月曜日, 8月 10, 2015

生身の人間そのものへの気付きや 注意が増すように情報技術を使役すること|DOMINICK CHEN


生身の人間そのものへの気付きや
注意が増すように情報技術を使役すること

DOMINICK CHEN


ビッグデータ社会が進むにつれ、いま先駆者たちの中で最も議論されるテーマのひとつに「人間性」がある。ディヴィデュアル共同創業者のドミニク・チェンは、情報技術イノヴェイションの先に、現実の世界を見つめ、感じる、生身の人間性を指向する重要性を語る。*この原稿にはいくつかの映像作品に関するネタバレが含まれています。

アルゴリズムの中で、人は人を必要とする
最近、自分が経営する会社、ディヴィデュアルが7周年を迎えるにあたって、マントラ(会社の信念)を改定しました。創業当時の「いきるためのメディア/media to be alive」というものから、最近はチーム内で「人間の自然に近いテクノロジー」という表現をよく共有していて、あらためて節目を迎えるにあたり「人は常に人を必要とする/People will always need people」という表現を採りました。これはダムタイプという日本のアーティストグループによるパフォーマンス作品『S/N』(1994年初演)の劇中に登場する言葉です。
劇中では、ダムタイプ中心人物の古橋悌二が道化のような派手な化粧を施しながら、HIVポジティヴの同性愛者としての現実を淡々と語り続けます。語りを終えた後、狂言回しの人物が「未来にも人間は残るでしょう。そして人はいつも人を必要とするでしょう」(In the future, there will be people. And people will always need people)と話すと、シャーリー・バッシーの「People, People who need people, Are the luckiest people in the world」という『People』のリフレインが鳴り響きます。
この表現はディヴィデュアル共同創業者の遠藤拓己が好きでよく口にする言葉で、自分たちが会社で手がけてきたコミュニティサーヴィスやコミュニケーションアプリの運営を通して感じることとも重なるし、また、昨今の人工知能やビッグデータ解析の動向と照らし合わせたぼく自身の考えともシンクロするところがあります。
なぜITヴェンチャーが「人はいつも人を必要とする」という言葉を標榜するのでしょうか。これはメンバー全員の総意ではなくあくまでも私見ですが、ひとりのユーザーとして情報技術に触れていると、時々、機械と接しているのか、その向こうにいる人間と接しているのか、分からなくなる感覚が生まれます。
その感覚は、日々の生活のなかにアルゴリズムが占める影響力が増大していることと関係しているのでしょう。知らず知らずの間に、情報技術によって活かされる人の縁もあれば、情報技術によって摩耗させられている人の心もある。その全体をただ時代的な変容と呼んで受け入れる誘惑にささやかに抵抗しながら、この違和感の正体について考え続けています。
 

おだやかで賢い機械が社会をつくる未来

Turing’s Cathedral / チューリングの大聖堂』(2013)という本では、磁気流体力学の基礎を築いたことでノーベル物理学賞を受賞し、最初期の本格的なコンピューターに触れたこともあるハネス・アルフヴェンの話が書かれています。アルフヴェンは現代のコンピューターの基本構造を定義したフォン・ノイマンと違って、計算機の軍事利用に反対し、核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者の集いであるパグウォッシュ会議にも名を連ねる人物でした。
彼はある日、娘のひとりに「科学論文ばかりではなくたまには孫にでもわかるようなお伽話でも書いたら」と言われたことをきっかけに、オロフ・ヨハネソンの筆名で「The Tale of the Big Computer: a Vision」(米国でも絶版で、未邦訳かと思われる。直訳すれば「大きなコンピューターの物語:ひとつのヴィジョン」)という物語を書きました。
コンピューターは人間より優れた「秩序ある社会」をつくれるかもしれない。ぼくたちはそろそろ真剣に、このヴィジョンに従うのか否かを、ただ考えるのではなく、決断して行動する必要がある。

