金曜日, 8月 10, 2018

外見が良くて得なのは女より男…?

 

女性の容姿への「残酷な心理実験」の結果が示す社会のひずみ

 

外見が良くて得なのは女より男…?

 



女性は世界の人口の約50%を占め、世界の総労働時間の3分の2近く働いているが、手にするのは世界総収入のわずか10分の1であり、世界の総資産の1%以下しか所有していない、という。ハンフリー公共問題研究所の報告である。

とはいえ、「女の魅力」があることで美しい女性はより得をしている、と考える人も多いかもしれない。「美人はそうでない人よりも生涯年収が何千万も高い」と見積もった人もいる。

実際のところはどうなのだろうか?

性的魅力を持っていることと仕事上の評価や成功との関係は、そうクリアカットには決まらない。複数の研究が、「女性では容姿の良さがマイナスに働き、美人は平均的な女性よりも損をしてしまうことがある」としている。

外見が良いことで性的類型化が起こりやすくなる。このことは男性では有利に働く。
外見の良い男性では性的類型化が起これば「男性的」に見られる、すなわち、力強く、職務遂行能力が高く、決断力がある、などとみなされるので、仕事上の評価には外見の良さが有利に働く。

一方、女性はそうではない。「女性的」であることは少なからず消極的であり、堂々としておらず、意欲や決断力にかけ、セクシーすぎる、と偏見を持たれてしまう。あるいは、そうであるべきだと暗黙の圧力が、異性からばかりでなく同性からも加えられる。

そのステレオタイプに当てはまらない、容姿に優れた女性がいたとすると、周りから「性格が悪い」だの「結婚しない」だの「子どもをつくらない」だのと攻撃され、いつの間にかステレオタイプ的にふるまうように社会が彼女を「洗脳」していくのだ。




「美人はほかの人よりも、人間ではなく記号やモノとして扱われる傾向が強くなってしまう。すると、人間ならば保持しているはずの能力に劣ると思われてしまうために、部下や一兵卒としては良くても、管理職やビジネスパートナーとしては適任であるとみなされにくくなってしまう」
とする調査結果がある。

1979年にコロンビア大学ビジネススクールのヘイルマンとサルワタリが行った調査がそれだ。外見の良さは女性が高給の事務職で雇用される場合には有利に働くが、管理職として雇用される場合には不利になる、と報告されている。

またこれに続く研究では、「美しい女性はコミュニケーション能力が必要とされる職種では高く評価されるが、それ以外の場、例えば決断力を必要とし、強いプレッシャーが掛かっている中、高い指導力を発揮して難局を切り抜けていくといった場面では低評価となる」ということが明らかになった。

ヘイルマンとサルワタリは、「残念ながら、女性が組織のコアメンバーとして出世していくためには、できるだけ自分を『女性としての魅力に乏しく』『男性的に』見せかける必要がある」と述べている。無論、自分の女らしさを捨てることが組織で出世していくための必要条件になるなど、あってはならないことなのだが、という補足つきではあったが、実際には彼らの研究から40年近く経過した今でも、状況はほとんど変わっていないのではないか。




女に「自分よりも下であってほしい」と望む男たち


医学部の女子学生が、自分と同等以上の収入を男性に望むという結果が示された同じ研究で、男子学生の実に6割が、配偶者には自分より収入の低い相手を望み、4割が自分よりも職業的地位の低い相手を望んだ。


人類学者のフィッシャーは、女性が経済的自立を達成すると離婚率が高まる、と指摘している。この傾向は資本主義社会の先進国であっても部族的社会でも変わらず、貧しい国であろうが豊かな国であろうが同じだったと述べている。

一方で、地位が高く高収入を得ている男性は、地位が低く収入も低い男性よりも結婚する確率が高い。既婚者の場合は、男性の収入が過去の収入や同僚の収入よりも減ってしまうと、別居や離婚の可能性が高くなる。

人類学者のフレイザーは、古い歴史を持つ48の文化で男女別に別居や離婚について調査した。関係が壊れた原因の最上位に挙げられたのは「性格の不一致」であったが、女性のみが挙げたもうひとつの最大の原因は、男性が経済的、家庭的責任を果たさなかったこと。男性のみが挙げた原因の最大のものは妻の不妊である(医学的には男性側に原因の約4割があるのだが)。

