ステージに精神的な構造物を現出させ、
心象風景を描きとる──。
英国の演劇界に燦然と輝く舞台デザイナー、エズ・デヴリン。
ビヨンセからU2、アデルやカニエ・ウエストといった
ポップスターたちからの絶大な支持を受け、
ロイヤル・オペラハウスからメトロポリタン歌劇場まで
名門からのオファーが引きも切らない、
舞台芸術のイノヴェイターだ。
2016年、『New Yorker』は彼女に密着取材を試みた。
TEXT BY ANDREW O'HAGAN
なぜ、なぜ、なぜ
舞台デザイナー、エズ・デヴリンのスタジオは、南ロンドンのペッカムにある。
かつて塗装工場であった光の差し込むオープンスペースは、設立当初は住居としても使用していたため、そこここに生活感が残っている(現在デヴリンは、夫と2人の子どもとともに、スタジオからそう遠くない場所に居を構えている)。
スタッフは総勢7人。大学で建築や写真を学んだ若者たちだ。
入り口には、彼らのものと思しき自転車やスケートボードが立てかけてある。
わたしがスタジオを訪ねたのは夏が終わろうとしていたころで、いちばん若いアシスタントが数週間にわたってスタジオのソファで寝泊まりしていた。チームは角に集められたデスクに着き、コンピューターのモニターに映し出された舞台の完成予想図を次々にめくっていく。
彼らが取り組んでいたのは、メトロポリタン歌劇場で上演予定のヴェルディのオペラ『オセロー』の舞台デザイン。メトロポリタンオペラのシーズン開幕を飾る、重要な作品だ。デヴリンは舞台装置を完璧に仕上げようと奮闘していたが、果たしてそれが実際に実現可能なのか懸念してもいた。どこか気に入らないところがあればさっと手を振り、さらなる案が必要だと宣言するのが常だった。
「病原体に感染して
腐敗していくような
建物をつくりたかった。
人々に盗聴され覗き見られることによって、
オセローの自我そのものが
崩壊していくように」
彼女は、レジンでできたシューズボックスほどの大きさの模型をテーブルに置いた。
幽玄な氷のようなオブジェは美しかったが、舞台上に実現された姿を想像するのは容易ではなかった。デヴリンはより分かりやすいように、コンピューター上の画像も見せてくれた。
そのセットは、ルーサイト(アクリル)製の細長い透明な箱を組み合わせたもので、劇の背景を変えやすいよう、ステージ上を自由に移動させることができる仕組みだ。
そこにはアーチ、円柱、閉ざされた窓、パラディオ式のゲートが備わっていて、劇の舞台であるキプロスの城を模していた。
さながら、いくつもの大広間がガラスの箱の中に封じ込められているかのようだ。
内部には照明があり、俳優の登場や退場に利用するための階段が備え付けられている。
閉所恐怖症を誘発するようなデザインは、『オセロー』という作品に描かれる“盗み聞き”と“覗き見”への強迫観念を強調しているようだ。
デヴリンはマウスをクリックし、この構造体が、シーンによって劇の緊張感を露出させ、あるいは隠すように機能するのだと説明してくれた。
「ガラスの階段と閉ざされた構造体という構想は、1年前から頭のなかにあったの」と、彼女は言う。 「ただ、メトロポリタンオペラにあるべき素材と予算の制約のなかで、この心象風景を三次元空間の物理法則へと移し替えていくのは大変な作業だわ」
物語の進展に沿って、このセットも進化していかなければならない。それも隠微に、不吉な予兆を湛えたまま。だが、デヴリンは劇そのものを敷衍(ふえん)するデザインを考案するのに長い時間をかけていた。
「わたしにとってもっとも大切なのは、この舞台が本当に描くべきものとは何なのかを突き詰めること。この舞台がなぜ上演されなければならないのか、なぜこの台本が書かれなければならなかったのか、そして誰が、なぜこの舞台を観なければならないのか」
2015年9月、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演を迎えた『オセロー』。演出はトニー賞受賞常連のバートレット・シェールが務めた。舞台上の透明なセットは、重苦しさも感じさせる。
『オセロー』の準備として、デヴリンはまず、ヴェルディ作品の台本作者であるアッリーゴ・ボーイトの書簡集を読み返した。そして彼が、近代演劇の父、ヘンリック・イプセンの自然主義に傾倒していたことに気づいた。
ボーイトは、観客と向き合うことをあえて避けるように、ヴェルディに進言していた。
「この劇は寂寥(せきりょう)としていてオセローがデズデモーナを殴り倒すだけだけど、ヴェルディはそこに勝利の行進曲をつけ、どうにか場を盛り上げようとするの」
彼女は1冊の本を手に取り、このシーンの閉所恐怖症的な雰囲気が霧散してしまう危険性をボーイトがヴェルディに指摘している個所を読み上げた。
「2人の人間がいまにも窒息して死のうとしている部屋の窓を、拳が突き破るかのよう──」
デヴリンの生み出すガラスの家は、内部で嘘が露見するためだけに開発された機械ともいえる。彼女のアプローチは、まるで『オセロー』の登場人物の心理の深層へと分け入っていくようだ。
「このオペラでは、コーラスが少なくなっていくにつれ、登場人物たちもだんだんと追い詰められていく。わたしは、まるでイプセンのために舞台デザインをしているような感覚になった。この作品は、城や船の話ではなく、応接間で3人の人間を襲う嵐の話なの」
デヴリンはレジン製の模型のところに戻り、実際に動かして見せた。
「このパネルはスライドするの。まるでガラスのナイフのように。最初はそれが家であるかのように感じさせておいて、次第にバラバラになっていく。わたしは、病原体に感染して腐敗していくような建物をつくりたかった。人々に盗聴され覗き見られることによって、オセローの自我そのものが崩壊していくように」
彼女は、役者たちがこの構造物の不吉な角を曲がってゆく様子を想像しながら、身をかがめて模型をのぞき込んでいた。
エズ・デヴリンは1971年生まれ。ブリストル大学卒業後、セントラル・セント・マーティンズ美術大学で舞台美術を学ぶ。ブッシュシアターを経て、ナショナル・シアターの『エドワード2世』でデビュー。2016年は、リオ五輪開会式も手がけた。写真は彼女のインスタレーション作品「Mirror Maze」。
