鶴瓶のスケベ学|1
鶴瓶という男がいかに“スケベ”であるか
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。けれど、落語家なのにアフロヘアでデビュー、吉本と松竹の共演NGを破った明石家さんまさんとの交流、抗議を込めて生放送で股間を露出……などパンクな武勇伝は数知れず。決して気安いだけの芸人ではないのをご存知でしょうか。
そんな鶴瓶さんのスゴさに、“てれびのスキマ”こと戸部田誠さんは、ある時、はたと目覚めたそうです。芸人・笑福亭鶴瓶の過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん渾身の新連載です。
「“べえ”が足りないのよ」
久々に笑福亭鶴瓶の落語会に訪れた糸井重里は開口一番そう言った。
「べえ」とはもちろん笑福亭鶴瓶のことだ。「べえ」のエキスを浴びると元気になる。糸井重里にとってそんな存在なのだろう。
ちなみに言うまでもないが、鶴瓶は「つるべ」であり、「つるべえ」ではない。
だが、やっぱり「べえ」のほうがしっくりくる。
そこには鶴瓶の鶴瓶たる所以が隠されている気がする。
この連載では、「鶴瓶のスケベ学」と題し、その掴みどころのないスゴさを解き明かしていく。
孤高のBIG3にはない幸福感の正体
笑福亭鶴瓶といえば、芸歴40年の押しも押されぬ大御所だ。
しかし、さんま、たけし、タモリの「BIG3」には入れなかった。ビートたけしやタモリ、明石家さんまといった「BIG3」を人は「天才」と呼ぶ。その才気は疑う余地のないものだ。
そして彼らにはひとつの共通点がある。
それは「孤独感」だ。
樋口毅宏はタモリを「絶望大王」、さんまを「真の絶望王」と呼んだ(『タモリ論』)。たけしの絶望感も言うまでもないだろう。彼らは一様にそうしたある種、他者を寄せ付けない孤独感が漂っている。
それは恐らく、本当の意味で他人を信じることができないからだろう。
これは「BIG3」に限らず、多くの「天才」と呼ばれる人物に共通したものだ。
だが、鶴瓶には、それが一切ない。彼にあるのは「幸福感」だけだ。
これだけ才能の塊のような男が、まったく孤独感を感じさせないのは驚異的なことだ。
鶴瓶は常々自分が「性善説」に立っていると語っている。タモリは鶴瓶のことを「自閉症」ならぬ「自開症」と“診断”している。誰に対しても心を開き続ける鶴瓶はまさに病的である。
鶴瓶は、他人を信じている。それができるのは、誰よりも自分を信じているからだ。
多くの人が他人を信じることができないのは、即ち、自分を信じ抜くことができないからだ。
だが、鶴瓶は他人も自分も、つまり人間を信じ切っている。だから、「孤独感」がまったくない。バケモノである。
もしかしたら本当の「天才」とはこういう人を言うのではないだろうか。
鶴瓶のスゴさは“芸”そのものではないのかもしれない
正直言って、鶴瓶のスゴさは一般には伝わりづらい。
同世代の芸人からはもとより、後輩芸人にまでイジられ、ツッコまれ、タジタジになっている姿からは、“大物”感がまったくない。
時にたどたどしく、冗長なトークは、短い時間でフリ、オチを完成させている今のテレビのフリートークからは時代遅れのようにも見える。
好感度は高いが、お笑い芸人が目指すべき頂点とは別の場所。
そんな風に僕も思っていた。けれど、それはまったくの誤解だった。
笑福亭鶴瓶こそが、テレビが、いや、日本人が生み出したとんでもないバケモノであることにようやく僕は気づいたのだ。
たとえば僕がそれを目の当たりにしたのは『鶴の間』(日本テレビ)という番組だ。
ひとりの芸人がゲストとして訪れる。それが誰なのかは鶴瓶には内緒だ。そして本番で初めて対面する。そこから即興の漫才を行うという趣向だ。
いわば、即興で物語を作りながら演技をする『スジナシ!』の漫才版だ。いきなり何も決めていない状態から、漫才をしなければならないのだから、相当ハードルが高い。
けれど、鶴瓶はもちろん、明石家さんまや三宅裕二、劇団ひとり、大竹一樹……とゲストに来る芸人も百戦錬磨の経験を積んできている。約30分のトークを客前で成立させるのはそこまで難しいことではない。
実際、そのほとんどの回で見事に即興のトークを交わしていた。
だが、僕がこの人はバケモノだと気付いたのは、そんな2人のトークがちゃんと漫才に変わる瞬間があったからだ。
対面した当初は、いわゆるフリートークが交わされる。だが、ある瞬間からそのやりとりが「漫才」の掛け合いとしか言いようのないものに変わるのだ。
鶴瓶の出自は落語家だ。本格的な漫才修行の経験はない。
にも関わらず、鶴瓶は相手の語り口に合わせながら、ここぞという瞬間に漫才に変えていくのだ。
僕は鶴瓶のことが急に気になり始めた。それは“鶴瓶に目覚めた”と言っていい。笑福亭鶴瓶はただのベテラン芸人ではない。紛れもない天才のひとりであることに。そしてその天才性が周りの人たちを巻き込みながら発揮されていくという特殊なものであることに目覚めたのだ。
すると彼が日本の芸能史において、重要な場面の傍らに必ずと言っていいほどいるということにも気づいていく。
それを象徴するのが『笑っていいとも!』(フジテレビ)の終了発表だろう。
いつもと変わらぬ日常の『いいとも』が放送されていた13年10月22日、火曜日の『いいとも』のエンディング。いきなり入ってきた鶴瓶がタモリに問いかけた。
「俺、聞いたんやけど『いいとも』終わるってホンマ?」
別の曜日のレギュラーである鶴瓶がわざわざ“乱入”するという形で歴史的番組の終了を発表したのだ。
もちろんこの“乱入”は演出である。タモリ自らが、鶴瓶にその口火を切ってほしいと願ってされたものである。
選ばれたのは他の誰でもなく鶴瓶だった。鶴瓶でなければならなかったのだ。その意味するところは大きい。
たとえば、鶴瓶は日常のなんでもない出来事を寄り道しながらたどたどしく話しながら、最後にはオモシロエピソードに仕立てあげる。それは「鶴瓶噺」としか言いようのない至芸である。
もし鶴瓶の話を聞いた僕らが、それを翌日、学校や職場で「昨日、鶴瓶がこんな話をしてて」と話しても、聞いた人は「どこがおもろいねん」と言われてしまうだろう。
「この『どこがおもろいねん』だけが(相手の印象に)残るわけや」※1
「けど、だから僕は長生きしてるんです」※2
だけど、鶴瓶のスゴさはその“芸”そのものではないような気がする。分析すればするほど、そのスゴさの本質から離れていくのではないか。
人見知り、時間見知り、場所見知りしないこと
60歳を超えた今も、ローカル番組を含めテレビのレギュラーは6本。しかも、多くの番組で企画段階から携わり、『A-Studio』などのように自ら多くの時間と労力を課している番組も少なくない。それに加え、2本のラジオ番組も継続中。そして自身の単独ライブといえる「鶴瓶噺」はもとより、現在は落語に力を注ぎ、落語会などで高座に立ち続けている。少し前で言えば『紅白歌合戦』の司会を務め上げたかと思えば、その翌年末には「『紅白』からオファーがないから」と牛のコスプレで牛の“授乳”に挑戦したり、ローションまみれで水着の女性たちにダイブしたりといった“ヨゴレ”仕事を喜々として行う。
なんたるバイタリティだろうか。
その源はなにかと問われ、鶴瓶はこう答えている。
「スケベやからかな(笑)」※3
とけるような細いタレ目、常に微笑みを浮かべているような口元、男性ホルモンが旺盛なのをイメージさせるようなM字ハゲ……。その顔はスケベそのものだ。
また鶴瓶はこれからの芸人に必要なのは、「いかに遊ぶか」だと言っている。いわゆる「飲む打つ買う」とは違う“遊び”だ。
「人見知りしない。時間見知りしない。場所見知りしない。そこに対していかに助平であるか。それが芸人にとってのフラになるんやから」※4
それは芸人だけではなく、誰にでも当てはまることだ。
ちなみに“フラ”とは落語用語で、理屈では説明できない天性のおかしさ、というような意味で使われる。
糸井重里は「“べえ”が足りない」といった。
その「べえ」は鶴瓶のことであるのと同時に、「スケベ」と言い換えることができるかもしれない。
鶴瓶の言う、「スケベ」とは一体どういうことなのか。
そこには僕らが幸福に生きるためのヒントが隠されている気がする。
今、日本には「べえ」が足りない。
ならば、これから鶴瓶の生き方を通して、「スケベ」に生きる術を学んでいきたい。
※1, ※2:『読売ウィークリー』11年3月18日号より
※3:『SWITCH』14年3月号より
※4:舞台「The Name」パンフレットより
鶴瓶のスケベ学|2
