火曜日, 6月 04, 2013

空白を満たしなさい 平野啓一郎|cakes 

 

 

 

 

 

 

第一章 生き返った男 1《Save Me》

 

お前は戦わなければならない、
ここから。
パウル・ツェラン
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第一章 生き返った男
1 《Save Me》

 病院の受付で、空白だらけの問診票を提出しながら、徹生は、「電話で先生に、事情は説明してありますので。」と言い添えた。
 看護師は、「土屋徹生つちやてつお」とい う氏名を確認すると、改めて彼の顔を一瞥した。そして、「そちらのソファに掛けてお待ちください。」と言った。あ らかじめ、医師から話を聞いている様子だった。
 言われた通りに黒いソファに腰を下ろしながら、彼は、『—大丈夫、きっと助けてもらえる。』と、不 安を押し殺すように自分に言い聞かせた。
 それから、名前を呼ばれるまでの間、彼は広い待合室で、自分が一歳半の時に急逝した父親のことを考えていた。
 彼の父、土屋たもつが死んだのは、三十 六歳の時だった。彼はそのために、昔からこの三十六歳という年齢を、自分の未来を照らす暗い星のように仰ぎ見ていた。
 いつかは自分も、その歳を迎えることになる。それがまさしく、今年だということに、彼は先ほど、問診票の年齢欄を前にして初めて気がつき、愕然としてい た。
 今この隣に、死んだ時の父が並んで座っていたならば、その父は、自分と同い年なのだった。
 彼は、鏡を振り返るように、ゆっくりと、誰もいない傍らに目をやった。
 父の存在が、突然、肌身に近く感じられた。写真で見知っている姿が、曖昧に脳裡に浮かぶのではなく、一瞬、肩同士が触れ合い、押し合うような、重たく生 温かい感触があった。
 そんなふうに父の存在を意識したことは、これまで一度もなかった。
 どんな言葉を交わすのだろう? 普通に同い年の男と話すように喋って、会話は弾むのだろうか?……

 徹生は、幽霊や死後の世界といったものを一切信じない人間だった。彼はそのことで、中学生の時には、級友と殴り合いのケンカまでしたことがある。
 中学三年の時のクラスには、昼休みになると、いつも教室の片隅に集まって〝こっくりさん〟に興じる、妙なオカルト好きの生徒らがいた。その場所が丁度、 徹生の席のすぐ後ろだった。彼はしばらく、それを無視していた。が、ある日到頭、我慢ならなくなって、唐突に机を叩いて振り返ると、彼らに向かって、お前 たちのやってることはみんなインチキだと、真剣そのものの表情で言った。
 十円玉が、聞き返すように、「は」という文字の上で止まった。参加者たちは頰を引き攣らせて、口々に、それは霊感の鈍いヤツの僻みだとか、科学にもまだ 証明できないことがあるといった、お決まりの反論をした。徹生は、押し返すように声に力を込めて言った。
「いいか? 俺の親父は、俺が一歳の時に死んどる。けど、俺は親父の幽霊なんか、いっぺんも見たことないぞ! もしあの世だとか、幽霊だとかが存在するな ら、親父は絶対に、この俺の前に出て来とる。母親に会いに来とるわ! けど、いっぺんだって、俺は親父の幽霊なんか見たことないぞ! 天国とか幽霊とか、 そんなもんみんな、戯言だ。あってたまるか!」
 徹生の言葉に、そもそもこっくりさんを教室に持ち込んだ、青白いオカルト・マニアの級友は、それはオマエの父親の家族に対する思いが薄かったからだと理 屈をつけた。
 徹生が思わず手を出してしまったのは、その瞬間だった。
 徹生は決して、ケンカっ早い男ではなかった。人を本気で殴ったのは、後にも先にもその一度きりで、スッとするどころか、心底嫌な気分だった。すぐに後悔 したし、思い返す度に、いつも歯を食い縛って、その光景が頭の中から消えるのを待たなければならなかった。
 子供の頃は、彼も人並みに、オバケを恐がっていたはずだった。しかし、死んだ父親が出て来ると思ったことは一度もなかった。
 母の恵子は、「おとうさん、しんでどこにいったん?」と訊かれると、空の上だとか、お墓の中だとか、或いは、遺された人の心の内だとか、色々なことを 言った。徹生はその度に、なんとなくうれしくなって納得したが、天国だとか来世だとかの話を耳にするようになると、父親はきっと、そういう世界にいるのだ ろうと考えるようになった。
 彼は毎日、布団に入ると、「おとうさん、おやすみなさい。」と、誰にも聞こえないように小声で言ってから目を瞑った。しかし、父からは何の音沙汰もな かった。
 ある時彼は、試しに、考えつく限りの悪口を言って、しばらく反応を待ってみた。
 もしその翌日に、例えば道を歩いていて、小さな石ころにでも躓いていたならば、彼はそれを一つの〝しるし〟として、一生信じ続けたに違いない。しかし、 そんなこともないままに月日を経るうちに、いつとも知れず、父への就寝の挨拶も止めてしまった。それがつまりは、彼の結論だった。
 徹生は、死んだ父が、遺された母と自分のことをどんなに深く思っていたか、それを知っていたからこそ相手を殴った、というのではなかった。そうではな く、知ろうにも知りようがなく、ただ信じているしかないことを否定されて、カッとなったのだった。
 殴ったのは相手の顔だったが、本当は、言葉そのものを殴りつけたかった。
 以後、徹生は金輪際、人と死についての話はしないと心に決めていた。そういう話題になっても、聴かないフリをしてやり過ごしたが、考えそのものは変わら なかった。
 死後の世界は存在しない。幽霊も存在しない。人間は死ねば終わりで、あとには骨しか残らない。それは、よく角が取れた川原の小石のように固い彼の信念 だった。

 四年前に、徹生は図らずも、もう一度だけ、死後の世界について、人と語り合う機会を持った。
 高校時代の同級生で、互いの結婚式にも出席し合った友人の妻が、全身にガンが転移して、余命宣告をされた時だった。彼女はその時、まだ二十八歳だった。
 見舞いに行った病室には、生きるために必要な一切を乱暴に搾り取られてしまったかのような、瘦せ細った彼女の姿があった。
 友人の話では、余命は四ヵ月で、残すところあと一月ほどしかなかったが、彼女はそもそもの余命を、実際より三ヵ月長く医師に告げられていた。そういう配 慮が患者のためになるのかどうか、彼にはよくわからなかった。
 辛うじて起き上がって、ベッドの背に凭れていた彼女は、徹生に向かって言った。
「ねえ、てっちゃん、……人間って死んだらどうなるの? 死後の世界ってあると思う?」
 徹生は、彼女の表情を見つめた。その一瞬の、ほんの微かな笑顔のために、彼女に残された本当に貴重な命が、音を立てて燃えてゆくのを感じた。
「てっちゃんのお父さんも、早くに亡くなってるでしょう? 天国から見守ってもらってるとか、……そういうの、感じたことある?」
 徹生は、彼女から目を逸らさないまま、
「うん、あるよ、やっぱり。いつも空の上から見守られてる感じがしてた。」と言った。
「本当? 天国なの、それは?」
「天国なのか、何なのかはわからないけど、そういう世界だよ、きっと。」
「そっかぁ。この人と違って、てっちゃんは、本当のことしか言わないから、わたし、信頼してるの。天国に行ったら、この人に内緒で、てっちゃんにだけこっ そり信号送るね。」
「ヤキモチ焼かれて大変だよ。」
「いいの、いいの。いつもわたしがヤキモチ焼かされてたから。子供には、わかるのかな? それだけが心配。あの子、小さいから、まだ。」
「わかるよ、きっと。純粋だから、子供の方が。」
 病院から帰る時、徹生は、玄関まで見送りに来てくれた友人に、泣いて感謝された。彼が涙を流すのを見たのは、結婚披露宴の最後の挨拶の時と、この時と、 そして、丁度一月後の葬式の時の三度だけだった。
 徹生は、あの時の噓のことを後悔していなかった。
 目の前で、懸命に死の恐怖に耐えようとしている一人の人間が、ただ天国を信じることだけを心の支えとしている。そんな時に、どうしてそれを「戯言」など と言えるだろうか?
 それでも、「てっちゃんは、本当のことしか言わない」という彼女の言葉は、彼の中に重たく残った。
 そしてやはり、彼の本心は変わらなかった。
 父だけではなかった。現に彼女も、死後、彼に「信号」を送ってくれたことは、まだ一度もなかった。そして、それを待ち続けようという気持ちに、彼はどう してもなれなかった。
「……いいえ! あの人にはもう、梅干しはあげません。去年、せっかく分けてやったのに、あとで道で会っても、知らんぷりで、挨拶一つしないんですか ら。……」
 平日の午後の待合室は閑散としていたが、一つ前に診察室に入った老婆が、ここ最近の生活を残らずすべて医師に語って聞かせていたので、徹生の名前はなか なか呼ばれなかった。医師は、少し面倒臭そうにその長話につきあっていたが、中断しないのは、自分に会うのを先延ばしにするためではないだろうかと訝られ た。
 老婆の話から耳を遠ざけると、彼は、向かいのソファに置かれたスポーツ新聞に手を伸ばしかけた。そして、その広告欄の週刊誌の見出しに、息を呑んだ。
〈奇跡!? 死んだ人間が生き返った! 全国各地で続々と!
 驚天動地の衝撃レポート 第一弾!!〉
 落ちつきかけていた不安が、また昂じてきた。耳まで火照って、背中の一面から汗が吹き出した。
 今ここで、自分が身を置いているこの平穏。孤独な老婆が、かかりつけの医師に、近所の主婦の礼儀知らずを、憤懣ふ んまんやる方ない調子で訴えている、この静かな日常。やがてここにも、こんな世間の喧騒が、押し寄せて来る のだろうか? 自分は、好奇心いっぱいの見知らぬ人間にいきなり腕を引っつかま れて、こんなふうに尋ねられるのだろうか?
「ねえ、今どんな気持ちですか?」
 徹生は、その顔の見えない相手に対して、反射的に拳を握り締めた。昼休みの教室で、あの同級生を殴った時と同じように。気分を鎮めようと深呼吸をして、 彼はポケットからiPodを取り出した。再生されたのはクイーンの《Save Me》だった。

