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火曜日, 9月 16, 2014

日本の「イイ女」とイギリスの「イイ女」の違い

日本の「イイ女」とイギリスの「イイ女」の違いとは?


おにぎり2万個を握った女子マネージャーのニュースの炎上事件を通して、日本人の「女性観」を考えてきました。今回は、日本人が考える「イイ女」とイギリス人が考える「イイ女」を比較しながらひもといていきます。日本の「勝ち組男」は「おにぎり2万個の女」を好きになる傾向がありますが、このような男性がイギリスにやってくると「イイ女がいない」と口を揃えて言うそうです。その理由とは?

美談?炎上?普通クラスへ移籍…おにぎり2万個握った女子マネージャー「後悔なし!」




イギリスにおける「イイ女」とは?

日本ではオニギリニマンコの女がイイ女です。

単純でバカだけれども、学歴があり、安定した会社に勤めていて、スポーツも得意な男は、自分より何かが優れている女は嫌いです。

嫌いどころか地球から消滅しろと思っている。

好きなのは手作りのオニギリやスイーツを差し出してくれて、ブログはスイーツの写真で満載の子鹿のような女。

Raspberry Pi (※)やホモ雑誌の話を話題にすることはなく、不動産にも市場にも興味のない女。

自分より身長の低い女。他の誰ともつき合ったことがない女です。

※名刺サイズの安価なコンピュータ。これを使うとだれでも簡単にプログラミングができる。




こういう男は、イギリスにやってくると、イイ女がいない、と口を開くたびにいうわけです。
それは当たり前です。ここではイイ女の定義が日本とは違うから。




まず、ここのイイ女は、日本の男達よりもはるかに身長が高い。人によっては170cmを越えている。しかし背が高くても堂々と10センチ以上のハイヒールを履きこなす。

そういうヒールに合わせる服は、体の線を浮き立たせるようなワンピースやタイトスカート。色は真っ赤だったり、真っ青だったり。

男物のブリーフケースを仕立てているブランドで、書類が入る大きさの、かっちりとした作りのビジネスバッグを買い、それを片手に抱えて大股で歩く。

肌はこんがりと焼けていて、化粧は薄め。スポーツは万能ですが、特にテニスが得意です。
夏には職場のクライアントの接待もかねて、競馬に行ったり、ヨットに乗ったりします。
会話にはギリシャ神話やラテン語の引用が時々入り、イギリス人の平均年収の数倍を稼ぐ専門性の高い仕事をしており、自分よりも年下の部下達を指導している。
部下のうち半分以上は外国人です。職場では男に交じって堂々と意見をいい、パブではグラスを片手に先週行った現代美術の展示会の話をしている。

週末は次のマラソン大会に備えて郊外を走ったり、近くの大陸欧州の国で週末だけの休暇を楽しむ。

結婚は二度目だけれども、配偶者は自分と同じ専門の仕事をしており、業界内の会合で知り合った年下で、二人の連れ子がいる。家事は分担しているけども、お互いに多忙なので、家事代行サービスを活用して、余った時間はマラソンやオペラの鑑賞に使う。子供は通いのナニー(ベビーシッター)に面倒をみてもらっている。ナニーはフランス出身です。

 

手作りスイーツは外注すればいい

職場の男性や配偶者に手作りスイーツを差し入れすることはありません。
食品を手作りする様な付加価値の低い作業は外注するのです。
時給換算したら自分の本業の数分の一の価値しかありません。

そもそも料理が得意ではないのですが、配偶者がそれに関して特に何か言うわけではありません。幼稚園の先生はイギリスでは賃金が低いサービス業で、労働条件も悪いので、学生の頃から幼稚園の先生になりたいと言ったことは一度もありません。

周囲の同級生も、学生の頃の専攻を生かした職業について、平均年収の何倍かを稼いでいるのです。

配偶者は、彼女にもっと成功して欲しいと考えています。食事を作ってくれとか、掃除をしてくれという希望はありません。

この女性はアメリカ、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、スペインの男性にも人気です。



時々ちょっと悪さをしようかな、という気も起こりますが、今の配偶者に満足しているので、相手とはパブで飲むだけの関係にとどめています。





「イイ女がいない」とボソボソといっている日本の男達は、業界の会合でこういう女性達に上から見下され、現代美術に関する会話にも入れず、家に帰ってオニギリニマンコの記事に「イイネ!」を連打しているのです。




火曜日, 8月 19, 2014

「おにぎり2万個」握った女子マネージャーの美談に賛否両論!


「おにぎり2万個」握った女子マネージャーの美談に賛否両論! 「夏の甲子園」は本当に必要なのか?