「システム」をデザインする
45歳のデヴリンは、透き通った肌に黒い瞳をした小柄な女性だ。長く艶やかな褐色の髪はシニョンにまとめられ、鉛筆が挿してある。世界でもっとも才能ある舞台デザイナーとして知られている彼女は、その場限りの儚い空間を設計する建築家として、観客の記憶としてしか後世に残らないイメージをつくり上げるのだ。
マイリー・サイラスの「Bangerz」ツアー(2014年) 自身のトレードマークでもある「舌」からステージに降臨。 |
記憶とは固体にほかならず、わたしがつくり上げようとしているのも、そういうものなの」
スタジオを見渡すと、演劇やオペラの枠に収まらない、デヴリンの守備範囲の広さを目にすることができる。
マイリー・サイラスの「Bangerz」 ツアーのステージ写真(サイラスが自身の舌を模した滑り台を滑り降りていくシーン)があり、帽子掛けには、おびただしい数のバックステージパスがぶら下がっていた。
カニエ・ウェストの「Touch the Sky」 ツアー、レディ・ガガの「Monster Ball」ツアー、ペット・ショップ・ボーイズの「Electric」ワールドツアー…。
スタジオ裏にあるバスルームは、彼女がこれまでに受け取ったトロフィーの隠し場所だ。そこには、エリザベス女王から授けられた大英帝国勲章もある。
いまやショービズ界でもっとも多忙なひとりとなったデヴリンだが、凄まじい過密スケジュールや自身がかかわる多様な世界の刺激を、彼女は深く愛しているようだ。
彼女はいつも、ヒースロー空港の5番ターミナルで靴を買うのだと教えてくれた。
わたしがはじめてデヴリンに連絡を取ったとき、彼女はリオデジャネイロに出発するところだった。オリンピック開会式の舞台デザインのためだ。
「彼女は、ぼくたち
俳優の経験にあわせて
思考をめぐらせる方法を
知っている」
──ベネディクト・カンバーバッチ
デヴリンはまた、パリで行われるルイ・ヴィトンのショーも手掛けていた。
ベネディクト・カンバーバッチが主演する『ハムレット』の演出では、舞台監督のリンゼイ・ターナーとコラボレーションし、またヴァイルとブレヒトによる『マハゴニー市の興亡』の新版では、ロイヤル・オペラ・ハウスと仕事をした。
アデルのコンサートツアーを手がけたのもデヴリンだし、2015年ロンドンで初演を迎えたブロードウェイ・ミュージカル『アメリカン・サイコ』のセットデザインも、彼女の作品だ。
空虚なセットデザインの中で、無機質な白い箱が時折、血の赤色に染まる。
「ものすごく退屈な、出口のないトンネルといったところね。すごく80年代的な状況だと思わない? いわば、ウォークマンに憧れるトンネルといったところね」
デヴリンとの会話は、これまでに彼女が一緒に仕事をしたり影響を受けたりした芸術家の言及に彩られている。
レイチェル・ホワイトリード、ダミアン・ハースト、ビル・ヴィオラ、ピナ・バウシュ、ブルース・ナウマン、トレイシー・エミン。デヴリンは、現代アートの感性と視覚言語を舞台の世界にもたらしたことで高い評価を得ているが、彼女の功績は、“特定のスタイル”の確立にとどまらない。
リンゼイ・ターナーはこう語る。
「エズは演劇をデザインしているわけではない。彼女は少なくとも、演劇のための“場”を設計しているわけではなく、思考の構造、つまり登場人物を動かすためのシステムをデザインしているのだ。デヴリンは、法医学者の頭脳と芸術家の自由な発想を併せもっていて、演劇をX線にかけて分析し、それから夢想しはじめる」
ベネディクト・カンバーバッチも似たようなことを言っていた。
「彼女は、ぼくたち俳優の経験にあわせて思考をめぐらせる方法を知っている」
2016年、Nestaが主催する「FutureFest」に登壇するエズ。舞台芸術を超えたイノヴェイターとして注目される彼女には世界からの登壇依頼が引きも切らない。
わたしが初めてデヴリン作品の心理的な深淵に気付いたのは、2014年、ジェニファー・ヘイリーの『The Nether』をロンドンのロイヤル・コート劇場で鑑賞したときのことだ。
舞台は2050年、〈ネザー〉と呼ばれる仮想現実ネットワークにおいて、ユーザーが自分たちの空想を実現できる世界だ。
物語は、ネザー上で小児性愛者たちがヴァーチャルな子どもとセックスし、殺害さえできる場所を提供していたある男の調査をめぐって展開していく。
劇の主題は、思想犯罪と実際の犯罪に対する警察のあり方であり、また、ディストピア的な理論でもあるが、劇が全体としてよくできているとは言い難い。
観客の価値観を純粋に揺さぶる場面は多々あったものの、鈍感な自己満足も散見された。 しかし、デヴリンのセットは素晴らしかった。
確固としたものと曖昧なものとを混ぜ合わせ、この作品に通底するあるテーマを完璧に表現していた。
刑事が、人が想像上で行うことはある種の現実と呼べるのかと問うシーンでは、デヴリンのセットがこの問いをさらに詳細に解き明かしてくれた。
彼女は、2つの階層に分かれたガラスの箱を用い、時折ヴィデオプロジェクションを使って、その内部に過去の時代の暗示を投影するのだ。
エドワード朝風のベッドや暖炉、木馬、キッチュなまでに美しく陽の光に照らされたポプラの木々(劇中の時代設定では、木はもはや存在しない)…。
このセットは小児性愛者の心象風景を表しているように見える。空想が固体化することは決してないが、かといって完全に基盤を失って霧散してしまうわけでもない、まるで水のような世界だ。恐ろしく凶悪な思考を前に、人は果たして平静でいられるのかという問題が、ここでは提起されていた。
「セット自体は、引き伸ばされた安っぽい鏡と傷のついた風防ガラスで表現できた。それが観客の心に疑いの種を植え付けたの」。
のちにデヴリンは、わたしにそう語った。
彼はお世辞を言わない
2015年7月、1年でいちばん暑い時期に、デヴリンはマディソン・スクエア・ガーデンのU2のライヴ演出のためニューヨークにいた。
彼女のホテルの部屋は、ベッドのそばにキャンディの包み紙が散らばり、衣服は床に放り出されていた。
部屋が散らかっていることを恥じるように、デヴリンは、バワリー通りのAttaboyというバーで友人たちと朝まで飲んでいたのだと打ち明けた。
彼女のクローゼットには、黒い服が並ぶ。
