ボクたちはみんな大人になれなかった
#1
アイツが仕事をやめるとき、〝勝手にしやがれ〟とラジオDJは言った
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――
フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部がはじまります。
ラジオからDJが、英語なまりの低いバリトンボイスで恋を語っている。
「恋愛とは、から騒ぎだ。つまり中心には何もない。どんなにお手軽な恋愛だろうが、どんなに運命的な恋愛だろうが、それは、から騒ぎだ。つまり答えはひとつ〝勝手にしやがれ〟。そしてすべての音楽は、そのBGMとして寄り添っていくでしょう。曲はUAで『数え足りない夜の足音』」
カーラジオから流れ始めた歌声が車内に充満して、窓から見える風景を少しだけ変えた。 アシスタントが運転するワゴン車の後部座席で、ボクは27時間ぶりの睡眠をとろうと横になってウトウトしていた。とにかく今週、来週の休みは合計しても9時間もない。
この車で煙草は吸うなとあれほど言っておいたのに、アシスタントはまた匂いの痕跡を座席シートにびっしりとこびりつけていた。くっせえ。その時、車は急なカーブをきった。
うずくまっていたボクの三半規管が明らかにエラーを起こす。
「あと少しで着きます」アシスタントのぶっ切らぼうな声が聞こえた。
「くせえよ」ボクの文句に返答はなかった。
ほどなくワゴン車は、東横線中目黒駅の高架下の脇に停まった。
立ち食いそば屋の前でカチカチカチとハザードを灯す。
「もう、来てらっしゃいますね」とアシスタントは後部座席のドアをスライドさせた。
ボクは横になったまま、外の空気に身を縮めた。3月の中旬だっていうのに風は冷たくて、春の兆しなんてまったくなかった。
「おぉ、忙しいのに悪いねぇ」
ドアが開くなり金髪坊主の関口が声をかけてきて、ワゴン車に乗り込んできた。パジャマみたいなTシャツにジャージ姿のボクは、体を起こして彼のスペースを空ける。
「おつかれさまです!」アシスタントがボクには絶対にかけないテンションで関口に挨拶をした。ここまでわかりやすいと、どうでもよくなる。
180cmある長身に細身の黒のスーツに黒のシャツという出で立ちは、昨日まで昼間の仕事をしていた人間とは思えなかった。
「おつかれ、それで関口、いつ東京離れるの?」ボクは眠気を押し殺して聞いた。
「最短で今月末」そう言いながら関口は細い煙草に火をつけた。
「禁煙、ここ」ボクはその煙草を取り上げ、飲みかけだった缶コーヒーの中に投げ入れた。
「おまえもな」続けざまに、サイドミラーごしにアシスタントをたしなめる。
関口は、18年と8ヶ月一緒に働いた同僚だった。唯一の同期であり戦友だった。18年と8ヶ月前に社長含めて3人だった会社はこの期間に27名に増えていた。
時計は午前5時10分をさしている。次の打合せがほぼ1時間30分後。ボクはもう一度、火をつけようとしてる関口の煙草を取り上げて、出会った頃の話をしはじめた。
薄暗い車内で18年と8ヶ月の思い出を90分で話さなければならなかった。
霧雨が降っている。アシスタントがワイパーを起動させた。めずらしく気を利かせたのか、ラジオのボリュームを少しあげた。
雨が段々と強くなってきていた。ワイパーが活躍している。中目黒の駅で雨が上がるのを待ってる女性が、手をかざしている。
関口は、これが最後とは思えないぐらい下らないゴシップを語り始めた。座席が揺れるほど二人して笑った。アシスタントは呆れ顔で、たまにチラッとサイドミラーで目が合ったが、後はだいたいスマホをいじっていた。
「スー、きれいだったな」
関口は、クラブ『REQUIEM』のバーテンダーの名前を出して、ボクを小突いた。
「あいつ、何してるかな」とボクは、ゴールデン街の『BAR レイニー』のオーナーだった七瀬の名前を出した。
「あ、あとアイツ、初日に昼メシ買いに行かせたらそのまま金持っていなくなった伊藤」
「伊藤タダシ! いた! 平成の世の中に向いてねーよなぁ」
ふたりで手をたたいて爆笑した。
「それに、真田だろ」ボクのその一言に関口の笑い声が消えた。
車からすぐの立ち食いそば屋に入っていくサラリーマンを、ふたりして眺めていた。
ボクは当たりさわりのない言葉を口にした。「いろいろあったね」
「いろいろあるだろ、そりゃ」関口が口を開く。
ワイパーは、もう雨を処理できなくなっていた。打ちつける雨と行き交う車のヘッドライトで、外の風景はにじんで見えた。
ラジオから聴こえるDJの声とカチカチカチという規則正しいハザードの音だけが車内を満たしていた。
DJがまた英語なまりの低いバリトンボイスで、人の出会いの不思議について語っている。
「永田町の国会図書館には日本の出版物がすべて、保管されています。文芸誌から漫画、ポルノ雑誌まですべてです。私たちがあと50年生きるとして、1日1冊ずつ読んだとしても読みきれぬ量の出版物がすでに保管されているのです。一方、世界の人口は60億を超えて今日も増え続けています。私たちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間も残ってはいません」
そしてFMからビルボードを賑わせてるヒットチューンが流れ始めた。
確かにそうだ。今日の昼間に、渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことは二度とない。 関口とこうして肩を並べて話すことも、もう二度とないだろう。
ラジオからは続けて、南米の甘いラブソングが流れ始めていた。どこかの化粧品会社の夏のCMで使われた曲で、聴き覚えがあった。アシスタントがハンドルをリズムに合わせて指で弾いている。
恋愛だけじゃない。この世のすべては、〝から騒ぎ〟なのかもしれない。ラジオから流れる暑い国の歌は、言葉は分からないけれど、男女の別れを歌ってるように感じた。
関口との18年と8ヶ月。バーテンダーのスー、『BARレイニー』のオーナー、七瀬。そして真田。一つの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた。
人波に巻き込まれて不意に押してしまったこの状況をまだ受け入れられない自分がいる。言葉がまだ見つからない。何体もの亡霊が、立ち尽くしたボクの周りをすり抜けていく。
ボクは時間が止まったように〝友達リクエストが送信されました〟の画面を眺めていた。
モデル:瀬戸かほ
#2
東京という街に心底愛されたひと
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部がはじまります。
横殴りの雨がさらに勢いを増し、ワゴン車を打ちつける雨音が不規則なリズムで車内に響いていたメールの募集をした後に、関東地方に大雨注意報が出ていることを告げていた。
「こんなに朝っぱらからよく食欲あるもんだよなぁ」
立ち食いそば屋で、そばをかっ込んでる大学生風の若者二人を見て、関口は感心している。
「しかしあの店員の髪型やりすぎだろ?」
「そうやって人の髪型いじるの、ホント悪い癖だよおまえ。この金髪坊主が!」
山手通りの交通量が明らかに増えてきていた。東京都江戸川区の“新米主婦”からのリクエスト曲、DREAMS COME TRUEの『決戦は金曜日』がラジオから聴こえてくる。
「あれ、今日って金曜日だっけ?」若者のかっ込むような食いっぷりに目を奪われながら関口は声をかけてきた。
「火曜だよ」
「だよなぁ」関口がこちらを向いて話しかけてくる。
「おまえ、スーのことまだ覚えてるよな?」
「そりゃまぁな」
「あの夜の東京、俺は忘れられないわぁ」
「えげつなかったね、いろいろと」
「いやぁ実に若かったねぇ。また六本木くり出しちゃう?」
「ぜっったいにイヤだね」
そう言いながらボクは、悪い意味で色褪せない、美しすぎたひととあの下品な夜たちを思い出していた。
それは今から12年前の2004年の出来事だ。
その夜は、六本木のクラブ『REQUIEM』で飲んでいた。そこは3層構造のフロアの最上階で、絵に描いたような「ザ・VIPルーム」というやつだった。
都内でコンセプトの違うカフェやクラブを12店舗経営してるサファイヤプロモーションの10周年記念イベントで、そのオープニング映像を制作したということで、ボクらはその打ち上げにお呼びがかかった。
あの頃、関口はちょっと放っておけない状態にあった。
完全に仕事がキャパを超えていた。ボクも同じような仕事量だったけれど、生放送をメインに組まれていた関口の方がプレッシャーは途方もなかったはずだ。絶対に遅れるわけにはいかない仕事を、彼は一日に3番組は抱えていた。
昼間にふたりして睡眠薬1錠を割って、缶ビールを買ってきて半分ずつにしてよく飲んだ。夕方にその儀式を、関口一人でもう一度やっているのに気づいたのがその頃だった。少し頭をボゥとさせて仕事に臨まないと精神的に持たない感じの現場だった。
だからその日は、いつもは縁がない類いのパーティーに、関口と担当した女性デザイナーを連れ出して、気晴らしかたがた参加することにした。
下々の制作会社をこんなド派手なパーティーで労ってくれるなんて、と最初はすこし感動しかけていたけど、そんなほっこり気分はすぐに吹き飛んだ。
大仰な装飾がほどこされた鉄の扉と黒服のセキュリティの奥に隠れたその部屋は完全な防音で、ダンスフロアの喧騒が嘘であるかのような驕り高ぶった空気に満ちていた。
革張りの黒光りしたソファに座れば、マジックミラー越しに、階下でうごめく一般客を足を組んで見下ろせる。テーブルには、宝石みたいなシュリンプカクテル、ローストビーフ、なぜだか寿司などが銀のプレートに大量に並んでいた。
関口はその冗談みたいに悪趣味なVIPルームがツボに入ったらしく、ギュウギュウの一般客を眼下に見ながら「うわぁ、なんか東京だよね〜、この景色」と分かりやすく浮ついていた。そんな関口を見るのは久々で、ボクはホッとしたのを覚えている。
部屋に備え付けられてるモニターから会場の模様が流れ始めた。
「では、ここで本日の主役、サファイヤプロモーション社長、佐内様の登場です!」
フロアは暗転してボクらが2週間徹夜して作ったCG映像が流れ始めた。煽り映像に乗せられて客が一斉にカウントダウンを始める。関口もフロアの観客と一緒にものすごい大声でカウントダウンを始めている。
ボクと女性デザイナーは、この居心地の悪さに早くも辟易していて、抜け出すにはどうしたらいいかをさっきから声を潜めて話し合っていた。
「今、じゃないですか?」女性デザイナーが小声でボクに耳打ちしてきた。
「よし、抜けよう」
中腰になった瞬間「お座りください、のちほど佐内様が直接ご挨拶をさせて頂きたいとのことですので…」とグイッと両手で、ソファに押し戻された。
それがバーテンダーのスーだった。
スーは、涼しげな目と黒髪のショートカットが印象的な美女だった。細身のわりに胸の膨らみが良く分かるタイトな白いシャツを着ていた。
ボクはこの手のタイプの子と話がまったく合わないし、見下すような視線を勝手に感じてしまうので正直、心底苦手なタイプだった。
「何かお持ちしましょう」彼女の言葉にすっかりくじけたボクは、「なんでもいいです」とぶっきらぼうに答えた。