13歳の少女と40年も縁がつづく、人にスケベな男
鶴瓶さんは初心を忘れず、サインは基本的には断らないと言います。そして、ファンをとても大切にする。一見、当たり前のようですが、その親切さは度を越していて、まさに「スケベ」なのです。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん渾身の評伝コラムです。
人との関わり方もスケベそのもの
笑福亭鶴瓶はスケベである。垂れ下がった目、常に上った口角、その見た目もスケベそのものだが、「人」に対する態度もまたスケベそのものである。
たとえば『ミッドナイト東海』というラジオ番組をご存じだろうか。
いや、知らなくても当然である。『ミッドナイト東海』とは今から50年近く前の1968年に始まった名古屋のローカルラジオ番組である。
鶴瓶は、デビューして間もない1975年、この番組のパーソナリティに抜擢される。3時間しゃべりっぱなしの生放送だった。鶴瓶は番組が終了するまでの9年間、パーソナリティを務めた。即ち、彼のフリートークの原型ができた番組である。
その番組で鶴瓶は中高生の兄貴分的な存在だった。そんなリスナーの中で「一番のファン」だったのが当時13歳の少女だ。
鶴瓶が最初に書いたサインは、彼女に書いたものだった。
それだけなら、ごく普通のファンとタレントの関係だ。だが、鶴瓶が特異なのはそのあとだ。
なんと、今でも、その最初のファンと交流を続けているというのだ。もう40年近くにもなる。その人付き合いの良さは「スケベ」としか言いようがない。
もちろん、いわゆる男女のスケベではないだろう。当時13歳の少女は50代の淑女だ。
性的な興味で、縁が続くはずはない。
自称・日本で一番サインをしている男
鶴瓶は基本的にサインを断らない。
「言うとくけど、俺、日本で一番サインしてるよ。二千円札より俺の方が多いわ(笑)」※1
映画などで長期間同じ場所に滞在すると、最後には1世帯につき2~3枚以上のサインを書くことも少なくないという。
一度、変わった名前の人にサインを書いた。普通の名字の前に『コ』という一文字がつくのだ。
漢字を聞き返すと「故」だという。
「一家にひとつ、誰々さん、誰々さんで、死んだ人にまでサインを書いたんですよ」※2
求められたら拒まない。サインには積極的に応じ、声をかけられれば家にも上がり、トイレはおろか風呂まで借りることさえある。
映画『ディア・ドクター』の撮影時には、こうした鶴瓶の態度によって、「市がひとつになった」とロケ先の市長が評した ※3 ほどだ。
芸能人としてのオーラがどこまでなくせるか
鶴瓶がサインを断らないのはある原体験からだろう。彼は小学6年生の頃、友人たちに嘘をついた。
当時流行していたフォークバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」の親戚だと見栄を張ったのだ。子供の他愛のない嘘である。
しかし、友人たちから「サインもろてきて」と頼まれることになってしまった。
「えらいことになってしまった」
鶴瓶は困って、自分でニセのサインを書いて渡した。子供心に罪悪感があった。けれど一方で「芸能人になったような気分になって、ちょっとええもんやなと……」と思ったという。※4
大学に入ると、当時から人気者だった鶴瓶はまったくの素人にもかかわらず様々な大学のイベントに司会役などで駆り出されていた。
そんなイベントが終わり、四条の河原町に佇んでいると一人の少女が近寄ってきた。
「サインして」
初めて書く自分のサイン。それがたまらなく気持ちよかった。
「だから、サインするという行為みたいなのはこの世界入って当たり前のようにできだしたことが、すごいうれしいし。そういう意味ではね、サインってちゃんとせなあかんなと思いますね。(サインを)しとうて入ったんやから、この世界に」※5
一方で鶴瓶は「これはひとつの実験」だと鶴瓶は言う。
「『俺の芸能人としてのオーラはどこまで無くなるんやろう』って」※6
ロケで一度会っただけの人にも電話番号を教え、電話がかかってきても面倒臭がらず対応する。
ある時などは、13年前に会ったきりの人から突然電話がかかってきた。
「私のこと、覚えてはりますか?」
電話口の声は暗い。
「うん、覚えてるよ。阪神百貨店のハンちゃんやろう?」
彼女はラジオのリスナーだった。
「うわあ、覚えてくれてはりましたか!」
いちファンの自分のことを覚えてくれている鶴瓶に彼女の声は一気に生気を帯びた。「そんなことよりどうした?」と鶴瓶が尋ねると「私、パニックになってしもうて……」と彼女は語り始めた。歯の矯正に歯医者に行ったら歯をボロボロにされた、また違う歯医者に行ったら今度は歯茎までボロボロにされたというのだ。
「私、もうどうしたらいいかわからなくなって……、ふと鶴瓶さんを思い出したんです。どっかいい歯医者さんを知りませんか」
いちファンがタレントになにかを相談したくなることはままあるだろう。だが、実際に相談できることはほとんどない。しかもそれが歯医者のことなど、普通考えられない。
当然、それに対し、「もっと違うところに相談したら」と返すくらいが普通の対応だろう。いや、「そんなこと相談してくるな」と怒鳴りつけてもおかしくはない。
しかし、鶴瓶は違う。「俺もあんまり知らんけど探したるわ」と一旦電話を切り、口腔外科と技士が揃っている歯医者を探しだし、紹介してあげてしまうのだ。しかも、その歯医者、実際に彼女が行ってみると、彼女の中学の先輩だったというちょっとした奇跡までついていた。
「ハンちゃんにかぎらず、みんな友だち感覚なんですよ。僕自身、自分のことを芸人やと思ってないしね。日常を語るのに一番近いしゃべり手の人間いうんか、いうたら僕にとっても日常のちょっとしたやりとりが一番好きなことなんですよね」※7
「俺は好感度よりも実際に逢うた人に『感じええ』と思われる人生を歩みたいと思ってる」と鶴瓶は言う。「逢うた人は絶対に逃さない」と。※8
日常の人と人との交流にスケベに生きる。
そのスケベ度合いは、ちょっとどころではないほど行き過ぎている、それが鶴瓶という男だ。
鶴瓶のスケベ学|3
嫌いな人がいない人間なんているか? いる、それが鶴瓶だ。
鶴瓶さんは、嫌いな人がいないと言います。人にスケベな生き方の根底にある、性善説を超えた「性可愛説」とはどんなものなのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
「嫌いな人います?」SMAP・中居正広にそう問われ、笑福亭鶴瓶は断言した。
「いないんや。みんな好きやねん」※1
「いままででだよ?」とさらに二宮が追求すると鶴瓶は改めて少し思い返して答えた。
「いないなぁ。嫌いとかいうのは、やっぱ好きやから嫌いなんやろ、たぶん。なんか気になるから嫌いになってしまうねんけど、やっぱり好きなんやろ、それは」※2
トラブルに自ら首を突っ込む男、それが鶴瓶。
「鶴瓶さんがスゴいと思うのはさ、災いの方に向かっていくじゃないですか」
糸井重里は鶴瓶のスゴさをこのように語る。それに対し、鶴瓶も「そうやろね。意識なく入っていくよね」と同意する。
こんなことがあったという。
自身が主催しているライブ「無学の会」の開演が迫っている時だった。
鶴瓶が会場である「無学」に向かう途中、車から降りると、若い男がパジャマ姿の女性を引きずり回していた。
ただの痴話喧嘩なのか、暴行事件なのか、何が起こっているか分からない。女性が悲鳴を上げているが、周囲の人たちは遠巻きに見ているだけで誰も助けようとしない。
鶴瓶はその人垣をかき分けて中に入っていくと、2人を引き離し、男に事情を聞き出し始めた。
普通、芸能人だと、躊躇しがちだ。どんな因縁をつけられて、トラブルに発展するかわからない。しかも、ライブの開始時間は迫っている。それでも、鶴瓶は放っておくことができない。
「しないで見過ごしてししまうことの方が疲れる」※3
ある時などは、「じつは私、妊娠してます」と相談してきたファンがいる。
もちろん、鶴瓶の子ではない。妊娠させた男がたまたま知り合いだったため、その男にわざわざ会いに行った。すると、その男は別の女性も妊娠させていたのだ。子供を含めた5人の三角関係の間に挟まれた鶴瓶は、困惑しながらも親身になって話を聞いたという。
「シンドイでっせ。もう片棒かついだようなもんやし、自殺したらいかんと遅うまで話しこんで」※4
自ら面倒で危険な“災い”に向かっていく。けれど、自分からそこに向かっていけば、受け身が取りやすい。
明石家さんまの好きな言葉にモハメド・アリの「わざと打たせたボディは効かない」という言葉がある。
