木曜日, 8月 11, 2016

鶴瓶のスケベ学|11_20

 

鶴瓶のスケベ学|11


落語界屈指の厳しさで恐れられた松鶴を初対面から「毛づくろい」


鶴瓶さんの落語の師匠・笑福亭松鶴は業界屈指の厳しさで恐れられていました。弟子入りする際、条件として親の承諾が絶対条件だと命じられます。父親からは落語家になることを猛反対されていた鶴瓶さん。そんな窮地をスケベな執念で乗り越えます。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。


落語界屈指の厳しさで恐れられた松鶴の門戸を叩く

 

「あー、また“けったいな顔”のが来よったよー」

呆れたような声が奥から聞こえてきた。
「けったいな顔」って、と扉の前で思わず吹き出しそうになった。
「笑福亭鶴瓶」になる前の駿河学が、笑福亭松鶴に弟子入りしようと、松鶴の自宅を訪ねたときだった。

スケベな鶴瓶のルーツのひとつは間違いなく、師匠・笑福亭松鶴だ。
その弟子入りの経緯からもそれをうかがい知ることができる。



最初呼び鈴を鳴らして出てきたのは松鶴の奥さんだった。

「今日はいてないから、またちゃう日に来て」

そう追い返された。けれど、違う日といってもいつ来ればいいか分からない。だったら、このまま松鶴の帰りを待った方がいいだろう。そう思った鶴瓶は家の外で、松鶴の帰宅を待った。
すると家の中から聞き覚えのある声がするのだ。間違いなく笑福亭松鶴だった。なにしろ特徴のあるダミ声。間違えようがなかった。

しかし、居ると分かっていても、すぐにまた訪ねていけば、奥さんの顔を潰すことになる。
だから鶴瓶は1時間程度時間を潰した。
そして再び訪れた鶴瓶に奥さんは「けったいな顔」と観念して言ったのだ。

「入れたれ」

奥から松鶴の声が聞こえ、鶴瓶は家に入ることを許された。

松鶴は、2月の冷えた日だというのに、パンツ一枚にランニングシャツという出で立ちで掘りごたつの中に入っていた。そんな恰好でも威厳に満ち迫力があった。
鶴瓶は誠心誠意、弟子入り志願の理由を説明した。だが、松鶴は弟子入りを許すとも許さないとも言わず、落語家という職業がいかに厳しい職業かということを訥々とつとつと話し始めた。
そんな話を真剣に聴きながらも、鶴瓶の目にあるものが飛び込んできた。

毛だ。
 
真剣に喋っている松鶴の上唇あたりに、犬の毛がくっつき、それが口を動かすのに併せてそよいでいる。
「それを取れ」ともうひとりの自分が自分に命令する。
「それ、取ったらおもろいで」
 
松鶴は落語界屈指の厳しさで知られ恐れられていた存在だ。もちろんその噂は鶴瓶も知っていた。何より目の前にいるその威圧感がそれを物語っていた。だが、その畏れと同じくらい「おもろい」誘惑にかられてしまう。それが鶴瓶の性だった。

「こいつはなんか、人間的におもろいやっちゃ」

そんな風に思われたいスケベ心に抗えられなかった。

「ちょっとすんません。唇に犬の毛がついてて、ごっつ気になるんで」

そう言って鶴瓶は松鶴の口元に手を伸ばし、その毛を取り除いた。不遜な態度と取られかねない大胆な行動だ。怒鳴られてもおかしくない。だが、松鶴のリアクションは違っていた。


「おもろいやっちゃな、こいつは」
 
そう言うと、隣りにいた奥さんもワーッと笑った。※1
 
これで入門が許されたも同然だった。しかし、松鶴は、入門には親の承諾が絶対条件だと、親を連れてくるように命じた。

 

高校3年で渥美清にうっかり弟子入りしかける

鶴瓶の父親は当然のように鶴瓶が落語界に進むことを反対していた。

高校時代もそれでケンカになったことがあった。
実は鶴瓶は高校3年のときにもある意外な人物に弟子入りしようとしたことがある。

渥美清である。渥美清といえば言うまでもなく『男はつらいよ』などで知られる喜劇俳優。コメディアン出身ではあるが、もちろん落語家ではない。
なぜ、落語家を夢見ていた鶴瓶が渥美清に弟子入りしようとしたのか。

「うちの家から変わった人を出したい」※2
 
鶴瓶は高校生ながらそんな思いを抱えていた。大学には行きたくない。かといって就職もしたくない。

「どないすんねん」

父親から進路を問いただされた鶴瓶は、ちょうど父親が広げていた新聞が目に入った。そこに“寅さん”の広告が載っていたのだ。桂三枝(現・文枝)や笑福亭仁鶴による若手落語家ブームが興るのはもう少し先。当時はまだ若手落語家が食べていけるような時代ではなかった。だから落語家になるとは言い出しにくかった。思わず鶴瓶は言ってしまう。

「渥美清さんの弟子になる」

口から出まかせだった。けれど、当然、「なんやと?」と父親と口論になった。もう後には引けなかった。
鶴瓶は家出をするように家を飛び出し、東京へ向かう高速バス「ドリーム号」に乗り込んだ。
もちろん思わず言葉に出たとはいえ、渥美清のことも大好きではあった。しかし、このまま渥美清の弟子になっていいものだろうか、そんな自問自答をしながら、バスに揺らされていた。
断られたらいいな。そんなことを思いながらも、鶴瓶は渥美の事務所に向かった。そのまま帰ることもできたはずだ。だが、それでは自分の気持ちが許さなかったのだ。ようやくたどり着いた事務所で渥美清の所在を尋ねるた。

「ロケに出ていません」※3
 
正直、ホッとした。それだけで満足だった。結局、鶴瓶は大学進学を選んだ。

 

松鶴のド迫力に魅了される

最初は笑福亭仁鶴に弟子入りしたいと思っていた。
大学1年の時に、仁鶴目当てで落語会に行くと、そこで大トリを演じていたのが笑福亭松鶴だった。

もちろん仁鶴の落語も面白かったが、それ以上に松鶴のド迫力の落語に魅了された。
「あ、このおっさんはええな」。それが松鶴の第一印象だった。

すると今度は、別の落語会でもやはり松鶴に目が行った。
高座に上がって2分くらい経った頃だ。

「あっ」

松鶴は、そう声を漏らした後、しばらく無言になった。そしてようやく口を開く。
「あの坊さんの顔見たら」と客席にいた僧侶をさして言った。
「ネタ忘れてしもうた。オチだけ言うて下ります」※1
 
衝撃だった。

落語の世界にこんなにもふざけた、こんなにも自由な人がいるのか。絶対にこの人とは波長があうはずだ。

「こんなおもろいおっさん知らんわ! よし、弟子入りするなら絶対松鶴師匠のところへ」※4
 
鶴瓶はそうハッキリと心に決めた。

 

頑固な父親に一計を案じる

「ちょっとケンカしてな、人をケガさせてん。あやまりに行かなあかんねんけど、一緒にきてくれへんか」

鶴瓶のそんな言葉に父親は「またか」と渋い顔をした。実際、高校時代、何度となくケンカで相手にケガを負わせその度に謝罪に赴いた。この息子は、大学生にもなってまだそんなことをしているのか。

だが、もちろんこれは鶴瓶の嘘だった。
もし正直に落語家になるから、一緒に師匠に会ってくれと言ってもついてきてくれるはずがない。鶴瓶はそう考えた。そこで一計を案じたのだ。

さぞかし、父親も驚いただろう。
なにしろ、謝罪のつもりで行ったら、目の前にテレビでよく見ていた落語家がいるのだ。
「どうもすんません。この度は、うちの息子がえらい……」と口を開くが、話が噛み合わない。さすがに、父親も次第に状況を飲み込み、息子にハメられたと気づいた。
 
「お父さんまで納得ずくなら、ええやろ」

ついに正式に松鶴から入門の許しが出た。1972年2月14日、21歳のときだった。

「お預かりするからには、一人前にしまっさ、まかしとくんなはれ」

父は一杯食わされたという表情を押し殺しながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
もちろん帰り道には「親を騙しやがって」とこっぴどく怒られた。だが、最後には「やるからには、とにかく一所懸命やってみい」と激励された※4
 
親を騙す。そうまでするスケベな執念が、落語家・笑福亭鶴瓶を生んだのだ。



ちなみに、最初に弟子入りしようとした渥美清には事務所を訪れてからちょうど20年後の1990年に初めて対面した。
藤山寛美が亡くなり、その代役として松竹新喜劇に出演した際、渥美清が観劇に訪れたのだ。

「それはびっくりしましたよ。渥美清が客席にいてるって……」※5
 
鶴瓶は感慨深げに振り返った。
渥美清が「寅さん」として日本全国を放浪していたように、いま、鶴瓶は『家族に乾杯』などで全国各地を飛び回っている。



  
※1浜美雪:著『師匠噺』(河出書房新社)
※2『週刊文春』95年7月20日号
※3『BIG Tomorrow』00年7月号
※4笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※5テレビ東京『チマタの噺』16年9月7日








鶴瓶のスケベ学|12


なぜ師匠は落語を教えてくれないのか。なぜ、なぜ、なぜ……?


落語家入門後、すぐにラジオのレギュラー番組を抱えるなど、人気者だった鶴瓶さん。けれど、落語の師匠・松鶴さんには、肝心の落語をまるで教えてもらえなかったそうです。それは一体なぜだったのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。


その坂は「ため息坂」と呼ばれていた。
夕刻をすぎると「口笛坂」とその呼び名が変わる。

坂の先には笑福亭松鶴の自宅があった。松鶴が落とすカミナリのすさまじさから、一門の弟子たちは坂を登るとき、思わず「ため息」を漏らした。逆に帰り道には開放感から「口笛」を吹いて降りていく。そんなことから一門の間でそう呼ばれるようになった。
それほど松鶴は厳しく、畏れられていたのだ。
 
そして笑福亭鶴瓶が「スケベ」になったのは間違いなく、この師匠の教えが根底にあるのだ。

しかし鶴瓶は、松鶴に落語を一席も教えてもらえなかった。



 

相手の勘違いがまさかのしくじりに

きっかけは些細なある事件だった。
一番最初に稽古をつけてもらう前のことだった。鶴瓶は師匠たちのために飲み物を用意していた。

ちなみに鶴瓶は松鶴を「おやっさん」、その奥さんを「あーちゃん」と呼んでいた。おやっさんにはブラックコーヒーを、あーちゃんにはミルクティをこしらえるのが日課だった。

鶴瓶の父親はコーヒー好きでインスタントではなく、豆からコーヒーをたてて飲んでいた。その際、ミルクを流すようにスーッと入れていた。それが恰好いいと思っていた鶴瓶は、大事な師匠夫人へ飲み物をこしらえるのだから、とそれを真似た。
あーちゃんにミルクティを入れる際、紅茶にミルクをスーッと流し、表面をミルクで覆うようにしたのだ。