ボトムのほとんどはパンツで、トップスはリック・オーウェンズやアレキサンダー・マックイーンのものが多い。
机の上には、カンバーバッチの『ハムレット』のためのドローイングが積んである。デヴリンは、ビヨンセの次のプロジェクトに関する電話を受けていた。
「…これについては、いますぐ考える必要はなさそう。ビヨンセは、ハンプトンを出るにはまだ暑すぎるって言っていたから」
彼女はそう言って、携帯電話をバッグに放り込んだ。
エズとビヨンセのコラボレーションは、2016年の「フォーメーション・ワールド・ツアー」に結実する。ステージ上で回転する高さ18mのキューブ型スクリーンには、歌い手の心情を物語るかのような映像が映し出された。
オールドスタイルのロックコンサート──スーツを着た男たちが観客からずいぶん離れたところに並び、山積みのスピーカーに囲まれてスターが演奏するといった感じ──は、もはや過去のものだ。
U2のコンサートは、企画に2年を費やした。
南仏にあるボノの自宅で行われた最初のミーティングで、メンバーたちは、親密な感覚を表現したいのだとデヴリンに話したという。
この公演には「Innocence+Experience」というタイトルがつくことになっていた。
全体が2つのパートに分けられ、アイルランドでのバンド結成から世界的スターになるまでの旅路を、彼らの楽曲を通じて辿るというものだ。
「エズは、ぼくらの
輪郭の曖昧な情熱を
すくい上げて、
鋼の状態にまで
鍛え上げてくれる」
──ボノ(U2)
輪郭の曖昧な情熱を
すくい上げて、
鋼の状態にまで
鍛え上げてくれる」
──ボノ(U2)
デヴリンは、打ち合わせのときに描いたというスケッチを見せてくれた。全部で40枚。大きな黒いスケッチブックに、チャコールやつけペン、あるいは色鉛筆を用いてさっと描かれたもので、そこには、ざっくりとした立方体や長方形が並び、周囲を膨大な量のメモが埋め尽くしている。
スケッチの中には、デヴリンが2つのパートを表現するアイデアを閃いた箇所があった。
アリーナの両端に2つのステージを設置し、それらを花道がつなぐというものだ。
長方形のメインステージと、円形のステージ(別のスケッチでは、花道はテープで表現されていた)だ。
最初期のドローイングでは、「Innocence」 のステージには「外部を見る内部」というメモが貼られ、
「わたしは世界を変えることはできないが、わたしの内なる世界を変えることはできる」
という言葉が添えられている。
一方「Experience」のスケッチは「内部を見る外部」であり、
「わたしは世界を変えることはできるが、自分の内なる世界を変えることはできない」
とある。
22枚目のスケッチで、デヴリンは花道に沿って2枚の巨大なLEDスクリーンを配置し、必要に応じてスクリーンを昇降させるというアイデアを取り入れていた。
バンドがステージ間を移動するとき、あるいは花道の上に立ち止まって演奏するとき、画像やスローガン、そしてライヴの様子がスクリーンに投影される。
「長大なLEDスクリーンは、わたしの頭のなかでは当初、広告看板だったの」
2015年のU2「Innocence+Experience」ツアーでエズが用いたのは、長さ36mの花道と、その上に吊された30mのLEDスクリーンだ。
ボノが母親について歌った「アイリス」と、彼が育った通りについての「シダーウッド・ロード」の演奏中には、亡くなった母親や星座、そして、通りの映像がスクリーンに映し出され、まるで花道そのものがシダーウッド・ロードになったかのような演出だ。
このように、デヴリンのデザイナーとしての力量は、空間を通じて心理上の物語を展開するところにある。スクリーンは、まるでボノとバンドメンバーが彼ら自身の伝記のなかで演奏しているかのような印象をもたらした。
「ここには、おそらくエズ自身も気がついていない繊細さがある」。
ボノは、ライヴの数週間後に話してくれた。
「彼女は会話を通じて、相手が人生のなかで立っている場所に自分もたどり着こうとする。アーティストが、ともすれば魂のない冷たいコンセプトに時間をかけがちだということを、彼女はよくわかっているんだ。
エズは常に、そこに再び温かな血を通わせようとしている。公演の準備中、彼女は『子どものころのいちばん私的なイメージは何?』と訊いてきたんだ。
直感的に本質をつかもうと知性を総動員する彼女に、公演の直前、ぼくは『電球かな』と答えた(そしてセットには、巨大な揺れる電球が追加された)。
エズは、ぼくらの輪郭の曖昧な情熱をすくい上げて、鋼の状態にまで鍛え上げてくれるんだ」
ある日デヴリンは、コヴェントガーデンにあるレストランに向かった。そこでバンドマネジャー(当時)のブライアン・セラーと打ち合わせすることになっていたのだ。
セラーはラザニアを食べていた。長年U2のマネジャーを務め、2013年に引退したポール・マクギニーについて、2人は親しげに言葉を交わした。
「彼はお世辞を言うタイプじゃないだろう? その彼が、シカゴ公演のあとでぼくのところにやってきて、『これまでに見たなかでいちばん素晴らしいU2のライヴだった』って絶賛したんだ。U2の結成以来、すべての公演を見てきた男が、だよ!」
そうセラーがデヴリンに告げると、彼女は戸惑い、懐疑的な様子で、「それ、ほんとうにわたしたちの公演のこと?」と尋ねた。
「君は、まだ理想の状態じゃないっていうの?」とセラー。
この前夜の公演を見て、デヴリンは後半部分が失速気味だと感じていたのだ。
伝記のもつ活き活きとしたエネルギーがすべて技術的なエフェクトにかき消されてしまい、観客の参加が最も重要になってくるポイントで、十分に惹きつけられていなかった。
彼女は演出に手を加え、セットで使うイメージを改善しようとしていた。
「常に発展途上にあるの。まったく新しい公演にするわ」と彼女は言って、アリーナへ向かった。公演開始まで、あと1時間ほどしかなかった。 空っぽのアリーナ以上に空虚な場所もそうないだろう。照明係が滑車で持ち上げられ、スポットライトの銀河の中へと消えていくところだった。バーのスタッフは飲み物を準備していた。どこの出入り口でも、警備員が無線機に向かって話しながら、大群衆の襲来に備えていた。
