イスラム教徒はキリストの生誕を祝うの?
クリスマス・シーズンが到来しました。ビジネスベースで考えれば「クリスマス商戦」といったこともあるでしょう。また、家族や恋人、子供たちへの(そして、「からの」)プレゼントが気になる方も多いかと思います。
が、ここでは「クリスマス」とはいったい何なのか、その源流に遡って、また特にIS(イスラム国)が猛威を振るい、中東難民の西漸と11.13パリ同時多発テロに苦しむ2015年という時点に立って、考えてみたいと思うのです。
イスラムはクリスマスを祝うか?
クリスマスが「降誕祭」とも訳され、イエス・キリストの誕生日として祝われること・・・例えばこんな基礎的なことが、必ずしも日本社会では共有されていません。
クリスマスというのは、サンタクロースが煙突から不法家宅侵入して子供にプレゼントを届ける欧州の民族風習、ではありません。
キリスト教にとって大切な存在であるところの「イエズス」という人が(こういう面倒臭い書き方が、実は今回のポイントなのでありますが)いまも紛争の絶えることのない中東、ナザレというところで生まれた、と伝えられる日にほかなりません。
クリスマスは何よりもまず「宗教行事」であって、その信仰を持たない人にとっては実はあまり関係がない。日本のキリスト教徒は人口比1%に満たないとのことですから、日本人の99%は本当はクリスマスなど関係がないはずです。
が、実際はどうか。土俗アニミズムの祖霊信仰が最も幅を利かせる21世紀の日本で、クリスマスは本地垂迹説よろしく「八百万神」の1つのように、特段の矛盾も感じられず、ごく普通に祝われている。
「メリー・クリスマス!」と言いますよね、ごくごく普通に。
クリスマス(Christmas)という言葉をよく見てみると「Christ(クライスト)」、つまりキリストと書いてある。「神の子である救世主の降誕を褒め称うべし!」という符丁を口にしているわけですが、ご自覚ですか?
日本では大半「異教徒」が、にわかクリスチャン(?)未満の意識なきまま「メリー・クリスマス」とやっている。では、異教徒に厳しいイスラム教徒はクリスマスを祝うでしょうか?
やや意地悪な質問ですが、私の答えは「Yes & No」というものです。
実はこの質問は答えるのが難しい。比較的よく知られた事実として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教は「聖典」を共有しています。
これら「啓典の3宗教」は共通して「旧約聖書」を聖典とみなします。が、これは元来はユダヤ教の基本経典でした。「旧約」は旧約で「旧訳」古い訳ではなく「契約」の約、神様と人類の古い契約という意味で古い約束の書「Old testament」と呼ばれています。
これに改革を起こしたのが「キリスト教」でした。キリスト教は「旧約聖書」に第2の聖典として「新約聖書」を加えます。
「福音書」、つまり福をもたらす音声が記された本=基本「イエス・キリストの言葉」が記された4つの福音書を骨格に、「それ以外のテキスト」を含め、紀元2~3世紀頃までに成立したテキスト群が神様との新しい契約=「新約」の聖書として尊ばれています・・・。
と、こう書くと明らかなように、イエス・キリストは新約聖書を「書いた」わけではないのです。
イエスの十字架上での刑死、そして復活と昇天として伝えられる秘蹟の出来事すべてが終わった後で、生前のイエスにつき従い、ともに過ごした人々が各地で布教活動にいそしんだ。
その中で「マシューさん」を中心とするグループで使っていたテキストが「マタイ書」、「リュックさん」中心のグループのものが「ルカ書」、以下 「マークさん(マルコ)」「ジョンさん(ヨハネ)」といった具合で、各地で布教に使われていたテキストが、迫害の期間を経て一箇所に集められた。こういう 直弟子をキリスト教では「使徒」と呼んでいます。
さらに生前のイエスを知らない第2世代、その中心人物はパウロという人で、最初はキリスト教迫害の急先鋒に立っていたユダヤの人ですが、パウロは「使徒」の境目に立つ存在で、それより下の世代は「使徒的教父」などと呼ばれることがあります。
このパウロによって「原始教会」が形成され、そこで今日「キリスト教」と呼ばれる宗教思想の原型が形作られれていきます。
間違っても、生前のイエスが現在のような教会を作る運動をしたわけではない。
「教会」そのものに関する記述は新約聖書、特に福音書の中にダイレクトに出てくるわけでは必ずしもない、これは社会常識としても、あるいは世界史 などで記述式の問題でこの種のことが問われる可能性のある受験生には「クリスマス・プレゼント」として、お伝えしておきたいと思います。
