茜さす空に、シトラス色の光点がふたつみっつほど揺らめいている。
水垣鉄四(みずがきてつし)は困惑しきっている。
菜の花を食べたら、角貝(つのがい)ササミが死んでしまったのだという。
三日ぶりに、烏谷青磁(からすやせいじ)が訪ねてきてひょっとそう告げた。烏谷は泣いている。
この日は四月一日、烏谷青磁があらわれたのは食パンみたいな雲がトースト化した、薄暮時のことだった。
世間のルールにしたがい、水垣鉄四は当初その話を信じなかった。
この時代、世間のルールはすでにあらかた形骸化していたが、烏谷青磁は嘘泣きしているようにも見えた。
おまけに彼は、どちらかといえば大嘘つきの部類に当てはまりそうな男でもある。
──なんというか、かなりざっくりとした嘘だ。そんなんでは、デブでよろよろのウサギ一羽だませやしない。
──いや、嘘ではない。これは昨夜の出来事だ。遺体は氷漬けにしてある。
水垣鉄四は、禁煙中の烏谷青磁に煙草を一本すすめた。そしてふたりで、五、六分ばかり無言で紫煙をくゆらせて、角貝ササミを追悼した。
──さあつきあえよ。急がなければならない。これにはタイムリミットがあるんだ。カウントダウンはとっくにはじまってる。
烏谷青磁は、角貝ササミを蘇らせるつもりでいる。角貝の死が確認されてから一二時間ののちに、烏谷はその方法を突き止めたのだという。
角貝ササミを蘇らせるには、まずは三六五日以内に、特定の四つのパーツをすべてそろえなければならない。四つのうち、ひとつでも欠けていたら角貝ササミ を蘇らせることはできない。
──全部そろったらどうするんですか?
──運ぶのさ。
──どこへ?
──浅草だよ。合羽橋の問屋街にな。製菓材料屋ビルの五階の、ミルクチョコレートフロアに持ってかなければならんのさ。
烏谷青磁はひどく取り乱しているのだろう。涙痕も鼻水もぬぐわずに、吸い殻のフィルターを下唇にくっつけてぶらぶらさせたまま、厳しい顔つきでしゃべっ ている。
水垣鉄四は思案した。タイムリミットが、三六五日以内ということは、最長ならば一年間もつきあわされる羽目になるわけだ。
最短で済む可能性に賭けるか、それとも最善の断わり方をただちに考えだすか、水垣鉄四はふたつの選択肢のあいだで揺れていた。
──どうしてもおれじゃなきゃ駄目なんですか?
──ああそうだ。生憎おれには花の知識がない。ヒマワリとかチューリップしか知らんやつではどうにもなりそうにない。今から勉強してたらタイムリミットに 間に合わないかもしれない。星占いの判定もぱっとしなかったな。魚座の男には、道は険しいそうだ。
水垣鉄四は花の専門家というわけではない。常日頃より、たしかに「花」には触れているが、水垣が扱っているのは生花ではなく、プリザーブドフラワーなの だ。
けれどもそのことを烏谷に伝えたところで、なにが変わるわけでもない。
生花だろうがプリザーブドフラワーだろうが、烏谷青磁にとっては毛ほどの差もない。
それに烏谷がもとめているのは、やるかやらないか、いずれかの返答だけなのだ。
──なんにせよ、雲をつかむような話ではありますね。バラやタンポポが目標ってわけじゃないし。とにかく計画的にやらないとまずいな。さしあたっては、ど こをどうやって探します? せめて場所が限定されていればな……そのお菓子屋でヒントもらえないんですかね?
最善の断わり方を見つけだせなかった水垣鉄四が、こんなふうにひとまずやる気があるふりを装うと、
──お菓子屋ではない。製菓材料屋だ。つまり問屋だよ。そしてヒントはもらえない。ひとつもな。そんなにたやすいことなら、そもそもおまえに頼みはしな い。
そう言いきって、烏谷青磁は下唇にくっつけていた吸い殻を唾液と一緒に床へ吹き飛ばした。
老齢のアラスカヒグマにも似た、烏谷青磁の面立ちには、有無を言わせぬものがあった。
烏谷がもとめているのはどうやら、やるかやらないか、ですらなく、やるのひと言のみなのだ。
足もとに転がった吸い殻をしばし眺めてから、水垣鉄四はゆっくりと瞼を閉じた。
水垣はほとんど観念しかけていた。烏谷青磁に逆らえぬ理由が、彼にはあったのだ。
水垣鉄四は、多摩川のほとりにあるプリザーブドフラワー・ショップの経営を任されている。
三年前に、古くから建つ店舗兼住宅の管理ともども、オーナーである伯父から一任されたのだ。
しかし昨春に、伯父はいきなり行方をくらましてしまったのだった。
その確たる理由が、多摩川のほとりに伝わってくることはなかったが、伯父の失踪は日常茶飯事らしかったから、水垣鉄四はいつも通りにすごした。いつも通 りに、この一年をすごした。
伯父の妻子──すなわち水垣鉄四にとっての伯母と従兄弟は、数年前よりサンフランシスコに暮らし、南部鉄器や山中漆器を扱う小売り店を営んでいるとのこ とだった。
伯母も従兄弟も、多摩川のほとりにある家屋敷にはなんの関心もないようだった。当の家財の存在を、ふたりともろくにおぼえてさえいないのかもしれなかっ た。