それを見て勘違いしたのはあーちゃん。

「わて、ミルクて言うてないがな!」

もちろんかき混ぜればミルクティだったのだ。だが、口答えをすれば、あーちゃんに恥をかかせてしまう。「すんません」と謝った。

「だあほっ! だいたいお前は、いつもそうやって人を笑わそうと思うとうねん!」※1
 
誤解した松鶴も烈火の如く怒り、それから落語の稽古をしてくれなくなったというのだ。
兄弟子たちに稽古をつけるときも、一緒についていこうとするとおやっさんは言う。

「お前はもうええ」

ある日、それを不憫に思った兄弟子の一人が「おやっさん、今日機嫌がいいから言え」と囁いた。
意を決して鶴瓶が松鶴に直談判した。

「師匠、すんません」
「なんや」
「あのう、明日から、稽古お願いします」

しかし、返ってきた答えは身もふたもないものだった。

「嫌や」※1

 

可愛がられたが、落語は教えてくれなかった

松鶴は鶴瓶を嫌っていたわけではない。実際、飲み会などには必ず鶴瓶を連れて行った。
落語を教えなかったのも彼のしくじりだけが理由ではないだろう。
 
ひとつの理由は、兄弟子への配慮からだっただろうと鶴瓶は推察している。
鶴瓶に落語以外の仕事が入ったのはなんと入門わずか4日目のことだった。
いつものように松鶴の自宅で留守番をしていたときにその電話は鳴った。

「どなたでも結構ですから、お一人お願いできませんか」

ラジオ番組に出演予定だった兄弟子が病気で出演できなくなり、その代役を探していた。

「でも、今、丁度誰もいてないんですわ。困ったな……」

返答に困っている鶴瓶に電話口のスタッフは「あなたも松鶴さんのお弟子さんでしょ。あなた、お願いできませんか?」と言う。
確かに急な要件ではあるが、少なくても師匠なり兄弟子なりに一言断らなければと考えるのが普通だろう。だが、鶴瓶のスケベ心がうずいたのか、鶴瓶は即答する。

「そりゃ、僕で良ければ行かせてもらいますけど」※2
 
その時は、代役でラジオ出演したにすぎなかったが、初のプロの仕事で無我夢中でしゃべったのが功を奏してディレクターからは大好評。

「君、次からもきてくれるか?」

その結果、兄弟子を差し置いて、初のレギュラー番組が決まってしまったのだ。
この番組を皮切りに鶴瓶は次々とラジオやテレビに出演していく。
オーディションに参加すればほぼ百発百中で合格した。結果、入門1年目でテレビ・ラジオのレギュラーをなんと6本も抱えるようになった。
落語家らしからぬ風貌と語り口がウケたのだ。

だから、おそらく松鶴は自分が他の弟子よりも厳しくあたることで、兄弟子からの嫉妬から鶴瓶を守ろうとしたのだろう。

 

「あんまりいじくりまわさんほうがええ」

もうひとつ落語を教えなかった理由はすぐに鶴瓶が落語よりもテレビなどで自由な発想のしゃべりを磨かせたほうがいいと見抜いたからだろう。
「こいつはあんまりいじくりまわさんほうがええ」と思ったのではないかと鶴瓶は述懐する。

「師匠は新しい形の落語というものをつくりたかったんだと思いますよ。そうとしか思えないし……、だから『鶴瓶には好きなようにやらして、余計なことしたらアカン』と」※3
 
ラジオやテレビのレギュラーがあったとはいえ、若手落語家。高座に上がらないといけない。だが、師匠からは落語を教えてもらっていない。仕方なく、学生時代、落語研究会などで磨いた落語を披露していた。

ある落語の審査会では、「堀の内」を演じた。それは男子校向けに時代背景をめちゃくちゃにし、急にオートバイに乗ったオッサンが出てきて、ブロックに頭をぶつけて流血するといった男子受けする場面を加えたものだった。会場は大ウケだった。

しかし、審査員からは「時代錯誤も甚だしい。だいたい、オートバイに乗ったオッサンが江戸時代に出てくるわけがない」と真っ当に酷評された。
同じく審査をしていた師匠である松鶴も「こんなん、落語やおまへん。こいつには稽古つけてまへん」と飄々と言い放った。

だが、その帰り道。
松鶴は鶴瓶のお尻を「バーン!」と叩くと、耳元で囁いた。

「おまえが一番おもろかった」※1

 

「普通の人間でいることが大切」という教え

落語を教えなかった代わりに、「日常」については厳しく指導された。挨拶の仕方はもちろん返事の仕方ひとつに至るまで徹底的に直された。

実際に松鶴は鶴瓶と顔を会わすたびに「なにやってんのや」と怒鳴っていた。本当にこんなことに意味があるのか、と思えるような細かいことから叩き込まれた。

松鶴には「芸人も、普通の人間でいることが大切なんや」という信念があった。だから、「人の道」にはものすごく厳しかったという。

「だから、学生時代までチャランポランやったボクが師匠と出会って、性格が一変しましたもん。
マジメになりました※4
 
鶴瓶はそう3年間の修業時代を振り返る。
時には、ただ機嫌が悪いから難癖をつけて怒っているのではないかと思えるような理不尽なものもあった。

だが、松鶴はいつも最後に決まってこう言うのだ。

「訳、判らんやろうけど、これが修業や」

確かに、修業時代には、師匠が言ってることや、怒ったり、殴ったりする深い意味は皆目分からなかった。
だが、修業が終わってからわかったという。

落語家の弟子というのは環境に流されやすい。好きな道に入って、好きな師匠の弟子になってそれだけで満足してしまう。師匠の言われたまま雑用をこなしていれば、普通に生活ができてしまうからだ。
だから、目的意識を持っていないと途端に時間が過ぎてしまう。3年間の修業期間で、意識の違いによって大きな差ができてしまうのだと鶴瓶は言う。

「ボクは3年の修業中に、自分なりに工夫したんですよ。何も教わらへんから、自分で何か勉強するほかないな思うて※4
 
落語を教えてもらえないから逆に自分から勉強をしたのだ。落語の本はもちろん、他人を笑わせるのだから雑学を豊富に知っていたほうがいい。だから普段読まない本も読み漁った。日常で見聞きしたことをノートに付け始めた。
そうして鶴瓶は悟ったのだ。

なぜ師匠は落語を教えてくれないのか。なぜそんな些細なことに怒るのか。
なぜ、なぜ、なぜ……?
 
「この『なぜ』を、いい年した人間が絶えず自分のなかで自問自答して、〈自分なりの答えを出すのが修業なんだ〉という事に気がついた」※4
 
大事なのは自分自身で答えを出し、それを自分で「そうなんだ」と信じ抜くことなのだと。

「弟子の時分からキッチリやって、いつか、なんぼ仕事きてても態度を変えずにやってれば、周りもオマエのことを認めてくれる」 

そんな松鶴の教え通り、いまも日常生活を「普通の人」の感覚を忘れずにキッチリ生きる鶴瓶。日々勉強をし、常にノートを持ち歩きメモを欠かさない。

そしてあらゆる物事に対し、スケベに「なぜ?」と問い続けている。
鶴瓶のスケベのルーツは間違いなくこの師匠・笑福亭松鶴にあるのだ。

のちに松鶴は鶴瓶についてこう語っている。

「もう、おまえはほっといてもええわ。おそらくおまえはおまえで考えてることもあるやろうから、おまえの生き方で一つの芸域というものを築いてくれ。それがわしの望みや」※5


 
※1:浜美雪:著『師匠噺』(河出書房新社)
※2:笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※3:『BIG Tomorrow』00年7月号
※4:『BIG Tomorrow』88年11月号
※5:『GALAC』08年1月号








鶴瓶のスケベ学|13


オモロイ家族のオモロイ思い出


鶴瓶さんは、五人兄弟の末っ子。大所帯の中でも、「一番おもしろくない」と言われるほど、ユニークな家族の中で育ったそうです。そんな家族の思い出の中で、鶴瓶さんに未だに根付いている2つの思い出とは。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

奈良のある大きなホールでの独演会の時だった。
笑福亭鶴瓶が子供の頃のことを振り返り、「子供の頃は六軒長屋で……」と話し始めた。

「四軒や!」

すかさず奥の2階席から野次が飛んだ。
確かによく考えると四軒長屋だ。でもなんで知っているんだ。うろたえた鶴瓶はその声の主に尋ねた。すると2階席から思わぬ答えが返ってきた。

「おまえの姉や!」

会場は大爆笑だった。
実姉が鶴瓶に知らせることなくチケットを自分で買って来場していたのだ ※1

笑福亭鶴瓶のスケベな人となりに影響を色濃く与えたのは間違いなく彼の家族だ。



四軒長屋の5人きょうだいの末っ子

鶴瓶は5人きょうだいの末っ子として生まれ、その中で「一番おもしろくない」と言われるほど、ユニークな家族の中で育った。

12歳離れた一番上が長男。その下に3人の姉が続く。父は油絵を描いていた趣味人で、夢を追い職業を転々としていたが、鶴瓶が生まれた頃には梱包資材の店を営み、生活は安定していた。
母は困っている人がいたら放っておけない性格で、遠くまででかけ無償で納棺師のような仕事をしていた。鶴瓶は母が36歳の時の子供だった。

生家は大阪の下町にあった。3畳、6畳の2部屋と長細い3畳の台所と2畳の玄関があった。そこに祖母を含め8人が暮らしていた。父の趣味である油絵の匂いが染み付いた家だった。四軒の家が連なった長屋が、ズラリと並び、その前の路地では、いつも子供たちがワイワイと遊んでいたり、割烹着姿のおばちゃんたちが、長い立ち話に明け暮れているような庶民的な下町だった。

幼いときから鶴瓶は、近所のおばちゃんたちを見つけては「ええ天気ですね」と話しかけていくような大人びた子供だった。

 

鶴瓶に根付いた2つの家族の思い出

そんな鶴瓶には、子供時代、ある大きな悔恨の思いを抱かせた思い出がある。
クリスマスの頃だ。


鶴瓶は毎年のように近所の同級生の家にクリスマスパーティに行っていた。
そこには大きな樅の木があり、時期になるとイルミネーションも点ける“ホンモノ”のクリスマスツリーがあった。
鶴瓶は誕生日が12月23日ということもあり、家ではクリスマスと誕生日が一緒にされてしまう。そんなこともあり、クリスマスに大きなあこがれがあった。

だからある年、鶴瓶は意を決して母親にせがんだ。

「クリスマスツリーが欲しい」

だが「そんな余裕はない」と一蹴された。決して裕福ではない家族の経済状況は鶴瓶も子供ながらに痛いほどわかっていた。だが、そのときはそんな大人の事情を汲むことはできず、なおも「クリスマスツリー、買うて」とゴネた。

「買えないけど、作ったる」

そういうと母親は、タンスの一番上の引き出しを少しだけ開けた。何をしているのだろうと、訝しげにその様子を見ていると、今度はその下の段の引き出しを、また少し開けた。さらにその下の引き出しを開ける。下に行くほど、少しづつ、段々と広めに開けていくのだ。そして、山のように段差になったタンスに、腰巻きの紐や、靴下などを“飾りつけ”していく。