不意に打たれたパンチはダメージがあるが、来ると分かっているパンチは同じパンチでもダメージはほとんどないということだ。それと同じことだろう。
鶴瓶はトラブルに自ら首を突っ込むと、それをカウンターで返すようにおもしろおかしいエピソードとして語ることができるのだ。
性善説を超えた性可愛説
以前、あるニュース番組からインタビュアーとして出演依頼があったという。その番組は実現しなかったが、その際に鶴瓶は番組側にこう言ったという。「僕がやると全部その人らが可愛く見えるけどいいんですか」
鶴瓶は“最悪”な人でも、その中の可愛らしい部分を引き出そうとする。
「それは僕にとって絶対大事なことなんです」と言うのだ。※5
どんなにヒドい事件を起こした相手を見ても、どうしてこんなにいいところがある人間が、そんなしょうもないことをしてしまったのか、という視点でしか語れない。ダメだと断罪することができないのだ。
たとえば、『日本のよふけ』(フジテレビ)で鶴瓶は田中角栄の秘書・早坂茂三に話を聞いている。
早坂は全日空の飛行機に乗った際、離陸時になってもリクライニングを直さなかったため、出発時間を大幅に遅らせてしまうという“事件”を起こしている。最近で言う大韓航空で起きた“ナッツ・リターン”事件を髣髴とさせる事件だ。
鶴瓶は早坂に向かって堂々と問い詰めた。
「なんでそんなしょーもないことしたん? そんなもんみなに迷惑かかるやないか」
すると早坂は毅然として言った。
「私は全日空に死ぬまで抵抗する。実は私のボスは全日空に嵌められて失脚した。だから、どんな理由でも向こうから声をかけてきて、何かこっちに言ってきた時には必ず何故だと抵抗してやる。私は田中角栄の弟子なんだから」
もちろんそんな理由で、そんなことをするのはダメに決まっている。けれど、鶴瓶にはその理由が「可愛い」と思えるのだ。
理屈抜きで師を仰ぐこと。そのためには理不尽な振る舞いだって厭わない。それは鶴瓶もまた師の理不尽であると同時に深い庇護を受けて育ったという思いも去来したのだろう。
距離や角度を変えれば違った面が見えてくる。
「1ヵ所だけ切り取って見てしまうと嫌なヤツやけど、そこからちょっと離れて見てみたら、こいつごっつい才能あるな、ということが、けっこうあるんですよ」※6
「かなわんなって思う人はおるけど、あえて何回も側に寄っていくと克服できる。逃げてると、ますます苦手になる」※7
「ネアカ元気でへこたれず」という言葉がある。鶴瓶の好きな言葉だ。
「やっぱり明るい気持ちでないと。暗いものって、へこたれてしまうんです」と言う。
人は暗いものや嫌いなものに目が行きがちだ。それを遠巻きで見て批判したり嘲笑したりする。自分より不幸なものや、無条件で批判できるものを見るのは楽だからだ。けれど、それではネガティブなものは一生ネガティブなままだ。
「嫌なことより、やっぱりね、いいことのほうが強いですよ」※8
「イヤやと思って拒絶することは簡単やけど、イヤやからよけい近づくっていう方法を何十年もとってるんです」※9
鶴瓶のスケベ学|4
本当は“悪い”鶴瓶のハナシ
親しげなえびす顔の鶴瓶さんに「悪瓶(わるべえ)」という異名があるのをご存知でしょうか? 好感度抜群の鶴瓶さんは、実は計算高い「悪瓶」なのか。ナインティナインやさんまさんのエピソードなどから解き明かします。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさんの評伝コラムです。
「いい人」というイメージの笑福亭鶴瓶には一方で「悪瓶」(わるべえ)という異名がある。
これは、『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)での「大笑福亭悪びん」というコーナーが始まりだった。96年の『笑っていいとも!特大号』の打ち上げで酔った鶴瓶が周りの出演者たちに暴言を吐きまくった。そのエピソードを語るうちにできたコーナーだった。
そこで“本当は悪い”鶴瓶のエピソードが語られるようになった。
もっとも有名なものが鶴瓶がナインティナインにあるアドバイスを送ったというエピソードだろう。
それは97年3月に放送された日本テレビの改編期の特番『春は超人気番組大集合!! マジカルまる見えバラ珍コラえて特ホウ特命おしゃれに大辞テンもヒッパレ!!』でナイナイと鶴瓶が一緒にコーナーMCを務めた時のことだ。
緊張する矢部に鶴瓶はアドバイスをした。
「笑ろとけばええのや」
矢部はそのときの鶴瓶の目が笑っていないことにゾッとした。スケベで親しげなえびす顔の眼の奥に鶴瓶の空恐ろしい部分を垣間見たのだ。落語家の先輩である桂きん枝は鶴瓶を「えびす顔の悪魔」と呼び、所ジョージは鶴瓶にこんな歌を捧げている。
「鶴瓶さんはいい人だぁ~。『いい人』って役を上手くこなす人♪」※1
さんまがネタにした悪い鶴瓶
いまではこうした鶴瓶の好感度溢れる笑顔を揶揄するネタは広く知れ渡っているが、最初に「悪瓶」的な側面をネタにしたのは明石家さんまだった。2人はさんまがデビューしてすぐからの付き合いだ。さんまがまだ19歳くらいの頃、2人は出会った。
同じ落語家でありながら、早くからテレビやラジオに活躍の場を求めた2人はいつしか“兄弟”のような関係になった。
まだ2人が大阪に住んでいた頃、鶴瓶が名古屋に、さんまが東京にラジオの仕事に行く新幹線で鉢合わせになることが多かった。
駅のホームにはファンが集まっていた。そのファンに向かって鶴瓶は会釈をし、愛想を振舞っていた。
さらに鶴瓶はそんなファンから差し入れにおにぎりをもらった。電車が発車するまでの間に、鶴瓶はそのおにぎりを頬張った。
ファンからもらった食べ物は食べれないと訝しむさんまに向かって鶴瓶は言った。
「たしかに何か変なもんが入ってるかもしれんしな。俺も怖いよ。でもな、俺はファンを信じてこれを食べんねん。見てるとこで食べてあげると喜んでくれるやろ。芸人は喜んでもらってなんぼや。俺はファンを大事にしたいねん」
「見てないとこで食べてもしゃあないがな。俺は今、あんまり腹空いてないねん」
出会ったばかりの頃、鶴瓶はさんまに大判焼きを奢ってあげた。当時は1個30円。
さんまがテレビに出始めると鶴瓶はしきりに「昔奢ってやった」とネタにした。ということを「たった1個でやで!」とさんまは喜々としてネタにする。
そんなイジり、イジられの関係がずっと続いているのだ。
「僕としては芸人が言うてくるもんはどんな揶揄でもなんぼでも受け止めたると思ってますよ。世間の人気なんてもんどうでもよくて」※3
鶴瓶に対し気軽に頭を叩いてツッコミを入れる矢部に対してこうも言っている。
「叩いたらええのや、お前ら若手がおれの頭を叩けば叩くだけお金が入ってくるねや」※4
40年近く偽善を続けるとどうなるのか
果たして鶴瓶の「いい人」イメージは間違いなのだろうか。「偽善」なのだろうか。
彼がロケをしていると決まって子供たちが寄ってくる。
「ツルベだ! ツルベだ!」
鶴瓶の飾らない自然体の姿に、引き寄せられるように自然と人が集まっていく。
そんな光景を見て映画監督の山田洋次は「いいよなあ、鶴瓶さんは。寄って来たら、みんな笑ってる」とうらやましがっていたという。
「俺、それ、望んでたんやもん」
「自然にしているというよりも、目指さないとできない」
「だから自然じゃないよね。だけど、そうやってることが38年続くと、もう自然なの。だからよう言うの、俺、ホンマにどんな性格かわからんようになってもうたって」※5
最初は偽善的なスケベ心から始まったのかもしれない。作られた自然体を演じていたのだろう。けれどそれを続けていくことで、いつしか真実としかいいようがない事実に変わる。
ファンから差し入れられたおにぎりを食べたいから食べたのではなく、ファンにアピールするために食べたとしても、その目の前で食べた事実は変わらない。
「俺もいい人をめっちゃ演じまっせ。演じたらええねんって!」※6
「僕を見たら、喜んでもらえる。そんな存在になりたかった。しかも、その人気者が、庶民的で、優しかったら、もっとおもしろいでしょう?」※7
「己の姿を晒け出し、実在と、虚像が入り混じった、何とも形容しがたい落語家」※8
虚も実もない。目の前の相手にどうやったら喜んでもらえるか。その部分にだけ鶴瓶はスケベに生きている。
鶴瓶のスケベ学|5
浜田「しゃべりが長い!」内村「あこがれない」三村「一番電話かけやすい60歳」
先輩、後輩の垣根を超えて、毎回さまざまな番組でいじり倒される鶴瓶さん。芸人として大成功を収めている大御所が、一回り以上歳の離れた芸人達から「憧れられない」のはなぜなのでしょうか?