伯父一家どころか、血縁者はだれひとり、多摩川のほとりにあるプリザーブドフラワー・ショップに立ち寄ることはしなかった。
親族にすっかり忘れ去られてしまった古屋敷で、水垣鉄四は孤独にプリザーブドフラワーを売っている。
朝の九時から夜の九時まで店を開き、店番の合間にオンラインゲームをおこなうのが、彼の毎日の生活だ。来客は稀であり、ゲーム内でも滅多に人に出会うこ とはない。
そんな日々を送っていた水垣鉄四の前に、不意に登場したのが烏谷青磁だった。
烏谷青磁は、水垣鉄四に対し、伯父とその前妻のあいだに生まれた長男だと名乗った。
またさらに、烏谷は、この家屋敷の所有権は現在、自分のもとにあるのだと主張した。
その証拠として見せられた録画映像に、水垣鉄四はたちまち萎縮させられた。
そこには、薄暗い室内でひざまずき、カメラに向かって必死に語りかける、やつれ気味の伯父の姿があったのだ。
いつも小綺麗にしている伯父が、白髪まじりの頭髪をぼさぼさにして無精髭をはやしっぱなしにしていたので、水垣鉄四はなおのこと驚いてしまった。
──これは真面目な話だが、多摩川のほとりにある花屋と屋敷もね、まぎれもなく彼のものなんだよ。あそこの家屋敷も、彼が好きにしていい財産のひとつとい うわけだ。わたしはそれを保証するよ。この決定を覆せる者はいない。
伯父が言う「彼」とは、むろん烏谷青磁を指している。
そして家屋敷「も」ということは、多摩川のほとりにある家財のほかにも、烏谷青磁はなんらかの財産を伯父から譲り受けているのだろう。
いずれにせよ、伯父はどこかに監禁され、財産譲渡を無理強いされている可能性がある──そんなことを匂わせもする録画映像を見せられて、目の前で新オー ナーだと宣言されてしまったため、水垣鉄四は「この決定」とやらに黙ってしたがうしかなかったのだ。
それがこの、一月末の出来事だった。
以来、烏谷青磁はたびたび多摩川へ訪ねてくるようになった。
未だ「自称」の冠をはずせはしないものの、血縁者で唯一の、リピーターになってくれたわけだ。
烏谷青磁は、いかにもオーナー然と振る舞ったり、水垣鉄四の(あってなきがごとしの)経営方針にうるさく注文をつけてきたりはしなかった。
しかしだからこそ、意図が読めず、伯父の録画映像の件もあり、薄気味悪くはあった。
水垣鉄四はこの三年、店を繁盛させたことはなく、今後も大した売り上げを見込めそうにない。
そのため新オーナーより、ある日突然クビを言い渡されてしまうかもしれず、油断はできなかった。
ここを追い出されたら、実家の地下牢へ戻るしかない水垣鉄四は、この数ヵ月ずっと戦々恐々としていた。
知りあって数週間後には、友だちみたいな口ぶりで語らえる間柄になりながらも、水垣鉄四は常に烏谷青磁に怯えていたのだ。
店内に風が吹きこんできたのを感じ、水垣鉄四は瞼を開いた。
──空気が淀みきってるぞ。花屋のくせに、ひどい臭いだ。
店の出入り口の引き戸を開け終えて、烏谷青磁がそう口にすると、一羽のツバメがなかへ飛びこんできて、シャンデリアのまわりを旋回して外に出ていった。 深紅のクリスタルガラスのティアドロップが左右に揺れ、カチカチと音を鳴らした。
──で、どうだ? わかりそうか?
出入り口を背にしながら、烏谷青磁が最後通牒を突きつけてきた。
もはやどのみち、首を縦に振るしかない状況ではあった。水垣鉄四は開き直って訳知り顔になり、適当な出任せで応じてみせた。
──ああ、おそらく。集めなきゃならないのはとにかく四花ってことだから、四色の花とか、四季の花とか、いろいろと考えられますよね。そういうのをしらみ つぶしに当たってけば、そのうち正解にぶつかるんじゃないかな。
ちょうどそのとき、店の外で特殊閃光弾かなにかが爆発でもしたみたいに、烏谷青磁の背後が真っ白く光り輝いた。
そしてすぐさま、何本もの材木がへし折られるような轟音が響き、同時に地鳴りまでもが伝わってきた。
──雷か。えらい近いな。河川敷に落ちたくさいぞ。あれ見てみろ。
体ごと振りかえり、外の様子をうかがっている烏谷青磁に指示され、水垣鉄四もそのそばに近寄って多摩川のほうへ目を向けた。
すると烏谷の言う通り、雷は河川敷に落ちたらしく、赤く燃えている場所があった。
──行ってみよう。春雷とは珍しいな。
──たしかに。
今日も売り上げゼロであり、閉店時間はまだ先だが、オーナーのお誘いとあらばとりあえず、水垣鉄四は黙従するしかないのだった。
ニセアカシアの群落が燃え盛っている。藍色地に茜色の光景。
ギリギリの距離で、八〇名ほどの人々がそのなりゆきを見守っている。
河原の住人たちが、水で満たした五〇〇ミリリットルペットボトルを次々に投げこみ、鎮火に当たっているが、まさしく焼け石に水でしかない。
──なあ、鉄ちゃん。
──ん、なに?
──おまえさ、あれが全部、水だと思うか?
──え、どういうこと?
──だからさ、あの連中が放ってるペットボトルの中身だよ。
──ああ、ペットボトルの中身ね。
──おまえさ、あれが全部、水だと思うか?