「Innocence+Experience」ツアーは「U2 イノセンス+エクスペリエンス ライヴ・イン・パリ」として映像化されている。トレーラー動画からもステージ上のLEDスクリーンの巨大さがうかがえる。
U2のギタリスト、ジ・エッジが最後の音響チェックのためにステージに立ち、ギターをかき鳴らしたりペダルを調整したりしていた。ドラマーのラリー・ミューレンは長い花道の向こう側でスネアドラムを叩いていたが、音響係の問いかけに応えるため、一旦手を止めた。ヴェテラン・クリエイティヴディレクターのウィリー・ウィリアムズが、ちょうど技術者たちと一緒にステージに向かって歩いてくるところだった。
デヴリンが彼らに近づいていくと、ウィリアムズは振り返って彼女にハグをし、こう続けた。
「今夜はスティーヴン・ソダーバーグのアテンドをすることになったんだ。どんな外見の人なのかググっとかないと。エズ、彼とどんなふうに過ごすといいと思う?」
「ハイにさせなくちゃだめよ。公演を十分に堪能させてあげて」
「わたしが釈然としないのは、
アリーナにこんなにも
パワフルなセットをつくったのに、
彼らがその力の
せいぜい49パーセントしか
発揮できていない
ということよ」
アリーナにこんなにも
パワフルなセットをつくったのに、
彼らがその力の
せいぜい49パーセントしか
発揮できていない
ということよ」
デヴリンとウィリアムズは、バンドとの打ち合わせのためにその場を去った。その間に、技術者たちは前の晩に起こった問題について話し始めた。
「ボノの政治がかったラップは長すぎた。ほんの1段落くらいでよかったのに、まるまる2ページ分はあったね。まだTEDのプレゼンモードになっていて、ロックスターだってことを忘れてるんだとな」とひとりが言うと、
「バンドはエズたちのデザインしたLEDスクリーンの効果をほとんど帳消しにしてしまっている」と、もうひとりが続けた。
ボノは気分によって、こうした批判や議論を受け入れることもあれば、拒絶することもあった。
「U2のメンバーは、みんな本当に繊細なんです」と、あるスタッフがわたしに話してくれた。「昨日の演出会議のときだって、ボノは10分しかその場にいませんでした。今日なんて、顔を出しさえしないかも。変な話ですよね、エズはバンドのためにライヴを最高のものにするべく飛んで来たのに」
デヴリンが張り詰めた様子で戻って来た。
「惜しいわよね」。そう彼女は言って、床にバッグを放り出すと、自分たちのポテンシャルを下げかけないロックスターたちへの不満を露わにした。
「ロックの公演っていうのは芸術の一様式なの。ウィリー・ウィリアムズとU2は、一つひとつの公演を通じて何百万マイルも移動してきたわ。わたしが釈然としないのは、アリーナにこんなにもパワフルなセットをつくったのに、彼らがその力のせいぜい49パーセントしか発揮できていないということよ。
U2は、本当に心血を注いで公演に取り組む人たち。今日はパフォーマンスをさらなるレヴェルに引き上げることができるはずなのに、ミーティングにも来ないなんて!」 デヴリンはスターたちに必要なもの──ライヴという空間で彼らを輝かせる方法──を熟知していた。
ほかの舞台デザイナーなら我の強いロックスターの挑発にすくんでしまうようなときでも、デヴリンはたいていうまくやり、ミュージシャンたちとの対立を楽しみ、彼らを支える仕事を心から愛しているように見える。
ライヴ直前、わたしは彼女が満面の笑みをたたえてVIPエリアに入っていくのを見かけた。
バンドのメンバーには、ひとりずつカーテンで仕切られたスペースが割り当てられていて、それぞれの生まれ故郷であるダブリンの町の名前がついている。
セント・マーガレッツ、グラスネヴィン、シダーウッド・ロード、そしてローズマウント。
メンバーは、自分のスペースにゲストを招き入れ、白いレザーのソファでオーストラリア産の赤ワインを飲む。付き人たちがクリップボードを持って、周囲を歩き回っていた。デヴリンはカーテンの向こうに入っていき、ボノやほかの数人と言葉を交わした。「オーケー。挨拶はすませたわ」 30分後、バンドはステージに立っていた。ボノは故郷や母親について歌い、LEDスクリーンには、アイルランド流の結婚式の古い映像が映し出された。ボノの母親の写真がアリーナの暗闇の中へ燃え尽きてゆき、満天の星空をバックに歌う彼の顔が現れた。
セットは過去というフィルターを現代にかぶせることで、ボノの声と動きをドラマティックに演出した。1万8,000人を超える人々が立ち上がって泣き叫び、公演の成功を証明した。
デヴリンはファンに混ざって、2時間踊り続けた。
2016年2月からスタートしたアデルのワールドツアーでは、エズと同様に英国を代表する照明デザイナー、パトリック・ウッドロフと組む。アデルは2017年7月に最終日を迎える本ツアーを最後に、以降10年はツアー活動を休止する予定だとも伝えられている。
天才の誕生
エズ・デヴリンは、13歳のときに母に連れられて訪れたロンドンで、ロイヤル・アカデミー・オブ・アートの展覧会を見た。彼女は当時、自室のデコレーションに夢中になっていたのだという。「付き合う男の子を探していたの。素敵な部屋さえあれば、運命の相手を見つけられると信じてた」
彼女は、ロイヤル・アカデミーの書店で買った日本の浮世絵の画集をコピーして、寝室の壁に巨大な壁画をつくりあげるつもりだった。ケントにある自宅へ帰る列車の中で、デヴリンと母親が画集のページをめくると、そこには多数の春画が載っていたが、母親はただ肩をすくめただけだった。
デヴリンは英国じゅうのローティーンのなかで、誰にも負けない独創的な寝室をつくろうと、意気込んで作業に取り掛かった。
「こんなかっこいい部屋なら、遊びに来た男の子とすぐさま結婚できちゃうな、と思っていたわ」
デヴリン一家は一時期、イングランド南岸にあるライという、美しい小さな町の大きな邸宅に暮らしていた。
デヴリンは姉と2人の弟と一緒に、自分の家が呪われているという空想をするのが大好きだった。その家は歴史ある邸宅で、デヴリンの両親は、T・S・エリオットが初めて卓球をしたという話を聞いていた。ヘンリー・ジェイムズが通りのすぐ向こうに住んでいたのだ。
かつて教師で作家の母が、自分は娘の作品にライの風景を見出していると教えてくれた。
