火曜日, 6月 21, 2016

「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)










LINEを生んだ土壌、8年前の英断

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(2)

 


LINEの日米同時上場が確定した。米国時間の7月14日にニューヨーク証券取引所(NYSE)で上場し、日本時間の15日に東京証券取引所に上場する。公募増資などで両市場から約1000億円を調達する見込みだ。

2011年6月のサービス開始から、5年1カ月での上場。米フェイスブックの8年3カ月、米ツイッターの7年8カ月を上回る早さで、日本企業が東証とNYSEに同時上場するのは初めて。

「前代未聞の連続」を重ね、日米同時上場という1つの節目に至ったLINE。その知られざる経営の内幕に迫る連載2回目は、慎ジュンホ取締役CGO(最高グローバル責任者)が来日して以降の月日を追う。

LINEの前身であるネイバージャパンという日本法人は、LINEという独自の大ヒットを生む土壌をいかにして育んだのか。

(「「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)」からお読みください)






自ら範を示した「日本語」ルール

 

出澤にとっては、生涯でも忘れられない誕生日となっただろう。

上場承認を翌日に控えた6月9日深夜、東京・渋谷の複合ビル「ヒカリエ」に入居するLINE本社。ここで、社長CEO(最高経営責任者)の出澤剛の43回目の誕生日を祝う、ちょっとしたパーティーが開かれていた。

出澤を支える取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)の舛田淳が「おめでとうございます!」というコメントを添え、フェイスブックに投稿した記念写真。出澤の両隣を舛田とともに固める人物こそ、「トロイカ経営」の一角を担う取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホである。


舛田淳取締役がフェイスブックに投稿した記念写真


 慎の胸にも、こみ上げるものがあっただろう。

2008年5月、韓国NAVER(ネイバー、当時の社名はNHN)からネイバージャパン(LINEの前身)に来てから約6年。来日した当時は日本語がまったく分からなかったが、今では日本人の社員と日本語で笑い合うことができている。

「ネイバージャパンの公用語は日本語」。このルールを自らに課すところから、ネイバージャパンという組織の土壌作りが始まった。


ネイバー創業者の李(イ)ヘジンから直々に日本市場開拓の命を受けた慎は当初、言葉の壁にぶち当たる。最初は通訳を介して会議に参加せざるを得なかったが、家に帰ると通訳の顔しか思い出せない。

「日本人のメンバーに申し訳ない気持ちになると同時に、これは自分の言葉でコミュニケーションしないと危ないな、と思い、腹をくくって日本語を勉強することにしました」

こう話す慎は、帰宅して以降、自由に使える束の間の数時間を使い、必死で日本語を学んだ。教材は、日本のドラマのDVDだ。

当時のお気に入りはオフィスのシーンが多い「ハケンの品格」。数カ月もすると、「心の琴線に触れるような」といったドラマで覚えたての日本語を使い、日本人のメンバーを驚かせたこともある。



来日した2008年当時、慎氏は日本語を学ぶためにドラマ「ハケンの品格」を好んで観ていた


やがて慎は、韓国人の同僚にも「これからは日本語を学び、なるべく日本語を使うように」と指示。メール上でも「まずは日本語で書き、補足で英語や韓国語などを使う」という社内ルールが生まれた。

ここまで日本語にこだわった背景には、もう1つの理由がある。韓国を発つ時、ネイバー創業者の李から餞別代わりに得た言葉が慎の脳裏にあったからだ。

「海外にいけばその国のことを中心に考えるべきで、その国のユーザーのことを最も理解しなければいけない」という言葉である。



グーグルを駆逐した成功モデル


この李の言葉を、慎はこう咀嚼して表現する。

「よく外資系の企業がほかの国に根付くことを『ローカライゼーション』という言葉で現しますが、LINEでは『カルチャライゼーション』と言った方がいいかもしれません。『地域』ではなく、その国の『文化』にいかに深く浸透できているか、そのために何をすべきか、を考えることが、その国で成功する近道だと理解しています」

日本の文化に浸透するためには、その文化の基礎である日本語をまず会得しようというわけだ。もちろん、日本語を学ぶことは「カルチャライゼーション」の一歩に過ぎない。

次に考えるべきは、李から課せられたミッションを、日本の文化に合う形でどう遂行すべきか。ミッションとは、韓国で約7割のシェアを誇るネイバーの検索サービスを、一度は撤退した日本市場で成功させることである。