──そりゃあ、まあ、そうでしょ。水ですよ全部。
──でもさ、わかんないよな。小便とか焼酎投げてるやつだって、何人かいるかもしれない。
──いやあ、そりゃあないでしょう。だって小便はともかく、連中にとって焼酎は言ってみりゃ、命の次に大事な嗜好品ですよ。そういうものを、いたずら心で 火にくべたりはしないと思うな。
──わかってないなおまえは。
──そうですかね。どこらへんがですか?
──焼酎が大事な嗜好品であるのと同程度か、それ以上に、火災にこそ心癒されるというド変態野郎が、あのなかにひとりもいないとおまえは言いきれるのか?
──なるほど。それは言いきれないな。
──おれの目にはな、あいつら全員が拝火教徒に見えるよ。
──なんですかそれは?
──あのペットボトルの投擲大会は、宗教儀式なんじゃないかってことだ。
──ああ、そういう……。
──そもそもあいつら、あまりにも用意が良すぎないか? なんだってあんなに大量に、五〇〇ミリリットルペットボトルのストックがあるんだ?
きっと河川敷公園の利用客のうち、心ない者らが捨てていったゴミが、たまたまそれだけの量たまっていたのだろう。
たぶん、それだけのことにすぎない。水垣鉄四はそう思ったが、口には出さなかった。
もはや烏谷は、常識や正論を言って通じる相手ではなくなっている。尋常でなく見開き血走った彼のどんぐりまなこが、明らかにそれを物語っていた。
──あのペットボトルはほとんど、由桐(よしきり)さんのコレクションですよ。
若い女の声がして、とっさにそちらを見やると、最初に目についたのは真っ白なロングヘアーだった。炎に照りかえされてもなお、その白いストレートヘアー は際立っていた。
この不意の闖入者を、ふたりが受け入れるまでに要した時間は、五、六秒といったところだった。まずは水垣鉄四が、端から知りあいだったみたいな口調で応 答した。
──由桐さんて?
火事の見物には加わらず、桜の木の下でひとりしゃがみこんでいる中年男を、白髪女性は指さした。
火のなかに投げ入れられたペットボトルが、本当にその中年男のコレクションだったのだとすれば、おそらくは彼はひどくうなだれているところなのだろう。
何分か前に消防車が到着したので、河原の住人たちによるペットボトルの投げこみはすでに終了していた。
今は皆、消防士の邪魔にならぬように現場から遠ざかり、ツルヨシの叢のあたりでかたまって静観に移りつつ、ペットボトルの中身を酌み交わしていた。
──あんたもこの河原で暮らしてるのか?
烏谷青磁がそう訊ねると、白髪女性は首を横に振った。
白髪女性は、白が好きなのか、ウィンブルドンのテニスプレーヤーみたいに白いブラウスを着て白いロングスカートを穿いていた。手荷物は所持していなかっ た。
水垣鉄四も、白髪女性の素性に興味が湧いたが、質問はさしあたりボスに任せっぱなしにした。
──それじゃあなぜ、あそこのおっさんのことを知ってるんだ? 知り合いか? あるいはあんた、あのおっさんの女なのか?
白髪女性はふたたび首を横に振り、
──あたしはボランティア。たまにあっちの自立支援施設で働いている。由桐さんはそこによく来る人。常連さん。ペットボトルのコレクターとして有名。
──へえそうかい。ボランティアね。住まいもこのへんかい? ひとり暮らしか?
白髪女性はみたび首を横に振り、
──あたしの住まいはずっと遠く。
──へえそうかい。ずっと遠く。それじゃあこっちでは下宿でもしてんのかい? どこで寝泊まりしてるんだ? 金はあんの?
──自立支援施設のお世話になってるの。
──施設の?
──ええそうよ。
──ほんじゃあんたもあのおっさんのお仲間ってわけか?
──お仲間? どういう意味? お友だちってこと?
──だからあんたもホームレスピープルのひとりなのかってことさ。
──ホームレスピープルのひとり? さあどうだろう。あたしにはわからないわ。
──あんた名前は?
──先に名乗らない人には名乗ってはいけないと教えられた。
──ああ失礼。おれはシモジマリュウヘイっていうんだ。
──あなたはシモジマリュウヘイ。あたしは花貝(はながい)さえずり。
──花貝さえずりちゃんか。なるほどね。よろしくな。
烏谷青磁がさっと右手を差しだすと、花貝さえずりは二、三拍遅れて左手を差しだして応じた。
それに対し、烏谷青磁は苦笑いして軽く首をひねりつつも、花貝さえずりの左手首をつかんでいちおうは握手の形に仕上げた。
──おい、鉄ちゃん。
花貝さえずりとの会話を中断した烏谷が、水垣鉄四にこう耳打ちをする。
──あの女ひっぱるぞ。
水垣鉄四が小声でなになにと聞きかえすと、花貝さえずりを拉致するつもりだと烏谷青磁は打ち明ける。だから烏谷は先ほど偽名を使ったのかと、水垣鉄四は 理解する。
──でもなぜ?
水垣鉄四がまたも小声で聞きかえすと、
──おれたちはついてる。
──というと?
水垣鉄四がさらに小声で聞きかえすと、
──気づかないのか? 探し物が早くも見つかったんだ。
──えっどれが? まさか彼女が?