「これがうちのクリスマスツリーや」

見事な発想のシャレの利いたツリーだ。だが、まだ幼い鶴瓶にはそのユーモアが伝わらなかった。
引き出しを足で蹴るようにバーンと閉めて母を責め立てた。

「なんでこれがツリーやねん!」

母は、そんな鶴瓶を悲しそうに見ていたという。※2
 
このエピソードを鶴瓶は繰り返し語っている。それだけ、母の愛情あふれるユーモアと発想を理解できずに否定した自分への悔恨の思いが強いのだろう。
だから、鶴瓶はこの時以降、そうした人の機微を感じ取れる人間になれるよう、努力を重ねたのだ。



鶴瓶のスケベな人格形成に大きな影響を与えた家族とのエピソードがもうひとつある。
それは小学6年の時。

一番下の姉が、友人たちを家に連れて遊んでいた。
人懐っこい鶴瓶はその輪の中に入っていき、自分のお菓子を配ったという。
「やさしいねえ」と友人たちは口々に言いながらそれを受け取った。
鶴瓶がその場から離れると、姉が声が聞こえてきた。

「あの子なあ、神さんみたいな子やで。ものすごくやさしいねん」※3
 
嬉しかった。目の前で言われたのなら、お世辞の類だと思っていただろう。けれど、影で囁かれたことで本当にそう思ってくれているのだと感じた。

「思えば、そのひと言に引っぱられて生きてきたのかもしれへんね」※4
 
そう鶴瓶は振り返る。

 

貧乏な長屋暮らしも「オモロイ日常」の一部だった

このふたつの思い出が象徴する家族との関係の中で、「笑福亭鶴瓶」が、生み出されたことは間違いないだろう。

「自分の周りの人が喜んでいるのが好きなんです。(略)人が悲しむことって嫌でしょう。自分がこの人と決めた人を一生楽しませなかったら、芸人なんてやってられないですよ」※3
 
家は四軒長屋。台風になると、近所の人たちが鶴瓶の家に集まった。

「同じ柱で倒れる時は同じなのに、なんでうちの家やねん」※5とも思ったが、それほど「オモロイ」家だったのだ。

台風の日に限らない。駿河家は昔から、他人を集めるのが好きな家で、よく近所のおっちゃんやたおばちゃんたちが集まってきては、夜遅くまでベチャクチャと話し込んでいくことが多かった。幼い頃の鶴瓶にとってそんな会話を、火鉢にあたりながら、横でじっと聞いているほど、楽しいことはなかった。



長屋にはいろいろなドラマが生まれる。

近所に住んでいた女性が新婚旅行の帰りに別の男性のところに逃げてしまったり、突然、「インザスカーイ!」などと意味不明な英語で話しかけてくる頭のおかしなオジサンがいたり、泥棒騒ぎや風呂の覗きなどの事件もあった。

それを「ツライこと」と捉えることもできるが、鶴瓶の場合、それを全部「オモロイこと」として消化していった。
そうすると、貧乏で苦しい長屋暮らしの日常は、ネタの宝庫に変わった。

「子供の頃の体験とか記憶が自分のの中にすごく根付いている」※5と鶴瓶は言う。

スケベな鶴瓶を形作ったのは、彼が育った四軒長屋とそこに住む家族や近所の人たちだ。

「手前味噌みたいやけど、落語家とかお笑いの人って、そういう密集した中からやないと生まれんのやろうね」(※6)




※1『週刊朝日』16年1月1・8日号
※2『パンプキン』88年5月25日号、『主婦の友』88年10月号、『週刊文春』95年7月20日号など
※3『いきいき』06年4月号 
※4『週刊プレイボーイ』07年4月9日号
※5『文藝春秋』16年5月号
※6『週刊文春』95年7月20日号




鶴瓶のスケベ学|14


若き笑福亭鶴瓶の純情


鶴瓶さんを語る上で欠かせないのが、「影の笑福亭鶴瓶」とも言われている妻・玲子さん。どうやら鶴瓶さんのスケべのルーツには、玲子さんに対する純情が秘められているようです。玲子さんとの馴れ初めを紐解きます。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「よかろー」

のちに妻になる玲子は、笑福亭鶴瓶に落語の世界に行きたいと言われると、四国弁でたった一言、そう返した。※1

それどころか、以前、生活のことを考え、就職のことを考えていると漏らした時、玲子は激怒した。

「私は、芸能人の奥さんになろうと思わへん。でも、結婚のために自分の夢を求めていかんと、やめてサラリーマンになるっていうのやったら、もう私のことは忘れてもええから」※2
 
ドラマの世界ではよく聞くような台詞だが、現実の世界でそう言い切るのは難しい。
「末路あわれは覚悟の前やで」という桂米朝の言葉があるとおり、芸人には、人生の終わりがあわれだろうが覚悟の上という考えがある。鶴瓶も同じだ。※3 そしてその信念は、妻である玲子も同様なのだ。

「影の笑福亭鶴瓶」

彼女をそう呼んでも過言ではないほど、笑福亭鶴瓶に大きな影響を与えた、いや、今でも与え続けているのが妻・玲子だ。




あの日あの時、あの場所でキミの頭をグワーッとつかまなければ


鶴瓶が玲子と出会ったのは大学の入試試験のときだった。

「ここへ集まってくれたのは他でもない—」

昼休みの食堂で突然鶴瓶は、他の受験生を前に“演説”を始めた。
受験という人生を決める大事なときでも、鶴瓶はふざけたい欲求に耐えきれなくなったのだ。

大半の人は「なんや、この人?」と呆れた顔で見ている。もちろん、試験に向けて最後の追い込みで勉強をしている人もいる。彼らにとっては迷惑でしかなかっただろう。
それでも鶴瓶は食堂の中を歩き回りながら、“演説”を続けた。鶴瓶の目線の先にカレーライスを美味しそうに食べている女性の二人組がいた。

「勉強してる人もおりゃ、こうやってカレーを食べてるヤツもおる!」

そういって鶴瓶は、二人組のうちのひとりの女性の頭をグワーッと掴んだ。
男子校育ちで女子に慣れていない。男子相手ならいくらでもバカ話できる鶴瓶も女子への接し方がまったく分からなかった。だから、そうやってふざけた勢いでしか、接することができなかったのだ。
突然、頭を触られたら、人によっては怒ってしまってもおかしくはない。
しかし、彼女は、鶴瓶を見上げ、ニコーっと笑った。 鶴瓶の“笑い”が通じたのだ。

その瞬間、彼女に鶴瓶は恋に落ちた。
その彼女こそ、玲子その人だった。

 

再会

鶴瓶は高校の友人たちのほとんどが桃山学院や近畿大学を受験する中、「過去を一旦捨てたい」という思いから、友人たちが受けていない英知大学、京都外大、関西外大、京都産業大学、関西大学を受験した。その中で当時、飛び抜けてレベルの高い関西大学以外の4校から合格通知を受け取った。
合格した4校から、京都産業大学を選んだ一番大きな理由は、彼女に再び会えるかもしれないと思ったからだ。
そしてその想いは実現する。
大学入学から少し経った頃だった。
大きな教室で「国際経済論」という授業を受けているときだ。

そこに鶴瓶と同じクラスの女性・美和とともに、玲子が教室に入ってきたのだ。

「うわぁ、この娘……」

鶴瓶は息を呑んだ。そこから鶴瓶の行動は早かった。
鶴瓶はその時、既に「童亭無学(どうてい・むがく)」を名乗り「落語研究会」に入っていた。美和とはもう親しかったため、玲子を紹介してもらい、2人を落研のマネージャーになってもらうように誘った。
そうして落研に入会した玲子はマネージャーにも関わらず「レモン亭円(まどか)」という高座名がつけられた。ちなみに、鶴瓶がのちに立ち上げることになる制作会社「おふぃす・まどか」(現在は鶴瓶の手から離れている)という名前はこの彼女の高座名から採ったものだろう。

なお、その落研で2人は原田伸郎、清水国明と出会う。彼らは「あのねのね」を結成するが、その初期メンバーに2人も入っていた。玲子はヴォーカルも担当。鶴瓶は歌っていた……わけではなく、後ろで踊っていた。

 

手もつながずに約5ヶ月の交際

「僕とつきおうてくれへんか」

7月の前期試験が終わった頃、ついに鶴瓶は意を決して告白した。 だが、答えは「今つきおうてる人がおるねん」というもの。鶴瓶の初恋はあえなく散った。
それから約2ヶ月後の9月、落研恒例のコンパが開かれた。
人が集まってワイワイするのが大好きな鶴瓶は、失恋のショックも吹き飛んだのか、大いに騒いでいた。
しかし、鶴瓶の目に、部屋の隅でしょんぼりとしている玲子が映った。

「円、どないしてん」
「私、ふられてしもてん」

喜んでいいのか、彼女と一緒に悲しんでいいのか複雑な思いだった。なんとか彼女を慰めてあげたい。そんな思いで、冗談っぽく鶴瓶は言った。

「ほ、ほんなら、僕とつき合うてくれへんか」



その言葉に玲子はコクリと頷いた。※4
 
鶴瓶と玲子の交際は“純愛”と呼ぶに相応しいものだった。 金もなかったため、デートは京都・大阪間を走る阪急電車の特急に乗ることだった。
ウブな2人はキスはおろか、手をつなぐこともできない日々が約5ヶ月もの間続いた。
そして2月。
その日は雨が降っていた。
喫茶店で話した帰り、二条城の付近を相合傘で歩いているときだ。
突風に煽られ、2人は傘にしがみついた。

すると鶴瓶の目の前には彼女の顔があった。

鶴瓶は思わず、彼女にキスをした。

驚きや戸惑いもあったのだろう。彼女はクッと鶴瓶を睨みつけた。
鶴瓶は慌てて「ごめん」と謝った。ずっと誠実な男だと思っていてもらいたかった。それを痴漢みたいなことをしてしまった。取り返しがつかないことをしてしまったと思い、何度も「ごめんな」と謝り続けた。

「なんでそんなにあやまんのん。何も悪いことしたわけやないのに」※4
 
玲子が振り返ってそう言うと、怒っているわけではなかったことが分かり、鶴瓶はホッとしたのか、感極まって涙を抑えることができなかった。

「泣かんでええ!」※5
 
逆に玲子はそんな鶴瓶の態度に対し、怒った。そして、玲子はポツリと言った。

「一緒にどこかへ泊まりに行こう」

2人はその足で奈良の松前旅館に行ったのだ。

お風呂からあがると、部屋には旅館の女中が丁寧に布団を敷いてくれていた。
ついにこの日が来たのだ。鶴瓶は胸の鼓動が抑えきれなかった。しかし、そんな思いとは裏腹に鶴瓶は正反対の行動を取ってしまう。

布団と布団の間を広げ、そこに衝立てを立ててしまったのだ。
夜もふけ、お互いに布団に入った。だが、当然のように気持ちが高揚して眠れない。
だから2人は、衝立て越しに、いつまでも夜通し話をした。

もし結婚したら、こんなことをしよう。こんな家を建てよう。こんな間取りで、玄関はこうで……と、大学ノートに理想の間取りを書いたり、とりとめもない夢を語っていた。
ちなみに、ここで語り明かした構想がそのまま、のちに建てることになる鶴瓶家の間取りの原型となった。