 フレディ・マーキュリーの歌声。目を閉じると、彼の脳裡には、あの日、病室で友人の妻の顔に認めた、命がチリチリと音を立てて燃えてゆく様が蘇ってき た。
 大音量のコーラスで、「Save me!......Save me!......」と繰り返され、三度目にそれが叫ばれた時、彼は腹にグッと固い物を押し込まれたかのように目頭に涙を溜めた。
 自分の中の一切が、崩れ出しかけていた。その最初の取り返しのつかない振動のように、目頭が痙攣し続けている。肩で必死に堪えると、彼は、毟り取るよう にイヤフォンを外して、二回激しく咳き込んだ。そして、目を拭って、もう一度、拳を額に強く押し当てた。その一点に意識を繫ぎ止めようとした。
『……俺はこんな人間じゃない。こんなにうろたえて、……何も悪いことなんかしてないだろ? 恥じることなく、ただ、堂々としてればいいんだ。……』
 落ちつくまで、しばらく待合室の窓から青空を見ていた。あまりに澄んでいて、むしろ見られているのは、こちらであるかのようだった。そしてまた、気がつ けば死んだ父親のことを考えていた。
 彼の父、土屋保は、病院とはまったく無縁の、健康を絵に描いたような男だった。
 子供の頃から柔道をしていたので、がたいが良く、勤め先の町工場では、よく昼休みに工員仲間にせがまれて、ラムネの栓を指で押し込んで開ける特技を披露 したりしていた。
 勤労感謝の日の祝日、保は、昼食に妻の作ったうどんを食べて、畳に寝転がっているうちに、そのまま心臓が止まって死んでいた。
 妻の恵子は、台所で皿を洗っていたが、異変に気がついたのは、水を止めた時に、これまで一度も耳にしたことがないような、夫のいびきを聞いたからだっ た。
 不審に思って見に行くと、保は仰向けで動かなくなっていた。居眠りでないとすぐにわかったのは、額が上の方から、刻々と真紫に染まってゆきつつあったか らだった。
 大慌てで救急車を呼び、保は病院に搬送されたが、そのまま到頭、一度も息を吹き返さなかった。死亡診断書には、ただ素っ気なく「心停止」とだけ記されて いた。所謂ぽっくり病だった。
 父の心臓が止まった時、一歳半だった徹生は、その周りを、よちよち歩き回っていた。彼は母から、何度となく、その時の話を聞かされていたが、どうがん ばってみても、頭の中には何一つとして浮かんで来なかった。
 徹生の中には、いつも、まっさらな昼下がりの光があった。ほんの些細なことでもいい。何か少しでも父について覚えていることはないかと、彼はよく、その 何もない光に目を凝らした。その空白の奥には、居間があり、畳があり、ちゃぶ台があって、満腹で昼寝をする三十六歳の男が一人、自分の身に起きたことが、 何かさえもわからないまま横たわっている。
 徹生はその瞬間を、いつも追うように、また待つように求めていたが、得られるものと言えば、どこからともなく染み出してきた、想像された死の光景ばかり だった。
 台所で洗い物をする音。窓から差し込む十一月の陽射し。呼吸を止めた肺から抜ける空気の音。不吉な紫色に染まってゆく額。何もかもが、あまりに母の言葉 通りで、決してそれ以上でも、それ以下でもなかった。その紫色が、どんな色だったのか、そのいびきが、どんな響きだったのか、幾ら想像してみても、彼には わからなかった。
 そうして、彼の記憶以前のまっさらな場所には、自分で拵え上げたニセモノの父の死体が、そこかしこに打ち捨てられて、虚しく転がっている。
 徹生にとって、父とはそんなふうに、ただ、母から聞かされた話だけが頼りの存在だった。
 生きている人間は、日々活動して新しい。変化し、豊富になる。昨日とは違うことを感じて、考え、行動する。それが今日、生きているということである。
 しかし、死んだ人間は、ささやかな幾つかの逸話の主人公として、何度でも同じ行為を繰り返すしかなかった。
 父の話で一番印象に残っているのは、徹生の産まれた年のことで、筆無精で、普段は十枚も書かなかった年賀状を、この時ばかりは五十枚も買ってきて、「男 児誕生!」と、知っている限りの人に書き送ったのだという。それは結果的に、父がこの世で書いた最後の年賀状となった。
 徹生はそれで、自分の誕生が、父を喜ばせた、ということだけは知っている。父の質朴な人柄を想像している。それが、直接の記憶はない父に対する、彼の愛 情の拠り所となっている。
 徹生にとって父とは、そうして、想起される度に、三十六年前の「男児誕生!」を喜んで、今もせっせと年賀状を書き続けている人間だった。たとえ、今の徹 生の身に何が起ころうとも、父はそれを知ることも出来ないまま、一人息子の誕生に、ただ頰を緩めているだけの存在である。
 そういう父を、徹生は儚く感じた。
 父という人間に、何かこれだけは疑う余地のない〝生きた証〟と呼べるものがあるとするならば、それは結局、徹生自身だった。
 子供の頃から、徹生と会う父の昔馴染みたちは、皆が口を揃えて、似ている、と言った。
 濃い両眉が、翼を広げてまっすぐ前に飛んでくる、一羽の鷹のようなかたちをしている。工場の誰かが言い出したことらしいが、それが生き写しだと笑った。 どんなに柔和な表情を浮かべていても、常に一所を見据えているような強い印象があった、と。そして、保のことは、みんなが「やさしかった」と懐かしがっ た。徹生自身が人からそう言われる時には、その父の評判を思い出した。
 自分のついに知ることのなかった父の存在が、他でもなく、自分自身の中に紛れ込んでいる。徹生は、そのことを、窓にうっすらと映った影を見つめながら考 えた。
『俺にとっては、息子の璃久りくこそが、 〝生きた証〟だったんだろうか? そして、その家族との絆さえ、今は断たれようとしている。……』