おにぎり2万個を野球部員のために握った女子マネージャーの話が話題になっている。この女子生徒がマネジャーを務めるのは、埼玉の春日部共栄高校野球部。開幕戦で春の甲子園の覇者である龍谷大平安を撃破したことでも話題となった。
 この春日部共栄野球部では、体力強化のために練習中におにぎり5個を食べるということで、女子マネージャーが握っていたそう。その数、2年間で約2万個。そして、おにぎりを握ることに専任するために、進学コースから普通コースにクラス替えまでしていたという。【参考:夕刊アメーバニュース
 この話がスポーツ紙で報じられることで、ネット上で賛否両論の大論争が起きている。美談として語られる一方で、批判意見も数多い。僕としては、この件に関しては批判的だ。美談として語るべきではないと思っている。なぜか。別に、ジェンダー問題をこの件に持ち込むつもりはない。もっと根源的な高校教育の視点からの意見だ。

教育の視点から覚える
「美談」への違和感

 そもそも、高野連は高校野球を教育の一環だと主張している。では、「教育」とは何かというと色々な意見があるだろうが、いわゆる教養も含めた「広義のキャリア教育」こそが、教育の本質だと思っている。途上国の少女に教育が必要なのも、その少女が大人になったときに自立して生きていけるようにするためで、つまり、初等教育における読み書きから、高等教育にいたるまで、すべてがキャリア教育である。
 日本の高校教育もこの文脈で語られるべきだし、実際、先進的な高校はその路線で突き進んでいる。無責任な大人は、教育とキャリアを結びつけて考えることを嫌うが、それで将来、苦しむのは子どもや若者たちだ。大人は、子どもや若者の将来的なキャリアを見据えて教育を提供すべきだ。
 もちろん、教育は勉強だけではない。すべての高校生は勉強だけやれとは言わない。高校野球に関して言えば、将来、プロ野球の選手をめざす野球部員が、勉強よりも野球の練習を優先させるのは、キャリア教育という意味でも正しい。将来はJリーガーになりたいというなら、学校の勉強よりサッカーの練習のほうが重要だ。世界的に偉大な音楽アーティストになりたいというなら、自宅での勉強より曲作りに励んだ方が正解だ。
 しかし、では、「おにぎり2万個」の女子生徒はどうなのか。勉学を犠牲にして、おにぎりを2万個握ることが、彼女のキャリア形成にどのように役立つのか。彼女の行為を賛美する人たちは、その視点が決定的に欠けている。
 「本人が望んでやったことだからいいじゃないか」という意見もある。しかし、本人が望めばなんでもありというわけにはいかない。それが教育だ。本人が納得して、望んでいればなんでもやらせてよいというワケではない。その子の将来を考えてアドバイスや指導を行なうのが大人の役目だろう。
 そのような視点から言えば、この女子マネージャーの将来の希望が、「卓越したおにぎり屋さんをやること」であれば話は別だが、そうでなければ、何のキャリア教育にもならないことで勉学をおろそかにすることはやはり間違いだ。その意味で、彼女の行動を自己犠牲の美談として語ることは、教育という視点から言って完全に間違っている、と僕は思う。

