ジョブズとゲイツ。アイデアを実現するマーケティング15年
先週は関西大学で、昨日は慶應SFCで、enchantMOONについて学生にプレゼンした。
関西大学の方ではかなり活発な質問や意見交換があったけど、慶應の子たちは恥ずかしいのか自分からはなかなか質問をして来なかった。聞くと、わりと面白い意見を持っているんだけど。
関西大学の米澤准教授も、慶應の増井教授も、どちらも僕の大切な友人で、科学者だ。
先月はMITに行って来て、ついでに先週は岐阜県で学会も見て来た。
最近、にわかにお勉強づいているのは、僕がいま、新しいアイデアを形にする仕事に取り組み始めているからだ。
情報を収集し、分析し、予測し、計画する。
綺羅星の如く輝く才能を持った科学者たちのアイデアは、素晴らしいものだが、しかし市場ではなく学会の想定する「好ましい世間」を想定している。
こうした分野でやたら多いのは「高齢者向け」「バリアフリー実現」といったお題目で、高齢者向けの研究が本当に高齢者に向けて作っているわ けではない。高齢者にも使えるならそれ以外の人にも使えるだろうというだけの話だ。ただし「面白いから」では論文にならないので、あえて「高齢者向け」と いう社会貢献っぽいキーワードとアングルを用いてるに過ぎない。
想像力がないとこうした研究発表から現実の製品に繋げる発想を生み出すのは難しい。
こうした様々なアイデアの種から、実際に製品を創りだす作業をマーケティングと呼ぶことにしよう。
マーケティングという言葉は、多くの場合、酷く誤解されている。
「アンケート調査ですか?」
という答えが返ってくることが多い。
しかし「マーケティング」は「マーケット」にingをつけたもので、動名詞だ。日本語にむりやりすれば「マーケットする」であり、これはマーケット(市場)を創りだすことに他ならない。
僕が「科学的アイデアの製品化」を開発とは呼ばず、マーケティングと呼ぶのは、それが本質だからだ。
マーケットが存在しないところに向けた製品は、製品とは呼べない。
あるモノが、製品と呼ばれるためには、マーケットがなければならないのだ。
つまり、その製品のための市場を自分で創りだす必要があるのである。
それを僕はマーケティングと呼んでいるわけだ。
マーケティングの基本は、ニーズの発掘である。
ニーズを発掘するためにアンケートが用いられることがあり、これがマーケッター(マーケティングする人の意)以外の人に見えるマーケティングの数少ない特徴であるため、マーケティングがアンケート調査と誤解されることがある。
しかしそれはマーケット・リサーチ(市場調査)であって、マーケティングの前段階にあるものだ。
僕は今まで様々な製品をマーケティングし、売って来たが、アンケートをとったことは一度も無い。
アンケートをわざわざ自分でとる必要はないし、アンケートによって人々が内に秘めた真の欲望を読み取ることはほとんど不可能だからだ。
マーケティングとは、今存在しないニーズを発掘することが肝要である。
たとえば、1999年、携帯電話は白黒で、やっとインターネットに接続されるようになった。
それ以前にNTTドコモが行ったアンケート調査では、携帯電話のインターネット機能へのニーズは3%程度しかなかった。消費者は携帯電話にインターネットが接続されることの本当の意味を全く理解していなかったのだ。
アンケートに答えるときの心理状況と実際の購買行動の乖離という問題もある。
例えば、「かつて10億円したクレイスーパーコンピュータ並の性能のCPUを持ち歩きたいか?」と聞いたら、そんなものはいらないと誰もが思うだろう。しかし現世代のスマートフォンは、 全てその性能を満たしている。矛盾するのだ。それどころじゃない、今のコンピュータは、たとえばCPUが非力と言われるenchantMOONでさえ、ク レイのスーパーコンピューターより高速なのだ。しかしユーザはそれでは満足してくれないのである。もっといい世界を知ってしまったから。
これだけの欠点があるにも関わらず、アンケート調査が実施されるのは、少しでも実態に近い数値を知っておきたいからだ。しかしアンケート調 査の結果を重視していたら、革命的な商品は作れない。アンケート調査をするなら、設問の設定が何よりも大事で、内なる欲望を暴き出すようなものでなければ ならない。
アスキー総研が発行しているMCS(メディア・コンテンツ・サーベイ)はそうしたアンケート群の中ではかなり優れた統計である。
これはユーザに「○○が欲しいですか?」なんていうマヌケな質問はしない。
