INTERVIEW: 菅野よう子
90年代以降、全世界的に需要と人気が高まった日本のポップ・カルチャーの一つにアニメがある。その分野において、音楽の力で世界中のアニメ・ユーザー、そしてミュージック・フリークスたちを虜にしてきたのが菅野よう子という音楽家だ。「菅野よう子の登場でアニメ音楽の歴史が変わった」とまで言われる彼女の存在は、1994年に劇伴(BGM)を手掛けた『マクロスプラス』によって広く認知されることになった。壮麗なオーケストレーションとブルガリアン・ボイス、そしてトライバルなテクノやブレイク・ビーツを応用したその音楽性は当時極めて独創的であり、日本国内でもアニメ業界を超えたさまざまなシーンから賞賛を集めた。
その後も、ブラック・ミュージックを大胆に投入した『カウボーイビバップ』(1999年)をはじめ、電脳世界を緻密なデジタル・サウンドで描き出した『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002年)、日本の音楽チャートを席巻した『マクロスF』(2008年)、そしてアイスランド・レコーディングを敢行した最新作 『残響のテロル』(2014年)など、その影響力を作品毎に更新していく。 また音楽プロデューサーとして坂本真綾を育て上げ、小泉今日子、YUKI、SMAP らに楽曲提供を行い、NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』(2013年)のBGMを手掛けるなど、その活動は年々広がりを増していくばかり。 菅野を知る音楽家たちは、彼女のことを「魔女」や「少女」など両極端なイメージで 表現することが多いのも興味深いが、それも複雑で多面的な音楽性を内包する彼女を象徴しているのかもしれない。 そんな彼女に、自身のルーツから現在に到る活動までをじっくりと振り返ってもらった。
菅野さんは、幼少の頃からさまざまな作曲コンクールで数々の賞を受賞され たそうですが、その当時のことを今はどのように振り返っていますか?
「コンクール荒らし」のように言われていたのは小学校2年生以降のことで、一番古い音楽の原体験を振り返ると、讃美歌との出会いがあったんですよ。たまたま幼稚園がカトリック系だったので。しかも先生があまりオルガンを弾けなかったから、私が代わりに伴奏してあげていて(笑)。
その当時から鍵盤が弾けたんですね。
家にピアノがあって「何だろう、これ?」という感じで、適当に弾きながらオリジナルの曲を作ったりしていたんです。だから、いわゆる「ありもの」の音楽と して最初に演奏したのは讃美歌だったんです。そういう原体験があったからなのか、今気持がヨーロッパに回帰していて。すごくプリミティヴな感情に戻りつつある感じ。ヨーロッパのみなさんにとって、宗教音楽はあらゆる音楽よりも最初に触れ合う、生活や人生の基盤のようなもので。しかも讃美歌の歌詞の内容ってキリストを賛美するというものすごくプリミティヴな感情を表現していますよね。私、幼稚園の頃はキリストさんのファンだったんですよ(笑)。絵本とかに描かれている キリストを見て「なんて素敵なの!」って。
それはイエス・キリストのルックスがタイプだった?
超タイプだった。顔の彫りも深いし、万能ですからね。讃美歌って、そんなキリストさんを讃美する歌なので大好きだったんでしょうね。でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあるので、幼心に「この歌はお外でたくさん歌っちゃダメなんだ・・・」と思って、でも歌いたいから押し入れに籠ってこっそり歌ったりしていて(一同笑)。私はたまたまそういう感じでキリストさんに心惹かれていましたけど、そういう憧れの気持ちこそ、万物を生み出したりあらゆることに万能である神や、さまざまな自然現象に対して音楽を捧げようと思う、もっとも原初的な衝動だと思うんですね。絶対的な存在に対する、尊敬と畏怖の心というか。私が作る音楽って「壮大だね」とか「宗教音楽っぽいよね」と言われることがあるんですけど、子供の頃のそういう体験や経験が刷り込まれているからなのかな? って、今は思っていますね。特に意識して、壮大な音楽を作ろうと思ってやってきたわけではないのですが。
先ほど小さい頃からオリジナルの曲を作っていたと仰っていましたが、どんな曲が多かったのですか?