「地元の歯科医が『Mr. Mercy(慈悲)』という変わった名前の版画を診療室の壁に掛けていたの。階段がどこへともなく消えていく、エッシャーの作品よ。
エズの手掛けた『ドン・ジョヴァンニ』のセットで、あの階段と再会したの。歯科医院の玄関ホールには、丘の上に3インチ(7.62cm)ほどの家々が立つ街の模型もあって、医院の明かりが消えると模型に明かりが灯り、いまにも誰かが怪談を始めそうな趣だった。
その模型も、エズの『トロイアの人々』に登場したわ。ほら、陽に照らされた小さなカルタゴの模型があったでしょう?」
小説家がひとつのモチーフに取り憑かれるように、デヴリンもまた、演出のなかで繰り返しライの風景に立ち返っている。
アデル「Adele Live 2016」(2016〜17年) |
ビヨンセ「Formation World Stadium」ツアー(2016年) |
オペラ『ドン・ジョヴァンニ』(英ロイヤル・オペラ・ハウス、2012年) |
インスタレーション「Mirror Maze」(2016年) |
カニエ・ウェスト「Revel Theatre Atlantic City」(2012年) |
マイリー・サイラス「 Bangerz」ツアー(2014年) |
オペラ『パルジファル』(デンマーク王立劇場、2012年) |
ローリングストーンズ「アット・ハイドパーク」(2013年) |
デヴリンはブリストル大学で英文学を学んだ。友人たちの証言によると、彼女は学生寮の床に巨大な太陽の絵を描き、グランドピアノの部品を家具として使っていたそうだ。
その後、ロンドンでもっとも優れた美術学校のひとつであるセントラル・セント・マーティンズの進学準備過程に進み、1年間の舞台デザインコースを専攻した。
在学中、彼女はヴィクトリア・チャップリン(チャーリー・チャップリンの娘で、ユージーン・オニールの孫)夫妻が運営するサーカス、Le Cirque Invisibleで仕事をした。夫妻はあまり人前に出ないことで有名だったが、ミュージックホールのさまざまな逸話と道化のテクニックにかけては、歩く博物館といえるほどだった。
デヴリンがかかわったショーでは、古風な奇術とシュルレアリスム絵画が使われていた。チャップリンとの仕事を通じて、劇場で働くことに対する理解が深まったと彼女は語る。
そこでの仕事は、フランス語で書かれたバックステージ用の台本を暗記することと小道具を用意することだったが、同時に、ショーのつくり方も教わったのだ。
「>振付を全部覚えなければいけなかったの」。当時を回想しながら彼女は言った。
学生最後の年に、彼女は舞台デザインにおいてもっとも権威ある賞のひとつ、Linbury Prizeを受賞し、はじめてプロフェッショナルな仕事を受けることになる。
ボルトン・オクタゴンで上演される、クリストファー・マーロウの『エドワード2世』だ。
「ハロルド・ピンターは、
こう言ったのよ。
『エズ・デヴリンを
知ってるかな。
彼女がこの劇を
書いたんだ』って!」
元ジャーナリストである彼女の父親は、こう回想する。
「エズは、マーロウの劇のために大きな白い浴場をつくり、シャワーから赤い血が噴き出すというアイデアを思いついたんだ。けれど、オクタゴンで働いていた配管工たちは学校を卒業したばかりの小娘を見て、『お前、自分が何を言ってるかわかってないだろ!』と怒鳴ったらしい。そんなことは不可能だと。
その夜エズは帰宅すると、自宅にあるだけの配管マニュアルを集めて徹夜で勉強し、翌日、劇場へ行くと、配管の用語やどうすればそれが実現できるかを彼らに見せつけたんだ」
デヴリンは卒業後、西ロンドンにある小規模ながらも先鋭的な劇場、Bush Theatreに職を求めた。
「刺激的な発想に富んだデザイナーを探しているところだったんです」と、当時の芸術監督だったマイク・ブラッドウェルは言う。
「エズは自分のポートフォリオを見せに来ました。スライド式のスクリーンやブラインド、窓の使い方がとても印象に残りました。エレガントで、少し日本的なところがあり、自然主義的ではないところも気に入りました」
デヴリンとブラッドウェルは、一緒に5本の作品を演出した。
「彼女の発明と想像力は、際限がありませんでした。けれど残念ながら、予算はそうもいきません。彼女はごくわずかな予算で数々の奇跡を起こしました。必要なものを何日もかけて、自らつくり上げたのです。
ラップトップと古いVHSプレイヤーを組み合わせて劇場でヴィデオを上映できるシステムを開発したし、ノルウェー人の物まね劇団の作品では、彼女は実際に使えるくらいのトレーラーまでつくってしまったんです」
デヴリンはさらに広い世界に出ることを熱望し、ナショナルシアターの舞台監督トレヴァー・ナンに手紙を出し、自分が演出する舞台に招待した。
シェイクスピアの『真夏の夜の夢』における、映像デザイナーの スヴェン・オーテルのヴィデオプロジェクションと 融合したステージは、2014年エクセレンスアワードを受賞した。 ブルックリンのポロンスキー・シェイクスピア・シアターでの公演。 |
「初の大仕事となった『裏切り』では、人生を賭けて仕事をしたわ。本当のところあの舞台には、ただの純白の空間のほうが合っていたのだけど、わたしはそこへ自分のやりたいことをぶちまけた。
ピンターは気にも留めなかったわ。彼はこの公演を50回もやっていて、本来のあり方を知り尽くしていた。わ
初日の夜、彼は知人にわたしを紹介するとき、こう言ったのよ。『エズ・デヴリンを知ってるかな。彼女がこの劇を書いたんだ』って!」
リヴァース・エンジニアリング
史上初のギリシャ悲劇は、アテネのディオニュソスの神殿の隣で上演された。
オスカー・G・ブロケットやマーガレット・ミッチェル、リンダ・ハードバーガーといった演劇史家たちによれば、現代にまで伝わっている悲劇の3分の2は、本来、神殿や宮殿、あるいは墓などの建造物の前で上演されていたそうだ。
アリストテレスは『詩学』のなかで、演劇の舞台に背景画を導入した最初の人物としてソフォクレスをあげている。
ギリシャ悲劇の情景はおそらく非常にシンプルなものだったろうが、何百年もかけて、観客たちはショーの壮麗さと迫真性の両方を演劇に求めるようになった。