ビヨンセの『Naughty Girl』あたりがずっと流れてるVIPルームでため息をついて、自分たちも一役買った熱狂が収まるのを待つ。レーザー光線がこの部屋の天井にも反転して映っていた。フロアの度を越した熱狂が、モニター越しでも伝わってくる。
スーがなめらかな手つきで、薄張りのロンググラスに厚めのライムが沈んだドリンクを持ってきた。ボクはあんなに美味しいジンリッキーを、あれ以来どこでオーダーしても飲めた試しがない。
常温の希少価値の高いジンと冷凍保存したジンの2種類を微妙に調整して合わせて作る彼女のジンリッキーのレシピは、後から教えてもらったのだけど、絶対にあの時の味は再現できなかった。一口目を飲む瞬間に、ふわっと弾けるような爽快な香りが鼻にぬける。氷はなめらかでどこにも角がなかった。
関口も騒ぎ疲れ、ボクと女性デザイナーが3杯目のジンリッキーを飲み干し、少しアルコールが回った頃に、サファイヤプロモーション社長、佐内が現れた。美しい20代前半の女性を5、6人従えて。
「今日はお忙しい中、ありがとうございますぅ!」
多分、日焼けサロンで焼いたであろう小麦色の肌、オールバックの髪型。どこをとっても50才を越えているとは思えなかった。前歯全部を、紙が貼り付いたように白い差し歯にしていて、ニンマリ笑いながら握手を求めてくる。
笑いながら話しかけてくる人間に善人はいない。それがボクのいくつかある座右の銘のひとつだ。
テレビで見かけたことのある有名なファッション誌の編集長が佐内のところにすり寄っていった。何人かの誰でも知っている女性アイドルの名前を出していた。佐内がそのファッション誌でやってる対談コーナーのゲストを、にやにやと笑いながら立ち話で決めていた。
会社自体が、来る仕事をなんでも受けなきゃいけなかったあの頃、ボクの下品な種類の人たちは、この東京という街に心底愛されていた。つまりボクは、あらゆる欲望とネオンに照らされたこの東京という街が心底苦手だった。
サファイヤプロモーションは、そのパーティーからほぼ6年後に脱税事件を起こし、佐内は失脚する。その後、裏で何種類もの風俗産業の経営者だったことを週刊誌に暴露され、表舞台から一旦は消える。しかし脱税事件での逮捕は免れ、佐内は介護ビジネスの新規事業を開始。業界でまた風雲児と呼ばれる存在になっていく。
ボクにとって生理的に受け付けない、東京に溺愛されたタイプの人間は、呆れるほどしぶといという特徴もあった。
あの夜、ボクたちに短くお礼を言って回った後、佐内は延々と若くて美しい女たちに自慢話を続けた。アルコールが回ってきた佐内は貼り付いた笑顔のまま、女たちに高圧的な質問をぶつけ始める。
「おまえは今日、俺と寝れるか? 5秒以内に答えてみ。よーいどん!」
一人の20代前半であろう美しい女に指をさして問いかけた。 ニヤケ面で興味を隠せない関口の横で、ボクは思わずそのやりとりを真顔で追っていた。そこにいた他の人間は、それがいつものことなのか何もなかったように雑談を続けていたし、ボーイは忙しそうにカクテルを運んでいた。
「え! っていうか逆にチョーうれしいかも」
その女は間髪入れずにそう答えて、周りの女たちと手をたたいてカラ笑いをしていた。
そのやりとりの最中、スーが耳元で「もうすぐ、佐内社長がサプライズでDJをやりに席を立ちます」と言ってきた。
しばらくして佐内が、スーに呼ばれて下のフロアに消えていく。彼が扉を閉めた途端に残された女たちが全員、携帯電話のチェックを始めた。女性デザイナーは気づくとカウンターの隅っこで、さっきの雑誌の編集長に口説かれていて、まんざらでもなさそうだ。関口は、またしてもダンスフロアを眼下に見ながらグラスを持って踊りはじめている。ボクは彼らを置いて、この特殊な空間を抜け出すことにした。
細い廊下を抜けて曲がりくねった階段を早足で下りる。エイリアンに捕食されているような激しいキスをしている白人男性と日本人女性の横を通り過ぎる。
何人かの知人が声をかけてきた気がするけど、曖昧な返事でやり過ごし、とにかく出口を目指した。
裏口の関係者専用の鉄の扉を開けて、やっとの思いで六本木の街に解き放たれた瞬間「ふぅう——っ」と大きく息を吐いた。
六本木交差点を目指して歩き出そうとしたその瞬間、背中から突然呼び止められた。
「そんなにつまんなかったですか?」
思いがけない声に振り返る。するとそこには誰の言いつけか、眉間にしわを寄せたバーテンダーのスーが立っていた。
あの猥雑な空間から飛び出して、六本木の路上に降り立った彼女は、街灯に照らされた影まで造り物のように美しく見えた。
彼女の後ろに東京タワーの赤が滲んで見える。
ゆっくりとにじり寄るスーに、僕は思わず後ずさる。冷めた大きな瞳が美しい。ソファで引き止められた時のようにそのままボクを鉄の扉に押し付けると、彼女は耳元でイタズラっぽくささやいた。
「あなた自分がどんな顔してるか知ってる?」
金縛りにあったように体が動かなかった。彼女の吐息からアルコールの甘い匂いを感じながら、視線をさまよわせた。彼女以外の人間は背景に溶けて存在が消え去る。
「死ぬほど退屈だ! はやく帰りたい!って、大きく顔に書いてある」
「それ褒めてないですよね」かろうじてそう切り返しながらも、ボクは彼女の放つ妖艶な気迫に動けないでいた。
「いいの。今夜もまたつまらない夜になると思ってたから」
ただひんやりとした鉄の扉を背中全体で感じていた。彼女はこの東京の支配者に見えた。
「あの部屋で、あんなにつまらなそうにしてる男、初めて見かけて笑っちゃった」
鼻と鼻がぶつかりそうな距離に彼女の顔が近づく。吸い込まれそうな瞳の奥に六本木の点滅する灯りがチカチカと映る。男モノの香水の匂いが彼女の鎖骨付近からする。その匂いをかいだ瞬間、ボクの脳のドコカのスイッチが押された。
彼女の腰に手を回し、力任せに体を反転させる。今度はボクが彼女を鉄の扉に押し付け、鼻と鼻が当たりそうな態勢になった。
「ねえ」彼女は小さくつぶやく。
スポーツカーが猛スピードで闇を切り裂く音がこだました。
ボクが顔を近づけようとした瞬間、スッと彼女が手のひらをボクの顔にくっつけ、「ねえ」ともう一度つぶやいた。
「はい?」なんて言って、彼女の右手の手のひらを払って、もう一度迫ろうとした瞬間に今度は彼女の左手の手のひらが、ボクの顔にくっついた。
「ねえって」
「ん?」
「ミクシィやってる?」
そう言うと彼女は目を細めて、ニッと笑った。遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。
モデル:瀬戸かほ
#3
彼女が他の男に抱かれてる90分は、永遠みたいに長かった
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
「ちょっと雨、おさまったかもなぁ」
関口が車の窓を少しだけ開けて、外に手をかざした。アシスタントも外を見やると 、ワイパーを止めた。
中目黒駅は、朝のラッシュが始まろうとしている。若いサラリーマンが畳んだ傘を持って走っているのが見えた。
立ち食いそば屋の自販機もサラリーマンが数人並び始めていた。忙しそうに従業員が仕事をこなしている。
「スーとはなんかあったの?」関口は黒いイカツイ革靴を脱いであぐらをかくと、ボクの顔を覗き込んだ。
「何も」
「何も?」
「何も」ボクはできるだけ真面目な表情を心掛けた。
「俺には1回だけやらせてくれたけどなぁ」そういうと関口はゲラゲラ笑った。
「そっか」別に動揺はなかった。文字通り、本当に、スーにとっては「1回やらせてあげただけ」なのはわかっていたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。嫉妬するようなことでもない。スーの人となりを思い返せばそんなことはわかった。そう思いつつ、ニヤケ顔の関口の後頭部を引っ叩いた。
初めて会ったあの下品な夜。ボクは彼女に〝何も〟できなかった。
彼女は『REQUIEM』の名刺にアドレスを書いて、すぐに鉄の扉をあけ、またあの喧騒の世界に戻っていった。
ボクは夢(悪夢だけど)のような時間を振り返りながら東京タワーに向かってあの夜、ホテホテと歩いた。あのあと泥酔した関口が、VIPルームの革張りのソファーで大の字で眠ってしまい、六本木の街に放り出されたこと。女性デザイナーがあの雑誌編集長にうまいこと口説かれ、お持ち帰りされたこともあとから知った。
スーのmixiのページは、完全に偏っていた。彼女はホラー映画のコミュニティーに軒並み参加していて、なんならいくつか主催していた。誰も知らないような海外のB級作品から最新のハリウッド映画まで、突飛な意見をぶちまけていた。彼女が書いていた日記を読んでいくと、同じホラー映画を5本ばかり、毎日ローテーションで観ていることが見て取れた。
なんで、同じものばかり観るの?と聞いたことがある。すると彼女は「観続けるとね、どんな怖いものも慣れるんだよ」と言ってニッと笑っていた。
数ヶ月が経った頃だろうか、ボクのページの〝足あと〟は、彼女に踏み尽くされるようになっていた。その頃、負けじと書いてた世迷い言だらけの長文映画レビューをまともに読んでいたのは彼女だけだろう。
しばらくすると彼女から電話番号だけが書かれたダイレクトメッセージが届く。ボクが慌てて電話をすると「ねえ。渋谷の『bar bossa』ってお店、わたし好きなんだけど、今度行かない?」と、スーは言った。「ロイヤルホストでシーフードドリアを食べてもいいし、そのお店でもいいし、はい」なんて動揺して0点の答えが口をついた。「やっぱり、あなた変わってるね」
最初のデートは、本当に渋谷のロイヤルホストのシーフードドリアだった。
そのあと、ふたりでボーリング場に行った。ボクが彼女に観てもらいたくて『バッファロー’66』に関するレビューを長々と書いた時期だった。
深夜のボーリング場は閑散としていた。一投目でピンを1本残した彼女は、振り向きざま、『バッファロー’66』の中のクリスティーナ・リッチのモノマネをして、ゆっくりとタップを踏んでこちらを見て「どう?」って顔をした。
彼女と落ち合うのは大体、午前3時過ぎ。お互いの仕事が終わった後だった。彼女がシラフだったことは数えるほどだったと思う。
待ち合わせ場所はいつも、クラブ『REQUIEM』の出口からちょっと行った、ひと気のない駐車場だった。体育座りでフェンスに寄りかかっているラフな私服の彼女は、どこにでもいる女の子に戻っていた。音楽に夢中のスーの肩を、ポンポンとたたく。すると彼女はイヤフォンを一つボクの耳に突っ込んでくれた。宇多田ヒカルの『Automatic』が途中から流れた。
「あのさ、スーって本名はなんていうの?」
「スー」
「だから、本名」
「スーだって」
「そんな人間いるかよ」
「ここにいるわよ」彼女はそう言って笑った。
たしかにあの時、彼女はそこにいた。
彼女の部屋は五反田の風俗街の脇にあった。
6階建ての最上階で、ウイークリーマンションのような簡素な内装のワンルーム。テーブルの上にティッシュボックスがひとつあった。無印良品のベッドの横に小さいプラスチックのゴミ箱。湯沸かし器と電話機はコードがこんがらがったまま、無造作に床に置かれていた。やけに大きなテレビがあって、部屋の隅には背丈の低い木製の本棚があった。そこに女性誌と少女マンガとDVDがごっちゃに入っていた。
突然の告白は、その部屋に2度目に行った時のことだった。
「このマンションね、住んでる女の子、全員風俗やってるの」彼女はそう言うと、紅茶のティーバックを入れたままのマグカップを「熱いよ」と言って渡してくれた。