「朝は綺麗だな」とか「春は美しいな」とか、そういう極々当たり前の自然現象に関する歌が多かったですね。
そんな頃、芥川也寸志さん(文豪・芥川龍之介の三男。数々の優れた交響曲、映画音楽、童謡を残している)からアドバイスをもらったことがあったと伺ったのですが。
本当に子供の頃だったから記憶も曖昧だし、当時はその方がどんな方かもよく分かっていないんですけど・・・その頃の私って、コンクールやコンテストでは一位を取るために「審査員が気に入る曲を作ろう」と思っていたんですよね(笑)。子供ながらに、「ここで転調すると大人にはウケるぞ」とか、審査員が喜ぶツボを心得ていて。そういう曲を作っていたら、ある日のコンテストで審査員だったその方(芥川)は「そんなことしなくていい」と。「好きなように作りなさい」って言ってくれたんですよね。その頃は、コンクールでは「なんでもいいから一位にならなければいけない」と思っていたから、大人が「子供とは思えない!」と驚いてくれるような技術はたくさん持っていて、今聴くと「こまっしゃくれてんなぁ」と思うんですけど(苦笑)。
そんな芥川さんの言葉は現在も生きていますか?
すごく生きていると思います。子供である自分を認めず背伸びをしていた私 に「そのままでいい」と言って頂けたことで、自由になれたと思いますから。
以前、私とのインタビューでは「子供の頃は親の方針でテレビや漫画も見せてもらえず、音楽もクラシック以外は聞かせてもらえない環境の中で育った」と仰っていましたが、その中で最初に親に頼んで買ってもらった本がBaudelaire(ボードレール)の『悪の華
』だったとお伺いしたのがとても印象的で(笑)。そんな少女時代の生活環境を今どのように振り返っていますか?
子供って、漠然とした生と死に対する怖さに気が付く瞬間があると思うんですけど、私は特に生と死というものに心惹かれていたんですよね。あと子供って性に対しても興味を持ちますけど、私の場合、そういうあらゆる欲動的なものに対する興味が人一倍強くて。家族の前では不適切な死を題材にしたものは口にしてはいけなかったので、まるで思春期の子供がイケない本をこっそり読むかのように『悪の華』を読んでいたんですよ。
まるで19世紀のフランスの女の子みたいですね(笑)。
本当に(笑)。生と死に惹かれていたから、教会も好きだった。でもそういうことって、実は今も考えていることではありますね。
「生きるとは?」「死ぬとは?」ということですか?
そうですね。生きる意味、死ぬ意味について。
そういう少女時代を過ごされてから、音楽大学ではなく早稲田大学の文学部に進学されます。なぜ文学部に?
中学から高校時代に、激しくグレまして(苦笑)。とはいっても髪を染めたりするような分かりやすい不良になったわけではなく、「この世界なんてなくなればいいのに」みたいなことを割と真剣に、激しく思っていた時期があったんですよね。まあ、誰でも思春期くらいにやってくるありふれた感情ではあると思うんですけど、それの過激バージョンと言いますか。
世の中に対する呪いが(笑)。
そう。その呪いの強さが尋常じゃなかった(笑)。あの頃は、3〜4年くらい親とは一切口をききませんでした。その頃の私は、自分のそのドロドロした思いを文章にしていて、次第に小説家になりたいと思うようになったんです。自分のこの思いを吐き出すのは音楽よりも小説だと、その当時は思っていたから。
小説家になりたくて早稲田大学の文学部に進学されますが、待っていたのはバンド活動とゲーム音楽制作だったわけですよね?
たぶん、当時の私は便利だったと思う。だいたい1年生の頃って先輩にこき使われるじゃないですか。譜面も書けるしコピーも出来ちゃうから、先輩から便利がられて「この曲、明日までに譜面にしておいて」とか言われて「はーい。やっておきまーす」みたいな感じ。大学生時代の上下関係なんて、そんなものじゃないですか。Al Di Meola(アル・ディ・メオラ)のギター・ソロとかも、全部譜面に起こしたりしていたんです(笑)。
それはすごい!
そういうことやっているうちに、いろいろな音楽のマナーを覚えちゃうんですよね。それまでクラシックしか知らなかったから、実はリズムに対する感性がゼロだったんです。「え? リズムってなんですか?」みたいな、本当にそんな感じ。だから大学に入って、先輩のバンドで初めてドラムを見た時は「なんじゃこりゃー!」って。「え? これは何をやっているんですか? どういう楽器? どうやって演奏してるんですか!?」みたいに衝撃を受けてしまって、そのドラムを叩いていた人がいた軽音サークルに入っちゃうんですよ。そんなモンまったく珍しいものじゃなかったって、あとで知るんですけどね(笑)。
すごく特別な演奏者に見えちゃったんですね(笑)。
天才かと思って。それまでも、例えばラジオとかでドラムの音は聴いていたんですけど、ちっとも頭に入ってこなかったんですよね。でも生のドラム演奏を見て、初めてビートというものを体感できたんですよ。バンドサウンドに対する興味がすごく強くなっちゃって、「あの楽器のことが知りたいぞ」と思って、軽音サークルに。そしてサークルでいろいろな曲を聴いて耳コピをしているうちに、自然に分析ができたんですよね。ドラムとベース、そしてエレキ・ギターの役割とか。「ん? これベースじゃなくてシンセ・ベースなんだ。どうやってこの音作るんだろう・・・?」なんてことを、強制的にずーっとやらされていました。今思えばですけど、その時の経験は自分にとって大きいですね。ビートについても、手取り足取り教えてもらいましたから。
当時はどんな曲を演奏されていたのですか?