「土屋さん、土屋徹生さん。」
 受付の看護師に呼ばれて、徹生は鞄とジャケットを手に取り、立ち上がった。
 診察室から出てきた老婆は、思いつめた面持ちの若い彼と擦れ違うと、どこか疚しそうな素振りで、そそくさと脇を通り抜けていった。
「どうぞ、そちらに。」
 中には院長だけがいて、四角い銀縁眼鏡の奥から、徹生を注視していた。
 一礼して椅子に腰掛けると、院長は、「私が、寺田です。」と、診察らしくなく最初に名乗った。徹生は、仕事のクセで咄嗟に名刺を取り出しかけたが、思い 直して同じように名前だけを言った。
 色白で、鼻っ柱が磨いたように光っている寺田の顔は、どことなく、ラベルの貼られた、透明の薬瓶を思わせた。丸い椅子が軋む音がした。
「電話でもお話ししましたが、確かに三年前に、私は〝土屋徹生さん〟という方の遺体の検視をしています。ビルからの転落死でした。」
「僕が、その土屋徹生なんです。間違いありません。」
 徹生は、きっぱりと言い切った。寺田は、神経質そうな瞬きをした。
「どうしてそう言えるんです?」
「え?」
「証明できますか?」
 徹生は、険のあるその尋ね方に、
「証明って、……僕は僕ですよ、そんなの。」と眉を顰めた。
 寺田は、首を傾げた。そして、初めて徹生から目を逸らすと、ズボンについた白い糸くずを見つけて手で払おうとした。それが何度やっても取れないので、最 後は指で摘んで、床ではなく、足許のゴミ箱に捨てた。その一連の動作に、徹生は妙な息苦しさを感じた。
「あなたは三年前に死んでる。─で、数日前に生き返ったと言うんですね?」
 寺田は、顔を上げて改めて確認した。
「そう言っていいのか、僕にも正直、わからないんです。混乱してて、……だからここに来たんです。僕はもちろん、生きてます! この通り、……」
 寺田は徹生を凝視していた。そして、小さく嘆息すると、
「とにかく、もう一度、整理して話してもらえますか? 最初から、つまり、どういうことなのかを。」と言った。
 徹生は、寺田の顔を正面に見据えた。そして、仕切り直すように「ええ、」と言うと、記憶に意識を集中させた。
 あの夜の闇と静寂が次第に深まってゆく。一呼吸置いてから、彼はゆっくりと口を開いた。

 

第一章 生き返った男 2 傷痕

 

2 傷痕

「……落ちる!」
 真っ暗闇の中で恐怖に駆られた瞬間、徹生は、パイプ椅子の上で、前に傾いた体を跳ね上がらせた。
 あの日、彼が目を醒ましたのは、会社の5階の狭い会議室だった。
 水の泡が弾けるように、パッと瞼が開いて、曖昧に霞んだ視界に光が灯った。
 最初に目に入ったのは、自分の両手足だった。グレーのズボンを摑んで、拳が二つとも握り締められている。
 心臓が、肋骨の檻にぶつかりながら、出してくれ!と、叫んでいるかのように暴れていた。
 顔を上げた先のホワイト・ボードには、「新しさと懐かしさ」という製品コンセプトらしい言葉が走り書きされている。下線を引いて、トンと最後に点を打つ のは、部長のクセだった。
『……寝てたのか。……いつから?』
 腕時計に目を凝らすと、なぜかガラスに罅が入っていて、針は3時14分で止まっている。どこでぶつけて壊したんだろう? ブラインドの上がった窓には、 室内にぽつんと一人残された彼の姿が映っていた。壁の時計は、10時を回っている。朝ではなく、夜だった。
 しばらく考えてから、徹生は、頭を強く振った。何も思い出せなかった。額に手を当てて、何の会議だったんだろうと首を傾げて、「……アレ?」と、笑みを 強張らせた。
 幾ら考えても、記憶は、今し方の目醒めの直前までしか遡れなかった。
 うたた寝の最後に訪れる、あの真っ逆さまに、奈落の底に落ちていくような恐怖感。
 立ち上がると、頭の奥の方で、何かがぶっと破裂したように痛みが広がった。顔が歪んだ。眩暈がして、目の前が、真っ暗なのか、真っ白なのか、見分けがつ かないようにちかちかした。辛うじてかたちを留めていた記憶が、この時に崩れて、混ってしまったような気がする。
 死因は、会社のビルからの転落だった。それを知って以来、徹生は、あの「……落ちる!」という意識のことが、ずっと気になっていた。
 自分はあれを、いつ感じたのだろう? 何の疑いもなく、目を醒ます直前だと思っていた。しかし本当は、それよりもっと前だったのではあるまいか? 生き 返る前の、むしろ死ぬ寸前の転落の最中だったのでは?……
 徹生は、診察室で白衣の寺田と向かい合いながら、この会議室でのことをかなり詳細に語った。尋ねられたから、というだけでなく、寺田もきっと、この目醒 め方に興味を示すだろうと信じ込んでいた。医師ならではの視点で、彼は、素人の自分が思いもかけなかったことを、指摘してくれるに違いなかった。
「……目が醒める直前は、真っ暗だったんです。けど、そのすぐ外側は、何かが眩しくちらついていて。多分、現実の光だと思うんですけど、……」
 徹生は、沈黙に背中を押されて話し続けたが、そこまで辿り着くと、忽然と行く手を失ってしまった。寺田は、明らかに関心のない様子で、相槌を打つことさ えしなくなった。そして、もう結構というふうに、三色ボールペンを机の上でトン、トンと突いてから、
「要するに、うとうとしてて目が醒めたら、生き返ってた、という話なんでしょう?」と言った。
「え、……ああ、そうです。」
 口籠もる徹生に対して、寺田は、
「人間は、生き返ったりしませんよ。」と、冷淡に言った。「それは、あなたも理解できますよね?」
「それは、だから、……」
「いや、だからじゃなくて、わかりますよね?」
 徹生は、その言い方に腹が立った。
「じゃあ、この僕は何なんですか? 土屋徹生の遺体は、先生が検視したんでしょう? 僕はその土屋徹生なんですよ! 『わかりますよね?』じゃなく て、……じゃあ、僕が今、ここにこうしているのは何なんですか? それを教えてもらいに来てるんじゃないですか。」
 続けて更に何かを言おうとしたが、言葉にならず、もどかしく腕を動かすことしか出来なかった。
 寺田の目は、異様なものを前にしたように、眼鏡の奥で微動した。
「あのねえ、いいですか? 私は、この内科の病院の二代目の院長なんですよ。その上で、もう十五年も、検案医として、警察の変死体の検視に協力してるんで す。まったくの善意ですよ。」
 それでわかるだろうと、寺田は傲然と口を噤んだが、徹生には何が言いたいのか理解できなかった。寺田は、反応の鈍さに苛立った。
「あなたはここにいて、私に向かって喋ってる。つまり、あなたは生きてるんですよ。私も否定しませんよ、それは。だとしたら、考えられることは一つしかな い。三年前に私が検視した遺体は、あなたじゃなかったということです。違いますか?」
「じゃ、誰なんです?」
「土屋徹生さんですよ。」
「だから、土屋徹生はこの僕なんですよ! 第一、顔は、……覚えてないんですか?」
「だから! 今言ったでしょう! 十五年もやってるんですよ、私は!」
 三色ボールペンを乱暴に机に放り出すと、寺田は徹生を睨みつけた。そして、口を開こうとするのを制して、
「いや、待って! あなた、変死体を見たことがありますか? 変死体!」と、広げたままの右の掌を突き出した。
「いえ、ないですけど、……」
「ないでしょう? 全然違いますよ、生きてる人間の顔と。」
「違うから、……何なんです? その遺体の顔が、この顔だったかどうか、わからないってことですか?」
「違う!」と、寺田は、舌打ちした。「人の話を聴きなさい、あなた! いいですか、私は、ですけどね、覚えてますよ、その遺体の顔を。十五年もやってるん ですから! 似てます、確かに。けど、同じじゃない。当然ですね? あっちは死んでて、あなたは生きてるんだから! 整形なのか、他人の空似なのか、何な のか、私は知らないけど。っていうか、あなたの魂胆は、そもそも何なの? それを言いなさい。」
「魂胆?」
 徹生は、困惑して聞き返した。
「あなたみたいに、自分は死んで生き返っただとか言ってる人間が、全国に他にもいることは、ニュースで見て知ってますよ。ハッキリ言いますがね、非常に不 愉快ですね、私は。人をからかって、面白がってるんですか?」
 徹生は、興奮の熱で脈絡が溶けてしまったような寺田の言葉から、初めて彼の動揺を察した。単に胡散臭いというだけではなく、自分は恐がられている。そう した忖度が、一瞬、差し水のように、徹生自身の苛立ちを鎮めた。そして、自らの無害さを証す必要を感じた。
「魂胆なんてないです。ただ、知りたいだけなんです。他の人のことはわかりません。とにかく僕は、会社で目を醒まして帰宅したら、妻に、あなたは三年前に 死んでると言われたんです! 先生、自分の身に置き換えて、想像してみてください。……最初は、妻がおかしくなったんだと心配しました。それから新聞の日 付を見て、手紙の消印を見て、雑誌をひっくり返したり、テレビをつけたり、……それでも信じられませんでした。けど、一歳だった息子が四歳になってたんで す。何を疑っても、僕はこれだけは疑えません。あの子はニセモノなんかじゃない。親だから、それはわかります。」
「じゃあ、その三年間、あなたはどこにいたんですか?」
 寺田はまた三色ボールペンを手に持つと、赤い芯を出したり引っこめたりしながら、不機嫌そうに言った。
「それは、……わかりません。記憶がないんです。」
「つまり、こうでしょう。あなたじゃない誰かが、三年前に土屋徹生として死んだ。私がその遺体の検視をしたことになってる。いいでしょう。丁度そのタイミ ングで、あなたは失踪するか、拉致されるかして、どっかで生きてた。北朝鮮か、闇の組織か、そんなのですか? まァ、いい。それで今、その間の記憶を失っ て、家族の許に戻ってきた、と、そういう話ですね?」
「北朝鮮とか、そんなのは知らないですけど、……もしそうなら、三年前に僕が死んだ時に、泣いて悲しんだ妻や母親はどうなるんです? 通夜にも葬儀にも、 僕の遺体があったんです。それはみんなが見てます。」
 寺田は、口を噤んで、こめかみを膨らませた。そして、ふと、何かを思いついたように顔を上げると、
「あなた、双子の兄弟はいますか?」と尋ねた。
「……は?」
「双子です。あなたとまったく同じ、一卵性双生児の。」
 徹生は、ようやく質問の意図を理解して、
「いえ。一人っ子です。」と否定した。
 診察室の潔癖な白さが、寺田の白衣に照り返されて目に滲みた。
 