「ん? スーもってこと?」ボクはそれを受け取りながら聞き返した。
「うん」彼女はニッと笑って熱すぎる紅茶をフーフーしながらすすっていた。
「お金が足りないの?」率直に失礼なことを聞いてしまった。
「うーん、それもあるけど年からいってもあと2年以内に海外の舞台に立ちたいの」
彼女はそう言うとちょっとだけ真面目な顔になって、相当ショックなことを言った。
「佐内にこの仕事、紹介されたんだよねえ」
「え、何それ? どういうこと?」
「家賃も、英語のスクール代も、ダンスのレッスン代も出してもらう代わりにこの仕事を引き受けたの」
「えっと……なんで? マジで俺には謎だそれ」
「うんと彼はね、自分の女が他の男に犯されてるのを聞きながらスルのがスキなのよ」
彼女はその時、別に悲しい顔などしなかった。何度も説明してきた自分の将来の夢を話すかのように、ボクにそれを告げてから「でも彼のことは好きなんだよね」と言って笑った。
その瞬間なぜか、ボクは佐内がVIPルームで「あとでブラックジャックやろう、商品はこの子たちだよお」と引き連れてきた若い女性たちのひとりの胸を人差し指で押しながら高らかに声をあげて、周りの堅気でない風情の客たちが爆笑しながらシャンパンをあけている図がフラッシュバックしていた。
ボクの社会に出てからのコンプレックスは、主に佐内によって作られている。
「さっきコンビニの入ってるビルの横に風俗の案内所あったでしょ?」
「あ、あった」ボクは、なんとか平静を保とうとしながら答えた。
「あそこで受付して、指名した女の子とコンビニで待ち合わせして、この部屋でプレイするの。おもしろいっしょ……? リアルってやつ?」
彼女が副業でやっている自分の部屋を使った風俗の形態は、風俗業界でもモグリの違法だった。後に週刊誌などによってまことしやかに報道された記事によると、六本木と渋谷で佐内は会員制高級売春クラブも経営していた。現役のグラビアアイドル、モデルなども在籍していたとの噂は今でもインターネットの掲示板から消えることはない。もちろん、真相は今もってしてもすべてが藪の中だ。
次の瞬間、電話がけたたましく鳴った。
「ほらね」
プレイ時間と客の外見を慣れた感じで聞き取りながら彼女は、それらをPHSに打ち込んでいった。
「はい、じゃ向かいます」そういうと電話を切り、スーはこちらを向いて、イタズラっぽく舌をちょっとだけ出した。
「びっくりしたでしょ?」
「いや」
「いや?」
「ていうか」
「ていうか?」スーは逃がしてくれなかった。
「いや、ていうか驚きはした」ボクは目を反らさないように注意を払った。
彼女はデニムのジャケットをはおり、身支度を始めている。
「今からコンビニでお客と待ち合わせをして、90分間、ここ使うことになったから」
「あぁ……」
「終わったら電話するね!」彼女は、何もなかったかのように普段通りの笑顔だった。
急いで身支度をして、一緒に部屋を出た。
「あ、机の上に紅茶置きっぱなしだった…」とボクが言うと「大丈夫、そっちの方がみんな好きだから。リアルってやつ?」
「そう……」
彼女は最後にまたニッとした。
エレベーターの中でスーは、点滅する数字を見ながら腕を組んできた。エレベータが開くと「じゃね」とこちらも向かずに言うと、スッと腕を解いて歩きだした。腕時計を見た。ボクは時間を確認して顔を上げると、もう彼女の姿はなかった。
5分ぐらいで彼女は若い二十代の真面目そうなサラリーマンと腕を組みながら戻ってきた。さっきボクに笑いかけてくれた笑顔は、今はそのサラリーマンに向けられていた。そして二人はマンションに当たり前のように消えていく。
あの部屋に灯りがつくのを下から覗いていた。10分くらいだろうか、部屋は突然真っ暗になる。
マンション横の駐車場のフェンスに寄りかかり、ズルズル腰を落として体育座りをした。ポケットに彼女から借りっぱなしになっていたMDを見つけて、イヤフォンを耳に突っ込んだ。宇多田ヒカルが流れはじめる。
彼女が他の男に抱かれている90分間は、永遠のように長かった。
モデル:瀬戸かほ
#4
さよならにだけ敏感な自分を呪った
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――
フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
「動物園と水族館って、普通どっちが好きなのかね?」
ボクがその質問に真面目に答えようとしてるそばから「ていうか、動物園も水族館も今どき行かねえか。暑いのと寒いのどっち好きなのよ? 俺は断然暑いのだね。あー、もう来週ハワイとか行っちゃおうかなぁ」と関口は重ねた。
ボクはそのテキトーさに呆れながら、換気のために車の窓を全開にした。
「結局、佐内の愛人って10人くらいいたんだっけ?」関口はそう言いながら自分側の窓も全開にし、そのどさくさでポケットに残っていたらしいタバコに火をつけた。
「10人ってやつがいれば、50人ってやつもいたかなぁ」ボクはそう返しながら、関口の口からタバコを奪って缶コーヒーの中にまた投げ捨てた。
関口は「フーッ」と、ため息まじりのタバコくさい息を吹きかけてくる。
「ったく」ボクは舌打ちをして関口の左肩に軽くグーを入れる。
「いってー。血出てない? 折れてる? どう? どう?」関口がアシスタントに大げさにアピールし、アシスタントが苦笑いをした。
彼女の部屋から灯りが消えて、それから途方もない時間が経ったように思う。
ボクは時計を確認した。時間はまだ20分とちょっとしか経っていなかった。
フェンスがしなるほどに身を預け、ボクは今置かれている状況に頭を抱えながらつぶやいた。
「なにやってんだ俺」
90分をこんなに長く感じたことはなかった。
頭の中は整理整頓がまったくつかず、気持ちもまるで追いつかなかった。童貞の時のボクが見たらこの状況はどう映るだろうか。
発狂か? 興奮か?
いや……発狂だな。でもスーは美人だし、人気者なわけだし、こんな状況にいたっても彼女と親密なことを喜ぶのかもしれない。いやでも免疫のない頃ならこの状況は発狂しかありえないか。いや普通ならまず帰るよな? 今からでも帰るか? いや帰るって一番彼女が傷つくやつだよ。でもこの後に普通の顔で会えるのか? いやもうそうしなきゃダメでしょ人として。
混乱した。混乱したせいで感情の引き出しが全部同時に吹き出して、くだらない考えだけをぐるぐると巡らせては、その場から動けなくなって、駐車場に設置されていた看板の注意事項を時間つぶしに読んだりしていた。
その時、ボクは関口とスーと3人で初めて行った恵比寿の居酒屋での夜の出来事を、ふと思い出していた。
「はじめて日本人が南極を目指した時の話って知ってる?」彼女はキンキンに冷えたレモンサワーを美味しそうに飲みながら、ボクらに聞いてきた。
「なにそれえ、ヒィッ、ほんとの話すかぁ? ヒィッ」しゃっくりの止まらない関口は例によって泥酔していた。
「たぶん本当。友達から聞いたもん」スーもまた泥酔手前だった。
「え、知らない」 ボクはそう答えると炭酸の効いたレモンサワーをグビグビッとやった。
「氷を割りながら船は進んでいくのです」
彼女は居酒屋の箸置きを船に見立てて話を進めていく。
「南極についた乗組員につかの間の休息が訪れますう。乗組員の奥さんから連絡が届くわけよ。日本初のメール!」
「初じゃないでしょ。だし、電報?」 デロデロに酔った彼女にボクは助け舟を出す。
「そうそう! それ。長く送れば送るだけお金がかかるやつ。それで奥さんは短く、3文字だけ送ったわけ。3文字。わたし、その話が一番ロマンチックで好きなの」
彼女はそう言うと、酒で真っ赤になった瞳から涙をこぼした。彼女は手でパタパタしながら、おしぼりで涙をふいた。
「わわ、大丈夫」
「だめ。休憩……」
そう言うと彼女はテーブルに突っ伏して動かなくなった。
「で、3文字。なんて送られてきたの?」彼女のあたまをぐりぐりやったが返答はない。
その問いに彼女はその夜、答えなかった。いや正確にいうと答えられなかった。いびきをかいてテーブルで寝始めた彼女のほっぺたをブルドッグみたいにしてもまったく起きなかった。ウーウーと言って手をはらうだけだった。
関口は畳の座敷で大の字でのびていた。
大将が、関口を指さして「いいよ、こいつ置いて帰って。冷凍庫入れとく」と言った。ボクは泥酔したスーのテキトーな指示を必死に聞きながら、タクシーで彼女のマンションまで運んだ。
その日はやっとこさベッドに彼女を寝かしつけると、ボクはそこで酔いと疲れが一気にきて、朝まで床に突っ伏して寝てしまった。それが彼女と初めて一夜を共にした日になった。
そして2度目の今日、彼女の突然の告白でボクの頭は今、完全にこんがらがっていた。
緑色が所々腐食して剥げてしまったフェンスに同化して、魂の抜け殻のようになったボクの携帯がふいに鳴った。時計をみると90分と少し経っていた。時刻は23時くらいだったと思う。
「どこ?」携帯電話ごしの彼女はいつになく暗く、怪訝な声で言う。
「駐車場のフェンス」ボクがそういうと「好きっ!」と、彼女は電話口で突然大声をあげた。
「なんだよ!」「なんでも!」彼女はすぐに外階段をすごい音をたてながら降りてきた。
降りてきた彼女に「あのさ」と一言かけるやいなやジャンプして抱きつかれた。
「なになになになになに」
「なんでも! うれしい」すごい力で抱きしめてくる。
「フェンス、長く乗れてた方がゴハンおごるゲームしない?」
スーは、ゼーゼーいいながらマンション中に聞こえるぐらい大きい声でそう叫んだ。
彼女のあんなにはしゃいでる姿を見たのは、最初で最後だった。
しなるフェンスで、グラグラと揺れながら彼女が言う。
「ねぇ、世界遺産何個言える?」
「世界遺産? えっとね、まずあれだ……」ボクもグラグラしながら答える。彼女はそのあとも矢継ぎ早に質問を連発した。沈黙なんて一切させなかった。
ボクたちはその時、気づきもしなかった。どこにでもあるような駐車場のフェンスの上で、爆笑しながらはしゃいでることが、人生の中で結構かけがえのないことに分類されるなんてこと。
あの頃ボクは、彼女が風俗で働いてることをあまり考えないようにしていた。佐内の愛人だという事実も、あの夜な夜な怪しいクラブのVIPルームで起きる下品な出来事についても、できるだけ考えないようにしていた。
ボクが何かできることなんて、一つもなかった。ただ、今夜はそこに彼女がいる。その事実にだけすがって彼女に会うようにしていた。
ある夜。スーのマンションに向かう時に、彼女は自分の仕事の話に触れた。
「やっぱりさ、いつまでも若いわけじゃないじゃん」
彼女はコンビニで歯ブラシとコンタクトレンズの保存液を買ってるボクに話しかけてきた。
「うん」
「ずっとはできないし、リスクあるからちゃんと終わりにはしたいわけ」
彼女はそう言いながらトッポも買うように預けてきた。
「でも夢があるからさ」
「夢? 夢か。夢ね」
「こういうと引くかもしれないけど。わたし、この毎日があんまりキライじゃないんだな」
そう言うと彼女はボクの左手首を強くつかんだ。
〝ヘルス〟という文字や〝ソープランド〟というピンクやブルーのネオンがキラキラと輝く五反田の夜。 彼女の部屋にはカーテンがなかった。わざとカーテンをしてなかった。風俗街の片隅にあった部屋からは、外のネオンが天井に反射して美しかったからだ。
ボクはその天井を見ながら、彼女を抱きしめるのが好きだった。