ビアガーデンとかで演奏するサークルだったので、当時流行っていたMichael Jacksonとか、Madonnaとかを無理矢理コピーさせられていました。あの当時は「なんでこれが売れてるのか意味分かんない!」とか思っていましたけど、分析していくことで「ヒット曲のクセ」みたいなものが見えてくるんですよね。「ここをこうすると、みんな気持ちいいと感じるのか」とか。ポップスのイロハ的なものを、そうしていつのまにか吸収していた気がします。
大学在学時代に光栄(現コーエーテクモゲームス)の『信長の野望』といったゲーム音楽を手掛けてらっしゃいますが、それはどのようなきっかけで?
当時、私が「便利屋」をやっているという話が人づてで伝わって、でしょうね。光栄はまだ小さい会社だったし、『信長の野望』がヒット・シリーズになるなんて思っていませんでした。最初は、とにかく「早く曲が書ける人」という感じで、私のところに話が来たのだと思うんです。
初めて世界観や設定のある作品に音楽をつける仕事をされたわけですね。
でも当時のゲーム音楽って3音しか同時に鳴らせなくて、1音はリズムに使っちゃうから実質2音だけなので、Bach(バッハ)っぽく対位法でやるくらいしかできないんですよ。そんな感覚でやっていましたね。あと各大名の姫の曲を作る時とか、「政略結婚で嫁いだ」というエピソードを聞くと、「まだ14歳なのにワケの分からないオヤジに嫁ぐなんて、なんて可哀そうなんだろう・・・」という悲しい曲をつけていたんです(一同笑)。しかも2音でね。本当はお姫様らしく可愛い曲にしなくちゃいけないのに、そんなことやったら絶対ダメですよね。何を考えていたんだか、自分でも謎ですけど。「お姫様」という記号化できるような音楽をつければ良いのに(笑)。
そういう想像力や感性は、もしかしたら文学少女時代に磨かれたものなのかもしれませんよね。
そうなのかもしれません。「大航海時代」というゲームでは行ったこともない国の音楽をたくさん作りましたけど、それもほぼ想像で書いていたので。たとえばアニメの曲にしてもそうですけど、視覚的なイメージや心象風景を描いてから作りますから。
Al Di MeolaからMichael Jackson、Madonnaまでをも譜面に起こし、 分析的に音楽を吸収していった大学時代の菅野よう子。そんな彼女が、ついにアニメ音楽の世界へと船を漕ぎ出す。『マクロスプラス』『カウボーイビバップ』『∀ ガンダム』などの音楽は、菅野ならではの音楽的感性の自由さと、独特な仕事の流 儀によって生み出されていた。
菅野さんの名前を一躍有名にした作品に『マクロスプラス』がありますが、トライバルなテクノやトランス、アンビエント等を取り入れた劇伴で当時とても話題になりました。
依頼を頂いたときに「すごく面白いな」と感じたのはヴァーチャル・アイドルのシャロン・アップルが登場するという設定だったんですね。しかも歌や音楽を洗脳兵器として扱うヴァーチャル・アイドルという設定だったので「よっし! みんなを洗脳しちゃうぜー!」と思って、作品の時代設定から、この作品の中で流行しているかもしれない音楽を真剣にイメージして作っていきました。音楽って、何年かのサイクルでトレンドが戻ったりするじゃないですか。『マクロスプラス』の時代ならきっと流行が今から2回転くらいしているはずだから、今のこの音楽的な 要素は残っていて、新しくこれを足して・・・とか考えながら作りましたね。あと聴いている人を“洗脳”したかったから、低音のビートにリバーブをしっかりかけて、気持ち悪い感じを何度もループさせたり。あとは、たとえば教会でオルガンを聴いていると、空から光のように降り注ぐような音のリバーブに包まれて、神の存在を感じながら「もう私を好きにして下さい!」みたいな極限の気持ちになると思うんです。そういう音響的な要素が精神というか、脳に与える影響を考えながら作ったのが『マクロスプラス』の劇伴です。
本当に昏倒や催眠状態を促すようなビートと音響の曲が多くて。
今思えば、やりすぎちゃいましたけどね(苦笑)。あの当時はまだ加減というものをしらなかったので、本当に聴いた人を昏倒させたり催眠状態にしようと思って、「兵器としての音楽を作りたい」と思って作ってしまったので。音楽の持つ強い影響力というものをすごく感じたのは、実際に「あの曲を聴いて空軍に入り、イラク戦争に行ってきました」という人とか、「シャロン・アップルの曲で自殺を考えた」とか、そういう感想をもらったときです。初めて、音響や音像に人を変える力があると気が付いて、怖さを感じましたね。