 

「先生を騙そうとか、そういうのじゃないんです、決して。それだけは信じてください。そんな馬鹿なことがって、僕だって思いますよ。思いますけど、……」
 そう訴えている途中で、徹生は寺田が、頻りに自分の口許を凝視しているのに気がついた。食べ物でもついているのかと、手で拭いながら、その感触に目を 瞠った。
「そうだ、この下唇の傷の痕、覚えてませんか? 高校の柔道の時間に、受け身を取らずにがんばり過ぎて、顔から畳に突っ込んで出来た傷です! 前歯が貫通 して五針も縫って。これですよ! こんな傷、僕以外にないですよ!」
 徹生は下唇を指で摘んで、引っぱって見せた。寺田は、喰い入るようにそれを見ていた。その一点を頼りに、徹生の顔に、もう一度、記憶の中の顔を重ねよう としていた。
「覚えてるんじゃないですか?」
 寺田の目は、急に虚ろになった。無意識らしく首を捻ると、聴診器が掛かっているうなじの辺りを搔いて、何か独り言を呟いた。そして、徹生の問いには答え ずに、
「奥さんは、『泣いて悲しんだ』と言われましたか?」と探るように訊いた。
 徹生は、「え?」と、今までとは違う戸惑いを見せた。

 

第一章 生き返った男 3 妻が明かす事実

 

マンションの4階で、エレベーターのドアが開くと、隣の家の〝カプチーノ〟というチワワが、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「おお! 元気だったか!?」
 徹生は、思わず声を弾ませた。彼にとっては数日ぶりの再会だが、実際には三年経っている。動物相手だからなのか、そのギャップの計算が、この時には自然 と感情に結びついた。しゃがみ込むと、よしよしと顎の下を指でくすぐり、頭を撫でてやった。
 璃久は、天敵を目にするなり、「うえっ、」と尻から後退って千佳の足にぶつかった。
「ん? りくはいぬがこわいの? こんなちっちゃいのに。かわいいよ、ほら。」
 淡い茶色い毛に覆われたカプチーノの白い顔は、その名の通り、コーヒーカップにきめ細やかに泡立つミルクに、ココアパウダーで描かれているかのようだっ た。
 千佳は、いつものことという感じで、「だいじょうぶ。おとうさんがちゃんとおさえてくれてるから。」と促した。
 璃久は、千佳の尻を楯のように自分の前に構えて、廊下の壁に貼りつきながら忍び足で歩いた。その間、一瞬たりともカプチーノから目を離さなかった。
 徹生は、千佳のそのさりげない「おとうさん」という一言に、表情を明るくした。そして、息子のあまりのへっぴり腰に苦笑した。
 カプチーノは、徹生の太ももに爪を立てて前足を乗せていたが、いつものように吠え散らすわけではなく、どことなく生気のない目で、長い舌から澄んだよだ れを滴らせていた。
 徹生の手は、既にそのよだれ塗れになっていた。そして、鼻を突いたその異臭に、吐き気を催しそうになった。
「お前、何食べたんだ? ん? モテないぞ、こんな口臭じゃ。」
 徹生は、カプチーノの眉間を親指で撫でてやりながら顔を覗き込んだ。
 やがて、「カプちゃん、……こっち。」という声がした。ドアから顔だけを覗かせている隣の奥さんに、徹生は軽く頭を下げた。初めて彼と再会した彼女は、 よろよろしながら戻ってきた飼い犬を抱き上げると、逃げ隠れるようにドアを閉ざした。
「……またビックリさせちゃったよ。」
 自宅の鍵を探す千佳は、歩み寄ってきた徹生に、 「手、洗わないとね。」と言った。
「すごい悪臭だよ。どうしたのかな?」
「歯槽膿漏だって。言おうと思ったんだけど。」
「歯槽膿漏? 犬にもあるの、そんなの?」