ドイツの哲学者カントですら、女性が学問的に成功したところで、彼女は冷ややかな尊敬こそ手にすれ、異性に対して絶大な力をふるう魅力は失う、などと述べている。18世紀の話ではあるが、思索を生業とする人にしてはおそろしくプリミティブな感想であると、現代の人であれば感じられてしまうのではないだろうか。




もうひとつの「衝撃の研究結果」



男性の脳は、女性が肌を露出すればするほど、相手を人間とは思わなくなるという衝撃的な研究結果が明らかになっている。





プリンストン大学の有名な研究では、男性にビキニ姿の女性の写真を見せて脳をスキャンすると、男性の脳では、共感性の領域と呼ばれる部位の活動が低くなり、いわば人間ではなくモノを見ているのと同じ状態になったことがわかった。

共感性の領域の活動が起こっていないということは、対象となる人物の気持ちがわからないか、または気遣いをするという発想さえ起こっていないということを示唆すると考えてよい。

セクハラをする男性たちの言い分を思い返してみれば、なるほどとうなずけるだろう。相手がどんなに嫌がっていても、触られて喜んでいた、相手は受け入れた、合意のうえでの行為だ、などなど、対象を気遣い、尊重しようという意思は微塵も見られない発言がいつもいつもくり返される。





バストに関する実験結果


また、胸の大きさが職能の評価に与える影響は看過できない。女性の胸のサイズと社会的評価についての調査はいくつもあり、ゲゲンが2007年に発表したヒッチハイクの成功率に関する研究がよく知られているだろう。

学生の中から容姿は平均的であり、バストの小さな女性を選んでヒッチハイカー役になってもらい、最初は彼女が普段つけているAカップのブラジャーを着用してヒッチハイクをしてもらう。次に、Bカップ、Cカップと大きさを増していくと成功率はどう変わるか、という実験である。女子学生にはノーメイクで、ジーンズとスニーカー、胸を少し強調したTシャツを身に着けてもらっていた。




すると結果は、およそ700人の男性ドライバーのうち、Aカップのブラを身に着けたときは14.92%が車を止め、Bカップでは17.79%、Cカップでは24.00%と成功率が格段に上がったのだ。ちなみに女性ドライバーでは胸の大きさと成功率には有意な関係はなく、いずれも10%以下の成功率となった。

男性では、胸の大きさが女性に対する親切行動の誘因になっていることがこの実験から示唆されたというわけである。

それでは、胸の大きな女性は男性から助けてもらえるから多くの場面で有利、と言えるのだろうか。

男性から見れば大きな胸は魅力を決定する重要な因子として機能していることは間違いなさそうだが、一方で、胸が大きいほど「頭が悪そうだ」という印象が形成されてしまうこともまた示されている。




1980年に発表されたクラインケとスタニスキーによる調査がこの問題に関する初めての報告である。

女性の簡単なプロフィールと写真を被験者に見せ、その印象について答えてもらう。プロフィールはほとんど同じだが、バストサイズに関する記述だけが違う3種類(バストが小さい、中くらい、大きい)の用紙が用意されている。写真でもバストサイズが異なっている。



すると被験者たちの反応として、バストサイズが大きい女性に対してだけ、知的・潜在的能力を低く評価するという現象が見られたのである。つまり、知性・品性・モラルに欠け、教養のない女性だとみなされたということになる。テストをしたわけでも話をしたわけでもなく、たった1枚のプロフィールと写真から、胸の大きさが違うだけでそう判断されたのだ。

同様の実験が2002年にも報告されている。
女性が6分間講演をしているビデオを大学生の被験者に見せる。女性は中肉中背でセーターを着用している。バストサイズだけが異なり、A、B、C、Dカップの4種類の動画が用意されている。バストサイズは特に強調される服装ではなく、言語によって明示的に示されているわけでもない。課題は、この動画を見て、その人物の知的な側面について評価をしてもらうというものである。

