字 アナタ」と打ち込んだ。

1957年、日本初の南極観測隊が南極に近づいていた。当時、電報は高級なもので長くは打ち込めなかった。そこで南極に向かう夫に向かって、その妻はたった3文字の電報に愛のすべてを託した。
「ア ナ タ」と。

あの夜の彼女が伝えたかった言葉を、ボクはグーグル経由で受け取った。
ストリップ劇場のあの鏡台を見ながら固まって動けなかったボクが、スマホの画面に反射して写った。
もう彼女には二度と会えない。本当はとっくに分かっていた現実を、初めてボクは飲み込んだ。同時に、きっと彼女は誰にも支配されない場所に辿り着いたんだ。そう心から思いたかった。



「あのさ、スーって本名はなんていうの?」

「スー」

「だから、本名」

「スーだって」

「そんな人間いるかよ」

「ここにいるわよ」

 たしかにあの時、彼女はそこにいた。



窓を開けていたせいで、下品な街の下品な下水道のニオイがこのワゴン車の中にまで漂ってきていた。
関口が隣で、スーのことを考えているのがわかった。ボクもスーのことを考えていたからだ。スーもまたこの瞬間、どこかでボクらのことを考えてくれているような気がしていた。止んでいた雨が、またポツポツとふりはじめてきた。

東京は嫌いだ。下品だからだ。
そしてボクは東京に22年間住んでいる。それはボクが下品だからだ。

東京が大好きだ。それは下品だからだ。



モデル:瀬戸かほ


 

#6

人生で本当に大切なとき、ボクたちに自由はない


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。




「また降ってきたねぇ。今日は一日ダメだなこりゃ」
 関口が、窓のしずくを指でスーッとふきながら言った。
「雨の日は休みにしてほしいなぁ」とボクは真剣に訴えた。
「それは間違いないね」

関口との18年と8ヶ月はこんなどうでもいい話をしながら、不規則な日常をやり過ごす日々だった。
ボクらの仕事はテレビの美術制作という「ん? 何それ」と言われがちなものだ。テレビ番組のテロップや小道具、CGなどを日夜作る仕事。正月のたびに「あんたそんな地に足の着いてない仕事して」と母親に心配され、法事では親戚に「芸能人、会ったことある?」とだけ言われる仕事だった。

「昨日さ、武蔵小杉で人身事故があってさ」と関口が言った。
「なんでまた、昨日みたいな快晴の日に死ぬかね」ボクは曇った窓ガラスを手で拭って、外を小走りで走る、髪の長いOLをチェックしながらつぶやいた。
「いや、清々しい朝だったから死のうって思ったんじゃないかな。42歳のサラリーマンって出てたよ」
「42歳、同い年か」
「昨日、死んだ42歳もいれば、昨日、仕事を辞めた42歳もいるわけだ」
 関口はそう言うと自分で笑った。

「おまえさぁ」
「あ。七瀬も俺らと初めて会った時、42歳だったって知ってた?」
 関口がはぐらかした。
「これだけは言っとく、人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだよ」
「なんだ、それ」
「七瀬の言葉だよ。つまりは、勝手にしやがれってさ」関口は嘘くさい笑顔でこちらを向いた。




あの日も雨だった。

仕事はいつも、昼過ぎからだったが、終わる時間は相手次第でまったく分からないという日々が1年以上続いていた。早朝のニュース番組をレギュラーでもらっていたので、明け方直前まで基本的には待機という約束だった。

待機と言われたら酒でも飲んで待つのが礼儀という、変な教えがこの業界にはあった。ボクと関口はルノアールに通うように飲み屋に通った。だいたい焼酎割を飲みながら待機していた。

その日。明け方の新宿ゴールデン街でボクと関口は会社からの連絡を待ちながら眠ってしまっていた。入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。店の奥に無理矢理作った座敷があって、そこでボクらは眠りこけていた。
こじんまりとした店内に味噌汁のにおいが香った。やかんが気持ちのいい音を鳴らし、ボクは薄らと目を開く。

「いま、ほうじ茶煮出してるから」

割烹着を着た『BARレイニー』の名物ママ・七瀬が、せわしなくボクらの朝食を作ってくれていた。味噌汁にとうふと青ネギを切って入れているのが見えた。ご飯もちょうど炊けたようだ。米の甘い香りが鼻をくすぐった。

カウンターには、いつのまにか関口が座っていた。
店内の気温は、暑くもなく、それでいて寒くもなかった。仕事が心配になったけど、もし急ぎがあったら責任感の強い関口は一人でも飛んで戻っているはずなので、大丈夫なんだと悟った。ボクはその人生の余白のような時間に浸って、また眠りに落ちそうになりながら、薄目でふたりをながめていた。

「昨日のさ、カウンターの一番すみっこにいた人、あの人ってマジで元Jリーガーなの?」

 関口が、ご飯の炊きあがりをチェックしていた七瀬に声をかける。

「さあね、まぁそう言ってるよね。あの子は」
「そっか」
「サッカーが好きなんだろうねえ」
「そっかぁ」

関口は七瀬にだけは、なついていた。彼には母親がいない。男手一つで幼稚園から育てられた。七瀬も関口のことを我が子のように可愛がっていた。七瀬は白いものがまじった長い髪を後ろで束ねて、いつも割烹着を着ていた。

ゴールデン街のすみっこにあった『BARレイニー』は、その名前からは想像できないぐらい、しなびた風情の和風居酒屋だった。カウンターには大皿が並び、きんぴらごぼうや小魚の煮付け、細かく刻んだたくわんの入ったポテトサラダなどが、なみなみと盛られていた。カウンターは7席で、横に無理矢理作った畳1丈ちょっとの座敷があった。大相撲のカレンダーが2ヶ所にかかっていて、トイレには若貴の手形サインまで飾られていた。

最初にこの店を気に入ったのはボクだった。幼い頃に店の手伝いをした祖母の飲み屋にそっくりだったからだ。店内の匂いも、七瀬のたたずまいもどこか祖母に似ていた。
何度か店に関口を連れて行く間に七瀬にも好かれ、気づいたら会社の悩みをぐちったり、わがままを吐いたりして、我が家のようにこの店を使い始めた。

「ちゃんとしたクツはきなさいよ、あんた」カウンターの席でクツをはいたまま、あぐらをかいていた関口に七瀬が注意をした。
「いや、これ高いんだって。このメーカー知らないでしょ」
「もうちょっとクツ磨きなさい」
「いや、たまにやってるよ」そういうとおしぼりで関口はクツをふき始め、すぐに七瀬にそれを取り上げられた。

「行儀が悪い」そう七瀬は言うと、煮出したばかりのほうじ茶を関口の前に置き、「あと口が臭い。胃が弱ってる。ほうじ茶飲みな」と言ってあたまを軽くはたいた。関口はだまったまま、ほうじ茶を一口飲んだ。

「熱っ」
「あんた、ばかじゃないの。やけどしなかった?」そういうとさっきクツをふきかけたおしぼりを関口の口元にあてた。
「おい。それ、さっきの」そう関口が冗談めかしに怒ると、七瀬は舌を出した。

味噌汁のにおいが心地よかった。ガラス戸に当たる雨が一層激しさを増していた。だが入る陽の光は確実に朝を告げている。店内に流れっぱなしのAMラジオからざらざらとした音で、荒井由実の『中央フリーウェイ』がかかっていた。
ボクは眠りそうで眠れないこの時間を、スローモーションのように覚えている。あの時代の数少ない平和な思い出のひとつだからだ。

ゴールデン街のどの店でも何人かとは顔見知りになってはいたけど、お互い余計な詮索は一切しなかった。そこで出会った人たちと今は一切繋がっていない。瞬間的にそこで友だちになったり、知り合いになったり、なったフリをして、その夜の流れに身をゆだねていたような気がする。
その夜だけの名前で呼び合っていた。その夜だけの肩書きを語る人もいた。その夜だけの自慢話や体験談も飛び交っていた。トイレから出てきたら、その人はもういなくて、それっきりなんてこともよくあった。だけど、いやそれだから本音も言えたような気がした。真剣な悩みを笑って冗談にすることができた。その瞬間だけ距離が縮まり、人生が接近し、またそれぞれの世界に戻っていった。

自分たちがすみかにしている場所以外に、別の顔をして別の自分を演じられる居場所を持つことは人生においてかなり大切なことのように感じていた。



中目黒の雨は、また本降りになってきていた。ラジオでは「雨の日にやりたいこと」なんていうテーマのファックスとメールを、DJがリスナーに募集している。

「金持ちになったら1日10食、食えるわけじゃねーしなぁ」関口が伸びをしながらあくびをする。
「そりゃそうだけどさ」
「世の中には二種類いるんだ。金に飼い慣らされてるやつと、金を飼いならしてるやつ」
「いや、三種類だね」ボクは即答する。
「あとは?」
「金に見放されてるやつだ」
「それは言えた」関口がケラケラと笑った。



『BARレイニー』に夜な夜な集まってきていた連中は、金に飼い慣らされたやつも金を飼いならしてるやつも金に見放されてるやつもいた。七瀬はそのどの人種に対しても同じ態度で接した。基本的には勝手にしやがれだった。

七瀬は毎日、割烹着を着て髭を剃って薄く化粧をして、店に立った。彼女は、いや彼は女装家と言われる種類の人だった。あの店で雑談を交わし、確かに一緒に酒を酌み交わした連中と今、この中目黒ですれ違っても絶対に気づかないだろう。

今、この車の前方から来るあの爺さんが七瀬かもしれない。もし、そうだとしてもボクは気づかずに素通りしてしまうだろう。

あの朝のガラス戸に当たる雨音の正しいリズムが思い出せない。あのほうじ茶の入ったうつわの温かい感触が不確かだ。『BARレイニー』にこだましていた七瀬の声を再生できない。



18年と8ヶ月一緒に戦ってきた戦友と、もうすぐ別れようとしていた。次の打ち合わせが迫っている。ぼんやりと外を眺めている関口が、どこか清々してるように映った。きっと明日からの無職の不安もあるだろう。ただ、重い荷物を下ろした人間の独特の清々しさがそこにはあった。不安のためにボクは今日も時間を売る。関口は不安を買って旅に出ることにした。
 不安が不良債権化して姿を消した七瀬は今日、どこで何をしているんだろう。

「あのあと、七瀬から電話あった?」関口が外を向いたまま口をひらいた。
「あのあとって、どのあとだよ?」
「あの電話のあとだよ」

『BARレイニー』は今はもうない。





 

#7

〝大人〟なんて想像の産物だ


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。


「俺が夢の話したら、七瀬すげぇ嫌がってたなぁ」
 関口が窓の外の立ち食いそば屋を見ながら吐き捨てるようにいった。
「おまえの夢の話は、誰でも嫌がるけどな」ボクは呆れながら応える。

「その時にアイツが言ったんだよ」
「なんて」
「あの朝よ。おまえが奥の座敷で寝てた朝」
 関口がシートであぐらをかいたままこちらを向いて言う。
「わたしはもうイヤだな、夢を持つのも語るのも、って」
「またさびしいことを」ボクもクツを脱いであぐらをかいた。
「もうがっかりしたくない。人生の本当に大切な選択の時、自由なんてないんだから、って」

ワイパーは文句のひとつも言わずに働きつづけていた。その甲斐もなく雨がフロントガラスを濡らしつづける。

関口がアシスタントの肩をたたいて、外の自動販売機を指差さした。
「あ、何飲みます?」アシスタントが尋ねてきた。関口はブラックの缶コーヒーを2つ頼んで千円札を渡す。
運転席のドアが開いた途端、外から横殴りの雨が吹き込んだ。水しぶきがボクの顔を濡らし、思わず顔をしかめる。

「す、すみません」
「大丈夫、閉めて閉めて」ボクがそういうとアシスタントは、あせって勢いよくドアを閉めた。ラジオは大雨による交通の乱れを説明していた。

「ハンカチ使う?」
「なんで、お前がハンカチなんてもってんだよ」少し笑いながら関口からハンカチを受け取る。
「柔軟剤。いい匂いだろ?」
「だから、なんでだよ」

雨粒でにじむ窓ガラス越しに見えた中目黒の景色が、生き物のように形を変えていく。




BARレイニーの入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。うつ伏せで左手を自分の体に敷いたまま寝てしまったので、しびれてしまって左半分の感覚がない。
やかんのぐらぐらぐらという音がずっと聞こえていた。
関口はカウンターであぐらをかきながらどうでもいい話を続けてる。七瀬はどんな話をしても声を出して笑いながら、相槌をうってそれに応えていた。


関口もボクも、睡眠薬を半錠飲んで仕事に励むという異常事態からはようやく抜けた頃だった。七瀬はいつでもだれでもどんな話でも、いつまでも一緒に悩んでくれた。
店を訪れる人たちの重い荷物を、七瀬は預かってくれてたんだなと、今になって思う。そして店を出る時に右肩にかついでいた荷物を、左肩にかけ直してボクたちはまた現実の世界に戻っていった。
だけど、七瀬の荷物を預かる人間は東京にはいなかった。七瀬は誰にも何かを預けようとしなかった。それにボクらも気づかなかった。七瀬はどこか達観していて、すっかり大人なんだと勝手に思っていた。
〝大人〟なんてものは、サンタクロースやネッシーみたいに誰かが作り出した想像の産物だってわかっていたのに。