 食後、千佳が璃久を風呂に入れて寝かしつけるまでの間、徹生は、金曜の夜の情報番組で、彼と同様に「生き返った」という仙台の少女が、家族と一緒にイン タヴューを受けているのを眺めていた。
「事故に遭った時のことは、覚えてますか?」
「部活のみんなと信号を待ってて、そしたら、急に車が突っ込んできて、……」
「轢かれた、というのは?」
「いえ。……ただ、アッて感じで、……」
「自分がその時に亡くなってたってことは、どうかな、信じられる?」
 座布団に座って、首を振る少女の手を、傍らで母親が握り締めている。反対隣には、徹生より少し年上くらいの父親が、背中を丸めて、俯き加減で胡座をかい ていた。
 ビール缶に口をつけていた徹生は、その縁を軽く歯で噛んだ。
「お父様は、娘さんに再会された時は、どんなお気持ちでした?」
「それは、……言葉に出来ないです。こんな奇跡が起こるなんて、想像もしてませんでしたし。……ただただ、うれしい。その一言です。」
 画面右上には、「交通事故死の少女、奇跡の生還!?」という文字が躍り、左上には、スタジオの芸能人らの顔が映し出されている。
「今、一番、何をしたいですか?」
 最後に少女が、改めてアップで映された。二つ結びにした黒い髪。おでこのにきび。左右の揃わない一重まぶた。半開きの口。……
「うーん、……またブラスバンドに戻りたい。クラリネット吹きたいです。」
「新しいクラリネット、買わないとな。」
 父親は、はにかむような娘の手を甲から握ると、約束を確認するように言った。
『この子は、正直に喋ってる。』
 徹生はそう感じた。この無垢な表情が噓だというのなら、この世の一体、何を信じればいいのだろう?
「あの子をよく見てください! 本当にあの子が、噓を吐いていると思うんですか?」
 今日の病院でも、そう言えさえすれば、どんなに説得力があったことか。……
 もし仮に、この少女が、世界中から爪弾きにされたとしても、彼女の両脇に座っている両親だけは、断固として、その言葉を信じるに違いなかった。彼らに とって、娘が生き返ったことは、「ただただ、うれしい」ことなのだから。
 徹生は、握り締められた少女の手を見つめながら、無意識に鼻を搔いた。その指には、まだあの隣の犬の臭いが微かに残っていた。
 千佳が、濡れた髪を撫でつけて居間に戻ってきた時には、9時を回っていた。
 普段から薄化粧だったが、湯上がりの火照った白い頰には、それでもやっと素肌になれたという解放感があった。幾分張った左右の顎が、細い首に静かな影を 落としている。以前は気にして、よく鏡の前で、髪で隠してみたり、手で覆ってみたりしていたが、その時の彼女の、さも残念そうな顔が、徹生には、何とも言 えず愛らしく感じられていた。所謂「美人顔」ではなかったが、彼女が働く駅の土産物売場では、杖をついたような年配の客に、「べっぴんさん」と評判が良 かった。
 徹生は、水の入ったコップを持った千佳に、
「三年の間に、千佳がまた、すごく母親らしくなってて、ビックリしてる。」と言った。
 千佳は、テーブルを挟んで、徹生と向かい合わせに腰を下ろすと、「そう?」と言った。
「うん。さっきの璃久への注意の仕方とか見てても。」
「いい子よ、りっくん。」
「それは、そうだよ。俺と千佳の子供なんだから。」
 徹生は、曖昧な笑顔を見せた彼女に、しんみりと言った。
「俺は側にいてあげられなかったけど、すごくちゃんと璃久を育ててくれてて、……本当に感謝してる。ありがとう。……自分のことで頭がいっぱいになってた けど、一番にそのことを言うべきだった。」
 千佳は、つと顔を上げると、十秒間ほど、徹生の目を見ていた。そして、一言だけ、
「本心?」と尋ねた。



第一章 生き返った男 4 俺はそんな人間じゃない!

 

「自殺するほど悩んでたことがあったんだったら、そんなに苦しかったのなら、どうして話してくれなかったの? わたしにも言えないようなこと? それと も、……わたしだから言えなかったの? わたしが原因? お願いだから、大丈夫だから、正直に話して。てっちゃん、それを伝えに戻ってきたんじゃない の?」
「冗談じゃない! なんで俺が自殺なんかしなきゃいけないんだよ!」徹生は、ようやく引き攣ったような顔で言った。「誰がそんな馬鹿なことを?」
「警察。」
「警察は転落死って言ってるんだろう?」
「転落死で、事件性はない。だから、事故か、自殺かのどっちかだって。」
「で、何で自殺になるんだよ? 事故死も不自然だけど、自殺なんて、もっとヘンだよ。考えたこともない。大体、証拠は?」
 千佳は黙って立ち上がると、食器棚の引き出しの一つを漁った。
 取り出してきたのは、徹生の黒い手帳だった。もう何度となく見返しているらしく、手の中で、誰かが手伝っているかのように、勝手にメモのページが開い た。
 千佳の面は、赤らんだ目だけを残して蒼白になった。徹生の顔を見て、もう一度、その箇所に目を落とすと、口を強く結んで彼の前に差し出した。
 ページの真ん中には、罫線を何段も跨いで、ただ一言、「いやだ」と記されていた。
 一画一画から、歯軋りの音が聞こえてくるような字だった。何かに対して懸命に抵抗している。しかも発せられるや、すぐに否定されたらしく、その言葉は、 激しく往復する線で、塗り潰されていた。
 強い筆圧を留めた紙は、どこか人肌のようで、ページを捲ると、その下にも、更にその次のページにも、「いやだ」という叫び声の谺が響いていた。
 彼は、黒いボールペンで記されたその文字に指で触れてみた。三年経っても、押しつけられたペン先のあとは、まだ減り込んだままである。
 人間は噓を、決してこれほどの力で書ききることは出来ないだろう。どの一画にも躊躇うところがなかった。本心を試され、それを、あらん限りの力で証そう としているかのように、緊迫していて、必死だった。
 徹生は、体の深いところから、暗い戦慄が湧き起こってくるのを感じた。
「……何がいやだった?」
 千佳は、手帳を見つめる徹生に尋ねた。
「三年間、わたし、ずっと考え続けてきた。仕事のこと?」
「違う。」
「やっぱり、わたし?」
「違うよ!」
 徹生は、強く否定した。
「何言ってるんだよ! 大体、これが遺書? こんなの、……いや、違う、俺、書いてないよ! 俺の字じゃない! こんな、……おかしいと思わなかった?  俺の字?」
「てっちゃんの字に見えた。」



 彼の手がけた地ビールの発売はGW直後で、この頃にはもう、売上げの初動についての朗報が届いていた。前日は外回りをしていて、この日は、一日中会社に いたらしい。が、そのからっぽのマス目をどれほど凝視しても、何も思い出せなかった。
「……わからない。頭のどっかにまだその記憶が残ってるのかさえも。あったとして、どこにそれがあるのか。……どこを目がけて意識を集中させたらいいの か。完全に空白なんだよ。……」
 千佳は、虚ろな目でテーブルを見ながら言った。
「わたしは、……覚えてる。その日のこと。いつもみたいに、駅のお土産物売場で、梅のお饅頭と羊羹売ってた。てっちゃんと初めて会った時みたいに。……急 に携帯に電話がかかってきて、出たら警察の人で。とにかくすぐに水尾署まで来て欲しいって。……即死だったからって、病院にも運ばれなくて、……わたしそ のことで、すごく怒ったから。……」
 徹生の脳裡には、救急隊員や警察に、無造作に扱われている自分の遺体が思い浮かんだ。映画やドラマの継ぎ接ぎらしい、そのニセモノの光景の中で、彼は目 を瞑って、血を流しながら横たわっている。そこには、訃報を聞いて立ち尽くす千佳の姿も見えた。帰宅した日のように呆然としていただけなのか、パニックに 陥っていたのか。……
 徹生は、胸を切り裂かれるような痛みに顔を歪めた。そして、とにかく、ただ信じて欲しい一心で、まっすぐに妻の目を見据えて言った。
「千佳、……俺は自殺はしてない。俺は、そんな人間じゃない。知ってるだろう?」
「……。」
「結婚して、家も買って、子供も出来て、俺にとっては、人生で一番幸せな時だった! ウソじゃない。本当にそう感じてたんだ。本当に。そんな俺が、なんで 自分で死ななきゃいけない?」
「それがわからなかったから、苦しかったんじゃない。……ずっと辛かった。わたし、もう涙、出ないの。」
「……どういうこと?」
「わからない。今だって泣いてる。でも、出ないの、涙。一滴も。」
 徹生は、愕然として千佳の顔を見守った。
「わたしだって、てっちゃんが自殺するなんて夢にも思ってなかった。誰も想像してなかった。でも、現実として突きつけられれば、受け容れるしかないでしょ う。他に何が出来る? 責める前に教えて。」
「責めてるんじゃないよ。責めてるんじゃない。ただ、俺を信じてほしいんだよ。俺は、妻と子供を置き去りにして、自殺するような人間じゃない。絶対に違 う! 千佳と璃久は、俺にとってこの世の中の何よりも大事なんだから。」
「そう信じてても、……自殺したって言われたら、考えるでしょう? どうして気づいてあげられなかったのかって、……側にいた自分が情けなかった。わたし のせいかもしれないって自分でも責めたし、……自分だけじゃなくて、……」
 千佳は、その先を続けることが出来なかった。
「酷いことを言われたのか、人から?」
 千佳は、反射的に顔を背けて、静かに一度、目を瞑った。
「お母さんが酷いのは、今に始まったことじゃないから。でももう、いいの。てっちゃんのお葬式以来、会ってないし。」
「まったく? この三年間?」
「いいの、もう。……いい。会いたくないから。」
 徹生は、千佳のこんなに険しい表情を初めて目にした。何があっても、決して笑顔を絶やさなかったあの千佳が。……
 確かに、三年経っているのだと、彼は痛感した。さもなくば、人がこんなに変われるはずがなかった。