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
「もっとおもろなりたい」と後輩の前で絶叫する大御所
まだ35歳のダウンタウン・浜田雅功に対して笑福亭鶴瓶はひとつの“予言”をした。
「“される”キャラクターや、のちに。50歳くらいで」
「される」とは、自分のように後輩たちからイジられるキャラクターだということだ。
当時のダウンタウンは前年、『ダウンタウンのごっつええ感じ』はトラブルで終了したが、本を出せば大ベストセラー、CDをリリースすればミリオンセラーと絶大な人気を誇り、お笑い界のみならず、テレビタレントとして“天下”を獲った状態だった。もはや向かうところ敵なし。
その暴力的ともいえるツッコミで誰もが恐れる存在。「イジられる」というイメージとは対極にいる尖りまくった浜田雅功に対して鶴瓶はきっぱりと言い放ったのだ。かつてスタッフらとケンカの絶えなかった“武闘派”の自分の姿を思い起こしていたのかもしれない。
そしてその予言は的中する。まさに50歳を超えたいま、『水曜日のダウンタウン』をはじめとする番組で度々イジられているのだ。
鶴瓶がその予言をしたのは、鶴瓶とウッチャンナンチャンが司会を務めた『いろもん』のゴールデンタイムでのスペシャル版。1998年6月6日に放送された『いろもん豪華特別版』だ。
「しゃべりが長い!」
「ダラダラしすぎ!」
登場するなり浜田と松本人志が続けざまに鶴瓶に対してダメ出しをすると、南原清隆も「エンジンかかるのが遅いんだよ!」と参戦。鶴瓶はダメ出しを浴び続けた。
「勘弁してくれ、自信なくなるわ、なにもかも!」
さらにダメ出しが続くと鶴瓶は、ソファーに突っ伏し、座布団を何度も打ちつけながら叫んだ。
「もっとおもろなりたい! もっとおもろなりたい!」
こんなリアクション、普通はできない。極めて異常な展開だ。
大御所の話芸そのものに、よってたかって暴言に近いダメ出しをする。そんな一回り以上年下の後輩に対して、「もっとおもろなりたい!」と堂々と言い放っているのだ。
堪らず4人は爆笑した。その捨て身ともいえる見事な受け身に驚愕していたに違いない。
なおも鶴瓶はどこまで本気かも分からないように言うのだ。
「松本の前やとアガんねん」
あこがれ“られない”大御所
あるとき、内村光良と東野幸治とエレベーターで一緒になったことがある。そのとき、内村がしみじみと言った。「良い人だけどあこがれないなぁ……」
笑福亭鶴瓶は誰もが認める“大御所”芸人である。ダウンタウンにイジられたように、豪邸に住み、別荘も建てた。芸人として大金と夢を掴んだ。
さらにお笑い要素の強い番組を作るのが難しい現在も、鶴瓶は企画段階から関わり自分好みのお笑い番組を作り続けている。
後輩からあこがれられる要素は揃っている。
しかし、「あこがれない」と堂々と言われるのが笑福亭鶴瓶が唯一無二の存在であるゆえんだ。
さまぁ~ずの大竹一樹も「あこがれたらむしろ恥ずかしい」とまで言い放つ。三村マサカズも「一番電話かけやすい60歳」だと評する。「自分の親より楽」だと。電話といえばキャイ~ンのウド鈴木は、初めてばったり道端で出会ったときに電話番号を交換したという。
最高の状態でナメさせる男
雨上がり決死隊の宮迫博之による形容は鶴瓶の本質をついている。
「絶妙の、最高の状態でナメさせてくれる先輩」※1
それを象徴するエピソードがある。
極楽とんぼは若手芸人の一組として98年1月2日に放送された『志村&鶴瓶のあぶない交遊録』に出演した。そのとき、鶴瓶と加藤浩次は初対面だ。もちろん名前も覚えてもらえていない時期だった。
何も活躍できず、爪痕を残せないまま、最後のコーナーになってしまう。鶴瓶がバスケットのフリースローに挑戦するという企画だった。
「ここしかない」
加藤は覚悟を決め、相方の山本圭壱とともに、激怒されるのを覚悟して背後から後頭部めがけてバスケットボールを思い切り投げつけたのだ。
「何するねん! 誰や!?」
頭を抑えながら激昂する鶴瓶。スタジオは爆笑だった。
極楽とんぼがニヤついているのを見て鶴瓶は「お前ら、絶対に次は投げるなよ」と念を押した。鶴瓶は気を取り直して再びフリースローに向かう。
正直、加藤は迷っていた。先の言葉が鶴瓶の“フリ”なのかはかりかねていた。
もう十分笑いは取れた。爪痕は残したんじゃないか。ここでリスクを取らないほうがいいかもしれない。
だけど、もう一度投げるのが笑いのセオリーだ。上手く当てればまた爆笑が待っている。そんな思いが交錯していた。迷っていたため一瞬間があいてしまった。
その時、カメラの死角で鶴瓶は右手がわずかに動いているのが見えた。
「来い!」という合図だった。加藤は思い切り頭に投げつけた。もちろんスタジオは再び爆笑に包まれた。
「みんなを楽しませるために俺を使え」※2
そんな心持ちなのだ。
遊ばれているのではなく、遊ばせている
かつて鶴瓶はビートたけしや明石家さんまをこのように評したという。
「芸術家はその道で賞はもらえるが、テレビの世界でそれはない。第一線でいつでもパイ投げを続けることが実は一番難しい。だからビートたけしはすごいのよ。だから明石家さんまはすごいのよ。その世界で昨日今日出た子らと一緒に遊べることがすごいのよ」
それは、そのまま自分自身にも当てはまることだろう。
「さらば青春の光」の森田哲矢の言葉を借りれば、いま、テレビ界は「空前のポンコツブーム」だ。
できない(とされる)芸人やタレントをイジり、その「負け様」を見せるバラエティが主流となっている。いわば、彼らは共演者や視聴者から遊ばれている。
だが、鶴瓶はそういった芸人たちとは決定的に違う。既に長いキャリアの中で確立した「鶴瓶」像を背景に、自ら巧妙にスキを作っていく。遊ばれているのではない。遊ばせているのだ。
「若手に緊張されたら終わりだと思ってる」※3
笑わせているとか、笑われているとかは関係はない。自分が落とされようが、ただそこに笑いが起きればいい。スケベに貪欲に笑いの餌を撒いていく。
鶴瓶は後輩に「あこがれない」と言われる。
だが、それはなりたくてもなれないということの裏返しだ。
地位も名声も芸もありながら、どこまでも親しげでふところ深く、貪欲にスケベであり続ける。そんな男の真似は簡単にできるものではない。
「もっとおもろなりたい!」と鶴瓶に言わせた張本人であるダウンタウンの松本人志は50歳を超えたいま、生まれ変わったら誰になりたいかと問われ「鶴瓶さん」だと答えている。
「仙人みたいな人。ボクシングで言うと『殴ってこい』と。俺、ボッコボコにすんねんけど勝った気がしない(笑)。
なんなんでしょう、あの人。お釈迦様みたい」※4
生まれ変わりでもしない限り、長い時間をかけてできあがった「鶴瓶」の境地には、もはや誰もたどり着くことはできないのだ。
※1: TBS『新春!鶴瓶生誕60周年』2012年1月2日放送
※2: 『LEE』2014年11月号
※3: ニッポン放送『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』2010年10月24日放送
※4: フジテレビ『ワイドナショー』2015年01月19日放送
鶴瓶のスケベ学|6
“神”になった男が前向きになれない人に贈る言葉
鶴瓶さんが神様のような格好をした画像をご存じでしょうか。その神画像を携帯の待受にすると幸運が訪れるという噂はテレビ番組を通じて瞬く間に広がっていきました。そんな「神」になったことのある男、鶴瓶さんが前向きになれない人におくる言葉とは?