 


女性被験者はそうではなかったが、男性の被験者は、バストサイズによって大きく異なった反応を示した。AからCカップまでは評価が明らかに高くなっていったが、Dカップでは大きくその評価が下がったのである。

それでは、実際のところどうなのか、というと、外見と知能の間にはr=0.126という弱い正の相関が見られるというのが現在の知見である。つまりまったく関係がないとも言いきれないのだ。





日本社会の大きなひずみ

今年は大相撲の問題に始まり、現在に至るまで次々とスポーツ界をめぐる問題が表面化してきている。これはスポーツ界の問題にとどまらず、日本の社会が個人、特に若者をどう扱い、どう見ているのかが、群発的に浮き彫りになってきているということだろうと思う。




昭和的、などと揶揄されることも多いと思うが、上意下達の組織では上の命令は絶対であり、言葉として明示されない意思を忖度する能力の高さが求められ、そこには「空気を読んで」行動することが良しとされる価値基準が存在する。

こうした能力は学校などの場では、正課教育としては行われず、成績への評価もほぼなされない。しかし、これらを旧来日本の多くの企業、そして日本社会そのものが高く評価してきたという厳然たる事実があるのではないか。

歴史のある大手企業ばかりでなく、新興のIT系企業ですら、“体育会系男子の人材”を必要としているフシがある。彼らは非常に“使い勝手”が良い。こうした組織の中では、輪を乱さぬよう自分を適度にアピールし、評価を高めていくスキルは極めて重要なものであり、学歴や本来の職能以上に重視される。

だからこそ、女性医師を目指す受験生は、いかに点数がよくとも排除される。医師ばかりではなく、働く女性も排除されるという構造がある。今もなお、そうした構造は根深く残っているのではないか。

読めないタイミングで結婚し、出産し、育児をする女性は実に“使い勝手”が悪いと評価される。くり返しになるが、東京医大の問題は東京医大だけの問題ではなく、日本社会に存在する大きなひずみが端的に表れただけだと言えるだろう。





「モノ扱い」「歯車扱い」されないために

集団あるいは組織との向き合い方、つき合い方というのは現代の日本においてはいちばん気を遣うところ、注意を要するところである。男はそんな構造の中で生き残ろうと必死に、優秀な駒となって働こうとすればするほど都合よくモノ扱いされ、文字どおり命をすり減らしていく。組織、そして組織の上層部を守るためにかえって社会的生命を早いうちから断たれてしまう人もいる。




ひとりでいることよりも、集団にいることが最もリスクになり得る社会、という、歴史上珍しい社会に私たちは生きているとも言える。

長い人類の歴史において、集団であることは自らを守り、また子孫を残すうえでも必須の生存戦略であった。集団から排除されることは死を意味するような大きな危機になり得た。死とまではいかずとも、子孫を残すことができる確率は大幅に減っただろう。つまり、人類として生を享けたからには、集団の中にいる力としての社会性を持つことが非常に重要ということになる。

駒となる人材を積極的に登用し、教育してきたという歴史が長らくある日本では、女性への見えない圧力が働く。女性があからさまな排除の視線を受け、働きづらいと感じるのも、「仕方ない」と自ら可能性を閉じてしまわざるを得ないのも当然だ。

「国や会社やさまざまな組織を構成する駒のひとつにすぎないのに、子どもを産まないとはなにごとか。とはいえ出産や結婚、個人の理由で、会社の歯車であることを放棄されては困る」などなど。

「よき歯車をつくる」というのがこれまでの日本の社会の教育であった。今もなお、多くの人の思考の中には、まだまだそういう悪しき風潮は“ごく自然な正当なもの“として残っている。

歯車である部分と個人である部分をうまく折り合いをつけながら、それを抱えて生きていくのが人生だ、と割り切るのもひとつの方法ではある。

また最初からもう歯車であることは放棄して、自分は自分というシステムとしてやっていくんだという挑戦的な戦略を取るのもまた一手である。

どう自分の生き方をデザインしていくのか。モノ扱いされないためには何ができるのか。私たちひとりひとりが試される時代に入ってきている。













http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56931