電気グルーヴのメンバーにして、日本を代表するテクノDJである石野卓球。彼の人生は、並外れてマニアックで熱心な音楽リスナーとしての人生でもあ
る。DJとしてもリスナーとしても、いまだ止むことのない情熱で、毎月大量のレコードを買い続けている石野に、リスナーとしての半生を語ってもらった。
――最初に買ったレコードは?
石野「オルガンの発表会の帰りに買ってもらった『ドロロンえん魔くん』の7インチ。保育園のときだね。自分の意志で買ってもらったものとしては、それが初めてかな。そのあとはピンク・レディとかたいやきくんとか。自分のお金で買ったのは、バグルス(※1)か、ポール・マッカートニーの『カミング・アップ』のどっちか。78年ぐらいかなあ」
――では、一番最初にポップ・ミュージックでガツンときたのは何だったんですか。
石野「リップス(※2)の『ファンキー・タウン』。親戚のお姉ちゃんのとこに行ってよく聴いてた。そのお姉ちゃんは高校生なんだけど、当時のヤンキーでさ、すこいディスコ好きだったの。夜な夜なディスコに遊びに行ってて、家にはディスコのレコードが一杯あって。その中でも『ファンキー・タウン』が一番ピンときて、そればっか聴いてたね。もともと静岡はディスコ文化が盛んなんだよね」
――石野卓球のダンス・ミュージック嗜好を育む土壌があったわけですね。
石野「ラジオの『オールジャパンポップ20』っていう洋楽チャート番組が情報源だった。 ディスコとかニュー・ウエイブ(※3)の走りみたいなものがよくかかってて、そういうのがピンときたね。毎週カセットに録音して、今週はバグルスが1ランク上がった下がったってとか一喜一憂してた。小学校高学年ぐらいかな。小学生だから、音楽誌っていうものも、存在すら知らなかったし、兄貴がいなかったから、年上のカルチャーを知る機会もあまりなかった。兄貴がいる友達から情報を得るって感じ。YMO(※4)もそうだったね。ラジオで『テクノポリス』を聴いて、友達の家に行って友達の兄貴にこれ何って聞いたら、イエローマジック・オーケストラだよって。あ、これがそうかって。それからYMOにはまったね」
――YMOのどこに惹かれたんですか。
石野「電子音、というかシンセサイザーの音に惹かれたんだよね、その前ぐらいに、 ASHRA(※5)の『Deep Distance』(『NEW AGE OF EARTH』収録)がラジオでよく流れてたの。シンセがフューチャリスティックな時代だったから、新しい音楽としてやたらシンセが使われてた。『クイズ ヒントでピント』とかさ(笑)。あれレコードになってないんだよね。さすがのまりん(※6)も持ってなかった(笑)」
――ギター主体の普通のロックみたいなものは聴かなかったんですか。
石野「“友達の兄ちゃんが聴いてるもの”という感じだった。時代が違うっていうかさ。俺 の中では南こうせつと同じフォルダに入ってる(笑)。世代が違うっていうか。それでYMOを知って、シンセサイザー好きに拍車がかかった感じ。より具体的に自分の好みを自覚したっていうかね。一世代前の人たちのビジュアル・イメージにあるような、ギターを持ってないってところに惹かれた。オルガンを習ってたからキーボードの方が身近だったし、家にあるもので真似できたからね。日本人だけどそれまで聴いていた洋楽に近い感覚もあった。南こうせつ要素がないっていう(笑)」
――当時はニューミュージックが全盛のころですよね。
石野「圧倒的に人気があったけど、でも俺は「こっちじゃねえのになあ」って言うのがあったから。そういう要素がまったくなかったからねYMOは。すごい洗練されてて、未来的な感じがした。テレビもあまり出てなかったから顔も知らなかったんだけど、ある日『夜のヒットスタジオ』で動いてるYMOを見たら、ドラムが人間でヒゲ生やしてるんですごいがっかりした(笑)。うわっ、人間だったのかよって(笑)。もう頭の中はロボットがやってるみたいなイメージがあったからさ(笑)こっちの勝手な思い込みなんだけどね。で、学校にも足踏みオルガンとかあ るじゃん。それでYMOの曲を弾いてるとYMO好きなやつとか集まってきて。学校には派閥があったんだよ。横浜銀蝿派とYMO派(笑)。銀蝿のほうはヤンキーが多くて、YMOの方は今で言うオタクみたいな、おとなしめの、草食系的な。俺、どっちとも友達だったから。音楽以外で遊ぶならヤンキーの方が楽しい し、音楽の話はオタクのほうが楽しいし」
――後で言う、X JAPAN系と渋谷系みたいなもんですかね。