「ねえ、石垣島と宮古島どっちが好き?」 眠る直前、彼女はポツリとそんなことを聞いた。
「んとね、石垣島」ボクは眠さがおさえられず、ほぼ両目を閉じてその質問に答えた。
「石垣島とハワイは? 本島ね」彼女の質問はその時もまったく終わらない。
「んと、石垣…」
「わたしも」
半分ベッドから落っこちていたタオルケットを足で回収してボクは本格的に眠りにつこうと思った。
「朝がくるよ、おやすみ……」 背中を向けたボクの左の肩口を、スーは一回だけ強く噛みついた。
「痛っ…」
「いつか一緒に石垣島。石垣島に住みたいね」
一度眠りに落ちたあと、明け方にボクはまどろむように目を覚ました。
湿度が高くて消毒液の匂いが混じった空気にむせ返るように起きた。ピンクとブルーが点滅するネオンに照らされた天井をおぼつかない目で見ながら、脳みそのカセットテープのスイッチが、ガッチャンと音をたてた。
ボクの祖母は静岡県の沼津で、国鉄職員相手の立ち飲み屋をやっていた。
10人入れば満杯の店で、割烹着を着た祖母は午後6時から午前1時まで立ちっぱなしで働いていた。
ボクはカウンターの内側、祖母の足元で、目の前が霞むほどのタバコのけむりと酔っ払いたちに囲まれ、祖母の威勢のいい歌を聴きながら育った。
午後4時には祖母は店に立ち、日替わり弁当を作っていた。近くの飲み屋、ストリップ劇場、風俗店への出前のためだ。ボクは小学校から戻ると、ラップでフタがされ、それぞれ届け先のメモ書きが置かれた弁当たちを配達順に並べた。そして、それらをおか持ちに入れて何度も行ったり来たりしながら配達して回った。
まだ夜の帳が下りる前の歓楽街の店を十数件、何度も行き来しながら弁当を届けて回る。
『スナック夜汽車』のマスターは口数が少なかったけど、たまに五百円札をボクの半ズボンのポケットにねじ込んでくれた。
ストリップ劇場のお姉さんたちは、みんないつも忙しそうだった。ホコリっぽい部屋の強烈な香水の匂いが、今でも鼻の奥に染み付いている。
「チビ、こっちきな」手招きされて、お姉さんのところに行くと後ろを向かされた。その日は急いでいてランドセルを背負ったまま配達をしていた。ベロンとランドセルをめくられ、中から教科書を、全部出された。お姉さんはくわえ煙草をしながらペラペラとやった。
「ん?」と彼女が声を出した。教科書がビリビリに破られていたのが見つかってしまったと思って、ボクは振り向けないでいた。その頃、ボクは酷めのいじめにあっていた。いじめられていることが、家族にバレるのが申し訳なくて、誰にも言わない日々が続いていた。あまり親しい友達もいなく、学校に居場所もなかったボクにとって、祖母から任された歓楽街を回る配達は、あの頃の生きがいだった。
そこで出会う一期一会の大人たちが、ボクにとって唯一の口きかぬ友達だった。くわえ煙草をしているお姉さんが、教科書を全部ランドセルに戻したのを背中で感じた。
「あんた、まだ何軒も回るの?」
「……はい」恐る恐るボクは答えた。
「じゃランドセル置いてきな、後で勉強教えてあげるから。帰りに寄りな、私にもあんたと同い年ぐらいの子供いるんだよ〜、見えないだろ?」そう言うとガウンの前を外して、おっぱいを見せてくれた。
ボクは動揺しながらランドセルを彼女に預けて、配達に戻った。サウナ店に最後の弁当を届けると、ボクはあのストリップ劇場に向かった。楽屋に行くとさっきのお姉さんの姿はない。
ボクが届けた弁当のプラスチックの入れ物はキレイに洗われて、入り口近くにまとめられていた。畳の奥の鏡台の横に置かれていたランドセルを見つけた。クツを脱がずに四つん這いで畳の上を這って、やっとランドセルに手がかかった瞬間、大柄で太っていた毛むくじゃらのオーナーに見つかってしまった。
「おう、見てくか?」
「だいじょうぶです」
「まぁいいからいいから、いこいこ」
そう言われて、両脇を持ち上げられ劇場の袖に連れて行かれた。ピンクというより、桃色のライトの輝きは今思い出しても夢の中のようだった。ホコリっぽい匂いもした。サンポールの臭いもした。石川さゆりの『天城越え』が割れた音でフロアに広がっていった。
舞台を見ると、あのお姉さんが踊っている最中だった。
オーナーが、ボクを後ろから押さえて「おう、こっからまだまだいくゾォ」というと、まな板ショーが始まった。観ている客から一人選んで、舞台で本番をするという見世物だった。
10人ちょっとの観客の中から相当な年齢のお爺さんが手を挙げ、舞台に上げられる。ライトが舞台の真ん中に集中する中、お姉さんに導かれて、セックスが始まっていく。さっきかかった『天城越え』がもう一度あたまからかかり始めた。ボクが生まれて初めて見たセックスは、あのお姉さんと知らないお爺さんのセックスだった。
オーナーは面白半分に「へへへ、すげえだろう、なぁ?」と、ヤニ臭い口で耳打ちをしてきたけれど、ボクはただ呆然としていた。
そのあと歓楽街の薄暗い裏道を選んで走って帰ったことを、かすかに覚えている。
次の日、学校に行くといつものように机は裏返しにされていた。毎日の儀式のようにボクはその机を戻し、椅子に座る。ランドセルを開け、教科書を開くとビリビリに破れていたはずのページが、セロハンテープで丁寧に貼られていた。ボクは驚いて、他の教科書も出してみる。どの教科書も1ページごとに丁寧に、セロハンテープでとめられている。どのページも、どのページも綺麗に直されていた。
ボクはどんなに机が毎日裏返されても、給食のスープに消しゴムのカスがぶち込まれても、絶対に泣かなかった。泣いたら負けなんだと思っていた。だけど、そのセロハンテープで綺麗にとめられたページをなぞった時、気が狂ったように泣いた。
クラスの連中が、どんな顔でその光景を見ていたか覚えていないぐらい、ボクは泣いた。
そしてその日から2日間、家から出られなくなってしまった。子どもながらに憔悴して、ほとんどの時間を布団の中で過ごした。3日後、学校へいく前にストリップ劇場に寄った。あの控え室に走っていった。控え室ののれんをくぐると、毛むくじゃらの太ったオーナーがいびきをかいて寝ていた。
ボクは揺り動かして、あのお姉さんの居場所を尋ねた。
「カホさんか? あのね、大人はみーんな忙しいの。もう次の町いっちゃったよ、商売繁盛! 繁盛!」と言うやいなや大きなあくびとおならを一緒にした。その時直感的に、もう二度とあの人には、お礼が言えないんだと子どもながらに悟った。
彼女の使っていた鏡台を見ながらボクは完全に固まっていた。オーナーは、ボクの顔をまじまじと覗き込んだあと、椅子に腰を下ろして、セブンスターの濃い煙を悪気なくボクに浴びせかけた。そのあとに肩をポンポンとされて、オーナーはもう一度大きなおならをした。
なんでこんなつまんないことを覚えているんだろう。あの踊り子のお姉さんの顔すら薄ぼんやりとしていて、記憶が定まらないっていうのに。
霊感はない。ただこれを思い出すとボクは別れを感じてしまう癖があった。そう感じつつボクはもう一度、眠りに落ちていった。
まどろむ意識の中で、誰かが頰をさわる感触を感じた。気付くと裸のスーが、指で涙をぬぐってくれていた。
「大丈夫。大丈夫だから」彼女は、かすかな声でそう言うと自分の涙も指でぬぐった。
ボクは、別れにだけ敏感な自分を呪った。
#5
東京が大好きだ、それは下品だからだ
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
アシスタントがエンジンを突然入れた。前方に目をやると駐車禁止を取り締まってる男たちが2人見えた。
「この辺り、とりあえず一周しますね」車は、左にカーブして大通りにでた。幸運なことに車量はまだまばらだった。関口が腕時計を見た。ボクも時間を確認する。タイムリミットまであと40分を切っていた。
ワゴン車は大きく中目黒を一周して、また駅の脇の立ち食いそば屋の前に向かっていた。関口はずっと佐内とスーの話をしている。
ボクはそれを聞きながら、あの頃の今よりもっと不確定で不安定だった心情を思い出して、心臓がすこし硬くなった気がした。
「朝だよ」スーはとても優しい笑顔だった。
仕事に出て行こうと身支度をするボクに、裸のままうつ伏せに寝ていた彼女がポツリと言った。
「ねえ、手紙ちょうだい」
「手紙?」ボクは玄関で、ニューバランスのスニーカーを履きながら振り向いた。
「うん、わたしも返すから、手紙」
「いいけど、なんで?」ボクはドアを開ける直前に彼女に問いかけた。
「字がほしいの。あなたの書いた字。わたし、きっとずっと持ってるよ」
「ん? そんなんいくらでも書いてあげるよ」
「うん、でもほしいの。早めに」
「ん? んー、わかった。今日、会社から手紙出すわ。なんだこれ」ボクはちょっと笑ってしまったけど、彼女はこちらを向いてもくれなかった。
「きれいな字で書いてね」
それが彼女との最後の会話になった。
その日の12時ちょうどに佐内の自宅他に家宅捜査が入る。
クラブ『REQUIEM』はもちろん、何人もいた愛人宅にも多くの捜査員、マスコミが押し寄せた。スーの五反田のマンションも何日も前から張られてたらしく、あっという間に人だかりができていた。
ボクはそれをテレビ局のスタッフルームで知る。
佐内の自宅に、無表情の大人が列をなして入っていく映像だった。クラブ『REQUIEM』のVIPルームが映し出されていた。ボクたちがいた部屋の全面ガラスの壁をレポーターが開いて、奥にもう一部屋あるというどうでもいい事実を神妙な顔で伝える映像だった。
局のお偉いさんが集まって、その報道を見ながら「俺だったら自殺するね。もう一生分楽しんだでしょ」なんて雑談をしていた。
佐内の愛人たちの何人かは佐内からの性的暴力を週刊誌で暴露し始める。
六本木のVIPルームで佐内にキツイ質問をされ、笑顔で即答していた女が被害者の代表として連日泣きながらテレビのワイドショーに出て、引っ張りだこになっているのには失笑してしまった。
mixiをひらいてみたら一度だけ、スーからの足跡がついていた。でもそれっきりだった。彼女のmixiのページだけは今でも健在だけれど。
一度だけ、もぬけの殻になったスーのマンションを訪ねたことがある。それは一斉家宅捜査の数日後だった。あれほどいた報道陣の群れもほとんど姿を消していた。
ボクはマンション横の駐車場のフェンスにもたれかかって、彼女の部屋をしばらく見上げていた。外の下品なネオンの灯りが彼女のカーテンのない部屋にさし込んでいるのが確認できた。
最初に出会った夜、VIPルームの天井にレーザー光線が反転して映ったあの光景を、他の人間は誰も気に留めていなかった。ボクは天井に映る光の一瞬をあの部屋にいる間中ずっと眺めていた。あの部屋で唯一美しい光景だと思ったからだ。
彼女は上ばかり見ていたボクに誘われるように、あの部屋で初めてマジマジと天井を見たと五反田のマンションで、風俗街のネオン管がウネウネと反射する天井を見ながら教えてくれた。
美しい光は次々と形を変え、強さを変え、色を変えて消えていく。決して手にすることはできない儚さを、ボクはスーにも感じていた。
それはボクが思う、東京という街の感覚とも一致していた。
現在、クラブ『REQUIEM』の跡地には、立派なオフィスビルが2棟建っている。五反田のマンションは取り壊されて、10階建てのオフィスビルが建った。隣の駐車場もビルに変わり、街もどんどん姿を変えていった。