結局、2人はそのまま話し続けて朝を迎えた。
外は雪景色だった。
鶴瓶は、降り積もった雪にダイブして寝転がった。当時、流行していた映画『ある愛の詩』の名シーンを再現したのだ。
それを見て「あんた、なにしてんの?」と呆れるような女性だったら鶴瓶もここまで彼女を好きにならなかっただろう。
彼女も一緒になってダイブし、雪の上に「大」の字がふたつできた。
傍から見ると恥ずかしくなるほど、純情である。

鶴瓶の「スケベ」とは、「純情」と言い換えることができる。それは一見、矛盾する言葉かも知れないが、こと鶴瓶に関してはまったく矛盾しない。
「純情」だからこそ、まっすぐな行動力が生まれる。その行動力こそが鶴瓶流「スケベ」の原動力だ。そしてそれは、豪快さと繊細さを併せ持つ彼女がいつも傍らにいるからこそ発揮されるものなのだ。

さて、この日果たせなかった初体験であるが、この後まもなく訪れた箱根の強羅温泉で2人は結ばれることとなる。
するとこの後、それまで手も繋げなかった初心な恋愛が嘘のように堰を切って毎晩、ベッドをともにするようになってしまった。 それが何日も続いたとき、たまらず玲子が鶴瓶に尋ねた。

「こんなことばっかりしていいの?」※2



 
※1 『主婦の友』88年10月号
※2 『JUNON』88年5月号
※3 『an an』10年2月3日号
※4 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※5 『婦人公論』90年8月号









鶴瓶のスケベ学|15


私ももう19歳やし、結婚のことは考えてしまうよ」「ほんなら、ぼ、僕と結婚してくれるか?」


「影の笑福亭鶴瓶」こと妻・玲子さん。彼女もまた大胆な人でした。初体験はもとよりキスより前の結婚の約束。そして、二人が結ばれるまでの、純情なお話の続きです。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

その日、笑福亭鶴瓶はラジオの公開収録のため、あるホテルのプールサイドにいた。
プールには、普通に泳ぐために来た人、公開放送を見るために来た人など、多くの人で埋め尽くされていた。

鶴瓶はそんな光景を見ながらいつものように軽快にしゃべっていた。

しばらく、しゃべってふとプールに目をやると、そこにいるはずのない人の姿があった。

なぜかプールにプカプカと浮いているのだ。
遠距離恋愛中の怜子である。 



怜子の行動力が起こした運命の事件

のちに妻となる玲子は、大学卒業後、実家のある松山に戻り会社勤めをしていた。
数日前から玲子は会社の有給を取って松山から大阪に訪れていた。だが、この日は帰らなければならない、もう飛行機に乗るために空港に向かっていないといけない時間だった。

プールにプカプカと浮いている玲子を見て鶴瓶は焦った。

(何してんねん? 間に合わないやないか)

玲子は鶴瓶の視線に気づくと、鶴瓶の心配をよそにのんきに手を振り始めた。
そして、小さな紙切れを掲げ、それを細かくちぎったかと思うと、紙吹雪のように散らしてしまった。
プールに美しく散る紙吹雪。それは帰りの飛行機のチケットだったのだ。

「わたし、もう帰られへん」


玲子は鶴瓶のいない松山に帰りたくなくなって、仕事や自分の家族を捨てる決心、いや有無を言わせぬ行動を起こしたのだ。
まさに「影の笑福亭鶴瓶」。どちらが鶴瓶かわからないような大胆な行動力が起こした“事件”だった。
玲子こそが鶴瓶的な思想の体現者なのである。

そして、2人の結婚にまつわる話やそれに関わった人たちはことごとくスケベな鶴瓶の血と肉になっている。

 

キスや初体験の前のプロポーズ

彼らが結婚の約束をしたのは、その“事件”よりもずっと以前のことだった。
それどころか、キスや初体験の前だ。

交際を始めて2ヶ月足らずのとき。
大学の学園祭で2人が所属する落研は「お茶漬け屋」を出店した。その主人役が「童亭無学(どうてい・むがく)」こと鶴瓶、奥さん役が「レモン亭円(まどか)」こと玲子だった。落研の仲間たちが冷やかし半分で決めたものだ。

学園祭も終わり、帰りに2人で喫茶店に寄った。
夫婦役をしたばかりだからだろうか、自然と結婚の話になった。

「むがくちゃん(鶴瓶)は、結婚って、どない思ってんの?」

切り出したのは玲子からだった。

鶴瓶は、自分が落語家を目指していること。だから金銭的に苦労するであろうこと。それに巻き込みたくないから、養っていける収入を得られるまでは考えられないこと、などを語った。

「そんなこというてたら、いつまでたっても結婚でけへんのと違う。それに、私は夫婦って、苦労する時は、2人でしていくべきやと思うわ」
「円(玲子)は、もう結婚なんて考えるのんか?」
「そりゃ私ももう19歳やし、こうして男の人ともつきおうてたら、当然結婚のことは考えてしまうよ」※1
 
鶴瓶にはひとつの強い結婚観があった。
それは、「最初につきあった女と結婚しよう、結婚したからには添いとげよう、それが当たり前や」※2 というものである。
だから、結婚相手は玲子だともう決めていた。

「ほんなら、ぼ、僕と結婚してくれるか?」

本気だった。それを本気で断られるのが怖かった。だから冗談半分に聞こえるような口調で言った。
だが、その言葉を聞いて、玲子は真剣な顔になった。慌てた鶴瓶は玲子の答えを遮るように言った。

「ちょ、ちょっと待って。こんな大事なこと、すぐには返事でけへんやろうから、僕、今からこの店のまわりを一周してくるわ」

鶴瓶は玲子がちゃんと考えられるように時間を作った。というよりも、自分自身も冷静になれる時間が欲しかったのだろう。
店のまわりを歩いて戻ってきた鶴瓶は再び同じ質問をした。すると、彼女はコクリとうなづいた。
 
10年後の鶴瓶の誕生日、つまり1980年12月23日に結婚しようと決めた。
2人はたまたま持っていた『米朝落語独選』の裏表紙にその日付を書き込み、誓いの印としてお互いの血判を押したのだった。

 

この人を絶対に悲しませたくない

玲子はこのプロポーズの少し後、鶴瓶も驚く行動をとる。
突然、鶴瓶の実家を黙ってひとりで訪れたのだ。しかも、そこで鶴瓶不在にも関わらず、一泊している。
 
さぞかし、鶴瓶の両親も驚いただろう。なにしろ、いきなり見ず知らずの若い女性が訪ねてきたのだから。鶴瓶以上の行動力である。
実はこの少し前、鶴瓶と玲子との交際が両親の知るところになっていた。鶴瓶は両親に呼び出され、こんこんと言い聞かされていた。
「無茶なことだけはしてくれるな」と。
けれど、玲子は、その交際や将来の結婚を親に認めてもらおう、といった意図もなにもなく実家に行ったのだという。
ただ、未来の亭主が、どんなところで生まれ、どんなところで育ったのか、自分の目で確かめたかったのだ ※1

けれど、物怖じしない彼女を、鶴瓶の両親も受け入れた。
いきなり行って、泊まる方も泊まる方だが、それを許し、泊める方も泊める方だ。
出てくる登場人物すべてが出会いに照れない“鶴瓶的”スケベな人たちなのだ。

だが、先のプロポーズで交わされた誓いは結果的に破られることになる。
鶴瓶は急速に忙しくなっていった。
連日のようにテレビやラジオに出演しつつ、並行して弟子修業で、師匠の家の掃除や雑用などもこなさなければならない。
一方で玲子も大学に通い就職活動もしていた。
次第に2人はなかなか会えないすれ違いの日々が続くようになった。
苦しかった。

たまらず鶴瓶は「アルバイトに行く」と師匠に嘘をつき、玲子のもとに向かった。
京都の鴨川で2人はおちあった。
すると、うつむきがちに玲子は言った。
「私、好きな人がいるねん」
鶴瓶は絶句した。何がなんだか分からなかった。今まで何のためにがんばってきたのか。せっかく落語家になっても、玲子がいなくなっては意味がないじゃないか。
あまりにもショックが大きかった。
けれど、“ええ格好しい”の鶴瓶は、そんな自分の思いとは裏腹な言葉を振り絞って言った。
「お前が好きやったら、大事にしてもらえ」

失意の鶴瓶は、鴨川から師匠の家までまっすぐ帰ることはできなかった。
3時間以上かけてたどり着くと、電話が鳴っていた。
受話器を取ると、相手は玲子だった。
「ゴメン、さびしかったんや」
電話口の玲子は泣いていた。
「今日、言うたこと忘れて」
心身ともにボロボロで帰ってきて受けたその電話に鶴瓶も泣いた。玲子の深い苦しみと愛情を感じたからだ。
その日のことを回想しながら鶴瓶は言う。
「オレ、いまでもウチのやつのことがいちばん好きやねん。この人を絶対に悲しまさせない、と思ってる。あのときの自分のことを、そしてふたりの歴史を大事にしたいからなんやろね」※3
 
1980年に結婚する、そう誓いあった2人は、その約束を破った。
約束の日の6年も前の1974年10月12日に入籍することになったのだ。








※1 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※2 『ソフィア』95年3月号
※3 『pumpkin』00年4月号








鶴瓶のスケベ学|16


親の反対を押し切った結婚式の狂乱

予定より早く結婚することになった鶴瓶さんと玲子さん。二人の結婚式には新婦側の親族が参列しなかったそうです。新婦側の親に認められないまま進んだ結婚式は、どのような宴になったのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

あまりにさびしい結婚式だけど


1974年10月。新郎・笑福亭鶴瓶と新婦・玲子の結婚式が執り行われた。
披露宴に出席したのは兄弟も含めて、わずか20人余り。鶴瓶の人脈を考えるとあまりに寂しいものだった。

本来、いるべき人たちが参列していなかったのだ。
玲子側の親族である。



両親の誠意あふれる反対

実は鶴瓶は玲子へプロポーズしてから1年足らずで一度、彼女の実家に訪れていた。
まだ鶴瓶は師匠・松鶴に入門して1年目 、彼女も大学在学中の頃、ふたりとも21歳のときだ。
アフロヘアを無理やり七・三にピシッと分け、正装した鶴瓶は、彼女の両親に向かって言った。

「早すぎることは、僕もよくわかっているつもりです。だから今すぐとはいいません。僕に玲子さんをください。必ず幸せにしますから……」※1
 
突然の申込みに両親は当惑。その場では「はい」や「いいえ」という明確な答えは得られなかった。
だが、その半月後、父親から長文の手紙が届いた。

「貴君は元気で芸の修業に励んでおられると言と思います」と始まるそれは、娘はもちろん鶴瓶までの将来を真剣に案じつつ、明確に結婚や婚約には「NO」をつきつける内容だった。
「君は今、夢を求めている最中だ」「それなのに、君の夢を壊してしまうことになる」と。
当然、その答えは予想していたが、それが現実となるとやはりショックだった。けれど、その誠意あふれる手紙には感動した。
 