石野「そうそう(笑)。YMOと並行して洋楽のポップスも聴いてたんだけど、最初に買っ た洋楽のLPがビリー・ジョエル(※7)なんだよ、『グラスハウス』。中学1年のとき。近所のレコード屋の輸入盤フェアに行ったんだけど、クラフトワーク (※8)が欲しかったんだよ。江口寿史のマンガでニュー・ウエイブのアーティストがよく出てて、ディーヴォとかYMOとか。そこでクラフトワークも知ったの。でもクラフトワークもディーヴォも売り切れで。仕方なくビリー・ジョエルを買った。ジャケット知ってたから(笑)。そんで何度も聴いて……そのころって同じレコード何度も聴いて、なるべく好きになろうとするじゃない? 次に行ったときもディーヴォとクラフトワークがなくて、仕方ないからジャケットが似てるからゲイリー・ニューマン(※9)の『テレコン』買ってきたっていう(笑)。で、そのあたりで坂本龍一さんがラジオ番組を始めて(『サウンドストリー ト』1981年〜1986年)、そこでニュー・ウエイブがすごくかかって、そこから一気に広がっていった感じかな」
――なるほど。
石野「で、どんどん掘っていくじゃない? で、子供だから極端なほうがおもしろいじゃない? いいのか悪いのかわからなくても極端なほうがいいと思って。で、TG(スロッビング・グリッスル)(※10)とか、そういう(アバンギャルドな)方 にどんどん行ったって感じかな。(アインシュトゥルツェンデ)ノイバウテン(※11)とかさ」
――ニュー・ウエイブは何が魅力だったんですか。
石野「だからニュー・ウエイブを聴いて、これなら自分たちでもできるというのはあった
ね。一番でかかったのは、『ほぶらきん(※12)』かな。高校になって自分でシンセを買って、バンドを作って人前でやりだしたんだけど、『ほぶらきん』を
聴いて、これは自分たちでもできるし、こういう人たちがプロとしてやっていけるんだったら、全然うちらでもいけるぞ、これで食っていけるぞって思っちゃった。だって『人生(※13)』を作ったとき、俺達はたまたま地方の高校生だからディストリビューションに問題があって、みんなに伝わってないだけだと思ってたもん。そこががちゃんとすれば、一気にチャート1位だって本気で思い込んでたからね(笑)。なんたって田舎の高校生だからね!」
――YMOのあとはどんなものを聴いてたんですか。
石野「デペッシュ・モード(※14)とかのエレポップとジャーマン・ニュー・ウエイブか な? DAF(※15)とかパレ・シャンブルグ(※16)とか、リエゾン・ダンジェルース(※17)とかね。特にリエゾンは、シーケンサーのプリミティブな使い方っていうのが、今のテクノに通じるものがあって。リズムがすごく自由で、今聴くとすごく新鮮に聴こえる。リズムマシンを使わないで全部シンセで作る、フル・エレクトロニックなところも好きだった。ドイツのバンドなのにバンド名がフランス語で、スペイン語で唄ってたり。そのハイブリッドな雑種っぽさって、地方の高校生にとってみれば、完全に未知の世界じゃない?」
――今聴いても狂ってますよね。
石野「素晴らしいよね。音楽を始めるにあたってすごく影響を受けたし、未だに参考になるし、今聴いても発見がある。これとか、クラフトワークの『コンピューターワールド』とか。何百回何千回と聴いてると思うんだけど、そのときの体調によって 聴こえ方が違うし、こんなとこあったんだって気づくんだよね」
――『人生』の結成の経緯は?
石野「人生の結成は高校2年。ほぶらきんとかレジデンツ(※18)とかデア・プラン(※ 19)とかに惹かれて、ステージで必ずしも楽器を演奏する必要がないっていう方向にどんどんいって。音楽が二の次ってわけじゃなく、ただ普通に音楽だけを 生真面目にやってるよりは、そういうの(パフォーマンス的なもの)が乗っかったほうがおもしろいと思ったんじゃないかな。そっちの方がこっちも楽しいし、 伝わりやすい」
――そうこうしているうちに、有頂天(※20)のケラさんに認められて。
石野「高校生で、静岡でやってても、あんま広がりがないじゃん。高校生のバンドにしては 注目はされてたんだけど、もっと広げたいなと。で、有頂天のことは全然知らなかったんだけど、静岡に来るっていうから『DOLL』で調べたら、ナゴムって いう変わり者のバンドばかり集まるレーベルをやってるらしいと。でライヴハウスの人に頼んで前座をやらせてもらって。そのとき初めてケラさんと知り合っ て、次にケラさんが来る頃には、もう“インディーズブーム”みたいになってて。86年ぐらいかな。で、3回めに一緒にやったときに、うちからソノシート出さない?って。それが高校卒業間近だったかな。どっちにしろ東京に行くつもりだったし、こりゃ渡りに船だってことになって」
――その頃にはもうプロになるつもりで。
石野「何の根拠もなくね(笑)。思い込みのみ!今考えると恐ろしいけど、他のことで食ってくとかまったく考えなかったね。怖いよねえ(笑)。有頂天を見て“プロだなあ、完成されてるなあ、でも彼らにないものがひとつだけある、俺たちの勢い だ!”って(笑)。恥ずかしいよねえ(笑)。17歳とかだからねえ。大目に見てよ!(笑)」
――で、上京して。