日本向けのサービスを作っては壊す、という試行錯誤の日々が続くのだが、結果としてこれが後のLINEを生むことにつながるとは、この時、夢にも思わなかっただろう。
 
ネイバーは2005年に日本での検索事業から撤退しているが、ゲーム事業は継続し、成功を収めていた。運営会社は2003年にネイバージャパンとハンゲームジャパンが合併して出来たNHNジャパン。社名変更は、ハンゲームコミュニケーションを買収・合併したネイバー(当時はネイバーコム)が、2001年にNHNへと社名変更したことに伴う。

このNHNジャパンの子会社として2007年11月、第2次ネイバージャパンが発足。その約半年後に慎が来日してから、検索事業で再参入するための具体的なプロジェクトが動き出す。最たるものが「知識iN」だ。

知識iNはネイバーが韓国で2002年に開始した、いわゆる「Q&Aサイト」。瞬く間に人気を博し、韓国のQ&Aサイトのデファクトとなったのだが、これが検索サービスでも圧倒的なシェアを握るカギにもなった。ネイバーは、2000年に韓国に参入したグーグルなど、ほかの検索サービスが知識iNのコンテンツを検索できないようにしたのだ。

知識iNのコンテンツを検索したければ、ネイバーの検索を使うしかない。ネイバーはQ&Aとの両輪で検索シェアを約7割まで伸ばし、グーグルに勝ったのである。




慎が吹かせた「自主独立」の風

 

2008年、第2次ネイバージャパンに合流した直後の慎ジュンホ氏
慎ら、新生ネイバージャパンのメンバーは、このQ&Aサイトに活路を見出した。

当時、日本でもユーザー参加型のコミュニティーや、「教えてgoo」「OKWave」「発言小町」といった老舗のQ&Aサイトが人気を博していた。2004年に開始した「Yahoo!知恵袋」は、ネイバー同様、検索サービスとのシナジー効果を生んでいた。

Q&Aコンテンツの延長線で検索サービスを伸ばす手法は、日本の文化にも馴染むのではないか。慎はそう考え、開発プロジェクトを走らせたのだが、完成間近というところで、慎自身が「やめましょう」と、お蔵入りにしたのだ。

開発に携わったメンバーからすれば、数カ月の苦労を水泡に帰す判断。それでも開発中止にしたのは、日本のネット文化を知れば知るほど、先行する有力サービスが根付いていることがわかり、「今さら遅い」という思いが次第に膨らんだためだと慎は振り返る。

それ以上に慎を突き動かしたものがある。それは、慎が韓国を離れる際に創業者の李から言われた、もう1つの言葉だ。


「韓国で今まで経験したこと、常識としていたこと、成功体験は全部頭から消して行きなさい」。慎は李から、そうも言われていた。

カルチャライゼーションを念頭に置きながらも、一方で自分たちは、安易に韓国での成功モデルを持ち込もうとしているのではないか。そのことに気づいたからこそ、慎は中途半端なサービスを捨てるという決断に至ったのである。

8年前に下した慎の判断は、長い目で見れば「英断」と言える。なぜなら、ネイバージャパンは韓国本社のやり方や命に従う単なる日本法人ではない、ということを、ネイバージャパンのメンバーに示したからだ。

韓国での成功体験は持ち込まず、日本法人は独自に日本のやり方で事業を進めるべき――。ネイバージャパンに吹き始めたこの「自主独立」の風が、後に、スマートフォン向けメッセージアプリという日本独自のプロダクトを呼び込むことになる。



内向きな日本人の文化にフィットしたLINE

カルチャライゼーションの思想も、LINEのヒットにつながっている。

フェイスブックは今でこそ日本で普及しているが、LINEが登場した2011年当時は、「会社の上司や同僚、過去の同級生ともつながってしまうSNS(交流サイト)は日本人に馴染まない」とされ、普及度で欧米と大きな差があった。

そこに登場したLINEの売りは「親しい知人・友人とつながる」こと。携帯電話の文化が発達し、かつ、オープンなコミュニケーションを苦手とする日本人の文化にフィットし、急速に普及した。

ネイバーが韓国の流儀を押し付けることはせず、日本のメンバーがカルチャライゼーションを徹底したからこそのヒットと言える。そのヒットを生んだ土壌を築いたのは、慎に他ならない。

もう1つ、黎明期の慎の功績をあげるとすれば、舛田という、LINEの誕生と成長に欠かせない人物をネイバージャパンに呼び込んだことだろう。


(続く)







「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)