ローマの演劇祭は、凝った3幕のセットに加えて、非常に洗練された舞台装置を使っていた。大プリニウスは、屋根瓦のだまし絵が描かれた舞台セットについて、それがあまりにリアルだったたため、鴉が舞い降りようとした、と書いている。
「セットデザイン
という仕事は、
建築家や画家、彫刻家、
ましてや
音楽家の仕事とは違う。
それはむしろ、
詩を書くようなものだ」
──ロバート・E・ジョーンズ
という仕事は、
建築家や画家、彫刻家、
ましてや
音楽家の仕事とは違う。
それはむしろ、
詩を書くようなものだ」
──ロバート・E・ジョーンズ
ルネサンス時代に遠近法への理解が進み、舞台デザインにおいて布や板に描かれた背景を用いることで、舞台セットは突如として奥行きを、距離を、そしてさまざまなイリュージョンを獲得したのだ。
多くの著名な芸術家たちが、舞台セットをデザインしてきた。
ピカソやマティスはもちろん、ブラックはバレエ・リュスの舞台を手がけている。
現代アーティストでは、デイヴィッド・ホックニーやダミアン・ハースト、そしてウィリアム・ケントリッジ。
しかし、舞台デザインという専門職が確立されたのは比較的最近のことで、それまでは画家や職工、俳優兼マネジャーといった人々が引き受けていた。
1925年、米国の舞台デザイナーたちが組合をつくったことを機に、舞台デザインという領域が演出のなかでも重要な地位を占めるようになった。このころまでには、舞台デザイナーは自分たちの役割を非常に野心的な言葉で表現するようになっていた。ただの装飾担当ではなく、演劇の翻訳を行うのだ。
米国における舞台デザインの先駆者であるロバート・エドモンド・ジョーンズは、シェイクスピアやユージーン・オニールの舞台セットで、アメリカ演劇界に大きな影響を与えた。
エッセイ『若い舞台デザイナーたちへ』のなかでジョーンズは、
「セットデザインという仕事は、建築家や画家、彫刻家、ましてや音楽家の仕事とは違う。それはむしろ、詩を書くようなものだ」と語っている。
ジョーンズの弟子であったジョセフ・ミールツィナーは1949年、ブロードウェイで最初の『セールスマンの死』の舞台セットを手掛け、高い評価を得た。
そこでは家の内部を開放して見せるという、ジョーンズ作品に特徴的なアイデアが使われていたが、ミールツィナーはさらにそれを広げ、ある種の選択的なリアリズムを適用し、劇中のさまざまな時間がなめらかに移り変わるようにした。
舞台デザインは各時代のテクノロジーから直接影響を受けるものだが、時にはそれを追い越すこともある。だからおそらく、マイク・ニコルズは、2012年の『セールスマンの死』の再演でミールツィナーのセットを利用したのだろう。
ニコルズはミールツィナーのセットが「演劇の展開と密接につながり合っていた」と信じ、「『セールスマン』のさまざまな演出のなかでも、ここまでよいものを見たことがない」と賞賛していた。
ミュージカル『アメリカン・サイコ』は2016年、英国でも新進の舞台が興行されることで知られるロンドン・アルメイダ劇場で上演。その後、ブロードウェイでも上演された。
いまでこそ専門の歴史家がいるものの、舞台デザインはあらゆる意味で理論家の登場が待たれる芸術の一分野だ。
戦後の英国でもっとも影響力のある舞台デザイナーのひとり、ラルフ・コルタイは、「わたしは劇が行われる場所ではなく、その劇が何について語っているのかを伝えることに興味がある」と語っている。
コルタイのデザインは「象徴」を多用する。
教皇ピウス12世のナチとの共謀を描いたロルフ・ホーホフートの演劇『神の代理人』を1963年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演したとき、コルタイはガス室の内部に、教皇の玉座へと続くレッドカーペットを敷いた。
テネシー・ウィリアムズの『去年の夏、突然に』は、正直すぎる姪にロボトミー手術を受けさせようとする叔母についての話だが、コルタイの演出では、俳優たちは巨大な緑色の「頭」を通って入ってくる仕掛けだ。
「わたしにとって
大切なのは、
その劇を
受けとめるのにふさわしい
『思考の枠組み』のなかへと
観客を誘うこと」
大切なのは、
その劇を
受けとめるのにふさわしい
『思考の枠組み』のなかへと
観客を誘うこと」
エズ・デヴリンが舞台デザインを学び始めるころまでには、これらの多くが時代遅れの演出だと見なされていた。舞台監督のウィル・フレアーズはこう語っている。
「セットが物語を脇へ押しやってはいけない。家具を輸送するシステムのような舞台セットこそがよいセットデザインであると、わたしは折に触れて舞台デザイナーに主張する。すべてをメタファーに変えて、観客を劇そのものから追い出してはいけないのだ」
一方、デヴリンは、完全な抽象と写実のあいだに何かがあるはずだと考えている。
さまざまな時代の要素を取り入れつつも、彼女のアプローチはまったく現代的だ。
直接的な写実主義や、たとえば『ウィンダミア夫人の扇』のためにエドワード朝の応接間を完璧に再現するといった伝統的な演出デザインにも興味はない。
「よくできたものをつくるのはあまり得意じゃないし、そうすると、わたしの作品は面白くなくなってしまう。イギリスには、エドワード朝の部屋を忠実に再現するとかディテールに凝ることが得意なデザイナーはほかにいるわ。わたしにとって大切なのは、その劇を受けとめるのにふさわしい『思考の枠組み』のなかへと観客を誘うこと」
演劇業界的にいえば、いまは「エズ・デヴリンの時代」だ。
彼女は演劇界におけるポストモダンのエキスパートであり、シェイクスピアからオペラ、ファッション、ポップコンサートまで、手がけるものが何であっても、暗闇に絡み合う心理情報を直感的に読み取る能力に長けているのだ。
彼女のデザインの一つひとつが、セットはただの背景に過ぎないという考えに対するアンチテーゼであり、それぞれの舞台の心象風景に入り込み、その重要性や意味を輝かせることができるのは彼女だけなのだ。
「舞台のセッティングは『背景』ではなく、監督や俳優たちが応えることのできる『環境』よ。彼らが重力に抗うことを後押ししてくれるような、促進剤が必要なこともあるの」
ニコラ・ジェスキエールとともに挑んだルイ・ヴィトンの2015年秋冬コレクション前に、ルイ・ヴィトン財団の真新しい建物にて。