「Wanna Be an Angel」の神々しい音響やコーラスは、今思えば未来の宗教音楽のようでもあって。
頭の中で想像を重ねて、意識を集中させて突き詰めていくと、いろいろな映像が音と共に見えてくるんですね。戦闘機が雲を突き破って上昇していって、その先で酸素が薄くなって息苦しくなる、その時にブルガリアン・ボイスが燦々と鳴り響いて・・・とか、そういう音像は実際に見えたものなので。
そこまで突き詰めたものだからこそ、「アニメ音楽の歴史を変えた」と言われるほどの力を持ったのかもしれません。しかもこの作品が、菅野さんのキャリアの初期にあったことも重要だったように感じるのですが。
そうだと思います。当時は「なぜ私のところに来たんだろう?」と思っていたお仕事でしたけど、あれだけ自由を与えられた音楽作りをさせてもらい、今まで出会うことのなかった世界観を私なりに考えて音楽を作った経験は、とても貴重な経験でした。作った音楽の幅的にも、「こんなことやっちゃっていいんだ」と思いましたから。
『マクロスプラス』から、『創聖のアクエリオン』や『マクロスF』のようなヒット・チャートを席巻するようなポップな音楽を必要とする世界観まで、河森正治監督はいつも菅野さんの新しい魅力を引き出すきっかけを作っているような気がします。
そうかもしれませんね。河森さんの持っている神話的な美しい世界観と、その神話に潜む下世話さすらも引き出してネタにしてしまう感性とか、歌舞伎のような日本のプリミティヴな文化を愛でる感性とかは、私には無いものです。でも私も『マクロスF』のような設定の中で、「このアイドルはこういう生活環境にいて、こんな音楽が流行っている時代に生きていて、こういう存在に憧れている」とか、そういうことを考えながら音楽を作るのが好きなんです。「2ndシングルはこういう展開を期待しているから、デビュー曲は敢えてこういう曲調にするに違いない」とか、シングル5枚くらい先の展開を考えながら、音楽でストーリーに肉付けをしていくような作業がすごく好きですね。その人物の人生を考えることが好き、というか。そういう部分も、文学にのめり込んでいた時期の経験が生きているのかな?って。
そういうイマジネーションから、(『マクロスF』に登場するアイドル・シンガー)ランカ・リーは“松田聖子的な王道アイドル・ソング”である「星間飛行」でデビューを飾ったわけですね。
『マクロスF』は、脚本を読んだ瞬間に「売れるな」と思いました(笑)。ずっとCM音楽を作ってきた関係もあって、流行る企画やヒット商品になるものの匂いには割と敏感だと思います。今気付きましたけど、そういう嗅覚みたいなものって、「コンクール荒らし」とか「コンテスト荒らし」と呼ばれていた小学生時代に生まれたものなのかもしれませんね。音楽を使った「大人の喜ばせ方」というか (笑)。もちろん、それだけでは動かない物事は山ほどありますけど。
CM音楽って一番サービス精神が問われる世界ですよね。
短い秒数でフックを作って、その商品の魅力を表現しなくちゃいけないので。ときには「7秒で泣ける曲」だって求められますからね。その手法を、アニメなどの映像作品の音楽でも使えたのは、大きかったと思いますね。
アニメでは『カウボーイビバップ』も世界的な成功を納めた作品ですが、ファンクやブルースといったブラック・ミュージックを取り入れた音楽性がアニメ劇伴として非常に斬新でした。
あの作品で取り入れた音楽の芽生えは、文学少女だった中学から高校の頃に、ブラスバンドやっていた頃に生まれたものだと思います。今はどうなのかわからないですけど、昔は、子供が演奏するブラスバンドの曲って、カッコイイものがなかったんです。だから当時、オリジナルの曲を作って演奏したりしていたんですけど、子供心にずーっと「こんなカッコ悪い曲でみんな我慢してるの!?」というフラストレーションがあって。もっと心が荒ぶるような、血液が沸騰するような、はっちゃけられるようなブラスの曲がやりたい! という思いを大人になって爆発させたのがOPテーマだった「Tank!」という曲で。自分で演奏してて燃える、と思えるブラス・ファンクをやってやろうと思ったんです。あと大学生の「便利屋」時代に、ブラック・ミュージックのコピーをたくさんしたんですよ。リズムというものに出会ってからは、「どうして同じようにドラムを叩くのに、黒人と白人の音楽でここまでリズムは違うんだろう?」というのがわからなくて、実際にニューオリンズまでジャズやファンクを聴きに行ったんです。
大学時代にアメリカに?