 七瀬は小皿で味噌汁を口に含んで、もう一度味見をしていた。
「あの子も起こしたら」
「もう少し寝かせておけばいいさ」関口がぶっきらぼうに返す。
「そうかい」
「うまそうだ」
「はい、どうぞ」とおぼんにのった朝食を七瀬は関口に手渡した。
 味噌汁をすすった関口は一度考えてから、「ふー。おいしい」としみじみと言った。



その日から1ヶ月も経たないうちに、ボクたちを拘束していた朝のレギュラーのニュース番組が終わって、あんなに頻繁に通っていたゴールデン街から足が遠のいた。

ある時、昼間の打合せ後、半年ぶりに近くを通りかかった。関口とボクはどちらからともなく、夕方のゴールデン街の路地に足を向けた。

『BARレイニー』の軒先までいくと、店の入り口に施錠がされている。セロテープで雑に四方を貼り付けられた紙に「長い間、ありがとうございました」とだけ書かれていた。
 七瀬の携帯番号を知っていたボクはすぐに電話をかけた。
「もう二度と会えないかもしれない」そう頭の中でよぎった瞬間、「はいはい」といつもの調子で七瀬が電話に出た。

「お店って……」とボクが言うと「あー、やめちゃった」と、挨拶ぐらいの軽さで答えてきた。

「今どこよ?」と電話を無理やり取った関口が聞く。数秒後、「エアバッグ工場? なんだそれ」関口が声を上ずらせ、七瀬に質問を立て続けにぶつけている。

そのやりとりを聞きながら、新宿歌舞伎町で、七瀬を見かけた時のことを思い出していた。その時は女装をしていなかったけれど、右足を引きずるように歩く後ろ姿ですぐにわかった。派手なピンクのアロハシャツにやけに短い短パン、両手にスーパーマーケットで買い物をしたビニール袋を持った七瀬は、歩道を占領していたホスト風の若者たちを怒鳴りつけて道を開けさせていた。その時の七瀬はまるで別人に見えて、声をかけることができなかった。

聞けば、『BARレイニー』は3ヶ月ほど前にあっさりと閉まり、七瀬は借金から逃げるように東京を出て行っていた。



「あのあと、七瀬から電話あった?」関口が外を向いたまま口をひらいた。
「あのあとって、どのあとだよ?」
「あの電話のあとだよ、秋葉原の電話のあと」
「本当にあれっきりだよ」ため息まじりにボクはそう伝えた。



 閉店を知ってから半年ぐらい経っただろうか、その日は休みだった。
 携帯が何度も何度も鳴った。二日酔いで、ソファで寝ていたボクは目をつむりながら音の出る方を手でまさぐった。

「はい、はい」やっとの思いで出ると、ゼエゼエとした声の男が矢継ぎ早に話し始めた。
「いま、テレビ見てる?」
「え、いや見てないすけど」
「アキバアキバ、秋葉原」
「てか、どちら様ですか?」

寝ぼけまなこのまま、リモコンでテレビをつける。テレビは、どの局も秋葉原からの生中継だ。電話口の男のしゃべりが早口すぎて最初、内容が聞きとれなかった。

「わたし、わたし、ななせ」
「七瀬? ど、どうしたの?」
「工場の同期が秋葉原でやりやがってさ」
「え?」

2008年6月8日だった。七瀬は興奮していた。
「わたしにとってはあの工場は天国だったよ! 楽勝、楽勝。たださぁ、また色々トラブッちゃてさぁ、ねえ聞いてる?」
彼が自分の現状を話してる間も、テレビでは信じられなくらいの惨状が現場から中継されていた。野次馬と警察官と報道陣でごった返す様子が延々と流れている。
ボクは耳元に携帯を当てたまま、すっかり眠気も吹き飛んで、その光景を見ていた。

「それにしてもさぁ、ゴールデン街のみんな、元気かな? まだ、奥椿のマスター怒ってると思う? ハチドリの虹子には一度、電話したんだけどさぁー」

ボクはただずっと画面の向こう側の惨状を見ていた。

「あんたさ、まだ働いてるんでしょ? あのテレビの仕事してるんでしょ? お金貸してくんない?」七瀬が唐突にそんな言葉を投げかけてきた。
その言葉でボクは我にかえり、申し出を即座に断った。電話の向こうにいる男の口調から、あの朝食を作ってくれていた時の柔和な七瀬の姿は、まったく想像することができなかった。金の無心を断った後も、七瀬は話しつづけていた。最後は陽気に「また飲みたいよねぇ、飲もうねぇ」と言って電話は切れた。



「七瀬、あいつどうしたかなぁ」ボクはボンヤリとそうつぶやいた。
「俺、去年3万送ったよ」関口がこちらを見ないようにボソッと言った。
「は?」
「まぁ、手切れ金だよ」
「お前なあ」ボクは呆れて、関口の頭を軽くはたいた。

「はい〜、ではおつなぎいたします。担当は七瀬でした」関口がテレアポの真似をした。
「は? マジで? 今、あいつテレアポやってんの?」
「あぁ。その後も1回電話きてさ。金貸してくんねえか?って」関口が呆れながら笑った。
「それでどうしたんだよ?」
「5万送った」
「増えてんじゃねえか」今度はさっきより強めに関口の頭をはたいた。



昨日テレビで見たボクシングのタイトル戦のニュースがラジオから流れていた。チャンピオンが3度目の防衛を果たしたというニュースだった。彼の幸運はあと何回続くだろう。挑戦者にはフィアンセがいて、負けたあとに花道で抱き合っている姿が印象的だった。
天気予報によると、明日は全国的に晴れの良い天気だという。それは本当に〝良い天気〟なのだろうか。

「あれって、ほんとたまたまだったよなぁ」七瀬の店に初めて入った日のことを関口が話し始めた。



今日みたいに雨が突然強くなるような不思議な日だった。

不意の豪雨に、ゴールデン街の2軒目を探していたボクらは雨宿りをしていた。その店先が『BARレイニー』だった。そこは関口とボクにとって、あの時代の東京で羽を休められる稀有な場所になった。あの日の雨は、恵みの雨になった。



車内に突然、強い雨と風の音が吹きこんだ。運転席のドアからアシスタントが申し訳なさそうな顔で車に乗り込んでくる。

「すみません、ブラックなくて。カフェオレでいいですか」
 
関口はアシスタントからホットのカフェオレを受け取って、肩をポンポンとたたいた後、ボクにカフェオレを1つ放った。

関口はカフェオレを一口飲むとボクになぜかドヤ顔でこう告げる。「人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだってよ」
ボクもカフェオレを一口飲んだ。「お。これ、うまいじゃん」

次の約束まであと15分を切っていた。



 

 #8

愛とかさ幸せとかさ、アイツといると考えなくてすむんだ


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。


濡れたアスファルトの独特の匂いが、ワゴン車の隅々まで漂っていた。気づくと、関口が窓を半分開けて、うまそうに煙草をふかしていた。アシスタントもドサクサにまぎれて、煙草を吸っている。

「あのマンションとか、どうやったら買えるのかね?」
 
関口が煙草でさした先には、高層マンション群が建ち並んでいた。

「相当、悪いこととか?」ボクがそう答えると、関口はニヤつきながら窓を全開にして「おーい! みんな悪いことやってっかー」と大声をあげた。
「やめろ、金髪坊主」

中目黒駅は目が覚めたようだ。人の数が分かりやすく増えてきた。もうすぐ朝のラッシュが本格的に始まる。

「おまえとアイツだけには挨拶したかったからさ、今日は朝から悪かったな」

関口は、せわしなく働いている立ち食いそば屋の従業員の様子をながめながらそう言うと、こちらを向いた。

「真田のことなんだけどさ」





1999年から2000年に変わろうとしていたその夜だった。年越しカウントダウンの番組から発注があった映像、テロップ、小道具なども全部納めて、やっと年の瀬を迎えていた、はずだった。
2000年まであと10分。一本の電話がボク宛にかかってきた。制作会社Mのプロデューサーからだった。

「特番、おつかれです。請求書の件なんすけど、今回は4割引いてほしいなと。悪いね」

そしてその電話は、こちらの返答を待たずに一方的に切られた。
正規の値段から4割を引く。そんな異常なことが普通にこの業界ではまかり通っていた。うちみたいな制作の外部スタッフの扱いは、値引きが付き合う条件の前提だと面と向かって言われたこともあった。だから請求書は必ず直接渡しに行った。郵送しても「届いてない」と言われることもザラだったからだ。ただ、責任者に請求書を持っていっても、封筒をその場で開封し、ペンで値段を書き直されるということも日常茶飯事だった。

ここ数週間、缶詰で作業した挙句、調子のいい値引きの電話が10本を超えた頃からボクらのフラストレーションはピークに達しつつあった。関口が缶ビールを煽りながら冗談半分に「あいつら、一回ぶっ飛ばさないと俺の気がすまねえわ」と、大声で言った。酒の力もあった、若さもあった。ていうか、それしかなかった。今は本当に反省している。
この日、年越し番組で無人の制作会社Mのスタッフルームをグチャグチャにしてやろうと、酔いに任せた関口とボクは実行に移す。運転手はその場にいた、関口のアシスタントだった真田に頼んでしまった。

その制作会社Mは、住宅街のマンションの1階にあった。ボクと関口は、その会社の鍵の隠し場所も、長年の付き合いで全部知っていた。外から見える部屋の窓は真っ暗で、人がいないことは確認できた。手慣れた具合に鍵を見つけ、中に入る。

関口は口笛を吹きながら両手を大きく広げ、デスクにあるものをどんどん落として回った。ボクはおもむろに社長の椅子に座って、クルクルと回りながら飾ってあるトロフィーを足蹴にして、かたっぱしから落としていった。真田は、密かに好きだったその会社のデスクの女の子の机に座って、突っ伏していた。

ひとしきり終わり、息を殺して笑い転げながら、置いてあった有名野球選手のサインボールでキャッチボールを始めた時だった。「ガチャガチャガチャ」と鍵を開けようとする音がする。ボクと関口はギョッとして顔を見合わせ、とっさにサインボールをポケットにしまった。棚に並ぶDVDを物色していた真田もピンと背筋を伸ばしてこちらを向いた。

「先輩、こっちの窓から逃げてください」真田が棚の横のベランダの窓を開けた。
「ばかか」関口が一喝する。真田は首を振って譲らない。
「自分はバイトです。それもまだアシスタントです。行ってください、お願いします」

真田は頭を深々と下げ、「ごめんなさい」と小声で言ったあと、ボクと関口を強引にベランダに突き飛ばした。

「おいおい……誰かいるのかぁ?」玄関の方から声が聞こえる。真田は窓の鍵を閉めると、ベランダの柵にまだ足がかかっていたボクにお辞儀をして、カーテンを閉めた。ボクと関口は、その姿を確認したあと柵を越えて逃げた。
関口は何度も立ち止まり、何度も振り返っていた。

翌日、つまり新年の2日目。制作会社Mの社長がウチの会社にやってきた。その時、立ち会ったボクに「事は荒立てない。ただそのための条件は真田のクビだ」とハッキリと言った。「ただ、うちの若いのも、ずいぶん派手に真田くんをやっちゃったみたいだから、それはお詫びしますよ」と、笑顔でつけ加えてきた。

会社はすぐにその条件をのみ、ボクと関口はノコノコとそのあと、真田の不始末のお詫びと称し、その会社に菓子折りを持って訪問している。あの時の関口の帰り道の落ち込みようったらなかった。



真田には、関口がそれから何年も電話をかけていた。特に年末の年越しの仕事のあとは必ず一度、電話を入れている姿を見かけた。真田はなかなか職が定まらず、関口は何社か仕事を斡旋したりもしていた。それでも真田は、面接に行かなかったり、入社しても続かなかったりした。
関口はあまり口外しなかったけど、真田はネットワークビジネスや新興宗教などにハマり、関口にそれとなく勧めていたこともあった。ただ会うという話までになったことはなかった。詫びのつもりなのか、けじめのつもりなのか、関口が折に触れて金を送っていることもボクは知っていた。



そしてあの事件から16年経った先々月、どうしても相談したいことがあると、珍しく真田の方から関口に電話があった。ボクも関口も徹夜明けだったが、真田からのたっての頼みに、二人して深夜に時間を作った。
日比谷線の神谷町駅の階段を上がってすぐに、待ち合わせに指定された店はあった。午前2時のロイヤルホスト。四人席のテーブルに関口とボクは横に並んだ。ただ約束の時間を過ぎても、指定した当人はなかなか姿を見せない。

すぐとなりの席ではチェック柄のシャツと銀縁メガネまでお揃いの若い男ふたりが、アイドルグループの最新ゴシップについて大声で話していた。後ろの席を振り返るとヨレヨレのスーツを着た50代くらいの男性が、肉汁とソースの甘い匂いをプンプンさせたハンバーグに食らいついている。
真夜中だというのに他の席も主婦っぽい2人組、明らかに若い大学生っぽい男など、フロアはある程度埋まっていた。関口は、さっきから人差し指でずっとテーブルを小刻みにノックしている。

