7 月のある午後、ウェストビレッジにある、ジミ ー・ヘンドリックスが設立したエレクトリック・レディ・スタジオでレディー・ガガに会った。彼女は階段を上って、扉から入ってくると、私が椅子から立ち上がるよりも早くハグをしてきた。彼女は黒いマリークヮントの帽子を被り、Tシャツと真っ黒なジーンズに身を包んでいた。
30歳のパフォーマーは、ニューヨークのこの音楽の殿堂で、新しいアルバム『ジョアン』を録音していた。
彼女は、せっかくだから、まずアルバムから何曲か聴いて、と言い、巨大な電子基板とガラスでできている個別のスタジオに連れていってくれた。電子基板の横の椅子に腰掛けて、彼女は自分のiPhone を基板につなげた。脇にはカメラマンが立っていて、新しいプロジェクトのドキュメンタリー映像を制作するため、すべてを録画していた。
最初に流れてきた歌は、アルバムのリード・シングル曲の「パーフェクト・イリュージョン」だ。ドライブがかかっていて、圧倒的に速く、踊りまくるのにちょうどいい曲だった。その次の曲は彼女の伯母のジョアンに捧げるバラードだった。
彼女はこの伯母には会ったことがないが、伯母の名前をもらった(ガガの本名はステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタだ)。ジョアンは19歳で全身性エリテマトーデスの合併症で亡くなった。胸に迫ってくるような曲が流れると、ガガは目に涙を浮かべながら、彼女の家族は、ジョアンの死をずっと弔い続けているのだと言った。
気分を変えようと、彼女はアップビートな曲を次に選んだ。するといきなり私に向かってエア・ギタ ーを弾き、メロディに合わせて唇を動かしながら、肩を動かした。そして、彼女はドクターマーチンの靴を履いた足で立ち上がり、ダンスしながら暴力的な速さで動き回った。まるで狂気が乗り移ったかのように。
ほんの数十センチしか離れていないところで、ガガが激しく身体を震わせ、限界を超えたような動きをしている。これに夢中にならないでいろというほうが無理だ。彼女に見入ってしまうのに抵抗しようとする人間なんてどこにいるというのだ。どこに行こうと、ガガはこんなふうに、すべてをさらけ出して見せるような気がする。
彼女のキャリアにおいて、彼女が引き受けるリスクと同じくらい、彼女が本気であることは生々しく、隠しようがない。
ガガはニューヨークのアッパー・ウェストサイドで育った。13歳のときに近所のブティックで服を試着しながら歌っていると、その声が店のマネジャーの耳にとまった。ガガの声が素晴らしいと思った彼は、彼の叔父でボイス・トレーナー のドン・ローレンスに連絡をとったらどうかと話しかけた。
ローレンスはクリスティーナ・アギレラ、ミック・ジャガー、そしてビリー・ジョエルの声楽コーチだった。ガガは初めてローレンスと話したとき、ぶるぶる震えていたという。ローレンスは彼女に面会し、彼女はマライア・キャリーの「ヒーロー」を彼の前で歌った。すると彼は、彼女のためにレッスンの時間を確保すると言い、もし毎日練習するなら、レッスン料は特別割引すると言った。彼女は毎日練習することを約束した。
毎週水曜日の午後 6 時が彼らのレッスンの時間だった。レッスンが終わる頃には、彼女の声はすっかり温まり、単に喉から高音が出せるだけでなく、身体の奥底から低く深い声がわきあがってきたという。
彼のスタジオを出ると、彼の建物の中の、音がよく反響する円形広場で歌った。家まで歩いて帰る道すがらもずっと「腹の底から声を出して歌った。誰が聴いていようと構わなかった。ただ歌って、歌って、歌いまくった。信じられないぐらい気持ちがよかった。世界中の何よりも最高の癒やしの感覚だった」と彼女は言う。
17年後の今もローレンスは「まるで軍隊みたいに」彼女に音階の訓練をしている。オスカーの舞台で歌うときも、ローレンスが彼女を特訓した。50回目のスーパーボウルでアメリカ国歌 "星条旗" を歌ったときも。そしてつい2日前も、エレクトリック・レディ・スタジオの1階で彼女が歌うのを彼は聴いていた。
ガガにとって、この世で一番大切なのは家族。そしてローレンスは家族なのだ。
ガガにとって、この世で一番大切なのは家族。そしてローレンスは家族なのだ。
22歳で世界的な名声を得るのは早いかもしれないが、決して突然ではなかった。
子どもの頃から成功すると固く心に決めて、階段のてっぺんに立ち、同じ歌を何度も何度も歌い続けたとすれば。同じ歌を繰り返し聴かされることを辛抱した彼女の家族は、どんな状況でも彼女を理解し、協力してきた。
