地震・雷・火事・おやじ…
昔から「怖いもの」の代表として、語り継がれてきた言葉です。天災や火事とおやじが同列に並ぶなんて、と思いますが、たしかにかつては、怒ると「雷が落ちた」と形容されるほど怖いおやじをあちこちで見かけたものでした。いまではそんな人には滅多にお目にかかれませんが、そのせいかどうか、最近「叱られたい」願望を持つ若い人が増えているといいます。
叱られたがる若者たち
親や家族、近所のおじさんやおばさん、学校の先生、部活のコーチ、会社の上司や先輩…かつて、人は一人前になるまでの過程で、多くの人に叱られて育ったものでした。叱り・叱られる関係は、ごく日常的な風景。それだけに、わざわざ好き好んで「叱られたい」と思う人は、あまりいなかったと言ってよいでしょう。ところがここに来て、これまでの常識をひっくり返すように、「叱られたい」願望を持つ若い人が増えているというのです。ネット上のブックストアで「叱る」「叱られる」をキーワードに検索すれば、関連本に続々とヒット。テレビ番組でも、しばしばそのテーマが取り上げられます。アイドルに怒られ続ける動画の再生回数は120万回を突破し、夜の街ではママが客を叱りつける店が大繁盛し、企業では上手な叱られ方を学ぶ研修もあるとか。中には、1時間千円を支払って"おっさんレンタル"を利用し、人生経験豊富な中年男性に叱ってもらうことで安心する人もいるようです。
不安の裏返し?
NHK が「叱られる」ことについて尋ねたアンケート(10代から30代の200人以上が回答)では、「周囲に叱ってくれる人はいますか」という質問に対して、半数を超える人が「いない」と答え、さらに、およそ4割の人が「叱られたい、叱ってくれる人がほしい」と考えていることがわかりました。
なぜ、そんなに「叱られたい」のでしょう? 同番組の街頭インタビューでは、「叱られないと成長できないと思う」「叱ってくれないと、自分のことを本当に考えてくれているのか不安になる」といった声が聞かれました。
「叱られたい」という人の多くはソーシャルネットワークでたくさんの人とつながっていて、友人にも恵まれているように見えます。でも、自分が弱気になった時や友人に叱ってほしいような時、「いいね!」という共感ばかりが返ってきて、リアルな感覚がないままに応援されても逆に不安になるのだとか。会社でもプライベートでも、自分を叱ってくれる人がいないという中で、叱ってもらうことが、自己確認のひとつの手段になっているのかもしれません。
「叱る」と「怒る」
とはいえ、ただ叱ればよいというものでもなさそうです。若者たちが求めているのは「怒り」ではなく「叱り」。では、「叱る」と「怒る」はどう違うのでしょう?
コミュニケーションや育児の世界では、「怒る」と「叱る」は使い分けられているようです。それによると、自分が腹を立てたことを相手にぶつける動作は「怒る」であり、相手に成長・改善の気づきや機会を与えるのが「叱る」。
叱り方にもコツがあるといいます。叱る関連本の中のベストセラー、『叱られる力』(阿川佐和子著/文春新書)によれば、その極意は「借りてきた猫」で、
コミュニケーションや育児の世界では、「怒る」と「叱る」は使い分けられているようです。それによると、自分が腹を立てたことを相手にぶつける動作は「怒る」であり、相手に成長・改善の気づきや機会を与えるのが「叱る」。
叱り方にもコツがあるといいます。叱る関連本の中のベストセラー、『叱られる力』(阿川佐和子著/文春新書)によれば、その極意は「借りてきた猫」で、
というもの。人を「叱る」には叱る側の覚悟も必要で、そのあたりが、ただ感情をぶつけて「怒る」との違いなのでしょう。
同書には、「社会のルールを教えようと見知らぬ若者を叱ると、"それがきっかけで事件につながるケースもあるから、どうぞやめてください"とやんわり警察に諭された」という笑い話のような実話も載っています。多少の不都合があっても、見て見ぬふりをしてやり過ごす方が生きやすいとされる現代社会。「叱られたい」若者たちは、こうした社会の空気を感じ取り、何かを訴えているのかもしれません。
「ほめる」と「叱る」
先日の新聞には、大人を対象に行った「こんな言葉でほめられたい」というアンケート調査の結果が掲載されていました。子どもに対して「ほめて伸ばす」のは、いまや子育ての常識とされていますが、ほめられれば嬉しいのは大人も同じ。「1位:頭がいい、2位:思いやりがある、3位:笑顔がいい…」と続き、ほめることによって社会に好循環が生まれると書かれています。そして、「ほめる技術の8割は観察力、2割が表現力」といった解説も。「肝心なのは、相手に関心を持ち注目していると伝えること」なのだそうです。(朝日新聞be、RANKING/2015年9月12日)
そう考えていくと、「ほめられたい」も、「叱られたい」も、おそらく、その根っこは同じなのではないでしょうか。「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉もありますが、人間関係の希薄になったこの社会で、深く人と関わり合い実感のある人間関係を持ちたいという気持ちが、「ほめられたい」「叱られたい」願望となっているような気もします。
つながっている人の数は多くなったのに、逆に個々の関係性は希薄になっているネットワーク社会。そんな現代社会の中で、私たちは実感のもてる人間関係をどう築いていけばよいのでしょう?
「叱る」ことが目的ではなく、叱ってあげられるほど相手を注視し、相手のことを思った上で叱ることができるか━━大人に問われているのは、そんな覚悟なのかもしれません。