はい。Greyhoundバスでアメリカ大陸を横断しました。ホテル代が無いからバスの中で寝泊まりしたり、若いからできたことだと思います(笑)。ロサンゼルスの路上で弾いているバンジョーのリズムに「かっこいいなぁ」なんて思って、東に向かってバスに乗っていると、段々と路上で演奏している人たちのグル―ヴが揺れてくるんですよね。高校生くらいの黒人の男の子が、スネア1個で超かっこいいファンクをやっていたりするんですよ。そういう出会いを通じて、同じジャンルの音楽でも演奏によって感じる”色気の違い”が面白くて。その旅を通じて「ビートって一つの言語なんだ」と思ったんです。でも「関西弁を真似する東京人」じゃないですけど、昔は黒人のかっこいいビートに憧れても近づけないことにもどかしさを感じていましたね。最近は「ホワイト・ファンクがあるならイエロー・ファンクでいいや」と思うようになりましたけど(笑)。
大学生の頃も“てつ100%”というファンク・バンドでキーボードを担当されていましたよね?
そうなんですけど、本物の黒いグルーヴは出せませんでしたね。日本人て、憧れが強いからやりすぎちゃうんですよ。デフォルメしちゃうというか。ビートに関しては、今もまだ入口に立ったところだと思っています。ブラジルに行ってサンバやボサノバを聴いた時、「このビートはまた違う言語だ!」と思ったんです。南米のみなさんて、リズムに感情を揺さぶられて涙を流したりするんです。私はまだその境地には到っていないというか、その衝動を突き動かす“ビートの真理”のようなものに、辿りつけていないと思っていて。まだまだ掘れるなと。
そういう学生時代を過ごされていたから、「退屈なループは嫌い」という発言にも繋がるわけですね。
そう、意味分かんない(苦笑)。同じメロディ、同じリズムをお決まりのようにただ反復しているだけの音楽は退屈しちゃうし、つまらない。ただそこに「洗脳」や「催眠」という意味が伴えば話は別ですけどね。あとライブ会場で実際に体感すると、意図が汲める音楽もあります。ウィーンに行って、ウィンナーワルツを聴いた時に思ったんですよ。あれは踊るための音楽だから、ただ座って聴いていたらダメなんです。その音楽やリズムが生まれた場所に行ってその意図に触れないと、良さが分からないものは多いですね。話を戻しますけど、『カウボーイビバップ』でやったことは、私にとってはブラック・ミュージックへの憧れを形にしたものでした。
監督で言うと、『∀ガンダム』でご一緒された富野由悠季監督はオリジナルな哲学を持った演出家だと思うのですが、お仕事を振り返っていかがでしたか?
富野さんの、難解な言葉を費やして自分のロジックを弾幕のように張り巡らしているあの感じのところに、どうやって音楽を届けようかなぁ? と。音楽って右脳で作るものだから。左脳で生まれた言葉を重ねれば重ねるほど、クリエイティヴは萎えていくというか。言語的に同じ思いを共有しようと思っても無理で、このままだとどんどんクリエイティヴから遠のいていっちゃう気がしたんですよね。だからある時からはそういう言語化されたものを「ばーん!」とブッ飛ばそうと思ったんですけど、その心境に到るまで半年くらいは対話を続けていました。
その結果、富野さんは菅野さんの生み出した音楽の幅に感動されていたと聞きました。
私は富野さんに、”本物の音楽”をお渡ししたかったんですよね。つまり半年かけて富野さんが仰っていたことは、「俺に本物をくれ」ということだったのかな?って。私は日本のアニメ音楽とハリウッド映画の音楽の違いってすごくあると思っていて、ハリウッドってシーンを盛り上げるための、まさにバッグ・グラウンド・ミュージックを求めますけど、私の考えるアニメの音楽はそのシーンの情景や人物の心情を音楽でどう付加するかなんですよね。盛り上がるかどうかは、あくまでも結果でしかないというか。富野さんの場合も、作品と同じ哲学を持った音楽をシーンの横に並べたい演出家だと思いました。哲学が共有されず、音楽が勝手に盛り上がるようなことは避けたいと思った。とにかく富野さんの求める音楽を、せっせと作った感じですね。「∀ガンダム」の深みを表現するのに必要なのは“盛り上がる音楽”じゃなくて、“同じ哲学を鳴らす音楽”なので。
確かにHans Zimmer的なハリウッド映画のBGMって、「この音楽は他の作品 にも流用できそうだな」というものが多いように感じます。菅野さんの音楽の場 合、他の作品への流用は絶対にできないなと。
作り方は毎回全然違います。もちろん、ハリウッド的なものを求められれば喜んで作りますけど、毎回監督がいろいろな違う要望を下さるので、同じ作り方で作った音楽とか、同じ方法で辿りついた音楽にはなり得ないです。
監督や演出家との対話は、お好きですか?