この物語は、コンピューターが生命進化の帰結のひとつであり、人間のような邪な権力への衝動を持たずに理性的に行動できる存在として描かれます。最終的に、計算機が自己増殖しながら繁栄していく過程で、機械に依存して進化が止まった人間を必要としなくなり、人間より優れた「秩序ある社会」を構成する光景が描写されて終わります。
ぼくはこの描写を読んでいて、宮﨑駿の漫画版『風の谷のナウシカ』のエンディングを思い出しました。自分のことを母と慕う自律ロボット兵器(巨神兵)を操作して、人間を使役する人工生命(ヒドラ)の本拠地を破壊する主人公ナウシカはこう語ります。「自分の罪深さにおののきます。わたしたちのように凶暴ではなく、おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」と。その直後に、隣に居合わせたトルメキアの国王は「そんなもんは人間とはいえん」というセリフを吐きます。
いずれの例も極端に見えるかもしれませんが、ぼくたちはそろそろ真剣に、アルフヴェンの(架空の)ヴィジョンに従うのか否かを、ただ考えるのではなく、決断して行動する必要があるように思うのです。

機械に人間性を仮託しないこと

ディズニー映画『ベイマックス』は、「人間はいつも人間を必要とするのか」を考える上で、ひとつのリトマス試験紙のような働きをするものでした。ケアロボットのベイマックスが、最後に異次元空間の中で自らを犠牲にしてヒロを助け出そうとする時、「あなたはわたしのケアプログラムに満足しましたか?」と問いかけるシーンがあります。
それは身を挺して主人公を守る感動的な場面として演出されており、一緒に見ていた人は涙ぐんでいましたが、ぼくは逆にその言葉で現実に引き戻されてしまいました。なぜなら、ベイマックスには死の概念がなく、その行動原理もアシモフのロボット三原則よろしく、人間がプログラムしたものである限り、そこにはなんら悲劇性などないからです。現にエンディングでは、ベイマックスの命令チップ(CPU?)を回収した主人公が新たにベイマックスをよみがえらせ、再び一緒に活躍しています。もう少し現代的な設定にするとすれば、ベイマックスのプログラムはクラウドに格納しておけば、その義体が破壊されようと不滅なはずです。
ぼくが根源的な部分でベイマックスを人間の登場人物と同様に愛することができなかった理由は、単純に生死の概念が異なるからです。作中ではベイマックスを擬似的に「殺す」ことで人間に対するものと同じような感傷を生み出そうとしていますが、このアメリカ的な生々しさは浅ましくさえ感じてしまいます。
ものすごく大局的に見れば、ソフトウェアとハードウェアの複合体もある種の複製の仕組みをもつ生命システムとしてとらえることができるでしょう。形而上学的な遺伝子の概念を、模倣子の媒体としての情報技術とみなす議論もあります。しかし、生死の概念が根本的に異なる存在を人間的に愛するということにおいて、私たちの認知構造上の限界があるのではないでしょうか。
計算機と人間の体はまったく異なる存在であるがゆえに、計算機を擬人化したりして人間的な関係を結ぼうとするのではなく、計算機とは計算機的な関係を結ぶ方が、世界が豊穣になる。

ぼくは逆に計算機に対して、その非・人間的な能力に畏怖や憧憬の念を抱いてきました。昔のヴィデオゲームやスマホのアプリでバグが発生し画面が乱れたりする瞬間には、この異生物の脳内の構造を一瞬垣間見るような筆舌に尽くしがたい恐怖を感じます。開発しているソフトウェアの難しいバグをデバッグするときには、なるべくアルゴリズムそのものになりきって、その行動パターンやロジックを再現するようにこころがけています(こんなことを書くと、ソフトウェアエンジニアの人にはオカルトだと言われてしまうかもしれませんが)。
計算機はそれほど自分の体とは異なる存在であるがゆえに、計算機を擬人化したりして人間的な関係を結ぼうとするのではなく、計算機とは計算機的な関係を結ぶ方が、世界が豊穣になるのではないかと考えているわけです。

現代の計算機械は妖怪か?