「真田ってまだアフロヘアーだと思う?」そうボクは関口にふってみたが何も返答がなかった。
 しばらくして指先のノックがピタリと止まって、関口が口をひらく。
「おれさぁ、彼女できてさ。4年ぶりに」
「まじ? 誰よ」
「お前の知らないヤツよ」
 関口はゴソゴソとカバンの中で携帯を探しはじめた。
「俺さ、気づいたんだよ。夢とかさ、金とかじゃなくてさ」
 関口は携帯で、ボクに見せる彼女の写真を選びながら話しつづけた。
「じゃなくてさ。愛なんて言葉、彼女と付合ってから俺のあたまんなかから消えちゃったんだ」
「お前が愛を語る日がくるとはねぇ」
 関口はちょっと恥ずかしそうに、選んだ写真をボクに差し出しながら言った。
「愛とか幸せがどうしたとかさ、彼女といると考えなくてすむんだよ」

ロイヤルホストのドアが勢いよく開いて、真田がボクらのテーブルの横に転がるように飛び込んできた。ただ右足を引きずって走ってきた姿が、ボクには引っかかった。

「遅れて申し訳ございません!」

ブルーのジャージにジーンズ姿、あの頃同様、いやそれ以上に大きいアフロヘアーの真田の後ろから、明らかに高級な生地で仕立てたシワひとつないスーツにオールバックの男がゆっくり歩いてくる。そして真田の横にピタリと並んで立った。関口とボクはその瞬間会話を止め、ふたりに目をやった。

「こちらが先輩方にぜひ紹介したかった、クドウさんです。5年後の日本人がほとんど口にすることになる奇跡の水『らら水』の説明をさせて頂きます」真田は緊張した面持ちで、そのスーツの男をボクらに紹介した。

「初めまして、クドウです」そう名乗ったスーツの男は、持ってきたジュラルミンケースをボクらのテーブルに置くと、中から大量のパンフレットと怪しい水のペットボトルを数本、並べはじめた。「では、座らせて頂きます。今日はゆっくり、奇跡についてお話させてください」と言いながらクドウはボクらの前に着席した。

関口の指がまたテーブルをノックしはじめていた。「真田、これが俺たちと16年ぶりに会う理由か」

「え、あの、はい。どうしても先輩たちにも奇跡が実在することを知ってもらいたくて」そう言いながら、真田がクドウの横に座ろうとしたその時だった。テーブルの上にあった怪しげな水のペットボトルをおもむろに持った関口は、おもいっきりそれを真田の顔面に投げつけた。
「おまえ、何度言ったら分かんだ。てか分かんねーんだな、きっと。こういうさ、何にでもつけ込んでくる馬鹿野郎もムカつくけど、何度もまわりを巻き込んで引っかかる馬鹿野郎も見飽きたよ、おまえさぁ」
 
クドウは眼光鋭い視線をこちらに向けたまま微動だにしない。
真田が顔をおさえてうずくまった瞬間、すぐとなりの席の若い男ふたりが立ち上がりこちらを向いた。イスが引かれる音がしたので振り向くと、ボクらの後ろの席のヨレヨレのスーツの男も立ち上がってこちらを見ている。
その目つきは異様だった。「ガタッ」2人組の主婦も無表情で立ち上がりこちらを見ている。いやそれだけじゃない。このフロアに座っているほぼすべての席の客が次々に立ち上がっていく。その誰もがゆっくりとボクらの方に、一歩一歩近づいてきていた。

クドウが口を開く。「ここにいるみなさんは、真剣にお二人にお話を聞いて頂きたいんですよ」

「真田。この店の客全員、お前のお水のお友達か?」関口は床で四つん這いになって顔面をおさえながら肩で息をしている真田に問いかけた。「はい……最後までちゃんと聞いてもらいたくて」

ボクはヨレヨレのスーツの男が、さっきまでハンバーグを切っていたソースのベットリとついたナイフを右手に持ちかえて、すぐ後ろに立っているのが気になり、そいつから目が離せなかった。

関口がテーブルに置かれたジュラルミンケースをサッと取った。となりの席の若者ふたりが目の前まで、ボクと関口に近寄ってきていた。

「思い出話ぐらいさせてくれよ。ったく」そういうと関口は、近寄ってきた若者の一人の鼻めがけてジュラルミンケースを縦に振り下ろした。床が血で霧ふきをかけたような模様に染まり、男がうずくまる。その鈍い音と血しぶきを前にもう一人の若者は一歩も動けなくなった。

その様子を確認して振り返ると、左肩の違和感に気づいた。ヨレヨレスーツの男のナイフが、ボクの左肩にエグるように突き刺さっていた。夢中だったこともあり、痛みはなかった。ただ、左側が固定されたように動かない。ボクはそのサラリーマンの襟首を右腕で捕
まえながら、テーブルに仰向けに叩きつけた。

「今度からお友達連れてくる時は先に言えよ。店の予約ぐらいすっからさ」返り血がシャツにベットリついた関口が、ボクを刺したままテーブルに張り付けになって動かないサラリーマンにアイスコーヒーのグラスをフルスイングで至近距離から叩きつけた。

「そこまで! そこまでです!」店員に呼ばれたであろうビル警備員の怒号が飛んだ。関口がちょうどクドウに向かって椅子を振り上げたところだった。

生き物が宿ってるように、左腕全体がドクドクと脈打っていた。鼓動が止まらなかった。ボクは四つん這いで頭を抱えている真田の襟首をつかんで、頬をおもいっきり張った。
関口が警備員から警察に引き渡されていった。目の前にいたはずのクドウはジュラルミンケースとともに消えている。男が2人倒れていて、奇跡の水『らら水』のペットボトルが床に大量に散乱していた。
その他の連中も蜘蛛の子を散らすように店から消えていた。「大丈夫ですか」ビル警備員が左腕に触った途端、鈍痛が走った。



ボクの左腕は数針縫っただけですんだ。関口が帰ってくるのには2日かかった。どんなやり取りがあったか分からない。ただあやしげな組織の末端の末端が、突発的に暴走した事件として処理された。真田はそれっきりボクらの前に姿を見せなかった。
 関口の落ち込み方は酷かった。関口は謹慎、ボクはリハビリのため、しばらく現場を外れて一緒に制作会社を回る日々を送っていた。

「あ、今月の請求書ね。またちょっと値引き頼みたいんだわ。わりぃ、待ってて」制作会社のディレクターの三上はそういうと拝むようなポーズをしながら席を立った。

今にも崩れそうな書類と漫画本だらけの机が並ぶ深夜の制作会社で、ボクと関口は待たされた。考えてみれば、あんなことがあったばかりの関口を、この制作会社に連れてきたのが間違いだった。
三上はバラエティ番組を当てることには定評がある男だったが、下への暴力が絶えない人間で、彼の部下のADは大体が半月で半分以上辞めてしまって、残り半分は奴隷のように無心になって働いていた。だが外部のボクらには、すこぶる対応が良かった。
デスクの横のビデオテープの入った紙袋を足でどけながら、三上はもう一度こちらを振り向き「ごめんね、忙しいのに。すぐ済ませるから」と言って満面の笑みを浮かべた。

三上はデスクの奥までいくと、そこで正座をして待っていた20代前半であろうADの女の子の顔面を何の躊躇もなくノーモーションで、拳で殴りつけた。周りで仕事をしているスタッフは一瞥するくらいで無関心を装っている。その空気が、この狭い会社の中では日常茶飯事であることを証明していた。

ふと横をみると関口が下を向いたまま拳をぎゅっと握りなおしている。ボクらが立って待たされている三上のデスクの上に、ディズニーランドのシンデレラ城の前で三上の奥さんと幼い娘さんらしき3人で微笑んでいる写真が飾られていた。
三上はなんのためらいもなく再びADの女の子の顔面を殴りつける。女の子が殴られた勢いで、デスクに山積みされていた週刊誌と資料にあたって、それらが雪崩のように崩れた。関口はただずっと下を向いている。

「おまえ、これ戻しとけよ」三上は倒れたままの女の子に冷たく言い放った。

手をぶらぶらさせながら「本当わりぃわりぃ。で、で、今回の請求書の件だよね」と三上が笑顔で戻ってきた。

ボクは一刻も早くこの場から立ち去れるように早口で対応した。「えっとこちらです」 三上は慣れた様子でこちらの請求金額をボールペンで消しながら話し始めた。
「あー、そうそう。履歴書で見たから確かだと思うんだけど。君らんとこに昔いた真田くん。この間までウチにいたんだよ、ADで。まぁー、使えない、使えない」
「真田。真田恭平ですか?」関口が顔を上げた。
「それがさ、ウチのスタッフが中目黒で見たっていうんだよ。あの中目黒の駅前の立ち食いそば屋で」関口の質問には答えず、三上は矯正中の歯を見え隠れさせながら薄ら笑いを浮かべて話し続けた。
「それでね、ここ大事。客じゃなくて働いてんの。アフロのまんま。聞いたらシフト週6の夜勤だって。いやだねぇ〜末路、末路」

「すみません、コーヒーになります」さっきまで正座をして殴られていたADの女の子がコーヒーを持って、ボクたちの前に置きはじめた。彼女の左の頬は、真っ赤にミミズ腫れになっていて、それは左まぶたにまで及んでいた。

関口が彼女の瞳の奥を覗くようにながめている。ボクはそのあまりに痛々しい傷跡に、彼女を正視できなかった。

関口の感情の変化に気づいたボクは、ポンと背中を分からないように叩いて交渉を進めようとした。
「わりいなぁ、迷惑かけるわ」関口はボクにそれだけ言うと三上を床に押し倒し、正確に鼻っ柱を狙って、コーヒーカップが粉々になるまで殴りつけた。ADの女の子はその光景を見ながら、呆然と立ち尽くしたままだった。周りにいたスタッフは次々に立ち上がって関口に飛びかかった。
床には散乱した請求書と粉々に割れたマグカップと一緒に、ところどころ血だらけになった三上の家族写真が転がっていた。

会社の判断を待つことなく、関口は辞職願を提出した。そして昨日、関口は正式に退職をした。



中目黒駅は通勤する人々ですっかり灰色に染まっている。

「繁盛してるねえ」2本目の煙草に火をつけて、関口が立ち食いそば屋をながめながら言った。
「立ち食いそばって一番手堅い商売だよな」
「それ、言いすぎじゃね?」そうボクが言うと、「いや、立ち食いそば屋が潰れたとこ、俺は一度も見たことねえから」関口は、1日は24時間なんだぜと言うかのように確信めいてつぶやいた。

また一人、サラリーマンが店に入っていく。自販機でチケットを買って、真田に渡していた。ここからだと声までは聞こえないが、そばにするかうどんにするかを聞いているのは、理解できた。

「あいつ、相変わらず手際悪いなぁ」アフロヘアーに帽子を乗っけて忙しそうにカウンターを拭きながらサラリーマンにぶつかり、何度も引きつった笑顔で謝っている真田を見ながらボクは言った。

「あのばか」関口が吐き捨てた。



 モデル:瀬戸かほ




 

#9

必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる


18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部、最終回です。


中目黒駅がラッシュアワーに突入して、あふれかえるほどの人が駅を行き交っている。隣接する立ち食いそば屋も、今日一度目の混雑を迎えていた。

関口がちらりと時計を見てから、独り言のようにつぶやいた。

「人かき分けてさ、でしゃばって、生き残ってきたと思わない?」
「あぁ」
「自滅する人間のほうが、俺はどっか尊いと思ったよ」

スーツ姿のサラリーマンたちが灰色のグラデーションをつくって、目の前の横断歩道をはみ出さないように渡っている。次の選挙の立候補者が朝の演説に備えて拡声器を準備していた。駅に向かう流れに逆行しながらゆっくり歩く老人が、横断歩道の途中で振り返ってから立ち止まり、空を見上げている。

「そうかもな」ボクは高架下からのぞく東京の風景を一瞥しながら答えた。
「あの時、おまえ、俺をとめなかったな」関口はそう言うとボクの方を向いた。
「おまえがやんなかったら俺がやってたよ」
「ウソコケ」関口がやっと笑った。
「なめんなよ」ボクも少し笑った。

関口は空き缶の縁で煙草をもみ消すと、ふいに言った。

「負けんなよ」
「ん?」
「負けんなよ、おまえ。負けんな」

アシスタントが時計を見た後にサイドミラーでボクに目線を送る。ボクは言葉がうまく出てこなかった。
雨がおさまっていた。風がやんでいた。タイムリミットだった。




 始まってしまったボクたちは、必ずいつか終わる運命にある。
必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる。ただその必ずが今日なのか、明日なのか、18年と8ヶ月なのか、それは誰にも分からない。

FMラジオから知らない国の知らないミュージシャンの聴いたことのないバラードが流れていた。中目黒を行き交う車と人々が織りなす喧騒がそれに気持ちよく混ざりあっていた。

この狭いワゴン車で過ごした夜明けの出来事を、どこかの町の喫茶店でナポリタンを食べている最中に、クライアントに電話をかけてコール音が鳴っている最中に、あるいは、いつかまた誰かとの別れを迎えた夜明けの横断歩道で、ふと空を見上げ思い出すような気がした。