「頂点」での再会
デヴリンの新境地は、ファッション業界だ。わたしはパリで2度ほど、ルイ・ヴィトンのウィメンズ・アーティスティックディレクターであるニコラ・ジェスキエールのショーの準備に奔走するデヴリンをつかまえた。
2015年春夏コレクションが、彼らの初仕事だった。
ショーの前日、ホテルのロビーでふと立ち止まってバッグを開け、必要な物をすべて持ってきたか確認しながら、デヴリンは場所の選択を間違った気がするとわたしに言った。
フランク・ゲーリーが設計したルイ・ヴィトン財団の真新しい建物。ブローニュの森のはずれに位置するそれは、LVMHグループの取締役会長ベルナール・アルノーが美術コレクションを収蔵するために建てたものだ。
「本当に素晴らしい建物だけれど、ファッションショーをするには退屈な空間なの。完璧によくできた展示室だけど、窓がない」と、デヴリンは言う。
彼女はよく舞台デザイン上の問題をまるで日常の問題と同じように語る。
ものをどこに置くか、どうやって暮らすか、何をすればいいかといった具合だ。
「12分間のファッションショーのために、12分間の世界を構築しなければいけない。モデルの列と、照明と、音楽でね。与えられた環境と条件、決まった時間のなかで、50人もの女の子があるルールに従って生きる必要があるの。シンプルにも複雑にもなりえるけれど、とにかく明確である必要がある。そこでは服こそが主人公で、ショーが始まった途端に、その様子は服とともに写真や動画で世界中を駆け巡るのだから」
彼女を迎えに来たクルマに一緒に乗り込むと、彼女は、ファッションの世界に慣れようと努力しているところなのだと告白した。その日わたしと会う前、彼女はシャネルのショーを観にグラン・パレを訪れていた。
「すごく面白い、小さな型なの」と、彼女は12分間のファッションショーについて話した。
「ショーという形式自体は、もう長くは残らないと思う。わたしたちは最後の10年に立ち会っているというわけね」
ルイ・ヴィトンの2015春夏コレクションには、デザイナーのひとりとして参加。
会場はハンマーやのこぎりの音で大騒動になっていた。
「仕事って面白いものね」と彼女はショーランナーを指差した。
「あの女性は、モデルが舞台に出てから次のモデルが出てくるまでの秒数をカウントすることだけに人生を賭けているの」
技術者たちはデヴリンが準備した動画をチェックしていた。
モデルがランウェイを歩いている間に上映されるものだ。デイヴィッド・リンチの映画『デューン』にインスパイアされたもので、詩を詠むいくつかの顔が現れた。
「はじまりにはいちばん気を遣うんです。0日目、最初の日こそがプロジェクトの心臓です」と技術者たちが言った。
デヴリンはサウンドトラックを聞きながら、「ヴィトンという新境地で、ニコラ・ジェスキエールがためらいがちに最初の一歩を踏み出す瞬間を表現している、そんな感じ」と話した。
翌日、ランウェイを取り囲んで動く照明の列とともに、ショーが始まった。
会場の明かりが消える。
スクリーンに映し出された顔は、リハーサルのときよりも青白く、気味悪く見えた。
その顔が「旅はここから始まる」とユニゾンで語ったのちにスクリーンから消えると、ランウェイの側面で白いネオンが光り、ひとりのモデルが黒いリボンが襟から垂れたかぎ針編みの白いドレスをまとって登場し、黒いレコードと巨大な鏡の山を通り過ぎていく。
デヴリンは服のデザインに宇宙時代の雰囲気を感じ取り、魅力に満ちた異星人の登場を演出した。
ショーは、まるで「未来は近づいている」と宣言しているようだった。オレンジと黒のストライプ模様のレザーミニドレスとグレーのアンクルブーツが、おそらくこの雰囲気に最も合ったルックだった。観客の後ろ側で、スモークのかかった白いライトの筋が床から天井に向かって伸びており、わたしたちは宇宙船に乗りこんだような錯覚に陥った。宇宙船の重要な乗組員は、ヴェルヴェットのパンツスーツをまとったモデルたちだ。
ショーの翌日、デヴリンは前日の不安をすっかり忘れた様子で、もう次回のショーに向きあっていた。
会場となった建物の外にある階段状の噴水の下で、彼女がベルナール・アルノーと話しているのが見える。
「次回はもっとすごいことをやりましょう。建物全部を使って、モデルにこの噴水の階段を降りてきてもらって…。大きさを調べておいてください」
6カ月後、2度目となるヴィトンのショーの前夜、わたしはデヴリンを見かけた。彼女は、ヴィトン財団で行われるカニエ・ウェストのプライヴェートショーに出席するところだった。観客の一団が漂うようにやってきた。レザーのジャケットを羽織った白髪の紳士、分厚い眼鏡をかけた垢ぬけた女の子たち、実用的な靴を履いたノームコアスタイルのフランス人の男の子たち。
カニエのチームの男性が、デヴリンに特別入場券を渡した。
「彼はイブンよ。カニエの専属ヘアースタイリストを10年もやっているの」と彼女が紹介すると、「20年だよ」とイブンは返して、飲み物の中の氷をかき回した。
同じくデザインを手がけたルイ・ヴィトンの2015秋冬コレクション。
コンサートで、カニエは白い四角形の光に照らされながら、灰色のスロープの上でパフォーマンスを行った。デヴリンがデザインしたわけではなかったが、ステージには、10年に渡る彼女とカニエのコラボレーションの特徴が受け継がれていた。(コンサートが始まる前、カニエはデヴリンにハグして、「やあエズ、ついにぼくらは頂点で再会できたね」と言っていた)。
初めてカニエと仕事をしたとき、デヴリンは多数のアートブックを詰め込んだスーツケースを彼に渡したという。その中には、ジェームズ・タレルの「ローデン・クレーター」についての本があった。グランドキャニオンの南側にある死火山の噴石丘を使った作品だ。ほかにもドイツの舞台監督・振付家であるルース・ベルクハウスについての本や、舞台デザイナーのエリック・ワンダーの作品集、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』についての本などがあった。
わたしはデヴリンに、カニエのステージセットについて尋ねた。