水垣鉄四は思わず声を抑えるのを忘れてしまう。
──ああそうだ。間違いなくあれはおれたちの獲物だよ。四つのパーツのうちのひとつは、あの女からちょうだいするってことだ。
花貝さえずりと名乗った女は、言われるがままにおとなしくついてきた。
──これから三人でディナーにしよう。自立支援施設しか寝泊まりするところがないのなら、うちにくればいい。うちはこの近所にある。
烏谷青磁がそう提案すると、花貝さえずりはしばし瞼を閉じてから、ありがとうシモジマリュウヘイと礼を述べた。
そのゆっくりとしたまばたきは、彼女の癖なのかもしれなかった。花貝さえずりはたびたびゆっくりとしたまばたきをする女だった。
プリザーブドフラワー・ショップに隣接する、洋風建築の古屋敷のダイニングルームで食事を済ませた三人は、そこでそのままワインを飲みながらトランプ ゲームに興じた。
それぞれがルールを知っているゲームが一致せず、どれで遊ぶかなかなか決まりそうになかったため、単純な仕組みのものが選ばれた。
二枚のジョーカーを含む五四枚のカードをダイニングテーブルの上に裏向きにならべ、プレーヤーは同数と思われるものから一枚一枚めくってゆく。
ひとめくり分の制限時間は三分。三分間のうちに、カード表面の数字とマークを読みとり、それをめくると同時に言い当ててゆく。プレーヤーたちは、その連 続正解数を競う。
マークを言いまちがえたり、数字のあわないカードを開いたところでひとり分のプレーが終了する。
コンセントレーション、または神経衰弱と呼ばれるゲームだ。
三人は、待機中のプレーヤーによる妨害工作を認めるルールを採用した。
具体的には、ゲーム中のプレーヤーの精神統一の邪魔立てをしたり、カードの場所の入れ替えをおこなうことが許される。ただしその際には、妨害者は当然な がら念ずる以外の行為を試みてはならない。
つまりどちらにせよ、集中力が高い者が有利にゲームを進められるというわけだ。
一番手は、水垣鉄四がつとめた。
水垣鉄四は、三分間をフルに使い、一枚一枚じっくりと見つめていって慎重に開示カードを選んだ。
その結果、三組のペアしか当てられはしなかったが、水垣にとってこれは彼自身の最多タイ記録だから、上出来の内容ではあった。
二番手をつとめたのは、花貝さえずり。
彼女は驚くべきことに、なんとやすやすと一八組ものペアを引き当ててみせた。
一九組目も、同数カードを引いてはいたのだが、「ダイヤのジャック」と言うべきところを「ダイヤのジョーカー」と口にしてしまったため、花貝さえずりは そこでゲームオーバーとなった。
最終走者の烏谷青磁は、花貝さえずりの好成績に度肝を抜かれている様子だった。
なにしろ花貝さえずりは、三分の持ち時間など必要ともせずに、素早く淡々と一枚一枚めくっていって一九組目までたどり着いたのだ。言いまちがいさえなけ れば、全問正解していた可能性が高い。
もっとも、このゲーム自体は、烏谷青磁の得意とするものではあった。
烏谷の持つ最多正解記録は一九組だと、水垣鉄四は事前に聞いている。
したがって、今回も本気でがんばれば烏谷青磁は決して勝てないわけではない。水垣鉄四はそう見通していた。
──おもしろくなってきたな。まったくぞくぞくするよ。さあ一杯やろうぜ。
烏谷のこの強がりを合図に、三人そろって一斉にワイングラスの中身を飲み干した。
毎回スタート時に、全員で一杯飲むのがルールになっていた。
それゆえゲームの本番時、酔いが最もまわる最終走者は集中力の維持が難しくなるだろうから、不利なはずだった。
だがその分、ゲームを終えたプレーヤーもおなじだけ酔いがまわっているのだから、邪魔もされにくいというのが、烏谷青磁の目算らしかった。
──花貝さえずりちゃん、いっちょふたりで賭けないか?
──なんですか? 賭けですか? いいでしょう。喜んで。
──話が早くてなによりだ。ではおれが勝ったら、きみの目玉をもらいたい。どうかな?
──わかったわ。あたしは目玉をさしあげます。シモジマリュウヘイの負けなら、この家をもらうわ。
──オーケー。それでは滞りなく条件が決まったところではじめるとするよ。
両手をあわせてこすりながら、烏谷青磁はいやらしく舌なめずりしてテーブル上のカード五四枚をざっと見渡した。
烏谷はやけに、勝算も自信もありそうだが、急遽賭け事に変更されたのでそれは単なるブラフかもしれなかった。
水垣鉄四はぼんやりとしていた。
なんとなくいやな予感がして、この勝負の行方が気にはなっていたが、彼自身は蚊帳の外に置かれてしまい、集中力も使い果たしていたのでぐったりとして、 頭も鈍っていた。
そのため水垣鉄四は押し黙り、傍観者に徹するしかなかった。
ときおりへらへら笑ってみたり、ひとりワインをがぶ飲みすることしかできずにいたのだ。
──こら鉄。おい起きろよ。
烏谷青磁に体を前後に揺さぶられ、水垣鉄四は瞼を開けた。
身を預けていた椅子から急いで立ちあがった水垣鉄四は、目もとをこすりながら、
──すんません。寝てました。あれ彼女は?
花貝さえずりが席についておらず、室内を見まわしてもどこにもその姿はなかった。
テーブル上は空き瓶やグラスが転がっていて赤黒い染みができており、トランプカードはすべて表向きになっていた。
烏谷青磁はどういうわけか息を切らしていて、上半身裸で汗だくになっていた。
寝ぼけきっていて、酔いも残っている水垣鉄四は、現状をうまく読み解けず、花貝さえずりは屋敷を出ていったのだろうと早合点した。
烏谷青磁は賭けに負けたのだと察した水垣は、先の質問への返答も聞かずに、
──残念でしたね。差はいくつついたんですか?
