土曜日, 3月 25, 2017

『共同幻想論』|吉本隆明

 

   1.

戦後最大の思想家」吉本隆明の思想的達成『共同幻想論』とはなにか?


「戦後最大の思想家」とも言われる吉本隆明『共同幻想論』を紹介します。国家とは何かに迫った吉本隆明の代表作とも言われる本書ですが、なぜこの作品を選び、そしてどう読むのか。


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吉本隆明は「戦後最大の思想家」と呼ばれることがある。その過剰とも思える賛美には当然の反発があり、しばしば過度に逆走する傾向にある。吉本隆明とその思想への侮蔑的とも言える否定やわざとらしい無視、あるいは上品に学問を装ってはいるものの稚拙な誤読に基づく軽視なども。吉本隆明を巡る賛美と否定の光景は、この思想家が戦後の思想の世界に存在したという事件の派生にすぎない。

ではとりあえず、吉本隆明を「戦後最大の思想家」という一面だけ捨象して、賛辞を裏付けそうな思想的な果実は何かと問うなら、しばしば物議を醸した個々の状況論(例えばオウム真理教への擁護論や原発肯定論など)を除けば、理論的な主著と呼ばれる三書、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)がまず挙げられる。これらは「思想」と呼ぶに耐えられるものだろうか。

 

主要三書の中でなぜ『共同幻想論』なのか

『心的幻想論序説』はあくまで序説である。本論はそれから30年近く、だらだらと彼が主催する同人誌『試行』に連載され最後は未完に放置されたが、とりあえず形ばかりはマルクスの『資本論』に匹敵するほどの大著として2008年に出版された。これを高く評価する人もいるが、『試行』での連載を漫然と長期に読み続けてきた私としては評価しづらい。私の「心的幻想論」の理解では、むしろ本論よりもコンパクトにまとまったように見える、1995年の『母型論』のほうが「序説」の帰結に思える。またそうでありながらも、『母型論』はおそらく哲学や精神医学のメインストリームにおいて顧みられることはないだろう。ヴィルヘルム・ライヒの再評価や三木成夫の隠喩など、どちらかと言えば奇っ怪な学説によって独自に裏打ちされているためである。

『言語にとって美とはなにか』はどうか。吉本隆明自身はこの作品を最初の理論的な著作として自負していたものだが、私を含め多少なりとも言語学のメインストリームを学んだものからすれば、言語学の基本概念のレベルからの倒錯を含んでいて、およそ読むに堪えない。ただし、そうした前提を踏まえた上で、この著作を評価して良いのではないかという、言語学者・川本茂雄の肉声を言語学の学会で私は若い日に聞いて驚いたことがある。川本には何か訴えるものがこの著作にあったのだろう。ずっと気になっているが今もわからない。

では「私にとって」と限定して、残された吉本隆明の思想的達成は何か。『共同幻想論』である。この書籍のどこに思想の達成があるのだろうか。結論だけを先に言えば、「性意識が国家を生み出すまでの人類の無意識的な過程を描くことで、逆にその解体の展望を示したこと」にある。

 

最大の功績は「共同幻想」概念そのもの

本書『共同幻想論』だが、一般的には、国家論の文脈で、「国家を解体すべき共同幻想であることを説いた」という点にあるとされている。偽悪的に言えば、左翼的な国家解体論の亜流でもあるが、重要性はより「共同幻想」という概念の提出そのものにある。吉本隆明が思想家であることは、「共同幻想」という概念を構築した点にあると言ってもよいだろう。

「共同幻想」とは何か? 通常、「共同の幻想」と読み下されることが多く、そうした読み下しは吉本自身も行っている。だがその先の通解は、「人々が共有している願望的な幻想」といったものになりがちである。あるいは、精神分析学者・岸田秀のように、人々が共通して無意識に押し込めた意識といった理解もある。さらには、哲学者・廣松渉の『唯物史観と国家論』に示された「幻想的共同体」と同一視する理解もある。だが、岸田の理解は吉本自身との対談で示されたこともあるが、気の利いた洒落程度の話でしかない。

廣松の「幻想的共同体」と吉本の「共同幻想」は同じだろうか。吉本と同様にマルクス主義に特有な疎外論に根を共有しながらも、廣松は、基本的には、個々人の意識の幻想のなかでの公約数的な理解に傾きつつ、その議論展開は論集『世界の共同主観的存在構造』が示すように、近代的世界観のなかでの国家に集約されていた。しかし吉本の「共同幻想」は直接的には、廣松が対象視したような、私たちに現前する、歴史上の国家を扱っているわけではない。「後記」に明言されている。