新約聖書の中に、必ずしも教会のあり方がすべて詳述されているわけではない・・・。
この基本的な事実から、のちに教派間の対立、すなわち「異端」を巡る熾烈な争いが発生して来るわけです。
代表的なのは異端とされるアリウス派、彼らはイエス・キリストを人間であると見る立場を取りました。これはイスラム教徒とほぼ同じ見方になります。そういうキリスト教徒もいるわけです。ただし、正統派からは大変な迫害を受けることになりましたが・・・。
このアリウス派と正統派とされるアタナシウス派の間には命がけの対立がありました。教義の詳細が聖書に明記されていれば、こんな争いは起こらなかった。
逆に言えば、キリスト教に関して、新約聖書には記されていることと記されていないことがある。そういうものは教会の定める諸法として、例えば「ニケア信条」その他膨大に定められて行ったものです。
やや脱線してしまいましたが本筋に戻りましょう。イスラム教は「旧約聖書」を聖典と見なし、さらに新約聖書も聖典として大切にします。
イスラム教徒にとってもイエス・キリスト=イーサーは、まごうことなき神の使わされた預言者の1人で、さらに救世主=キリストですらある。イスラ ム教は旧約・新約の2つの聖書に加えて「最後の預言者」ムハンマドが神から告げられ聞き書きした聖典「クルアーン」(コーラン)を最も重視します。
でもイスラム教徒にとって「預言者イーサー」、つまりイエス・キリスト自身は否定すべき存在ではない。
だから、キリスト教徒のように盛大な祭りをすることはなく、正統派とされるキリスト教徒とは全く違う形ではあれ、敬虔なイスラム教徒にとって預言者イーサーの誕生日は寿ぐべきものではあるかもしれない・・・。
それで「Yes & No」と言ったわけです。
三経典の包含関係
キリスト教はユダヤ教の「旧約聖書」を聖典に含み、イスラム教はユダヤ教、キリスト教の新旧約聖書を聖典に含む・・・こんな風に書くと、多くの人は 図1のような関係を想起されるかもしれません。ユダヤ教のすべてを、キリスト教が是としたわけではないのです。形骸化した「律法」の多くをイエスが否定して回るさまは福音書の随所に生き生きと描かれている。
図1 あまり現実に即していない「3聖典の包含関係」イメージ |
同様に、キリスト教のすべてをイスラム教が受け入れたわけではない。新約聖書は構わない。しかしイエスの死後に人々が作った教会、そこで定められた教義が気に入らない、とんでもないと、イスラム教はキリスト教を批判する。
ですから、あえて絵に描くなら図2に示すような関係が、より現実に即したものであるように思います。
図2 より現実に即した「3聖典の包含関係」イメージ |
これは、万物の作り主である「創造神」神=父と、その子であるイエス・キリスト、そして(これがなかなか難しいのですが)私たちに神の顕現を知ら せる、分子生物学で言えばメッセンジャーRNAのような働きをする「聖霊」の3者が、実は1つのものである「trinity」という3~4世紀のアフリカ (アレクサンドリア)を中心に生まれた信仰思想で、図にすれば図3のようになります。
図3 トリニティ=三位一体のイメージ |
で、聖書にはないこの考え方を許せない、というのがユダヤ教の言い分でありイスラム教の言い分でもあるわけです。
ユダヤ教としては、元来のこの信仰は我々のものであって、その戒律の一部を崩した存在としてイエスを告発し、ついには十字架で殺してしまった。
19世紀末からの欧州では、文豪ゾラが告発した「ドレフュス事件」からナチス・ドイツによるホロコーストまで、ユダヤ人迫害の例は枚挙の暇もないでしょう。
他方、イスラム教徒にとっては「造物主アッラーは偉大」であって、私たち被造物である人間と比べられるような存在では絶対にあり得ない。
アッラーは偉大で、その「子」として人間の形をしたイエスを崇め奉る、などというのはとんでもないこと、という話になります。図にすれば図4のようになるでしょうか。
図4 一神教の圧倒的な造物主 |
あえて言うなら「旧約的世界観=宇宙観=死生観」それに対して、その神をどのようなものと捉え、私たち自身をどのような存在として認識し、日々の 生活(=信仰)をどのようにプラクティスしていくか、それが決定的に異なっているのがキリスト教とユダヤ教、イスラム教の3者ということになります。
啓典の民の共存はいかにして可能か?
