理系はなぜ文系が分からないのかレジュメ
担当:村山
ところが公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。
ところで我々は あらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練を受けよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議 論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。好きなだけ、好きなことについて議論せよ、ただし服従せよと語っているのは、この世でただ一人の君主(フリードリヒ大王)だけなのだ。
こうしてどこで も自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは、どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば、啓蒙を妨げることなく、むしろ促進するこ とができるだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これに対して理性の私的な使 用は極めて厳しく制限されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展が特に妨げられるわけではない。
さて理性の公的 な使用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、自らの理性を行使することである。そして理性の私的な使用 とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。公的な利害が関わる多くの業務では、公務員がひたすら受動的 に振舞う仕組みが必要なことが多い。それは政府の内に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないよう にする必要がるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。
しかしこうした 機構に所属する人でも、みずからを公共全体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格におい て文書を発表し、そして本来の意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的に振舞うように配置されている 業務の遂行が損なわれることはないのである。
カント『啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫14-6p
理系と文系が対立する原因について
理系と文系に学問を分類することに大した根拠はないけれど、ある程度実用的な意味はある。主に数学を道具とする分野、自然の法則性や分類(階層性)を探す分野は前者に、歴史を扱う分野、テクストを扱う分野、人間の行為全般を扱う分野を後者に含めることができよう。そして確かに、人間の性質上数字や論理の扱いに長けた者と言語の扱いに長けた者がおり(そのどちらでもない者もいる)、前者は理系に分類される学問分野は比較的とっつきやすく、また後者は文系に分類される学問分野に比較的とっつきやすいということが、経験的には言えよう。「分類はカオスにまさる」@レヴィ=ストロース。それ以上でもそれ以下でもない。
にもかかわらず同時に、現在この二つの分野の間の溝は絶望的なくらい深まっている。
第
一に教育。日本の教育制度は高等学校に上がった学生を理系向けと文系向けの二つに分離する。これは先ほど述べた特性上、学生をこのように二つに分けた方が
教えやすいからである。特に専門的な教育になるほどこの傾向は強まる。しかし、この便宜的区別が受験という制度に乗ると話が変わってくる。合格と不合格で
教育環境が決定的に変わる。そこで「良い教育環境を得るためにはまず試験を突破しなければならない」という前倒しの理屈が起動する。学問は試験を突破した
後に始まるのであり、試験を受けるまでは試験に特化した勉強をするものが最後には自由に学ぶことができる。これによって試験対策だけを行うことが正当化さ
れ、試験科目以外を学ぶことはかえって最終的に得られる教育環境の質を下げることになる。これが高じて試験を無視するような勉強は愚かであり、試験対策こ
そ勉強であるという倒錯が生じ、試験制度の中にいる限り前者の社会的評価は下がり後者の社会的評価は上がるので、一度文理に分離した学生はその枠組みの中
に閉じこもることになる。便宜的だったはずの区別が倒錯によって本質的なものに変わるのである。
第
二に徒党。人間は好きな者同士でつるみ、お互いにお互いの傷をなめあうことが必要な生き物である。孤高に生きるほど強靭な精神力を持った人間は稀である。