本書では、やっと原始的なあるいは未開的な共同の幻想の在りかたからはじまって、〈国家〉の起源の形態となった共同の幻想にまでたどりついたところで考察はおわっている。つまり歴史的な時間になおしていえば、やっと数千年の以前までやってきたわけである。

吉本隆明の『共同幻想論』が扱っているのは、「やっと数千年の以前」の人類の意識様式に現れた、ある共同幻想であり、そこでようやく国家の起源と見ているだけである。通常「国家」とされる、直接的で近代的な国家の本質や形成過程をそのまま扱っているわけではない。

 

『共同幻想論』は進化心理学に近い

こうした対比を現代的な学問に近似させるなら、吉本隆明の『共同幻想論』は「進化心理学」に近いと言えるだろう。進化心理学では、人間の心理のあり方は、類人猿から人間に至る生物学的適応によるとしている。なにより進化心理学では、通常、更新世の石器時代の人間の適応環境を強調する。石器時代は長い時期であるが、終わりを青銅器時代と見るなら、吉本隆明の『共同幻想論』の最終的な歴史地点と概ね重なっている。ただし、吉本は石器や青銅器といった生産手段・武具を重視しているわけではないし、青銅器時代のない地域での人間心理も包括しようとしているかには見える。もっとも吉本は農耕生産を必然的な段階とも見ているが、この扱いはナイーブ過ぎるだろう。

それでもさらに「進化心理学」との対比で『共同幻想論』をとらえるなら、進化心理学が現代人の心理傾向や行動を無意識である動物的な種特性として説明するように、吉本の「共同幻想」も、人の心のなかの無意識の重層性を迂回して現代人の国家意識に潜む、おもにその呪縛的な側面を説明している。つまり、私たち現代人の無意識に潜む国家意識がどのように、古代人的な心性に根ざす国家意識に通底しているのか、という問題意識のなかで、吉本の共同幻想という概念が提出されている。

だが、進化心理学と『共同幻想論』との対比からは、吉本の共同幻想という概念の痛烈さは示せない。この概念の思想的な威力は、「対幻想」と呼ばれる性の幻想領域と生成的な関連を付けたことにある。もちろん進化心理学も、生物進化の観点から人間の生殖(つがい形成)を重視しているが、それはあくまで進化の選択から、性行動を、いわば物語の脚本のように解き明かそうとしているだけだ。吉本の「対幻想」では、暗黙裡に類人猿的な生殖行為を自然的な前提とはしながらも、その行為の背景にある性の意識あるいは性の無意識は、「共同幻想」との関係において、幻想(意識のなかに疎外さ〈性〉としての人間はすべて、男であるか女であるかのいずれかである。だがこの分化の起源は、おおくの学者が言うように、動物生の時期にあるのではない。すべての〈性〉的な行為が〈対なる幻想〉を生み出したとき、はじめて人間は〈性〉としての人間という範疇をもつようになった。〈対なる幻想〉が生み出されたことは、人間の〈性〉を、社会の共同性と個人性のはざまに投げ出す作用をおよぼした。そのために人間は〈性〉としては男か女であるのに、夫婦とか、親子か、兄弟姉妹とか、親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば〈家族〉が生み出されたのである。

この指摘は、同語反復的な悪文のようにも見える。だが、原点の「すべての〈性〉的な行為」はいわゆる類人猿の生殖と解して、対幻想と区別してよいだろう。吉本は、人間の生殖行動を進化心理学のように外部から観察的に見るのではなく、その内部の意識と無意識の仕組みとして関心を寄せている。

繰り返そう。吉本は、人間の行動を、単純にそれを支配する意識の表出として見るのではなく、無意識を含めた意識の総体が、むしろ個の意識に背く(疎外する・逆立する)ような行動を導く意識(幻想)の生成過程として見ていた。





 

2.