「あなたが見てるテレビ番組はどれとどれですか?」と聞くだけだ。
しかし、あるテレビ番組を見ている人が、別のWebサイトを見て、さらにある漫画と映画を見ている場合、その人が求めている内なる欲望を想 像することができる。実態を伴った人々を具体的に想像することができるような優れた市場調査と言えるだろう。しかしMCSそのものはマーケティングではな い。あくまでもマーケティングのためのツールである。
アンケート調査の塊で作られているのが日本のいわゆるガラパゴスケータイと呼ばれていた頃の携帯電話群だ。日本ではマーケティングという言 葉があまり正しく理解されていないことが多い。大企業ほどその傾向が強い。それは、今大企業になってしまっている会社では、本質的なマーケティングを意識 的に行わなくても、高度経済成長期の景気でものがそこそこ売れるようになってしまったからだ。
いわば無意識のマーケティングが行われていたのである。しかしアンケートに頼り切る世界からは決してiPhoneのようなものは生まれない。
先月売れた携帯電話の75%がiPhoneだったそうだ。
もはやiPhoneは国民的商品と言って良いだろう。
iPhoneを創りだしたスティーブ・ジョブズは鏡の前でマーケティングしてると陰口を叩かれていた。主にMacintoshを作った頃の話だけれども。
たとえば初代のMacにはキーボードにカーソルキーがない。
なぜならMacはGUIを採用した初めての一般向けPCであり、Macにおいて位置を指定する方法はマウスを使う、というコンセプトを徹底していたからだ。
また、シンプルな操作を目指してマウスにはボタンを一つしか認めなかった。
こうした過剰な細部への拘り、頑固なポリシーは、とても大きな批判を浴びた。
Macの売れ行きが不振だったのも仕方が無い。最初こそ売れたものの、しばらくすると売れ行きが鈍り始め、ついには大量の在庫を抱え、赤字となった。
Appleを追放されたジョブズが次に開発したNeXT CUBEにはマウスボタンが二つある。ジョブズはすぐに誤りに気付いたが、興味深いことにAppleは、自ら追放したジョブズの言った「ボタンは一つだけでいい」という教条を守ろうとした。そしてとても奇妙なことに、MacOSは右クリックをサポートした。サードパーティの マウスは右クリックが使えるようになった。けれどもApple自身はジョブズが復帰してマジックマウスを発表するまで、ついぞ右クリックを採用しなかっ た。ちなみにマジックマウスですら、右クリックではなく人指し指を浮かせた状態でのクリックという、かなり変則的なクリックをしなければならない。
自ら架した教条が首を絞めている例である。ただしいいところもあった。タッチセンサーをマウスに適用したので、Microsoftのホイー ルよりも自由度の高い操作性を実現できた。ただしMicrosoftがマウスにホイールを採用したのはマジックマウスが発売される13年も前だが。
ここにも教条主義的なAppleの考え方と、実利主義的なMicrosoftの考え方の対称性が見て取れる。
ジョブズは一度決めた哲学を出来る限り守ろうとするが、ゲイツは哲学に拘らず、手っ取り早く実現できる方法を再短時間で成し遂げる。84年の時代では、MacintoshのようなGUIは時期尚早過ぎたし、96年にWindows95が成功した時代では、一つボタンのマウスに拘泥するAppleはいかにも愚鈍に見えた。ゲイツはマウスに機能を次々と追加し、マウスの革新を起こした。どちらが正しいというわけではない。どちらも正しいマーケティングを行っていた。
教条に共鳴する顧客を捕まえるAppleと、実利を求める顧客を満足させるMicrosoft。その結果、Appleは最後は教条主義によって窮地に陥いることになる。本当の天才であるジョブズの帰還を待たなくてはならなくなった。
初代Macintoshと同時期に発売されたWindows1.0はどうだっただろうか。
全く、語る値打ちも無いと僕は思う。
中途半端で、惨めな代物だ。エンジニアだけが集まって作ると、こういうものになってしまうという見本だったと思う。もちろんWindows1.0にも同情すべき点はある。なにしろ当時のIBM PCときたら非力な16ビットCPUしか持ち合わせていなかったのだ。ビットマップ処理だって満足にこなせない。パソコンとしては大袈裟な68000を採用したMacと同じようなことをするのはとても困難だっただろう。
