村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察
「
村上春樹の小説がどうも好かん」という方に、たまに出くわします。
一方私は、けっこうな村上ファンです。長編小説はすべて読んでおり、短編小説も一部をのぞいてほとんど読んでいます。エッセイもたくさん持っています。
ただし、村上ファンであることを公言するとアンチ村上派に鼻で笑われるので、最近は「
村上春樹が好き」であることを、あまり表立って言わないようにしています。
(表立って言えないので、ブログに書いています……。)
村上肯定派も、アンチ派も、この方の小説に関しては、いろいろと言いたいことがあるもよう。
このドリーさんのレビューは大変面白くて、ファンである私も、思わず吹きました。
しかし、そんなアンチ派の声を聞いた上で、肯定派がいったい
村上春樹の小説をどう読んでいるのかについて、一度語っておいてもいいのではないかと思ったわけです。なぜアンチ派の語る「ムダにオシャンティーな言い回し」や、「あざとくて薄っぺらい登場人物」を、私たち肯定派は、すんなり読むことができるのか。
村上春樹の小説の「好き」「嫌い」は、いったいどこで分かれるんでしょうか?
『ノルウェイの森』から入った人は、高確率でアンチになる
私のまわりのアンチ村上派に、「いちばん最初に読んだ村上の本は何?」と聞くと、高確率で返ってくる答えが『
ノルウェイの森』です。
『
ノルウェイの森』から
村上春樹を読み始めることは、当然といえば当然です。『
ノルウェイの森』は
村上春樹の小説のなかでいちばん有名な〈売れた〉作品であり、すなわち代表作だからです。だれだって、マイナーな作品から読むよりは、まず代表作から手にとってみようと思うでしょう。
もちろん全部が全部そうであるといいたいわけではありませんが、ここに村上肯定派とアンチ派を分けている、大きな誤解が生まれる原因があると私は考えています。なぜなら、
『ノルウェイの森』は村上春樹の小説のなかでは、ちょっと例外的な作品だからです。
どういうことかというと、私がいちばん最初に手にとった
村上春樹の小説である『
パン屋再襲撃』の中身を、少し確認してみましょう。
『
パン屋再襲撃』は6つの短編からなる短編集です。私がこのなかでいちばん好きな作品が、『
象の消滅』という短編です。
短編のなかでは有名なほうなので、内容を知っている方も多いかもしれません。ざっくりとあらすじを説明すると、動物園で飼っていた象が、その飼育係と一緒に、ある日忽然と消えてしまった……という話です。象舎には鍵がかけられているし、象の足につながれていた鉄輪も、鍵がかけられたまま残っている。脱走ではなくて、飼育係とともに“消滅”してしまった、というわけです。そして、消えてしまった原因はもちろん明かされないまま、この短編は終わります。
この物語は、
象の消滅をめぐるミステリーではありません。不可思議なことが起きて、不可思議なままおわっていく。
フランツ・カフカの小説のように不条理で、暗いモヤのなかをわけもわからず歩かされているような、そういう感覚を楽しむ小説です。
ほとんどの
村上春樹の小説には、この『
象の消滅』のように、不可思議なことが起きたり、実在しない奇妙な生き物が登場したりします。われわれ村上肯定派の人間にとっては、こちらのほうがスタンダードです。つまり、彼の小説は“ファンタジー”であり、“
シュルレアリスム”なんです。
*1リアリズムを追求した小説では、ないんです。
しかし、『
ノルウェイの森』やドリーさんがレビューしている『多崎つくる』は、
村上春樹の小説のなかでは
例外的に、そういった不可思議な出来事や奇妙な生き物が登場しません。『
ノルウェイの森』に関しては、そういった要素を登場させずに書くことがある種の“挑戦”だったのだと、
村上春樹自身がインタビューなどで語っています。
小説にもやはり第一印象というのはあって、『
パン屋再襲撃』から入った私や村上肯定派は、村上小説を“ファンタジー”だと捉えています。一方『
ノルウェイの森』などから入ったアンチ村上派は、村上小説をリアリズムの小説だと捉えている方が多い気がします。はじめに読んだのが『
ノルウェイの森』なら、無理のないことです。
村上小説をリアリズムの物語として捉えるなら、そりゃあいろんな表現が鼻について当然です。フラっと寄ったバーに偶然何だか知らんがものすごい美女がいて、かっこつけたセリフをひけらかしているうちにベッドイン……なんてことは、世界の99%の人の身には、起こりえないことです。
だけど、そこで「リアリティがない!」「こんなことありっこないだろ!」というツッコミをアンチ派から入れられると、少なくとも私は、「そりゃそうだ。だってリアリズムの小説じゃないもん、これ」と返したくなっちゃうんですよね。
『
名探偵コナン』ってマンガがありますよね? あのマンガでは、コナンくんの行く先々で、待ってましたとばかりに殺人事件が起こります。現実的に考えたらありえないことだし、もはやその不自然さに、作中ですら“ギャグ”として自らつっこんでいたような記憶があります。
ただし、その不自然さに、“ギャグ”としてつっこむことはあっても、マジメに腹を立てる人はいません。なぜなら『
名探偵コナン』が完全なる“ファンタジー”であることは、だれの目から見ても明らかだからです。そういえば、コナンの正体である新一くんもけっこうクサいセリフを頻繁にはいている気がしますが、新一くんに不快感をしめす人はあまりいません。ちょっと笑っちゃうことはありますが。
しかし、
村上春樹の小説は、それが“ファンタジー”であることが、非常にわかりにくくなっています。『
ノルウェイの森』が代表作になってしまったことが、これの大きな原因です。でも、村上ファンである私からすると、
彼の小説はリアリズムではないので、歯の浮くようなくどい会話があったっていいし、美女とその気はないのにベッドインしたって気になりません。
あえて村上風に鼻につく言い方をするなら、
村上春樹の小説では性行為すら一種の“メタファー”なので、それは直接的な、リアルな性行為を意味しません。少なくとも私は、
村上春樹の小説における性
描写は「何かと何かが結びつく記号」くらいに捉えて読んでいます。
ファッション孤独?