石野「バイトしながらバンドをやってたんだけど、ひとつだけ良かったのが、上京してから チケットの手売りってやったことがないんだよね。ナゴムのイベントに出してもらってたから、売る必要がなかった。恵まれてたよね。手売り一生懸命にやって るやつは馬鹿だと思ってたからね。友達だけに見せてどうするんだと。それがいやで東京出てきたのに。あと、東京には、自分たちみたいなバンドしか出てない ライブハウスが一杯あると思ってたのね。『人生』みたいなバンドが。田舎もん丸出しなんだけど(笑)、こりゃ負けられねえなって思ってやってきたら、意外にそうでもなかっていう。当たり前だよね。でも情報が入ってくるじゃない? ばちかぶり(※21)のステージで(田口)トモロヲさんがウンコしたとかさ (笑)。負けられねえ!って(笑)」
――そのころはどんなものを聴いてたんですか。
石野「ミニストリー(※22)の『トゥイッチ』とかリヴォルティング・コックス(※ 23)とか。エレクトリック・ボディ・ミュージック(※24)だね。あれを聴きながらバイトに行ってたのを憶えてる。でもその頃はお金が無くて新譜をあまり買えなかったの。あと自分の活動が忙しくて。だから自分の人生で一番新譜を聴いてなかった時期だと思う」
――そうこうするうちに『人生』は解散してしまうわけですが……。
石野「そのころバンド・ブームでさ。俺らもバンド的な方向に行ったんだよね。でも、その先の展望が思い浮かばないっていうのがあってさ。なおかつ、そのころアシッド・ハウス(※25)とかヒップホップとか、いわゆるダンス・ミュージックがす ごくおもしろくなってて。それは人生の中では出来ないなって思った。それには、余剰人員が多すぎるしさ(笑)。その中で唯一残るのが瀧なんだけど(笑)、それもあって解散した。このままのスタイルでやっていても先はないなと」
――あわよくばバンド・ブームに乗ってやろうって意志はあったんですか。
石野「あった。でもやっぱちょっと違ったんだよね」
――もしブームに乗ってデビューしたとしても、あまりいい結果にならなかったような気がします。
石野「うん、そう思う。それに自分の音楽的な趣味がもう、そっちじゃなかったからね。既 にジョン・ライドン(※26)とアフリカ・バンバータ(※27)の『ワールド・ディストラクション(※28)』とかさ。ランDMC(※29)とかね。 ニュー・ウエイブに感じてたラジカルな感じが、ダンス・ミュージックのほうにシフトしてた感じ」
――それは『人生』では対応できないし、もっと新しいことがやりたかった。
石野「そうそう。で、それをやるには、『人生』の奇抜な格好では伝わらないだろうなって いう」
――そういうときに出会ったのが808ステイト(※30)。
石野「そうそう」
――人生と電気の、非常に微妙な端境期に出会った。
石野「うん。シスコ新宿アルタ店で買ったんだよね。あそこでKLF(※31)も買った し。テクノものって、当時はあそこぐらいしかなかったから。で、これ聴いたときに、DX-7とかリン・ドラムみたいな生音の模倣的な電子音楽と真逆なものが久しぶりに出てきたっていう感じで、新しい音楽なんだけど、すごい懐かしい感じがしたの」
――リエゾン・ダンジェルース(※17)と808はなんとなく通じるものがありますね、今聴くと。荒々しくて、プリミティブで。
石野「でしょ。どっちもポリリズムでさ。どっちもドラムの音はリズム・マシンを使わず全部シンセで作ってる。当時は何が起こってるのか知らなかったからさ、アシッド・ハウスとかに関しても。だからすごいショックだったし、勇気づけられた」
――自分がやりたかったことをやってるなって感じがあった?
石野「うん、そうだね。励みになった。そのころ(88年)テクノって単語が一番古い、ダ サいとされてた時期でさ。今で言うクラブのテクノじゃなく、テクノ・ポップの時代遅れのイメージ。そのときに出てきたこれとかアシッド・ハウスって、ほんと衝撃的だった。それまでエレクトロニック・ミュージックがどんどんゴージャスな方向に行ってた時期に、10年以上前の機材で、チープな音で、機能性のみを追求して、チープな楽器ですごいことをやっている。それこそ『ほぶらきん』に受けた衝撃に近い。これとかアシッド・ハウスを最初に聞いたときに、レジデンツとかを最初に聞いたときを思い出して。聴いてはいけないものを聴いてしまったというか。たまたま覗きこんで“あっ、ヤバ!”みたいな(笑)。変な儀式見ちゃったって感じ、たまたま迷い込んだジャングルの奥で。ヤバイものを聴いてしまった。うわーこの先なげえぞ〜って(笑)、これを見たらもう後戻りでき ねえなと」
――808を聴いたことが、電気結成のコンセプトになった?
石野「うん、もちろんこれだけではないけどね。そのうちのひとつではある。このとき聴いてたのは、KLFとかアダムスキー(※32)とか、あとはブリープテクノとか。あれもびっくりしたね。LFO(※33)とかスウィート・エクソシスト(※ 34)とか。全部アナログ・シンセの音で。ワープの初期」
――これを聴いて石野卓球の人生が決まったところも。
石野「うん、すごくでかいと思います」
――電気のファーストを、808のグレアム・マッセイがプロデュースする予定だったんですよね。
石野「そうそう。でもちょうど808が売れちゃって、できなくなっちゃった」
――その後はどんなものを聴いてました?