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
神になった男
笑福亭鶴瓶は“神”になったことがある。
顔を白塗りにし、ピンクの頬紅、真っ赤な口紅を施し、額に「神」と大きく描いた鶴瓶の画像が話題を呼んだのだ。
もともと『きらきらアフロ』で鶴瓶が、その画像を待受画像にした途端、子供を授かった女の子がいるという話をしたことがきっかけだった。他にも、就職もうまくいき、いいことばかりが起きるようになった子や自分の学力よりも1ランク上の学校に合格した子もいたという。
そんな噂はあのダウンタウンの松本人志の耳にも届き、早速その画像をダウンロードしたという。
松本がその話を『人志松本のすべらない話』ですると、「鶴瓶の神画像を待ち受け画面にすると幸福が訪れる」という都市伝説は爆発的に広がっていった。
こうした話は、「金運アップ」になるとされている全身&背景も黄色の神々しい美輪明宏の画像が代表的だが、鶴瓶のその画像もまた、別の方向でなんだか縁起良さそうで神々しい。
贈り物の値段すらオモロい
なにもここでスピリチュアルな話をしたいわけではない。
鶴瓶は女優・二階堂ふみとの対談でこの画像で前向きになれたという人のエピソードを紹介し、こう話をしている。
「でもこれは単なるきっかけやと。そう思える心が大事なんやと思うよ。気持ちの余裕やんか。物事はとらえ方によって全然変わる。腹立てるのとおもしろいのと、どっちがええか言うたらおもしろいほうがええのよね」※1
ロケ先で知り合い、寄席に招待した人が、そのお礼にと楽屋に大事そうに陶器を持ってきたという。「これ持って帰ってください」と。
打ち上げの席でADがその陶器についている値札を見つけて「うわー!」と叫び声を上げた。
「いくらだと思います?」
その場にいた者たちは口々にその陶器の値段を予想していった。3~5万ではないか。いや、20万くらいはするんじゃないか。わざわざ楽屋まで大事そうに持ってきたものだ。高名な職人の手によるものかもしれない。
そんな推論が出尽くしたところでADは正解を発表した。
「840円です」
予想外の金額に一斉に吹き出した。
突然、鶴瓶と出会い、急に寄席にまで招待された。せめてものお礼として、家にあるものでなにか喜んでもらえるものを、と慌てて持ってきたのだろう。
「それを『なんや、あのおばはん』と取るか、おもしろいと取るか。めっちゃおもろいやん。840円って。俺はたまに世渡り上手とか八方美人とか言われるけど、それもとらえ方の問題。愛されるのは武器やからね。もっと愛されたいと思うてるよ」※2
美意の案配
「美意の案配」という故事がある。正式には「上天からの美意の案(按)配」という。
「要はすべての出来事は全部上が決めてはることなの」※3と鶴瓶は解釈している。
鶴瓶は前向きになれないと悩む人がいると、この言葉を贈っているそうだ。
「そう思うと楽でしょう?」と。
鶴瓶自身、「美案寄席」という「美意の案配」から名付けられた九州で行われている寄席に出演した際に、その主催者から聞いたこんな故事だ。
昔、ある小さな国に仲の良い王様とその家来がいた。
二人はよく一緒に山に狩りに行っていた。ある日、そこで獰猛なライオンに遭遇。なんとか撃退したが、その戦いのさなか、王様は左手の小指を噛みちぎられてしまった。
「今日は本当に運が悪い」と嘆く王様に家来が言う。
「王様、これはすべて『(上天からの)美意の案配』でございます。お悔やみなさいますな」
「王様、これはすべて『(上天からの)美意の案配』でございます。お悔やみなさいますな」
この言葉が癪に障った王様は「私が怒ってお前を殺したとしてもそれも『美意の案配』というのか!」と問い詰めると家来は自信を持って答えるのだ。
「はい、王様。それでも『美意の案配』でございます」
その結果、家来は投獄されてしまった。
パートナーを失った王様は仕方なくひとりで狩りに出かけるようになった。
いつも道案内をしてくれていた家来がいなかったこともあり、王様は野蛮人の領地に迷い込んでしまい、「生け贄」として捕らえられてしまう。
いよいよ生け贄にされてしまう時がやってくる。だが、最後に身体を洗っているとき、小指がないことがわかり、不浄であると生け贄として失格の烙印が押された。その結果、王様は解放されるのだ。
王様は、「本当に『美意の案配』だった」と実感し、牢獄にいる家来にそのことを伝えた。
すると、家来は自分が投獄されたのもまた「美意の案配」なのだという。
「私が牢に入れられていなかったら、一緒に狩に行ったのは誰だったでしょう? もちろん私ですよね。もし一緒に行っていたなら二人とも野蛮人に捕らえられたでしょう。そして、私だけが生贄になったことでしょう。これはすべて『美意の案配』でございます」※4
つまり、大変なことや、つらい、苦しいことは起こる。けれどそれは、次によくなるための「案配」にすぎないということだ。
「悪いこともいいことも決まっているから、悪いときにそんなに落ち込まんでもええよって」※5
前向きのさらに先
自分に降り掛かった“災い”は受け取り方次第だ。
それをそのまま「悪いこと」ととらえるか、「次の良いことへの“案配”」ととらえるか。鶴瓶はそれを超えて、スケベなまでに「オモロいこと」ととらえている。
世の中のことはすべてなるようになるようにできている。
すべて自分の思い描くような結果になるわけではないけれど、最終的には、収まるところに収まっていく。
鶴瓶は、だったらそのすべてを「オモロい」ものとして受け入れればいいと過剰なまでに前向きに生きているのだ。
人は「前向きになれ」と言われても、迷っているときは、そもそも一体どっちが「前」なのか分からないものだ。だが、「美意の案配」を受け入れ、すべてをスケベにおもしろがる鶴瓶にとっては、もはや彼が振り向いた先が「前」なのだ。
ちなみに松本人志が、待ち受けにすると「良いこと」が起こるという鶴瓶の神画像をダウンロードした翌朝、子供と小旅行に行っていた妻からメールが入った。
「(予定していた)みかん狩り、子供が熱出て中止です」
そのメールを見て松本人志は心の中で叫んだ。
「ツルベー! なにしてくれてんねん!」※6
※1~3:『アダルト 上』
※4: 参考「美案寄席」ホームページ
※5:『LEE』14年11月号
※6:『人志松本のすべらない話』15年1月10日
鶴瓶のスケベ学|7
その男、凶暴につき
いつもニコニコしている鶴瓶さんが、実はケンカっぱやく、ケンカばかりの人生を歩んできたのをご存知でしょうか?
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさんによる評伝コラムです。
笑福亭鶴瓶の人生を紐解くと、そこには常に「ケンカ」がある。
余興に呼ばれた営業先の社長とは大ゲンカ。音楽イベントの司会を務めれば、出演者のバンドマンの態度に怒り、殴りかかってしまう。スタッフと意見が合わず番組を降板したのも1度や2度ではない。
スケベで柔和そうな風貌とは裏腹に、ことの外ケンカっ早いのだ。
だがケンカによって、芸人人生を切り開いていったようにも見える。
「鶴瓶」という芸人を形作るために必要なもののひとつがケンカだったのだ。
それでは笑福亭鶴瓶は、何に「ケンカ」を売った挙句、いつも柔和に笑ってイジり倒される「鶴瓶」になったのだろうか。
一体、鶴瓶は何と戦っていったのだろうか。
名作ドラマ『赤めだか』の仕掛け人
二宮和也主演でドラマ化された立川談春の『赤めだか』。ビートたけしが立川談志を演じ、ギャラクシー賞も受賞した。
笑福亭鶴瓶はこのドラマに「ナビゲーター」として本編の前後に登場する。だが、鶴瓶がこの作品で果たした役割は実はそれだけではない。
鶴瓶は原作の『赤めだか』を読んでいたく感動し、「これは映画化すべき」と各所に働きかけた。
「談春は絶対にニノや!」
「ビートたけし兄さんが談志になったらええやろうな」
その際、具体的にキャスティング案まで熱弁していた。それがそのまま実現したのだ※1。
ドラマの中で、リリー・フランキー演じる無礼な文芸評論家が二宮扮する談春を叱責し、逆にたけし演じる談志に激昂されるという印象的なシーンがある。
師弟の絆、師匠の愛情を感じさせる重要なシーンだ。
だが、このエピソードは原作の『赤めだか』にはない。これはおそらく、笑福亭鶴瓶の体験したエピソードが元になっている。
無礼なのはどちらか?
