金曜日, 12月 14, 2012

「風立ちぬ いざ生きめやも」




スタジオジブリの新作が発表されたよ

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121213-00000022-flix-movi

スタジオジブリが、2013年に宮崎駿監督の新作と高畑勲監督の新作を、 

一挙に公開することを発表した。宮崎監督が原作、脚本も手掛ける新作のタイトルは、

『風立ちぬ』。高畑監督が原案、脚本も手掛ける新作のタイトルは、『かぐや姫の物語』。

2作品同日に公開される。

  



「風立ちぬ」--掘 辰雄
夏の高原で、私は節子という美しい少女と出会った。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」というポール・ヴァレリーの詩句が口をついて出る。
二年後の春、私は節子と婚約した。
彼女は胸を病んでいた。回復に近づいている様に見えた節子は、
「私、なんだか急に生きたくなったのね…」、「あなたのお陰で…」とつぶやく。
愛し合っているという思いは、なんと生き生きとした切ないまでに愉しいものであろうか。
彼女の病状はかなり重く、私たちは、八ケ岳山麓のサナトリウムに移り、少し風変わりな愛の生活が始まった。
サナトリウムに入ってすぐ彼女は入院患者の中で二番目に重症だと告げられる。
二人は、大切に生きようとつとめ、真の「幸福」と「生の愉しさ」を味わおうとする。
しかし、時には、行く手に立ちふさがる死の影におびやかされて不安におののくこともある。
彼女の病状が次第に悪化していく中で、私はふたりの幸福を主題にした小説を節子の枕元で書き続けていた。
しかし、結末だけは書けずにいた。
二人の愛を砕くかのように、死の影は刻々と近ずいてくる。十二月初旬、節子は、家に帰りたいとつぶやき、
帰らぬ人となった。
それから一年後の冬、「私」は一人、節子と愛し合った高原の小さな谷に小屋を借りて滞在する。
彼女の追憶にふけることは苦しかったが、
やがてリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」に啓発されてこんなふうに生きていられるのも、
節子の無償の愛に支えられているのだと気づき、生きる幸せを静かに味わうのだった。




 
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「風立ちぬ、いざ生きめやも」って誤訳なの?


 何故か無性に「風立ちぬ」(堀辰雄著)が読みたくなった。

 本棚を探したが、わからないので、ネットを検索してみたら、こういうのがあった。
 おかげで、何とか先ほどその衝動を満たすことができた。
 ありがとう。
 こういうときには、本当に便利だ。
 ただし、横書きで読むのは何だか変な感じがしないでもなかったが。
 この「風立ちぬ」のことを考えるたび、まず、思うことがある。
 それは、「風立ちぬ いざ生きめやも」という詩句が、誤訳だということだ。
 自慢じゃないけど、高校のとき古典はいつも赤点ギリギリだった。
 フランス語も大学で第二外国語で取ったことはとったが、もう、完全に忘れた。
 だから、確信はないが、
 Le vent se le’ve, il faut tenter de vivre.   ポール・ヴァレリー
  の訳が、「風立ちぬ」はいいとしても、後半の「いざ生きめやも」というのはおかしい。
 と、昔から言われていることだ。
 フランス語はともかく、旺文社全訳古語辞典で見ると、「いざ」は「さあ、(~しよう)」
 「生きめやも」というのは、「生き・め・や・も」に分解できると思う。
 「め」というのは、「だろう」という意味。
 「や・も」というのは、「か?」
 であって、「生きめやも」というのは、せいぜい、「生きられるだろうか?(いや、生きられはしない)」という意味なのか?
 「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひ・め・や・も」(天武天皇)
 これは、万葉集にでてくるあまりにも有名な「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)に対する返歌だが、「め・や・も」が出てくる。
 「私を捨てて人妻になってしまったあなたが憎ければこんなに恋しいと思うでしょうか?(いや、本当に憎いなら、恋しいとは思わないでしょう)」という意味。
 「風立ちぬ いざ生きめやも」というのも、「風が吹きましたよ。(もしそうなら、)さあ、(僕と一緒に)生きようか?(風など吹いていないのなら、さあ、僕と一緒に生きようか?なんて、そんなことは言いませんよ)という意味なのか?
 「風立ちぬ いざ生きめやも」は、現代風に訳せば、色々細かいニュアンスはあるが、「風立ちぬ」という事自体に取り立てて意味はなく、何かの景気付け程度だろうと思うので、「オッ、風が吹いちゃったじゃないの!それじゃ、まあ、生きてやりますか?」とでもなるのかな?
 となると、それ程、誤訳でもないのではないか?
 純文学にチョー詳しい友人がいるので、聞いてみよう。
 この小説は、何度となく読んでいるが、不治の病で余命幾ばくもないということは、これからも多分ずっとあり続けることだと思うし、そういう身に自らを置いてみれば、何でもない今現在のこの一瞬一瞬を深く味わって生きることの大事さという事がよくわかる。


純文学に詳しい友人に聞いたら、
> ① 「生き目」+「やも」。
>
> ・名詞「生き目」は、「生きられる目当て。生きる手だて。」の意味。終助詞「やも」は、
> 「一であろうか。いや、そんなことはない。」という反語の意。
>
> 従って、「いざ、いきめやも」=「さて、生きられるだろうか、いや、そんなことはない。」となる。
>
> ② 「いき+めや+も」。
>
> ・名詞「息」は「呼吸」、推量の助動詞+係助詞「めや」は反語の意。
> 「も」は、詠嘆を表す終助詞。意味は①とほぼ同じになる。
>
> 私は、①ではないかと思うが、確たる自信はない。
> 今、手元に相応しい書物がないけれど、国文学界の一般的見解も通覧しておきたいと思う。
>
> 1字の「も」が、悲嘆・詠嘆表現の役割を担っているのは面白い。
 という返事が来た。
 