恋愛と人生は「地獄」であることを直覚させた『共同幻想論』


吉本隆明『共同幻想論』評、第二回は本書が描かれた社会状況に迫ります。『資本論』のマルクスを牽制しつつ、フロイトやヘーゲルの方法論で本書を描いた吉本隆明。学生運動華やかなりしころ、それらの学生に熱烈に読まれたかというと、彼らが意識していたのはちょっと違ったようです。



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方法論の原点のひとつはフロイトの『トーテムとタブー』

人類とは何かという根源的な問題を考察する上で、無意識の内的了解の進化過程に視点を置く方法論として吉本の『共同幻想論』は、進化心理学よりは、ジークムント・フロイトの『トーテムとタブー』に酷似している。むしろ、『共同幻想論』『トーテムとタブー』の反論として書かれているとも言える。そもそも「トーテム」は「禁制」であり、ゆえに『共同幻想論』もこの「禁制論」から始まる。




[集大成である『モーゼと一神教』では、『共同幻想論』のように人類の無意識の変化を扱いながらも、具体的な古代史の探偵趣味に堕している。とはいえこの対比でもわかるが、吉本隆明の『共同幻想論』もまた、縄文人・弥生人といった歴史時間への対応として誤読されることは少なくない。

では性意識(対幻想)と、共同幻想である呪縛的な国家幻想をつなぐ、吉本の方法論は、どのように方法論的に支持されうるのだろうか。進化心理学にも方法論があり、フロイトもまた彼の精神分析と呼ぶ方法論がある。吉本隆明の『共同幻想論』の方法論はなにか。

 

もう一つの原点はヘーゲルの『精神現象学』

『共同幻想論』に示される、もう一つの方法論は、マルクス主義を原点とする吉本隆明が、20世紀に支配的だった左翼思想の原点を懐疑的に解体・再構成しようとして、カール・マルクスより以前の根となるフリードリヒ・ヘーゲルの『精神現象学』を再読して得た、ヘーゲルの現象学的方法論であった。そこから吉本はマルクスとは異なった形で、ヘーゲルによる、個人主体の意識的な主観的精神から統合的な絶対知への転換を、無意識的な幻想領域として取り出した。その意味で吉本隆明の『共同幻想論』は、ヘーゲルを継ぐ、あたかも『人類意識現象学』といった様相も示している。こうしたヘーゲルの方法論的な配慮は本書の各部で垣間見ることもできる。例えば、『精神現象学』での家族の本質についての叙述を引用したあと、吉本はさらりと読み替えを示唆する。


 ここでヘーゲルの「敬愛」という言葉は、ただ〈関係〉と読まれるべきだが「感動」というのはそのまま読まれてよいだろう。
(中略)
 ヘーゲルの考察は〈性〉としての人間が〈家族〉の内部で分化していく関係を、するどくいい当てているとおもえる。

 

『共同幻想論』が発表当時に支持された理由

だが、吉本隆明の『共同幻想論』が1968年に出版され最初の読者を得たとき、ヘーゲルに立ち返ったマルクス主義の再構築として読者に支持されたとは言いがたい。むしろ当時の読者はこの書籍のなかに、真理だけが持つ威力を直覚していた。その思想的な威力の直観は、左翼的思想にありがちな国家解体への情熱よりも、当時の若い世代の読者たちに特有な、革命への情熱の蹉跌のなかで自覚されたものである。それは彼ら個々人のエロス性の矛盾の見取り図にもなっていた。つまり、彼らの性意識と社会意識の相克の生きづらさの自覚が、吉本隆明の『共同幻想論』を直観的に支持させていた。

ここであえて滑稽な表現をしてみたい。吉本隆明の『共同幻想論』の初期の読者は、その内面に、正義の希求と恋の希求とその相克の苦しみの起源を解き明かすことへの消しがたい希求があったのだ、と。その文脈で『共同幻想論』に問われていたのは、「共同幻想」よりも「対幻想」、つまり、性の幻想であり、恋人とエロスの幻想だった、と。

共同幻想が吉本の思想において国家呪縛の本質性として捉えられていたように、対幻想を極限まで簡略していうなら、個人の前に現前する、性的な魅惑(幻想)を持つ恋人という存在の思想的な意味である。こうした現実魅惑的性が他者として存在することは人間意識に現象する幻想でなくしてはありえない。

ここで私は滑稽の上塗りでしかもやや暴力的に、吉本隆明の『共同幻想論』をそれが書かれた時代への還元を試みたい。評論にあるべき配慮を方法的に一次的に退けてみたいのである。

 

『共同幻想論』は連合赤軍事件の予言だった

1968年に吉本隆明の『共同幻想論』を読んで、この読みにくく奇っ怪な書物に、ある衝撃的で決定的な受容をした初期の読者の内面には、すでに共同幻想と対幻想に引き裂かれること、つまり肉体的な痛みを伴う裂開が直覚されていたことだろう。その様子は、その出版の4年後に暴露された連合赤軍事件に象徴されることになった。

