普通の人であることの大切さ――プロが陥りがちな直観のワナ
前回の「表現者の才能 について考える」では、どんな人が突出した表現者になりうるのか? という話を書きました。今回は、類まれなる表現者である糸井重里さんのスピーチから話をはじめてみたいと思います。
■「普通の人以上に普通のことを考えられる」
先日、糸井さんは東京コピーライターズクラブでスピーチをされました(関 連サイト)。その時の様子を引用します。
やればやるほど、普通の人になっていく。
それがコピーライターという職業じゃないかな、とこの頃思うようになった。
(中略)
普通の人以上に普通のことを考えられる。
今日いただいたホールオブフェイムは普通の人の証。
これをもってさらに磨きをかけた取り柄のない人になっていこうと思う。
いやあ、深いですね。それがコピーライターという職業じゃないかな、とこの頃思うようになった。
(中略)
普通の人以上に普通のことを考えられる。
今日いただいたホールオブフェイムは普通の人の証。
これをもってさらに磨きをかけた取り柄のない人になっていこうと思う。
糸井さんはどう考えても普通の人ではないわけです。でも普通の人になっていくんだとおっしゃいます。結果についての説明でもあり、決意表明でもあ りそうです。これは、どういうことなんでしょうか?
コピーライターというのは、商品とかお店とかブランドに、いい言葉をつけて消費者に届ける仕事です。それには「普通の人」の生活から、時代の流れ をとらえて、言葉に紡ぐ必要があります。だから「普通」を強く意識する必要があります。
こうやって書くと当たり前に見えますが、これはなかなか難しいことなのです。
表現をする仕事でやりがちな失敗として、「周囲のプロ」に向けて仕事をしてしまうということがあります。「周囲のプロ」の代表が自分自身だったり もするので、さらにややこしくなります。わかりやすいコード進行でポップな名曲をつくっていたミュージシャンが、やけに複雑な曲をつくりはじめたりとか、 そういうこと、よくありますよね。
■羽生三冠はなぜ素人のような手を指すのか?
もうひとり、普通でない人の話をしましょう。
ぼくは将棋の羽生善治さんの大ファンで、羽生さんがプロになってから指した将棋はほとんど全部、将棋盤かモニタ上で再現しています。羽生さんの指 し手はいつも驚きに満ち溢れているのですが、ときどき「素人のような手」を指すことがあります。
たとえば、うまく使えなくなっている相手の飛車を取るために、大事な金や銀を打つ、といった手です。初心者がやりがちな手ですが、上達してくる と、効率を重視してやらなくなります。しかし羽生さんは、あえてこういう指し方をすることがあります。
なぜそんな指し方をするのかというと、ぱっと見はよくないけど、よく考えて先の先まで読むとそれが一番いいからです。ただ、これは普通のプロには 気づきにくい手だったりします。一見すると「素人のような手」だから、考えるべき手として浮かんでこないためです。
ひとはものごとに上達してくると、考えを省略できるようになっていきます。「こういうときはこう」「ああきたらこう」というふうに、経験を通じて 学習して、無駄なことを考える必要がなくなります。素人のときには余計なことまで考えて、うまくできなかったことが、なにも考えずに上手にできるようにな るのです。
上達というのはそういうものなのですが、同時に「普通の人の考え方」を忘れてしまいやすくなります。だから羽生さんの指す「一見素人のような手」 が、他のプロには見えなくなってしまうということが起こります。羽生さんはそれが起こらないように、普通の感覚を意識して大事にしているのだと思います。
そろそろまとめましょう。
プロは、技が研ぎ澄まされる代わりに、視野が狭くなりがちです。でも、ものづくりは普通の人が相手なので、意識して、視野を広げなくてはなりませ ん。
視野を広げるためには、普通の人の気持ちに立ち返ることが必要です。
「高校生のころの自分ならどう思うかな?」
「母親はどう思うだろう?」
「中学生の自分なら?」
といった、原点に立ち返る問いは「普通の人」の気持ちになるために有効です。
そして、大事なのは、普通であり続けることを「覚悟する」ことではないかと思います。「プロの技」に安住するのは簡単ですが、どんどん狭い道に迷 い込んでしまいます。糸井さんのスピーチの「磨きをかけた取り柄のない人になっていこう」という言葉には、自分の感覚を更新し続ける覚悟が込められている と思います。