「だけど結局、俺たちが何をしても世の中はびくともしなかったなぁ」ボクは出会ってきたすべての人たちにつぶやくように関口に言った。
「そうかもな」関口は少しだけ口角を上げ、立ち食いそば屋でサラリーマンを元気に見送る真田に目をやった。

「まぁでも、きみの人生は大きく狂わせちまったけどな」

そう言って、運転席のアシスタントに声をかける。ボクはサイドミラーを覗く。アシスタントの彼女の左頬には、わずかにまだ三上に殴られた傷が残っていた。
彼女はこちらを振り返り、神妙な顔で言った。

「ほんとに……わたしなんかのためにすみません」

関口は何も答えずにジャケットをはおると、座席から立って運転席の彼女の左手に万札を握らせた。「あ、あの」とアシスタントが言うのを制し、にっこり笑って「転職祝い」と告げた。

「んじゃ、行くわ。おまえと話せてよかったわ」そう言うと関口は、ボクの肩をポンポンと叩いた。

「あーっと、ちくわそば。一緒に真田のちくわそば食わないか?」関口が靴を履きながら、ボクの方を向いた。「俺はまだやめとくよ」思わずそう口をついた。

「オッケー、オッケー」関口はわかってるよと言わんばかりに、おどけながら握手を求めてきた。

ボクはその手を握る寸前に言った。

「関口……」
「ん?」
「俺、おまえのことどっかで気に入らなかったよ。ずっと」

関口は「そんなの俺もだよ」とニヤリと笑って強く握手をしてきた。ボクもできる限り力をこめて握り返した。
運転席のアシスタントがハンドルに体重をかけながら不思議そうにこちらを覗いている。

ボクらはもう一度、ギュッと強く力を入れてから手をはなす。

関口はふと真顔になると、こんな質問をしてきた。

「人と別れる時ってさ、みんな何を話すもんなんだろうね」
「え? んーまぁ、一緒に過ごした思い出話とか? 感謝の気持ちとか。あとなんだろうなぁ」
「その相手が、涙を流すような言葉とか?」
「まぁそうだな」

立ち食いそば屋に4人の若いサラリーマンが入っていき、真田は一層忙しそうに働いている。

「将来さぁ」唐突に関口が言った。

「将来って、俺らもう40超えてんだぜ」

ボクの言葉に関口は背中を向けたまま続ける。

「将来さ、一緒にまた仕事しようぜ」

関口はこちらを振り返りボクの目をジッと見た。しばらくしてから、ふっと笑い「それまで生きてろよ〜」とボクを指さしながらスライドドアを勢いよく閉めた。

関口は振り返ることなく一直線に立ち食いそば屋に向かうと、一呼吸置いてドアを開けた。立ち食いそば屋の厨房で、せわしなく動いていた真田が固まった。関口は厨房の真田に向かって深々とお辞儀をした。4人組の若いサラリーマンがポカンとその光景を眺めている。

「恵比寿の打合せ、どうします?」アシスタントが声をかけてきた。
「行くよ、遅れてるから電車で行くわ」ボクはまだ真田と関口から目を離せなかった。
「わかりました」
「後でさ、関口を送ってやって」ボクはそれだけ告げると、関口とは反対側からワゴン車を降りて中目黒駅に向かった。




ボクはまっすぐに階段を駆け上がって、ホームに向かう。中目黒のホームに続く階段を降りてくる人波をよけながら、最短距離を目指した。

発車のベルが鳴り響く中、乗車率150%の日比谷線に、肩で息をしながら飛び乗った。

カバンからスマホを探す。恵比寿で待ち合わせをしているもうひとりのアシスタントから何度も電話がかかってきていた。約束の時間からもうずいぶん遅れてしまっている。言い訳メールの前に癖でフェイスブックのチェックをしてしまう。

世界の人口は60億を超えて今日も増え続けている。ボクたちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間はもう残っていない。渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことはもう二度とない。
車輪の音がけたたましく鳴り響いた。地下鉄の窓に映し出されたボクは紛れもない42歳の男だった。老けたなぁ。

カーブに差し掛かって、日比谷線が激しく揺れた。ひとりの女性のアイコンが文面と共に目に飛び込んでくる。

〝小沢(加藤)かおり〟。久しぶりにその文字列を読んだ。

車両がふたたび左右に揺れる。ボクはつり革を握りなおす。
日比谷線が暗闇の中を突き進んでいく。








(おわり)



 モデル:横田光亮






燃え殻
もえがら  
1973年生まれ。テレビ美術制作。企画、人事担当。社内で新規事業部立ち上げの責任者になり、社内にいることが激減。日報代わりに始めたTwitterがある時から脱線し続ける。結果、現在フォロワー数6万5千を超えるアカウントになる。 twitter:@Pirate_Radio_

ボクたちはみんな大人になれなかった |第一部

水曜日, 2月 24, 2016

ボクたちはみんな大人になれなかった |第一部


 

 

ボクたちはみんな大人になれなかった

 

#1

最愛のブスに〝友達リクエストが送信されました〟


2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
やたらと叙情的なつぶやきで共感を集め、フォロワー6万5千人超えの謎のツイッター職人、燃え殻 @Pirate_Radio_さん。ツイッターが生んだ後ろ向きのカリスマ、史上最大級のつぶやきをお楽しみください。



ハンドルネームしか知らない女の子が、目の前で服を脱いでいく。
彼女もボクのハンドルネームしか知らない。

枕元の有線でレベッカの『フレンズ』が流れ始めた。やけに懐かしい。きっと彼女がまだ生まれてなかった頃の曲なのに、彼女は口ずさみながらブラジャーのホックを外している。ボクは裸でベッドの上で体育座りをしながら、ぼんやりとソレを眺めている。

渋谷の円山町の坂の途中、神泉のそばに安さだけが取り柄のラブホテルがある。そこは東京に唯一残されたボクにとっての安全地帯。

そのラブホテルに、その子とチェックインした。
どんな男と付き合ってきたのか、実際の年齢、仕事、彼女の語ったことが本当なのかわからない。確かめようもなかった。

彼女は、「ほら、コレ」と裸のままスマホを見せてきた。安直な照明のスタジオで、あからさまにサイズの小さい水着をつけて四つん這いになった写真だった。「わたし、グラビアやってるんです」という話に少し信憑性が出た。

「ねぇ聞いてよ、この間さ、今回の衣裳です!ってトイレットペーパーを1ロール渡されたの。ありえなくない?」彼女はそんな話をしながらボクの背中に柔らかい乳房を押し付けてきた。

「わたし、自分のことより好きになった人いないかも」
「俺もだよ」それもまた噓だった。

時間の感覚が完全に麻痺する真っ暗闇のラブホテルの一室で、彼女は一つだけ本当のことを言ってくれた。

「わたし、大竹しのぶさんみたいな女優さんになりたい」




日比谷線は中目黒を出て、広尾に向かって地下に潜る。
地下鉄の暗闇の窓に映し出されたボクは紛れもない42歳の男だった。
老けたなぁ、と思いながらカバンからスマホを探す。恵比寿で待ち合わせをしてるアシスタントから何度も電話がかかってきていた。約束の時間からもう10分遅れてしまっている。
言い訳メールの前に癖でフェイスブックのチェックをしてしまう。

地下鉄の揺れの中、ひとりの女性のアイコンが「知り合いかも?」の文面と共に目に飛び込んできた。揺れにつり革で対応しながら、そのページから目が離せなくなっていた。彼女は「自分よりも好きになってしまった」その人だった。
 
〝小沢(加藤)かおり〟久しぶりにその文字列を読んだ。

満員電車は恵比寿の駅に滑り込む。ドアが開き、降りる乗客と降ろされる乗客が雪崩の様にホームに吐き出される。その流れをかわしながら、〝小沢(加藤)かおり〟のページに見入っていた。
ドアが閉まり少し減った乗客を乗せ、地下鉄は六本木に向かう。とりあえずアシスタントに「外せない用事が入った遅れる」とメールを送った。

「自分よりも大切な存在」だったその人は、目的地を決めないで出かけることが大好きな人だった。降りる駅を決めないまま新幹線でふたり、東北に向かったこともあった。
ダサいことを何より許せない人で、前衛過ぎるイベントによく2人で出掛けた。チラシとポスターがオシャレなクソ映画、チラシとポスターがオシャレなクソ演劇に、よく二人で足を運んだ。

今でも彼女のことを時おり思い返すことがあった。最後に会ったのは1999年の夏、渋谷のロフト。リップクリームが買いたいと出掛けたなんでもないデートだった。別れ際「今度、CD持ってくるね」と彼女は言った。それが彼女との最終回だった。月9ドラマは別れるにしてもハッピーエンドになるにしてもちゃんと12回で人間関係は必ず集約していく。だけど現実の最期のセリフは「今度、CD持ってくるね」だったりする。
彼女があの時、すでに旦那と知り合っていたこともフェイスブックに長々と書かれた出逢いのエピソードで知ることになった。

マークザッカーバーグがボクたちに提示したのは「その後のあの人は今!」だ。

ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、ボクにはとても頑丈な幸せに写って眩しかった。

彼女のフェイスブックをスクロールさせる。日比谷線は暗闇を突き進んでいく。

スマホの画面にはアシスタントからのメールが届いたことが表示されては消える。フェイスブックの彼女のページをたどると、皇居マラソンを日課にしていること、一風堂をこの半年我慢してることを知った。

彼女はグラビアアイドルのようなカラダではなかったし、夢もたいして口にしなかった。よく泣く人で、よく笑う人だった。酔った席で彼女のことを話すとよっぽど美人だったんだろうねぇと言われることがあるが、彼女は間違いなくブスだった。ただ、そんな彼女の良さを分かるのは自分だけだとも思っていた。

渋谷の円山町の坂の途中、神泉のそばの安さだけが取り柄のラブホテル。そこは東京に唯一残されたボクにとっての安全地帯。
なぜなら自分よりも好きな存在になってしまった彼女と、一番長く過した場所だったからだ。

満員電車が激しく揺れた。ずいぶん遠くの駅まで来てしまった気がして、慌てて降りた。日比谷線、上野駅。亡霊のように灰色のサラリーマンたちが改札に吸い込まれていく。ボクはその波に流されながら、握りしめたスマホの中の彼女のページにもう一度目をやる。

「え!?」と思わず本当の声が出た。

友達申請の送信ボタンを押してしまっていた。

人波に巻き込まれて不意に押してしまったこの状況をまだ受け入れられない自分がいる。言葉がまだ見つからない。何体もの亡霊が、立ち尽くしたボクの周りをすり抜けていく。

ボクは時間が止まったように〝友達リクエストが送信されました〟の画面を眺めていた。


 モデル:福田愛美

 

#2

海いきたいね」と彼女は言った


1999年、ボクはド底辺のお先真っ暗な二十代のガキだった。彼女とはいつも、ラッセンのジグソーパズルが飾られた円山町のラブホテルで過した。「地球滅亡しないかなぁ」とか言いながら――
フォロワー7万人超えのツイッター職人、燃え殻@Pirate_Radio_さんの一番長いつぶやきをお楽しみください。




「海いきたいね」それがあの頃の彼女の口癖だった。

上野駅のホームで誤って彼女に送ってしまったフェイスブックの〝友達リクエスト〟。スマホをしばらくの間ジッと眺めていた。反応はない。ひとつ、ため息をついた。この感じは懐かしい。懐かしい痛みを心臓近くで感じている。彼女と一緒だった時、ボクはとにかくいつも待たされていた。

どういう方法で攻めても結局、オセロの盤は一方的に彼女の色に染まってしまう関係だった。あの頃のボクは、円山町のラブホテルで彼女にへばりついて寝ている瞬間だけが、安心で満たされていた気がする。




1999年の春。坂道のふもとにあったセブンイレブンで、ボンゴレパスタとポカリスエットを二人分買い込んで、あのラブホテルに向うのがいつもの定番コースだった。
トイレにはどの部屋にもラッセンのジグソーパズルが飾ってあった。それを見て彼女は、トイレから出てきたら必ず「海いきたいね」と言っていた。


どの部屋も窓は開かなかった。窓がない代わりにヨーロッパ調の窓の絵が壁に大きく描かれていた。空調は効き過ぎていて強か弱しかなかった。

ボクはとりあえず部屋に入ったらベッドにダイブして、枕元の有線を邦楽ロックに合わせる。彼女は部屋をすぐに真っ暗にした。真っ暗過ぎて二人して下着に足をとられたりしていた。

密閉された暗闇の中、世の中から遮断された場所でゴシップネタや仕事の愚痴を言いながら黙々と抱き合った。ボクの頬に彼女の液体が触る。暗闇でも彼女が泣いていることは確認できた。涙と汗がブレンドされた彼女のカラダを丁寧に舐めた。彼女はボクにとって、とても懐かしい匂いがした。過去の何かに似てたわけじゃない。ただとても懐かしい香りだと感じていた。彼女はあの時、なんで泣いていたんだろう。

青春時代、男性誌『Hot-Dog PRESS』に〝セックス中にやたらしゃべる男は嫌われる〟と書かれていたので、ボクは必死に最低限を心掛けていた。
彼女もボクも初めはかなりセックスに対して手探りだった。確認はしていない、ただ二人合わせても、人生で10回も経験していない同士だったはずだ。