第二章 人殺しの影 5 開封された死

 

堂島製缶がある工場町方面行きの市バスは、千光湖のバス停で、老婆を一人乗せたところだった。ドアが閉まりかけた時、突然、後方の死角から、汗だくの大 男が、車体を揺らすような勢いで駆け込んで来た。
 乗車口近くに座っていた徹生は、その姿を目にするや、覚えず椅子から飛び上がった。
『佐伯!』
 男は、整理券を毟り取ると、緊迫した目つきの徹生を睨み返した。佐伯じゃない。背格好こそよく似ているが、顔はまったくの別人である。徹生は、誤作動し た警報のような心拍に煽られたまま、すとんと腰を下ろして、窓の外に目を遣った。男は、不審らしく徹生を見下ろしながら、前方の席に移動した。
 バスが動き出してからも、徹生の脳裡には、金曜日の夜、千佳が怯えた表情で口にした、あの「また殺しに来るかもしれない。」という言葉が反響していた。
 真相を明らかにするために、徹生は、週明けすぐにでも、会社に行くつもりだった。が、月曜日の朝になると、どうしても居間のソファから起きられなくなっ て、結局、水曜日の今日まで家に籠もっていた。
 自分自身の重みに、押さえ込まれているかのようだった。風邪だろうかと疑ったが、熱もなく、午後になると楽になるので、ひょっとすると、死の後遺症なの ではないかと考えていた。
 しかし、今し方、あの汗だくの大男を目にした時の慌てようからして、それはむしろ、恐怖だったのかもしれない。佐伯が犯人なら、再会は実際、大きな危険 だった。それを、頭よりも体の方が敏感に察して、必死で引き留めようとしていたのではないだろうか?
 千佳は、自らを奮い立たせようとする徹生に、「まだゆっくりしてたら。無理しないで。」と、背中から宥めるように声をかけた。
 徹生が今日、家を出られたのは、そんなふうに心配する彼女を、却って安心させたかったからだった。少しずつでも、自分らしさを回復したかった。彼女に愛 され、頼りにされる自分に、一日でも早く戻りたかった。
『佐伯にしたって、せっかく自殺に見せかけて殺したんだ。出会したとしても、いきなり人前で、襲いかかって来たりはしないだろう。逆に逃げられるだろう か? みんなが見ている前で、こっちから問い詰めるべきだろうか?……』
 車窓に顔を寄せた徹生は、晴れ亘った空の色に染まる千光湖を眺めた。
 その名の通り、千々に光を灯す湖の面を、赤い嘴の黒鳥が、ゆっくりと分けて進む。あとには、左右に開いた波が、巨大なファスナーのように、末広がりにど こまでも伸びている。
 何か神秘的な大きな力が、指先で摘んで、静かに引っぱっているファスナー。たった一度の死で、永遠に命を失ってしまう。そんな理不尽な世界は、あそこか ら徐々に捲れていって、その下からは、今この瞬間にも、まったく新しい奇跡の世界が姿を現そうとしている。そんな想像が膨んだ。自分は、あの眩しさの中か ら生還したのではないだろうか? 対岸の桜並木の新緑のように、この新しく出現しつつある世界では、人間は何度死んでも、その都度瑞々しく再生するのでは あるまいか。……
 金曜日の夜の千佳との話し合いのあと、徹生は、自分の遺品が収められた段ボール箱を開封していた。何か自殺に見せかけた殺人の証拠が見つかるかもしれな いと期待しながら。


 六月の初めに届いていた〈お久しぶりです〉という一通のメールに、徹生はなんとなく、不穏なものを感じた。送信者の名前はなく、アドレスにも見覚えがな い。
 クリックすると、画面には色とりどりの絵文字が咲き乱れた。
〈ルビーのリナです。アドレス変更しましたので、ご登録をおねがいします。またお店に来て下さいね♪ 土屋さんの石沢ビール、この前、買いましたよ~☆  ウマシ〉
 徹生は、一瞬、眉を顰めて、「あぁ、……」と思い出したように口を開いた。かなり前に一度、取引先の担当者と行ったキャバクラのホステスだった。
 徹生は、キャバクラに行くと、いつも話が続かず、気まずい思いをするだけなので、自分からはまったく足を運ばなかった。しかし、このメールの送り主は、 「缶詰マニア」を自称する変わった子で好きな番組は《タモリ倶楽部》だと言っていた、入れ替わり立ち替わり隣に座るホステスの中でも、唯一、しんとならず に済んだ相手だった。名刺を交換したものの、メールのやりとりは直後の一度きりで、顔ももうすっかり忘れている。よりにもよって、なんでこんなタイミング なのだろう!?
 このメールも、当然、開封済みだった。千佳はこれを読んで、どう思っただろうか? キャバクラなんか興味ないと言っていたクセに。─そう思っただろう か? 一事が万事で、あれこれ妄想が膨らんで、浮気の一つも疑われたかもしれない。それこそ、まったくの事実無根だった。彼は、斜め上を向いてしばらく考 え、首を落として溜息を吐いた。
 自殺云々どころではなかった。死んでしまえば、こんな些細なこと一つ弁解できない。
 徹生は、恐る恐るブラウザを開いて〈お気に入り〉の一覧に目を向けた。この深刻な時に、エロサイトのタイトルが、あまりにも無神経に目立っている。…… これも見ただろうか? 見ただろう、きっと。……
 千佳は必ずしも、そういうことにうるさい方ではなかった。しかし、〈癒乳の楽園〉にはさすがに引いたに違いない。こんな情けない言葉が、死後に、自分と いう人間の〝秘められた欲望〟を代弁するというのは、まったく以て悪夢だった。
 千佳は胸が小さく、徹生はそんなことは全然気にしないと言っていた。それは本心で、それとこれとは、また別問題である。大体、〈巨乳の楽園〉ではなくて 〈癒乳の楽園〉である。そっちの方がもっと気持ち悪いかもしれないが、とにかく、大きさの問題ではなかった。量より質というか。いやいや、そういうことで もなくて、……
 徹生は気がつけば、目の前にいるわけでもない妻を相手に、そんなしどろもどろの言いわけをしていた。そして、キャバ嬢からのメールと併せて、それらのリ ンクもさっさと削除してしまおうとした。そして、慌ててキーボードの上で手を止めた。
 これはしかし、自殺を否定する、情けなくも説得力に富んだ証拠ではあるまいか? 死ぬと決めていたのなら、こんなものは跡形もなく処分していたに違いな い。千佳もむしろ、そう考えはしなかっただろうか? 自殺する人間が、自分の恥部に対して、こんなに無防備なはずがないと。



 第二章 人殺しの影 6 居場所はもうない

 

