Alma,Leica,Robert Capa
この写真を見て、僕は驚いた。
この写真が、映画の中のシーンとしては、とてもよく出来ていたからだ。
この写真が、映画の中のシーンとしては、とてもよく出来ていたからだ。
いや僕の知らない、キャパの写真かと思った。
もしかしたら、ベトナムのキャパの写真のなかで、僕の知らない写真があるのかと。
キャパのインドシナでのモノクロのコンタクト写真を僕はすべて見た。
コダクロームで撮られたカラーは全部は見ていない。
もしかしたら、ベトナムのキャパの写真のなかで、僕の知らない写真があるのかと。
キャパのインドシナでのモノクロのコンタクト写真を僕はすべて見た。
コダクロームで撮られたカラーは全部は見ていない。
何より驚いたのは、稲を刈られ乾いた水田を
ジープとともに兵士が行軍していることだった。
ジープとともに兵士が行軍していることだった。
ジープは水田の中を走れる。まあ、走ろうと思えば、ただの荒れ地だ、走れるだろう。
ただ僕がキャパの写真を見た限り、ジープは未舗装の道路を走っている。
知っている限り、水田の跡の荒れ地を進むのは、戦車だった。
知っている限り、水田の跡の荒れ地を進むのは、戦車だった。
なぜこんな些細なことにこだわるかといえば、
キャパの死についての、謎にかかわるからだ。
ジープだろうが、戦車だろうが、そのこと自体は決定的なことではない。
キャパの死についての、謎にかかわるからだ。
ジープだろうが、戦車だろうが、そのこと自体は決定的なことではない。
ただ、僕はキャパ最後に撮った写真が戦車の上から撮ったと想像した。
そのことで、キャパが死んだ理由が、解明されたと思ったからだ。
そのことで、キャパが死んだ理由が、解明されたと思ったからだ。
ロバートキャパは、20過ぎから約10年間戦場をかけまったベテランだ。
そんな彼が、なぜ不用意にも地雷を踏んでしまったのだろうか。
そんな彼が、なぜ不用意にも地雷を踏んでしまったのだろうか。
しかも調べると、キャパが従軍した、水牛作戦は、
フランス軍の絶対要塞、ディエンビエンフーが陥落したまだなお、
フランスは軍は意気軒高であるとのデモンストレーションの作戦で、
単発の戦闘はあったものの、キャパの撮った写真を見る限り、
さして緊迫感がない。
キャパの最後に撮ったとされるカラー写真を見る限り、
戦場というより、まるでピクニックみたいだ。
この写真の右前方の土手の上でキャパは地雷を踏んで吹き飛ばされた。
1954年5月25日pm3時 photo Robert Capa NikonS nikkor 35mm KodachromⅠ
この写真のアングルの高さに注目してほしい。
地平線が、カメラのアングルだ。荒れ地のなかで異様に高いアングルだと思うのだが。
フランス軍の絶対要塞、ディエンビエンフーが陥落したまだなお、
フランスは軍は意気軒高であるとのデモンストレーションの作戦で、
単発の戦闘はあったものの、キャパの撮った写真を見る限り、
さして緊迫感がない。
キャパの最後に撮ったとされるカラー写真を見る限り、
戦場というより、まるでピクニックみたいだ。
この写真の右前方の土手の上でキャパは地雷を踏んで吹き飛ばされた。
1954年5月25日pm3時 photo Robert Capa NikonS nikkor 35mm KodachromⅠ
この写真のアングルの高さに注目してほしい。
地平線が、カメラのアングルだ。荒れ地のなかで異様に高いアングルだと思うのだが。
なぜキャパは、地雷を踏んだか。
その前に、日本に2週間少し滞在し、特別歓待され、気が緩んでいたのか。
しかももう、戦争写真は撮らないといいながら、
友人たちの止めるのも聞かず、なぜ義のない、インドシナ戦争に行ったのか。
単なるデモンストレーションの作戦で、
キャパはこの戦場を馬鹿にしていて、油断した報いなのだろうか。
伝記を読んでいると、
20代のキャパの華々しさ、サクセスストーリーから
マグナムを作り、マグナムを運営し、ある時はリッチな旅行写真を撮り、
もう写真をガチャガチャやる年じゃないといい、
イングリットバーグマンと恋愛し、ハリウッドに行った。
30代の後半、腰をいため、あげくに赤狩りにひっかかり、
借金をかかえ、最低の状態の時に、
カメラ毎日創刊の日本招待があった。
体調もよくなったころ、キャパは日本の土を踏んだ。
アマチュア写真全盛の日本で、
キャパは大歓待される。
そんな彼は、ライフの突然のオファーで、戦場に行った。
その前に、日本に2週間少し滞在し、特別歓待され、気が緩んでいたのか。
しかももう、戦争写真は撮らないといいながら、