彼女はよく「人が横にいると眠れない人なんだ、わたし」と言ってて「俺も」なんて合わせていたけど、すぐにふたりともぐっすり眠っていた。



目が覚めると部屋は真っ暗で、早朝なのか昼なのか、ここがどこなのか分からなくなるような錯覚に陥った。部屋にはレベッカの『フレンズ』が小さな音で流れていたのを覚えている。喉が渇いて、暗闇の中で下着とポカリスエットを同時に探した。彼女はとにかく朝にめっぽう弱くて起きる気配はまったくない。

ヌルくなってフタもどっかにいったポカリスエットを飲み干して、お湯をためようと浴室に行く。小窓から外がもう白んでいることを知る。風呂場に敷かれたタイルの冷たさをはっきりと覚えている。
今日、これから仕事をするなんて噓みたいだな、いつもそう思いながら定まらないお湯の温度を手で探っていた。

朝の10時にチェックアウトだから、いつも9時には彼女を背負うように浴室に運んだ。ふたりで湯船につかりながら「あぁ地球滅亡しないかなぁ」とか、まだ半分寝ぼけた彼女はよくつぶやいていた。

ドライヤーをかける彼女を尻目に身支度をした。彼女は「あ、待って待って」と最後にいつもトイレに行くのが習慣だった。もうすぐチェックアウトの時間。
男性誌『Hot-Dog PRESS』には〝女性の朝の支度を急がせるな〟とも書いてあった。ぐしゃぐしゃのベッドにうつ伏せになって、今日の予定を反復する時間に当てた。ただその時はだいたいベッドに脱ぎ捨ててあった彼女のコートを敷いて、微かに香る彼女の匂いを全力で嗅ぎながら反復をした。

いつの間にかトイレから出てきた彼女から、ベッドでバタ足をしながらコートの匂いを嗅いでる男にツッコミが入る。「変態、行くよ」と声がかかる。お前待ちだっての!と思いながら、今更になって部屋の鍵がないことに気づく。
探してるボクの背中に、彼女が言う。「ね、ふたりで海行きたいね」と。
その約束すら、ボクは結局果たすことができなかった。

フロントからチェックアウトの時間を告げる電話が鳴っている。



モデル:福田愛美



 

#3

ビューティフルドリーマー』は何度観ましたか? 


2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
フォロワー7万人超えのツイッター職人、燃え殻@Pirate_Radio_さんのいちばん長いつぶやきです。




毎日毎日、満員電車に乗っていたら、たまには会社に行かずにどこか遠くへ行ってしまいたいと思う方がまともだ。そういうネガティブな考えの人間は大人じゃないとか根性がないと言う人とは友達になれない。まずそんな人間はポジティブで根性があって、センスがない。それが立派な大人なら、ボクはやっぱり立派になりそこねたんだと思う。

上野駅のホームのベンチに座りながら、アシスタントからの何度目かのコールにでた。スマホの向こうから「勘弁してくださいよー!」の声。剥けたくちびるの皮が痛い。用事が片付き次第、会議には出るよと約束をしてスマホを切る。そしてまた性懲りもなくフェイスブックを開いてしまった。

駅にはまた新しい人たちが白線に沿って整列を始めていた。暗闇の向こうから日比谷線のライトが近づいてきている。




彼女との出会いは、この世にまだ携帯電話もヤフーニュースもない時代、雑誌の文通コーナーだった。

その頃のボクは横浜郊外の、徹底して不衛生で有名だったエクレア工場で働いていた。 スーパーマーケットの店頭に並ぶエクレアを、6個ずつひたすら箱に詰めていくというドーパミンがやたらと出てくる仕事をしていた。同僚のほとんどはブラジル人で、日本語はみんなボクよりも達者だった。昼食付きと書かれていたけれど、崩れたエクレアが皿にてんこ盛りで置いてあるような有り様だった。
 休憩室にはいつも誰かが持ってきた『デイリーan』が置かれていた。今では信じられないけど、たいがいの雑誌に文通コーナーがあって、アルバイト探しの情報誌のはずの『デイリーan』ですら最後のページは文通コーナーだった。


ボクはその文通コーナーを面白半分によく読んでいた。

「聖闘士星矢のキグナス氷河ファンの方、文通してください」(ダイヤモンドダス子)「ゴッドファーザーの特にパート2が好きな人! 連絡お待ちしております!!」(ポマード2世)といった調子の投稿を暗記しているぐらい好きだった。ラジオのネタ投稿を覗くように毎回読んでいた。

ある日「バイト雑誌なのにこのコーナーから読む人、文通してください」(犬キャラ)という投稿に目が止まった。それが彼女だった。そのプイって感じ、そして小沢健二のファーストアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』を略したペンネームに、呼ばれるように手紙を書いた。便箋は一番オシャレだと思っていた無印良品で買った。ただ、返事はさっぱりこなかった。

その後、ボクはいくつか仕事を転々としながら、六本木のテレビ番組で使うCG映像や小道具を作製するデザイン会社に潜り込んでいた。手紙を出したことも忘れ、1年がたった頃、こんな便箋が届く。

「お返事が遅れて申し訳ございません。私、ブスなんです。きっとあなたは私に会ったら後悔します」

その便箋はインドのお香の匂いがして、高円寺むげん堂の新聞を千切って自分で折り畳んでつくった封筒に入っていた。顔も年齢も知らない彼女に、ボクはもう惹かれていた。その匂い立つサブカル臭にやられてしまっていたからだ。

「新宿アルタ前でWAVEの袋を持って会いませんか?」とヤクの受け渡しのような手紙を返した。何度目かのやり取りで彼女は承諾してくれた。「本当にブスですからね」と再度念を押された後に。



携帯のない時代の待ち合わせは命がけだった。家を一回出たら最後、あとはお互いの信頼関係しか頼みはない。
「アルタを正面から見てできるだけ左側にいてください。WAVEの袋も目立つようにロゴを正面に持って下さい!」と刑事のように細かく指示を出した。

10分前にアルタに着いたボクは、30分前に着いていた彼女とすぐに目が合った。
「WAVEの、」と彼女が言って、ボクも「WAVEの、」と言った。劇的じゃない人間同士が、ありふれた場所で誰からも注目されずに静かに出会った。

すごいブスを覚悟していたので、ふつうのブスだった彼女にボクは少し安堵した。その時、「やっと会えたね」と辻仁成より先に言っていたことを、彼女と別れるまで何度も茶化されることになる。

道に迷いながら見つけたのは、古い日本家屋をそのまま使った喫茶店だった。ボクたちふたりしかいない店内で、お互い緊張しながら向かい合った。

水を打ったように静かな店内で、呼吸も忘れたかのように無言で座っていた。彼女が「初めまして」とだけ言った。ボクも「初めまして」とだけ言った。

お互いに一言づつ話し、アイスレモンティーに同時に口をつけ、またしめやかな空間に戻っていくという出来事が繰り返されていった。ボクはテーブルの中央に置かれたままの灰皿を隅に追いやって、意を決してメニューを開き「ここ、何が名物なんですかね?」と今考えればスットンキョウなことを口にした。「え、名物?」と言ってから彼女は初めて笑ってくれた。「へへ」と小さく笑う彼女の声でやっと店内の張り詰めた空気が緩んだ気がした。
彼女はボクより3つ下だったけどその時、やけに大人だなと思った。思った理由がウエイターに、本日のパスタをスムーズに聞いたというだけなんだけど、喫茶店にひとりで入ることもほとんどなかった23歳のボクには相当な社会人に映った。

当たり障りのない会話の無限ループに耐えられなくなったボクは、彼女との文通で何度も話題に上がった〝大友克洋の『童夢』の素晴らしさ〟について切り出してみた。彼女の声が一段上がった。ボクの話すピッチも一段上がる。返す刀で「ビューティフルドリーマーを何度観ましたか?」と彼女に質問された。ボクの答えは2度だった。彼女に「すくなっ!」と言い返された。

そのあとは怒涛だった。初対面とは思えないほど話せた。あっという間に窓の外は夕暮れになっていた。レモンティーの氷もすっかり水に戻ってる。「もう外、暗いね」と言うと、彼女は「あ、ミッキー」とつぶやいた。彼女の視線の先には和風な店内にまったく似つかわしくないディズニーキャラクターの絵柄の入った壁かけ時計があった。
店内の客はボクたちだけで、時刻は午後5時を少しまわっていた。

ビューティフルドリーマーは、あれから一度も観ていない。もう一生分観たのかもしれない。何度も何度も繰り返し、あのラブホテルの暗闇の中でふたりで観尽くしてしまったのかもしれない。

夏だった。ベープマットをつけていた。科学の臭いがするラブホテルの部屋で、備え付けのビデオデッキにダビングして爪を折ったVHSテープを突っ込んで、再生ボタンを押した。

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は1984年に押井守監督が発表した、観客に対し全編謎掛けをしたような異色作だった。

物語は、学園祭1日前から始まる。みんなが明日の学園祭をワクワクしながら準備をしている。「この瞬間がずっと続けばいいのに」ラムちゃんはそう口にする。そして登場人物たちは帰路につく。そして次の日、また学園祭1日前で、みんなが明日の学園祭をワクワクしながら準備をしている。あれ、俺たち同じ日を繰り返してないか?と気づき始めて次の日を迎えるとまた学園祭1日前という無限ループをする話だ。
 ラスト近く、眠りから覚めたラムちゃんが言う「とても楽しい夢を見た。みんなといつまでも仲良く過ごす幸せな夢だった」あたるは「それは夢だよ」と答える。その同じ場面を彼女は巻き戻しては繰り返し観ていた。



金属と金属がぶつかるような音を立てて停車した日比谷線からまた大勢の人間がホームに吐き出されてくる。

アシスタントから「会議だけはマジで! マジで! お願いします!」と今度は拝んだスタンプ付きのLINEが届いた。了解、了解をスタンプと共に返信して、ホームに目をやるとまた白線に沿って大人たちが並び始めていた。

そろそろ逆のホームに乗り換えて、六本木に向わないと。彼女への友達申請が受理される気配は一向にない。ただでさえ面倒な日常に、もうひとつ特大の面倒を増やしてしまった。ボクは大きくひとつため息をついて、逆のホームに向って階段をあがった。


モデル:福田愛美

 

#4

1999年に地球は滅亡しなかった

2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
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これは絶望であり希望でもあるんだけど、“人の代わり”はいる。哀しいかな誰がいなくなっても世の中は大丈夫だ。あの人みたいな人は二度と出てこないと人はすぐに言うが、二度と出てこなくても正直、日常に支障はない。
自分もあなたもあの人も、いてもいなくても世の中は平常運転。その心持ちで臨むと結構、力が抜けて自分には具合が良い。

ただ振り返っても唯一ひとり、代わりがきかなかったのが彼女だ。はじまりは、そんなことになるなんて思いもしなかったけど、気付いた時にはもうだめだった。
彼女に教えられたことは、心の傷ってやつにもいろいろあって、時が癒してくれる傷と、アザのように消えずに残り続ける傷の二種類あるということだった。
フェイスブックが無神経に差し出した彼女のページをみて、その消えない傷がズキズキと痛み始めていた。彼女はいつまで経っても思い出にさせてくれないひとだった。

ホームを駆け上がる途中、椎名林檎に少し似た顔立ちの胸の大きな女性とすれ違った。さっき改札の前を通る時に自販機で温かいほうじ茶を買えばよかったと後悔している。またDVDを5枚も延滞してることをここにきて突然思い出した。
六本木に戻るため、さっきと反対側、中目黒駅行きのホームに立ってる。こんなことなら入谷まで行けばよかった。近くには行くのに、もうずいぶん降りていない。
今日はいろいろ全部もったいないなぁ……。




上野の横に入谷という場所がある。年に一度だけ、朝顔市でニュースに取り上げられる地域だ。

1990年代の後半、ボクはその入谷にあった広告の専門学校に通っていた。すぐ近くには鴬谷のラブホテル街が広がっている。というか、その学校はラブホテルとラブホテルの間にあった。

高校時代にバカの黒帯を取ったボクはその地の果てのような専門学校に護送された。入った学科は「広告クリエイティブ科」という正真正銘のダサい学科。もちろん2年後の卒業時、広告関係に就職する者はゼロだ。
いま思えば「入谷」という名前も谷の入り口、ドン底を暗示していているようにすら見えてしまう。その学校は老人養護施設になってしまって、この世にもうないのだけれど。

奈落の谷への入学初日。指定された教室のドアを開けると今でいうアキバ系の人たちが大多数、あとは無味乾燥でボンヤリと今日を生きてるような奴らという構成の66名。定員50名しか入れない教室に66名もぶち込まれていた。人で溢れかえる教室で講師を待った。
しばらくすると元コピーライターだと名乗る講師が入ってきて「ちょっと最初は狭いけど、夏休みが終わるとドッと減るから安心して下さ〜い」と使い古された手ぬぐいで、ホワイトボードの落書きをまあるく拭きながら、だらしなく笑った。

安達哲の名作マンガ『さくらの唄』にこんな一説がある。

「ある程度の教育を受けたやつなら分かるはずだ、俺たちのほとんどにロクな人生が待っていない事を」

そのセリフが頭の中を何度もよぎった。バカでも分かった、ここにいても社会の数には入れない。
でもボクはそこで、社会どころかクラスの中でも数に入ってなかったことを思い知ることになる。