工場に隣接する六階建ての会社のビルは、グレーの御影石調のタイルで覆われていて、社員からはよく「墓石っぽい」と冗談を言われていた。その壁面が、強 い陽射しに照り耀いている。
 青空には、金属板を裁断し、加工するリズミカルな衝撃音が、絶え間なく響いている。窓は閉め切られているが、顔を上げていると、社員の何人かとは、すぐ にでも目が遭いそうだった。中でみんな仕事をしている。徹生は、自分独りが置いてけぼりにされたような寂しさを感じた。
 元の上司に面会を求めるつもりだったが、ビルの前に立つと、先に、自分の死体が一体、どこで発見されたのかを知りたくなった。
 検案医の寺田の話によれば、正面ではなく、工場とは反対のビルの西側だという。人気のない場所で、歩くと窓のない壁に革靴の跫音が反響した。
 徹生は、視界の先に、自社製の工業用の塗料缶が一つ、ぽつんと置かれているのに気がついた。
 煙草の吸い殻入れだろうか? 近づいて中を覗いた彼は、息を呑んだ。小さいひまわりの花束が、乾涸らびて、缶の縁から首を垂れている。
 徹生は、それが何なのかを、すぐに理解した。無意識に口に手を当てて、その枯れた献花の周囲に目を凝らした。─ここで、自分は死んだのだ。彼は、踏んで いる場所を気にするように脇に避けた。コンクリートの地面は黒ずんでいるが、血痕らしい染みは、残っていなかった。
 ビルの屋上を見上げた。強い光が、彼を鋭く牽制した。目を強くしばたたいて、屹立するビルの屋上の縁に辛うじて視線を投げ掛けた。
『……あそこ、か。……』
 距離は瞬時に、落下の恐怖となった。何もない空中に身を置かれた刹那の戦慄が、鳩尾の奥から走った。無抵抗に次々と下へと場所を譲られてゆく。止まらな い! 風が早口で何かをしきりに囁いている。耳を澄ます間もなく眼前に迫った地面。その瞬間、全身に轟いた凄まじい破裂音!……
 コンクリートの足許は、死そのもののように押し黙っている。しかし、息を凝らして見つめていると、そこにはまだ、三年前の衝撃で生じた時間の亀裂が、半 透明の跡を留めているかのようだった。その罅から、新鮮な時間が漏れ出して、過去を映し出す溜まりを作っている。
 徹生は、膝を折られたように、その場にしゃがんで両掌で地面に触れた。3時14分に、ここで壊れた時計。どんな格好で横たわっていたんだろう? 俯せ で、頬を地面に押しつけて? それとも仰向けになって、空を見上げていたのか? 頭の中身を飛び出させて、溢れ出す血を止める術もなく、……
 徹生は、生き返った時と同様の頭痛に見舞われた。その膨らみの内側で、何かが閃いている。……白い机。……5階の会議室。……窓からは、太陽の光が差し 込んでいて、時計は、午後2時40分を回ろうとしている。死亡時刻の約三十分前だった。
「いやだ」という声が聞こえた。彼は卒然と立ち上がって、会社の入口へと駆け出した。
 思い出し始めている! 過去の空白に、徐々に記憶が満ちてきて、幾つかの光景が、思いがけずよく伸びた波のように、その面を洗った。



 園田は、口先だけの調子のいい男だと、前々から思っていた。本人に対する憤りは当然あった。しかし、そんな人間が吹聴して回る根も葉もない噂を、同僚た ちが挙って信じ、誰も自分を庇ってくれなかったということの方が、彼にとっては遥かにショックだった。ほとほと嫌気が差して、上司に辞表を提出し、もう机 の整理も始めていた。その時に、話を聞きつけて彼を宥め、製缶部門に引っぱってくれたのが、この安西だった。
「園田があとを引き継いだみたいで。」
 徹生は、今更蒸し返すつもりもなかったが、さすがに笑顔はぎこちなかった。安西の顔つきは、急に険しくなった。
「三年の空白を埋めるつもりでやってるなら構わんが、園田に手柄を横取りされたと言いたいなら、見当違いだぞ。」
「いえ、そんなつもりじゃ、」
「ないならいい。あいつも苦労したんだ。売れはしたけど、フタのゴミが出るとか、苦情も色々あったしな。お前が放り出した仕事の尻拭いを、よくやってくれ たよ。」
 徹生よりも一回り歳が上の安西は、諭すように続けた。
「お前が企画して、お前が一番がんばったことは、俺もよく知ってる。けど、お前の名前は出せない。わかるよな、それは。」
 徹生は一旦、下を向いてから、
「僕が自殺したから、ですか?」と尋ねた。
「表向きは事故死にしてある。けど、今はこういう時代だから、どこからどう話が漏れるかわからん。俺は人間としてお前に同情してる。けど、仕事でみんなに 迷惑をかけたのは事実だ。責めてるんじゃない。ただ、フォローしてくれた園田を、逆恨みするなんてことは勘弁してくれよ。」
「そんなことは、……考えてません。ただ部長、僕は、自殺なんかしてないんです。本当です。これだけは信じてください。僕は、殺されたんです!」
「誰に?」
「確信はないんですが、……」
「園田とか言うなよ。」
 徹生は、考えてもみなかったことに、「いえ、」と首を振った。
「あの佐伯っていう男です。」
「佐伯?」
「警備員の。あのハトを殺した、……」
「ああ、……いたな、そんなの。」
「今はいないんですか?」
「もう長いこと見てないな。なんであいつがお前を殺すんだ?」
「逆恨みされてましたし、待ち伏せされて、酷い口論をして、……」
「冷静になれ、土屋。」
 安西は、憐れむような目つきで言った。「冷静に。そういう思い込みの激しさが、お前を追い詰めたんだろう?」




第二章 人殺しの影 7 佐伯という男

 

会議室を出て、独りで乗り込んだエレベーターの中で、徹生は、「エェッ、気持ち悪い。……」という女の声を聞いて、背後の壁に支えを求めた。どこの階か はわからなかったが、それが自分についての噂話だということは察しがついた。
 生き返って以来、今まで誰も、面と向かってそんなことを言ったりはしなかった。しかし、そう思うのも無理はなかった。就業時間中なのに、調子っぱずれな 笑い声も聞こえてくる。まるで、人の本心が連なっている暗いトンネルの中を潜っているかのようだった。
『あの日の落下も、こんなに孤独だったんだろうか?……』
 徹生は今、それとほぼ同じ距離を、ゆっくりと辿り直している自分に気がついた。
 ヒソヒソ話が急に止んだ1階を抜けて外に出ると、もうここには戻って来ないのかと、また寂しさが込み上げてきた。この町に住み始めたのも、元はと言え ば、この会社に就職したからだった。
 手で庇を作って空を見上げた。この空は、三年前のあの日のすべてを見ているはずだった。あの人影が誰かも知っている。あの男じゃないのか? あの佐伯と いう男。
 不意に、背後に人の気配を感じた。徹生はビクッとしてその場から飛び退いた。相手も、驚いて声を上げた。後ろを振り返ると、立っていたのは、工場長の権 田だった。
「権田さん、……」
「てっちゃん、あんた、生きてたのか。さっき噂聞いて、まさかと思ったけど。」
「生きてたっていうか、生き返ったっていうか。」
 徹生は、笑って言った。気難しいと皆に敬遠されがちな工場長だったが、徹生とはなぜか気が合って、いつも自然とくつろいだ口調になった。
「あんた、うちの娘が不登校になった時、心配して、夫婦で食事に招いてくれたよな? 奥さんが、家で手料理作ってくれて。」
「え?……ああ、権田さん、すごく心配してたから。元気にしてますか、アイちゃん?」
「あの日は朝まで、たくさん音楽聴かせてくれて。」
「そうそう。CDが並んでるの、熱心に見てたから。若いのに、シブい昔のロックとかに反応してたなあ。」
「今でも聴いてるよ、何だか知らないけど! あんたのCD、奥さんが形見にくれて、今、うちにあるんだよ。」
「え、そうですか? なんだ、知らなかった。」
「生き返ったんなら、返さないとな。」
「いやいや、いいですよ。持っててもらって。」
「あんたが死んでからも、奥さん、うちの子に随分と親切にしてくれたんだよ。いい人だよ、あの人は。」
「そうですか。……妻もきっと、アイちゃんに慰められたんだと思います。」
 徹生は、気楽に話していたが、感に堪えないような表情の権田を見て、ようやく、この突飛なやりとりの意味を理解した。
「あんた、やっぱり、てっちゃんだよ!」
 権田は、徹生の腕を痛いほど強く叩きながら、本物と確信したように言った。


 工場でみんなに〝生還〟を祝われた後、徹生は会社を出て、その足で警察署に向かった。
 殺したのは佐伯だという権田の断言が、彼を勇気づけていた。やっぱりそうだった! それは、権田自らが確信し、口にした言葉だった。決して徹生の思い込 みに同調したわけではない。千佳や安西には、うまく説明できなかったが、佐伯のことをよく知っている人間なら、彼に殺されたという主張が、決して突飛でな いことは納得できるはずだった。
 徹生は警察署で、再捜査を願い出るつもりだった。取り分け、屋上入口の防犯カメラのことを知りたかったが、同時に、今後の自分と家族の身の安全も求めな ければならなかった。佐伯を追っているはずが、いつの間にか、こちらが背後から追われていた。そうなることを権田も心配していて、とにかくすぐに警察に行 けと、別れ際にはしつこいくらいに念を押された。
『それで結局、俺は何を喋ってきたんだろう?……』
 話を終えて、水尾署から出てきた徹生は、緊張から解放されて、自分でも持て余すような歪な高揚感に初めて気がついた。