好きですね。一筋縄でいかない方が多いから(笑)。すごく刺激になります。たまたまハリウッドの話になりましたけど、日本のアニメって、ハリウッド映画のように合議制で作られたものって少ないと思うんですよ。たった数人の突き抜けた才能が引っ張っていくからおもしろい作品ができるのだと思っていて、その突き抜けたところが日本のアニメの素晴らしさだと思うんです。「合議制にした結果、平均的にポジティヴな作品になりました」というような作品には、私はあまり面白さを感じません。民主主義的ではないかもしれませんけど、とんでもない人のとんでもない意見と演出があって、そこに音楽を求められる方が、私は好きです。深層心理のどす黒さがそのまま表現されていたり、演出家の思想とかクセがそのまま出ていたり。そういうのが日本のアニメの特徴でもある気がしますね。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』は神山健二監督ですが、当時はまだ新進気鋭の若手演出家、という感じでした。この作品は今どのように振り返っていますか?
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』は、その前の映画(『GHOST IN THE SHELL』)がすでに有名な作品でしたから、途中から参加するみたいな形はすごく難しいんです。前評判みたいなものも付いて回るし、前作も気にしないといけないのかな?とか考えちゃうし。だから基本的にはあまりやりたくないんですけど、神山さんにお会いしたら、なんだかめげない人で。柔らかいけどしなやかな人、というか。あと、神山監督も文学がすごく好きで、『攻殻』の打ち合わせにいったのに『ライ麦畑でつかまえて』の話をするんです。「あ、面白いな」と思って、この人となら長丁場を一緒にやっていけるかもって思えたんです。そういう接点がないと、私はまったくの機械音痴なので、『攻殻』の設定の話がちっとも頭に入ってこないんです(笑)。「Salinger(サリンジャー)なら分かるな」と思ったことが、ひとつのきっかけでした。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』では『マクロスプラス』以上にテクノ、ハウス、ドラムンベース的なアプローチを深く追求されていましたが、どのようなコンセプトで制作を?
今思い出したんですけど、あの時私の中で裏テーマとして設定していたものが、「be human」だったんです。そういうタイトルの曲も生まれましたけど、仕事人間が「be human」という時は「人間らしくありたい」という意味になりますし、機械が「be human」といういう時は「人間になりたい」になる。機械が知性を得た時代・・・今は初音ミクのような存在もいますけど、「はたして機械はどこまでいったら人間になるのか」ということを、あの作品のときは考えていたんです。(登場人物の)草薙素子は女性型サイボーグで、「人か機械か」という哲学的な命題に直面している。だからあの作品の音楽は、味わいとして悲しいんです。もう、純粋な人には戻れませんから。そんな彼女のことを想ったり、AIを搭載した可愛らしい多足型兵器ロボット、タチコマちゃんのことを思ったりしながら作っていました。それが「be human」という、いわばアイデンティティを表現したいというテーマになっていましたね。
タチコマに対しては、音楽でもものすごく愛情を感じました。
そうですね(笑)。実際に、段々とそういう問題が今の時代は出てくると思うんですよね。ロボットやアンドロイドとの関係性による、アイデンティティの問題が。あの当時はまだ想像の中の出来事でしたけど。
アメリカ横断で感じたグル―ヴの揺れやウィンナーワルツといった、実際に現地 で体感したサウンドやリズムが今もさまざまな音楽制作に生かされていることは、とても興味深い話だった。だからこそ多彩な演出家との対話から引き出される音楽 の豊富さに、我々受け手側は根底にある「リアル」を感じることができるのだろう。
そんな菅野が考える、映像音楽におけるさまざまな制約に関する話から、 『NHK震災復興プロジェクト』から生まれた「花は咲く
」について、そして最新作『残響のテロル』や音楽家としてこれからの目指すべき場所などなど、最後まで会話の振り幅の大きなインタビューとなった。
アニメや実写、CM音楽もそうですが、時間的にもテーマ的にもさまざまな制約が要求される物作りだと思います。菅野さんはその制約について、どのように捉えていますか?