ふと、こうした考え方は、人間と自然の対称性を重視する世界観とも通じるのではないかと気づきました。人と自然の対称性とは、人と自然は安易に相容れるものではなく、また、人が自然を制御できるものではないという前提に立つ考え方です。
荒ぶる神や善悪定かではない精霊が登場する古代の神話などは対称的な世界を表していますが、逆に人間偏重的な唯一神信仰ではもはや多様な自然との関係をバイパスして、擬人化された神格と人間の問題が前景化します。
現代において、柳田国男の民族学的研究や水木しげるの漫画などに登場する「妖怪」は、善悪を超越した超常的な存在であると受け継がれています。一方、人間を超えた能力を持つ彼らは、日常空間に潜む自然現象に向けた人間の恐怖や畏敬の念を具現化した姿でもあるといえるでしょう。
中国の『山海経』や杉浦日向子の『百物語』を読んでいていつも興味深いのが、そこに描かれる妖怪たちの挙動の意図が全く見えないということです。時には意外にも人に利することを行ったり、また時には人に従っている様を見せたと思った次の瞬間、簡単に人を殺したりもする。人間的な常識が通用しないため、人間的な関係性を結ぶことができない。それぞれのもののけには行動パターンが認められるものもあれば、姿かたちを定義することも難しいものもある。
こうして考えてみると、ぼくが現代の情報技術に対して抱く興味の根源には、妖怪文化に対する説明不能な感情と似たものが横たわっている気がします。プログラムを通して計算機の力が存分に発揮されている様を深く見れば見るほど、人間との作動原理が妖怪とのそれほどに異なっていることを思い知らされるのです。そのような超常的な力を使役し、人間にとって便利であったり、有益な道具が作れたと感じられたりする時の感動は、自分より大きな存在の力を借りて生まれた現象の面白さと表現できるでしょう。

善悪の彼岸にある情報技術

この「面白さ」とは、善悪の範疇に属さない感情でもあります。先述した『チューリングの大聖堂』では、プリンストン大学に集結した数学者たちの梁山泊のなかで、あらゆる計算機を計算できる万能チューリングマシンの構想を現実の「チューリング完全(理論上、特定の論理に従ってあらゆる計算が可能であること)」な計算機として具現化したフォン・ノイマンのその後の様子が描かれています。結果、自分を追いやったヨーロッパに大きな失望を抱いた彼は、積極的にアメリカ軍に協力するようになり、超人的な仕事量で様々な科学プロジェクトを推進していきます。
「脳の生態的な役割は、兵器としてのそれであった」とアルフヴェンがその物語の中で強調しているように、現代の「チューリング完全」なフォン・ノイマン型計算機は、もともとは原爆開発という軍事目的に駆り立てられて設計された存在でした。
情報技術に善悪はない。だが、今日のぼくたちは人を殺すことではなく、人を生かすことを主眼にすえて情報技術と向き合える時代を生きている。

しかし戦争を知らないぼくや多くの世代にとって、コンピューターはパーソナルコンピューターのことであり、いまの子どもにとってはスマートフォンのことを指しています。計算機は凶器として生まれたかもしれませんが、この半世紀ほどの間に、人々が日常生活でポケットに入れたり、腕に付けたりする非常に身近でカジュアルな存在へとも派生していったこともまた事実です。大げさに聞こえるかもしれませんが、こうして歴史を振り返ってみると、今日のぼくたちは人を殺すことではなく、人を生かすことを主眼にすえて情報技術と向き合える時代を生きているという実感があります。
善悪の彼岸にある非人間的な能力をもつ情報技術に対して、人間的な期待に基づいて悲観や楽観を繰り返すのではなく、人とは根本的に異質な存在としての関係を結ぶこと。それは何のために?と問うたときに、人間が自らをより深く知るため、という言葉が頭に浮かんできます。さらにそれは何のために?と自問してみると、それは「人は常に人を必要とするだろう」から、という冒頭のマントラと共鳴する答えが浮かびます。根底にあるのは、人間という存在そのものの解明されていない性質への関心です。