石野「DJでベルリンに行くようになってからのベルリンの音楽がでかい。ベルリンのレイ ヴ音楽もそうだし、あとはアンダーグラウンドなクラブの音楽もね」
――ところでDJ用の音源はやはりアナログで買うんですよね。
石野「そうだね」
――リスナーとしても、アナログに対する執着は変わらない。
石野「もちろん全然あるよ。手にとった実感があるし、音がいいからね。一番聴き慣れたメディアだし。CDでもいい、CDのほうがいいってジャンルもあるけどね。メジャーなポップスやロックはCDの方がいい。でもデータは滅多に買わないな。買う比率は(アナログ)レコード7割、CD2割、データ1割。DJの場合は買ったレコードをデータ化してCDに焼いて、両方持ち歩く。ハコによって変えている。今はレコード用じゃなく、CD用にチューニングされているハコが多いから。でもデータやCDだと、ハコが震えるような低音が出ないんだよ。レコードは、針がマイク代わりになって音を拾うからね。それにテクノの場合はレコードでしか出てない曲が圧倒的に多い。配信だけだと最新の動きについていけない。レコードで出してから配信になるから、遅いし」
――なるほど。
石野「レコードってあまりいいことないんだけどね。重いし場所とるし。でもリスナーとしてもアナログをついつい買ってしまうんだよね。最近は再発で180グラムの音がいいやつとか出てるし。『レコードストア・デイ』になると忙しくなるよねえ (笑)」
――地方に行ったときは中古盤屋めぐりとかするんですか。
石野「なるべく行くようにしてる。どうせならと、普段なら買わないやつも買っちゃった り」
――「旅行効果」(旅先だと、ふだん買わないものも買ってしまう)ですね。
石野「<ヴァイナル・オン・デマンド>っ て知ってる? ドイツの変わり者のオヤジがやってる再発レーベルなんだけど、ノイズとかミニマルウエイブ、シンセポップとか、それも超マイナーな、カセット2本しか出してないようなバンドの音源を掘ってきて、それを木箱入りの豪華アナログで再発してるレーベル。それを世界中の好きモノが買うんだけど、年会費6〜7万払うと、その年のリリースが全部送られてくるわけ。Tシャツ付き木箱入り、18枚組とかさ(笑)。いつ聴くんだよそんなもん、みたいな(笑)。もう4年ぐらい会員になってるんだけどさ、そこまで行くとフェチっていうか、音じゃないんだよね。マテリアルとして買ってるんで。聴こうと思えば音も出るっていう(笑)。買っただけで満足しちゃう」
――DJ用としてどれぐらいのペースでレコード買うんですか。
石野「毎週1回必ずレコード屋に行って、その週入ったやつは全部聴かせてもらう。それで買うのは週に8枚までって決めてる。それ以上買っても週末のDJで使い切れないから。残しても、翌週また新しいのが来るし、結局使い切れないで残ってしまう。それは仕事で使うもので、それ以外には、ロックとかポップスをネットなんかで、月に20枚ぐらい。あとはディスコ・クラシックの中古盤を夜中に酔っ払って買うとか(笑)」
――じゃあ言ってみれば、そういう生活をここ30年ぐらい……。
石野「病気だね(笑)。不治の病(笑)。その間、あまりリスニングのスタイルは変わらないね。幸いにも変えずに済んだ。これからも大きく変わることはないんじゃないかな」
Liaisons Dangereuses
いわゆるジャーマン・ニュー・ウエイブのバンド。音楽家としてすごく影響を受けたし、未だに発見があり参考になる。シーケンサーの使い方は今のテクノに通じるものがあるし、リズムが自由で新鮮。ボーカル以外は全部シンセで作ってる、フル・エレクトロニックな作りなのも大好き。
取材・文:小野島大/撮影:かくたみほ
――最初に買ったレコードは?
石野「オルガンの発表会の帰りに買ってもらった『ドロロンえん魔くん』の7インチ。保育園のときだね。自分の意志で買ってもらったものとしては、それが初めてかな。そのあとはピンク・レディとかたいやきくんとか。自分のお金で買ったのは、バグルス(※1)か、ポール・マッカートニーの『カミング・アップ』のどっちか。78年ぐらいかなあ」
――では、一番最初にポップ・ミュージックでガツンときたのは何だったんですか。
――石野卓球のダンス・ミュージック嗜好を育む土壌があったわけですね。
石野「ラジオの『オールジャパンポップ20』っていう洋楽チャート番組が情報源だった。 ディスコとかニュー・ウエイブ(※3)の走りみたいなものがよくかかってて、そういうのがピンときたね。毎週カセットに録音して、今週はバグルスが1ランク上がった下がったってとか一喜一憂してた。小学校高学年ぐらいかな。小学生だから、音楽誌っていうものも、存在すら知らなかったし、兄貴がいなかったから、年上のカルチャーを知る機会もあまりなかった。兄貴がいる友達から情報を得るって感じ。YMO(※4)もそうだったね。ラジオで『テクノポリス』を聴いて、友達の家に行って友達の兄貴にこれ何って聞いたら、イエローマジック・オーケストラだよって。あ、これがそうかって。それからYMOにはまったね」
――YMOのどこに惹かれたんですか。
石野「電子音、というかシンセサイザーの音に惹かれたんだよね、その前ぐらいに、 ASHRA(※5)の『Deep Distance』(『NEW AGE OF EARTH』収録)がラジオでよく流れてたの。シンセがフューチャリスティックな時代だったから、新しい音楽としてやたらシンセが使われてた。『クイズ ヒントでピント』とかさ(笑)。あれレコードになってないんだよね。さすがのまりん(※6)も持ってなかった(笑)」
――ギター主体の普通のロックみたいなものは聴かなかったんですか。