連合赤軍事件は1970年安保闘争や学生運動の敗北から、左翼的な社会運動が減速していくなか、その逆説として左翼的な正義、つまり閉じられた共同幻想に呪縛された若者が引き起こした大量殺人を含む陰惨な一連の事件である。なかでもこの事件で人々に衝撃を与えたのは、「総括」と呼ぶ同志に対するリンチ殺害であった。

その閉鎖された共同体の指導者である死刑囚・永田洋子は、構成員である加藤能敬(22歳当時)と小嶋和子(22歳当時)の殺害を「総括」と称して実施した。二人の恋愛への「総括」は壮絶な殺害だった。閉鎖された集団での共同幻想に憑依したかのような永田は、その共同幻想に反する恋愛関係の存在自体を許すことができなかった。それはちょうど、共同幻想から惨殺に至る神話の再現のようでもあった。

『共同幻想論』の「禁制論」は、こうした心性の事件の骨格を予言していた。禁制が心理に生じる条件を簡素にこう記している。

わたしたちの心の風土で、禁制がうみ出される条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。

禁制についての簡素な指摘は現在もまだ射程にある。日本の社会でいじめなどが起きるのは、「閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえている」ためだ。学校や職場が「閉じられた弱小な生活圏」であれば禁制が生じる。

また、現代社会には直接的な入眠状態はないが、高度で催眠的な映像情報や匿名を使った流言による世論・空気の操作は、入眠状態に近い心理を導き、禁制を生み出す。たかが芸能人の個人的な不倫関係に正義の鉄槌を下さなければならないとまで情熱的に思い込める人々はすでに入眠状態に近い。



連合赤軍事件は『共同幻想論』が示唆する宗教性を持っていた

永田洋子の側の内部の心性も、『共同幻想論』の一連の「憑人論」「巫覡論」「巫女論」のなかで暗黙に予言されていた。

 そして、わたしたちがいえることは、個体の精神病理学は、ただ男女の関係のような〈性〉の関係を媒介するときだけ、他者の(二人称の)病理学に拡張されるということである。

ごく簡単に言えば、精神病理の状態は恋愛や性欲の関係のなかで生じる。永田洋子は、左翼的な正義の規範を性的な関係性の内側に入ることで病理的な状態に陥っていった。通常なら、あるいは閉鎖されていない共同幻想ならより大きな規範によって、「痴情のもつれ」といったものにとどまるだろう。だが永田の心性は、彼女が正義とする左翼的な心性による共同幻想に憑依し、神がかりし(巫覡)、巫女となっていた。

 〈巫女〉とはなにか?
 この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえるのはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。  
 わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。
ここまできてわたしなりに〈女性〉を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想に選ぶものをさして〈女性〉の本質と呼ぶ、と。


 永田洋子こそ、閉鎖された共同性における本質的な意味での女性であった。そのことは、女性を本質において捉えるときに生じる恋愛の避けがたい困難さと、同時に、「男性」の恋愛の困難さを示している。この点について吉本隆明は、彼が高く評価した文学者・島尾敏雄との対談のなかで、とくに島尾の『死の棘』を背景に、恋愛を人生の戦場と述べていた。『死の棘』はより小さな形での連合赤軍事件と同型の陰惨を描いているが、その小ささゆえに文学的な希望の片鱗も見せている。

 

恋愛と人生は「地獄」であることを『共同幻想論』は直覚させた

恋愛は人生の戦場である。恋人との関係だけではない。対幻想に由来する夫婦との関係や家族との関係も同じく人生の戦場である。それらは、吉本隆明の『共同幻想論』の初期の読者に直覚されていた。連合赤軍事件の例に戻れば、陰湿極まりない極端な事件ではあったが、読者である戦後生まれの第1世代読者の実生活では、惨殺された加藤能敬と小嶋和子のような恋愛と、共同幻想の敵対矛盾を小さいながらも抱えていた。

さらにごく素朴に言うなら、戦後日本社会において初めて「市民」たろうとする彼らは、恋人と親密な家族の世界のなかで人生の意義を見いだしたいという思いと、それとは矛盾する、社会・日本という共同幻想の世界での価値のはざまで、できれば共同幻想ではなく、恋人と親密な家族を選択して生きようとする思想的なバックボーンを、吉本隆明の『共同幻想論』がなにかしら与えてくれる期待を持っていた。

なにより、60年安保闘争で機動隊から敗走して拘置所にまで送り込まれた吉本自身が、70代以降、そうした一見、無名的で家族的な人生を生きることを意図的に選択して見せていたことは、「吉本主義者」の理想そのものであった。「他界論」の末尾は吉本らしい悪文で、その生き方が国家を解体する期待をこう記している。