Windows1.0は、マーケティングに失敗した。と、僕はおもう。誰も欲しがらないものをMicrosoftは作ってしまった。めちゃ くちゃな批判を浴びようと、Macintoshは喝采され、一部の人に熱狂的に受け入れられた。その熱狂が、批判的な人々も呼び寄せることになった。
ビル・ゲイツはWindows1.0を真面目に使ったことが無かったのだと思う。実際、まともに使えたとは思えなかった。当時のMicrosoftはMS-DOSというコマンドラインのOSがヒットしていて、そのマーケティングを行ったのはもっぱらIBMだったから、Microsoftにマーケティングの経験はほとんど無かった。
ジョブズは自分の創りだした製品を徹底的に使い、改良を重ねて言ったが、Microsoftの開発者がドッグフードを食べる(自社製品のβ 版を実用的に使うこと/バグや足りない機能があるとストレスが溜まるためユーザの気持ちを理解できる)習慣を得るのは、1991年まで待たなければならな かった。そう。ゲイツは鏡の前でマーケティングするよりも拙い方法を採用していた。彼らは想像上の顧客に対してマーケティングしていたのだ。そしてただ PCでウィンドウシステムを動かして遊んでみたいだけの顧客などどこにも存在しなかったのである。
この「想像上の顧客に対してマーケティングしてしまう」という現象は、ゲイツだけを責めることは出来ない。アンケート調査に頼った日本メー カーのマーケティングも、だいたい似たようなものだ。アンケートとは統計に過ぎないのに、アンケートから想像される「理想の顧客像」を「ペルソナ」と呼ん で想定し、その人が買いそうなものを作る、というやり方は、未だに日本はもちろん世界中で用いられているマーケティング手法だ。
しかし、ペルソナによるマーケティングは、実際に実態を伴った人物にインタビューすることでしか本当の意味で成功できない。もしくはペルソナが偶然にも企画者自身である場合しか有効に作用しないだろう。
これは例えば漠然と女の子にモテようとする行動と似ている。
平均的な女の子を想像して、その子にモテようとどれだけ自分を飾っても、現実の女の子にモテるようには決してならない。そのようにして生ま れた都合の良い人間像は、キメラのようなものであり、実態とかけ離れている。当たり前だが、人間は一人一人が個別のパーソナリティを持っている。パーソナ リティを構成する全ての要素、つまり容姿、趣味、性格、教養、家族構成といったものは互いに密接に連動しており、二つと同じものはない。ある行動を好む人 が、同時に別の行動を忌避するのは人格に原因がある。にもかかわらず、頭の中で実際には存在しない人物モデルを作り上げ、都合がいいようにところどころ修 正を加えた人間は、結局のところどこにも居ない人間ということになる。
どこにもいない人間に対してものを作っても、現実の人間に共感を呼べる可能性はほとんどゼロに等しい。それならばせめて、自分が心から欲する製品を作った方が、つまり鏡の前で自分一人でマーケティングしたほうが遥かにマシだ。
製品開発の現場では、様々な無責任な意見が飛び交う。これはゲームでもデバイスでもなんでも構わない。ある成功した製品の一部分の要素を 使って別の成功した製品のまた別の要素を組み合わせても、全体としては誰が欲しいものになるのかわからない。総合的に自分が心の奥底で欲するものを、欲す るような形にしてまとめあげなければならない。
失敗例を挙げれば、NTTが作ったLモードがある。
あれは見事にまずいものだった。失敗のお手本のようなものだ。
子会社のドコモがiモードを成功させたので、同じ理屈で固定電話にもインターネット機能を組み込もうという安易な発想。家庭なら主婦がメインユーザーになるだろうから、主婦を責任者にして企画を立てさせようという無責任な人事。
iモード成功の立役者がリクルートのとらばーゆ元編集長だから、ターザンの編集長を連れて来ようという、何もかもがiモードの劣化コピーのような人事体勢。誰一人として、それを真面目に家庭で使う人間がいるのか、家庭にどのような情報ニーズがあるのかをリアルに想像できず、それに巻き込まれたメーカーやコンテンツプロバイダーは大変な被害を被った。巻き込まれる側も自業自得だと思うけれども。
最悪なのは、Lモードに加入するためには、なんと郵便を使わなければならないという制度上の問題だった。どこの誰が必要もないサービスに加 入するために封筒に個人情報を書いてポストに投函するのだろうか。NTTが主導すればみんな従うはずという消費者を舐め切った製品だったと思う。ちなみに 僕は仕事でLモードに加入したが、郵送した書類に対する返送が、なんと手書きで帰って来た。なかなか返って来ないと思ったら宛名をわざわざ手書きしていた のだ。消費者の利便性よりも、社内の雇用創出を優先していたのだ。これはダメだと思った。