仕事の関係でたまに五反田を通る。その時にスーと寄ったコンビニに入ったりする。あのコンビニ以外、彼女との思い出の場所はもう東京には一つもなかったから。
世間はその後も、ドジを踏んだ芸能人や政治家、嘘をついた企業、ズルがバレた著名人を吊るし上げて、問題は散らかしたまま、また次のターゲットに移るということを繰り返している。
その生け贄が日々変わっていく中で、佐内の疑惑もスーもあの女たちもいつしかみんな忘れていった。
アシスタントがFMラジオのボリュームを少しだけ上げる。サザンオールスターズの『私はピアノ』という曲が流れはじめた。原由子のやさしい声がワゴン車を包んだ。
「消えた5億円、あれ本当にスーかな?」関口がスマホをいじりながらボクに尋ねてきた。
「5億?」ボクはビックリしてみせた。
「知らない? 週刊誌に載った佐内事務所の金庫から消えた5億の謎」関口は楽しそうにグーグルで「佐内 5億 愛人」で検索してヒットしたページをボクに見せてくれた。
「あー、俺はあのまま、スーと付き合って高飛びすればよかったわあ」そういうと関口は、ケラケラ笑った。
「あ…」関口は突然何か思い出したように笑うのをやめた。
「ん?」
「あの時、おまえ宛てにきてたファックスなんだったの?」
「ん?」初耳だった。
「あれだよ、あの気持ち悪いやつ」
「どんな?」胸騒ぎがした。
「多分、佐内がらみだと思うんだけどさ。真田が処分しちゃったのかなぁ」
「どんなだよ?」
「大きくカタカナで3文字書かれただけの差出人不明のFAXだよ」
「3文字?」
「そうそう、大きくカタカナで3文字だけ。気色悪くない?」
「なんて書いてあった?」ボクの両手が少し汗ばんだ。
「あ な た」
「ん? なんて?」
「いやだから、『あなた』ってだけ。カタカナで」
「ア ナ タ」ボクは声に出してゆっくりと言ってみた。
「ア…ナ…タ…」
ボクはスマホに「日本初の南極観測隊 3文字 アナタ」と打ち込んだ。
1957年、日本初の南極観測隊が南極に近づいていた。当時、電報は高級なもので長くは打ち込めなかった。そこで南極に向かう夫に向かって、その妻はたった3文字の電報に愛のすべてを託した。
「ア ナ タ」と。
あの夜の彼女が伝えたかった言葉を、ボクはグーグル経由で受け取った。
ストリップ劇場のあの鏡台を見ながら固まって動けなかったボクが、スマホの画面に反射して写った。
もう彼女には二度と会えない。本当はとっくに分かっていた現実を、初めてボクは飲み込んだ。同時に、きっと彼女は誰にも支配されない場所に辿り着いたんだ。そう心から思いたかった。
「あのさ、スーって本名はなんていうの?」
「スー」
「だから、本名」
「スーだって」
「そんな人間いるかよ」
「ここにいるわよ」
たしかにあの時、彼女はそこにいた。
窓を開けていたせいで、下品な街の下品な下水道のニオイがこのワゴン車の中にまで漂ってきていた。
関口が隣で、スーのことを考えているのがわかった。ボクもスーのことを考えていたからだ。スーもまたこの瞬間、どこかでボクらのことを考えてくれているような気がしていた。止んでいた雨が、またポツポツとふりはじめてきた。
東京は嫌いだ。下品だからだ。
そしてボクは東京に22年間住んでいる。それはボクが下品だからだ。
東京が大好きだ。それは下品だからだ。
モデル:瀬戸かほ
#6
人生で本当に大切なとき、ボクたちに自由はない
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
「また降ってきたねぇ。今日は一日ダメだなこりゃ」
関口が、窓のしずくを指でスーッとふきながら言った。
「雨の日は休みにしてほしいなぁ」とボクは真剣に訴えた。
「それは間違いないね」
関口との18年と8ヶ月はこんなどうでもいい話をしながら、不規則な日常をやり過ごす日々だった。
ボクらの仕事はテレビの美術制作という「ん? 何それ」と言われがちなものだ。テレビ番組のテロップや小道具、CGなどを日夜作る仕事。正月のたびに「あんたそんな地に足の着いてない仕事して」と母親に心配され、法事では親戚に「芸能人、会ったことある?」とだけ言われる仕事だった。
「昨日さ、武蔵小杉で人身事故があってさ」と関口が言った。
「なんでまた、昨日みたいな快晴の日に死ぬかね」ボクは曇った窓ガラスを手で拭って、外を小走りで走る、髪の長いOLをチェックしながらつぶやいた。
「いや、清々しい朝だったから死のうって思ったんじゃないかな。42歳のサラリーマンって出てたよ」
「42歳、同い年か」
「昨日、死んだ42歳もいれば、昨日、仕事を辞めた42歳もいるわけだ」
関口はそう言うと自分で笑った。
「おまえさぁ」
「あ。七瀬も俺らと初めて会った時、42歳だったって知ってた?」
関口がはぐらかした。
「これだけは言っとく、人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだよ」
「なんだ、それ」
「七瀬の言葉だよ。つまりは、勝手にしやがれってさ」関口は嘘くさい笑顔でこちらを向いた。
あの日も雨だった。
仕事はいつも、昼過ぎからだったが、終わる時間は相手次第でまったく分からないという日々が1年以上続いていた。早朝のニュース番組をレギュラーでもらっていたので、明け方直前まで基本的には待機という約束だった。
待機と言われたら酒でも飲んで待つのが礼儀という、変な教えがこの業界にはあった。ボクと関口はルノアールに通うように飲み屋に通った。だいたい焼酎割を飲みながら待機していた。
その日。明け方の新宿ゴールデン街でボクと関口は会社からの連絡を待ちながら眠ってしまっていた。入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。店の奥に無理矢理作った座敷があって、そこでボクらは眠りこけていた。
こじんまりとした店内に味噌汁のにおいが香った。やかんが気持ちのいい音を鳴らし、ボクは薄らと目を開く。
「いま、ほうじ茶煮出してるから」
割烹着を着た『BARレイニー』の名物ママ・七瀬が、せわしなくボクらの朝食を作ってくれていた。味噌汁にとうふと青ネギを切って入れているのが見えた。ご飯もちょうど炊けたようだ。米の甘い香りが鼻をくすぐった。
カウンターには、いつのまにか関口が座っていた。
店内の気温は、暑くもなく、それでいて寒くもなかった。仕事が心配になったけど、もし急ぎがあったら責任感の強い関口は一人でも飛んで戻っているはずなので、大丈夫なんだと悟った。ボクはその人生の余白のような時間に浸って、また眠りに落ちそうになりながら、薄目でふたりをながめていた。
「昨日のさ、カウンターの一番すみっこにいた人、あの人ってマジで元Jリーガーなの?」
関口が、ご飯の炊きあがりをチェックしていた七瀬に声をかける。
「さあね、まぁそう言ってるよね。あの子は」
「そっか」
「サッカーが好きなんだろうねえ」
「そっかぁ」
関口は七瀬にだけは、なついていた。彼には母親がいない。男手一つで幼稚園から育てられた。七瀬も関口のことを我が子のように可愛がっていた。七瀬は白いものがまじった長い髪を後ろで束ねて、いつも割烹着を着ていた。
ゴールデン街のすみっこにあった『BARレイニー』は、その名前からは想像できないぐらい、しなびた風情の和風居酒屋だった。カウンターには大皿が並び、きんぴらごぼうや小魚の煮付け、細かく刻んだたくわんの入ったポテトサラダなどが、なみなみと盛られていた。カウンターは7席で、横に無理矢理作った畳1丈ちょっとの座敷があった。大相撲のカレンダーが2ヶ所にかかっていて、トイレには若貴の手形サインまで飾られていた。
最初にこの店を気に入ったのはボクだった。幼い頃に店の手伝いをした祖母の飲み屋にそっくりだったからだ。店内の匂いも、七瀬のたたずまいもどこか祖母に似ていた。
何度か店に関口を連れて行く間に七瀬にも好かれ、気づいたら会社の悩みをぐちったり、わがままを吐いたりして、我が家のようにこの店を使い始めた。
「ちゃんとしたクツはきなさいよ、あんた」カウンターの席でクツをはいたまま、あぐらをかいていた関口に七瀬が注意をした。
「いや、これ高いんだって。このメーカー知らないでしょ」
「もうちょっとクツ磨きなさい」
「いや、たまにやってるよ」そういうとおしぼりで関口はクツをふき始め、すぐに七瀬にそれを取り上げられた。
「行儀が悪い」そう七瀬は言うと、煮出したばかりのほうじ茶を関口の前に置き、「あと口が臭い。胃が弱ってる。ほうじ茶飲みな」と言ってあたまを軽くはたいた。関口はだまったまま、ほうじ茶を一口飲んだ。
「熱っ」
「あんた、ばかじゃないの。やけどしなかった?」そういうとさっきクツをふきかけたおしぼりを関口の口元にあてた。
「おい。それ、さっきの」そう関口が冗談めかしに怒ると、七瀬は舌を出した。
味噌汁のにおいが心地よかった。ガラス戸に当たる雨が一層激しさを増していた。だが入る陽の光は確実に朝を告げている。店内に流れっぱなしのAMラジオからざらざらとした音で、荒井由実の『中央フリーウェイ』がかかっていた。
ボクは眠りそうで眠れないこの時間を、スローモーションのように覚えている。あの時代の数少ない平和な思い出のひとつだからだ。
ゴールデン街のどの店でも何人かとは顔見知りになってはいたけど、お互い余計な詮索は一切しなかった。そこで出会った人たちと今は一切繋がっていない。瞬間的にそこで友だちになったり、知り合いになったり、なったフリをして、その夜の流れに身をゆだねていたような気がする。
その夜だけの名前で呼び合っていた。その夜だけの肩書きを語る人もいた。その夜だけの自慢話や体験談も飛び交っていた。トイレから出てきたら、その人はもういなくて、それっきりなんてこともよくあった。だけど、いやそれだから本音も言えたような気がした。真剣な悩みを笑って冗談にすることができた。その瞬間だけ距離が縮まり、人生が接近し、またそれぞれの世界に戻っていった。
自分たちがすみかにしている場所以外に、別の顔をして別の自分を演じられる居場所を持つことは人生においてかなり大切なことのように感じていた。
中目黒の雨は、また本降りになってきていた。ラジオでは「雨の日にやりたいこと」なんていうテーマのファックスとメールを、DJがリスナーに募集している。
「金持ちになったら1日10食、食えるわけじゃねーしなぁ」関口が伸びをしながらあくびをする。
「そりゃそうだけどさ」
「世の中には二種類いるんだ。金に飼い慣らされてるやつと、金を飼いならしてるやつ」
「いや、三種類だね」ボクは即答する。
「あとは?」
「金に見放されてるやつだ」
「それは言えた」関口がケラケラと笑った。
『BARレイニー』に夜な夜な集まってきていた連中は、金に飼い慣らされたやつも金を飼いならしてるやつも金に見放されてるやつもいた。七瀬はそのどの人種に対しても同じ態度で接した。基本的には勝手にしやがれだった。
七瀬は毎日、割烹着を着て髭を剃って薄く化粧をして、店に立った。彼女は、いや彼は女装家と言われる種類の人だった。あの店で雑談を交わし、確かに一緒に酒を酌み交わした連中と今、この中目黒ですれ違っても絶対に気づかないだろう。
今、この車の前方から来るあの爺さんが七瀬かもしれない。もし、そうだとしてもボクは気づかずに素通りしてしまうだろう。
あの朝のガラス戸に当たる雨音の正しいリズムが思い出せない。あのほうじ茶の入ったうつわの温かい感触が不確かだ。『BARレイニー』にこだましていた七瀬の声を再生できない。
