金曜日, 7月 04, 2014

穂村 弘 Homura Hiroshi|歌人

 


穂村 弘 ことばから生まれる世界



穂村 弘(歌人)
2014年7月4日に、歌人の穂村弘さんをお招きしてトークイベントを開催しました。
穂村さんが独自の視点で集められた「気になる言葉」や短歌を鑑賞しながら、「言葉とは何か」を考える密度の濃い時間となりました。








人の世界像は言葉でできている


僕は昔から、言葉のことが気になるたちで、言葉って何かなとずっと思っていて。
僕たちは普段、言葉を一種のコミュニケーションツール、表現ツール、思考ツールとして使っている。
つまり、自分が主人のようなイメージで言葉を使っていますが、実はそれだけではない。時には言葉の方が主人であるような感触を、みんな感じながら生きているだろうと思います。

僕は子どもの頃、引っ越しがとても多くて、父の転勤に伴って何度も転校していたんです。その頃の話を父としていたとき、「転校するのが嫌だったけど、転勤だったんだからしかたないね」と言ったら、父に「引っ越しはしたけど、転勤はしていない」と言われて。
混乱して、なんで引っ越したのか聞いたら、「お母さんが占い師に引っ越せって言われたからだ」って言うんです。
よくよく話を聞くと、僕は昔からちょっと持病があるのですが、それを心配した母が占い師に相談したところ、引っ越しなさいと言われた。その言葉を母が真に受けて、父も合意して引っ越したんだと。
そのとき、世界が歪むような感じがして、「あ、これか」と思いました。つまり何かと言うと、決定的な言葉を聞く前と聞いたあとで、世界は物理次元では何も変わっていなくても、その人にとっての世界像が変化してしまう。
僕も含めて、人間は世界を物理レベルでは生きられなくて、必ず一人一つの世界像の中でしか生きられないんだろうと。
そして、その世界像は言葉でできているんだろうと。
だから世界像は言葉で決定的に転換されてしまう。


「ママ、舌も生え変わるの?」

これはインターネット上で、子どもにこう言われたと書いているお母さんがいて。
僕は年を取っていて、舌は生え変わらないと知っているから、この言葉に衝撃を受けました。詩のようなものを見たという感じがしたんですね。
この言葉の背後にあるのはその子どもの持っている世界像で、言葉が出たときにその世界像が明らかになる。
大人の世界像と子どもの世界像は、経験の差によって違っていますよね。
たった一言で人に振られたり、人を好きになったりするのは、その言葉がその人の世界像を示しているということを、僕たちは敏感に感知するからなんです。




自分と違う世界像は
なかなか受け入れられない



その世界像にも、マジョリティとマイノリティがあると思います。ある結婚式に出たとき、新郎新婦に

「チューしろ」

と言い出した人がいました。そのときの二人はシャイでできなかったんだけど、それでも当然のように「チューしろ」と言い続ける人たちがいっぱいいたんです。
僕は怒りを覚えて黙らせたいと思ったんですが、むこうの方が数が多いから、黙らされるのはこっちだなと。
じゃあいつまでも「チューしろ」って言い続けるのが正しいのか。もちろん正しさなんてものはなくて、単にマジョリティかマイノリティかの違いがあるだけですよね。
でも世界像というのは恐ろしくて、何か一言言うと魔女狩りにあうみたいなことが起きる。 たった一言でその人の世界像がわかってしまうようなケースはよくあります。

たとえば、おじさんが若い恋人と付き合っていて、メールに

「がんばってネ」

と書いて出したら、振られてしまった。

振った女性に話を聞いたら、「この『ネ』から、おじさんなんだってことが伝わってきて、だめだと思いました」って。

すごく恐い、かわいそうな話ですよね。
あとは、飲み会をしていて、同じテーブルの三人が全員忌野清志郎のファンだと分かって盛り上がったことがあった。その中の一人が

「キヨシがさ、キヨシがさ」

と忌野清志郎のことを呼んでいたんですね。ところが2時間経った後で、別の一人が「清志郎って言ってくんない?」と言ったんです。全員が忌野清志郎のファンだったのに、名前の呼び方ひとつで決定的な亀裂が生まれたというのが恐い。

「がんばってネ」も「キヨシ」も大したことじゃないんです。ちょっとした言葉の問題なんだけど、言葉は言葉で完結しなくて世界像を構築しているから、それを受け入れると自分が壊れるって思っちゃう。そういうセンサーみたいなものってありますよね。