この性質により、ある学問分野に進んだ人間は、自らの疑問にこたえて学問をするよりも、自分が今まで行った努力ができるだけ高く評価されることを望むよう
になる。そこで得意な分野にいる者同士でつるみ、互いを評価し合い評価の基準に合わない者を下に見ることに快楽を覚えるようになる。この分野の区別の第一
のものが文理の区別であり、したがって両者の間にはもっとも根深い政治的対立が生じる。この政治的対立を知的好奇心だけで乗り越えることは難しく、理系を
選んだものは文系を軽視し、文系を選んだものは理系を軽視することから自由になれる者は少ない。たとえ価値観を含んだ蔑視を行わなくても、それは自分に
とっては重要でないという軽視を、学問上の理由ではなく政治的な理由から行うようになるのである。
第
三に専門化。学問が発展するにしたがって人間が扱うことのできる対象が増え、知識は膨大になった。もちろん体系化も進み、一つの学問を修めることは容易に
なったが、それを上回るスピードで細分化が進んでおり複数の分野で重要な業績をあげることが難しくなっている。たとえばアンリ・ポアンカレが最後の総合学
者と呼ばれるのは、彼以降数学の全範囲をカバーするのはほとんど人間の能力を超えてしまうからである。これがすべての学問分野にあてはまる。そこで、多く
の学問分野に手を出してもそれを学ぶ途上で(なんの業績も上げられぬうちに)人
生が尽きてしまい、かえって一つの分野を徹底する方が学問の発展に貢献できることになる。もちろん一つの分野を徹底する過程で別の学問分野を必要とするこ
とは生じるが、そうでない限り広く浅い知識は学問の場から離れジャーナリズムに陥る危険性が高いと言える。この議論を敷衍すれば、文系の学問と理系の学問
を両方とも深く学ぶということは極めて困難であり、しかも実り少ない行為ということになる*。
*
たとえば小説が好きな科学者は多いだろう。しかし科学における足跡を残しながら見事な文学評論をなし得た科学者を寺田寅彦以外に何人挙げることができるだ
ろうか。そして、科学者がこのような行為に及ぶことを一般大衆は求めるだろうか。科学者集団は評価するだろうか。その科学者の科学における業績が進展する
だろうか。
以上三点が、理系と文系の溝を深める結果となっている。
し
かし、こう考えてみよう。もし教育において、試験制度が一切なく、科目を指定されることも一切なく、いつでも自分が興味をもち必要だと感じたときにすべて
の学問分野を学び始めることができるものとしよう。また人間が徒党を組まず、その知的好奇心のみに従って自らの疑問を解決しようとし、その行為に他のすべ
ての人間も協力を惜しまないとしよう。そして細分化された学問の一覧などというものを示されず、自分が学んだ学問のみが自分が知っている学問であり、これ
とこの分野は関係ありそうだがこれは関係なさそうだなどという予断を一切排すことができるとしよう。この三つの仮定を導入しても学問はなりたつ。しかし、
この三つの仮定を導入すれば理系と文系という区別は雲霧消散するであろう。
ど
んなに理系と文系の溝が深かろうとも、それは学問の本質的な区分とはなりえず、単なる経験的、便宜的区別にしか過ぎない。もしひとが自分の好奇心と学問上
の関心とに従って、そしてそれらのみに従って、いくつかの分野の方法論を習得し、自己の疑問の手掛かりとなる知識を蓄え、そしていくつかの分野で、もしく
は自分が新しく切り開いた分野で何らかの足跡(新事実の発見、理論や世界観の提唱、深い理解に基づいた教科書や入門書の執筆etc)を
残したとしよう。そのとき、その足跡の残る分野を後から理系化文系かいずれかに分類してみる。理系のみ、もしくは文系のみであることもあろうが、その両方
に、その学者のかかわった分野が見出されることもあるに違いない。数学や論理、もしくは言語、これらは人間の思考にほとんど死活的に重要なものなので、ど
れかが全く欠けているような学問における活動を私たちは想像することさえ困難である。しかし、この主張はひとまず取り下げる。学問において文理の区別は本
質的ではなく、越境はいつでも可能だということを納得してもらえればそれで十分である。Ref「Yoshida_2011_Tsukukoma.pdf」(吉田輝義『現代数学のめざすもの』)
文理の区別は便宜的な分類にすぎない。にもかからわずそこに対立があるとすれば、それは学問上の対立ではない。では何の対立か。それは今まで見てきたとおり、人間の利害関係にかかわる対立である。
理系と文系の対立が引き起こす歪み
ここで、議論を再び現実の世界、理系と文系とがはっきりと分かれ、互いに反目し掣肘さえし合う現在の状況へと戻す。
対立は政治的なものである。ならば、文理の対立を和解させるのは、学問的な努力というよりはむしろ政治的な努力である。それでは理系と文系と、一体どちらの側が力を持っており(闘争の主導権を握っており)、一体どちらの側が妥協して歩み寄りを見せる余裕があり、一体どちらの側がその政治的暴力をより反省すべき立場にあるだろうか。