「『オズの魔法使い』(’39)のジュディ・ガーランドの声と、彼女の演技者としてのパワーの魔術的な魅力にすっかり夢中になったのを今でもはっきり覚えているわ」と彼女は言う。「昔は、あの映画を見ると泣いてしまったし、私は、すごく小さい頃から、いつも女優になりたいと思っていたの」(まるで運命づけられていたように、ガガはブラッドリー・クーパーが撮る『スター誕生』のリメイク作品で、かつてガーランドが演じた役を演じることになった)。
子どもの頃から成功すると固く心に決めて、階段のてっぺんに立ち、同じ歌を何度も何度も歌い続けたとすれば。同じ歌を繰り返し聴かされることを辛抱した彼女の家族は、どんな状況でも彼女を理解し、協力してきた。
「『オズの魔法使い』(’39)のジュディ・ガーランドの声と、彼女の演技者としてのパワーの魔術的な魅力にすっかり夢中になったのを今でもはっきり覚えているわ」と彼女は言う。「昔は、あの映画を見ると泣いてしまったし、私は、すごく小さい頃から、いつも女優になりたいと思っていたの」(まるで運命づけられていたように、ガガはブラッドリー・クーパーが撮る『スター誕生』のリメイク作品で、かつてガーランドが演じた役を演じることになった)。
演じることは彼女にとって必要なことではなく、 なくてはならないものだ。
「私の人生すべてが、ひとつの劇場作品なの」。彼女には、自分が学校の同級生と違っていたという記憶はない。だが、彼女が学校で開催される劇のほとんどすべてに出演するために、 遊びそっちのけで練習に打ち込んでいたのは、同級生たちも気づいていたかもしれないとついに認めた。ジャズバンドの練習をしたり、ピアノの勉強をしたり、バレエやタップダンスのクラスを取ったり。それがのちに彼女のキャリアとして結実したわけだ。
ニューヨークでさまざまな演劇の活動に参加することは、厳しい修業になり得る。ガガはいち早く彼女のファンとなったアートやファッションや音楽の分野の学生たちのことを誇りに思っている(「私のアートポップはあらゆることを意味するの」という歌詞が彼女の歌にある)。
彼女のさまざまなスタイルのミュージックビデオは演劇のようだ。意味の深さや情報量の多さ、 衣装や色彩を含め、あらゆる動きがフレームの端々に至るまで、練られ、考え尽くされている。彼女は、前衛劇演出の鬼才であるロバート・ウィルソンと組んで、2013年にビデオ『フライング』を発表し、賛否両論を浴びた。その中で彼女は裸で縛られ、空中で逆さ吊りになった。(「私の身体を好きなようにしたらいい」と彼女は別の歌の中で歌った。「でも私の声を止めることはできない」と)。同じ2013年の一連のビデオポートレートで、ウィルソンはガガをヨーロッパの絵画の画像にあてはめた。そのひとつが、洗礼者ヨハネの首が皿に載せられているイメージだ。
ガガは次々と活躍の舞台を広げていく。
若者たちの需要にこたえ続けていくだけの人生を送るつもりはない。
「私は女になりたかった」。
彼女はトニー・ベネットとともに2014年にリリースしたジャズのスタンダード曲を集めたアルバムについてそう語る。
「このアルバムを聴いたひとたちは、『ちょっと待って。なぜ彼女がジャズを歌ってるんだ? どうしちゃったんだ?』と大騒ぎだったの。でもそのうち、こう言うようになった。
『ああ、彼女にはこういうことができるんだ、彼女はジャズが大好きなんだ』。
それに、アフリカン・アメリカンのコミュニティが生んだジャズという音楽は、この国が作り出した最高のアートの形だと私は信じてるの」。
彼女は歴史を知っているし、白人のアーティストがジャズを歌うことが何を意味するかもわかっている。だが、彼女が子どもだった頃は「音楽を人種やジェンダーで考えるということ」はしなかった。彼女はただ純粋に音楽を聴いていたのだという。
若者たちの需要にこたえ続けていくだけの人生を送るつもりはない。
「私は女になりたかった」。
彼女はトニー・ベネットとともに2014年にリリースしたジャズのスタンダード曲を集めたアルバムについてそう語る。
「このアルバムを聴いたひとたちは、『ちょっと待って。なぜ彼女がジャズを歌ってるんだ? どうしちゃったんだ?』と大騒ぎだったの。でもそのうち、こう言うようになった。
『ああ、彼女にはこういうことができるんだ、彼女はジャズが大好きなんだ』。
それに、アフリカン・アメリカンのコミュニティが生んだジャズという音楽は、この国が作り出した最高のアートの形だと私は信じてるの」。
彼女は歴史を知っているし、白人のアーティストがジャズを歌うことが何を意味するかもわかっている。だが、彼女が子どもだった頃は「音楽を人種やジェンダーで考えるということ」はしなかった。彼女はただ純粋に音楽を聴いていたのだという。