それに対して烏谷は、まずは椅子にどっかと腰をおろし、両手で顔をあおぎながら大きく溜め息をついた。
──鉄ちゃんよ。このテーブルを見給えよ。
──はい見ました。
──残念か?
──そう思いますね。
──なぜ?
──だって負けたんでしょ?
──おれが負けた?
──ちがうんですか?
──よく見ろよ。
──ええ見てますよ。なにもないですけど……。
──だからよく見ろって。
──見てます見てます。だいぶ散らかってますね。
──ちがうよ。おまえは少しも現実を見ようとしていない。おまえの目はまだなにも見ちゃいない。そこにある、見たままの現実をじかに受けとめれば、おのず と真実が理解できるよ。
言われた通り、ダイニングテーブル上の見たままの現実をじかに受けとめてみた水垣鉄四は、三秒ほどしてやっと世界の真実を理解した。
──あれ、これ本当ですか?
──まあな。
──パーフェクト?
──ああそうだ。
──どうやったんですか? 凄い集中力じゃないですか。
──そうだな。イカサマだけどな。
──イカサマ?
──うん。
──ああ、イカサマか。
──その通り。
──イカサマでパーフェクトまで行ったんだ。
──そうそう。
──凄いじゃないですか。
──まあな。
──それで彼女はどこ行っちゃったんですか?
──どこにも行ってない。おまえが寝てるあいだに、隣に閉じこめといたよ。
ダイニングの左隣にある、スモーキングルームのドアを開けると、正方形の室内の中央に置かれた一脚の椅子に、花貝さえずりが座らされていた。
花貝さえずりは両手両足を縛られており、黒い目隠しと猿ぐつわをされてもいて、小首をかしげつつ口を半開きにしていた。
──ここ照明つかないですよ?
開いた出入り口から漏れた明かりに照らしだされたスモーキングルームは、窓一枚ない狭く殺風景な空き間だった。花貝さえずりが座っている椅子のほかに は、家具や調度品もない、なにもない空間だった。
おまけにその部屋は、人間の居場所としてはあまりにも陰気くさかった。
ところどころに煤けたような汚れがある、ロココ調のベージュの壁紙に覆われていて、ヤニとかカビとか廃油などの臭いがまざったみたいな異臭が鼻につい た。
水垣鉄四がここに足を踏み入れたのは、この三年間で二回しかない。
──明かりなんざ必要ない。目隠しを取ることはないからな。
花貝さえずりは、すっかり観念してしまっているのか、はたまたただただ楽観的にすぎるだけなのか、水垣と烏谷のふたりが声を立ててもそれには無反応で通 していた。
──あれって、青磁さんひとりで縛ったんですよね?
──まあな。
──よくできましたね。抵抗とかされませんでした?
──全然。潔かったよ彼女。
そのとき突然、上階からズドンという重く鈍い音が響いてきて、花貝さえずりののあたりにパラパラと細かいチリが舞い落ちてきた。粉雪のようだった。
──ああまいったな。南東の本棚だ。とうとうくずおれやがった。
──この上は書庫か。だとすると、ここの天井も長くないな。
──下手したら、八〇〇〇〇冊の本の雨が降り注ぐかもしれない。
ふたりがこんな不穏なやりとりを交わしても、花貝さえずりの様子はちっとも変わらなかった。眠っているわけではなさそうだったが、無言で微動だにせず、 呼吸さえやめてしまったかのようだった。
花貝さえずりのおちつきは、極まった恐怖心のせいとも考えられたが、その割には随分とリラックスしているふうにも見受けられた。
口が半開きなのは、あるいは微笑んでいるせいなのかもしれない。
変な女だとあきれながらも、花貝さえずりの豪胆さに水垣鉄四は感心していた。
スモーキングルームのドアを閉めると、水垣鉄四はずっと喉もとで抑えていた質問を烏谷青磁に早速ぶつけた。
──目玉をもらうってのは、どういうことなんですか?
──そのままの意味だよ。
──彼女の眼球を取り出すってことですか?
──その通り。
──だれがやるんですか?
──おまえだよ。
いやな予感が当たり、水垣鉄四は血の気が引くのを感じた。
けれどもそれを表には出さず、水垣鉄四は烏谷青磁との会話をつづけた。
──目とか切りとっちゃって、失血死しませんかね。うまい方法あるのかな。
──なんだ。今更そんな心配か?
──いやまあ。
──目ん玉だけじゃねえぞ。おれたちはこれから、歯と耳と臍もそれぞれ別人からちょうだいしなければならない。一年弱以内にだ。
──あと三人か……あと三人、ここにつれてくるわけだ。しかし耳や歯はともかく、臍なんて取っちゃったら、ほっといたら死んじゃうだろうな。
──それがどうした?
