人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス
多数の命を救うために1人の命を犠牲にするという、一見正しい判断も、少し状況が変わると正しいとは思えなくなる。思考実験「トロッコ問題」が見せる、人間のパラドックス。
Brandon Keim
「興味深いのは、一貫性に欠けていることだ」とハーバード大学の社会心理学者Mahzarin Banaji氏は言う。「われわれは突如としてカント主義的になる場合がある」
このパラドックスを何より明確に示すのが、「トロッコ問題」(トロリー問題)という古典的な思考実験だ。
5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。
多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。
しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。[この問題は「The fat man」と呼ばれるもので、Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション]
この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。カリフォルニア州パロアルトで10月26日(米国時間)に行なわれた、全米サイエンス・ライティング振興協議会(CASW)の会議でのことだ。
[Time誌の記事によると、「5人を救うためでも線路に落とさない」と回答するのは85%にのぼる]
われわれは、1人をトロッコの前に突き落とすことと、トロッコを1人の方へ向かわせることとは、何かが異なるようだと直観的に感じる。しかし、なぜそう感じるのかは、社会心理学でも神経科学でも哲学でも、いまだ解明できていない。
興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。
「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義 [善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる] になる。しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。
[カントの義務論は、 功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。また、善悪判断に関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず道徳規則に従うという形になる。このような、「もし〜ならば〜せよ」という形ではない「定言命法」が、カント倫理学の根本的原理]
読者のみなさんはどうお考えだろう? 一見してパラドキシカルな人間の行動は、われわれのモラルの配線が偶発的にショートしたもので、脳が考える倫理にはそもそも恣意的な性質があることを暴露していると解釈すべきなのだろうか? あるいは、行動のなんらかのレベルにおいては、進化論的に理にかなったことなのだろうか?
[ Time誌の記事などによると、fMRI(脳スキャン)を使ったトロッコ問題研究がある。
「トロッコを側線に導く形で1人を犠牲にして5人を救う」という場合は、前頭前野背外側部(客観的な功利的判断をする場所)の活動が活発になるが、「5人を救うために1人を落とす」ことを考える場合は、前頭皮質中央(感情に関係がある)が活発になる。
これらの脳の2つの部位のバランスのもとに最終判断が下されるという(Science 293(5537),2105−8, 2001)。
また、医学界新聞の記事によると、
腹内側前前頭葉皮質(VMPC:ventromedial prefrontal cortex)に傷害のある患者は、トロッコ問題に対して常人とは異なった判断を下すことも示されている。
VMPCは以前から、同情・羞恥心・罪悪感といった「社会的感情」に関与する領域として知られているが,この領域に傷害がある患者は、例えばトロッコ問題に対して、「多数の命を助けるためには、隣に立っている人を橋から突き落としても構わない」と答える傾向が際立って強いことが明らかにされ、倫理的判断は理性と感情のバランスの下に下されるとする説が一層信憑性を強めることになったという(Nature446(7138),908−11, 2007) ]
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