アップルは知っていた!「iBond」発行で株主が得する経済理論
新たな音楽配信方法で有名ミュージシャンとすったもんだを引き起こしたことは記憶に新しい。彼らの企業活動の中では地味に思われがちな財務(コーポレートファイナンス)においても、アップルは面白いことをしている。
アップルの社債「iBond」と株価の関係は?
アップルの発行する社債は、製品と同じく“i”をつけて「iBond」と呼ばれる。アップルが最近やっていることは、調達した資金を事業に使わずに、iBondの発行と同時に配当支払い等で株主へ利益還元するというものだ。アップルは「iPod」の爆発的ヒットにより負債を2004年に全額返済し、無借金経営となった。その後、無借金状態は続いていたが、約10年後 の2013年にiBondを発行した。以後、何度かiBondを発行し、バランスシートに負債を計上している。もちろん同時に株主還元を行っているのが各 発行に共通する点だ。
iBond発行のニュースを受けてアップル株はどう反応したのだろうか。図1のグラフは2013年4月のiBond発行のニュースリリース前後におけるアップルの株価の動きを示したものだ。
図1 アップルの社債「iBond」発表前後における株価の推移
ただし、縦軸は株価の生の値ではない。マーケットの地合いによる影響を除き、アップル固有のニュースで生じた株価の上下を一定の手法で求め、標準化した値である。横軸は日数の経過を表し、0は発表当日、+1は発表翌日、-1は発表前日を表す。
iBond発行のニュースリリース前に情報のリークがあったのだろうか、発表の2日前(-2)から株価は急激に右肩上がりになり、発表後もしばらく上昇が続いていることが分かる。アップルが株主に利益をもたらしたことが読み取れる。
さて、みなさんは、このiBond発行のニュースによって株価が上昇した要因を何だと考えるだろうか。
大学の学生たちからよく出る候補を挙げてみよう。
【候補1】 iBondは他社の発行する社債よりブランド価値があること
【候補2】 iBond発行と同時に配当が株主に支払われること
【候補3】 海外で上げた利益を配当支払いに使おうとすると、国内に持ち込む際に税金が発生する。社債発行による資金調達でこれを避けたこと
候補1は面白いが経済理論的には支持しにくい。金融商品にブランド価値を認めにくいからである。それにiBondの発行そのもので株主が恩恵を受けるとは想像しがたいだろう。
候補2はもっともらしく聞こえるが、経済理論的には支持できない。アップルの社内に留保されているキャッシュはそもそも株主の持ち分であり、それ が配当として株主の手元にやってきても、株主の富に変わりはないからだ。銀行預金を一部取り崩して現金に換えてもその人の資産構成は変わるが資産総額に変 化がないことと同じである。
また、決算期に今期の利益が高く増配されるというニュースは、来期以降の利益への期待から株価を上昇させる。この理論は正しいが、ここでの状況には当てはまらない。
候補3は面白く、またよく新聞記事でも指摘される。しかし、海外にある現金を使って配当を払うことが前もって噂されていたなら話は別だが、そうでない限り、海外から国内に送金しないことで節税したところで、株価が押し上げられるとは考えられない。
株主は損もしなければ、得もしない?