──さすがに気が引けますね。
──気が引けるだと? そいつはえらく呑気なことだな。おれたちの目的はどうでもいいってのか? おまえがここで腰引けちまったら、ササミは氷漬けのまま だ。あいつはそのまま棺桶に入れちまえとでも言われてる気分だよ。
──いやいや、そうは思いませんよ。そうは思いませんけどね。ただ正直なところ、ひとりの人間を生きかえらせるために、四人も殺しちまうってのは、結構キ ツいものがあるなと感じただけです。心情的な負担の話です。
──やっぱりおまえはなんにもわかっちゃいない。ひとり生きかえらせるために四人殺すのはキツいって? 所詮それは算数の世界のお話にすぎない。イチ足す イチのふたつのイチは、実際のところはおなじイチではないってことをおまえは理解していない。いいかい水垣鉄四。貴様にとっては、角貝ササミは人間ひとり 分でしかないのかもしれない。だがな、おれにとって、角貝ササミは、この世の人間全員分よりも重い存在だ。というわけで、ササミを生きかえらせるために何 人ぶち殺そうが、おれにとっては屁でもない。そのことをよく頭に叩きこんでおけ。
これを言い終えた烏谷青磁は、尋常でなく見開き血走ったどんぐりまなこの瞳孔を、全開にまで散大させていた。
そして手近のワインボトルを鷲掴みにすると、烏谷青磁はそれを逆さにして中身を喉奥に流しこもうとしたが、すでになかは空っぽだった。
ワインボトルを床に投げ捨てた烏谷青磁は、その場に立ちつくし、ふうと息を吐いて瞼を閉じた。
烏谷青磁の主張に反論できず、ここでも黙従するしかなかった水垣鉄四もまた、自ら視界をふさいでいた。
このとき、水垣鉄四の耳に届いていたのは、烏谷青磁の荒い息づかいと、振り子時計の音だけだった。
ダイニングルームに設置してあるわけでもない振り子時計の音が、今なぜはっきりと聞こえてくるのか、水垣鉄四は不思議に思った。
しかし彼は、その理由をただちに突き止めようとはしなかった。
水垣鉄四にはもはや、どんな気力も残されてはいなかった。
烏谷青磁があらわれたことにより、この三年間守り通してきた日々のスケジュールが、大幅に狂いつつある。水垣鉄四にとり、まずそれが大きなストレスに なっていた。
そんななか、これから二階にあがり、烏谷青磁の寝床の準備をしなければならないのかと考えるだけで、水垣鉄四はうんざりしてしまった。
ほとほとうんざりしてしまった彼は、動くのが面倒になり、烏谷青磁に呼びかけられるまで、瞼を閉じたままじっとしていることにしたのだった。
結局、水垣鉄四が次に瞼を開けたのは、烏谷の呼びかけがきっかけではなかった。
なにがあったわけでもなくただはっとして、彼は目を覚ましたのだ。
気づくとそこにはだれの姿もなかった。
烏谷青磁はいなくなっていて、カーテンの隙間から陽が射しこんでいた。
またもボスをほったらかしにして、いつの間にか寝入ってしまっていたのだと知った水垣鉄四は、やっちまったと思い、寒気をおぼえた。
ふとあたりを見まわすと、散らかっていた物がかたづいていて、床もダイニングテーブルの上もすっかりきれいになっていた。
テーブル上には一枚の紙切れがあり、そこにはこう書かれていた。
昨夜は幸運だった。この宝探しは大変順調にスタートを切ったと言える。協力に感謝する。まだはじまったばかりだが、何度も言うようにこれにはタイムリ ミットがある。夜が明けたらまたすぐに捜索にとりかからなければならない。四花の意味するところはだいたいわかったから、先におれひとりで探しまわってみ る。おまえはとりあえず、あの女の目ん玉をくりぬいておいてほしい。それが終わったらこっちに合流だ。てこずるかもしれないが、眼球を傷つけないように注 意を。早く済ませてこっちを手伝ってくれると助かる。それではまた連絡する。食堂はおれが掃除しておいた。
まいったなとつぶやいて、水垣鉄四は瞼を閉じた。
スモーキングルームのドアを開けると、花貝さえずりは昨夜とまったく変わらぬ様子でそこにいた。
不気味なほどに、花貝さえずりが身動きをせず、ひと言も声を発しないので、息絶えているのかという疑いがにわかに浮上する。
水垣鉄四は恐る恐る、一歩一歩彼女に近寄っていった。
花貝さえずりの正面に立ち、その顔に目を近づけて凝視してみると、彼女のや鼻先がホコリで汚れているのがわかった。
息をしているのか見定められず、彼女の口もとへさらに接近してみると、濡れている猿ぐつわの下端から涎がたれ落ちるところを水垣鉄四は目撃した。
涎の雫は、一瞬きらめきながらも薄闇のなかに飲みこまれて消滅した。
──おはようシモジマリュウヘイ。
いきなりそう話しかけられ、水垣鉄四はビクッとなって退いた。彼は危うく尻餅をつきそうになった。
──おれはシモジマリュウヘイではない。
水垣鉄四はとっさにそう答える。
すると花貝さえずりは、ピクリともせずに声を出し、平然たる態度で応答した。
──そんなことはわかっている。おまえの正確な名前を言ってみろ。
その高圧的な物言いに、水垣鉄四は戸惑った。第三者が耳にしたら、どちらが監禁されている身なのかと混乱してしまいかねない。
どう応ずるべきか、少し迷ったが、優位にあるのはこちらじゃないかと自らに言い聞かせ、水垣鉄四は正直に名乗った。
──水垣鉄四だ。
──なんだそれは?
──だからおれの正確な名前だよ。
──ああそうか。ミズガキテツシか。それがおまえの正確な名前か。まあまあってところだな。
傲岸不遜な話しぶりに加えて、しらじらしいほどのすっとぼけ方。昨夜の花貝さえずりとは別人と話しているような気になる。
この女はいったい何者なのかと警戒心が募り、水垣鉄四は探りを入れる。
──あんたこそだれなんだ? ボランティアの花貝さえずりというのは本物のプロフィールなのか?