「俺は、人の息子でしょ。どうなろうが勝手でしょ。それなのにこんないい手紙くれて。だから、俺、この家族にほれましたね」※2
 
親の反対で彼らの心が揺らぐことはなかった。むしろ、反対されればされるほど、2人の心は燃え上がっていった。

 

遠距離をつないだ想い

玲子は大学を卒業すると、実家のある松山の銀行に就職した。
就職すればもちろん毎日の仕事もある。松山と大阪、距離も離れている。しかも、両親には交際を反対されている。
鶴瓶は絶望的な思いにかられていた。

「私だってさびしい。でも松山に帰っても、必ず手紙を出すから。そしてなんとか説得して、大阪へも時々くるようにするから」※1
 
そんな玲子の言葉だけが救いだった。
実際、手紙は毎日のように届いた。多いときなどは1日に複数の手紙が届くこともあった。
それは、何時に起きて、会社ではどんなことがあって、どんなふうに寝ているかといった、とりとめもないものばかりだったが、鶴瓶にとって大きな拠り所だった。
それまで、あまり手紙を書いたことがなかった鶴瓶もこの時ばかりは必死に返事を書いて送った。
「強い学へ 淋しがりやの玲子より」と添えられた手紙がくれば、「かよわいつるべより 本当は強い玲子へ」と返した。 ※1
その手紙だけが、2人を繋いでいたのだ。




そんな生活が約5ヶ月が続いたとき、あの“事件”が起こった。
休みを利用して大阪に来ていた玲子が、自ら帰りの飛行機のチケットを破り捨て、「松山には帰らない」と言い出したのだ。
もともと交際自体に反対しながらも、渋々月一回程度大阪に行くことを許していた両親は、当然のように激怒した。
電話口で怒鳴る父親に玲子は言い返す。

「私はこの人と結婚せんでも、ここの家の子供になります!」(※3

家族と縁を切る覚悟だと言うのだ。毅然とした玲子に対し、むしろオロオロしてしまったのは鶴瓶だった。電話を代わると鶴瓶は「なんとか、松山に返すようにしますから……」と約束するのが精一杯。だが、頑固で一途な玲子が、結婚が許されない限り、もう松山に帰るつもりはないであろうことは、明らかだった。

「とにかく一度、松山へ帰れ」「いや、帰りたくない」

そんな押し問答が毎日のように続いた。
しかし、やはり玲子の意志は固かった。
結局、父親は大阪まで娘を連れ戻しにやってきた。それでも玲子は頑なだった。

「四国には帰りません。大阪で働いて暮らします。その覚悟で出てきてます」※2
 
そんな玲子の言葉に、ついに父親は説得をあきらめた。
哀しそうに娘を置いて家を出た父親の姿に鶴瓶は感情移入して、いたたまれなくなった。
タクシーに乗るところまで鶴瓶は見送ると「すんません、えらいすんません」としきりに謝った。
すると、タクシーに乗り込む間際、父親は鶴瓶にポツリと言った。

「玲子、頼むよ」※2
 
そんな父親の思いを決して裏切れない。鶴瓶は心に誓った。

 

どこまでも明るい狂乱の宴

玲子は、その数ヶ月後に妊娠。2人は予定よりも6年も早く結婚することになった。
いわゆる“できちゃった婚”。もともと交際すら反対していたのだから、玲子の両親はこの結婚は認めてはくれなかった。
結局、結婚式には、玲子側の親類縁者は誰一人として出席しなかった。

玲子は明るく振る舞っていたものの、鶴瓶は手放しでは喜べなかった。
その反動だろうか。
披露宴は少ない人数とは裏腹に大いに盛り上がった。まさに“宴会”だった。

狂乱の宴のはじまりは「裸踊り」だった。
裸になったのは鶴瓶ではない。鶴瓶の父親だった。
落語家になるのを最後まで反対したような父親が、息子に寂しい思いをさせないためにサービス精神でバカになったのだ。

それを見て、文金高島田を脱ぎ捨てて踊りだしたのが玲子だ。
もちろん、鶴瓶も踊り狂った。
みんながバカになった。
 
それがどんな状況だろうが受け入れ、明るく前向きに楽しむ。それが、鶴瓶流のスケベな生き方だ。
その生き方は周りにも伝播するのだ。
ちなみに玲子の両親とは結婚から3年余りが経った頃には雪解け。その後、急速に仲が良くなっていった。



狂乱の宴は師匠・松鶴の挨拶で締められた。松鶴は壇上に立ち、愛情たっぷりにこう挨拶した。

「わてには弟子が13人います。でもこいつが一番アホや」※4








※1 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』(シンコーミュージック)
※2 『JUNON』88年5月号
※3 『主婦の友』88年10月号
※4 『週刊女性』88年5月31号








鶴瓶のスケベ学|17


夫婦が仲むつまじくいるためのフツーの努力とは



今でこそおしどり夫婦の鶴瓶さん夫妻ですが、 「道楽が芸の肥やしになる」として無茶ばかりする芸人の生活に、結婚当初は玲子さんが愛想を尽かせて出て行ってしまうこともあったのだとか。それでも無茶をやめない鶴瓶さんが誓った「約束」とはなんだったのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「僕、家庭が趣味なんです。特に嫁はんが趣味」※1
 
笑福亭鶴瓶は堂々とそう宣言する。
今でも手帳に家族写真を忍ばせ、中でも大切にしているのが、夫婦が笑顔で撮った2ショット写真だ。結婚記念日やお互いの誕生日などの記念日には、手紙を送り合う。
妻・玲子が韓流スターにハマれば、徹底的に調べ上げ自分もファンになり、サプライズで韓国旅行にも行く。

「今でもね、だんだんだんだん好きになる。今でも照れまんねん、嫁はんの前で」※2
 
とラブラブだ。
間違いなくすべてにスケベな鶴瓶の原動力は妻を筆頭にした家族の存在だろう。




30までは俺を自由にせい

だが、最初からずっとそうだったわけではない。

20代の頃は、「芸のためなら女房も泣かす」状態だった。家に帰ると嫁が愛想を尽かせて逃げていなくなってしまったこともあったという。

芸人は無茶するのが当たり前。そんな価値観に囚われ、芸人仲間たちと朝まで浴びるように酒を飲み、とことん遊んだ。

「家に嫁はんいますから帰ります」

なんてことは口が裂けても言えなかったし、「ダサイ」と思っていた。

深夜ラジオの出演を終えると、先輩たちが飲んでいる席に入っていき、先輩芸人たちを笑わせた。松竹も吉本も関係ない。彼らが喜んでくれるのが嬉しかったし、先輩たちもそんな鶴瓶をかわいがった。

だが、ある日、その席に電話がかかってきた。
玲子からだった。

(無粋なことをする。)

憮然として、電話口に出て「どうした?」と尋ねると、玲子は泣いていた。いつもとはまったく違う切実な声で言った。


「子供が泣きやまない」

よっぽどのことだと察知した鶴瓶は飛んで帰った。
深く反省した鶴瓶だが、だからといってこの生活をやめるわけにはいかなかった。

「待っといてくれ」

泣きはらす玲子に鶴瓶は言った。

「30までは俺を自由にせい。30からは絶対、お前のために時間をとるから」※3
 
実際、鶴瓶は30歳をすぎると、生活を一変させた。
たとえ多忙を極めても家をあけることは極力しなくなった。

35歳の頃には、ハワイのオアフ島に別荘を購入。毎年、年2回は、夫婦でハワイに旅行に出かけるようになった。
2人でゴルフも始めた。
ちなみにこのことが、2014年繰り返し語られた「正月に夫婦でハワイにゴルフをしていたら、オバマ大統領一行に遭遇し、大統領と握手した」という鉄板の噺につながっていく。





夫婦の仲が良ければ子供はグレない、というのが鶴瓶の持論だ。
「子はかすがい」なんて考え方はもってのほかだ。子育てが終わったら夫婦がぎこちなくなってしまう。あくまでも家庭では子供が中心ではなく「夫婦が中心」※4だと言う。

「子供に関係なく夫婦自身が楽しまな」※1

 

厳しかった子供へのしつけ

鶴瓶には2人の子供がいる。長女は章子。長男は太郎、現在は俳優として引っ張りだこの存在に成長した。

子供へのしつけは厳しかった。
たとえば、長女が中学生のときだ。妻から反抗期だと聞かされていた。
ある夜、テレビをつけっぱなしで長電話をしている長女を見て、「どっちかにしなさい」と怒った。
すると、娘がキッと睨みつけた。

「おまえ、何にらんでんねん」

「にらんでない」

反抗的な態度に鶴瓶は手をあげた。
少し落ち着いた後、鶴瓶は思わず手を上げてしまったことに反省し、しかし、改めて悪いものは悪いと諭すように真摯に娘に語りかけた。

「確かにお前に手を上げたことはお父さん悪かった。もう二度とお前のことは叩かない。その代わりお前、これから一人でちゃんと生きていかなアカン。お父さん、もうどんなことが起ころうと叩かない、一生叩かないよ。だから、自分で方向付けして自分自身、ちゃんと生きていきなさい。それが嫌なら今すぐこの家出ていけ」
 
娘は泣きながら「ごめんなさい」と謝った。

「これからも叱ってください」

鶴瓶も泣きそうになってしまった※1

「仕事、手伝おてえな」

鶴瓶はある時、玲子に頼んだ。もともと鶴瓶は「嫁は家にいるべき」というような古い家族観を持っていた。だが、それは間違いだと気づいた。

「どんどんあなたが遠くへ行ってしまう気がする」

という彼女のボソッと言った一言が頭に残っていた。

「やっぱり女性は、イキイキしていないとキレイになっていかない」※1
 
そう思って、鶴瓶は自分の仕事をサポートしてくれるように頼んだのだ。
彼女は鶴瓶の真意を落とし込みながら、相手の心に響くように企画書などをまとめることにピカイチの才能を発揮した。
いまや伝説の番組とも言われる『パペポTV』の企画書をまとめたのも彼女だ。

鶴瓶がアイデアを出すと、それを実現するために玲子が東奔西走する。文字通り夫婦二人三脚体制ができ上がったのだ。

 

フツーでいるための努力を欠かさない

かつては、嫁を置いて遊び回っていた鶴瓶だが、その考え方は180度変わった。
「飲む打つ買う」というような「道楽が芸の肥やしになる」という考え方を真っ向から否定する

むしろ、フツーの生活をしてへん者が、なんでフツーの人に満足してもらえるはなしができるのか。せやから僕は、他の芸人さんより家庭を大切にするし、フツーの夫、フツーの父親でありたいと思うんです」※2
 
フツーでいるために「努力」をする。夫婦円満のために「努力」は欠かさないと鶴瓶は言う。

「最初の純な気持ちはそのまま続かないと思うから……だから努力してますもの、お互いに」(※1)

絶えずお互いに気にかけ「ポイント稼ぎ」をし合っているという。愛情を見せることで相手にも愛される。お互いに助け合い、尽くし合う。それは大切な人を幸せにすることに“スケベ”であり続けるということだ。