 そして共同幻想が自己幻想と対幻想のなかで追放されることは、共同幻想の〈彼岸〉に描かれる共同幻想が死滅することを意味している。共同幻想が原始的宗教的な仮象であらわれても、現在のように擬制的あるいはイデオロギー的な仮象であらわれても、共同幻想の〈彼岸〉に描かれる共同幻想が、すべて消滅せねばならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題といっしょに、現在でもなお、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。

「共同幻想が自己幻想と対幻想のなかで追放される」ということは、簡単な例でいうなら、「釣りがなにより好きだから休日は釣りしていたいという自己幻想と、恋人や子供と親密に暮らしたいという対幻想のふたつの幻想が充足されるなら、国家や正義といった共同幻想は日常生活の関心にも上らない」といったものに変わることだ。そこでは、社会を支える制度はすべて、個人幻想や対幻想の道具となる。どんなに困難でも戦場のようであっても、そうした人生を生きてみたいという直覚が、『共同幻想論』の最初の読者に生じていた。だからこそ、悪文で難解な著作に直観的に魅了されていた。

 

『共同幻想論』はオウム真理教事件まで射程を持っていた

だが、そうした最初の直観的な受容がありながらも、『共同幻想論』の命題が十分に日本の新しい市民社会に浸透していったわけでもなかった。連合赤軍事件における共同幻想論的な課題はその後も継続し、1995年の「オウム真理教事件」に変容した。しかも、前者の事件がせいぜい未開から母制的に この事件の共同幻想論的な背景はあまり語られることはないが、組織の個々の実情を仔細に見ていけば、この教団に所属した巫女たちの小母制的権力が麻原彰晃(実名・松本智津夫)に集約・疎外される点にあったことがわかる。この様子はジャーナリスト与那原恵の『物語の海、揺れる島』にわずかに触れられている。





3.

共同幻想論』が示す「女性」の本質



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吉本隆明『共同幻想論』評、第三回は本書の構成について見ていきます。目次には、禁制論、憑人論、巫覡論、巫女論、他界論、祭儀論、母制論、対幻想論、罪責論、規範論、起源論――など、ずらりと奇怪な字面が並ぶ本書ですが、吉本はいったい何を論じようとしたのでしょうか。

思想書としての『共同幻想論』の特質


ここから本書の内部に触れていきたい。直観的な理解や魅了といった受容を除いて見つめ直すなら、『共同幻想論』とはいったいどのような思想書なのだろうか。最初に突き当たるのは、決定版とされた1982年の角川文庫版を開くときに現れる、マルクスの『資本論』でも連想するような長く、要領を得ない複数序文の存在である。この序文のなかで重要な点は、実は2点しかない。1つは、この本の主題提示である。


 人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり、慣行となったりしているところでは、どこまでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前からあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝縮していったに違いない。この本でとり扱われたのはそういう主題であった。

思想書としての『共同幻想論』の特質

ここから本書の内部に触れていきたい。直観的な理解や魅了といった受容を除いて見つめ直すなら、『共同幻想論』とはいったいどのような思想書なのだろうか。最初に突き当たるのは、決定版とされた1982年の角川文庫版を開くときに現れる、マルクスの『資本論』でも連想するような長く、要領を得ない複数序文の存在である。この序文のなかで重要な点は、実は2点しかない。1つは、この本の主題提示である。

人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり、慣行となったりしているところでは、どこまでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前からあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝縮していったに違いない。この本でとり扱われたのはそういう主題であった。

つまり、各種の共同幻想が国家に集約されるようすを描くことが、本書の1つの主題である。

もう1点、重要なことは、同語反復的だが、本書は「幻想」の各種の形態を扱った、ということである。その点で本書が民族学や文化人類学と異なること、また国家学説でも宗教学でもないと明記して、さらにこう述べられている。

ただ個人の幻想とは異なった次元に想定される共同の幻想のさまざまな形態としてだけ、対象をとりあげようとおもったのである。

本書は、各種の共同幻想が対象となっている、というのは、当たり前のことのようだが、目次に並ぶ、奇っ怪ともいえる字面の諸論—禁制論、憑人論、巫覡論、巫女論、他界論、祭儀論、母制論、対幻想論、罪責論、規範論、起源論—は、「共同の幻想のさまざな形態」の論なのである。