たとえば、洋服なんかもそう。

前のボタンを何個開けるかとか、靴の先が丸いかとんがってるかとか、時計の直径がどれくらいのサイズかとか。それがその人の所属する世界像を物語るってところがありますね。




世界像の見えない言葉が持つ引力

 

それから、言葉がどんな世界像を示しているのか計り知れないとき、興味を持つということがあります。

インターネットのニュースの見出しを見ていたら、

「七三分けの男 路上で下着奪う」

という見出しがあって、興味を持ってクリックしました。「刃物男」だったらクリックしないけど、「七三分けの男」だと世界像が見えないから、興味を引かれる。あとは、

「鈴虫の匂いがする」

松尾スズキさんの舞台で、最初に出て来た人が客席を見渡して、第一声でこう言ったんです。鈴虫といえば声、っていうのがマジョリティの世界像なわけで、鈴虫の匂いをキャッチする人間なんていない。素晴らしいですよね、その背後の世界像が見えなくてぐーっと引きつけられる。

また別の例で、

「この花火はぐろぐろ回ります」

中国製の花火の注意書きにこう書いてあった。「る」が最後まで巻き切っていなかったんですね。
「ぐるぐる」なら、われわれの世界像とぴったり合致して、何の問題もない。でも、「ぐろぐろ」。その瞬間ひとつの詩が生まれてしまいます。ぐろぐろ回る世界。




大人になると失ってしまう愛や祈り



あるとき、Twitterで

「キニキリームキロッキ」

という女子中学生のツイートを見たんです。さかのぼってみると、数日前のツイートに「今日の晩ごはんは、カニクリームコロッケ。『カ』『ク』『ケ』『コ』、カ行が四つも入ってる。でも『キ』だけ入ってない、かわいそう」と書いてあった。
それから数日して、突如として「キニキリームキロッキ」。

素晴らしいなと。これは、「キ」をかわいそうだと思ったその子が「キ」のために作った、「キ」のためだけの異次元のカニクリームコロッケの名前ですよね。

愛の中で一番価値があるのは、こういう、カ行の「キ」とかに対する愛だと思います。
非常に崇高なものだと思いますね。

ただ、彼女が10年後、「キニキリームキロッキ」とツイートできるのかというと、非常に厳しいだろうとも思います。

大人になった彼女は、ボーナスのことや、欲しいブーツのことや、彼氏のメールが感じ悪いことなんかの優先順位がすごく上がっていて、もはや「キ」をかわいそうだと思う感受性は、維持できていないだろう。

この崇高な魂を維持できるのは、男か女かで言えば女、中年か思春期かで言えば思春期、貧乏か金持ちかで言えば貧乏、権力があるかないかで言えばない、そういう人だと思うんですよね。

ほかにも、

ペガサスは私にはきっと優しくて
あなたのことは殺してくれる
――冬野きりん

という短歌が18歳の女性から送られてきて、本気だなあっていう気がしました。

この短歌は、僕を含むほとんどの中年男性には作れない。なぜかというと、誰かを殺したいって思ったとき、体力や権力やお金があれば多分なんとかなる。ペガサスに本気で頼む人はどういう人かというと、弱くてお金がなくて、権力もない人です。

これって祈りですよね。そして、祈りと短歌はとても近いものです。

もちろんこれは「あなた」を憎んでいるわけじゃなくて、愛なんですけれども。



社会と世界はイコールではない



もし僕たちが自由に世界像を選択できるのなら、いくらでも素敵な人になれるはずです。ところがそうはいかなくて、世界像の形成には強烈なマジョリティの強制力があるんです。

たとえば、僕のような人が25分ぐらい昼間の住宅地にしゃがんでいると、不審に思った人がおまわりさんを呼ぶでしょう。で、おまわりさんは僕に、何をしているのか質問してきます。そこで僕が「コンタクトレンズを落として探している」と言うと、おまわりさんはフレンドリーになって、一緒に探してくれたりしますよね。それは、僕がマジョリティの側の人間であるということが証明されたからです。

でももし、何をしているのか聞かれたときに、

「このアリの列、どこまで続いてるのかと思って」

と答えてしまうと、NGです。おまわりさんは警戒心を解いてくれません。
やっていたことは同じで、ただ言葉を返しただけなのに、なぜOKとNGとに分かれるのか。それは、言葉がその人の世界像を示すからです。ではなぜ、コンタクトレンズはOKなのか。それは、コンタクトレンズが世界の有用性を端的に代表するものだからです。