「自己犠牲」を
過度に美化しすぎる文化

 実は、僕は高校野球にはあまり関心がなかったので看過していたのだが、今回の件で違和感を覚えて、高校野球のことをちゃんと考えてみた。そして思ったのだ。夏の甲子園大会はもうやめるべきではないか、と。
 甲子園大会の最大の問題点は、自己犠牲を過度に美化しすぎるその文化だ。もちろん僕も、自己犠牲の精神自体は否定しない。自己犠牲が美しいのは、たとえば自分の子どもを守るとか、凶悪なテロ組織の攻撃から多くの人の命を守るとか、「誰かの生命」がかかったときだけの話だ。人の命は地球より重いので、その命を投げ捨てるにはそれに見合う重さ、つまり誰かの命を救うことでなければバランスがとれない。
 人生も同様に重いので、その重さに見合った「誰かの人生」のためという理由が、自己犠牲には必要となる。たとえば、ある貧しい母子家庭の母親が、自分の子どもの将来のために自分の人生を犠牲にして身を粉にして働き、子どもを大学に行かせるといったようなことだ。
 つまり自己犠牲とは、自分の命や人生を犠牲にすることなのだが、高校野球は高野連が常々主張しているように、あくまで高校教育の一環であり、教育の場で誰かの人生を犠牲にするようなことが美徳とされて良いはずがない。夏の甲子園が終わっても、生徒の人生はその先、何十年も続くのだ。
 過度な自己犠牲の文化と言えば、投手の連投問題もある。ビートたけしがテレビ番組で、「高校野球の投手が投げすぎで故障することは、虐待だ」と発言して話題となったが、海外のスポーツメディアもこの件について注目している。その他、個人のブログでも、この「投げすぎ問題」について論じる人も多い。
 ちなみに日本臨床スポーツ医学会は、2005年に「スポーツの安全管理ガイドライン」を出している。このガイドラインのなかの「青少年の野球障害に対する提言」では、「高校生では、1日100球以内、週500球を超えないこと」となっている。また、「野球における肘・肩の障害は将来重度の後遺症を引き起こす可能性かがあるので、その防止のためには指導者との密な連携のもとでの、専門医による定期的検診が望ましい」とされている。
この提言から見ても、甲子園大会で決勝まで進むチームのエースは明らかに投げすぎだ。たとえば、昨年の春の甲子園大会で甲子園最速タイ記録の155キロの速球を投げて「新怪物」と称された愛媛県・済美高校の安楽智大投手は、この大会で「5日間で4試合に先発し、1試合当たり平均135球。さらに大会中9日間で計772球」を投げている。その後、安楽は右肘を故障。今年の夏の大会ではかつての球速が蘇らず、予選で敗退している。
 この高校生投手の投げすぎ問題に対する反論としては、登板数、投球数とその後の故障の因果関係が明らかになっていない、というものがある。たしかに、甲子園大会で決勝戦まで連投して、その後もプロ野球で活躍している投手はいる。しかし、安全管理とは、一部の特殊な人間を基準に行なうべきものではない。さらに言えば、プロ野球の投手でも連投させないのに、高校生投手には連投させてもよい、という理屈がわからない。
 昨年の日本シリーズ、楽天の田中将大投手は第6戦を投げきり、翌日の第7戦にも登板した。これに対し、感動した人も多かったが、批判も多かった。しかしこの時の田中は、連投と言っても、最終回の1イニングで15球を投げただけだ。2試合連続で先発完投したわけではない。それでも田中をマウンドに送った星野監督には、専門家からも批判意見が出た。
 身体ができあがったプロ野球のエースが連投をすることが問題視されるのに、まだ身体ができあがっていない高校生投手に連日、先発完投を強いるのは明らかに間違っているだろう。もし、連投が問題ないのであれば、プロ野球はなぜ、投手を連投させないのか。そのあたりの理屈を高野連はきちんと説明すべきだ。
 プロ野球でも、昔は、エースは連投も含めて、かなりの球数を投げていた。かつて「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた昭和の大エース、西鉄ライオンズ(当時)の稲尾和久投手は、1958年の日本シリーズで巨人軍を相手に7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投している。1961年にはシーズン中78試合に登板し、42勝をあげている。昔はプロ野球でもこのような無茶な登板をさせていたわけだ。それが今では、中5日か中6日のローテーションが基本となっている。メジャーリーグは中4日だが、先発投手は100球前後の投球数で降板させるという。
 プロ野球でも選手の健康のために、このような配慮を行なっているのに、教育が第一義であるはずの高校野球で投手に連投させるのは理屈に合わない。そして、連投して肩を故障した選手は、美談として語られる。

毎年のように起きる
「熱中症事故」の問題も

 また、夏の高校野球に関しては、別の重大な問題がある。「熱中症事故の問題」だ。独立行政法人日本スポーツ振興センター学校災害防止調査研究委員会が平成26年3月にリリースした「体育活動における熱中症予防」レポートによれば、熱中症による死亡事故が圧倒的に多いスポーツは「野球」であるという(グラフ参照)。当然だが、月別では7月と8月に集中している。つまり、日本の気候では、夏に野球というスポーツは適さない。そのことがデータでハッキリと表れている。
 死亡事故まで至らなくても、熱中症で倒れる選手もいる。7月26日には兵庫予選が行なわれた明石トーカロ球場では、野球部員など6名が熱中症で救急搬送された。7月8日には山梨大会の開会式で、プラカードを持ったマネジャーら6人が熱中症のために交代。試合中にも守備の選手が脚に痙攣を起こした。
 毎年のように熱中症による事故を起こし、練習や試合中に選手や応援の生徒が救急搬送されている。にもかかわらず、これがなぜ社会問題化しないのか、大きな疑問だ。文科省が指導に入らないのが不思議なくらいだ。この熱中症問題だけを見ても、夏の甲子園大会はやめるべきだと思う。甲子園大会は、春だけで十分ではないだろうか。全国大会を年に二度もやる必要が本当にあるのか。
 理屈に合わないのはファンも同様だ。甲子園を愛している、高校野球を愛しているというなら、高校球児を死の危険にさらす夏の大会をやめさせるのが、本当のファンではないのか。
 というわけで、とにかく日本の高校野球の文化はおかしい。人権の観点から見ても間違っていると僕は思う。たしかに、人権というものはなかなか難しい面もある。しかし、ハッキリしているのは、人権に関する国際的な条約があり、それを批准している場合、その条約が基準となるということだ。
 具体的に言うと、日本は国連の「子どもの権利条約」を批准している。この場合の「子ども」とは、18歳未満の人間をさすが、政府が批准している以上、この条約で掲げた精神や条文に反することは、明確な人権侵害となる。この条約がめざすものは、子どもの健全な育成である。そして、夏の甲子園大会はこれまで述べたように、子どもの健全な育成にはなっているとは言いがたい。
 夏の高校野球を巡る虐待や人権侵害については色々と議論があるようだが、「子どもの権利条約」の精神に反しているというだけで、十分に人権侵害ではないだろうか。高校生の健全な育成のためにも、マスメディアは夏の甲子園大会の是非について、広く議論を展開してほしい。



http://diamond.jp/articles/-/57793