体と無意識の情報処理に注意する

今年の1月に触覚インタフェース研究者の渡邉淳司さんと対談をしたときに、ハッとさせられる表現に出合いました。彼は、「体と無意識は自分にパーソナライズ化されたビッグデータ処理機能」であると言っていたのです。確かにぼくたちの体や無意識は常時、この世界に溢れる感覚的、非言語的な情報を摂取し、意識に上らせるように表現を行っています。
仮にぼくたちの体が知覚しているすべての情報を意識上に上げていたら、気が狂ってしまうでしょう。しかし、これだけ言語表現に溢れた情報環境を生きるなか、無意識の感覚の価値は相対的に高まっているのではないだろうかとも思います。
主観的な情動や感覚を外部化し表現する。それはあたかも伝達することが不可能であるという限界を知った上で、なおも試み続けることを止まないという行為です。ひるがえって考えると、あらゆるコミュニケーションは同じ原理に従っているといえます。わたしの考えていることがあなたに理解できたとしても、わたしの感じているものはあなたには同一のものとしては感じられませんし、その逆もまた然りです。同時に、この溝は完全に埋まらないものの、もし共に十分な時間を過ごせば、お互いの線はただ平行するだけではなく、同一の地平へとゆるやかに漸近していくでしょう。
この同一度が90パーセントであるか70パーセントであるかという数値を評価し、比較するのが計算機のデジタルで合理的な思考法です。しかしぼくたち人間はいちいち数値に換算しなくても、その時々の気分であったり、意固地な信念などに従ったりして、身体的に決定しています。現代の情報技術が生んでいるコミュニケーション様式の多くは、計算機の世界観に人間の方を擦り合わせていく面白さを生んでいるように見えます。
SNSでの投稿に対するRTや「いいね!」は現実世界での話し相手のうなずきや笑顔といったフィードバックの劣化コピーとして見るのではなく、数値を介して行われるデジタルなコミュニケーション観を新たにつくり出しているといえるでしょう。同様に、弊社で提供している『Picsee』というプライヴェートな写真メッセンジャーアプリも、目の前にあるものを人に見せたいと思ったときに写真を撮ってすぐに好きな人に送れるという機能を提供していますが、それは言葉からではなく、写真から対話を始めるという新しいコミュニケーションの在り方を提示しています。Picseeでは何気ないまなざしの共有が生まれることによって、言葉だけでは知ることのできない相手の関心や心の動きを感じることができます。
人間は可塑的、つまり環境に応じて変化し、適応する能力に優れています。と同時に、情報技術もまた当然ながら人間の都合に応じていかようにでも変形させることができます。「人間と情報」の複合システムの面白さは、双方がお互いにとっての環境であると同時に、手段にもなりえるという点です。だから、アルフヴェンの寓話のように、人間から機械に寄せていくこともできれば、そうではなく機械のロジックを人間に寄せることもできるわけです。

人間的な情報技術とはなにか

このテーマは広範囲の情報技術に適用して考えることができますが、ここではコミュニケーション領域について単純化して考えてみましょう。TwitterやFacebookといったSNSでは、人間がさまざまなかたちで数値化されます。特にユーザーの人格を中心に情報が取り沙汰されるユーザーセントリックな構造では、自分以外のユーザーは自分をフォローしたり、自分の発言を支持する存在として映ったりします。
これは数値比較に基づく重み付けと、そのヒエラルキーが生じる非対称な構造であり、重要な情報とそうではない情報と同様に、重要な人間とそうではない人間が区別されます。逆にこのようなスターシステムを生まないことを考慮したコミュニケーションサーヴィスには匿名掲示板があり、通常はユーザー同士がつながったりすることなく、一期一会の会話を交わして終わるという構造になっています。
それぞれの構造に一長一短があると思いますが、前者はより現実の社会構造に近く、著名人とそのフォロワーという図式が反復されますが、後者は全員がほぼフラットな関係で対等にコミュニケーションを行うため、よりインターネット特有のコミュニケーション様式であるといえます。
ぼくはここに何らかの価値判断を読者に押し付けるつもりはありません。ただ、「人間的な情報技術とはなにか」ということを皆さんと考えてみたいとおもいます。というのも最近、色々な業種の方とITについてお話するなかで、いつも反復して出てくるテーマが「人間性」なのです。
出演しているNHKのニュース番組「NEWS WEB」のネットナヴィゲーターの先輩でもある予防医学研究者の石川善樹さんとお話させて頂いた際もそうでした。彼は「ウェルビーイング(well-being、心身ともに満足できる状態)」や「マインドフルネス(mindfulness、あるがままに、いま・ここの現実に注意できている状態)」、そして「幸福」や「心の望ましい状態」といった人間の心の動き方が、心理学や社会学などの分析的科学によって解明されてきていることを教えてくれました。人間が自らをより深く知り、行動を起こすことを支えるための情報技術という観点からは、特に「マインドフルネス」という概念が興味深く思えます。
人間の現実世界に対する解像度を上げ、生身の人間の気付きや注意が増すように情報技術を使役する。