石野「“友達の兄ちゃんが聴いてるもの”という感じだった。時代が違うっていうかさ。俺 の中では南こうせつと同じフォルダに入ってる(笑)。世代が違うっていうか。それでYMOを知って、シンセサイザー好きに拍車がかかった感じ。より具体的に自分の好みを自覚したっていうかね。一世代前の人たちのビジュアル・イメージにあるような、ギターを持ってないってところに惹かれた。オルガンを習ってたからキーボードの方が身近だったし、家にあるもので真似できたからね。日本人だけどそれまで聴いていた洋楽に近い感覚もあった。南こうせつ要素がないっていう(笑)」
――当時はニューミュージックが全盛のころですよね。
石野「圧倒的に人気があったけど、でも俺は「こっちじゃねえのになあ」って言うのがあったから。そういう要素がまったくなかったからねYMOは。すごい洗練されてて、未来的な感じがした。テレビもあまり出てなかったから顔も知らなかったんだけど、ある日『夜のヒットスタジオ』で動いてるYMOを見たら、ドラムが人間でヒゲ生やしてるんですごいがっかりした(笑)。うわっ、人間だったのかよって(笑)。もう頭の中はロボットがやってるみたいなイメージがあったからさ(笑)こっちの勝手な思い込みなんだけどね。で、学校にも足踏みオルガンとかあ るじゃん。それでYMOの曲を弾いてるとYMO好きなやつとか集まってきて。学校には派閥があったんだよ。横浜銀蝿派とYMO派(笑)。銀蝿のほうはヤンキーが多くて、YMOの方は今で言うオタクみたいな、おとなしめの、草食系的な。俺、どっちとも友達だったから。音楽以外で遊ぶならヤンキーの方が楽しい し、音楽の話はオタクのほうが楽しいし」
――後で言う、X JAPAN系と渋谷系みたいなもんですかね。
石野「そうそう(笑)。YMOと並行して洋楽のポップスも聴いてたんだけど、最初に買っ た洋楽のLPがビリー・ジョエル(※7)なんだよ、『グラスハウス』。中学1年のとき。近所のレコード屋の輸入盤フェアに行ったんだけど、クラフトワーク (※8)が欲しかったんだよ。江口寿史のマンガでニュー・ウエイブのアーティストがよく出てて、ディーヴォとかYMOとか。そこでクラフトワークも知ったの。でもクラフトワークもディーヴォも売り切れで。仕方なくビリー・ジョエルを買った。ジャケット知ってたから(笑)。そんで何度も聴いて……そのころって同じレコード何度も聴いて、なるべく好きになろうとするじゃない? 次に行ったときもディーヴォとクラフトワークがなくて、仕方ないからジャケットが似てるからゲイリー・ニューマン(※9)の『テレコン』買ってきたっていう(笑)。で、そのあたりで坂本龍一さんがラジオ番組を始めて(『サウンドストリー ト』1981年〜1986年)、そこでニュー・ウエイブがすごくかかって、そこから一気に広がっていった感じかな」
――なるほど。
石野「で、どんどん掘っていくじゃない? で、子供だから極端なほうがおもしろいじゃない? いいのか悪いのかわからなくても極端なほうがいいと思って。で、TG(スロッビング・グリッスル)(※10)とか、そういう(アバンギャルドな)方 にどんどん行ったって感じかな。(アインシュトゥルツェンデ)ノイバウテン(※11)とかさ」
――ニュー・ウエイブは何が魅力だったんですか。
――YMOのあとはどんなものを聴いてたんですか。
石野「デペッシュ・モード(※14)とかのエレポップとジャーマン・ニュー・ウエイブか な? DAF(※15)とかパレ・シャンブルグ(※16)とか、リエゾン・ダンジェルース(※17)とかね。特にリエゾンは、シーケンサーのプリミティブな使い方っていうのが、今のテクノに通じるものがあって。リズムがすごく自由で、今聴くとすごく新鮮に聴こえる。リズムマシンを使わないで全部シンセで作る、フル・エレクトロニックなところも好きだった。ドイツのバンドなのにバンド名がフランス語で、スペイン語で唄ってたり。そのハイブリッドな雑種っぽさって、地方の高校生にとってみれば、完全に未知の世界じゃない?」
石野「素晴らしいよね。音楽を始めるにあたってすごく影響を受けたし、未だに参考になるし、今聴いても発見がある。これとか、クラフトワークの『コンピューターワールド』とか。何百回何千回と聴いてると思うんだけど、そのときの体調によって 聴こえ方が違うし、こんなとこあったんだって気づくんだよね」
――『人生』の結成の経緯は?
石野「人生の結成は高校2年。ほぶらきんとかレジデンツ(※18)とかデア・プラン(※ 19)とかに惹かれて、ステージで必ずしも楽器を演奏する必要がないっていう方向にどんどんいって。音楽が二の次ってわけじゃなく、ただ普通に音楽だけを 生真面目にやってるよりは、そういうの(パフォーマンス的なもの)が乗っかったほうがおもしろいと思ったんじゃないかな。そっちの方がこっちも楽しいし、 伝わりやすい」
――そうこうしているうちに、有頂天(※20)のケラさんに認められて。
石野「高校生で、静岡でやってても、あんま広がりがないじゃん。高校生のバンドにしては 注目はされてたんだけど、もっと広げたいなと。で、有頂天のことは全然知らなかったんだけど、静岡に来るっていうから『DOLL』で調べたら、ナゴムって いう変わり者のバンドばかり集まるレーベルをやってるらしいと。でライヴハウスの人に頼んで前座をやらせてもらって。そのとき初めてケラさんと知り合っ て、次にケラさんが来る頃には、もう“インディーズブーム”みたいになってて。86年ぐらいかな。で、3回めに一緒にやったときに、うちからソノシート出さない?って。それが高校卒業間近だったかな。どっちにしろ東京に行くつもりだったし、こりゃ渡りに船だってことになって」