──そんなことはどうだっていい。
──おれは正直に名乗ったんだぞ。そっちも正直になれよ。
──あたしはこれからおまえを乗りこなすことにする。
──はあ? なんの話だ?
──シモジマリュウヘイは外出中だな?
──ああそうだ……しかしじきに帰ってくる。
自分が優位にあるのはたしかだが、それを微塵も実感させない奇妙な迫力を、花貝さえずりは放ってくる。その迫力に気圧されてしまい、水垣鉄四は半分嘘を ついた。
──ああそうか。しかしじきに帰ってくる? それは嘘だろう。つまらん真似はやめろ。
この発言により、花貝さえずりの力の強さがついに明らかになった。
彼女は嘘発見器だ。こちらが思ったことを即座に解読できて、自分の思考をこちらに送りこめる。花貝さえずりと称する女は、そういう能力の持ち主にちがい ない。
水垣鉄四は冷や汗をかいた。そこまでのことができる人間に相対するのが、はじめての経験だからだ。
──なるほどあんたはそういうやつか。どうりで口も動かさずにしゃべれるわけだ。トランプゲームにあそこまで強いのも頷ける。それでなんだ? 縄を解いて 逃がしてくれとでも言いたいのか?
花貝さえずりは急に黙りこくった。
──そうか。逃げるのは無理だって理解したのか。そいつは正しいよ。あんたは逃げられないんだ。ご愁傷様。
花貝さえずりはなおも沈黙していた。
──どうした? なぜしゃべらないんだ? 力つきちゃったのか?
いつまで経っても、花貝さえずりは口を開かないため、水垣鉄四は煙草を吸いはじめた。スモーキングルームで煙草を吸うのは、彼にとって初のことだった。
花貝さえずりが黙りこんでから、二〇分ほどが経過したときのこと、
──ミズガキテツシ。
いきなり名前を呼ばれ、水垣鉄四はまたしてもビクッとなって退いた。
──なんだ?
花貝さえずりは相変わらず微動だにせず話しかけてくる。
──おまえにはやるべきことがあるはずだ。
水垣鉄四はギクリとする。
──返事をしろミズガキテツシ。おまえにはやるべきことがあるはずだ、そうだろう?
どこまで読まれているのかとふたたび警戒しつつ、水垣鉄四は「ああ」と返答する。命ごいでもする気なのだろうと、彼は見当をつける。
ところが花貝さえずりは、予想とは正反対のことを言いだした。
──ミズガキテツシ、なぜおまえはいっこうにそれをやろうとしない? せっかくあたしがチャンスを与えてやったのに、おまえはナイフ一本手にすることもせ ず、のんびり煙草なんか吹かしている始末だ。おまえは本当に腰抜けの役立たずなんだな。シモジマリュウヘイが危惧していた通りじゃないか。
咎め立てはさらにつづいたが、水垣鉄四はこらえた。相手の意図を推しはかるべく冷静になり、急いで彼は対処を検討した。
おおかたこれは、こちらを逆上させて隙をつくり、そこをついて逃げだすための挑発にちがいない。
ついさっきこの女は、馬鹿正直にも、「あたしはこれからおまえを乗りこなすことにする」などとはっきり宣言していた。
わざわざ手のうちを明かしてくれているのだから、むざむざ利用されてはなるまい。
──おれが腰抜けの役立たずだって?
水垣鉄四は反撃に出た。向こうの狙いにかかったふりをする作戦だった。
──ちがうのか?
──あんたの目ん玉を取り出すことくらい朝飯前だよ。
──それならなぜさっさとやらん?
──気が向いたらやろうと思ってたところだ。
──いや、ちがうな。シモジマリュウヘイは早く済ませろと注文している。なのにおまえは未だその準備もしていない。どうだ? これが答えだよ。おまえは腰 抜けの役立たず以外の何者でもない。
水垣鉄四は高らかに空笑いしてみせた。
そして彼は、いったんスモーキングルームを出てダイニングを抜け、調理場に入った。
いちばん扱いやすい果物ナイフを調理場から持ちだした水垣鉄四は、すぐさま花貝さえずりの前に戻った。
ナイフの切っ先を顔面に直接突きつけてやれば、いくらこちらの考えが読めても不快感くらいはおぼえるだろう。
どのみち体の自由を奪ったままにしておけば、こちらの優位が崩れることはないのだと、水垣鉄四はあらためて自らに言い聞かせた。
──ほらよ。準備できたぞ。あとはやるだけだな。簡単な話だ。
水垣鉄四はそう言い放つと、果物ナイフの先端を花貝さえずりの額のあたりへ近づけていった。
黒い目隠しの布地越しに、彼女の眉間をナイフの先で二、三度突っつくと、皮膚の感触が右手に伝わってきた。
これでちょっとはビビッてくれるだろうか。ナイフの腹に映りこんだ自分自身の瞳を、水垣鉄四は一瞥する。
ところが次に聞こえてきたのは、花貝さえずりの笑い声だった。
──その程度の発想しかできないとはびっくりしたぞミズガキテツシ。そちらの考えがまるごとこちらに筒抜けだとわかっていながら、だまされたふりか。幼稚 園児のお遊戯じゃないんだぞ。
作戦は効果なしと知り、水垣鉄四は脱力してその場にへたりこむ。ビビッていたのは、むしろ自分のほうだったと思い知り、溜め息ももれる。
するとそのとき、またもや上階からズドンという重く鈍い音が響いてきて、細かいチリがパラパラと舞い落ちてきた。
昨夜と異なるのは、それが立てつづけに、何度も生じたことだった。
はっとなってあわてて身を起こし、即刻退室しようとしながらも、出入り口と花貝さえずりを交互に見て、思い迷っている水垣鉄四に対し、
──よく聞きなミズガキテツシ。あと数分で、ここの天井は底抜けする。つまりもう一、二分もすれば、八〇〇〇〇冊の本の雨がおまえの頭上に降り注ぐわけ だ。そしたらおまえは首の骨を折って即死だよ。これはあたしのしわざだ。この窮地から逃れたければ、おまえがやるべきことを済ませるんだ。そうすれば、あ たしの念力は弱まり、本の雨は降ってこない。それ以外に、おまえが無事でいられる方法はない。
水垣鉄四の視線は天井に釘付けになっていた。
細かいチリはなおも舞い落ちており、粉雪が牡丹雪へと変わりつつあった。
──嘘じゃないな?