「彼女のために何かしてあげたい、と僕はいつも思うてるよ。仕事で家を開けることが多いから、オフがあったら二人きりですごすの。よそへ遊びにも行かない、落語もしない。そして彼女に『何がしたい?』と聞くのよ」※5
 
夫婦2人だけで旅行に行ったと話すと、「よく2人きりで話すことがあるなあ」と周囲の人に言われることが多いという。だが、鶴瓶はこともなげに言う。

「それってクセですよ。普段からクセにしてないから、みんなそんなン言うんですよ」※1


 
※1 『ソフィア』95年3月号
※2 『主婦の友』88年10月号
※3 『メイプル』03年3月号
※4 『週刊サンケイ』88年4月21日号
※5 『an an』10年2月3日号




鶴瓶のスケベ学|18


明石家さんまと鶴瓶をつなぐ「幼稚」な絆


“お笑い怪獣”こと明石家さんまさんもまた、鶴瓶さんの人生を語るうえで欠かせない存在です。国民的な人気を誇るふたりのスターをつなぐのは、可愛げとイタズラ心に満ちた、「幼稚」な絆でした。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「貴様! やすしと知っての狼藉か!!」
電話口から、耳をつんざくような怒声が響き渡った。
その声の主は横山やすしである。

横山やすしといえば、当時人気絶頂の漫才師。と同時に暴力的で「怖い」代名詞のような先輩だった。怒らせたら何をされるかわからない。そんな先輩に笑福亭鶴瓶はイタズラ電話をかけたのだ。

ことの発端は明石家さんまに鶴瓶が「さんま、今日は借り物競争しよう」と提案したことだった。

大阪に拠点を置いていた頃からさんまと鶴瓶は仲が良かった。
鶴瓶は1972年、さんまは1974年と落語入門が近く、さんまの師匠である笑福亭松之助が、鶴瓶の師匠である笑福亭松鶴を“兄貴”のように慕っていた同門という関係もあり、よく楽屋で一緒になると話し込んでいた。ともに落語家でありながら、落語自体はあまりやらず、早くからテレビやラジオで脚光を浴びたという境遇が似ていることも、彼らが惹かれ合う要因だったのかもしれない。

さんまに限らず鶴瓶はその「人たらし」っぷりで、数多くの人物と“深くて広い”付き合いをしている。
今回から数回にわたって、その「人」にスケベな鶴瓶の交流を見ていきたい。


果てしない悪ふざけ

2人は吉本興業と松竹というライバル会社の若手のエース同士という立場でありながら、兄弟のように仲が良かった。
もともと関西では吉本と松竹は“共演NG”という不文律があったという。
それを破ったのも彼ら2人の関係だった。
 
真偽は不明だが、さんまがパーソナリティを務めるラジオ番組に鶴瓶が出演する際、「笑福亭鶴瓶」だと問題になってしまうから、本名の「駿河学」名義で出演したという話もある。
鶴瓶とさんまとの関係をさらに親密にさせたのは新幹線の中だった。まだ2人とも20代の頃だ。

鶴瓶は名古屋に、さんまは東京に仕事へ向かう際、よく新幹線が一緒になり、到着まで仕事からくだらない話まで語り合っていた。それに飽きるとゲームをし始めるのだ。そのひとつが「借り物競走」だった。相手の嫌がりそうな指令を書いた紙をバラバラにしてお互いがそれを引き、指令に従って新幹線の客の持ち物をどちらが早く借りてこれるか競うというものだ。

「負けたほうは罰ゲームや」

鶴瓶は不敵に笑う。罰ゲームを考えるのも楽しかった。ある日、極めつけの罰ゲームを鶴瓶は思いついた。

「横山やすしにイタズラ電話をかける」
 
前述のとおり、横山やすしといえば、「怖い」先輩。そんな先輩にイタズラ電話をかけるなどあり得ない話だ。しかも、両者とも声色に特徴のある2人。電話口で誰か分かってしまう危険性が高かった。まさに究極の罰ゲームだった。
 
そんなとき負けるのは決まって鶴瓶だった。
罰ゲーム執行のときになって、さすがに鶴瓶は躊躇した。

「さんま、やっぱりやめへん?」


鶴瓶が怖気づいて言っても「あきませんよ。兄さんが決めたことでしょう?」と聞く耳を持たず追い詰める。2人はそのやり取りがたまらなく楽しかった。「兄さん、はよー!」 というさんまの催促でようやく受話器をあげた。
時計は夜中の3時をまわっていた。
電話口には寝起きの横山やすし。

「あっ、もしもし……、あのぉ、すいません、南海電車の始発の時間教えてくれませんか?」

一瞬の沈黙の後、けたたましいあの怒声が響いたのだ。慌てて電話を切った鶴瓶はさんまと顔を見合わせ爆笑した ※1

そんな遊びばかりをしていた。それはテレビやラジオの中でも、外でも一緒だった。

 

引き込んでいくさんまと、下りていく鶴瓶

2人の共通点として、「ラジオ」を大事にしている点がある。
現在でも2人が深夜のラジオ番組『ヤングタウン』(MBS)のパーソナリティを務め続けているのが象徴的だ。
鶴瓶は75年から、さんまは78年から一時中断を挟みながらも出演し続けている。1999年に番組自体が終了するという話になった際には、絶対に番組の名前を消してはならないと、2人が立ち上がり、土曜日と日曜日だけが存続したのだ。

鶴瓶とさんまを『ヤングタウン』に引き合わせたのはこの番組開始当初からパーソナリティを務め、アイドル的人気を得た桂三枝(現・文枝)だった。初期『ヤンタン』の象徴的人物だ。
もちろん、同じ吉本の後輩であるさんまを推薦するのは自然な流れだ。
だが、ライバル会社である松竹の鶴瓶までも三枝は事務所の垣根を超えてフラットに紹介した。

三枝は鶴瓶を含めた若手芸人数人とともにプロデューサーの渡邊一雄の自宅を訪れた。
なんの話をするわけでもなく、ただ雑談してすごすのだが、その中で鶴瓶は断然光っていたという。※2



当時『ヤングタウン』は土曜日だけが客前の公開収録。他の曜日は一般的な深夜番組同様、基本的にスタジオから生放送をしていた。渡邊に気に入られた鶴瓶は月曜日の司会に抜擢され、さんまは三枝が司会を務める土曜日のレギュラーとして出演していた。

「ほんまをいうたら、もっともっとやっていきたいんやけど。しかし、ヤングタウンという名前の通り、ヤングの番組だから、次から次へと若い人たちが登場し、創り出してほしいですね。私だけがずっと居座ったてたらあかんと思いましてん」※2
と、三枝は79年に番組を勇退する。

その後を継ぎ、土曜日の司会者となったさんまは重責を感じながらも、より奔放にしゃべりまくった。
当時の増谷ディレクターはこのように述懐する。

「今のさんまさんのトーク、芸風はヤンタンの時代のものだといっても間違いないでしょう。ヤンタンではオープニング・テーマの前にちょっとしたおしゃべりがあって、それまではそう長いトークではなかったんです。ところが、さんまさんはそれが延々20分続くんです。あれは画期的でしたね」※2
 
そして、82年。アイドル的人気であまりにも観客の歓声が凄すぎるため、スタジオでの生放送のほうがいいと思っていたさんまと、公開収録がやりたいと思っていた鶴瓶のお互いの思惑が一致し、月曜日と土曜日の担当を交代する。
鶴瓶の中には『ヤングタウン』は「桂三枝、(初代司会者の)斎藤務が作ったもの」という意識があった。スタジオの生放送時代はそれほど感じなかったが、番組を象徴する公開収録では2人の“怨霊”を強く感じ、極度にあがってしまった。

「恥ずかしい、くやしい、もうあんなん流してほしいない」

帰り道に、弟子にそんな弱音を吐くほどだという。
のちに鶴瓶が古典落語に回帰した際、極度の緊張でうまくいかなかったのを見て中村勘三郎が「あなたがあんなアガっている姿を見たことがない。それは、伝統に敬意を持っている証拠。あなたは古典に謙虚」と評したといわれるが、彼が『ヤンタン』の公開収録であがったのも、三枝に強い敬意を持っていたからだろう。
しかし、次第に慣れていき、やはりダイレクトに反応が返ってくる公開収録のほうが自分にあっていると確信する。さんまと鶴瓶の違いを池田ディレクターはこのように分析している。


「鶴瓶さんなんかはリスナーの方に下りていくんですが、さんまさんの場合はリスナーと自分の方に引き込んでいく」※2
 
そうして、その年の10月からテレビでは“テレビ版『MBSヤングタウン土曜日』”と呼ばれる『突然ガバチョ!』(毎日放送)が始まり、笑福亭鶴瓶の名が関西で轟くことになるのだ。

 

「ヤング」を通り越して「幼稚」なふたり

『ヤングタウン』も、60年代の斎藤務・桂三枝の第一次黄金時代、70年代後半の谷村新司、角淳一・笑福亭鶴光らの第二次黄金時代を経て、この時期の80年代、第3の黄金期を迎えた。
角・鶴光、鶴瓶、さんま、紳助のお笑い系、谷村、原田伸郎、やしきたかじん、チャゲ&飛鳥の音楽系と多様なラインナップがそろっていた。
それだけではない。
鶴瓶の日にさんまが、さんまの日に紳助が、紳助の日に鶴瓶が、リスナーとしてスタジオに電話をしてくるなど、曜日間につながりが生まれたという。イベントやコンサートなども活発に行い、野球大会なども開催した。

87年に開催された野球大会の対戦相手は関東で飛ぶ鳥を落とす勢いだった「とんねるず」チーム。対する『ヤンタン』チームにはさんま、鶴瓶を筆頭に、なんと若き日のダウンタウンも参加。今では考えられない座組である。

そんな曜日間のつながりを象徴した放送は、チャゲ&飛鳥がパーソナリティを務めていた火曜日に、さんまがゲスト出演したときだ(83年5月31日)。その番組の後半、『突然ガバチョ!』で生放送中の鶴瓶がカメラを引き連れ乱入したのだ。

鶴瓶は炭酸ガスを大量に噴射。スタジオは、白煙が充満しパニックになった。
「シャレにならんで、突ガバ!」
さんまの悲鳴がスタジオにこだましたのだ。※1
 
鶴瓶もさんまもこうした人を驚かすことが大好きだ。
鶴瓶は、さんまが驚いて笑ってくれるなら、彼の歌&トークのコンサートに突然あらわれてお尻を出すことなどへっちゃらだ。
横山やすしへのイタズラ電話でも分かるように、いわば子供のイタズラの延長なのだ。
さんまが『ヤンタン』を続ける以上、俺も続ける。さんまと俺だけですからね。もう『ヤングタウン』じゃないもん。60歳やでどっちも。“ヤング”やあれへん。『ヤングタウン』という実態はもうなくなってますからね。俺とさんまだけですからね」※3
と鶴瓶は言うが、鶴瓶の精神はいつまでも「ヤング」、いや、「ヤング」を通り越して「幼稚」なままだ