――その頃にはもうプロになるつもりで。
石野「何の根拠もなくね(笑)。思い込みのみ!今考えると恐ろしいけど、他のことで食ってくとかまったく考えなかったね。怖いよねえ(笑)。有頂天を見て“プロだなあ、完成されてるなあ、でも彼らにないものがひとつだけある、俺たちの勢い だ!”って(笑)。恥ずかしいよねえ(笑)。17歳とかだからねえ。大目に見てよ!(笑)」
――で、上京して。
石野「バイトしながらバンドをやってたんだけど、ひとつだけ良かったのが、上京してから チケットの手売りってやったことがないんだよね。ナゴムのイベントに出してもらってたから、売る必要がなかった。恵まれてたよね。手売り一生懸命にやって るやつは馬鹿だと思ってたからね。友達だけに見せてどうするんだと。それがいやで東京出てきたのに。あと、東京には、自分たちみたいなバンドしか出てない ライブハウスが一杯あると思ってたのね。『人生』みたいなバンドが。田舎もん丸出しなんだけど(笑)、こりゃ負けられねえなって思ってやってきたら、意外にそうでもなかっていう。当たり前だよね。でも情報が入ってくるじゃない? ばちかぶり(※21)のステージで(田口)トモロヲさんがウンコしたとかさ (笑)。負けられねえ!って(笑)」
――そのころはどんなものを聴いてたんですか。
石野「ミニストリー(※22)の『トゥイッチ』とかリヴォルティング・コックス(※ 23)とか。エレクトリック・ボディ・ミュージック(※24)だね。あれを聴きながらバイトに行ってたのを憶えてる。でもその頃はお金が無くて新譜をあまり買えなかったの。あと自分の活動が忙しくて。だから自分の人生で一番新譜を聴いてなかった時期だと思う」
――そうこうするうちに『人生』は解散してしまうわけですが……。
石野「そのころバンド・ブームでさ。俺らもバンド的な方向に行ったんだよね。でも、その先の展望が思い浮かばないっていうのがあってさ。なおかつ、そのころアシッド・ハウス(※25)とかヒップホップとか、いわゆるダンス・ミュージックがす ごくおもしろくなってて。それは人生の中では出来ないなって思った。それには、余剰人員が多すぎるしさ(笑)。その中で唯一残るのが瀧なんだけど(笑)、それもあって解散した。このままのスタイルでやっていても先はないなと」
――あわよくばバンド・ブームに乗ってやろうって意志はあったんですか。
石野「あった。でもやっぱちょっと違ったんだよね」
――もしブームに乗ってデビューしたとしても、あまりいい結果にならなかったような気がします。
石野「うん、そう思う。それに自分の音楽的な趣味がもう、そっちじゃなかったからね。既 にジョン・ライドン(※26)とアフリカ・バンバータ(※27)の『ワールド・ディストラクション(※28)』とかさ。ランDMC(※29)とかね。 ニュー・ウエイブに感じてたラジカルな感じが、ダンス・ミュージックのほうにシフトしてた感じ」
――それは『人生』では対応できないし、もっと新しいことがやりたかった。
石野「そうそう。で、それをやるには、『人生』の奇抜な格好では伝わらないだろうなって いう」
――そういうときに出会ったのが808ステイト(※30)。
石野「そうそう」
――人生と電気の、非常に微妙な端境期に出会った。
石野「うん。シスコ新宿アルタ店で買ったんだよね。あそこでKLF(※31)も買った し。テクノものって、当時はあそこぐらいしかなかったから。で、これ聴いたときに、DX-7とかリン・ドラムみたいな生音の模倣的な電子音楽と真逆なものが久しぶりに出てきたっていう感じで、新しい音楽なんだけど、すごい懐かしい感じがしたの」
石野「でしょ。どっちもポリリズムでさ。どっちもドラムの音はリズム・マシンを使わず全部シンセで作ってる。当時は何が起こってるのか知らなかったからさ、アシッド・ハウスとかに関しても。だからすごいショックだったし、勇気づけられた」
――自分がやりたかったことをやってるなって感じがあった?
石野「うん、そうだね。励みになった。そのころ(88年)テクノって単語が一番古い、ダ サいとされてた時期でさ。今で言うクラブのテクノじゃなく、テクノ・ポップの時代遅れのイメージ。そのときに出てきたこれとかアシッド・ハウスって、ほんと衝撃的だった。それまでエレクトロニック・ミュージックがどんどんゴージャスな方向に行ってた時期に、10年以上前の機材で、チープな音で、機能性のみを追求して、チープな楽器ですごいことをやっている。それこそ『ほぶらきん』に受けた衝撃に近い。これとかアシッド・ハウスを最初に聞いたときに、レジデンツとかを最初に聞いたときを思い出して。聴いてはいけないものを聴いてしまったというか。たまたま覗きこんで“あっ、ヤバ!”みたいな(笑)。変な儀式見ちゃったって感じ、たまたま迷い込んだジャングルの奥で。ヤバイものを聴いてしまった。うわーこの先なげえぞ〜って(笑)、これを見たらもう後戻りでき ねえなと」
――808を聴いたことが、電気結成のコンセプトになった?
石野「うん、もちろんこれだけではないけどね。そのうちのひとつではある。このとき聴いてたのは、KLFとかアダムスキー(※32)とか、あとはブリープテクノとか。あれもびっくりしたね。LFO(※33)とかスウィート・エクソシスト(※ 34)とか。全部アナログ・シンセの音で。ワープの初期」
――これを聴いて石野卓球の人生が決まったところも。
石野「うん、すごくでかいと思います」
――電気のファーストを、808のグレアム・マッセイがプロデュースする予定だったんですよね。
石野「そうそう。でもちょうど808が売れちゃって、できなくなっちゃった」
――その後はどんなものを聴いてました?