黒人少女として育ったわけではないが「私は黒人少女が感じる恐怖や力を感じることができる」と彼女は言う。
「この国の司法制度はどうしようもない。LGBTコミュニティがどんな待遇を受けてきたか、彼らとと もにそれを間近で見てきたし、彼らが魂のレベルでどんな経験をしてきたかに共感する。正義が実現し、変化が訪れると、魂が洗われるような経験を目の当たりにする。私はみんながそんな思いができることを望んでいるし、私がそういうことを語ってもいいのだと思いたい」。
「この国の司法制度はどうしようもない。LGBTコミュニティがどんな待遇を受けてきたか、彼らとと もにそれを間近で見てきたし、彼らが魂のレベルでどんな経験をしてきたかに共感する。正義が実現し、変化が訪れると、魂が洗われるような経験を目の当たりにする。私はみんながそんな思いができることを望んでいるし、私がそういうことを語ってもいいのだと思いたい」。
女性であることは、彼女に別の視点を与え、社会から取るに足らないと思われている人々の状況を、自分のこととして受け止める器を与えた。
「私、彼らの物語を音楽の形で書くことに夢中になったの」とガガは言う。
周囲を蹴散らすようなリズムに乗りながら、弱さやもろさを歌う彼女。
「自分が真にミュージシャンであり、みんなに何かを伝えられる人間だってことを常に結果を出して示していかないと。女性だってミュージシャンにも、ロックスターにもなれると。女性が、ポップスターとして消費されるだけの存在を超えた何かになれるということをね」。
「私、彼らの物語を音楽の形で書くことに夢中になったの」とガガは言う。
周囲を蹴散らすようなリズムに乗りながら、弱さやもろさを歌う彼女。
「自分が真にミュージシャンであり、みんなに何かを伝えられる人間だってことを常に結果を出して示していかないと。女性だってミュージシャンにも、ロックスターにもなれると。女性が、ポップスターとして消費されるだけの存在を超えた何かになれるということをね」。
ガガは、ポップとロックに強く惹かれていたために、正統な方法で芸術を勉強することには抵抗があった。だが、このアーティストは、最初から、必要なものをすべて引き寄せていた。ローレンスは彼女に自分で詞を書くことをすすめた。詞を書くことは、ときにとてもつらく、大変な作業になり得ると彼女は認める。
「自分の心のトラウマが壁になってしまうこともある」と彼女は言う。「暗くて、永遠に続くネガティブな思考のループにはまって、それが大きく響いてくると、頭の中で聴こえる音楽のじゃまをする。私が音楽を作るときは、すべてのパート、すべての楽器の音が聴こえるの。完全な形で聴こえるわけ」。
彼女はプレイボーイ誌に掲載されたジョン・レノン のインタビュー記事を覚えている。
レノンは、曲を作るプロセスがあまりにも常軌を逸していたために、ビートルズの大ヒットレコードの何枚かを聴くことができないのだと語った。再び聴くと、あの狂気が蘇ってくるからと。
自らが曲を書いているときを、彼女はこう表現する。「ゾーンに入っていく感じ。マインドフルネスと言ってもいいかもしれない。自分が望んでいないことも起こるかもしれない。でも、それにも何か意味がある。そしてその意味を自分で探さないといけない」。
ガガは自己破壊のロマンチシズムには興味がないが、レノンからはさらにもっと大切なものを学んだという。「勇気ね」と彼女は言う。「強い勇気をもたないと」。
「自分の心のトラウマが壁になってしまうこともある」と彼女は言う。「暗くて、永遠に続くネガティブな思考のループにはまって、それが大きく響いてくると、頭の中で聴こえる音楽のじゃまをする。私が音楽を作るときは、すべてのパート、すべての楽器の音が聴こえるの。完全な形で聴こえるわけ」。
彼女はプレイボーイ誌に掲載されたジョン・レノン のインタビュー記事を覚えている。
レノンは、曲を作るプロセスがあまりにも常軌を逸していたために、ビートルズの大ヒットレコードの何枚かを聴くことができないのだと語った。再び聴くと、あの狂気が蘇ってくるからと。
自らが曲を書いているときを、彼女はこう表現する。「ゾーンに入っていく感じ。マインドフルネスと言ってもいいかもしれない。自分が望んでいないことも起こるかもしれない。でも、それにも何か意味がある。そしてその意味を自分で探さないといけない」。
ガガは自己破壊のロマンチシズムには興味がないが、レノンからはさらにもっと大切なものを学んだという。「勇気ね」と彼女は言う。「強い勇気をもたないと」。
DARRYL PINCKNEY, STYLED BY JASON RIDER AND TRANSLATED BY MIHO NAGANO