制約は私にとってありがたいものですね。私は外界との境目があまりない人間で、制約がないととろけちゃうというか(苦笑)。すぐにいろいろなものを吸収しちゃうし、すぐに出ていっちゃうし。制約の中で物を作る方が楽しいんですよね。だからCM音楽とか大好き。「この中で遊びなさい」と言われて箱庭を用意してもらう方が好きです。その箱庭が小さくても大きくても、全然大丈夫。逆にそういう制約がないと、ドロドロっと自分の意識が溢れてしまって、形を成さないんですよね。自分の意識って感覚として実体化していて、体から常にはみ出していて、それを引きずって生活している感じなんです。その意識が車に引かれたら「痛っ!」と感じるくらい(笑)。そういうものを制約という箱に纏めてもらえるから「その中に何を入れようかな?」と考えられる。だから、制約はすごく助かりますね。
世界中に菅野よう子ファンを生み出すほどに、菅野さんの音楽には「菅野よう子らしさ」を感じるほどの記名性があると思うのですが、長い活動歴の中で、ご自身名義のアルバムなどはほとんど残されていませんよね。それも今のお話に関係する部分なのでしょうか?
どうなんでしょう・・・? 今まで、あまり記名性みたいなものを考えたことはなくて、偶然記名性が感じられるような作品との出会いに恵まれていた、くらいにしか考えていないですね。あと自分名義のアルバムとか、「これが菅野よう子です」と出すのが口はばったい、というか(苦笑)。
たとえば坂本真綾さんのプロデュースを彼女のデビューからされていましたが、やはりそれも、彼女という入れ物があったからできたこと?
そういうことでしょうね。ただ私、ここ3ヶ月くらい何故だかBeyoncéが好きなんですけど、何年か前に彼女って別名義のSasha
Fierceでアルバムを出していたじゃないですか。あれだけ才能に溢れた人でも、別名を名乗りたくなる意味というものについて、考えたんですよね。あれだけの人でも別の入れ物を必要とするんだって思って、ちょっとシンパシーを感じたんですよ。あからさまに正直に自分を表現するアーティストであっても、別人格でしか表現できない”何か”があるんだなぁって。自分を客観視することって、すごく難しいですから。
Fierceでアルバムを出していたじゃないですか。あれだけ才能に溢れた人でも、別名を名乗りたくなる意味というものについて、考えたんですよね。あれだけの人でも別の入れ物を必要とするんだって思って、ちょっとシンパシーを感じたんですよ。あからさまに正直に自分を表現するアーティストであっても、別人格でしか表現できない”何か”があるんだなぁって。自分を客観視することって、すごく難しいですから。
つまり“菅野よう子”という存在は、さまざまな作品やアーティストの入れ物を借りて、世界中に存在しているということでもありますよね。
だから私に仕事を依頼してくださる相手が、どの私を見て依頼してきたのかな? って気になるんです。要求される内容が人によってぜんぜん違いますから。「アニメは知らないんですけど、実写映画を見て・・・」という方もいらっしゃるし、もちろんその逆も。NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』の音楽をやりましたけど、それしか知らない方もいらっしゃる。「菅野さんってアニメもやられているんですね」って言われたり(笑)。相手がどのドアから入って来てくださったかによって、私の音楽に対する解釈の違いはさまざまです。
最近は「花は咲く」(「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソング)で知ったという方も今は多いかもしれませんね。
比較的高齢の方に、そういう方が多いですね。
東北ご出身の菅野さんですが、改めて「花は咲く」はどんな思いで作曲されたのですか?
何かの役に立てれば、という思い。その気持ちだけです。チャリティーのお仕事なので、ちゃんとそのチャリティーが成立するような音楽にしなければならないし。
中学生や高校生が合唱コンクールで歌う曲としてもお馴染みですし、今は音楽の教科書にも載っています。もしかすると菅野さんの曲と知らずに歌っている人も多いかもしれませんね。
それはすごく嬉しいことです。まるで昔から存在している曲であるかのようにみなさん歌って下さっているので。通りがかった学校から「花は咲く」を練習しているのが聴こえたり、電車に乗っているおばちゃんが「あの曲難しいのよね」と話していたり(笑)。これは初めての経験ですし、曲が曲として愛されているのは、音楽家冥利に尽きますね。あの曲を作っていた時は震災に対する怒り、悲しみ、絶望が渦巻いていた時期で、大勢のアーティストがその思いを音楽にしていました。私はあのとき、これ以上、当事者以外の人間が「自分の思い」を発表するのを聞きたくはないなあと思っていたんです。実際に震災で苦しんでいるみなさんは、まだ自分たちのメッセージを歌にできるような状況ではなかった。部外者のような人間が「自分の思い」を叫んだところで、果たしてそれはどんな意味を持つのだろう?って。だからこの曲を作るべきなのかどうか、すごく悩みました。それは作詞された岩井俊二さんも同じだったと思います。だから「震災の歌」ではなくて、たとえば「赤とんぼ」のような、唱歌と同じように愛される曲を作りたいと思って、自分の気持ちを一週間くらいかけて4歳の頃に戻して、書いた曲だったんです。私はいつでも使えるよう子供のころの気持ちを冷凍保存していて、たとえば「14歳の気持ちで作ろう」とか、そういうことをやるんですけど、4歳にまで戻したのは初めてでした。もちろんチャリティーとして成立させるためには、綺麗事だけではなくて、ちゃんとみんなが「チャリティーに協力したい」と思える曲を作らなければならなかったので、みんなに届ける為の工夫もしましたけど。そういうことがしっかりと実を結んでくれたのであれば、良かったなぁって思います。
最新作である『残響のテロル』のお話もお伺いしたいのですが、アイスランドのSigur Rósのスタジオでレコーディングを行われたことも話題になりました。彼の地の荒涼とした自然や空気を感じさせるような音楽でしたが、実際にアイスランドはいかがでしたか?