友人たちの止めるのも聞かず、なぜ義のない、インドシナ戦争に行ったのか。
単なるデモンストレーションの作戦で、
キャパはこの戦場を馬鹿にしていて、油断した報いなのだろうか。
伝記を読んでいると、
20代のキャパの華々しさ、サクセスストーリーから
マグナムを作り、マグナムを運営し、ある時はリッチな旅行写真を撮り、
もう写真をガチャガチャやる年じゃないといい、
イングリットバーグマンと恋愛し、ハリウッドに行った。
30代の後半、腰をいため、あげくに赤狩りにひっかかり、
借金をかかえ、最低の状態の時に、
カメラ毎日創刊の日本招待があった。
体調もよくなったころ、キャパは日本の土を踏んだ。
アマチュア写真全盛の日本で、
キャパは大歓待される。
そんな彼は、ライフの突然のオファーで、戦場に行った。
キャパは戦場ではやはりスターだった。
フランスのコーニー将軍とハノイのバーで懇意になる。
死の日
その日の作戦時には、ホテルまでジープが迎えに来る。
その日の段取りをすっかりつけたキャパは、
同乗する若い記者たちに説教をする。
ジャーナリストは待っていてもなにもならないと。
フランスのコーニー将軍とハノイのバーで懇意になる。
死の日
その日の作戦時には、ホテルまでジープが迎えに来る。
その日の段取りをすっかりつけたキャパは、
同乗する若い記者たちに説教をする。
ジャーナリストは待っていてもなにもならないと。
その日、ただ、ひたすらキャパは写真を撮る。
誘われたが昼食を断り、写真を撮り続ける。
タイトルは「にがい米」
タイトルは「にがい米」
そして午後、若い記者にあと1カット、
要塞が爆破するところを撮れば、このフォトストーリーは完成だとういう。
要塞が爆破するところを撮れば、このフォトストーリーは完成だとういう。
ところが、キャパはその写真を撮らなかった。
数十分後には、爆破されるという要塞を前にして、少し撮ったあと
先に行ってしまう。
数十分後には、爆破されるという要塞を前にして、少し撮ったあと
先に行ってしまう。
そして十分後、要塞は爆破された。
それを見て、若い記者は、
「なんでこれをキャパは撮らなかったのか?」と叫ぶ。
それを見て、若い記者は、
「なんでこれをキャパは撮らなかったのか?」と叫ぶ。
数分後、
キャパが地雷に倒れたと伝令が来る。
若い記者はキャパのもとにかけつける。
キャパが地雷に倒れたと伝令が来る。
若い記者はキャパのもとにかけつける。
倒れたキャパは左手にコンタックスⅡを握り、
ニコンSは足元に投げだされていた。
ライフの追悼記事にはそう書いてある。
ニコンSは足元に投げだされていた。
ライフの追悼記事にはそう書いてある。
ここに大きな疑問がある。
キャパの最後に撮った写真は、カラーの写真だ。
その写真は、ニコンSにワイドレンズ35mmで撮られている。
モノクロは、コンタックスⅡで標準レンズ50mmで撮られいてる。
今ニコンSは、日本の富士美術館を所蔵している。
キャパの弟コーネルから寄贈されたものだ。
富士美術館はキャパのプリントをかなり所蔵している。
キャパの最後に撮った写真は、カラーの写真だ。
その写真は、ニコンSにワイドレンズ35mmで撮られている。
モノクロは、コンタックスⅡで標準レンズ50mmで撮られいてる。
今ニコンSは、日本の富士美術館を所蔵している。
キャパの弟コーネルから寄贈されたものだ。
富士美術館はキャパのプリントをかなり所蔵している。
最後に撮られた写真は35mmなのに、その残されたカメラには
なぜ50mmレンズがついているのか。
そこにキャパが地雷を踏んだ謎がかくされている。
なぜ50mmレンズがついているのか。
そこにキャパが地雷を踏んだ謎がかくされている。
撮ろうと宣言した写真。
撮らずに死んだということは、
確実キャパはその写真を撮りにいっているはずだ。
そうラストショットを撮ろうとして、
死んだというのが僕の推論だ。
撮らずに死んだということは、
確実キャパはその写真を撮りにいっているはずだ。
そうラストショットを撮ろうとして、
死んだというのが僕の推論だ。
トップの写真、キャパはライカ使いとのニュアンスがあるが、
キャパは初期はライカを使っていたが、
途中からはコンタックスを使っている。
キャパが死んだ年に、ライカはM型を発表。
生きていれば、当然ライカを使ったろう。
キャパは初期はライカを使っていたが、
途中からはコンタックスを使っている。
キャパが死んだ年に、ライカはM型を発表。
生きていれば、当然ライカを使ったろう。
http://alao.cocolog-nifty.com/the_eye_forget/2015/01/robertcapa11-1d.html