しかも、信じられないかも知れないが、これは2001年にスタートしたサービスなのだ。
21世紀に固定電話向けの情報配信サービス。既にWindowsXPがあり、OSXがあるのに、誰がこんなものを使いたがるだろうか。利用 するには、なんと時間制従量課金されるのだ。ADSLがとっくに普及していて、おじいちゃんが「インターネットください」と電気店に現れるようになってか ら既に5年も経っていたのに。
結局、「主婦はPCを扱えるはずがない」という妄想上の顧客に向けてマーケティングをしていたのである。アンケートのとりかたもまずかっ た。その妄想が先にある以上、「インターネットをもっと手軽に使えたらいいと思うか?」と聞けば、「はい」と答える人間が圧倒的だろう。でもそれは、固定 電話に劣化したiモードを載せることではない。似たようなことがしたければ、遥かに便利で料金も安いiモード携帯を既に数千万人が使っていたと言う時代で ある。
話をもとに戻そう。
ゲイツが本当に偉大だったのは、Windows1.0のマーケティングに問題があったことに気付いたことだった。Windows1.0の売 りは、安いということしかなかった。しかしいくら安くても、必要のないものを人は買ったりはしない。仮に買ったとしても、毎日使ったりはしないのだ。当た り前である。
そもそもキラーアプリケーションがないのにOSが売れるわけが無いのだ。しかしゲイツがこれに気付いたのは、偉大な飛躍と言えた。
Macintoshは批判を受けながらも熱狂的なユーザーやサードパーティが既に様々なアプリケーションを出していた。Microsoft でさえもAppleから見れば無数にいる熱心なサードパーティのひとつに過ぎなかった。MicrosoftがMacintoshに展開して成功していたの は何と言ってもExcelだった。Macintoshのキラーアプリケーションを作っていたのはMicrosoft自身だったのだ。
そこでExcelをPCで動作させるためにWindowsを機能拡張した。それがWindows2.0とExcel2.0である(Excel1.0はMacintoshにしか対応していない)。
彼らはマーケティングを強く意識し、Excelだけでは不十分だと気付いた。そこで開発したのがWindows3.0とWindows3.0に対応したWordとExcel、そしてPowerPointだった。それらをまとめてMicrosoft Officeとして売り出した。CPUも32ビット化してようやくMacintoshと同じ土俵に登ることが出来た。
これで初めて、Windowsの上だけで何かしらの仕事めいたことができる環境が整った。
そしてついに、Windowsは成功への階段を登り始めたのだ。
Windowsが誕生してから、ブレイクするまで、実に5年の歳月が掛かった。完全にMS-DOSを置き換えるまでには15年を要している。ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの二人に共通していたのは決して諦めないことだった。
面白いのは、この二つの製品が全く同じ科学者のアイデアから派生したものであるということだ。
それがアラン・ケイのXerox Altoだった。
けれども、それをそのまま製品化することはできなかった。マーケティングされていないからだ。
そこで二人はそれぞれ自分のやり方で、ケイのアイデアをマーケティングすることを模索した。面白いのは、ジョブズはゲイツよりもより本質的にケイのアイデアを理解していたことだ。
ジョブズは後にAppleを追放されたことを「人生で最も良い経験だった」と語っているが、僕はなかなかその真意が掴めなかった。
しかし今振り返ってみると、彼はAppleを追放されるまで、ケイの真意に気付かなかったということを言っているのかも知れない。追放がなければNeXTが生まれることもなかったし、NeXTがなければOSXやiPhoneの成功はもっと有り得ない。
ジョブズの1995年のインタビューでは、Xerox Altoのうち、最初はGUIに目を奪われて、そのことばかり考えていた、と述懐している。しかしNeXTを始める時、自分が重要なものを見逃していたことに気付いたのだそうだ。それがオブジェクト指向とネットワークだった。