「お笑いの人って、いかにずっと幼稚でいられるかなんです」※4
 
見ていると思わず笑ってしまう可愛げとイタズラ心。鶴瓶もさんまも「幼稚」さこそがひとつの武器なのだ。

2009年に『ディア・ドクター』で第52回ブルーリボン賞・最優秀主演男優賞を受賞した笑福亭鶴瓶は言った。

「俺がほしいのはなあ、“さんま賞”やねん」






※1 エムカク:編「さんまヒストリー」
※2 渡邊一雄:著『ヤンタンの時代。』
※3 『ヤングタウン日曜日』14年2月2日
※4 『A-Studio』14年8月29日







鶴瓶のスケベ学|19


上岡龍太郎「おまえ、俺の悪口をいうてるやろ」鶴瓶「はい、言ってます」


今や伝説の番組『鶴瓶上岡パペポTV』で10年以上にわたり鶴瓶さんと共演した上岡龍太郎さん。対照的な2人がそれぞれ持っていた「正直」さとは一体、どのようなものだったのでしょうか。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「見てるあんたも同罪じゃ。」

そんな鮮烈なコピーが書かれたセンセーショナルなポスターが作られた。 コピーを際立たせるのは、その写真。燕尾服姿にきめた二人の男が立っている。 笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎である。

しかし、下半身はなにも履いていない。 局部がモザイクで隠されているだけ。まさに「見てる」僕たちに「同罪」だと訴えかける。 『鶴瓶上岡パペポTV』のポスターである。



むく男、むかない男

コピーを書いたのは鶴瓶が「毒の人」※1だという糸井重里。写真を撮ったのは浅井慎平。
それは番組の精神を如実にあらわしていた。

撮影はすぐに終わった。 何枚も撮ることなく、浅井は「いいよ!」「いいですね!」と下半身丸出しの男を手早く撮影した。 準備中も上岡はぶらんと丸出しのまま何も言わず堂々と待っていた。

一方、鶴瓶は違った。 撮影風景を見ていた糸井はこう証言している。


「上岡さんはそういう時に『騒いだら負けや』って思ってるからなんにも言わずにぶらんとさせてるのよ。ところがこの人(鶴瓶)は人間が小さいから(笑)、一緒に写る時に負けてはいけないって気持ちがあるらしくて後ろを向いてはちょっと揉むのよ(笑)」

鶴瓶は笑いながら述懐する。

「ふふ。揉むのと同時にね、むくねん。あの時に包茎やと思われると一生言われから。仮性包茎やけど。むくけど戻るんですよね」

「でもちょっと大きくしてるから戻りにくいわけ(笑)」※1
 
そうしてできあがったのが「むいてる男」と「むかないでじーっと動かない男」という対象的な二人の男が対峙しているポスターだ。

 

雑談の名手・上岡龍太郎

『パペポTV』は1987年4月14日からよみうりテレビで始まった。当初は関西ローカルだったが、88年10月から日本テレビでも放送されるようになった。
もともとプロデューサーの岡島英次、ディレクターの白岩久弥、放送作家の疋田哲夫が考えていた鶴瓶のパートナーは、直木賞作家でありタレントとしても幅広く活躍する野坂昭如だった。だがその頃、野坂は田中角栄の金権政治を批判し、新潟三区から立候補するという話が持ち上がっていた。そのため、NGが出たのだ。※2
 
代わりに鶴瓶本人が希望し(岡島という説もある)、先輩格である上岡龍太郎がパートナーに選ばれたのだ。 そのパイロット版の『鶴瓶・上岡激突夜話』は、疋田が構成を務めていた行き当たりばったりの街ブラロケ番組の源流といえる『夜はクネクネ』(毎日放送)の“スタジオ版”として企画された。二人がスタジオで行き当たりばったりのトークをする。つまり雑談だ。それを時間の限り行った。

番組は好評だったためすぐにレギュラー化に向けて動き出した。 しかし、いくら深夜の関西ローカル番組とはいえ、ただ「2人でトークする」という企画書では、通してくれない。 そこで一計を案じ、書かれたのは「雑談選手権」という企画だった。 リングを作って、なにかひとつのお題について2人が話す。そしてそれに点数をつけて勝敗を決めるというものである。「それではすぐ終わってしまいますよ、番組としては」と鶴瓶は笑う。※3
余計な要素を加えてしまうと、雑談そのもののおもしろみが「ぼやけ」てしまうからだ。企画は「ぼやけさせたら絶対にだめ」なのだと。 もちろん、こんな企画は端から方便だった。

始まってみれば、スタジオで対峙した2人が、ただ60分“雑談”をするというシンプルな番組になったのだ。

上岡龍太郎は、この番組についてこのように振り返っている。

「ぼくはね、全編アドリブやったんやけども、鶴瓶ちゃんは、ネタを今度はこれ言うて、あれ言うてと、いつも用意してたみたいやね。小さいメモ帳をネタ帳にして、中身を書かずにタイトルだけを羅列してたよ」※2
 
鶴瓶もそれを裏付けるように語っている。

「僕の頭の中では、なんか一時間しゃべらないかんというなんかがあるわけですよ。細かな組み立てっていうのはないけど、きっかけだけは、アッこんな話もあったなんて思いながら舞台にあがるわけですよ。向こうは僕がなんでくるかわからないんですよ。それをね、全部吸収しながらパーン、パーン……、払いながらね」※4
 
この二人のやり取りは瞬く間に評判になり、『パペポTV』は関西を代表する人気番組になっていった。
その1~2年目、鶴瓶は「僕の手柄だ」※4 と思っていたという。自分が構成を考えて話しているからこその人気だと考えたのだ。 そんな思いが透けて見えたからだろうか。 なにも不満や悪口も言っていないにも関わらず、「大阪スポーツ」で2人の「不仲説」が報じられた。

鶴瓶はその記事が出たことを知らぬまま『パペポTV』の本番の舞台に上った。 すると、上岡が口を開いた。

「おまえ、俺の悪口をいうてるやろ」
 
鶴瓶は戸惑った。悪口を言ったことはないが、心の奥底で悪感情がないわけではなかった。だから鶴瓶は「はい、言ってます」と答えたのだ。
その言葉に上岡は怒るどころか、うれしそうな表情をして、鶴瓶から自身の悪口を引き出していったのだ。

「あー、この方は凄い人やな」※4
 
鶴瓶はそのことを実感したのだ。

 

正反対の「正直」さ


鶴瓶と上岡は対照的だ。 たとえば、素人に対峙するときにその違いがあらわになる。

あるとき、上岡は海女さんの取材に行った。
「なんかええ話ありますか」と本番前に取材した。すると「シケの時にね、二人で潜っていって一つのアワビを取り合いして沖に上がったら、親子の海女だった」という話を聞いた。シケの時には親子でも取り合いする、そのことがすごいなと思い、「それを本番でまた聞かせてください」とカメラを回した。
すると彼女は、「あれはシケの日だった。親子の海女が……」と語りだしたのだ。先にオチである「親子」を言ってしまっているのだ。

上岡龍太郎は、それを「台無し」だと考える。だから素人が“嫌い”なのだ。

だが、逆に素人好きの鶴瓶はそれを「オモロイ」と考える。
 
「お笑いにはいろいろな考え方あると思うんですけど、予測もしないアクシデントが起きたとき、いかにそれをおもしろくするのかっていうのが僕の中ではプロなんです。それはアクシデントに見せないでいかにおもしろいなって思うように逆転するかっていうのがプロだと僕は思ってるんですよ。それは予定調和にないことが一番いいんですよ」※5
 
また、鶴瓶はこの番組が始まった後は、「よそでは絶対に会わないでおこう」と決めた。新鮮さを大事にしたいからだ。
だが、上岡は違った。平気で対談などを持ちかけた。「それで飽きられたらそれでええやん」と。

「あの人はそのまま」なのだと鶴瓶は言う。※6 
執拗なまでにオカルトを批判するのも、最初は「そんなことテレビで言わんでいいやんか」と思っていたが、上岡がテレビでも「そのまま」だから言っているんだとわかって、納得した。自分に正直なのだ。その正直さに鶴瓶は惹かれた。

「龍太郎師匠が可愛いのは、普段は『キーッ』となって怒らない、愛した人にはパーンと叩かれても、なんでも許してしまう人なんですよ。で真剣に笑うんですよ、あんだけ長いことお笑いやってはっても。真剣な目して笑うんですよ。本人は自分が全然おもしろない男やということを知ってはるんですよ」※6
 
その「正直」さは2人の数少ない、しかし重要な共通点のひとつだ。 だが、その「正直」さの向かう方向がまったく別の方向だから、対照的に見えてしまう。 上岡は自らのスタンスをこう語っている。

「自分の優しさを隠して人の悪口言うという上質なユーモアをやるわけです。ハッハッハ。 毒を思い切り出すことで、毒も薬であることを言いたい」※7
 
それに対して、鶴瓶は「なんの衒いもなく、優しさを口に出せるタイプ」だと評している。

「彼は、どこかでドン臭さが人間の愛なんだと、才能をごまかしているとこがある。愛や優しさがすごい貴いもんやと、世間にコメントしたがるところがある」※7
 
愛や優しさが貴いものだ。それは上岡も認めている。だが、「もう、ええっちゅうのに」と感じてしまうことがある、と。

それに対し、鶴瓶は「悪口言うのは、気ィ悪い」と言う。上岡龍太郎については「人に不快感を与えるようなことは言わへん」と断りながら、悪口を言う番組がブームになっていた関西のテレビ界の状況を嘆きながら持論を展開している。

「ボクは、正直にしゃべることが一番大事だと思うんです。ウソがなく、見たこと、感じたことを正直に。ヨイショもなく、本当のことで、いいことばっかり。それでも、自分の中で、ブームを起こそうと思わなくても、みんなに興味を持ってもらえるしゃべりをする自信はあるんです」※8
 
つまり彼の正直さとは、ただの正直さとは違う。「愛」だとか「優しさ」だとか、そういった「善」を嘘偽りなくスケベに信じ抜くことで生まれるものだ。
普通はそれを信じぬくことは困難だ。だけど、鶴瓶はそうしようと「決めた」のだ。

「『決める』って大事だよ。自分はこの人を幸せにするとか、自分はこの世界でちゃんとやっていくとか、絶対にテレビで本当にいいものを見せるとか。ぶれたらだめ」※9
 
彼がなんの衒いもなく、優しさを口に出すのは、いいことを言ってやろうというようなよこしまな下心があるわけではない。「善」に生きるという信念を貫くまっすぐなスケベ心から出る言葉なのだ。








※1 『チマタの噺』16年4月12日
※2 戸田学:著『上岡龍太郎 話芸一代』
※3 『アサヒ芸能』93年9月9日号
※4 『婦人公論』95年12月号
※5 『サワコの朝』
※6 『婦人公論』94年4月号
※7 『週刊朝日』89年8月18日号
※8 『週刊明星』90年11月1日
※9 『AERA』10年2月1日号