まさにそういう、荒涼としたものを求めて行ったんです。本当に何もない場所で、荒涼としていて、木がなくて、決して豊かではない環境の中で人々が生活をしていて。現地の人々と会話をしていて感じたことは、空想家が多いなって。長い冬の間、家に閉じ籠ったままいろいろな想像を巡らせながら生きのびてきた。そういう根性を持った人たちが住む島なんだなぁって感じたんですよね。
根性ですか(笑)。
そう。たとえば南の島の人たちって、外で寝転んでいても自然に殺されることはないですよね。でも北国って、酔っぱらって外で寝たら死にますから。そういう厳しい環境で生きる人々の心象風景って、特別なものがあると思うんですよ。長い冬を精神的に荒廃せず保たせられる、詩的な人が多いなって感じたんです。しかも人口がすごく少ないから、ミュージシャンもいろいろなバンドを掛け持ちしていたり、他の仕事があったり、楽器も最新のものじゃなくて、壊れたオルガンを使っていたりしていて。こだわりというより、場所に順応していった結果そうなった、そういうものが、あの土地ならではの音楽を作り上げているんだなぁって、実際に行くことで分かりました。
アイスランドのミュージシャンの作る音楽で、キッチン用品を叩いてパーカッションにしているものや、おもちゃのピアノを鳴らしたようなものがありますが、それが独特な味になっていますよね。
だって、新しい楽器がないんですよ。すごく遠いところから運んでこなくちゃならなかったりするので。ただ、繊細ですごく優しい人が多い国でした。加えて『残響のテロル』の音楽に関しては、14歳くらいの自分に降りていって、「なんて最低な世界なんだ」という心境で作っていました(一同笑)。
確かに愛らしい曲、美しい曲もありましたが、どこか切なさや焦燥感を感じましたし、ものすごく暴力的なギター・ノイズを取り入れた曲も劇伴では印象的でした。
据えた目で世の中をみているような感じ(笑)? どうしようもない世の中に腹を立てながら、そんな状況を受け入れなければならないような・・・“諦観”みたいな気分ですかね。絶望と諦めの間のような、不安と救い、そして絶望・・・そのグシャグシャした感情を掘る音楽かな。そういう感情って、現代社会ではみんな蓋をしながら生活をしていると思うんです。そんな気持ちのままに生きていたら、人間は簡単に壊れちゃいますから。気分を紛らわせながら、ネットしたりゲームしたりして生きてる、そのあたりの感情を10センチくらい掘ったような、そういう音楽にしました。実際にアイスランドで空気を感じながらレコーディングしたことは、大きかったですね。
いろいろなお話をお伺いしてきましたが、改めて菅野さんの音楽はイマジネーションだけではなく、実際に体感したことや経験の積み重ねで生み出されているものだということがよく分かりました。
やっぱり、最終的には皮膚感覚で感じたものがすごく大きいと思うんですよね。だから今一番したいことは、リズムのルーツを探る旅なんです。本当はアフリカに行きたいんですけど、エボラ出血熱の関係で難しくなっちゃって。いろいろな人に聴いたらリズムといえばアフリカがルーツだというので、人間のルーツになった猿のような存在が、初めて太鼓のようなものを「ドン!」と叩いた、そういう場所に行きたいんです。その場所に行けば、何でその「ドン!」が必要だったのか、何を伝えたかったのか、それは踊るためなのか、それともそうじゃないのか、それが分かるかもしれない。それが分かれば、リズムによる新しい表現も見つかるかもしれない。CDを聴いているだけでは分からない空気を震わす体感が、今は欲しいんです。行ってみたい場所がたくさんあるんです。
それが今、音楽家として追求したいことなんですね。
きっとまだ誰も鳴らしていない、もっと人の感情を揺さぶるリズムやビートがどこかにあると思うんですよ。私はそれを見つけて、鳴らしたいんです。そのリズムが鳴っているだけで生きてていいと思えるような、そういうリズムを探すことが、音楽家としてこれから追求していきたいことかもしれません。
http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/yoko-kanno-interview