18年と8ヶ月一緒に戦ってきた戦友と、もうすぐ別れようとしていた。次の打ち合わせが迫っている。ぼんやりと外を眺めている関口が、どこか清々してるように映った。きっと明日からの無職の不安もあるだろう。ただ、重い荷物を下ろした人間の独特の清々しさがそこにはあった。不安のためにボクは今日も時間を売る。関口は不安を買って旅に出ることにした。
不安が不良債権化して姿を消した七瀬は今日、どこで何をしているんだろう。
「あのあと、七瀬から電話あった?」関口が外を向いたまま口をひらいた。
「あのあとって、どのあとだよ?」
「あの電話のあとだよ」
『BARレイニー』は今はもうない。
#7
〝大人〟なんて想像の産物だ
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
「俺が夢の話したら、七瀬すげぇ嫌がってたなぁ」
関口が窓の外の立ち食いそば屋を見ながら吐き捨てるようにいった。
「おまえの夢の話は、誰でも嫌がるけどな」ボクは呆れながら応える。
「その時にアイツが言ったんだよ」
「なんて」
「あの朝よ。おまえが奥の座敷で寝てた朝」
関口がシートであぐらをかいたままこちらを向いて言う。
「わたしはもうイヤだな、夢を持つのも語るのも、って」
「またさびしいことを」ボクもクツを脱いであぐらをかいた。
「もうがっかりしたくない。人生の本当に大切な選択の時、自由なんてないんだから、って」
ワイパーは文句のひとつも言わずに働きつづけていた。その甲斐もなく雨がフロントガラスを濡らしつづける。
関口がアシスタントの肩をたたいて、外の自動販売機を指差さした。
「あ、何飲みます?」アシスタントが尋ねてきた。関口はブラックの缶コーヒーを2つ頼んで千円札を渡す。
運転席のドアが開いた途端、外から横殴りの雨が吹き込んだ。水しぶきがボクの顔を濡らし、思わず顔をしかめる。
「す、すみません」
「大丈夫、閉めて閉めて」ボクがそういうとアシスタントは、あせって勢いよくドアを閉めた。ラジオは大雨による交通の乱れを説明していた。
「ハンカチ使う?」
「なんで、お前がハンカチなんてもってんだよ」少し笑いながら関口からハンカチを受け取る。
「柔軟剤。いい匂いだろ?」
「だから、なんでだよ」
雨粒でにじむ窓ガラス越しに見えた中目黒の景色が、生き物のように形を変えていく。
BARレイニーの入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。うつ伏せで左手を自分の体に敷いたまま寝てしまったので、しびれてしまって左半分の感覚がない。
やかんのぐらぐらぐらという音がずっと聞こえていた。
関口はカウンターであぐらをかきながらどうでもいい話を続けてる。七瀬はどんな話をしても声を出して笑いながら、相槌をうってそれに応えていた。
関口もボクも、睡眠薬を半錠飲んで仕事に励むという異常事態からはようやく抜けた頃だった。七瀬はいつでもだれでもどんな話でも、いつまでも一緒に悩んでくれた。
店を訪れる人たちの重い荷物を、七瀬は預かってくれてたんだなと、今になって思う。そして店を出る時に右肩にかついでいた荷物を、左肩にかけ直してボクたちはまた現実の世界に戻っていった。
だけど、七瀬の荷物を預かる人間は東京にはいなかった。七瀬は誰にも何かを預けようとしなかった。それにボクらも気づかなかった。七瀬はどこか達観していて、すっかり大人なんだと勝手に思っていた。
〝大人〟なんてものは、サンタクロースやネッシーみたいに誰かが作り出した想像の産物だってわかっていたのに。
七瀬は小皿で味噌汁を口に含んで、もう一度味見をしていた。
「あの子も起こしたら」
「もう少し寝かせておけばいいさ」関口がぶっきらぼうに返す。
「そうかい」
「うまそうだ」
「はい、どうぞ」とおぼんにのった朝食を七瀬は関口に手渡した。
味噌汁をすすった関口は一度考えてから、「ふー。おいしい」としみじみと言った。
その日から1ヶ月も経たないうちに、ボクたちを拘束していた朝のレギュラーのニュース番組が終わって、あんなに頻繁に通っていたゴールデン街から足が遠のいた。
ある時、昼間の打合せ後、半年ぶりに近くを通りかかった。関口とボクはどちらからともなく、夕方のゴールデン街の路地に足を向けた。
『BARレイニー』の軒先までいくと、店の入り口に施錠がされている。セロテープで雑に四方を貼り付けられた紙に「長い間、ありがとうございました」とだけ書かれていた。
七瀬の携帯番号を知っていたボクはすぐに電話をかけた。
「もう二度と会えないかもしれない」そう頭の中でよぎった瞬間、「はいはい」といつもの調子で七瀬が電話に出た。
「お店って……」とボクが言うと「あー、やめちゃった」と、挨拶ぐらいの軽さで答えてきた。
「今どこよ?」と電話を無理やり取った関口が聞く。数秒後、「エアバッグ工場? なんだそれ」関口が声を上ずらせ、七瀬に質問を立て続けにぶつけている。
そのやりとりを聞きながら、新宿歌舞伎町で、七瀬を見かけた時のことを思い出していた。その時は女装をしていなかったけれど、右足を引きずるように歩く後ろ姿ですぐにわかった。派手なピンクのアロハシャツにやけに短い短パン、両手にスーパーマーケットで買い物をしたビニール袋を持った七瀬は、歩道を占領していたホスト風の若者たちを怒鳴りつけて道を開けさせていた。その時の七瀬はまるで別人に見えて、声をかけることができなかった。
聞けば、『BARレイニー』は3ヶ月ほど前にあっさりと閉まり、七瀬は借金から逃げるように東京を出て行っていた。
「あのあと、七瀬から電話あった?」関口が外を向いたまま口をひらいた。
「あのあとって、どのあとだよ?」
「あの電話のあとだよ、秋葉原の電話のあと」
「本当にあれっきりだよ」ため息まじりにボクはそう伝えた。
閉店を知ってから半年ぐらい経っただろうか、その日は休みだった。
携帯が何度も何度も鳴った。二日酔いで、ソファで寝ていたボクは目をつむりながら音の出る方を手でまさぐった。
「はい、はい」やっとの思いで出ると、ゼエゼエとした声の男が矢継ぎ早に話し始めた。
「いま、テレビ見てる?」
「え、いや見てないすけど」
「アキバアキバ、秋葉原」
「てか、どちら様ですか?」
寝ぼけまなこのまま、リモコンでテレビをつける。テレビは、どの局も秋葉原からの生中継だ。電話口の男のしゃべりが早口すぎて最初、内容が聞きとれなかった。
「わたし、わたし、ななせ」
「七瀬? ど、どうしたの?」
「工場の同期が秋葉原でやりやがってさ」
「え?」
2008年6月8日だった。七瀬は興奮していた。
「わたしにとってはあの工場は天国だったよ! 楽勝、楽勝。たださぁ、また色々トラブッちゃてさぁ、ねえ聞いてる?」
彼が自分の現状を話してる間も、テレビでは信じられなくらいの惨状が現場から中継されていた。野次馬と警察官と報道陣でごった返す様子が延々と流れている。
ボクは耳元に携帯を当てたまま、すっかり眠気も吹き飛んで、その光景を見ていた。
「それにしてもさぁ、ゴールデン街のみんな、元気かな? まだ、奥椿のマスター怒ってると思う? ハチドリの虹子には一度、電話したんだけどさぁー」
ボクはただずっと画面の向こう側の惨状を見ていた。
「あんたさ、まだ働いてるんでしょ? あのテレビの仕事してるんでしょ? お金貸してくんない?」七瀬が唐突にそんな言葉を投げかけてきた。
その言葉でボクは我にかえり、申し出を即座に断った。電話の向こうにいる男の口調から、あの朝食を作ってくれていた時の柔和な七瀬の姿は、まったく想像することができなかった。金の無心を断った後も、七瀬は話しつづけていた。最後は陽気に「また飲みたいよねぇ、飲もうねぇ」と言って電話は切れた。
「七瀬、あいつどうしたかなぁ」ボクはボンヤリとそうつぶやいた。
「俺、去年3万送ったよ」関口がこちらを見ないようにボソッと言った。
「は?」
「まぁ、手切れ金だよ」
「お前なあ」ボクは呆れて、関口の頭を軽くはたいた。
「はい〜、ではおつなぎいたします。担当は七瀬でした」関口がテレアポの真似をした。
「は? マジで? 今、あいつテレアポやってんの?」
「あぁ。その後も1回電話きてさ。金貸してくんねえか?って」関口が呆れながら笑った。
「それでどうしたんだよ?」
「5万送った」
「増えてんじゃねえか」今度はさっきより強めに関口の頭をはたいた。
昨日テレビで見たボクシングのタイトル戦のニュースがラジオから流れていた。チャンピオンが3度目の防衛を果たしたというニュースだった。彼の幸運はあと何回続くだろう。挑戦者にはフィアンセがいて、負けたあとに花道で抱き合っている姿が印象的だった。
天気予報によると、明日は全国的に晴れの良い天気だという。それは本当に〝良い天気〟なのだろうか。
「あれって、ほんとたまたまだったよなぁ」七瀬の店に初めて入った日のことを関口が話し始めた。
今日みたいに雨が突然強くなるような不思議な日だった。
不意の豪雨に、ゴールデン街の2軒目を探していたボクらは雨宿りをしていた。その店先が『BARレイニー』だった。そこは関口とボクにとって、あの時代の東京で羽を休められる稀有な場所になった。あの日の雨は、恵みの雨になった。
車内に突然、強い雨と風の音が吹きこんだ。運転席のドアからアシスタントが申し訳なさそうな顔で車に乗り込んでくる。
「すみません、ブラックなくて。カフェオレでいいですか」
関口はアシスタントからホットのカフェオレを受け取って、肩をポンポンとたたいた後、ボクにカフェオレを1つ放った。
関口はカフェオレを一口飲むとボクになぜかドヤ顔でこう告げる。「人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだってよ」
ボクもカフェオレを一口飲んだ。「お。これ、うまいじゃん」
次の約束まであと15分を切っていた。
#8
愛とかさ幸せとかさ、アイツといると考えなくてすむんだ
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部です。
濡れたアスファルトの独特の匂いが、ワゴン車の隅々まで漂っていた。気づくと、関口が窓を半分開けて、うまそうに煙草をふかしていた。アシスタントもドサクサにまぎれて、煙草を吸っている。
「あのマンションとか、どうやったら買えるのかね?」
関口が煙草でさした先には、高層マンション群が建ち並んでいた。
「相当、悪いこととか?」ボクがそう答えると、関口はニヤつきながら窓を全開にして「おーい! みんな悪いことやってっかー」と大声をあげた。
「やめろ、金髪坊主」
中目黒駅は目が覚めたようだ。人の数が分かりやすく増えてきた。もうすぐ朝のラッシュが本格的に始まる。
「おまえとアイツだけには挨拶したかったからさ、今日は朝から悪かったな」
関口は、せわしなく働いている立ち食いそば屋の従業員の様子をながめながらそう言うと、こちらを向いた。
「真田のことなんだけどさ」
1999年から2000年に変わろうとしていたその夜だった。年越しカウントダウンの番組から発注があった映像、テロップ、小道具なども全部納めて、やっと年の瀬を迎えていた、はずだった。
2000年まであと10分。一本の電話がボク宛にかかってきた。制作会社Mのプロデューサーからだった。
「特番、おつかれです。請求書の件なんすけど、今回は4割引いてほしいなと。悪いね」
そしてその電話は、こちらの返答を待たずに一方的に切られた。