他によくあるアンチ村上派の意見として、「村上の描く“孤独”は、本当の“孤独”ではない! あれはファッション孤独だ!」というものがあります。
『多崎つくる』をはじめ、多くの
村上春樹の小説の主人公は、あまり人付き合いが上手なタイプではありません。『多崎つくる』に登場する36歳のつくるは、高校生の頃の友人たちに絶交されてしまい、以来友達らしい友達、恋人らしい恋人のいない生活を送っています。これは孤独……。
しかし、そんなつくるくんには、あっさりと沙羅という恋人候補ができてしまいます。特に努力をしたわけでもないのに、オシャレなバーで偶然出会って
*2、何か知らないけど気が付いたらいい感じになってしまっています。「これのどこが“孤独”なの!?」というのが、アンチ派の感想のようです。
しかし、これに関しては、「
しょうがないじゃん、村上春樹は西村賢太*3じゃないんだから」と、私は思ってしまうんですね。
村上春樹の小説で孤独をうったえる主人公は、“孤独”とはいっても恋人か都合のいい美女がすぐに現れるし、経済的にも恵まれていて、(つくるはちがいますが)友人もいる場合があります。そして、青山や恵比寿のオシャレなバーへ、颯爽と入っていく。「そんなオシャレな“孤独”は“孤独”じゃない!」というのが、アンチ派から多く聞く声です。
でも、私はやっぱり
村上春樹の世界の主人公たちは、孤独だなぁと思うんですよ。友人がいない、恋人がいない、お金がない、というのも確かに“孤独”だけれど、それらをすべて手に入れた上でもまだ満たされない心、孤独っていうのが、私はあると思うんです。前者の「もたない孤独」を書いているのが
西村賢太で、
村上春樹は後者の「もっている上での孤独」を書いているんだと、私は考えています。
だから、
西村賢太的孤独を求めている方が
村上春樹の孤独を批判するのは、八百屋さんに行って「何でケーキが売ってないんだ!」って言っているように、私には聞こえるんですよね。孤独にも、いろいろ種類があるのです。必ずしも
西村賢太の孤独のほうが奥深くて、
村上春樹の孤独は浅はかだ、とはいえないと思うんです。
アンチ村上派のための村上春樹案内
『
ノルウェイの森』が無理だった、『多崎つくる』も無理だった……となれば、たいていの人は「もうムラカミの“ム”の字も見たくない!」となるでしょう。
基本的には、それでいいと思います。小説なんて、好きな人が好きなように読むものなんですから。
ただ、もし「『
ノルウェイ』もダメ、『多崎つくる』もダメ、でも3度目の正直で、もう一度
村上春樹に挑戦したいんだ!」という希有な方がおられたら、以下に書くことをぜひ参考にして下さい。
あのですね、
村上春樹は、
エッセイを読みましょう、エッセイを!
「小説が無理なのに、エッセイなんて読めるわけないだろ!」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえていただいて、騙されたと思って読んでみてほしいのです。私のおススメは、
村上春樹が
ギリシャとトルコを旅したときのエッセイ、『
雨天炎天』。
小説の主人公のイメージから、「
村上春樹ってやつは、どんなスカした野郎なんだ!」と想像している方は多いと思います。でもエッセイを読む限りだと、
村上春樹は「
気のいいおじさん」です。お腹が空いたり、イライラしたり、歩き疲れたり、奥さんと喧嘩して言い負かされたりしています。ほのぼのと心和むこともあれば、深く考えさせられるようなこともあり、エッセイは本当に面白いです。私は正直、小説よりエッセイのほうが好きなくらいです……。
あと、
村上春樹は数々の翻訳を手がけていることからもわかるように、海外文学にとても親しんでいる方です。エッセイを読むと、その様子もよくわかります。日本人のわれわれにとって「ちょっと鼻につく」言い回しをついついしてしまうのは、やはり海外文学の影響があるのでしょう。そのあたりの、
村上春樹の文化背景みたいなものもわかると、小説で「チッ」と思うような表現にあっても「ま、しかたないか」と流せるようになります。
とにかく、エッセイはおススメ。アンチの方って小説しか読んでいない方がほとんどだと思うのですが、エッセイと小説は印象が全然ちがいます。最後の望みをかけて
村上春樹に再挑戦する方は、とにかくエッセイ。小説を読んだらダメです。
★★★
アンチの方々がよく言うように、『
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、おそらく本来であれば、あそこまで話題になるような作品ではありません。これは、村上ファンとしても全面的に同意です。意図的に、変に盛り上げられてしまっているところがやはりあって、それはファンにとってもアンチ派にとっても、結局不幸な事態を招いてしまっているように感じます。『
ノルウェイの森』も、あそこまで売れるような本だったのかなぁ、と疑問に思います。
きっと、話題が話題を呼んで火が付いちゃったんでしょうね。『雨天炎天』のほうが面白いのになぁ。