「いまは全て、彼が自分でやっているわ。視覚的にも、ポップコンサートに相応しい素晴らしいステージだと思う。彼はコンサートの演出に新しい息吹を吹き込んだ。本来、ポップコンサートはすべてこうあるべきだと思うけれど、大半のロックスターはいまだに必ずバックライトを使う。バックライトがあれば、ヒーローに見えると思ってるのね。カニエは自信をつけたんだと思う。稀に、彼のように世界を冷静かつ本質的に見ることのできる人もいるの」
エズとカニエ・ウェストのコラボレーションのひとつ、「ウォッチ・ザ・ソーン」ツアー。2011年に開催されたこのアリーナツアーは、カニエとジェイ・Zによる共演も注目を集めた。
ステージは夜ごと進化する
2015年の夏、『ハムレット』の公演が始まると、デヴリンのセットは主演のべネディクト・カンバーバッチに次ぐ公演の“主役”となった。彼女は、天井から幅木に至るまで、すべてにおいて政治的なストーリーが染み渡った屋敷を表現した。状態が悪化していく巨大な部屋で、青い壁に映った影が登場人物の心理を刻み付けているように見える。わたしは公演を2回観て、心理的な撹乱が増幅するのを感じた。デヴリンは劇の雰囲気だけではなく、そこにある世代間衝突の恐怖を表現する鍵を見つけていたのだ。
そのセットの中で
演じるのは、どういう
感覚なのかを尋ねると、
カンバーバッチは、
「あれは美しい地獄だね」と
答えた。
セットには、王族らしい豪奢さと虐殺の狂気が絡み合い、はく製や陰気な軍人の肖像画、打ち捨てられたおもちゃ、そして深く暗い空間があった。しかし後半で、このセットは巨大な泥の塊に変わる。
戦場が屋敷の内部に入り込み、オフィーリアは骨と土の山を登って自らの死へと向かってゆくのだ。セットは生きた有機体で、騒乱とカオスのイメージを放っていた。古いピアノが鳴ると、その不協和音は台詞を通じて反響するかに思えた。
ハムレット役のカンバーバッチが狂気を見事に表現するたびに、壁の肖像画が彼を睨みつけているかのようだった。デヴリンによれば、リンゼイ・ターナーと一緒に紅茶を飲みながら、何週間もかけて互いに『ハムレット』の全台詞を読み合ったのだという。
「ハムレット世代、フォーティンブラス、レアティーズ、オフィーリアは、基本的にドイツ赤軍のギャングね。彼らは子ども。そして遊び場のどこを掘り返しても、巨大な墓に突き当たってしまうの」
2015年、英バービカンシアターで上演されたベネディクト・カンバーバッチ主演の『ハムレット』。女性演出家リンゼイ・ターナーとの仕事。
わたしはデヴリンに、土砂のアイデアは何に影響を受けたのか聞いてみた。
「デンマーク人とアイスランド人の血を引くアーティスト、オラファー・エリアソンのすばらしい作品を見たの」。そう言って、彼女は携帯を手に取り、泥と石に覆われた部屋の写真を見せてくれた。
「これを見た瞬間、自分がすべきことがわかった。土の詰まった部屋が必要なのだ、と。最初のアイデアは非常に動的なもので、『Monument Valley(モニュメントヴァレー)』というゲームにヒントを得たもの。ゲームのなかでは、主人公が移動するときにだけ空間が実体化する。つまり、空間のなかで実体化される思考というわけ。でも気を付けないと。シェイクスピアは、はるか昔に言葉でそれをやってのけてしまったんだから」
あのセットの中で演じるのは、どういう感覚なのかを尋ねると、カンバーバッチは、「あれは美しい地獄だね」と答えた。
「心理面でも、あの劇を演じるのに必要なものは全てそろっている。まるで子ども時代に戻ったような心理状態にさせるセットのスケール、冷たい骸骨のような宮殿、周囲に漂う血も涙もなく朽ち果てていく雰囲気、指導者の図像、形式化された暴力としての武器、1台のピアノ。あのセットを歩き回るだけで、ハムレットの意識と共鳴するのを感じられるんだ。世界に絶望した男を表現するための、すばらしい跳躍台ともいえる。美しいはずのすべてが汚染されてしまっていることに、彼は気付いているんだ。エズは、それらすべてをセットの中に仕込んだ。そう、ちょうどあの階段の下のおもちゃのように。セットは夜ごとに進化していったんだ」
ある夕方の『ハムレット』開演前、わたしはデヴリンと一緒に舞台のまわりを歩いた。彼女は宮殿の大階段の上にわたしを連れて行き、花や鳥、動物のはく製が飾られた長テーブルを見下ろした。開いたままのドアがあり、その向こうにまた別のドアがある。デヴリンは2階部分に、自分の祖父母がインド旅行から持ち帰った写真や、祖父と祖母の写真を使った。それらは、彼女が自分の寝室から持ってきた古いデスクのそばにかかっていた。
「もっと小道具が必要だったのだけど、予算が足りなくなってしまったの」
カンバーバッチの語った通り、階段の下にはおもちゃがあった。その中には、『The Nether』のためにデザインされたドールハウスもあった。デヴリンは、ハムレットが育った抑圧的で家父長的な環境の雰囲気を伝えたかったのだと話した。劇の後半でステージにばらまかれる泥も見せてもらった。デヴリンはデザイン界のユングなのだと、わたしは思った。彼女はステージの真ん中まで降りていくと、青い傷だらけの壁を見上げた。
「もしこの空間が、ハムレットの脳内を満たすほどに拡張したとしたら?」
このセットの有効性は、知的な明快さにある。ハムレットの心象風景を想起させるだけではなく、観客の道徳観まで非難するかのようだ。セットは現実的な演劇の世界から抽象化され、芸術作品そのものになっていた。わたしたちが、普段ハムレットと結び付けるような部屋や景色はどこにもないが、靄(もや)のようなものと熱狂から生まれる確固としたものがある。サミュエル・テイラー・コールリッジがハムレットの心について語ったような、「影に実体を与え、ありふれた現実には靄をかける」ような何かが。
「アート・オブ・デザイン」Netflixもエズをフィーチャー!
2017年2月より配信されているNetflixのドキュメンタリー作品「アート・オブ・デザイン」。世界最高峰のデザイナーたちが作品をつくり上げるプロセスをひも解くこの番組で、エズはクリストフ・ニーマン(イラストレーター)、ポーラ・シェア(グラフィックデザイナー)、ビャルケ・インゲルス(建築家)らとともに取り上げられている。(原文:Es Devlin’s Stages for Shakespeare and Kanye | the New Yorker)