最初の授業で「企業のポスターにキャッチコピーを付ける」という課題があった。後日、講師が良かった生徒のコピーを5作あげた。そこにボクの名前はなかった。
この地獄の果てみたいな場所での生存競争ですらボクは負けた。こいつらにも勝てないのか!と愕然とした。地味めの女の子が選ばれて地味めの女友達とハイタッチをしていた。
講師は「他のみんなも良かったです、では一応私のコピーも紹介しますね」そうもったいぶったコピーがクソつまんなかった。クソつまんないから選ぶセンスがないんだと納得させたかったけど、その講師のコピーが実際、本当に企業で使われたものだったと説明を受けて決定的に落ち込んだ。
また負けた。バカでも分かった、ここでもボクはまだ数に入っていない。

そこで落ちこぼれた連中と、学校のすぐ近くにあった駄菓子屋に毎日のようにたむろっていた。店主の老夫婦が作る250円の焼うどんを食べながら、その頃よく盛り上がった話は「1999年に地球が滅亡する」と予言されていたノストラダムスの大予言についてだった。
あの頃のボクらにはノストラダムスの大予言だけが未来の希望だった。もうすべて帳消しにしたかったんだと思う。とにかく飽きもせず何度も地球滅亡の話をして盛り上がった記憶がある。
一番仲が良かった車谷は「どうせ、1999年に地球は終わるんだぜ」が、どんな話の語尾にも付いた。貯金をまったくしない理由、将来就職をしない理由、自分がまだ童貞な理由。その全部の語尾は「だってどうせ、1999年に地球は終わるんだぜ」だ。
鬱屈したボクらは、沼の底の底のさらに底で息を潜めながらギリギリの正気を保とうと必死だったのかもしれない。

卒業する頃には専門学校自体が傾きはじめて、先生が就活をしているという喜劇のような状態に陥る。
担任講師が言った通り、夏休み明けには生徒が激減した。最初の課題で選ばれた5名も卒業の頃には全員、学校を去っていった。駄菓子屋でダベっていた最低を共有した仲間達もひとり、またひとりと散っていった。卒業の半年前、駄菓子屋の爺さんが肺炎で亡くなった。
車谷は最後の課題を提出するところまで学校に残っていたのに、引っ越しのバイトが続いて眠かったとかいうバカな理由で卒業の1ヵ月前に学校を辞めた。
そして1999年に地球は滅亡しなかった。
 
あの頃、車谷が口癖のように言っていた恐怖の大魔王がやってくるはずの夜、ボクは円山町の坂の途中、神泉に近いあのラブホテルに彼女と一緒にいた。その日は風が強くて、ギィギィと鉄の看板が軋むような音まで聞こえた。
腕枕をすると眠れない癖にそのことを言い出せなかったボクは、彼女の寝息を聴きながら地球の終わりを信じていた車谷のことを思い出していた。

風の音が怖かった。彼女の胸にそっと耳をあてる。
滅亡しなかった地球のドン底でボクはまだしぶとく生きていた。



モデル:福田愛美

 

#5

ギリギリの国でつかまえて

2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
フォロワー7万人超えのツイッター職人、燃え殻 @Pirate_Radio_ さんのいちばん長いつぶやきです。



下品なゴシップが書かれた中吊りを見ながら六本木に折り返している。
日比谷線下りの午前中の車内はほどよく空いていて快適だ。日比谷線で仕事場まで護送されるだけの毎日もこれだけ繰り返されれば慣れてくる。
電車のブレーキ音がけたたましく鳴り響く。眠りこけていたサラリーマンが驚いて、真っ暗闇の窓を覗いた。

彼女とのことを思い出しながら、二十代の酸味の強い出来事が、二日酔いの胃液のように次から次にリバースしてくる。
ラブホテルに入るとボクはテレビをよくつけた。すると彼女は「こういうの本当くだらないよね」と必ず言って笑った。その情報番組では芸能レポーターが、フリップを使ってどうでもいいゴシップを丁寧に報告していた。本当にどうでもよかった。ただボクはまったく笑えなかった。なぜなら、そのフリップを作るのがボクの仕事だったからだ。
 
テレビで芸能人がめくるフリップ、出演者がしゃべった時に下に入るテロップ、番組内で使われる小道具。オープニングタイトルのCG。それらを時間通りに作って現場に届けるという、テレビの美術制作をこの20年間、生業にしてきた。

あの頃は、今よりさらに明日が不安だった。彼女と一緒に居る時以外のボクは、常にギリギリの精神状態だった。そこは「修羅の国」と言うほど、かっこよく荒れてもないし、「不思議の国」と言うには、不条理ばかりで、それはいわば「ギリギリの国」と言うのが正確な表現だった。

ボクは「人生に無駄なことはひとつもない」という人は、相当忘れっぽい人間だと思っている。ただ、無駄でしかないと思っていた時代に出会ったひとりの男のことを、地下鉄の暗闇ごしにまた思い出していた。彼と出会ったのはギリギリの国の窒息しそうな場所だった。




1999年のクリスマス間近の東京、六本木。
六本木で仕事を始めてから初めてのクリスマスだった。高層マンションの最上階の窓際に、キラキラした豪華なクリスマスツリーの灯りが見えた。ボクはぼんやりと少しの間、星を眺めるように立ち止まってそれを見ていた。

専門学校から社会に放り出されて3社以上転々として、そしてなんとか転がり込んだその会社はジリ貧だった。当然、ボクの人生もジリ貧だった。
その会社の最初の月の売上げは、全体で30万にも満たなかったはずだ。
パソコンのリース代が8万ちょっと、家賃7万5千円、それに諸々の経費かかって、見事な赤字運行だった。社長は最高400万以上を消費者金融に借りていたはずだ。たまにかかってくる電話、玄関でのやり取りでそれは見習いのボクにすらバレバレだった。
任侠モノのVシネマのパッケージデザインをしたギャラが、今川焼20個だったりするような仕事がざらにあった。
自己啓発本もそこらじゅうの起業家も「夢を持て!」「目標を持て!」と連呼する世相だったが、こちとら「夢と目標の前に、今日、食っていけないと終わる」という殺伐とした現実に生きていた。

クリスマス間近の六本木にボタ雪が降っていた。ボクは雪などお構いなく、雨カッパを着て原付バイクで制作物の配達に出る。
ディスコ ヴェルファーレのすぐ目の前にあった事務所の脇に、配達用で停めてあった原付の座席に薄ら雪が残っていた。手袋をすべきだったと思いながら原付にまたがり、冷たい突風に肩をすくめ出発した。手の感覚が寒さでかじかんで麻痺していく。走り始めて5分も経たないアマンド前の交差点。路上がアイスバーンになっていたことに気付かなかった。ハンドルを強く握ろうとしたけど力が入らなかったように思う。次の瞬間、ボクは激しく道路に打ちつけられた。

カバンにしまってあったテロップの束が散乱して、請求書が溶けた雪に沈んでいた。テロップの紙は写真に使われる印画紙と同じ素材で、そこに黒のインクが吹きかけられてるだけなので水にはめっぽう弱い。
履いていたジーンズは左側が激しく破れて、左の膝部分からふくらはぎにかけて血がドクドクと流れていた。左手の指の爪も親指以外、途中から千切れてしまっていて、こちらも血がまったく止まらない。

ただボクはあたまの中で、テロップを濡らさず、できるだけ早く、編集スタジオに届けなければいけないと考えていた。あまりに気が急いて、痛みをかき消していた。本当にそれだけしか考えていなかったと思う。
一つの仕事で信用を失ったら、会社が終わってしまう状態だった。それは下っ端のボクでもよくわかった。ボクのせいで会社が潰れると思った。
クリスマスイルミネーションの六本木交差点は人でごったがえしてたはずなのに、血がつかないように地べたを這いつくばって、散乱した荷物を拾うボクを助けてくれる人はゼロだった。誰もボクのことが見えてないみたいだった。ボクは社会の中でまだ数に入っていなかった。左耳の聞こえが悪くてプールで水が入ってしまったみたいな感じだった。少し過呼吸気味になりながらテロップを慎重に一枚、一枚拾っていく。

突然「大丈夫?」と男が立ち止まり、血まみれの左手をグイッと引っ張った。同じビルの3階にいた目つきの鋭いヤクザの若い男だった。階段で何度かすれ違ったことがあった。
コイツには俺が見えるのか? とぼんやりした頭で男を見た。彼もまたギリギリの国で生きていたのかもしれない。
男は傷口を確認したあと、少し溶けた泥雪の六本木交差点脇で四つん這いになって、テロップを拾ってくれた。一枚、一枚拾いながら水で滲まないように自分のハンカチで押してくれた。

普通なら「病院行けよ」だ。ただ彼は躊躇なく「早く届けてこいよ」と言ってくれた。さっきまで水を拭いてくれたハンカチをボクの左手にぐるぐるとキツく縛ってくれた。

編集スタジオはカラオケボックスと同じ仕組みで時間制だ。もし時間にモノが間に合わなかったら部屋代を弁償する約束になっていた。

挨拶もそこそこに彼が集めてくれた配達物を抱えて、遅れを取り戻すように原付を走らせた。
雪が汚く路肩に残った夜の東京を猛スピードで走った。男のハンカチに守られた左手は、心臓が宿ったようにドクドクと規則正しいリズムで激痛を刻んでいた。街を歩く人たちの声が聴こえては消えていく。足も痛んだ。風が当たるだけで血が吹き出た場所が冷たく痺れた。
街を彩るクリスマスイルミネーションは何本もの光の線になってすぐに後ろに流れていく。左手の握力がどうしても戻ってこない。
原付のスピードをフルにしたままボクはなぜかその時、ウルフルズを歌っていた。ガッツだぜ!の覚えていたサビの部分だけを何度も何度も繰り返し歌っていた。スピードは落とせない。もう事故れない。失うものは命以外ないほどに後ろ盾のない場所で、ボクはあの瞬間生きていた。そのスピードの中で夢や希望はとうに振り落とされていたのかもしれない。

品川の編集スタジオまでの道をどう走ったか未だに思い出せない。なぜ間に合ったのかも分からない。届け終わったあと、指の治療を深夜の救急病院でしたのは覚えてる。足の傷の方が重傷だったことは意外だった。



後日、お礼を言いに、左上の監視カメラが睨みを効かせている3階の事務所のチャイムを鳴らした。出て来た上下白ジャージの金髪坊主の男にチェーン越しで、事の顛末を伝える。 「そいつ、もうここにいないわ」とだけ言われ、扉はすぐに閉められた。

男の名前を知ったのはそれからずいぶん経った頃だった。アングラ週刊誌の片隅の、小さな、だけど物騒な記事だった。真夜中のファミリーマートで立ち読みしながら、誌面で再会した。もう二度と会えないことがわかった。店に客はボクしかいなかった。あの時言えなかったお礼を込めて、ボクは心の中でガッツだぜ!のサビの部分だけを何度も何度も小さく口にした。



東京タワーを正面に見ながら六本木交差点を渡る時、ボクはいつもあの光景を思い出す。血まみれの左手をグイッとされた、あの瞬間を思い出す。胸に迫るロマンチックというものはそんな殺伐とした場所で、マッチの灯がフッと点いて消えるように灯るものなのかもしれない。

ブレーキ音が再度、けたたましく鳴り響く。日比谷線が六本木の駅に到着するところだった。アシスタントに「ごめんなさい。体調が戻らなくて駄目なので、今日やっぱり休ませてください」とLINEを送信した。
地下鉄の往復を繰り返し、仕事に余裕ができた途端、ボクはユルユルの国の住人に成り下がってしまった。

スマホのバッテリーメーターが赤い。充電はあと10%。とりあえず改札を出て、地上に上がりたい。



モデル:瀬戸かほ


 

#6

真夜中のナポリタン


2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
フォロワー7万人超えのツイッター職人、燃え殻 @Pirate_Radio_ さんのいちばん長いつぶやきです。





あんなに空いていたのに霞ヶ関からドドドと人がなだれ込んで、六本木駅で降りる頃にはまた満員電車のそれだった。降りるサラリーマンと降ろされたサラリーマンに研磨されながら駅に吐き出された。
一駅、一駅、デジャヴのように繰り返される光景。ループしてるかのような毎日。スマホのゲームに集中しながらホームを歩いていたOLが、目をつむって、白線の内側にいた老夫婦にぶつかりかけた。スマホの充電が限りなく細い赤になっている。
がんばれば報われるという信仰が蔓延する世界で、がんばっても微動だにしない日常を噛み締めている。ボクは改札を出て、階段を上がってアマンドの脇に出た。

ハンドルネームしか知らないあの女の子から何日か前に届いていたLINEを開く。「ねえ、努力すれば夢って叶うのかなあ?」とだけ書かれていた。ボクは「その質問は、ナポリタンは作れるか? と一緒だと思う」と返信した。  
送ったそばから既読になって「ん?」という言葉と、くびをかしげたパンダのスタンプが送られてきた。ボクは続けて「たぶん、手順を踏めば必ず近いものにたどり着くんじゃないかと思う」と送った。返信はまたしてもくびをかしげたパンダのスタンプだった。
 