『共同幻想論』の具体的な構成

これらの各論は、どのように「各種の共同幻想が国家に集約されるようす」として統制的な主題の元に描かれているのだろうか? 当然、人類意識のなかに国家幻想が生じるまで生成的に描かれていると期待すべきだろう。だが最初の禁制論から読み始めても、全体構造は見えづらいに違いない。そもそもなぜ、本書が禁制論から始まっているのかすら理解しづらい。『共同幻想論』が難解なのは、そもそもこの書籍は各論が明確な主題によって表面上、統制されていない点にある。そして文章は概ね、悪文と言ってよい。

本来なら、自負やおしゃべりなどをごちゃ混ぜにした現在の序を除去し、主題を最初に明瞭に提示し、その主題が各論でどのような関連があるかを示すべきだった。そうれであれば、本書はもっと読みやすかったに違いない。

実は著者の吉本としては、吉本なりにそのことはある程度は理解はされていた。最初に置かれた「禁制論」は『共同幻想論』の方法論を扱ったという意味では、それなりに本書全体での序論なのである。「禁制論」ではなく、これが「序論」のほうがまだましだっただろう。

この禁制論において、本書の方法論と、「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」という「幻想」の基本概念が提示される。こうした実質的な序論が「禁制論」のなかで語れるのは、明示はされていないが、人間と類人猿との行動の差違起源をフロイトと同じく、「禁制」の無意識によるとしたからだ。類人猿を含む動物には、適応のための恐怖の知覚・認識はあるが、それらは彼らの知覚・認識した現実世界に直接的に対応している。だが、人間の場合はそれらに加えて、現実世界には対応していない恐怖の対応を「禁制」の幻想を根に発生させる。

また禁制論では、議論の方法論的道具として、民俗譚としての柳田国男の『遠野物語』を採用する理由もいちおう明記されている。

 未開の〈禁制〉をうかがうのにいちばん好都合な資料は、神話と民俗譚である。だが〈禁制〉と〈黙契〉とがからまったまま混融している状態を知るには、民俗譚が資料としてはただひとつのものといっていい。

『共同幻想論』の後半以降では、未開の人間の心性を知る資料としての民俗譚から、より国家幻想に近い共同幻想に移行するために、資料には国家神話として『古事記』が採用される。

『遠野物語』『古事記』の2書を吉本隆明が徹底的に読み込んでその本質を知り得たといえば聞こえがいい。シンプルでもある。だが厳密に言えば、未開の人間の心性を民俗譚が表現しているという方法論的な根拠はどこにもない。その意味では、『共同幻想論』は方法論的には脆弱な基盤しかもっていない。ただしそれを言うなら、進化心理学も科学を装っているが実証不能な仮説のかたまりにすぎない。

『遠野物語』が未開の人間の心を知る資料とされる方法論を好意的に理解するなら、現代人の心のなかにも重層的に未開の心性があると言えるのだろうか? さらに言えば、吉本隆明が『共同幻想論』の各論として描く各種の共同幻想の形態は、現在の人類の課題にとって本当に重要なのだろうか?

私はこの問いをとりあえず保留にして、本書の構成の解説を進めたいが、暫定的に言えるのは、本書が予言的に、連合赤軍事件のような現実の共同幻想の問題を説明していることだ。いわば循環論的にではあるが、あるいは再帰的にではあるが、この思想の強固性を、現実の社会現象が示しているとは言えるだろう。

 

『共同幻想論』の幻想生成的構成手順

禁制論以降の諸論は、どのように国家幻想に辿り着くように構成されているのだろうか?

すでに連合赤軍事件の永田洋子の例で簡単に触れたように、憑人論、巫覡論、巫女論の3論は、あるまとまったクラスター(かたまり)として、未開社会の閉ざされた共同幻想のなかで、対幻想である女性が、小さい規模の共同幻想に同致していく過程を描いている。つまり、人類にとって生殖としての、いち機能を担う女の性が、素朴な共同体の宗教的な権威を担うように変化するまでの生成が描かれている。簡単に言えば、人類が母系制の段階に至るまでの幻想(無意識的な過程)が描かれている。

ところで、生殖の実際的な主体性(子を出産すること)が生物としての本来の女性を指すというなら、『共同幻想論』が措定する「女性の本質」とは、本来的ではない女性に変化するという点で、本質が奪取される「疎外」と言ってよいだろう。動物の雌であることと、幻想をもった人間の女性という意識の差違は、動物性の疎外から起きるとして理解してもよい。

こうした発想からわかるように、吉本隆明にはヘーゲル・マルクスを継ぐ「疎外」の思想が根底にあり、自然から生命が生み出す「原生的疎外」、そして生命が動物となり人間になり、心的な領域として共同幻想を生み出していくまでの「純粋疎外」という考えがある。