石野「DJでベルリンに行くようになってからのベルリンの音楽がでかい。ベルリンのレイ ヴ音楽もそうだし、あとはアンダーグラウンドなクラブの音楽もね」
――ところでDJ用の音源はやはりアナログで買うんですよね。
石野「そうだね」
――リスナーとしても、アナログに対する執着は変わらない。
石野「もちろん全然あるよ。手にとった実感があるし、音がいいからね。一番聴き慣れたメディアだし。CDでもいい、CDのほうがいいってジャンルもあるけどね。メジャーなポップスやロックはCDの方がいい。でもデータは滅多に買わないな。買う比率は(アナログ)レコード7割、CD2割、データ1割。DJの場合は買ったレコードをデータ化してCDに焼いて、両方持ち歩く。ハコによって変えている。今はレコード用じゃなく、CD用にチューニングされているハコが多いから。でもデータやCDだと、ハコが震えるような低音が出ないんだよ。レコードは、針がマイク代わりになって音を拾うからね。それにテクノの場合はレコードでしか出てない曲が圧倒的に多い。配信だけだと最新の動きについていけない。レコードで出してから配信になるから、遅いし」
――なるほど。
石野「レコードってあまりいいことないんだけどね。重いし場所とるし。でもリスナーとしてもアナログをついつい買ってしまうんだよね。最近は再発で180グラムの音がいいやつとか出てるし。『レコードストア・デイ』になると忙しくなるよねえ (笑)」
――地方に行ったときは中古盤屋めぐりとかするんですか。
石野「なるべく行くようにしてる。どうせならと、普段なら買わないやつも買っちゃった り」
――「旅行効果」(旅先だと、ふだん買わないものも買ってしまう)ですね。
石野「<ヴァイナル・オン・デマンド>っ て知ってる? ドイツの変わり者のオヤジがやってる再発レーベルなんだけど、ノイズとかミニマルウエイブ、シンセポップとか、それも超マイナーな、カセット2本しか出してないようなバンドの音源を掘ってきて、それを木箱入りの豪華アナログで再発してるレーベル。それを世界中の好きモノが買うんだけど、年会費6〜7万払うと、その年のリリースが全部送られてくるわけ。Tシャツ付き木箱入り、18枚組とかさ(笑)。いつ聴くんだよそんなもん、みたいな(笑)。もう4年ぐらい会員になってるんだけどさ、そこまで行くとフェチっていうか、音じゃないんだよね。マテリアルとして買ってるんで。聴こうと思えば音も出るっていう(笑)。買っただけで満足しちゃう」
――DJ用としてどれぐらいのペースでレコード買うんですか。
石野「毎週1回必ずレコード屋に行って、その週入ったやつは全部聴かせてもらう。それで買うのは週に8枚までって決めてる。それ以上買っても週末のDJで使い切れないから。残しても、翌週また新しいのが来るし、結局使い切れないで残ってしまう。それは仕事で使うもので、それ以外には、ロックとかポップスをネットなんかで、月に20枚ぐらい。あとはディスコ・クラシックの中古盤を夜中に酔っ払って買うとか(笑)」
――じゃあ言ってみれば、そういう生活をここ30年ぐらい……。
石野「病気だね(笑)。不治の病(笑)。その間、あまりリスニングのスタイルは変わらないね。幸いにも変えずに済んだ。これからも大きく変わることはないんじゃないかな」
808 State 『New Build』
英国のアシッド・ハウスのユニット。それまでの電子音楽がどんどんゴージャスな方向に行ってたのに、10年以上前の古いアナログ・シンセを使って、 チープな音なのにえらくかっこいいことをやってる。すごい衝撃だったし、電気グルーヴを結成するにあたって、大きな影響を受けたね。
Liaisons Dangereuses
『Liaisons Dangereuses』
いわゆるジャーマン・ニュー・ウエイブのバンド。音楽家としてすごく影響を受けたし、未だに発見があり参考になる。シーケンサーの使い方は今のテクノに通じるものがあるし、リズムが自由で新鮮。ボーカル以外は全部シンセで作ってる、フル・エレクトロニックな作りなのも大好き。■注釈
(※1)バグルス
1977年に結成されたイギリスのエレクトリックポップユニット。1979年のデビュー曲『レディオスターの悲劇』が大ヒット。
(※2)リップス
リップス・インク。アメリカの音楽ユニット。1979年にアルバム『MOUTH TO
MOUTH』でデビュー。後にこのアルバムに収録された「FUNKY TOWN」が全米1位の大ヒット。
(※3)ニュー・ウエイブ
電子音楽、現代音楽、ポストパンクなど、様々なジャンルからの影響を受けた実験的で確信的な音楽の総称。1970年代後半、パンク以降のイギリスで 誕生し、ヨーロッパ各国やアメリカ、日本でも様々なバンドが登場した。(※4)YMO
イエロー・マジック・オーケストラ。細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一による音楽グループ。1980年代初頭のテクノ/ニュー・ウェイブムーブメントの
中心的なグループ。1983年解散の後、再結成して現在も活動中。代表作多数。
(※5)ASHRA
西ドイツのロックバンド、Ash Ra
Tempel。1976年にバンド名をAshraに変更。後期からのテクノ/ニュー・ウェイブ的な作風は、エレクトロニックミュージックのルーツとして支
持を得ている。
(※6)まりん
砂原良徳。北海道出身のサウンドクリエイター/プロデューサー。1991年に電気グルーヴに加入し、1999年に脱退。電気グルーヴ在籍時からソロ
活動を始め、アレンジやリミックス、CM音楽、サウンドトラックの制作など、活発に活動を展開している。エンジニアとしての評価も高い。
(※7)ビリー・ジョエル
アメリカのロック歌手。1970年代後半からヒットを連発。世界で一億枚以上のレコードセールスを記録している。