今日の情報技術の問題のひとつは、目の前の現実世界と乖離させる方向に働いてしまうということです。コミュニケーション、ゲーム、メディア、コマース、広告技術など多様なジャンルの情報技術が存在しますが、すべてに共通する指標がエンゲージメント、つまりユーザーの注意がどれだけ獲得できるかという点です。ぼく自身もコミュニケーションアプリを運営する人間としてご多分に漏れませんが、同じアプリの一ユーザーとしては常に意識されることです。
PCのようにわざわざ対峙して使うツールであれば利用頻度も自然と制限されますが、スマホを常に持ち歩いているなか、さまざまなアプリから流れてくるプッシュ通知やコンテンツについつい注意が向かってしまい、目の前の現実世界との接続をその都度遮断するストレスにさらされます。つまり、「あるがままにいま・ここの世界に注意できている状態」、マインドフルではない状態にされるということです。
この意味で、スマホよりも更に体に近接した情報デヴァイスであるAndroid WareやApple Watchなどのスマートウォッチは非常に興味深い存在です。なぜならば、スマートウォッチを使っていると、腕もとで新着の通知や情報を確認することにとどまって、連動するスマートフォンを取り出して操作する回数と時間が結果的に減るからです。AppleはApple Watchを指して「discreet and nuanced communication」、ひかえめで繊細なコミュニケーションを実現すると表現していますが、確かに微かな振動と共に小さな画面で情報を通知する方法は、いま目の前にある現実世界への注意を遮断するコストが低いといえます。これとは対照的に、目の近くに画面を持ってこさせるスマートフォンの情報提示の方法はかなり直接的だといえるでしょう。
Apple Watchに込められた経営戦略的な思惑は計りかねますが、デジタル情報と人間のより自然な関係、つまり人間が現実世界と遮断しなくてすむ情報環境の提示として見た時、この巷ではあまり評判がよくない控えめなデバイスが、実は静かに、しかしかなりアグレッシブな転換を提示しているように見えてきます。道具は道具である限り、必ず「使い過ぎる」という程度問題がつきまといますが、自らを使い過ぎないように見せるその在り方に情報技術としてのエレガンスを感じるといえば褒めすぎでしょうか。
このような動向は他にも見出せるでしょうし、なにより「マインドフル」になれるかどうかという指標で様々な技術を比較したり、設計する上での指針としたりすることもできるでしょう。いずれもパワフルな計算機の世界観を押し付けることなく、人がより生身の現実にも十分な注意を払い、情報技術と現実環境との適切なバランスを見出せるようになれば、より人が自らだけではなくお互いに対してマインドフルになれる可能性が高まると考えられます。
マインドフルネスとは別の言い方をすれば、「人間の現実世界に対する解像度を上げる」とも表現できるでしょう。その現実世界のなかに自分や他者といった生身の人間があり、その情報的な表現ではなく、「本体」そのものへの気付きや注意が増すように情報技術を使役すること。それが「人間は常に人間を必要とする」というマントラに込めた情報技術イノヴェイションを模索する上でのぼくなりのコンパスなのです。