それは、1972年、鶴瓶が21歳の頃のことだ。
まだ落語界に入門して数日。師匠から「鶴瓶」と名付けられる前だった。
「島の内寄席」という落語会で鶴瓶が木戸番(入場受付)をしていたときのことだ。ある夕刊紙の記者が、名前も会社名も告げず、素通りして入場しようとしていた。
それが新聞記者であることは鶴瓶にも分かっていたが、いつも横柄な態度が我慢できなかった。
「おたく、いつもタダで入っていきはるけど、どなたさんですか。あのう、いっぺんくらいお金払って入ったらどうですか?」
「なに! おまえ誰や!」
その男は激昂して持っていた下足札を鶴瓶に投げつけた。
笑福亭松鶴の弟子だと名乗る鶴瓶に記者は吐き捨てるように言った。
「俺を誰やと思うとんねん。よし、松鶴のところへつれていって教えたる」
記者にとっては、無礼なのは鶴瓶の方だった。
「ああ、勝手にしとくんなはれ」
鶴瓶はその記者に連れられて師匠である笑福亭松鶴の元に向かった。
松鶴は短気で弟子に厳しいことで有名だ。まだ名前もついていないような新米が、芸人にとって大事にしなければならない新聞記者を怒らせてしまったのだ。
入門早々、鶴瓶は大きな岐路に立たされてしまった。
持ち場を離れた鶴瓶を見かけた松鶴に「なにしとんねん。ちゃあんと下足見とかんかい!」と注意されると、鶴瓶は覚悟を決め、事の次第を説明した。
「あほんだら! 何考えてんねん!」
松鶴は激昂した。だが、松鶴が睨みつけた視線の先は新聞記者の方だった。
「こいつかていつまでも弟子っ子やないねんで! そのうち出世もしよるがな。そうなったら、おまえ、どないすんねん!」※2
相手は落語会も主催する新聞社の記者。対して、まだ入門して数日しか経っていない弟子。どちらを大事にすべきかといえば、一般的に前者だろう。けれど松鶴は、迷わず弟子のために記者を怒鳴りつけたのだ。
鶴瓶はこの後、酔った松鶴からいきなり傘で刺されたり、落語を自分だけ教えてもらえなかったりと、散々理不尽な修行時代を送ることになる。
だが、この一件があったからこそ、何をされても「このおやっさんに付いていこ」※3と思い続けることができたのだ。
ケンカっ早さに背中を押されて落語の道へ
子供の頃から、ケンカは強かった。いわゆる「ガキ大将」だった。
高校生になると、ボクシング部に入部。背も高く、体格も良かった。加えて、いわゆるツッパリファッションだったこともあり、「駿河(本名)はケンカが強い」という伝説が自然とできあがった。
ケンカの末、警察に補導されたり、親が怪我をさせた相手に謝りに行くのはしょちゅうだった。
目を怪我してボクシング部をやめた後も、ケンカには自ら「イッチョカミ」していった。
高校でボクシング部を辞めた後は、黒縁メガネをかけて、髪はボサボサ。うだつのあがらないボンクラの秀才のような風貌になっていたからナメられた。だが、実際にケンカが始まると、異様にケンカ慣れしているのだ。仲間の間では心強い「助っ人」だった。
でも内心は気が小さく臆病な人間だった。それを悟られまいと、精一杯虚勢を張っていたのだという。
「本当は弱い人間なのに、その弱さを見破られまいとして、必死になって突っ張り、そしてそのことのために、結果的には、いつも喧嘩をすることになってしまった」※2
落語家に入門する大きなきっかけのひとつになったのもケンカだった。
鶴瓶は大学に入学する頃にはすでに将来落語家になることは決めていた。入った落語研究会のメンバーにも、大学をやめて落語家になると公言していた。だが、なかなか踏ん切りをつけられずにいた。
ある日、落研の先輩二人とばったり出会ったときのことだ。二人は鶴瓶をからかい始めた。
「駿河、お前学校をやめるやめるっていつもいってるけど、ちっともやめへんやないか。いつになったらプロになるんや」
彼らに言われる前から、そう自分に問いかけていたのは心の中の自分だった。早く落語家になりたいという思いは募る一方で、その一歩が踏み出せない。楽しい大学生活を捨てる決断ができず、自分の頭の中でも悶々としたいた。
自身でも悩んでいた部分を無神経にイジられたことで、鶴瓶はあっという間に頭に血が上った。
先輩だろうが関係ない。
二人をトイレに引きずりこむと、バチバチバチと何度となく殴り倒したのだ。
「俺は俺の人生じゃ、俺がどないしようと俺の勝手やないか! おまえらにガタガタいわれる筋合いはないわい! おまえらにいわれんでも、やめる時がきたらやめるんじゃ! 黙っとれ! このボケ! カス!」※2
このケンカの後、ほどなくして鶴瓶は大学を2年で中退。
1972年2月14日、20歳のときに笑福亭松鶴に弟子入りしたのだ。
信念を通すためのケンカへ
この頃のケンカは、前述のように気の弱さの裏返しという側面が強かったのだろう。
だが、結果としてそれが、自分を追い込むように仕向けることになっていた。もしこのケンカがなければ、鶴瓶の落語入門はもう少し遅くなっていたかもしれない。
気の小ささを隠すためのケンカが、結果的に自分が進むべき道を大胆に歩くことになったのだ。
こうしたケンカっ早さは、入門しプロになってからも、しばらく変わることはなかった。
だが、ケンカの動機は少しずつ変化していった。
信念を通すために戦った。いわば、自らその道を作るようになったのだ。
30歳の頃に書いた著書で、鶴瓶は自らのケンカ人生を振り返ってこのように綴っている。
「今、三十歳になって、ふと過去を振り返ってみると、“まぁーるく、まるく”どころか、なんて角ばった、トゲだらけの人生だったのかと、改めて感心してしまう」※2
そんな鶴瓶にも自分の中で“ルール”があった。それが「非常識な仕うちには徹底的に戦う」※2ことだった。
鶴瓶は芸人や噺家であるがゆえに、非常識的な扱いを受けることが多かった。そのことに徹底的に戦ったのだ。
次回以降、その“パンク”なケンカ芸人人生を具体的に振り返ってみたい。
※1 『メンズノンノ』16年1月号
※2 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※3 小佐田定雄:編『青春の上方落語』(NHK出版新書)
鶴瓶のスケベ学|8
立川談志曰く「チンポというのは……」
スケベな話題に事欠かない鶴瓶さんの人生。なんとお茶の間に二度も局部を露出してしまったこともあるそうで……。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
「チンポというのは……」
突然、立川談志が語りだした。
2010年、癌で入院中の立川談志を笑福亭鶴瓶が見舞った時だ。
病状は厳しい状況が続いていた。口を開くのもツラい症状だった。
そこには荒々しい落語の革命児の面影はなかった。
二人きりの病室。談志は軽く挨拶をした後は、何も口を開かなかった。
鶴瓶もそんな空間がどこか心地よくて黙っていた。
穏やかにゆっくりと時間が流れていた。
沈黙を破ったのが談志だった。
唐突に「チンポというのは」と何の脈絡もない話をし始めたのだ。
「(ビート)たけしは出せといったら出す、三枝(現・桂文枝)は出さない、鶴瓶は出せと言わなくても出す」※1
いつだってチンポ丸出しの人生
まさに鶴瓶は、チンポを出し続けてきた人生だ。
では、鶴瓶にとっての「チンポ」とはどういった意味を持つものだろうか。
ひとつは、その開けっぴろげなスケベな性格を象徴するものだろう。
そしてもうひとつ、実はパンクな反骨精神の象徴でもあるのだ。
鶴瓶のチンポ丸出し人生は学生の頃から始まっている。
クラスの人気ものになったのもチンポがきっかけだった。
「技術」の授業中、やはりそれを露出すると自ら万力に挟んでみせたのだ。
クラス中が大爆笑。一気にクラスの人気者になった。
高校時代の親友「木村」と仲良くなったきっかけもチンポだった。
入学後まもなくの英語の授業中。担当の先生はグラマラスでセクシーな女性だった。
近くの席に座っていた木村はマジメそうな顔で授業を受けている。当然だ。
そこで鶴瓶は、またそれを露出し、それを木村に見せつけたのだ。
木村の顔はこわばった。見てはいけないものを見てしまった、そんな顔だった。当たり前の反応だ。
だが、この一件が二人の距離を急激に縮め、大親友となっていったのだ。
鶴瓶はこのときのことを述懐してこう綴っている。
「よくこういう場合、“手の内を見せてしまう”などという表現を使うところだが、僕の場合は手の内ならぬ、チンチンまで見せることで、相手のふところに飛び込んでしまったのである」※2
弟子入りした後も同じだ。師匠から落語は教えてもらえなかったが、飲み会などには「座持ちがいい」からと必ず連れて行かれた。
そこでも鶴瓶はよく脱いで先輩たちを笑わせていた。
さらに『爆笑寄席』(関西テレビ)出演時、横山ノックと唐丸籠に入れられた際、セクシーな女優を見ながら本番中に自慰をしただとか、テレビ局のエレベーターで上まであがって、下に戻ってくるまでにオナニーでイクことができたら、千円をもらうというゲームをしていただとかといった露出エピソードを挙げればキリがない。