どちらの側にも強みがあり、妥協の余地があり、反省すべき立場にあると言っておく。そのうえで、私は敢えて、それは理系であると主張する。
理
系にも弱みがある。目につくのは、この世界の美しさ、豊かさを無味乾燥な数式や概念に帰着させているといった非難で、詩や小説やその他芸術に対して科学は
分が悪い。数学や自然科学は世界の豊かさを損なうどころか、この世界の奥深さを、芸術とは別の側面から教えてくれるという論調には私も強く肩入れしたい。Ref「R.ドーキンス『虹の解体』」「大森荘蔵『知の構築とその欺瞞』」
し
かしそのような文学の世界を除けば、今や理系の学問はいたるところで勝利の凱歌をあげている。数学や自然科学は知識を積み上げ体系を作り上げ、それを応用
した技術は大きな成功をおさめ、私たちの生活を大いに「進歩」させ社会を大いに変革した。逆に私たちの生活を大きく支配し社会の構造を形作った哲学や人文
科学は、近代的な理想主義の破綻とともに自らの手で知識を切り崩し体系を取り壊し、ついに私たちはそのようないかめしい思想がなくても(逆にないほうが)社会を発展させていけると確信するに至った。
もちろんこれは文理の区別という色眼鏡を掛けた者にのみ見える光景である。だが色眼鏡を掛けた者にとっては如何ともしがたい現実である。
い
まや文系の多くの分野は、尻尾を振って理系の威光を拝するか、やけくそになってテロルに走るか、徹底的に知らぬふりを決め込むか、とにかくとても悲惨な状
況である。経済学は数学の、社会学は自然科学の、心理学は生物学の軍門に下った。思想界で勃発したサイエンスウォーズのテロルは逆に理系にやり込められて
しまった。文系の、とくにこういった分野の理系に対する関心は高く、そして浮き足立つあまり本来誇るべき達成を自らの手でどぶに捨てさえしているように、
私には見える。
理系はなぜ文系が分からないのか?私はそれにこう答える。それは理系に分類される学問の、すべてではないにせよ、主要な分野で成し遂げられた大きな成功(に見える)に
由来する、政治力の圧倒的優位が原因である。理系は自らの課題を理系分野の中で完結させることができる。少なくとも理系の多数派はそう信じることができ
る。その限りで理系は自らの内に安住することができる。理系はとりあえず理系のみに没頭していればよい。環境問題は“文明災”といわれるが、例えば地球温
暖化やエネルギー問題は人工光合成等々の科学技術で解決可能だと信じる科学者は多いだろう。自信を得た理系は更に、今まで文系の学問の課題と考えられてき
たものを理系の学問が肩代わりすることができると考えている。実際、今まで社会の多くの問題は技術の発展で自然と解消されていったではないか、と。理系は
その政治力によって、文系が分からなくても済むし、むしろ文系が分からないくらいの方が都合がいいのである。
だが私は、一部の経済学者が同僚を数学的技術において未熟だという理由で軽蔑し、一部の思想家が「科学的に正しい(間違っている)」「論理的に正しい(間違っている)」
という主張を理系のテクニカルタームで装飾しながら伝家の宝刀のごとくに使い、一部の心理学者が精神分析を非科学的な迷妄だと切って捨てることに強い憤り
を覚える。理系分野の成功にあやかろうと過度に科学の体系を模倣したせいで、一部の文系分野が自らの課題を見失いつつあることに強く心を痛めている。この
情況を看過することは、できない。
理系はどこで文系に譲歩することができるか
理系には次の点で文系に歩み寄る余裕があるはずである*。第一に、科学はその体系的、技術的成功をすべて剥ぎ取ってみれば基盤は案外脆弱であることを認める。(自然科学の範囲内で今のところうまくいっている方法を他の分野に適用してもうまくいくとは限らない)。第二に、論理的に正しい(間違っている)ということを分別なく使うのは危険であることを認める。(論理を問題にできるための前提を必ず確かめる、論理的真理とはトートロジーでありそこに意義はない)。
*私は、科学哲学は「科学についての哲学」というよりむしろ「科学をなすための倫理」にかかわってくると思う。科学哲学の命題はそれ自体として(哲学史的文脈の中で)重要なのではなく、自然科学とその他の分野との間で相互にコミュニケーションをとるときのたたき台として重要なのではないか。
そ
して、理系であっても次のように内省することは可能である。「なぜ私は理系を選んだのか?理系科目が得意だから?得意とはどういうことか?それは集団の中
で相対的に優れていたということではないか?では理系であり続けるということは、理系分野における自分の能力の相対的優位に安住するということだろうか?
それとも、理系であり続けるもっと別な理由があるだろうか?自分が理系であるからこそできる仕事が何かあるだろうか?」この譲歩と内省だけで、理系は文系
が分かるようになると、私は考えている。
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