正規の値段から4割を引く。そんな異常なことが普通にこの業界ではまかり通っていた。うちみたいな制作の外部スタッフの扱いは、値引きが付き合う条件の前提だと面と向かって言われたこともあった。だから請求書は必ず直接渡しに行った。郵送しても「届いてない」と言われることもザラだったからだ。ただ、責任者に請求書を持っていっても、封筒をその場で開封し、ペンで値段を書き直されるということも日常茶飯事だった。
ここ数週間、缶詰で作業した挙句、調子のいい値引きの電話が10本を超えた頃からボクらのフラストレーションはピークに達しつつあった。関口が缶ビールを煽りながら冗談半分に「あいつら、一回ぶっ飛ばさないと俺の気がすまねえわ」と、大声で言った。酒の力もあった、若さもあった。ていうか、それしかなかった。今は本当に反省している。
この日、年越し番組で無人の制作会社Mのスタッフルームをグチャグチャにしてやろうと、酔いに任せた関口とボクは実行に移す。運転手はその場にいた、関口のアシスタントだった真田に頼んでしまった。
その制作会社Mは、住宅街のマンションの1階にあった。ボクと関口は、その会社の鍵の隠し場所も、長年の付き合いで全部知っていた。外から見える部屋の窓は真っ暗で、人がいないことは確認できた。手慣れた具合に鍵を見つけ、中に入る。
関口は口笛を吹きながら両手を大きく広げ、デスクにあるものをどんどん落として回った。ボクはおもむろに社長の椅子に座って、クルクルと回りながら飾ってあるトロフィーを足蹴にして、かたっぱしから落としていった。真田は、密かに好きだったその会社のデスクの女の子の机に座って、突っ伏していた。
ひとしきり終わり、息を殺して笑い転げながら、置いてあった有名野球選手のサインボールでキャッチボールを始めた時だった。「ガチャガチャガチャ」と鍵を開けようとする音がする。ボクと関口はギョッとして顔を見合わせ、とっさにサインボールをポケットにしまった。棚に並ぶDVDを物色していた真田もピンと背筋を伸ばしてこちらを向いた。
「先輩、こっちの窓から逃げてください」真田が棚の横のベランダの窓を開けた。
「ばかか」関口が一喝する。真田は首を振って譲らない。
「自分はバイトです。それもまだアシスタントです。行ってください、お願いします」
真田は頭を深々と下げ、「ごめんなさい」と小声で言ったあと、ボクと関口を強引にベランダに突き飛ばした。
「おいおい……誰かいるのかぁ?」玄関の方から声が聞こえる。真田は窓の鍵を閉めると、ベランダの柵にまだ足がかかっていたボクにお辞儀をして、カーテンを閉めた。ボクと関口は、その姿を確認したあと柵を越えて逃げた。
関口は何度も立ち止まり、何度も振り返っていた。
翌日、つまり新年の2日目。制作会社Mの社長がウチの会社にやってきた。その時、立ち会ったボクに「事は荒立てない。ただそのための条件は真田のクビだ」とハッキリと言った。「ただ、うちの若いのも、ずいぶん派手に真田くんをやっちゃったみたいだから、それはお詫びしますよ」と、笑顔でつけ加えてきた。
会社はすぐにその条件をのみ、ボクと関口はノコノコとそのあと、真田の不始末のお詫びと称し、その会社に菓子折りを持って訪問している。あの時の関口の帰り道の落ち込みようったらなかった。
真田には、関口がそれから何年も電話をかけていた。特に年末の年越しの仕事のあとは必ず一度、電話を入れている姿を見かけた。真田はなかなか職が定まらず、関口は何社か仕事を斡旋したりもしていた。それでも真田は、面接に行かなかったり、入社しても続かなかったりした。
関口はあまり口外しなかったけど、真田はネットワークビジネスや新興宗教などにハマり、関口にそれとなく勧めていたこともあった。ただ会うという話までになったことはなかった。詫びのつもりなのか、けじめのつもりなのか、関口が折に触れて金を送っていることもボクは知っていた。
そしてあの事件から16年経った先々月、どうしても相談したいことがあると、珍しく真田の方から関口に電話があった。ボクも関口も徹夜明けだったが、真田からのたっての頼みに、二人して深夜に時間を作った。
日比谷線の神谷町駅の階段を上がってすぐに、待ち合わせに指定された店はあった。午前2時のロイヤルホスト。四人席のテーブルに関口とボクは横に並んだ。ただ約束の時間を過ぎても、指定した当人はなかなか姿を見せない。
すぐとなりの席ではチェック柄のシャツと銀縁メガネまでお揃いの若い男ふたりが、アイドルグループの最新ゴシップについて大声で話していた。後ろの席を振り返るとヨレヨレのスーツを着た50代くらいの男性が、肉汁とソースの甘い匂いをプンプンさせたハンバーグに食らいついている。
真夜中だというのに他の席も主婦っぽい2人組、明らかに若い大学生っぽい男など、フロアはある程度埋まっていた。関口は、さっきから人差し指でずっとテーブルを小刻みにノックしている。
「真田ってまだアフロヘアーだと思う?」そうボクは関口にふってみたが何も返答がなかった。
しばらくして指先のノックがピタリと止まって、関口が口をひらく。
「おれさぁ、彼女できてさ。4年ぶりに」
「まじ? 誰よ」
「お前の知らないヤツよ」
関口はゴソゴソとカバンの中で携帯を探しはじめた。
「俺さ、気づいたんだよ。夢とかさ、金とかじゃなくてさ」
関口は携帯で、ボクに見せる彼女の写真を選びながら話しつづけた。
「じゃなくてさ。愛なんて言葉、彼女と付合ってから俺のあたまんなかから消えちゃったんだ」
「お前が愛を語る日がくるとはねぇ」
関口はちょっと恥ずかしそうに、選んだ写真をボクに差し出しながら言った。
「愛とか幸せがどうしたとかさ、彼女といると考えなくてすむんだよ」
ロイヤルホストのドアが勢いよく開いて、真田がボクらのテーブルの横に転がるように飛び込んできた。ただ右足を引きずって走ってきた姿が、ボクには引っかかった。
「遅れて申し訳ございません!」
ブルーのジャージにジーンズ姿、あの頃同様、いやそれ以上に大きいアフロヘアーの真田の後ろから、明らかに高級な生地で仕立てたシワひとつないスーツにオールバックの男がゆっくり歩いてくる。そして真田の横にピタリと並んで立った。関口とボクはその瞬間会話を止め、ふたりに目をやった。
「こちらが先輩方にぜひ紹介したかった、クドウさんです。5年後の日本人がほとんど口にすることになる奇跡の水『らら水』の説明をさせて頂きます」真田は緊張した面持ちで、そのスーツの男をボクらに紹介した。
「初めまして、クドウです」そう名乗ったスーツの男は、持ってきたジュラルミンケースをボクらのテーブルに置くと、中から大量のパンフレットと怪しい水のペットボトルを数本、並べはじめた。「では、座らせて頂きます。今日はゆっくり、奇跡についてお話させてください」と言いながらクドウはボクらの前に着席した。
関口の指がまたテーブルをノックしはじめていた。「真田、これが俺たちと16年ぶりに会う理由か」
「え、あの、はい。どうしても先輩たちにも奇跡が実在することを知ってもらいたくて」そう言いながら、真田がクドウの横に座ろうとしたその時だった。テーブルの上にあった怪しげな水のペットボトルをおもむろに持った関口は、おもいっきりそれを真田の顔面に投げつけた。
「おまえ、何度言ったら分かんだ。てか分かんねーんだな、きっと。こういうさ、何にでもつけ込んでくる馬鹿野郎もムカつくけど、何度もまわりを巻き込んで引っかかる馬鹿野郎も見飽きたよ、おまえさぁ」
クドウは眼光鋭い視線をこちらに向けたまま微動だにしない。
真田が顔をおさえてうずくまった瞬間、すぐとなりの席の若い男ふたりが立ち上がりこちらを向いた。イスが引かれる音がしたので振り向くと、ボクらの後ろの席のヨレヨレのスーツの男も立ち上がってこちらを見ている。
その目つきは異様だった。「ガタッ」2人組の主婦も無表情で立ち上がりこちらを見ている。いやそれだけじゃない。このフロアに座っているほぼすべての席の客が次々に立ち上がっていく。その誰もがゆっくりとボクらの方に、一歩一歩近づいてきていた。
クドウが口を開く。「ここにいるみなさんは、真剣にお二人にお話を聞いて頂きたいんですよ」
「真田。この店の客全員、お前のお水のお友達か?」関口は床で四つん這いになって顔面をおさえながら肩で息をしている真田に問いかけた。「はい……最後までちゃんと聞いてもらいたくて」
ボクはヨレヨレのスーツの男が、さっきまでハンバーグを切っていたソースのベットリとついたナイフを右手に持ちかえて、すぐ後ろに立っているのが気になり、そいつから目が離せなかった。
関口がテーブルに置かれたジュラルミンケースをサッと取った。となりの席の若者ふたりが目の前まで、ボクと関口に近寄ってきていた。
「思い出話ぐらいさせてくれよ。ったく」そういうと関口は、近寄ってきた若者の一人の鼻めがけてジュラルミンケースを縦に振り下ろした。床が血で霧ふきをかけたような模様に染まり、男がうずくまる。その鈍い音と血しぶきを前にもう一人の若者は一歩も動けなくなった。
その様子を確認して振り返ると、左肩の違和感に気づいた。ヨレヨレスーツの男のナイフが、ボクの左肩にエグるように突き刺さっていた。夢中だったこともあり、痛みはなかった。ただ、左側が固定されたように動かない。ボクはそのサラリーマンの襟首を右腕で捕
まえながら、テーブルに仰向けに叩きつけた。
「今度からお友達連れてくる時は先に言えよ。店の予約ぐらいすっからさ」返り血がシャツにベットリついた関口が、ボクを刺したままテーブルに張り付けになって動かないサラリーマンにアイスコーヒーのグラスをフルスイングで至近距離から叩きつけた。
「そこまで! そこまでです!」店員に呼ばれたであろうビル警備員の怒号が飛んだ。関口がちょうどクドウに向かって椅子を振り上げたところだった。
生き物が宿ってるように、左腕全体がドクドクと脈打っていた。鼓動が止まらなかった。ボクは四つん這いで頭を抱えている真田の襟首をつかんで、頬をおもいっきり張った。
関口が警備員から警察に引き渡されていった。目の前にいたはずのクドウはジュラルミンケースとともに消えている。男が2人倒れていて、奇跡の水『らら水』のペットボトルが床に大量に散乱していた。
その他の連中も蜘蛛の子を散らすように店から消えていた。「大丈夫ですか」ビル警備員が左腕に触った途端、鈍痛が走った。
ボクの左腕は数針縫っただけですんだ。関口が帰ってくるのには2日かかった。どんなやり取りがあったか分からない。ただあやしげな組織の末端の末端が、突発的に暴走した事件として処理された。真田はそれっきりボクらの前に姿を見せなかった。
関口の落ち込み方は酷かった。関口は謹慎、ボクはリハビリのため、しばらく現場を外れて一緒に制作会社を回る日々を送っていた。
「あ、今月の請求書ね。またちょっと値引き頼みたいんだわ。わりぃ、待ってて」制作会社のディレクターの三上はそういうと拝むようなポーズをしながら席を立った。
今にも崩れそうな書類と漫画本だらけの机が並ぶ深夜の制作会社で、ボクと関口は待たされた。考えてみれば、あんなことがあったばかりの関口を、この制作会社に連れてきたのが間違いだった。
三上はバラエティ番組を当てることには定評がある男だったが、下への暴力が絶えない人間で、彼の部下のADは大体が半月で半分以上辞めてしまって、残り半分は奴隷のように無心になって働いていた。だが外部のボクらには、すこぶる対応が良かった。