鶴瓶のスケベ学|20


ビートたけしに罵倒され蹴られても「ウフフフフ」と笑う鶴瓶


東京での地位を固めた90年代、鶴瓶さんはしだいに「いつも笑顔の落ち着いたおじさん」として認識されるようになりました。温厚なイメージに隠されていた狂気は、しかし、ある番組でついに爆発します。その背景にはビートたけしさんの存在がありました。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「このクソデブ!」

ビートたけしは、笑福亭鶴瓶の背後からお尻を蹴り倒した。鶴瓶は勢い良く、綺麗に刈り込まれた植木に身体ごと飛び込んだ。 そんな2人を止めようとしているのが、今田耕司と東野幸治。 4人ともが11月の寒空の下、上半身裸でブリーフ一丁である。



テレビの中でもがいていた鶴瓶


1997年11月8日にテレビ朝日で放送された特別番組『27時間ぶちぬきスペシャル 熱血チャレンジ宣言'97』の中で結成された、いまや伝説とされるユニット「ブリーフ4」だ。その名の通り、ブリーフ一丁で街の様々なところに出没し、やりたい放題の限りを尽くした。
中でも究極だったのが、丹波哲郎邸を訪れたときだ。鶴瓶は前のロケ地である寿司屋で酒を飲み過ぎ泥酔していた。


鶴瓶は「ウフフフフ」と終始不敵な笑みを浮かべながら、不規則発言をひたすら繰り返すのだ。 口をふさごうとする東野をもろともせずに自由に振る舞い続ける鶴瓶に、たけしが「おまえなんか死んでしまえ!」などとツッコミ、蹴り倒した。
 
この放送は、一般視聴者はもちろん、岡村隆史をはじめ数多くの芸人の間で語り草になっている。
たまたま放送を見ていた伊集院光も自身のラジオで「見なかった人は自分を呪ったほうがいい」「あれは俺の“夢テレビ”だったのでは?」「鶴瓶の革命だった」などとその衝撃を興奮気味に語っている(ちなみに伊集院が「鶴瓶」と呼び捨てにしているのは、あえて“視聴者”として語っているからである)。

伊集院はその中で、当時の鶴瓶が「もがいていた」のではないかと分析している。
鶴瓶は、90年代初頭以降、完全に東京での地盤を固め、安定期に入っていた。そのためパンクな芸風は鳴りを潜め、ニコニコした笑顔ばかりが印象的な「落ち着いたおじさん」というイメージになってしまいそうになっていた。
もちろん鶴瓶は「落ち着いた」とは無縁の男。だから、前年の96年半ば頃から、鶴瓶はその位置から脱しようと深夜番組などでは若手芸人が行くようなロケに自ら参加し、『笑っていいとも!』などでも若手からイジられるキャラになっていったのではないかと伊集院は言う。

「鶴瓶の『舐められないためにどうしたらいいんだろう?』という試行錯誤が夜中に大爆発した」※1
 
たけしもそんな鶴瓶の現状に気づいていたのだろう。 「ブリーフ4」はたけしが発案したのだという。そして、そのメンバーになんとしても鶴瓶を入れたいと主張したのだ。
たけしもまた、この年、映画『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞(グランプリ)を受賞。“巨匠”として祭り上げられてしまっていた。

「振幅が大きければ大きいほど、他へいったときもっと大きいことができる。おいらは、平面的な振り子ではなくて、360度あっちこっち振れて、結果的には水平にぐるぐる回ってしまうぐらいなこと をやりたい」※2
 
とバカなことも知的なこともやらなければならないという「振り子の理論」を常々語っているとおり、このまま「文化人」のような立ち位置になるつもりは毛頭なかった。 だからこそ、鶴瓶の「もがき」にも敏感に反応したのかもしれない。

 

「どうやったらたけし兄やんに勝てるんやろう」

泥酔した鶴瓶は、たけしに罵倒され蹴られても、「ウフフフフ」という笑みを浮かべたまま、眼光を鋭く光らせていた。 彼らは高価な家具や装飾品がいたるところに置かれた丹波哲郎邸の中に入っていく。
番組側は丹波に4人とトークをしてくださいと企画趣旨を説明していたが、この4人が、そんなことで収まるわけがない。 丹波が一旦座るように促しても、一向に座らず、なにかをやってやろうというような雰囲気で、部屋を物色していた。 そこには300万以上するというヨーロッパの甲冑やら、見るからに高価そうな時計やら屏風が置かれている。

すると、ビートたけしがカメラの前から消えた。 3人が探しに行くと、たけしは、ブリーフを脱ぎ捨て、勝手に風呂に入って爆笑を誘った。
その姿を見て、負けられないと思った鶴瓶は、カメラからフレームアウトした。

“なにか”を察知した東野は後を追う。

すると、東野の悲鳴が聞こえた。
なんと鶴瓶は、ブリーフをおろし、廊下で脱糞をしようとしたのだ。 丹波の自宅を汚してはならないととっさに東野は肛門の下に手を差し出し、そこから出るものを受け止めようとしたという。
鶴瓶は本気で出そうとしたが、緊張していたためか、脱糞には至らず、カメラの前に東野に連れられ、その状況を東野が説明すると3人から一斉に罵声を浴びる鶴瓶。
だが、そんなことでは鶴瓶は懲りない。100万円もする屏風を押し倒すとその上で再びブリーフを下ろし、脱糞を試みたのだ。

「撮るな!」

と今田、東野の怒声がこだまし、一瞬鶴瓶の丸出しのお尻がフレームインしたが、画面は引きつった笑みを浮かべる女性アシスタントたちの姿に切り替わった。 そのときの心境を後に鶴瓶は今田へこう語ったという。

「どうやったらたけし兄やんに勝てるんやろうって考えたら、もううんこするしかないやろ?」※3

 

東京で舐められて、マイナーから積み重ねた男

実はたけしと鶴瓶にはある“因縁”がある。
鶴瓶は、1986年、35歳の頃、鳴り物入りで“東京進出”を果たす。『独占!男の時間』の下半身露出事件などで東京での仕事を控えてから約10年ぶりの本格進出だった。

関西では押しも押されぬ大人気だった彼は、その期待感をあらわすように、東京進出とともに、夜8時のゴールデンタイムに2本の番組のMCに抜擢された。
そして「たけしをつぶす男」「ビートたけしをビビらす男が東京にやってきた!」などと煽られていた。
それもそのはず、鶴瓶が立ち上げた新番組の『世界NO.1クイズ』(TBS系)は『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)の、『鶴瓶のテレビ大図鑑』(日本テレビ系)は『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)と、どちらもたけしの番組の真裏だったのだ。

「関西に、鶴瓶というおもしろそうなタレントがいる。それなら、いっぺんにぎやかしに使ってみようか」

それが東京流のやり方だった。20代の頃、そんな風にある意味、「舐められて」使われ、鶴瓶は散々嫌な思いをしてきた。だから、20代後半から30代前半は大阪にこだわった。東京よりも大阪に、テレビよりもラジオに重きを置く「マイナー指向」の鶴瓶のスタンスは当時としても異端だった。
東京再進出の4年前の82年に書かれた自著でこのようにそのスタンスを説明している。

「メジャーが悪いといっているのではない。メジャーの世界には、それなりの楽しさもあるのだろうけど、僕はマイナーな世界が好きだし、マイナーな世界を積み上げていって、それが結果としてメジャーになっていくのなら、そんなメジャーを目指したい

「もし、僕のことをはっきりわかってくれている人を真っ黒に、うすうすわかってくれている人を灰色に、全然理解してくれていない人を真っ白な人間に例えるなら、地味だ、マイナーだ、ローカルだといわれてもいいから、少しずつ真っ黒な人間をふやしていきたいのだ。今灰色になってくれた人を、今度は真っ黒に、真っ白な人間を灰色にと、まるで塗り絵のように、徐々にぬりつぶしていきたい」※4
 
つまり、関西の物珍しい芸人としてではなく、「笑福亭鶴瓶」として自然に受け入れられるようになるまで、「舐められないように」鶴瓶は大阪で自らの足場をしっかりと固めていったのだ。

「東京進出というのは、ボクら関西芸人にとって是非とも挑戦したいもの。ボクは、そこをできるだけ自然に通り過ぎたい」※5
 
鶴瓶は大阪での自分そのままで東京に立ち向かったのだ。

 

たけしを「一本釣り」するために暴れまくる男


翌年の正月、大阪に帰省し電車に乗っていた鶴瓶は、ファンから声をかけられた。

「上を見てみ」

と笑いながら言うのだ。訝しみながら、鶴瓶が頭上を見上げると、そこには『週刊宝石』の中吊り広告があった。 そして、そこには大きくこんな見出しが掲げられていた。

「鶴瓶、東京進出失敗!」

実際、上記2つの番組は、ともにわずか約8ヶ月で打ち切り。その後に始まった『遊びにおいで〜Come on-a my House』(テレビ朝日系)も3ヶ月あまりで終わってしまう。 この番組で共演したきたろうはこのように述懐している。

「鶴瓶さんがアイデア出していろんなコーナーがあったんだけど、ことごとく失敗だったね(笑)。大阪でウケていたのをそのまま持ってきたんだ。おもしろさがまだ東京ではわかってなかったんだよね」※6
 
鶴瓶はファンを「一本釣り」するのが好きだという。

「ごっつう喜んでくれはる人を作ることなんですよ。その代わり、その人にとっては僕は“宝物”。どんなに売れててどんなに有名かということには意味がなくて、その人にとっては僕でないとダメ、いうようなんが好きですねン。そんな人達が全国に200人もいたら、それでえぇ思ってる人間なんですよ」※7
 
だから、鶴瓶はマニアックな中で愛されればいいと思っていた。 街の雑踏の中で誰も知らなくても、一人だけ「キャー」と言ってくれるような人がいればいいと思っていた。 だが、赤坂見附の交差点に立っても、誰一人として振り返ることはなかったという。 そのときに改めて思った。

「よっしゃ! どうせ出てきたからには大阪と同じように顔をしってもらえるようにならんといけん」※7
 
もしかしたら、このまま鶴瓶が大阪に帰らざるを得なくなってしまうかもしれない。 そんなとき、ビートたけしと大橋巨泉が、鶴瓶の番組を作っていたスタッフに言ったという。

「あいつをこのまま大阪に帰したら、笑われるよ」※8
 
鶴瓶がおもしろいことは既に証明されている。それを活かしきれていないのは東京の番組制作者のほうだという思いがたけしはあったのだ。 それをあとで知った鶴瓶は感激した。
だからこそ、たけしの前では絶対に「落ち着いたおじさん」なんかになってはいられない。鶴瓶はたけしを「一本釣り」するために、彼の前で暴れまくるのだ。



※1 『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』97年11月10日
※2 ビートたけし:著『私は世界で嫌われる』
※3 『たけしの誰でもピカソ』08年4月4日
※4 笑福亭鶴瓶:著『哀しき紙芝居』
※5 『FRIDAY』86年2月21日号
※6 『チマタの噺』16年12月13日
※7 『ソフィア』95年3月号
※8 『メイプル』03年3月号







鶴瓶のスケベ学|1_10

鶴瓶のスケベ学|11_20

鶴瓶のスケベ学|21_24

 



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鶴瓶のスケベ学
てれびのスキマ(戸部田誠)
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