もし手順通りうまくできたとしても、たとえそれが失敗したとしても、問題はそれを誰と一緒に味わうかなんじゃないか? とボクは思っていた。
ただ、その返信はもう打ち込まなかったけど。




何から手をつければナポリタンができるのか見当もつかなかった1999年のボクは、性懲りもなくあのラブホテルのベッドに沈んでいた。このギリギリの国から彼女と避難するように、週に1度、円山町のあのラブホテルに身を潜めていた。ボクたちにとってあの場所は、現実から一時的に乖離できるシェルターだった。

つけっぱなしのまま寝てしまったテレビの灯りが天井を照らしていた。乾燥して少し埃っぽい室内にのどが渇いて目を覚ました。彼女はめずらしくいびきをかいて眠っている。ずり落ちたシーツをベッドに戻して裸の彼女にかける。

テレビでは今日の関東地方の天気について、お天気お姉さんが解説していた。お台場の外からの中継で、フリップで説明している。夜勤のスタッフが納期に間に合ったことを知って、とりあえずホッとした。

「関東地方は、全般的に汗ばむ陽気になることが予想されます」

滑舌良く、白いノースリーブにタイトなスカートのお天気お姉さんが、各地の最低気温と最高気温を伝えている。ボクは、最低気温と最高気温をリピートしながら、もぞもぞと彼女の背中にピタリとへばりついて、眠っている彼女の乳房と下半身に手を伸ばした。

人生にイミはない、あるのはイマだけだ。

そのお天気お姉さんは後に、プロ野球選手と不倫をして週刊誌で謝罪ヌードとかいう訳の分からない商売に手を染めることになる。

その朝の情報番組のADとは同い年だったということもあってやけに気があった。局でも編集室でも会う度に彼はダブルピースをしてきた。「なんだよ! それ」と会う度に言ったが「いや、ロクなことないから盛り上げてこうと思って」とよくヘラヘラ笑っていた。

彼は派遣のADで、手取りは24時間365日働いても月収11万だった。最初に口をきくようになったのは、ウチの会社もやっと金銭的に落ち着いた頃のこと。彼が発注ミスをして、ディレクターに言われていないテロップまで大量に注文してしまい、深夜に制作会社で困り果てていた時だった。
「今、自分が払いますんで、上にはなかったことにしてください」と彼はナイロンの財布をバリバリ開いた。そのテロップを作ったのも配達したのもボクだったので「あ、これいいっすよ。なんかヤバかったら使ってください」と、その場でもみ消した。「すんません、ありがとうございます。じゃ、せめて缶コーヒーでもご馳走させてください」とやりとりしてから、たわいもないお互いの会社の悪口を話したのが最初だった。

「俺のベッド見ていきます?」と変なことを言うので「はぁ」と生返事を返すと、非常階段に案内された。「ひとり、5段ずつ使ってるんすよ」と彼らの寝床を見せてくれた。風吹き荒む雑居ビルの非常階段で、その時も器用に階段の1段を使って寝袋に入った女の子が1人寝ていた。1段は寝床、他の割り当てられた段は、本棚にして少年ジャンプを並べている者、リュックなどの荷物を置いてる者もいた。
彼の割り当てられた1段に、二人で腰掛けた。

「夢とかってあります?」と煙草に火をつけながら聞かれた。「夢かぁ、そんなんないなぁ」とボクはヘラヘラ応えた。「俺もないんすよ、全然。でも夢持たないと、夢が破れたりしないからお得ですけどね」と言って、これまたヘラヘラ笑っていた。とっくになくなっていた缶コーヒーを何度も口にしながら、将来に夢も希望もないなんて言い合った二人が、朝日が昇るまで将来の話ばかりしていた。
彼の制作会社を出て原付にまたがって後ろを振り返った。玄関先で彼が一回頭を下げてから、ダブルピースをした。

そのADの男はそれから11年後、連続ドラマを2本続けてヒットさせ、作品は映画化され監督と呼ばれる存在になる。

雑誌に彼が小さく特集されるくらいになった時、木枯らし吹く六本木の路地裏で一度出くわしたことがあった。一緒にいた奥さんらしき美しい女性が子どもを抱えていた。ちょうど停めてあったベンツの四駆に乗ろうとしてるところだった。
気を遣って目をそらしてすれ違った。10mくらい歩いた後、少し様子を伺うように振り返ってみた。彼はベンツに乗り込む瞬間、チラリとこちらを振り向いて笑顔で、持っていた缶コーヒーを高くかかげてクルクルとした。ボクは小さくピースを送った。

人生にイミはないのかもしれない。でもイマを必死に生きた人間だけが過去形で「イミはあった」と話せるのかもしれない。



サブウェイの前のガードレールに腰掛けて、フェイスブックの彼女のページを2年前までさかのぼってる。日差しで眩しそうにする親子の幼稚園入園式の写真を見つけた。東京マラソン直前、夫婦でストレッチをする写真。旦那さんの社内フットサル大会の試合風景。ママ友とのケーキバイキングでの集合写真。ボクの知らない彼女の人生とボクの知ってる彼女の人生。ボクの知らない彼女の人生だけが今日もこの瞬間も積み重ねられていく。

彼女の夢はなんだったんだろう?
このスマホの中に収まったフェイスブックの日常が、彼女が密かに願っていたあの頃の夢だったのだろうか。彼女から借りたままになってしまった本が一冊だけ本棚に残っている。何度も読み返したその本は中島らものエッセイだった。そのエッセイの中の一文をボクは暗記している。

「よくあのころ、こうしたらよかったのに、とか言うけど、それはないんや。自分の生きてきた来し方って必然の集積なんだ」

フェイスブックの承認ボタンを押してしまったことも、また必然だったんだと自分に言い聞かせた。そして、恐る恐るフェイスブックのページを覗き込んでみる。
次の瞬間、充電が切れて真っ暗になった画面に42才の男の顔が写った。 



モデル:瀬戸かほ


 

#7

雨のよく降るこの星では


2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
フォロワー7万人超えの燃え殻 @Pirate_Radio_ さんのいちばん長いつぶやきです。




1999年夏、嵐の日だった。千葉県には洪水警報が出ていた。渋谷でもかなりの雨量だったはずだ。密閉されたラブホテルのベッドで眠っていたボクにも、雨と風の音がはっきりと聴こえた。
天候が荒れている、普通の1日のはずだった。しかし、この日が彼女とあのラブホテルで過ごした最後の1日になった。

ザザザッッという雨が吹きかかる音にボクはガバッと、身を起こす。
背中を向けていた彼女がポツリと声をかけてきた。
「起きた?」
「うん」
雨風の音が絶え間なく鳴っていた。

ベッドの上をゴロンと転がってきて、彼女はボクの腰辺りにへばりつき、めずらしく甘えてきた。

「ね、鶴瓶と奥さんのなれそめ知ってる?」
「ん?」ボクがそう答えると、腰をくすぐられてベッドに押し倒された。
「あ、心臓の音が、きこえる……」彼女はそういったまましばらく動かなかった。

「お金がなくて、売れてなくて、奥さんの両親は大反対したんだって……」
「鶴瓶の話?」
「決まってるでしょ」
「うん」

ボクは仰向けで壁紙がところどころ剥がれた天井をぼんやり見ながら、彼女の重さを感じていた。

「遠距離になったふたりは別れるの。その夏、彼は大阪のプールの営業に行くの。プールサイドで、司会をしてるのね。そしたらそこに流れるプールに乗って奥さんが現れたんだって」
「それで?」眠気を抑えながらボクは聞いた。
「彼女は手を振って、帰りの飛行機のチケットを破ってみせるの。ふたりはその日からずっと一緒に暮らしてるんだって」

王子様とお姫様はそのあとずっと幸せに暮らしましたとさ。そうして物語は必ず終わる。物語が物語である理由はそこだ。作り話には結末がある。そのあとずっと幸せに暮らすことが一番のファンタジーだということを物語は常に最後の1行に託している。

「心臓の音……きこえる?」ボクはそう言って彼女を抱きしめた。
「うん……」彼女はそういうとしばらく泣いた。




とある六本木の有名なキャバクラCに、夜な夜なテレビ関係のお偉いさん達が集まっていた。その店の女の子数人の名刺のデザインと上顧客用に配布するパンフレットのデザインを受注していた。六本木ガスパニックのバーテンの女の子から回してもらった仕事だった。この仕事がなぜかテレビ局の一部の上の人に見初められる。
時を同じくして、バラエティ番組にテロップが多用される演出も一般的になり、会社は一気に人数を急増して体制を整え、すべての仕事が倍々ゲームのように膨らんでいった。

お金も仕事もなかった時は、あんなに一致団結していた組織も「方向性の違い」とかなんとかで角を突き合わせることが多くなった。これからの事業戦略に関して揉め始め、創業当時のメンバーから辞めていく者も出てきた。
バブルはとっくにはじけていたはずなのに、少なくともボクの周りのテレビ業界はバブルの残骸がまだ残っていた。

その日は、人気バラエティー番組の高視聴率と5周年のお祝いが、赤坂プリンスホテルの大広間でとり行われていた。受付で名刺を出すとその頃、最新式だったソニーのMDプレーヤーが記念品として全員に配られた。ビンゴ大会の景品は1万円札がパンパンに入った箱の現金つかみ取りや、引っ越し代&家具一式プレゼントなど完全に浮世離れしていた。
一週間に1度、必ず休めるようになって、収入も安定してきた途端、それまでどこに人がこんなに隠れていたんだろう?と思うぐらい食事の誘い、異業種パーティーの誘い、イベントの誘いの連絡が増えた。社会の数に突然カウントされ、周りはキャッキャと喜ぶ人間ばかりだったけれど、ボクは遅れてきた人生の浮ついた季節に、どうしても馴染めずにいた。華やかなパーティー会場で、行き場を失って作り笑いばかりしていた。



一週間が終わって、またあの神泉に近い坂の途中にあるラブホテルに向かった。ラブホテルの暗闇の中で、一週間の出来事を話す。3階の鋭い目をしたヤクザの青年の話、ダブルピースを繰り返す仲の良かったADの話もした。あの部屋の中で、一つ一つの出来事が成仏していった気がする。

雨が止み、風だけが残った明け方、ボクは彼女に小学校の時の話をした。
小学2年の時、酷い脱毛症を患った。髪の毛はもちろん、まゆ毛もまつ毛まで全部抜けた。クラス中どころか学校中から気持ち悪がられていた。その最中、合唱コンクールがあり母が観に来てくれた。体育館は父兄と子ども達の声でザワザワとしている。
自分たちの番がきて、練習と同じ場所に並んで幕が上がるのを待っていると、袖から教師がツカツカっと現れて、一番後ろに回るように指示され、段にも上がらせてもらえなかった。伴奏が始まって、母が一生懸命に僕を探している姿を生徒と生徒の間から見ていた。その時の体育館の床の匂いまで覚えている。ボクはその光景を忘れられないでいた。いつもどこか、その時に感じた申し訳なさの中に、ずっと閉じ込められているような気がしていた。

自分の一番奥の引出しに、鍵をかけて閉まっておいた話を彼女にはできた。その話をした時に彼女は、何も言わずに抱きしめてくれた。暗闇の中、彼女の涙を頬で感じた。そこにボクの涙も混じった。肉体の隔たりを微塵も感じないほど、あの瞬間はひとつだった。

合唱コンクールから帰ってきて、事情を知った飲み屋を営んでいた婆ちゃんが、痛いくらいにボクの体を抱きしめながら耳元でつぶやいてくれた。
「大人になって好きな子ができたら今日のことを話すといい。嘘も交えて話せばいい。約束してやる、そしたらその子は必ず抱きしめてくれる。そしていつか全部、想い出になるんだから」そう言ってくれた。
その言葉はどんなポジティブな励ましよりも、未来に希望が持てた。そしてそれは彼女に会って、本当だったと知った。

彼女は不安な今日と明日を、笑い飛ばしてもくれた。原付でコケた時のジーンズを持っていった時、ゲラゲラ笑いながらそれを履いて「ね、ここ、破れたところ縫ってあげようか?それともお洒落かなぁ?」とベッドで転がりながら大笑いしてくれた。ふたりでよく笑って、バカみたいに泣いた。

加速して増殖する仕事量、お金の話もどんどん桁が増えていく、出会う人数も知り合いも多い方が強みだと賞賛され、女の話になると「可愛いの? 若いの? 仕事なにしてるの? 巨乳?」と聞き返される。彼女の魅力をボクはいつも説明できなかった。説明なんてする必要がないんだろうけど、にしても、どう説明しても「ブスのフリーター」にいつもショートカットされるのが悔しかった。そのうちボクは誰にも彼女のことを話さなくなった。

彼女から教わった音楽を今でも聴いている。彼女から勧められた作家の新刊は、今でも必ず読んでいる。港区六本木にいながら暑い国のことを考えるのは、むげん堂が好きだった彼女の影響だ。彼女はボクにとって、友達以上彼女以上の関係、唯一自分よりも好きになった、信仰に近い存在だった。
ボクが一番影響を受けた人は、戦国武将でも芸能人でもアーティストでもなく、中肉中背で三白眼でアトピーのある愛しいブスだった。