こうした点から、やや先走った言い方をすれば、純粋疎外によって人類は必然的に国家幻想を生み出してしまったが、純粋疎外は今後さらにその国家幻想をいずれ解体し、個人と性を解放するはずだという主題が隠れている。この点は、吉本隆明シンパ(熱烈な支持者)でも異論や誤解が多いが、国家幻想の解体は人類の最終的な目的ではない。個の意識の最終的な解放が最終的な人類の目標である。余談になるが、そのため吉本隆明は人類の生殖は、いずれ人工子宮に変わるとも見ていた。冗談で言えば、クリプトン星人が人類の未来なのである。




4.

国家幻想の原点を古事記から問う


吉本隆明『共同幻想論』評、第四回は他界論について触れます。死後の世界を意味する「他界」という概念、動物の中で人間だけが親密な人がなくなったときにそれを意識します。それを「母制」と論じた吉本隆明は、そこからどのように国家幻想に結びつけていくのでしょうか?


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第2クラスターとしての母制論の問題

禁制論をいわば全体の序論として、憑人論・巫覡論・巫女論というクラスターが語られたあとの議論には、他界論・祭儀論・母制論・対幻想論というクラスターが続く。この一連の議論の基本は、母制の共同幻想の時代を描くことだが、この議論クラスターの最初に他界論が置かれているのは、母制の共同幻想の裏面をまず描くためだろう。

他界というのは、簡単に言えば、死後の世界である。死後の世界など理性的に考えれば存在するわけもないが、現代人でも墓を作るし、位牌に霊魂が宿ると考えるのは愚かしいにもかかわらず、国家と関連づけられた靖国神社という単立宗教法人施設に祀られた位牌を、現代人ですら大騒ぎの政治問題にしてしまう。

こうした他界(死後の世界)は、人類の意識(および無意識)にどのように生成したのだろうか。吉本はこう見ていた。

 〈死〉が作為された自己幻想として個体に関連付けられる関連づけられる段階を離脱して、対幻想のなかに対幻想の〈作為〉された対象として関連づけられたとき、はじめて〈他界〉の概念が空間性として発生するということである。

簡単に言えば、動物なら個体が死ねば死んだきりで、他個体の関係では多少の記憶がもたらす愛着があるにせよ現実の不在で終わる。その段階では、死者のいる世界空間は想像もされない。だが、性意識(対幻想)を介して愛する対象としての人が死んだ場合、さらに親密な性の関係が生み出した家族の一員が死んだ場合には、その死をただ、無への変化と見るのではなく、愛情の幻影として死後の世界(他界)にその存在を幻想するようになる。これらが母制の原点に存在している、というのが吉本の主張である。

吉本によるこのクラスターの母制議論で興味深いのは、母制の原点となるのが対幻想(性的な愛着や家族)でありながら、中心軸である対幻想の議論が、一連の議論クラスターの最後に置かれていることだ。この対幻想論は、表向き対幻想を扱っているが、実際には、生殖の男女の幻想である対幻想から、共同幻想的な家族幻想への移行の仕組みを扱っている。やや撞着した記述のようだが、こう説明されている。

 〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した。そしてこの疎外された人物は、宗教的な権力を集団全体にふるう存在でもありえたし、集団のある局面だけでふるう存在でもありえた。それだから、〈家族〉の本質はただ、それが〈対なる幻想〉だということだけである。

ここでは家族長のいるやや大規模な家族を想定していもよいだろうし、議論全体では母制における長老的な老婆を想定してもよいだろう。

ここで私の留保的な意見を挟んでおきたい。吉本隆明が「母制」としている人類の段階は実際の人類史において普遍的に存在したかどうかはわからない。同様に、いわゆる狩猟採集から農耕社会への変化というものを人類史に普遍的に措定してよいかは疑問である。おそらく「母制」に関連して言いうることは、人類が他の類人猿に比べ、メスの閉経後寿命がだんとつに長期であることから、老女は集団の権力的な地位または配慮にあったことは普遍的だろうと想定できることと、また農耕社会はいわゆる人類が書き物の歴史としての文明の段階に入る時期にはある決定的な意味(静止地域の強大な王権)を持つようになったことくらいである。私が言いたいのは、吉本隆明の『共同幻想論』はその高度な抽象性ゆえに、いくつかの細部の反駁では全体像が揺るがないということでもある。 

 