──信じられんのなら、ドアが開くかどうか自分でたしかめてみればいい。
全速力で出入り口めがけて突進し、全身で体当りした水垣鉄四は、ドアが固く閉ざされていることを確認する。
水垣鉄四は、顔中を汗で濡らしながら再度天井を見やり、つづいて花貝さえずりを睨みつける。
そして彼は覚悟を決め、叫び声をあげてもとの居場所へと駆けていった。
──そうだ。いいぞミズガキテツシ。その調子だ。
水垣鉄四は、思いきって花貝さえずりの目隠しを取り去る。
するとこちらを見つめかえしてくる、花貝さえずりの白い花模様の眼球に気勢をそがれ、思わず彼は目をそらしてしまう。
──ミズガキテツシ、いいことを教えてやろう。あたしのこの体は、本物の生体じゃない。つくりものだ。だから気に病む必要などまるでない。躊躇なくやって しまえ。
──本当だろうな?
──もちろんだ。だからあたし自身が、さっきからこうしておまえに勧めてるんじゃないか。そんなことすら教えてやらなければ気づけないのかと、またあたし はあきれているところだよ。
天井の軋みにはすでに、板が割れだす音がまざりはじめていた。
──おい早くしろ。間に合わなくなるぞ。
チリはもはや牡丹雪ですらなくなり、ちいさな木片の落下が相次いでいた。
──でもさ、あんたの目ん玉をくりぬいて、念力を弱めたからといって、本当に無事で済むのかな。むしろ逆のことになるんじゃないのか? 天井はもう崩壊寸 前だぞ。
──さあどうだろうな。しかしどっちみち、おまえのとり得る選択肢はひとつしか残されていないわけだ。だとすれば、とっととやるしかないんじゃないのか?
そのとき、だれの耳にも断末魔に聞こえるだろう、天井板の割れる音がスモーキングルームに鳴り響いた。
それを合図に、水垣鉄四はいっぺん鼻から息を大きく吐きだすと、左手で花貝さえずりの頭部を抱えこみ、彼女の左目の目尻にナイフを刺し入れた。
その直後、ギャアアアという絶叫が水垣鉄四の脳裏に轟いた。
凄まじい血しぶきが、水垣鉄四の顔面に向かって噴きだしてくる。
上半身が血だらけになりながらも、水垣鉄四は短時間のうちに、花貝さえずりの両目を取り出すことに成功した。
呼吸を整えて、ふと上を仰ぎ見ると、八〇〇〇〇冊はあろうあまたの書籍が、水垣鉄四の頭上数センチメートルのところまで落下しつつもそこでぴたりと止 まっていた。
ブドウ狩りにでも来たみたいだと、水垣鉄四は思ったが、季節はまだ春だった。
鉄錆臭のような血の臭いにむせながら、水垣鉄四は訊ねた。
──本当に大丈夫なんだろうな?
空洞になった目もとを黒い目隠しで覆い隠した花貝さえずりは、笑いまじりの穏やかな口調でこう答えた。
──まったくおまえは心配性だな。あたしが嘘をつかないってことは、充分にわかったはずだ。現に、頭の上にあった本も全部ちゃんとかたづけてやっただろ う。
花貝さえずりの言う通り、八〇〇〇〇冊はあろうあまたの書籍は今、スモーキングルームの床上に、壁際に沿うようにきれいに置き並べられてあった。
──納得したならさっさとやるんだ。これにはタイムリミットがある。グズグズしている暇はない。それになんにせよ、そうすることはおまえにとってメリット しかない。
水垣鉄四は頷き、花貝さえずりの指示にしたがい、彼女の眼球を自身の両目に接着させ、二人の視界を共有した。
──よしいいぞ。じきにつながるからおちついて待て。そろそろくるぞ。
なんべんもまばたきや眼球運動をおこなううちに、自分の視力が格段にあがったことに水垣鉄四は気づいた。
しかも単に視力が向上したばかりでなく、花貝さえずりによれば、ズーム機能や熱感知機能や暗視機能や透視機能までもが備わったとのことだった。
──凄いな。まさかこんなふうに見えるようになるとは。信じられない。
──よしリンク完了だ。ミズガキテツシ、準備はいいな?
──ああいいよ。
──それではいくぞ。われわれふたりで絶対に、角貝ササミの息の根を止めなければならない。
(『□ しかく 春』おわり )
阿部和重 最新小説『□ しかく』の続きは紙の本、もしくは電子書籍からお読み頂けます。
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