火曜日, 6月 21, 2016

「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)






 

LINE上場、知られざるナンバー2

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(1)





LINEの上場まで秒読み段階に入った。10日にも上場承認され、約1カ月に渡るロードショー(投資家向け説明会)を経て、7月中旬、東証1部とニューヨーク証券取引所に同時上場する見通しだ。


今年3月、LINEカンファレンスでプレゼンテーションする出澤剛社長。この時すでに、今夏の日米同時上場を腹に決めていた


スマートフォン向けメッセージアプリとして2011年6月に日本で産声をあげてから丸5年。早々に海を超えたLINEは、台湾、タイ、インドネシアなどアジア各国を塗りつぶし、月間利用者数は世界で2億1840万人まで拡大した。

その軌跡は、成り立ちから成長速度、日米同時上場まで、日本のIT企業としては「前代未聞の連続」と言える。

しかし、実のところ、LINEがどのような組織なのか、どのような経営スタイルなのか、については、あまり知られていない。その最たるものが、日韓のマネジメントが絶妙に融合した「トロイカ経営」だろう。

LINEには、社長CEO(最高経営責任者)の出澤剛氏を支える「ナンバー2」が2人いる。
1人は取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)を務める舛田淳氏。もう1人は、グローバル戦略のトップ、LINE取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホ氏だ。

「慎なくしてLINEを語ることはできない。そして、LINEが誕生することもなかった」――。舛田氏が、そう評する人物である。

今回、国内メディアで初めてとなる慎氏の取材も含め、これまで語られてこなかったLINEの経営の深部を探る長期の取材を敢行。世界的に見ても極めて独特と言えるLINEのトロイカ経営について初めて掘り下げる。連載初回は、「知られざるナンバー2」の実像に迫る。




すべての起点となった慎の来日

 

「このように大勢の記者の皆さんを前にお話しするのは、初めてのことです。自分の性格的に前に出ることが苦手なのですが、たまたまLINEのタイ法人のワークショップへの参加もあってタイに来たので、この場にご挨拶も兼ねてお邪魔しました」

今年5月3日、タイの首都、バンコクのホテル。LINEのタイ法人がパートナー企業などを集めて開催したメディア向けのイベントに、珍しい人物が顔を見せた。

LINEでグローバル戦略の責任を負う取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎(シン)ジュンホだ。LINEの誕生からこれまで、常にLINEの中枢にいた「超」がつくキーパーソンである。



今年5月、タイのメディア向けイベントに初めて顔を出したLINEの慎ジュンホ取締役。日本ではその存在すらあまり知られていない


メディアが集まる場に慎が顔を出すのはこのイベントが初めて。過去に一度、ウォール・ストリート・ジャーナル韓国版の電話取材に応じたことがあり、一部の韓国メディアなどは慎の存在や来歴を報じてはいるものの、対面取材に応じたことは一度もないという。

そのため、慎がLINEの誕生や成長にどう関わったのか、具体的な評伝は皆無だ。しかし、LINEというプロダクトと会社を語るうえで慎を欠くことはできない。

広く知られているように、もともとLINEは韓国インターネット最大手であるNAVER(ネイバー)の日本法人、ネイバージャパン(当時)が独自に企画・開発したプロダクトだった。本社が「スマートフォン(スマホ)向けメッセージアプリを作れ」と命じたわけではない。

それどころか、ネイバーは「NAVERトーク」という本社サイドで開発した同種のアプリをあっさりと捨て、グループのグローバルプロダクトとして、LINEを採用することに決める。以降もネイバーは、LINEの企画・開発・運営について日本法人の自主性を尊重し、任せ、本社は人材や資金面での後方支援に徹してきた。

一般的に、外資系IT企業の日本法人は、プロダクトの企画・開発などには関知せず、営業やマーケティングの出先機関として機能する。対してLINEを生んだネイバーの経営スタイルは、極めて異質だと言える。

このスタイルの礎を築き、LINEの誕生に大きく寄与したのが、慎だった。
慎の来日が「LINEストーリー」のすべての起点と言っていい。



グーグルも狙った慎のベンチャー

 

慎はもともと、韓国では「スター開発者」として知られた技術者だった。
韓国で著名なオンラインゲーム会社の技術者として頭角を現し、2005年6月には「1NooN(チョッヌン)」という検索サイトを創業メンバーとして立ち上げる。

「韓国中の天才技術者が集結した」との評判だったチョッヌンは、独自の検索アルゴリズムを開発し、当時、世界を席巻しつつあった米グーグルの侵攻に対抗しようとしていた。慎はここで、CTO(最高技術責任者)を務めていた。

グーグルはこのチョッヌンを買収しようと動くが、これを阻止したのが、韓国の検索シェアで7割以上を押さえていたネイバー(当時の社名はNHN)である。当時の報道によると、ネイバーは2006年6月、チョッヌンを約350億ウォン(約32億円)で買収。技術とともに、慎ら創業メンバーもネイバー入りした。