その前提で1985年のNeXTを振り返ると想像を絶するほどモダンなコンピュータである。今から28年前のコンピュータとはとても思えない。イーサネット(LAN)内蔵、オブジェクト指向言語Objective-Cを採用し、GUIでプログラム開発可能なインターフェースビルダー装備、OSは分散型UNIXのMachをベースとしたDarwin。
今日、増井先生の授業で、「なぜジョブズはObjective-Cを採用したのだと思いますか?」と聞かれた。興味深い視点だけれども、僕はこう答えた。「本当はSmalltalkを使いたかったけれども、AppleやXeroxとの関係があったのと、既に受け入れられていたC言語をベースにした方がいいと思ったのでしょう」と。NeXTはXerox Altoを本当の意味でマーケティングし、製品にしようとしたものだった。
ただ、ジョブズはNeXTのマーケティングに失敗した。
NeXTはうっとりするほど素晴らしいものだと誰もが認めるマシンになったが、あまりにも高価なため、一般にはほとんど売れなかった。気軽に買えるようなものでもなかった。
窮地に陥ったジョブズが行った最後の、そして最高のマーケティングは、NeXTのラベルを貼り替えるというものだった。
そう。Mac OSXという名前に。
Mac OSXというラベルに貼り替えられたNeXTは、凄まじかった。しかしあまりにもモダンなため、やはり最初は消費者から諸手をあげて歓迎されたというわけでもなかった。これはさらに洗練され、今やiOSと呼ばれる、世界で最も普及したOSに昇華している。
ジョブズがNeXTを成功させるまでに、15年も要しているということになる。
ゲイツはMS-DOSとWindows3.0の成功によって、自分が何を見落としていたのか気付くのが遅れた。
1995年にようやくWindows95がイーサネット(LAN)に標準対応した。NeXTに遅れること10年。
今思い出しても信じられないことだけれど、Windows3.0まではインターネットを使うには誰かが使ったシェアウェアを インストールして使わなければならなかった。しかしシェアウェアはインターネット上にあり、インターネットに接続できない状態でインターネットに接続する ためのソフトをインターネットからダウンロードしてこなければならないという馬鹿げた難問に挑まなければ、誰もWindows上でインターネットを使うこ とが出来なかった。
NeXTは当初からインターネットをサポートしていたため、そこでWWWとHTMLが発明された。
世の中にMacOSとWindowsしかなかったら、我々はWWWを手に入れることは無かったかも知れない。それはとんでもないディストピアだ。
プログラミングがしやすかったので、テキサスのジョン・カーマックはNeXTを使って後にファースト・パーソン・シューター(FPS)と呼ばれることになるゲームのプロトタイプを作り、それはMS-DOSにポーティングされ、DOOMと呼ばれるゲームになった。今や世界で売れているゲームの大半はFPSだ。20世紀におけるゲームと呼ばれるもののスタイルを決定的なものにした。
彼らがこの間、血眼で取り組んでいたのは、まさしくマーケティングそのものだった。
どのような状況になっても決して挫けず、アイデアを洗練させることを継続した。
そうしなければ、人類は進歩できないからだ。
想像してみよう。
もしゲイツが諦めていたら? もしジョブズが道半ばで破産していたら?
決して今のような世界にはなかっていなかったはずだ。
増井先生が夕飯のとき、こんなことを言っていた。
「おれ、気がつくとUNIXとさ、Emacsと、TeXしか使ってないんだよね。それってさ、みんな凄い偉大な人たち、偉人が作ったモンに生かされてるってことなんだよね。偉人って凄いなーって、ほんと思ったんだわ」
それを言ったら僕だって毎日増井さんが作った、iOSのIMEで大量の文章を打ち込んでる。
携帯電話の時代は、増井さんが作った予測変換で、やっぱり毎日大量の文章を打ち込んでいた。
偉人が作ったものだから使っているのではなく、みんなが当たり前のように使うものを作ったから偉人なんだと思う。増井さんは、僕の中では既に充分、偉人だよ。
科学者は新しいアイデアを考え出す。
しかし、それを誰にでも使えるような形にできるのは、我々、起業家だけだ。
どちらか一方でもいけない。
科学者と起業家は手を取り合って一緒に人類を前進させる使命を持っているのだ、と思った。