次の図は無借金経営状態の債券(iBond)発行前から、配当支払い後までのアップルのバランスシートの推移を表すものだ。
図2 無借金状態の負債発行前~配当支払い後のアップルのバランスシートの推移
まず、債券発行前は無借金経営であり、バランスシートの右側は株主資本のみで負債がない。
債券が発行されると、現金がバランスシートの左側に資産として計上される一方で、バランスシート右側には負債が計上される。図の中央に示す債務発行直後の状態だ。
そして、図の右側は、その後、調達した現金が配当として社外に出たときのもので、再びバランスシートの長さは債券発行前に戻る。これに応じてバラ ンスシートの左側は債券発行前と全く同じ状態に戻る。だが、バランスシートの右側には負債が残り、株主資本は以前よりも少なくなる。
負債発行前(左)と配当支払い後(右)のバランスを比べると、アップルは資産そのものに変更を加えず、単にバランスシート右側のみを変更したことになる。言い換えると、事業内容を全く変えずに株主資本の一部を負債に変えたに過ぎないのである。これが大事だ。
実は、経済理論的には「モジリアーニ・ミラーの無関連命題」(以下、MM無関連命題)という命題を適用することで、iBondのニュースリリース後のアップル株上昇の原因を科学的に説明できる。
やや厳密性に欠けるが、この命題を大まかに表すと「税金が存在しなければ、現在・将来の事業内容が同一の2つの企業では、負債の多寡にかかわらず、株式時価総額と負債時価総額の合計に違いが生じない」というものである。
税金がないという前提の下で、この命題をアップルの今回のケースに適用してみよう。
iBond発行前と配当支払い後の比較は、図2で示したように、事業内容は全く同じだが負債がない企業と、負債がある企業を比較しているに等しい。
したがって、命題により、株式時価総額と負債時価総額の合計はiBond発行前と配当支払い後で変わらないと言える。下の図3における左の長方形と、中央の長方形の関係だ。そして負債の時価総額つまり発行額は、配当総額と等しいので、中央と右の関係が成立する。
図3 税金がないという前提下では、株主の富は負債発行前(左)と配当支払い後(右)とで変わらない
結果として、図3で右に示している株主の富(手持ち株式の時価と受け取った配当の合計)は、同図の左に示す社債発行前の株主の富(手持ち株式の時価)と全く同じだと結論できる。つまり、社債を発行して集めた資金を配当支払いに利用する場合、税金が存在しない限り株主は得も損もしないというのが経済理論からの答えである。
アップルの意思決定には科学的根拠がある
だが、税金が存在しないという仮定は、現実の事例を分析する上では適切でない。そこで、法人税が存在する場合に拡張された「MM修正命題」が発表された。修正命題では、負債を発行する企業には法人税の「節税効果」が生まれることで、株式時価総額と負債の時価総額の合計が、負債の少ない企業よりも大きくなることが示された。
節税効果については後述するが、この修正命題を適用すると「アップルは社債発行による資金を配当支払いに利用することで、株主の富を増加させることができる」という結論が導かれる。これがニュースリリース後の株価上昇を説明する科学的根拠である。
図4 税金の存在下では、社債発行による資金を配当支払いに利用することで、株主の富を増やすことができる
iBond発行による配当支払いは科学的根拠を持つ意思決定であるといえる。私はアップルが科学的根拠に依拠して意思決定することに素晴らしさを感じる。意思決定後に株価が上昇し、株主が恩恵を受けることに自信が持てるからだ。
節税効果とは
それでは最後に「節税効果」について、簡単な数値例で補足しておきたい。今期の営業利益が10億円の企業があったとする。法人税率の実効税率が40%だとしよう。特別損失等がなく、負債のない企業なら10億円の営業利益 がそのまま課税対象となり、その40%にあたる4億円が法人税として消えてしまう。残り6億円が税引き後の利益、つまり株主にもたらされる利益だ。
一方、毎年1億円の利払いの負債がある場合、同じ10億円の営業利益に対し課税対象は利払いを控除した9億円となるから、法人税額はその4割に当たる3億6000万円となる。つまり、負債があることで4000万円の節税となる。
3億6000万円の税額を経常利益の9億円から差し引くと、株主に帰属する税引き後の利益は5億4000万円となる。つまり、株主の利益は負債がない場合と比べ、6000万円少なくなる。これが毎年続くと、株主は債券が発行される度、毎年6000万円分を失い続ける。ただし、この額が1億円を上回らないことがポイントだ。
一方で、株主には、社債の発行による調達分が配当として還元される。調達額は、毎年繰り返し生じる利払い1億円の流列と経済的に等価なので、毎年1億円の配当を受け取ることと同じと考えてよい。だから、株主が負債によって失う額が毎年1億円以内であれば、問題ないといえるのだ。
つまり、負債を発行して配当を支払うことで、株主は毎年6000万円(1億円の負債から節税効果で生じる4000万円を差し引いた額)を失うと同時に、毎年1億円を手にするに等しい効果を得ることになる。よって、「社債の発行+配当支払い」で、株主は毎年4000万円の利益を手にするに等しいことになる。
この4000万円は節税効果の4000万円に等しい。株主はちょうど法人税の節税効果分だけ得をするというわけだ。
いかがだっただろうか。MM無関連命題・修正命題というノーベル経済学賞受賞をもたらした理論を通して、iBond発行のニュースリリース直後の株価上昇に科学的根拠があることがお分かりいただけただろうか。
ニュースリリース後にアップルの株価が上昇した背景にはMM修正命題があったと言うこともできる。このような科学的根拠に基づいた意思決定だからこそiBondの発行は実行の価値があったと言えるのだ。