人との距離を縮めるためならどこまでも自分を開けっぴろげにする。そのためにはチンポを出すことなど彼にとって造作もない。これがタモリが命名した「自“開”症」たるゆえんだ。
生放送での露出事件
極めつけはテレビカメラの前でのチンポ露出事件だろう。しかし、これは動機が大きく異なる。
「続いては温泉リポートです。どんな美女が登場するのでしょうか?」
番組アシスタントがいつも通り進行すると、カメラは温泉に入ろうとする“美女”の足元をとらえた。そのままカメラアングルがゆっくりと上がっていき、腰元、胸、顔を順に見せていくという深夜番組らしい趣向だ。
だが、この日の演出はそれにひと味加えていた。
美女と思わせておいて、実は男でした、という出オチギャグを入れたのだ。その出オチ要員に起用されたのが若き日の笑福亭鶴瓶。当時はまだ、デビューしたばかり、23歳の頃だ。関西では注目の若手だったが、東京では無名の存在だった。そんな鶴瓶を司会の山城新伍が強く推して出演が決まったのだ。
それが、1975年に放送された『独占!男の時間』である。
鶴瓶は憤っていた。
本番前、スタッフから不遜な言葉を浴びせられていたのだ。ひとりの人間として扱われていないような言動だったという。
コイツに目にもの見せてやる。そんな反骨心が沸々と沸き起こっていた。「せっかく呼んでくれた新伍さんには悪い」とは思いつつ、我慢ができずに秘策を練った。
カメラが腰元を捉えた時、事件は起こった。
鶴瓶はバスタオルを外すと、そのままカメラに接近。股間をレンズに押し付けたのだ。
生放送中のスタジオは悲鳴と怒号に包まれた。
事件はこれだけで終わらない。
司会の山城新伍の計らいで番組最終回にも鶴瓶は再登場。山城は、リハーサル前に鶴瓶に近寄るとこう囁いた。
「鶴瓶、今日でこの番組も終りやしな。なにをやってもかめへんで。おまえの好きなようにやり」※2
山城新伍に迷惑がかからないのなら、やらない理由はなかった。
再び鶴瓶はカメラに写してはいけない部分を露出するのだ。今度はお尻を突き出し、それをグーッと開き肛門をどアップにしてしまった。
以降、約30年にわたり、テレビ東京に出入り禁止処分がくだされた。
33年芸人をやった末、はじめてチンポにも値打ちが出る
この事件は明らかに自“開”症の気質によるものではない。
その強い反骨心ゆえのことだ。
自分をひとりの人間として扱わなかったことの怒りだった。
「自分の型をちゃんと理解してもらえたら、あとはパンツ一丁だろうが、ズラをかぶろうが、どんな突っ込まれ方をしようが、納得づくのことですから大丈夫なんです」※3
だが、そうではなく、ただ無礼な扱いを受けるのは絶対に許さない。
それが芸人としての自分自身にスケベである鶴瓶の在り方だ。
さらに2002年も事は起こる。
『FNS27時間テレビ』で泥酔し眠ってしまった鶴瓶は、いつの間にか下着を脱いでしまっていたため、叩き起こされた拍子にまたも局部を露出してしまった。
これは自“開”症でも反骨心でもなく、ただの悪ふざけの末の“事故”だ。1度ならず2度までもお茶の間にチンポを晒した男は芸能界広しといえ鶴瓶を置いて他にいないだろう。
しかし、若き日の“暴走”が前振りとして効いてくるのだ。
大きな問題にされても仕方のないことだ。だが、逆に過去があるからこそ、「鶴瓶らしい」という笑いのネタになった。それどころか過去の事件までもが遡って笑いに変換された。
「俺も20歳ぐらいのときに出してるけど、あれはもう、ただの『事件』ですからね。33年芸人やって、はじめてチンコも値打ちが出る」※4
まさに鶴瓶にとってのチンポとは、開けっぴろげで反骨心の塊である鶴瓶自身をもっともあらわす文字通りのシンボルなのだ。
ちなみに鶴瓶には奇妙にも思えるひとつのポリシーがある。
「鼻毛は人に絶対見せん。チンチン見せても鼻毛は見せない。俺の、まあ言うたらポリシー」※5
※1 『波』2010年8月号
※2 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※3 『日経エンタテインメント』1998年4月号
※4 ほぼ日刊イトイ新聞「笑福亭鶴瓶の落語魂。」04年7月26日
※5 『きらきらアフロ』15年1月28日
鶴瓶のスケベ学|9
円形脱毛症に宿る「なめんなよ」スピリット
鶴瓶さんの反骨心が如実に現れているのがその髪型だといいます。アフロヘアーで落語をしていた時代から現在まで、鶴瓶さんの髪型の遍歴からそのスピリットをたどります。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
アフロヘアーにオーバーオール。
それが笑福亭鶴瓶の若いころのイメージだった。
落語家に似つかわしくないアフロヘアーという髪型は、鶴瓶の反骨心のあらわれだった。
だが、それを切って短髪にしたのもまた、反骨心が原因だった。
現在はスケベそうな風貌をより強調するようなM字ハゲだが、実は後頭部には大きな円形脱毛症が見られる。これもまた彼の反骨心からできたものなのだ。
つまり笑福亭鶴瓶の髪型の変遷を追うことで、彼の反骨心がどこに向けられていたかがハッキリと分かる。
今回はデビュー当時からの鶴瓶の髪型をたどってみよう。
アフロヘアーの落語家
紋付き袴にきっちり整えた髪型。それが落語家の正装だ。今だってそうなのだから、鶴瓶が落語界に入門した約40年前も言うまでもないだろう。
そこに大きなアフロヘアーで入ってきたのが鶴瓶だ。着物すら着ていない。それとは正反対のオーバーオールだ。
もちろん多くの先輩や、うるさがたの評論家たちから、陰に陽に訝しむ声が本人の耳にも届いていた。
だが、落語界から反発が来るのは当然織り込み済み。鶴瓶は意に返さずその姿を続けたのだ。
「これがオレの紋付きじゃ!」※1
鶴瓶の師匠である笑福亭松鶴と並び「上方落語の四天王」と呼ばれた桂春団治は鶴瓶のその髪型を見て言った。
「金をやるから切ってくれ」
落語の権威を守るためというのもあっただろう。また、自分の弟子たちに示しがつかないというのもあったかもしれない。あるいは、不要な批判から鶴瓶を守るための親心もあったかもしれない。
しかし鶴瓶は金は受け取ったものの、そのアフロヘアーを変えることはなかった。
しばらく春団治と顔を合わせず、久しぶりに対面すると春団治は呆れた顔で言った。
「またその頭か」
「ちょっと伸びました」
そんな見え透いた鶴瓶の言い訳に春団治は真剣に怒るわけでもなく、「アホ」とまた切るように諭したが、その表情はどこか楽しげだった。※2
当然ながら、師匠の松鶴も「切れ」と言う。
本来、師匠の言うことは絶対だ。師匠の言うことはシロだろうがクロに変わる世界。しかも、松鶴は落語界でも屈指の厳しい師匠で知られていた。だが、鶴瓶は直感的にわかっていた。それが、絶対的な命令ではないことを。
実際、松鶴もそれ以上しつこく言わなかった。
きっと、松鶴は弟子の鶴瓶が、ただのファッションでアフロヘアーにしているわけではないということを理解していたのだ。
落語家のイメージを壊してやる
入門当時の大阪は吉本興業一色だった。
笑福亭仁鶴と桂三枝がラジオをきっかけに若者から絶大な支持を集め、やがて、間寛平や木村すすむが頭角を現してきていた。
一方、鶴瓶が所属する松竹芸能は、「ちょっと歳いってる人ばっかり」だったという。※3
古臭いイメージの松竹と、若い力が次々に登場する吉本。
特に、三枝や仁鶴が若々しいイメージで売っていた吉本と違い、松竹の落語家たちのイメージは古臭く堅苦しいものだった。
「そのころ落語家っていうたら古典の堅いイメージが強くて古臭い感じがしてたんですわ。それでイメージを裏切るようなことをしたいと思って」※4
「落語家もちょっとバカにされてると思ったの。歳をいった人がなる職業で、若いやつがよう選びよるなみたいに思われることが嫌なんでそんな髪型にしたったんですよ」※2
もちろん、髪型だけで落語家のイメージを壊したわけではない。
鶴瓶は話し方も、入門当初から意識して落語風にしないようにしていた。
「そうでんねん」といった噺家特有の口調では今後、テレビやラジオには合わないと思っていた。だから学生時代と同じしゃべり方を貫いた。つまり、日常生活で喋る口調やトーンのままでメディアに出演したのだ。
実際にその型破りな芸風が受けて、入門わずか1年でラジオ・テレビで6本のレギュラー番組を抱えるようになった。
「師匠も、噺家の型にはめず、好きにやらせてくれました」※5と鶴瓶は振り返る。
鶴瓶にとってアフロヘアーとは落語家の型をはみ出してやるという決意の象徴だったのだ。
密着取材中、いきなりの断髪
それではなぜ、鶴瓶はそのアフロヘアーをばっさり切り落としたのだろうか。
それを単刀直入に尋ねられ、鶴瓶はこう笑って答えている。
「あんた、いきなり直球やな(笑)。切っちゃったんじゃのうて、もう生えんのっ!」※4
鶴瓶はテレビ大阪の開局記念番組で密着取材を受けていた。
開局記念番組で密着取材を受けるということでも分かる通り、この頃にはもう大阪では「笑福亭鶴瓶」の名を知らぬものはいない存在だ。
そんな時、「アフロヘアーをトレードマークにしている」という声が鶴瓶の耳に入った。