会社には休むと連絡したのに習慣とは怖いもので、結局、仕事場近くのいつもの喫茶店に入って、コーヒーを頼んでしまった。勝手にコンセントを使ってスマホを充電させてもらっている。
店主とはもう20年近い付き合いになる。店主が、カラコロンとドアを開けて外を眺めて「雨降ってきたよ、天気予報また当たったね」と声をかけてきた。「はぁ」とかボクは生返事をしながら、あの頃の思い出の余波に浸っていた。
コーヒーは、もうすっかりヌルくなっている。充電が済んで、スマホが復活した音を鳴らした。ヌルいコーヒーを一口やって、フェイスブックを開いた。

彼女への友達リクエストが承認されたという通知が表示された。



 

#8

バック・トゥ・ザ・ノーフューチャー


2016年まで生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボク。1999年、ド底辺のお先真っ暗な二十代のガキであるところの、ボク。どっちもしょうもないけど、なんでだかあの頃が、最強に輝いて思える。夢もない、希望もない、ノーフューチャーなリアルに「最愛のブス」がいただけなのに――
燃え殻 @Pirate_Radio_ さんのいちばん長いつぶやき、最終回です。



「〝小沢(加藤)かおり〟さんが友達リクエストを承認しました」と画面上部に表示される。スマホを持つ左手がじわりと汗ばむ。目の端に、店主がレコードプレーヤーに針を落とすのが見える。ジッポの小気味いい金属音がして、カウンターの隅に座った細身のスーツの男が、煙草に火をつける。店内に音が広がり、煙草の煙がこの部屋の隅々まで行き渡る。この甘い匂いは、きっと国産じゃない。カラコロンとドアが開き、ランドセルをしょった店主の子が飛び込んでくる。細身の男性は大きく吸い込んだ煙を、口をほの字にして気持ちよさそうに吐き出す。鼓動がドクドクと聞こえる。この胸の痛みは、懐かしい。店主の子が、ボクを見つけて満面の笑みで近づいてくる。少年、キミもいつかはわかるだろうか、オジサンのこの焦燥と希望と絶望が。スマホに視線を戻す。彼女からそれ以外の反応はない。短いため息を吐く。ぬるいコーヒーを一気に飲み干した。

おしぼりで手をふくと、フェイスブックを閉じて、あてもなくLINEを開く。

大竹しのぶみたいになりたいと言っていた女の子から、ここ数日、毎日LINEがきていた。いつも夕暮れどきの写真が1枚、メッセージはなしという内容だった。何気ない、ただの空や街の写真だった。
昨日送られてきた橙色の雲を既読にした瞬間、LINE電話が鳴った。

「もしもし」ボクはフェイスブックの誤爆事件から逃れるように電話に出た。
「もしもし、わかる?」電話越しに駅の雑踏の音が聞こえてくる。
「わかるよ」
「わたしもね、わたしなりにね、考えたんだ。わたしの〝ナポリタン〟」
「え?」
「もう、わたし、27なの。5才もサバよんじゃった。ごめんね」
 ボクは彼女の告白を黙って聞いていた。
「わたしのお母さんは良い人じゃないけど、一人でわたしたち兄妹を育ててくれて。苦労 ばっかりかけたから」
「うん」
「わたしね、わたしはね、やっぱり女優さんになりたいんじゃない。わたしはね、いいお 母さんになりたい。へん?」
「へんじゃない」
「ありがとう」彼女の声が、後ろに聞こえる電車の音にかき消されそうだった。
「ごめん」思わず口からこぼれた。
「空の写真、ごめんね。毎日送っちゃって。同じ時間に送ってたの。会えなくても同じ空 の下にいるよって伝えたかった。うまくなくて、ごめんね」
「いや、ごめんじゃない」
「あと、わたしね〝サイトウ チヒロ〟っていうの」
 彼女を死ぬまで抱きしめる情熱がないことを、せめて悟られまいとボクは口をつぐんだ。
「さよなら」
どこかの駅構内のアナウンスが聞こえた。そしてすぐに、回線は切れた。



喫茶店の店主の子が、フロアを駆け回っている。少年は、顔見知りのボクの膝の上に乗ってきた。「なんで悲しいの?」変なシールをボクに貼り付けながら尋ねる。
「悲しくないよ、考えごと」彼のほっぺにシールを返した。

店主は、少年をボクの膝から回収しながら「コーヒーおかわりいる?」と聞いた。
「いいわ。行くね」500円玉をテーブルに置いて、カラコロンと店を出た。




歩きながらツイッターを開く。タイムラインを眺める。


「新宿のガードレールに座りながら空を見てる」というツイートが流れ、それを受けた徳島のコーヒーショップのオーナーが「今日は星がきれいらしいですよ」とリプライを送っていた。埼玉で趣味がセックスの女の子が「ファミレスの窓から見た夕日がきれい」とつぶやいた。千葉のサラリーマンはそのつぶやきに、「窓をあけて空を眺めている」とつぶやいた。
スマホを開いただけで会ったこともない人たちの生存確認ができる時代。知らない方がいいことも親指一つで知れてしまう時代にボクは生きている。

ボヤいている人がいる。はしゃいでいる人、怒鳴っている人、甘えている人もいる。みんな広い世界を覗いて、片手に収まる窓を開けて満足しようとしている。
ボクはときどき、急にその場所が息苦しくなる。見えない窮屈なルールを感じる。そして、決して自分と分かち合うことのできない並行世界に目を伏せたりする。
それでも、みんな「ここにワタシはいる」と瞬いているのが見える。一等星から六等星まで、その光の強さはそれぞれ違うけど、もっと早く、もっと深く、本当は、みんなどこかに繋がりたいのだろう。



円山町の坂の途中、神泉に近い場所に安さだけが取り柄のラブホテルがある。そこはかつてボクの唯一の安全地帯だった。

あの部屋の中で、彼女と一緒に過ごしていた時は、世界にふたりぼっちだった。

一度、大雨の夜に、どうしようもない不安にかられて、誰もいなくなったオフィスから彼女に電話をかけた。「不安でさ、この仕事をずっとやっていける気がしない、どうしよう」まくしたてるボクに彼女は「うんうん」と繰り返し話を聞いてくれた。そしてどんな愚痴でも、最後に「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」と言ってくれた。自分より好きになった人のなんの根拠もない言葉ひとつで、やり過ごせた夜が確かにあった。

スマホが何度も短く鳴っていた。
目を疑った。
彼女が、〝小沢(加藤)かおり〟が、ボクのページにタダ事ではない頻度で反応している。
「お知らせ」を開くと、どんどんと「ひどいね」が刻印されていく。

有名人とボクが肩を組んだ写真、恋するフォーチューンクッキーを知人のIT企業社長らと踊ってる動画、後輩たちがサプライズで祝ってくれたシャンパンタワーの写真。そのすべてにどんどん「ひどいね」が刻印されていった。彼女の健在ぶりに口元が緩む。そして自分のページの間抜けさ加減を、改めて思い知った。
一つだけ「いいね!」とコメントが押されていた。それは、だれも「いいね!」を付けていない最近の仕事場の光景の一枚だった。EXILEの等身大パネルの中で青白い顔したボクが横に並んで一人直立不動で立ってる写真だった。
コメント欄には「おもしろおじさんだ」と書かれていた。

ボクは何度か返事を打ちかけたけど、結局送信ボタンは、押せなかった。六本木駅の改札に向かっている。行くあてもないのに、恵比寿で乗り換えて渋谷に向かいたい気分だった。

夕方の六本木駅に向かう階段は行き交う人の多さで、なかなか前に進まない。海外の観光客が立ち止まって何組も写真を撮っていて、流れはさらに乱れていた。

こうしてる間にも、刻々と確定していく過去に仕上がっていく今日。達観した彼女の今日も、まだアップダウンを繰り返してるボクの今日も、先に続いているのは未来であって、過去じゃない。1999年に滅亡しなかった地球でボクも彼女もまだしぶとく生きていた。
「大人の階段」は上にしか登れない。その踊り場でぼんやりとばかりしていたボクも、手すりの間から下を覗いたら、ずいぶん高い場所まできていて、下の方は霞んで見えなかった。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で使われたデロリアンの生産を300台限定で始めるというニュースがヤフーニュースのトップで流れていた。
ボクが今、デロリアンに乗ったら〝1999.8.29〟そしてAM6:30と打ち込んでアクセルを踏む。行き先は、1999年の渋谷。あの円山町の坂の途中に、火を噴いたデロリアンを乗り捨てるだろう。



あの真っ暗な部屋に入って、早朝なのか昼なのか、ここがどこなのか分からなくなるような錯覚を噛みしめる。レベッカの『フレンズ』が小さな音で流れている。
身支度をしながらドライヤーをかける彼女。着替え終えていつものようにベッドにダイブするボク。彼女は「あ、待って待って」と、トイレに行く。

あの瞬間、ボクは彼女にどうしても聞きたいことがあった。フェイスブックによれば彼女はこの時すでに、今の旦那と出会っていたはずだ。最後の夜の彼女の涙の意味をどうしても聞いてみたかった。次の日、リップクリームを買いに行ったデートで「今度、CD持ってくるね」が最後になったわけを知りたかった。

ベッドに突っ伏したままサイドテーブルを見やると、彼女の手帳からカードがはみ出ていた。ボクは気になって、自分を抑えることができなかった。そのカードをスッと抜いてしまった。
それは「小沢さんへ」と書かれた、見知らぬ宛名のバースデーカードだった。ただ差出人の彼女の名前は、ボクの知ってる「かおり」じゃなくて「香帆」と書かれていた。トイレを流す音が聞こえた。焦りながら手帳に戻そうとするが、うまく入らず、手帳ごとサイドテーブルから落としてしまった。慌てて、そのカードだけを、彼女のコートの内ポケットに突っ込んだ。



六本木駅のホームに日比谷線が激しいブレーキ音と共に滑り込んできた。白線ギリギリにいた、サラリーマンがたじろぐ。車輪が軋む音と、あのホテルで聴いた雨風の打ちつける音がシンクロし、心臓がビートを刻み始めた。日比谷線が目の前を通り過ぎて風圧を感じて半歩下がった。

ボクが、底の底に押し込めていた記憶のフタが、風圧で吹き飛んでいった。



あの日、たしかに「香帆」という文字をボクは目にしていた。

「あ、あとわたしね〝サイトウ チヒロ〟っていうの」という別れ際のあの娘の言葉が、 リフレインしてくる。
彼女も、後に旦那になる小沢という男に「わたし、本当はひらがなで〝かおり〟っていうんだ」と涙したんだろうか。そして彼は、彼女を死ぬまで抱きしめる情熱でそれに応えたのだろうか。



六本木駅のホームで大勢のサラリーマンと外国人、若いカップルたちが交錯していた。



「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」どんな電話でも最後の言葉は、それだった。彼女は学歴もない、技術もない、ただの使いっぱしりで、社会の数にもカウントされてなかったボクを承認してくれた人だった。1999年のあの時、彼女に毎日をフォローされ、生きることを承認されることで、ボクは生きがいを感じることができたんだ。いや今日まで、彼女からもらったその生きがいで、ボクは頑張っても微動だにしない日常を、なんとか踏ん張ってこれた。

そしてあの年、ボクと加藤かおりは、別れたんだ。正確にはこっぴどくフラれたんだ。

きっとフェイスブックで再び繋がったのは、もう一度、彼女に向き合うためだったのかもしれない。



ホームのベンチに座る。ボクは、フェイスブックを開く。そして彼女に、メッセージを送ろうとした瞬間「今日は、〝小沢(加藤)かおり〟さんのお誕生日です!」という表示が飛び込んできた。

マークザッカーバーグという男は、本当に空気が読めないヤツだ。ボクはスマホを後ろポケットに入れて、とりあえず次の電車に乗ることにした。
白線の内側に立つ、遠くからライトが近づいてくる。けたたましい音が近づいてくる。あの風の強かったラブホテルの、あの朝の音とその音はどこまでもリンクした。





身支度をしながらドライヤーをかける彼女。着替え終えていつものようにベッドにダイブするボク。彼女は「あ、待って待って」と、いつも通りトイレに行く。もうすぐチェックアウトの時間だ。

ボクは彼女を待ちながら今日一日の出来事を振り返っていた。物語の最終回っていつもどんなだっけ?

いつの間にかトイレから出てきた彼女から「変態、行くよ」と声がかかった。その瞬間、背後からガバッと彼女が覆いかぶさってきた。ラッセンのジグソーパズルが飾ってあるのが見える。空調はいつも通り効き過ぎていた。

そして彼女は、いつものように言う。

「ね、ふたりで、海行きたいね」

ボクは、まっすぐ前を向いたまま、彼女に言う。

「ありがとう。さよなら」

その時、フロントからチェックアウトの時間を告げる電話が鳴るんだ。



 


第一部完









燃え殻
もえがら  
1973年生まれ。テレビ美術制作。企画、人事担当。社内で新規事業部立ち上げの責任者になり、社内にいることが激減。日報代わりに始めたTwitterがある時から脱線し続ける。結果、現在フォロワー数6万5千を超えるアカウントになる。 twitter:@Pirate_Radio_
 

 

ボクたちはみんな大人になれなかった |第二部