検索サイトを祖業とし、1999年に設立したネイバー(創業時の社名はネイバーコム)は、2000年にオンラインゲーム大手のハンゲームコミュニケーションと合併し、韓国ネット最大手の地位を磐石にしていた。韓国では、今でも検索サービスで7割以上のシェアを堅持し、グーグルの侵攻を許していない。その創業者、李(イ)ヘジンを、慎は尊敬していた。

「僕らが見ているのは韓国だけじゃない。世界だ。一緒に挑戦しないか」。理系の名門、韓国科学技術院(KAIST)の先輩でもある李の言葉に、慎は共感した。

「お金ももちろん重要だが、私にとっては『夢』の方が重要だった」。そう慎は述懐する。

ネイバーに入った慎は、グーグルに負けない国産検索サービスのトップという重責をしばらく担うが、2008年、創業者の李に請われ、日本へと渡った。LINEの前身であるネイバージャパンの検索事業を立ち上げるためだ。

それは、極めて難易度の高いミッションだった。日本市場から一度、撤退した経験があるネイバーにとって2度目の挑戦だったからだ。


日本で失敗した「ネイバー検索」

 

●韓国ネイバーと日本進出の歴史(2008年まで)

 

1999年6月 ネイバーコム設立、検索サイトを開始
2000年7月 ハンゲームコミュニケーションを買収・合併
2000年9月 ハンゲームジャパン設立
2000年11月 ネイバージャパン設立
2001年4月 日本向け検索サービス開始
2001年9月 ネイバーコムからNHNへ社名変更
2002年10月 韓国コスダック市場に上場
2003年10月 ハンゲームジャパンとネイバージャパンが合併、NHNジャパンへ
2005年8月 日本から検索事業を撤退
2006年6月 「1noon(チョッヌン)」買収
2007年11月 NHNジャパンの子会社として、第2次ネイバージャパンを設立
2008年6月 慎ジュンホ氏が検索事業トップとして来日



ネイバーが最初に日本進出を果たしたのは、韓国でハンゲームを買収した直後の2000年と早い。ゲーム事業を手がけるハンゲームジャパンを2000年に設立。その2カ月後、検索事業でも日本法人のネイバージャパンを設立し、翌2001年には日本向けの検索サービスを開始している。

ところが、2005年、日本での検索事業からの撤退を余儀なくされる。ヤフーの牙城にまったく歯が立たず、それどころかグーグルの侵攻にも押され、「ネイバー検索」は日本で存在感を示すことができなかった。

しかしこれは、一時的、部分的な撤退にすぎない。

社名が相次ぎ変わるのでややこしいが、ゲームのハンゲームジャパンと検索のネイバージャパンは2003年に合併し、NHNジャパンへと社名変更。検索事業の撤退後もNHNジャパンのゲーム事業は順調に育っていた。つまり、日本での事業基盤を失ったわけではない。

創業者の李は、この基盤を利用し、再度、検索事業で日本に再進出しようと試みた。2007年11月、NHNジャパンの子会社として、第2次となるネイバージャパンを設立。誰がこの再挑戦をリードするのか、紆余曲折を経て、慎に白羽の矢を立てたのである。


慎を抜てきしたのは、李本人だった。

韓国ではポータル(玄関)サイト首位の座を固めていたとは言え、グーグルの攻勢でいつ揺らぐか分からない。検索事業の要である慎を日本に送るという判断は諸刃の剣でもあった。

が、それでも、一度失敗した日本で勝つのであれば、検索を最も知り、最も信頼できる人間を送るべきだと李は考えた。

一方、慎は当初、戸惑っていた。

チョッヌンからネイバー(当時の社名はNHN)に合流して1年あまり。飛行機に乗るのは苦手だったし、日本語もまったく分からない。しかし最後は李の熱意に打たれたという。

「当時、私はネイバーでやっと基盤を固め、さらにやってみようと頑張っている最中でしたが、『グローバルの夢を一緒に実現するチームを立ち上げないといけない』と言う李に説得されてしまったのです」



「韓国での成功体験は頭から消しなさい」

 

チョッヌンをネイバーに売る時に、李から説得された言葉と同じだった。「グローバルで成功する」という約束を交わしていた以上、これを持ちだされたら首を縦に振らざるを得ない。

画して慎は2008年6月に来日。第2次ネイバージャパンの検索事業トップに就く。この時、李から言われた言葉を、慎は今でも忘れることはない。

「韓国で今まで経験したこと、常識としていたこと、成功体験は全部頭から消して行きなさい。海外にいけばその国のことを中心に考えるべきで、その国のユーザーのことを最も理解しなければいけない」

この李の言葉を自分なりに咀嚼し、新生ネイバージャパンを築いていった慎。「本社の目線は忘れ、郷に従え」という思想が、後にLINEというヒットを生むことになる。


(続く)