「けったくそ悪い」※6
「髪型を売りにしている」などと言われるのは気分が悪かった。
自分は落語家のイメージを変えるためにアフロヘアーにしてきた。その結果、確かにそれが自分のシンボルのようになった。
だが、自分の芸を磨いてきたからこそ、世間に受け入れられたのだ。すでにアフロヘアに頼らずとも「鶴瓶」は確立している。だったら、いつまでもアフロヘアーでいる意味はない。
鶴瓶は密着取材の途中、周囲の誰にも相談せずにアフロヘアーを切り落としたのだ。
「いきなり切ったらおもろいやろうと思ってバサッと切りました」※4
鶴瓶の反骨心とサービス精神が生んだ断髪だったのだ。
驚いたのはスタッフたちだけではない。
「誰や、帰れ!」
すっかり変わった鶴瓶の風貌に嫁は驚き、自宅へ入れてくれなかったという。
古典落語、そして師匠への挑戦
現在、鶴瓶はキレイなM字ハゲだ。
「絶対にその人(の散髪)じゃないとダメなんです」※2と意外にもきっちりとしたこだわりがあるという。
そんな鶴瓶の後頭部にあるときから円形脱毛症ができるようになってしまった。
時期でいえば、2003年、ちょうど2度目の局部露出事件を起こしたときだ。
もちろん、それによる心労も原因のひとつだろう。だが、もうひとつ大きな要因があった。
それは古典落語「らくだ」への挑戦だった。
鶴瓶が古典落語に回帰し始めたのは2002年からだった。
そしてこの2003~2004年頃から、「らくだ」に取り組み始めた。
鶴瓶にとって「らくだ」をやることは大きな意味があった。なぜなら、亡くなった師匠・松鶴の十八番だったからだ。
弟子が師匠の十八番をやるというのは落語においては特別な意味があるのだ。
「テレビに出てる芸人ほど、すごいもんはないですよ。あえて誤解を恐れずに言うならば、寄席にしがみついて同じネタばかりやってる人は、結局なまけもんだと僕は思います」※7
「噺家であるという自負はあったんです。でも、ちゃんと向き合ってなかったといえば確かにそうでした」※8
そしてもっとも鶴瓶にとって難しい師匠の十八番「らくだ」をやる決意をしたのだ。
その結果できたのが、円形脱毛症だった。
鶴瓶は2004年秋、「らくだ」を初披露。2007年には「鶴瓶のらくだ」と題した全国ツアーを敢行した。
「僕をここまで走らせてきたのは、『なめんなよ』という気持ちですね」※7
※1 『週刊朝日』99年3月26日号
※2 テレビ東京『チマタの噺』14年11月5日
※3 『週刊プレイボーイ』07年7月23日号
※4 『STORY』07年10月号
※5 『BigTomorrow』11年4月号
※6 『AERA』01年6月4日
※7 『婦人公論』06年10月22日号
※8 『毎日が発見』07年9月号
鶴瓶のスケベ学|10
「 大人の論理」に抗う中学生のように
デビューしたての頃ラジオ番組の生放送中に大喧嘩するという大問題を起こした鶴瓶さん。降板の危機に瀕した鶴瓶さんを救ったのは2000通を超える署名だったといいます。その署名の中心となった中学生たちから支持された理由とは一体なんだったのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。
名古屋からスタートした芸能人生
「鶴瓶を辞めさせるな」
降板を止めようとラジオ局の元に2000通を超える署名が集まった。署名運動の中心は中学生たちだった。
鶴瓶はその署名に助けられ、番組は継続。この番組とこの降板騒動は「鶴瓶」を形作るうえで大きなターニングポイントになった。
鶴瓶の芸能人生は本人が言うように「名古屋からスタートした」※1と言っても過言ではない。
デビュー2年目に東海ラジオの『ミッドナイト東海』のメインパーソナリティに抜擢されたのだ。
最初は、兄弟子である笑福亭鶴光のボルテージの高いトークを参考にしてしゃべろうとした。そうした話し方がラジオで当時ウケていたからだ。だが、『ミッドナイト東海』は3時間の生放送。それではもたない。
「若手噺家=ハイテンション」というイメージの型にハマるのも嫌だった。
何しろ、それが嫌で師匠や先輩たちに散々文句を言われてもアフロの髪型を変えなかったぐらいだ。
「こんばんは。笑福亭鶴瓶でございます」
しかし、当時の名古屋では大阪の人間への拒否反応が強かった。ましてやデビュー間もない無名の落語家だ。リスナーからのハガキは皆無だった。たまに届いたと思えば「アホ」とか「バーカ」と書いたものばかり。
仕方がないから、自分で自分宛てにハガキを書いて出したりもした。
なかなか認められないというイラ立ちもあったのかもしれない。
訪れたゲストにキレたこともあった。
名古屋で人気だったロックシンガーが番組に訪れた。
当時は「メディアに出ない」ことがカッコいいというような風潮があった。だから、そのゲストも「出てやっている」ような態度だった。
インタビューも噛み合わなかったため、遂に鶴瓶は激昂した。
「出ていけ、コラァ!」
「なんやとコラ!」
「なんやとコラ!」
リスナーの親と生放送で大ゲンカ
しかし、このケンカが降板騒ぎに繋がったわけではない。
番組終盤の15分から20分に「四畳半のコーナー」という企画があった。
いまでは考えられないがブースに直接電話をつなげ、リスナーとしゃべるコーナーだ。
ブースの外でいったんスタッフが話を聞き、生放送に問題ないとわかった相手の電話をブースにつなぐのが一般的だ。だがそうではなく、ブースの電話が鳴ったら鶴瓶が直接取る。だから、どんな相手からかかってくるかまったく予想がつかないのだ。
実際、ハガキ同様、「アホ」とか「バカ」などと言いたいだけの人からかかってくることも少なくなく、そのたびにケンカもしていた。
そんな中、夏休み明けの1週目にひとりの中学生から電話がかかってきた。
「本当は地元の中学にずっと行きたかったのに、9月の中ごろから高知の全寮制の学校に行かされる」
「なんで?」
「それやったら……」
「なんで切るねん、お前からかけてきたやんか」
「親父がいま部屋に入ってきたから……」
「親父がいま部屋に入ってきたから……」
「だったら、お父さんと代われ」
「誰だ、お前は」
「ごめんなさい、これラジオなんですよ」
「おたくの息子さんが、いま学校のことで悩んでいて、こうやって電話をかけてくれて、ぼくが中に入るのもアレやから、もう電話を切ります。さっき、お話を聞いたんですけど、今からしゃべったってください」
「おまえに指図されることない!」
「お前、どこの大学や?」
「いや、京都産業大学の中退」
「そんなやつにそんなことを言われてもなぁ」
「いや、京都産業大学の中退」
「そんなやつにそんなことを言われてもなぁ」
「なにぬかしとんねん、アホンダラ!」
「おまえな、自分とこの子供の精神的な病気もよう治さんと、なに他人の体を看とんねん、コラァ! アホンダラ、こっちは生放送やっとんねん。いつでも来い、コラァ!」
これは降板は免れない。鶴瓶も覚悟した。もう辞めさせられてもええわとも思っていた。
実際、降板を前提に話が進められていた。
それを救ったのがこのケンカを聴き「こいつは本気だ」と感じた中・高校生を中心とする投書と署名だったのだ。
これをきっかけに鶴瓶は“若者の兄貴分”としての地位を確立していったのだ。
鶴瓶を突き動かすのは「これをやりたい」という思いではない。
悩む中学生を無視したくない、無礼な大人に従いたくないというような、「これをやりたくない」という思いだった。
つまり自分自身に対して恥ずかしいことをしたくないという思いが強かった。
大人の論理に必死に抗った中学生たちのように
たとえばまだ若手時代、芸人の運動会をやるという番組があった。
鶴瓶は若手のチームでキャプテンを任された。
色々な競技があった中で、走りながら粉の中に顔を入れて飴を探すというものがあった。
よく見るタイプのゲームだ。
だが、鶴瓶はそれをやることに断固反対した。
キャプテンなのだから責任はあったが、絶対にやらないと言い張った。
「今まで芸人はみんなやってるんだからやってや」
「今これをやってしまうと、俺は今までやってきた芸人と同じことやってしまうから嫌だ」
だが、鶴瓶にとって絶対に必要な反抗だった。
「やりたいものじゃない、やりとうないものがわかっていた」と鶴瓶は言う。
「それを続けてきて、ホンマにそうやって『笑福亭鶴瓶』を作ってきた」※3
その結果、残ってできあがったのが「笑福亭鶴瓶」だったのだ。
※1 ほぼ日刊イトイ新聞「笑福亭鶴瓶の落語魂。」04年8月4日
※2 ほぼ日「落語魂。」=前掲、『BIG Tomorrow』00年7月号、『BIG Tomorrow』90年12月号をもとに構成
※3 『Switch』09年7月号
鶴瓶のスケベ学|1_10
鶴瓶のスケベ学|11_20
鶴瓶のスケベ学|21_24
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鶴瓶のスケベ学
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