ここでやや簡略化するなら「人間であるイエスを神と同一視するのはけしからん」というのがイスラムのキリスト教批判の根幹と言えるでしょう。
またキリスト教側としては、人間として肉の生命を持って生まれ、罪人として苦しみを受けたイエスが神と一体として救われる点に、全人類の救済の可能性を懸けた教義を2000年来展開しているわけです。
私たちがごく普通のものと思っている、例えば日本国憲法が保障する様々な自由・平等・基本的人権といったものは、原則すべてキリスト教が紡いできた「神の前の万人の平等・・・為政者や君主であってさえも(=だから憲法というものができた)」「神の前の平等によって保障された万人の平等・自由」「神の前の平等によって保障された、人が生まれながらにすべて持っている基本的な自然権」といった概念に結びつきます。
法哲学者だった上智大学名誉教授、故・ホセ・ヨンパルト神父のお話によれば、これらの多くはトマス・アクゥイナスに多くを負っているそうです。
さらに、その哲学的な骨子はイブン・スィーナーなどイスラムの思想家がアリストテレス由来の古典を昇華して編み上げた成果に多くを負っており、故意犯と過失犯の区別などはイスラム法が原点で、それ以前は「目には目を、歯には歯を」の復讐法が基本だったそうです。
そこに個人の自由意志と主体性という、非常に難しいものを導入したのはイスラム法学の偉大な成果だと、刑法の團藤重光先生と私と並んでヨンパルト先生からうかがいました。
これは裏を取ったわけではないので不正確な面があるのかもしれません。もし正確にご存知の専門家がおられましたら、どうかご教示をお願いいたします。
冷戦構造が崩壊した1990年代以降、F.フクヤマの刺激的な「歴史の終わり」論と、それに対抗するようにして提唱されたS.ハンチントン「文明の衝突」の議論は、イスラム圏とキリスト教圏の「衝突」シナリオを描き、残念なことですが9.11同時多発テロを引き金にそのような2000年代の10年が過ぎ、2015年11月13日、またしてもパリ同時多発テロ以降、現下の状況に私たちは直面しているわけです。
このように近しい関係にある3つの宗教は、互いに寛容の精神で共生することはできないのでしょうか?
いや、長らく実は3宗教は共存してきたのです。特に巨大なイスラム帝国の中では、「啓典の民」ブック・ピープルとされる異教徒は、それ以外の異教徒、ジャイナ教徒とかゾロアスター教徒とかよりも優遇されていた面すらあった。
そのポイントはどこにあるか?
差異ではなく共通項を見る、というのが要点になります。あえて図に書けば図2を変形させた図5のようになるでしょうか。
図5 「啓典の民」の共通項を重視する |
実はこうした議論はキリスト教の版元である新教出版社刊の月刊誌「福音と世界」に長らく連載していた内容(「交響する啓典の民」)の骨子で、私なりに長年(30余年程度)、クリスチャン(英国国教会・日本聖公会)の家に生まれた一個人として向き合ってきたものにほかなりません。
とりわけ熱心なプロテスタントの方々からご批判もいただくことがあります。上の連載では啓典3宗教の典礼音楽ないし朗誦(イスラムは朗誦を音楽とは呼ばないので:だからといってISが楽器を燃やすのが是とされるわけではないと思いますが)の時空間を、教義の外側である非線形動力学、複雑システムの枠組みで考える仕事を検討しました。