より安全に、効率よく、便利に生き延びましょうという社会合意に、きわめて適合するものだということなんですね。

娘の友だちの名前が「ユミちゃん」だってことを、どうしても覚えないお父さんがいます。でも、

「○○株式会社の財務部の課長代理の娘」

ということは、すらすら言えたりします。これは情報の有用性の差ですよね。
娘の友だちのお父さんの社会的地位は、社会的にきわめて有用な情報だということです。

僕がまだ会社員だったころの話で、部長と取引先の人と喫茶店で打ち合わせをしていたときに、ウエイトレスがお盆にプリンを乗せて運んできたんです。そのプリンを見て私は、

「部長、ほら、プリンがふるふるしてますよ」

と思ったけど、言いませんでした。

でも、もし「部長、プリンでかいっすね」とか「うまそう」だったら、言ってもよかったのか。

もちろん社会人としてはNGなんだけど、その度合いに差があるんじゃないかと思うんです。

「でかい」とか「うまそう」とかは、まだ学生気分が抜けていない、でもちょっとおもしろい奴かもという、ぎりぎり圏内です。

しかし「ふるふる」は完全に圏外です。それは、プリンの「でかさ」や「うまさ」は、社会的価値基準の枠内だからです。

大きくて安くておいしいものは、社会的に善だとされている。

しかしプリンの「ふるふる」度は、価値基準の枠外なんです。

同じように、名刺をもらった瞬間に「小林一茶」とか書いてあっても、

「あ、シンメトリー!」

と言ってはいけないんです。部長とタクシーに乗っているときに

「今の信号、色がちょっと変でしたね」

これも言ってはいけない。

「私、日本狼アレルギーかもしれないんです」

「スーパーの肉屋で手羽先のパックを見たら中身が全部奇数だったんです」

これも言ってはいけない。

それは、これらは社会的な合意の範疇にないからなんです。
つまり、少しでも全員が効率よく、安全に豊かに生きのびるためには、社会と世界を同一視する必要がある。


しかし本当は、社会と世界はイコールではない。

そして今挙げたNGワードは、社会と世界がイコールではない破れ目を示唆するものだからなんです。

でも詩の機能は逆で、詩はその破れ目をこそ示唆する。
真っ向から対立するんです。

コピーライティングはきわめて特殊なジャンルで、破れ目を示唆しつつ、社会的合意を勝ち取るという非常に高度な感覚を要求されるジャンルですよね。





一人の人間の中にも二重性はある

これは同時に、一人の心の中のせめぎ合いでもあります。
僕たち一人一人の中に、アリを見ている自分と、何してるんだって突っ込みを入れる警官が両方いる。これが、われわれのリアルな生の構造だと思います。
そしてそれぞれの世界像に、二種類の言葉がフィックスしている。
たとえば、新聞記者をやっていて、同時に詩人でもある人が記事を書くとき、「雨がしとしと降っていた」とか「ざあざあ降っていた」って書くと思います。
決して、独創的なオノマトペは使わない。デスクから赤が入ってしまうから。でも、同じ人が雨の詩を書くときに、「しとしと」とか「ざあざあ」
とか書くかというと、決して書きません。

これが、一人の人が持つ言語の二重性というものです。

今日は便宜上、詩やマイノリティの言葉を擁護するようにしゃべっているように見えるけれど、実際はマジョリティが使う社会合意された言語も、とても重要です。たとえば、歯医者さんが治療しながら「キニキリームキロッキ」とか言ってたら、嫌ですよね。もっと詩的な才能のない人にしてくださいって言いたくなります。

社会的なチューニングのズレが
いい短歌を生む



私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない
――田中有芽子

奇数本入りのパックが並んでる
鳥手羽先の奇数奇数奇数
――田中有芽子

さっきのNGワードの例は、実は短歌だったんです。ここからは、いくつか短歌を紹介したいと思います。


まずはこちら。

目薬は赤い目薬が効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――河野裕子

この短歌をだめにすると、次のようになります。


目薬はビタミン入りが効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――改悪例1

目薬はVロートクールが効くと言ひ
椅子より立ちて目薬をさす
――改悪例2


目薬を買いに行って、「Vロートクールください」と言うと、1秒で出てきます。
「ビタミン入りのください」と言うと、いくつか出てきて、その中から選ぶことになります。

「赤い目薬ください」と言うと、困った客、社会的なチューニングがズレた客ってことになります。でも短歌としては、「赤い目薬」が一番よくて、下に行くほどだめなんです。
もしも薬局の人がその晩、その日あった話を奥さんにするとして、話題になる可能性があるのは「赤い目薬」の客のことです。
これは一種の愛だと思うんですよね。
一番困った客のことが一番記憶に残り、話題になる。
これは何かというと、その人固有の何かがそこにあるからですね。でも社会的に良きユーザーになれという教育では、それを捨てろということになる。