デスクの横のビデオテープの入った紙袋を足でどけながら、三上はもう一度こちらを振り向き「ごめんね、忙しいのに。すぐ済ませるから」と言って満面の笑みを浮かべた。
三上はデスクの奥までいくと、そこで正座をして待っていた20代前半であろうADの女の子の顔面を何の躊躇もなくノーモーションで、拳で殴りつけた。周りで仕事をしているスタッフは一瞥するくらいで無関心を装っている。その空気が、この狭い会社の中では日常茶飯事であることを証明していた。
ふと横をみると関口が下を向いたまま拳をぎゅっと握りなおしている。ボクらが立って待たされている三上のデスクの上に、ディズニーランドのシンデレラ城の前で三上の奥さんと幼い娘さんらしき3人で微笑んでいる写真が飾られていた。
三上はなんのためらいもなく再びADの女の子の顔面を殴りつける。女の子が殴られた勢いで、デスクに山積みされていた週刊誌と資料にあたって、それらが雪崩のように崩れた。関口はただずっと下を向いている。
「おまえ、これ戻しとけよ」三上は倒れたままの女の子に冷たく言い放った。
手をぶらぶらさせながら「本当わりぃわりぃ。で、で、今回の請求書の件だよね」と三上が笑顔で戻ってきた。
ボクは一刻も早くこの場から立ち去れるように早口で対応した。「えっとこちらです」 三上は慣れた様子でこちらの請求金額をボールペンで消しながら話し始めた。
「あー、そうそう。履歴書で見たから確かだと思うんだけど。君らんとこに昔いた真田くん。この間までウチにいたんだよ、ADで。まぁー、使えない、使えない」
「真田。真田恭平ですか?」関口が顔を上げた。
「それがさ、ウチのスタッフが中目黒で見たっていうんだよ。あの中目黒の駅前の立ち食いそば屋で」関口の質問には答えず、三上は矯正中の歯を見え隠れさせながら薄ら笑いを浮かべて話し続けた。
「それでね、ここ大事。客じゃなくて働いてんの。アフロのまんま。聞いたらシフト週6の夜勤だって。いやだねぇ〜末路、末路」
「すみません、コーヒーになります」さっきまで正座をして殴られていたADの女の子がコーヒーを持って、ボクたちの前に置きはじめた。彼女の左の頬は、真っ赤にミミズ腫れになっていて、それは左まぶたにまで及んでいた。
関口が彼女の瞳の奥を覗くようにながめている。ボクはそのあまりに痛々しい傷跡に、彼女を正視できなかった。
関口の感情の変化に気づいたボクは、ポンと背中を分からないように叩いて交渉を進めようとした。
「わりいなぁ、迷惑かけるわ」関口はボクにそれだけ言うと三上を床に押し倒し、正確に鼻っ柱を狙って、コーヒーカップが粉々になるまで殴りつけた。ADの女の子はその光景を見ながら、呆然と立ち尽くしたままだった。周りにいたスタッフは次々に立ち上がって関口に飛びかかった。
床には散乱した請求書と粉々に割れたマグカップと一緒に、ところどころ血だらけになった三上の家族写真が転がっていた。
会社の判断を待つことなく、関口は辞職願を提出した。そして昨日、関口は正式に退職をした。
中目黒駅は通勤する人々ですっかり灰色に染まっている。
「繁盛してるねえ」2本目の煙草に火をつけて、関口が立ち食いそば屋をながめながら言った。
「立ち食いそばって一番手堅い商売だよな」
「それ、言いすぎじゃね?」そうボクが言うと、「いや、立ち食いそば屋が潰れたとこ、俺は一度も見たことねえから」関口は、1日は24時間なんだぜと言うかのように確信めいてつぶやいた。
また一人、サラリーマンが店に入っていく。自販機でチケットを買って、真田に渡していた。ここからだと声までは聞こえないが、そばにするかうどんにするかを聞いているのは、理解できた。
「あいつ、相変わらず手際悪いなぁ」アフロヘアーに帽子を乗っけて忙しそうにカウンターを拭きながらサラリーマンにぶつかり、何度も引きつった笑顔で謝っている真田を見ながらボクは言った。
「あのばか」関口が吐き捨てた。
モデル:瀬戸かほ
#9
必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる
18年と8ヶ月一緒に働いた、唯一の同期である関口が会社を辞める。2016年、東京という街を生き延びた42歳のオッサンであるところの、ボクと関口。雨が降りしきる早朝の中目黒、煙草臭いワゴン車の中で、二人は話し始めた。ラジオから流れる音楽とともに、ひとつの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた――フォロワー7万5千人のツイッターアカウント『燃え殻』@Pirate_Radio_さんの史上最大級のつぶやき、『ボクたちはみんな大人になれなかった』第二部、最終回です。
中目黒駅がラッシュアワーに突入して、あふれかえるほどの人が駅を行き交っている。隣接する立ち食いそば屋も、今日一度目の混雑を迎えていた。
関口がちらりと時計を見てから、独り言のようにつぶやいた。
「人かき分けてさ、でしゃばって、生き残ってきたと思わない?」
「あぁ」
「自滅する人間のほうが、俺はどっか尊いと思ったよ」
スーツ姿のサラリーマンたちが灰色のグラデーションをつくって、目の前の横断歩道をはみ出さないように渡っている。次の選挙の立候補者が朝の演説に備えて拡声器を準備していた。駅に向かう流れに逆行しながらゆっくり歩く老人が、横断歩道の途中で振り返ってから立ち止まり、空を見上げている。
「そうかもな」ボクは高架下からのぞく東京の風景を一瞥しながら答えた。
「あの時、おまえ、俺をとめなかったな」関口はそう言うとボクの方を向いた。
「おまえがやんなかったら俺がやってたよ」
「ウソコケ」関口がやっと笑った。
「なめんなよ」ボクも少し笑った。
関口は空き缶の縁で煙草をもみ消すと、ふいに言った。
「負けんなよ」
「ん?」
「負けんなよ、おまえ。負けんな」
アシスタントが時計を見た後にサイドミラーでボクに目線を送る。ボクは言葉がうまく出てこなかった。
雨がおさまっていた。風がやんでいた。タイムリミットだった。
始まってしまったボクたちは、必ずいつか終わる運命にある。
必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる。ただその必ずが今日なのか、明日なのか、18年と8ヶ月なのか、それは誰にも分からない。
FMラジオから知らない国の知らないミュージシャンの聴いたことのないバラードが流れていた。中目黒を行き交う車と人々が織りなす喧騒がそれに気持ちよく混ざりあっていた。
この狭いワゴン車で過ごした夜明けの出来事を、どこかの町の喫茶店でナポリタンを食べている最中に、クライアントに電話をかけてコール音が鳴っている最中に、あるいは、いつかまた誰かとの別れを迎えた夜明けの横断歩道で、ふと空を見上げ思い出すような気がした。
「だけど結局、俺たちが何をしても世の中はびくともしなかったなぁ」ボクは出会ってきたすべての人たちにつぶやくように関口に言った。
「そうかもな」関口は少しだけ口角を上げ、立ち食いそば屋でサラリーマンを元気に見送る真田に目をやった。
「まぁでも、きみの人生は大きく狂わせちまったけどな」
そう言って、運転席のアシスタントに声をかける。ボクはサイドミラーを覗く。アシスタントの彼女の左頬には、わずかにまだ三上に殴られた傷が残っていた。
彼女はこちらを振り返り、神妙な顔で言った。
「ほんとに……わたしなんかのためにすみません」
関口は何も答えずにジャケットをはおると、座席から立って運転席の彼女の左手に万札を握らせた。「あ、あの」とアシスタントが言うのを制し、にっこり笑って「転職祝い」と告げた。
「んじゃ、行くわ。おまえと話せてよかったわ」そう言うと関口は、ボクの肩をポンポンと叩いた。
「あーっと、ちくわそば。一緒に真田のちくわそば食わないか?」関口が靴を履きながら、ボクの方を向いた。「俺はまだやめとくよ」思わずそう口をついた。
「オッケー、オッケー」関口はわかってるよと言わんばかりに、おどけながら握手を求めてきた。
ボクはその手を握る寸前に言った。
「関口……」
「ん?」
「俺、おまえのことどっかで気に入らなかったよ。ずっと」
関口は「そんなの俺もだよ」とニヤリと笑って強く握手をしてきた。ボクもできる限り力をこめて握り返した。
運転席のアシスタントがハンドルに体重をかけながら不思議そうにこちらを覗いている。
ボクらはもう一度、ギュッと強く力を入れてから手をはなす。
関口はふと真顔になると、こんな質問をしてきた。
「人と別れる時ってさ、みんな何を話すもんなんだろうね」
「え? んーまぁ、一緒に過ごした思い出話とか? 感謝の気持ちとか。あとなんだろうなぁ」
「その相手が、涙を流すような言葉とか?」
「まぁそうだな」
立ち食いそば屋に4人の若いサラリーマンが入っていき、真田は一層忙しそうに働いている。
「将来さぁ」唐突に関口が言った。
「将来って、俺らもう40超えてんだぜ」
ボクの言葉に関口は背中を向けたまま続ける。
「将来さ、一緒にまた仕事しようぜ」
関口はこちらを振り返りボクの目をジッと見た。しばらくしてから、ふっと笑い「それまで生きてろよ〜」とボクを指さしながらスライドドアを勢いよく閉めた。
関口は振り返ることなく一直線に立ち食いそば屋に向かうと、一呼吸置いてドアを開けた。立ち食いそば屋の厨房で、せわしなく動いていた真田が固まった。関口は厨房の真田に向かって深々とお辞儀をした。4人組の若いサラリーマンがポカンとその光景を眺めている。
「恵比寿の打合せ、どうします?」アシスタントが声をかけてきた。
「行くよ、遅れてるから電車で行くわ」ボクはまだ真田と関口から目を離せなかった。
「わかりました」
「後でさ、関口を送ってやって」ボクはそれだけ告げると、関口とは反対側からワゴン車を降りて中目黒駅に向かった。
ボクはまっすぐに階段を駆け上がって、ホームに向かう。中目黒のホームに続く階段を降りてくる人波をよけながら、最短距離を目指した。
発車のベルが鳴り響く中、乗車率150%の日比谷線に、肩で息をしながら飛び乗った。
カバンからスマホを探す。恵比寿で待ち合わせをしているもうひとりのアシスタントから何度も電話がかかってきていた。約束の時間からもうずいぶん遅れてしまっている。言い訳メールの前に癖でフェイスブックのチェックをしてしまう。
世界の人口は60億を超えて今日も増え続けている。ボクたちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間はもう残っていない。渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことはもう二度とない。
車輪の音がけたたましく鳴り響いた。地下鉄の窓に映し出されたボクは紛れもない42歳の男だった。老けたなぁ。
カーブに差し掛かって、日比谷線が激しく揺れた。ひとりの女性のアイコンが文面と共に目に飛び込んでくる。
〝小沢(加藤)かおり〟。久しぶりにその文字列を読んだ。
車両がふたたび左右に揺れる。ボクはつり革を握りなおす。
日比谷線が暗闇の中を突き進んでいく。
(おわり)
モデル:横田光亮
燃え殻
もえがら
1973年生まれ。テレビ美術制作。企画、人事担当。社内で新規事業部立ち上げの責任者になり、社内にいることが激減。日報代わりに始めたTwitterがある時から脱線し続ける。結果、現在フォロワー数6万5千を超えるアカウントになる。 twitter:@Pirate_Radio_