(※8)クラフトワーク
ドイツの電子音楽グループ。グループ名は「発電所」という意味。1970年代にアナログシンセを駆使して、電子ポップの祖と呼ばれ、テクノポップと いう言葉の語源になった。
1981年にはドイツのアーティストとして初めてUKチャートのナンバーワンを獲得。電子音楽/テクノミュージックのオリジネーターとして世界的な
評価を得ている。
(※9)ゲイリー・ニューマン
パンクとクラフトワークを融合したようなサウンドで80年代のロックシーンに功績を残したチューブウェイ・アーミーの中心人物。解散後はエレクトロ
ポップの火付け役にもなり、UKチャート1位を獲得。
(※10)スロッビング・グリッスル
インダストリアル・ミュージックの基礎を築いたイギリスのバンド。日本語で「痙攣する男根」の意。産業社会を批判するコンセプト、コラージュやカッ トアップなどの手法で具体音や電子ノイズを編集したサウンドは後のシーンにノイズ/インダストリアルシーンに影響を与えた。1981年に解散後、2004 年に再結成。2010年、メンバーのピーター・クリストファーソンが死去。解散。(※11)ノイバウテン
アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン。バンド名は日本語で「崩壊する新建築」。ドイツのノイズ/インダストリアルの代表的存在。チェーンソーや 電動ドリルなどの電動工具、ドラム缶や鎖などをギターやドラムの代わりに使い、バンドサウンドに導入するなど、独自のスタイルで実験的なサウンドが特徴。(※12)ほぶらきん
関西のロックバンド。1979年結成、1983年解散。関西ローカルCMのようなものから童謡のような曲まで、個性的、奇天烈でユニークなサウンド
が特徴。
(※13)人生
石野卓球を中心に結成された、電気グルーヴの前身にあたるバンド。ピエール瀧も畳三郎という芸名で所属していた。代表曲は「オールナイトロング」な ど。1989年に解散。(※14)デペッシュ・モード
イギリスの音楽グループ。全世界で9000万枚以上のセールスを誇るニュー・ウェイブ/シンセポップの代表格。1990年のアルバム『ヴァイオレー
ター』が大ヒット。現在も活動中。
(※15)DAF
ドイチュ=アメリカニシェ・フロイントシャフト。ドイツの音楽ユニット。(※16)パレ・シャンブルグ
ジャーマン・ニュー・ウェイブの最重要バンドのひとつ。1980年結成、1984年に解散。パンク/ニュー・ウェイブからキャリアをスタートさせた が、テクノやアンビエントへと続く先鋭的な音楽性も持ち合わせていた。2012年に再結成。(※17)リエゾン・ダンジェルース
1981年に結成されたドイツのバンド。現在のエレクロニック・ミュージックシーンに影響を与えたプロジェクト。(※18)レジデンツ
アメリカのロックバンド。正式なプロフィールがなく、メンバーの顔も知られていないというミステリアスなバンド。活動のあり方は、ビジュアルワーク やデジタルコンテンツへの積極的関与も際立ち、ダダやシュルレアリスム的な総合アートプトジェクトだと言える。(※19)デア・プラン
1979年、デュッセルドルフで結成されたドイツのテクノポップグループ。(※20)有頂天
日本のロックバンド。1980年代に起こったインディーズブームの頃、インディーズ御三家のひとつ呼ばれたバンドのひとつ。1982年結成、 1991年に解散。ボーカルのケラが主宰するナゴムレコードからは筋肉少女隊、人生、たま、カステラなど、多くのアーティストを輩出した。(※21)ばちかぶり
ナゴムレコード所属。日本のロックバンド。田口トモロヲを中心に1984年に結成。嘔吐や脱糞など、アグレッシブなライブパフォーマンスが伝説とし て語られている。(※22)ミニストリー
アメリカのインダストリアル・メタルバンド。アンチロックであるインダストリアルミュージックにスラッシュメタルの要素を導入した音楽性を確立。
1981年結成。2008年に解散したが、2012年に再結成した。
(※23)リヴォルティング・コックス
ミニストリーのアル・ジュールゲンセンを中心としたプロジェクト。(※24)エレクトリック・ボディ・ミュージック
1980年代後半から1990年代前半にかけて興隆した音楽ジャンルのひとつ。サンプラーやドラムマシーンなどの電子楽器をメインに使用し、かつ肉 体的でダンサブルな音楽というのが、主な方向性。(※25)アシッド・ハウス
アナログシンセサイザーの変調効果を多用したエレクトロニック・ミュージックの呼称。聴くだけてトリップできるような反復フレーズが特徴。また、 1980年代後半にシカゴやロンドンで同時多発的に始まったクラブカルチャーやファッションなども指す。(※26)ジョン・ライドン
セックス・ピストルズのリード・ボーカルを務め、解散後はパブリック・イメージ・リミテッドを結成。(※27)アフリカ・バンバータ
ラップ・ミュージックの先駆者的な役割を担ったアメリカのDJ、ラッパー。一説によれば彼は、暴力や争いをやめて自分たちが作り出した新しい文化 「ヒップ・ホップ」で、互いが「競いあい」「高めあう」ことを提唱したといわれている。(※28)ワールド・ディストラクション
(※29)ランDMC
1982年ニューヨークで結成されたアメリカの3人組ラップ・グループ。ラップ・ミュージックがロック・ファンにも広く受け入れられる契機をつくっ
た最初のグループとして知られる。
(※30)808ステイト
イギリスのアシッド・ハウス・ブームが頂点を迎えた1988年に、マンチェスターで結成。808ステイトという名前はローランド製ドラム・マシーン
の名機TR-808に由来。90年台前半のテクノシーンを語る上で欠かせない、マッドチェスター ムーブメントを牽引していた。