それでは、古典赤点小僧の私見だが・・・

 「めや」というのは、辞書によれば、そもそも「め」+「や」というのが成り立ちとある。
 「め・や・も」の「め」は推量の助動詞「む」の已然形。
 「や」は反語の終助詞、「も」は詠嘆の終助詞「も」。
 「生き」は動詞。
 「め」が、「目」なら、これは名詞。
 ようするに、「め」を名詞ととらえるか、助動詞ととらえるかの違いだ。
 友人はどちらにしても意味は同じということだ。
 しかし、それなら、「風立ちぬ いざ生きめやも」が使われているシーンからすると、その訳は一見、堀辰雄の誤訳となるね。
「さあ、(あなたは)生きられるだろうか?(生きられはすまい)」というのでは、絶対無いと思う。
「風立ちぬ」序曲の冒頭のシーン。
不意に風が立って、ついさっきまで、節子が絵を描いていた画架が倒れる。
主人公は、この画架が倒れるシーンを肺病の節子と並んで見ていたのだが、それを彼女の死の象徴と受け止めたがゆえに、
 「すぐ立ち上がって行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように、無理に引き留めて」、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と口の裡(うち)で繰り返す。
こういう用法で、「風が立ったよ。さあ、お前は生きられるだろうか?(生きられはすまい)」などと、病気の恋人を抱きしめて言うだろうか?
いひめやも、だ。
この「・・・めやも」という文は、「①が真なら、」という仮定の前段があり、「②が真だろうか?(いや、真ではないだろう)」という後段につながる文なのだと思う。
もう一度、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」の例を取り上げてみよう。
恋しいと思うでしょうか?(思ったりしないでしょう)という「われ恋ひめやも」の否定だが、これはいったい何を否定しているのか?
それは、ただ「妹を恋しくない」というのではなくて、「妹を憎らしいと思っているのなら、そんな妹を恋しいと思ったりしない」と言うこと。
つまり、「(人妻ゆゑに)紫草のにほへる妹を憎くあらば」と言うように、否定しているのは前段の憎いならばという仮定に当たる部分なのだ。
これはようするに、「人妻となってしまった前妻を今でも恋しい」と言うのを、ただ反語的にもってまわった言い方をしているだけのこと。
表現がどうだろうと、「憎い」のではなく、あくまで「恋しい」のだ。
 とすれば、「生きめやも」という後段は、一見「生きるということが真だろうか?(いや、真ではないだろう)という意味だが、実際は、「生きるのだ」という事を反語的に言っているのだなと、見当がつく。
では、否定されるべき仮定である前段は何かと探せば、「風立ちぬ」しかない。
これを正確に書けば、「風が不意に吹いて倒された画架がお前の身の上というのが真ならば、」であろう。
そして、全文を通して散文的に書けば、「突風が不意に吹いて画架を倒して、描いていたきれいな絵を台無しにしたりするものならば、これからの我々の人生、あの画架みたいなものだから、いつなんどき突風が吹いて二人のどちらかが吹き倒されてしまうかもしれないのに、ずっと一緒に生きて行けるなんて思えるだろうか?(思えやしない)」であり、
更に「しかし、僕らは画架ではない。あんなことは僕らの人生とは何の関係もない。動揺したりせず、二人してこの病気をしっかり直して生きていこうよ」と本音とは逆のことを言っている。
 「さあ、元気に生きていこうよ』と言いながら、実は、自然の事象と二人の心は感応しあって、死の予感におびえ、動転しているのだが。
主人公は、風で倒された画架と節子とを完全に同一視している。
だから、「風立ちぬ いざ生きめやも」の意味は、
「僕らの人生、突風で吹き飛ばされたあの画架みたいなものなら、一緒に生きていくことなんてできるだろうか?」
 あるいは、「突風だね。お前があの画架だったなら、生きてられるだろうか?生きてられないだろう。しかし、今ここに僕が抱きしめているお前は決してあの画架であるわけはないのだから、突風が吹こうと何だろうと関係なく生きていられるんだよ。さあ、生きていこうじゃないか」
とか言って、節子を勇気づけているのだが、もし、「風たちぬ、いざ生きめやも」を声に出して言えば、「ちょっと、それ、どーいう意味?」と逆に抗議されるだろう。
 「ようするに、あたしって、死んじゃうわけ?どうなのよ」とね。
それ程に、多義的表現だ。
だから、主人公は口の中でつぶやくにとどめたのだろう。

 Le vent se le’ve,il faut tenter de vivre.
(le’veのe’はアキュートアクセント付きのe)
ちなみに、この訳は、
風が立った、人生の誤った試み(のように)
風が不意に吹いた 何かの過ちのように
風立ちぬ 過ちのごと (5・7で決めました)
俳句にすると、
風立ちぬ 過ちのごと 野辺を行く
だろうか?
あくまで、ネットで日仏辞典を引きながらの私の超誤訳だが。
 娘の友人にフランス語ができる人がいるので、いつか、翻訳してもらおう。
 それまで、われ生きめやも。