第二章 人殺しの影 8 遺伝子が泣いている

 

「夜になると、私の遺伝子たちが、しくしく、しくしく、体中で泣き始めるんですよ。今だって、ほら、聞こえませんか? 誰でもいいから、早くどっかの女の 遺伝子と合体させてくれ、こんなところで滅んでしまいたくない、とね。私はそれを虚しく宥めるだけなんですよ。かわいそうに、それは無理なんだよと。まず 金がない。金は重要ですよ、何と言っても。それに、こんなに醜くて、性格も陰気です。歳はもう四十を過ぎてる。まあ、見込みゼロですよ。あなたもそう思う でしょう? もっとも、こんな私にしたのは、遺伝子自身だと思いますけどね。」
 徹生は、胸の前でシートベルトを握ったまま、佐伯のその言葉に眉を顰めた。この男は一体、何の話をしようとしているんだろう? 遺伝子が泣いている?
 佐伯は相変わらず、呼吸の度に、聞いている方が息苦しくなるような鼻の音を立てている。花粉症を放置して、手の施しようがなくなっているような感じだっ た。
「あれこれ、キレイごとを並べてみたところで、人間の好き嫌いだけは、どうしようもない。違いますか? 私は、世間の人間が、私を嫌う権利を尊重します! 絶対に。好きになれだなんて、誰が強要できます? 中には、こんな私にも、同情や憐憫を恵んでくれる人もいますよ。けど、好きになるかどうかは、まったく 別問題です。当然です! 私にだって、好き嫌いはある。絶対に、人からとやかく言われたくないです。」
 そう言うと、佐伯は一旦口を噤んで、やはり目を合わせないまま言った。
「例えば、私はあなたが嫌いなんです。いなくなってくれれば、どんなに清々することかと思いますよ。」
 佐伯は、決して逃がすまいとするように、シートベルトのバックルを握り締めていた。口調は静かだったが、言葉が途切れる度に、車内が緊迫した。
 今、この状態で襲いかかられれば、一溜まりもなかった。誰か来てくれないかと外を見たが、駐車場は、水を打ったように静まり返っている。



「どけ!」
「あなた、さっき言いましたよね、俺に出来ることはないかって。一つ、私を助けると思って、願いを聞いてもらえませんか。」
「断る! いやだ! あんたと同じ空気を吸ってると思うだけで、気分が悪い!」
 そう言って、徹生はドアを開けた。静かだと思っていたが、遠くの大通りを走る車の音が、微かに聞こえてきた。
「聞くだけ聞いてください。」
「うるさい!」
「あなたがそこまで言うんですから、あなたの奥さんは、きっと、よほど素敵な女性なんだと思うんですよ。実は、前々から想像してたんです。そこで、私の切 なる願いですがね、一つ、奥さんの遺伝子と私の遺伝子とを合体させてもらえませんか?」
「何!?」
「ご心配なく。私はこう見えても、性欲の処理はうまくやってる方なんですよ。ただ、私には親密な世界がないんです。生殖をさせてもらえるような。しつこく しません。遺伝子を遺させてもらえれば十分なんです。遺伝子レヴェルでの結合! ほら、あのハエ男の映画があったじゃないですか。あれには、つくづく共感 するんですよ。私はきっと、今と違った心境になれる気がするんです。」
「この野郎!」
 徹生は血走った目で、佐伯の襟元を掴んだ。



第三章 惑乱の渦中へ 9 不意打ち

 

「あの人が殺したのよ。」
 水尾駅の土産物売場で、梅饅頭の箱を整理していた千佳は、その声を耳にした瞬間、誰かに体をロックされたように、指先一つ動かすことが出来なくなった。 ハッとした時には、もう手遅れだった。
 閉じ込められた体の中で、彼女は孤独に火照った。焦れば焦るほど、どこをどうすれば、また体が動くのかがわからなくなる。息苦しくて、泣き出したかった が、涙の出口は固く閉ざしたままだった。傍から見れば、ただじっとしているだけである。しかし彼女は、自分自身の深みの中で、溺れたように必死で藻掻いて いた。
 一年ほど前までは、よくこうした発作に襲われていた。一番恐い思いをしたのは、璃久を連れて横断歩道を渡っていた時だった。赤になっても足が前に進まな い。怒号のようなクラクションと共に迫り来る車を目前にして、彼女は璃久に懸命に手を引かれながら、誰にも聞こえない悲鳴を上げ続けていた。
 落ち着かなければと、千佳は念じた。あの人たちは、決して自分を指差して言っているのではない。あれは、午前中に見た再放送のドラマの話だ。自分のこと じゃない。夫が自殺したのは、やっぱり奥さんのせいらしいとか、そんなヒソヒソ話が、また蒸し返されているんじゃない。……
 漏れ出した時間の嵩が見る見る増していって、過去と現在とが、無闇に混ぜ返されていく。そうして、七年前に、ここで初めて徹生と出会った時の記憶が、 ゆっくりと迫り上がってきた。


「他の子はちゃんと出来てるでしょう? どうしてあなただけ、そんなにダメなの? 恥ずかしい。」
 母の声が聞こえた。
「立ってなさい、ずっとそこで。帰って来なくていいから。」
 彼女は、自分が取り返しのつかない恐慌に呑まれつつあるのを感じた。バタンと思いきり倒れ込めば、その拍子に金縛りが解けるかもしれない。恐怖心を捨て て、闇雲に前か横かに体重をかければ。痛いけど、それでどうにか助かるかもしれない。どうにか、……
「大丈夫、千佳ちゃん?」
 その手が肩を叩いた瞬間、千佳は、後ろを振り返った。動けた。……
 立っていたのは、〈SWAN SONG〉と書かれた長袖のTシャツを着た、ディスカウント・ショップの秋吉だった。

「……こんにちは。すみません、ちょっと、ぼうっとしてて。……」
「大丈夫? 顔色悪いけど。」
「大丈夫です。配達ですか?」
「そう、ちょっとこっちの方に酒のね。」
 千佳は、無理に明るい笑顔を作って、
「てっちゃん、ちゃんと働いてます?」と尋ねた。
「ああ、うん、がんばってるよ。まだ最初だから、アレだけど。」
「本当に、ありがとうございます。」
「いやいや、助かってるし。バイト代くらいしか出せなくて、申し訳ないけど。」
「とんでもないです。働かせてもらえるだけでも幸せです。」
 秋吉は、腕時計に目を遣って、
「千佳ちゃん、お昼休みとかあるの?」と尋ねた。
「はい。あと、十五分くらいで。」
「ちょっといい? その辺でメシでも喰いながら。」
「え? あ、……はい。」
「じゃあ、そこのビルのレストラン街ででも。先に行ってるし、電話してもらえる?」
「わかりました。」
「じゃ、あとで。」

 秋吉は、いつもと変わらない調子だったが、去り際には、どことなく彼女を安心させるような目で頷いてみせた。徹生が死んでからも、彼はよく、こんなふう に訪ねてきて、しばらく立ち話をしてから帰っていった。
 自分が今、どこの時間にいるのか、彼女はまた、見失ってしまいそうになった。今この瞬間に、どこかで徹生が生きている。その実感が、急に薄らいでいっ た。また発作が起こった時、彼はどうやって、自分を助けてくれるのだろう? 結局、この三年間と同じじゃないだろうか。……




cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、 そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめた『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)、そしてcakesのインタビューと 併せてお読みください。 

 

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プロフィール

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年、愛知県生まれ。京都大学法学部卒。同大在学中の1998年に、『日蝕』(新潮文庫)でデビューし、同作が第120回芥川賞を受賞。2009年、『決壊』(新潮文庫)で平成20年度芸術選奨文部科学大臣賞、『ドーン』(講談社文庫)で 第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。ほかの著書に、梅田望夫氏との対談『ウェブ人間論』(新潮新書)、「分人」という概念をまとめた『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)などがある。最新作は新たな死生観を提示した『空白を満たしなさい』(講談社)
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