国家の原点が生成してくる仕組みとして『古事記』が問われる

人類が家族を形成する段階(母制)から、その次に、どのように国家幻想に近い部族社会の共同幻想が現れてくるのだろうか。それが、最後の議論クラスターである罪責論・規範論・起源論で展開されていく。と同時に、方法論的な資料は国家神話である『古事記』に変わる。

吉本が罪責論で『古事記』に注目するのは、まず、アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の対立と和解の物語である。彼はこれを「前氏族的な共同幻想」の状態としつつ、共同幻想に背くことが個人の倫理であるかが問われる状態であるとしている。共同幻想が個人に敵対する状態が示されたとしてよい。

そもそも吉本の考えでは、共同幻想は個人幻想に「逆立」するという命題がいくどとなく繰り替えされる。「逆立」とは、おそらく光学の凸レンズ象である「逆立象」から連想された吉本隆明の独自用語だろう。原義は、ものが逆さまに映る、としてよい。『共同幻想論』の文脈では、個人の欲望の先鋭化は、共同体(特に国家)から禁じられるものとして成立すると理解してよいだろう。

アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の対立と和解の物語の次に罪責論で引かれる『古事記』の幻想モデルは、崇神天皇(夫)に対立するものとして、その妻のサホ姫(姉)とサホ彦(兄)の対立・殺害の物語である。この物語が、統一部族的な共同幻想の生成の比喩として語られている。実歴史を反映したかのような誤解されやすい説明だが、このように吉本は説明している。

 サホ姫の〈倫理〉的な死が象徴するものは、すでに〈対幻想〉のもっともゆるくそして永続的な関係である〈兄弟〉と〈姉妹〉とが、政治権力と宗教的権力とを分担する氏族的(あるいは血縁的)な〈共同幻想〉の構成が、大和朝廷の支配する統一部族的な〈共同幻想〉にとって断層になってしまったことである。

誤読されやすいが、「大和朝廷の支配」については吉本の議論からは二義的なものである。重要なことは、このモデルが「氏族制が部族破壊の統一国家に転化する過渡期」の物語として提出されていることだ。そして血縁集団的(対幻想を本質)な共同幻想の上位に立つ統一部族的な共同幻想が成立してしまうと、それがさらに強固にかつ拡大して「国家」に変容していくことも指摘されている。

この初期の国家幻想が生成されていく過程として規範論では、国家を志向する強固な共同体として規範の「法」(原初の形態は「穢れ」)として個人幻想との「逆立」を深めることとしても注視される。

規範論までの議論は、吉本の思考に慣れればごく単純な理路ではあり、むしろやや奇妙な留意のほうが興味深い。例えば、ニーチェの権力論への批判を論じながら、国家的な福祉は物質的な生活に対応しても「<共同幻想>としての<法>に対応するのは、いぜんとしてその下にいる人間の<幻想>のさまざまな形態である」として指摘している例などだ。吉本隆明らしい、わかりにくい指摘だが、おそらく福祉の充実を求める左翼的な運動そのものが、国家の共同幻想の強化に荷担していることに注意を促している。この指摘は、畸形化する現在日本の左翼・リベラルにとってアクチュアルな課題でもあるはずだ。

 

普遍的な国家幻想と日本国家を支える共同幻想

国家幻想にいたる議論クラスターの最終に置かれた起源論では、『古事記』を資料とした帰結でもあるが、日本古代国家の成立についての考察に入る。そのせいか、すでに触れたが、フロイトの『モーゼと一神教』のような古代史の探偵趣味として誤読されやすくなっている。だがここで吉本が指摘している重要点は、『古事記』に描かれている日本国家幻想は、日本列島を覆うような王権として想定されていないということだけである。

このことが暗黙に示すことは、古代の大和朝廷の王権、つまり天皇の権威性は日本の総体からは局所化されうることだ。あるいは逆に、日本の天皇制は現代に至ってもまだ古代的な特性をもった共同幻想として成立していることである。天皇制という日本的な国家権力のありかたは、農耕的な祭儀を介した緩いネットワーク的な権力だろうとも想定されている。

こうした考え方の道筋は、西欧の国家と市民の関係を参考にマルクスから吉本が学んだものだろう。『共同幻想論』以降の彼の思想では、この課題は再びヘーゲルに戻って「アジア的段階」として捉え直され、さらにそれ以前の段階に重なる「アフリカ的段階」が新たな思想課題となった。これを再原点として、晩年の吉本隆明は強固な国家幻想から解放される可能性と契機(きっかけ)を見いだそうとした。









新しい「古典」を読む 

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