大仏の前で並んで写真撮る私たちってかわいい大きさ
――平岡あみ

大仏の前で並んで写真撮る私たちってとても小さい
――改悪例

意味は同じで、情報伝達の方法としては下の方が確かです。
でも短歌として見ると、この「とても小さい」を「かわいい大きさ」と言えるかどうかに命がかかっている。
「とても小さい」では抜け落ちてしまう何かが、「かわいい大きさ」には含まれている。それは、その日のデートが楽しかったね、という感じです。この二つの短歌のどちらを作る女の子と付き合いたいかと言ったら、「かわいい大きさ」っていう把握ができる人と付き合いたい。社会的チューニングを最後まで生理的に拒む人が、いい短歌を作るんです。

雨だから迎えに来てって言ったのに

傘も差さず裸足で来やがって
――盛田志保子

「雨だから迎えに来て」って言ったら、「傘忘れちゃったから2本持ってきて」っていうことですよね、社会的合意の言語としては。
ところが、迎えにきたんだけど、傘を1本も持ってなかった。
雨の中ずぶぬれで、しかも靴も履いてない。
もちろん二人でずぶぬれで帰りますよね。
社会的には、このプロジェクトは大失敗です。
でも世界的には、もしかしてこのときが二人の愛のピークなのではないか。
なぜなら、「雨だから迎えにきて」という約束は守られたから。
約束だけが守られて、何の役にも立たなかったという感動がある。もしかしたらこの瞬間を、僕たちはいつも待っているのかもしれない。だからこの歌は、怒っているような口調で書かれているけれど、怒っていません。むしろ感動している。
いろんな話をしたように見えますが、全部同じ話です。
世界像と言葉の話ですね。

日本デザインセンター社員による短歌:
テーマ「ティッシュ」



「ティッシュ」というテーマで、みなさんに短歌を作っていただきました。
その中から特に素晴らしいと思ったものを紹介します。
何かのテーマをもとに、短歌やコピーを作るということは、ある意味ではとても似ていると思いますね。両方とも短い日本語で、そのテーマをくっきりと浮き立たせるわけだから。


2年後もあの子がさっとだす横で
「きのうは持ってた」っていう係
――長瀬香子

これはちょうど、短歌とコピーの領域が重なった部分にある歌かなと思いました。
多分この作者は、最初から「ティッシュ」という言葉を入れずに考えたでしょうね。
コピーであれば、ビジュアルを念頭に置く習慣があるだろうから。
でも短歌を作り慣れた人でも、「ティッシュ」と入れないことはあります。
そうすることで、単にティッシュの話では終わらなくなるからです。
この歌は、その人の行動パターンや世界像を表している。
ティッシュだけでなく、常に「あの子」と自分には差があって、何のときにも一手遅れる自分である、という歌になっているんですね。
それから、感情移入もしやすい。さっと出す側よって言われたら、引いてしまうわけで。誰だって、自分は不器用で誤解されやすいと思っている。その意味でも、短歌の特性をよくつかんでいると思います。


あの日交換したのはティッシュじゃなくて
ちり紙なんです確かに父と
――内藤充江

これは、ノスタルジーですね。その時代は「ティッシュ」じゃなくて、「ちり紙」だった。「落とし紙(トイレットペーパー)」、「蝙蝠(傘)」、「衣紋掛け(ハンガー)」とかね。今は使わなくなった言葉です。うまいのは、「確かに父と」という表現。
これって逆説で、実は全然確かじゃないんですよ。もう自分の記憶だけのことで、お父さんも死んでいるかもしれなくて。だからこそ「おぼろげに」ではだめで、「確かに」って言葉を使っているんです。
これは、全ての愛の不確実性と関係があります。
愛には実体がなくて、おぼろげだからこそ、「確かに」と言う。
「あの日」「確かに」ときたら、もう確かじゃないに決まっています。


最後から2枚目にある青い線どこに行ったのすぐ泣いた君
――吉岡奈穂

韻文と散文の違いは何かというと、散文は言葉が上から下へしか流れないけれど、韻文はループするってことなんです。
つまりこの歌で言うと、「どこに行ったの」が、上と下とにかかっている。
「最後から2枚目にある青い線」、昔そういうティッシュがあって、あれ最近見ないけどどこに行ったの、という意味と同時に、すぐ泣いてティッシュを使ってた、あの繊細で弱かった君はどこに行ったの、もうずいぶん君の泣き顔を見ていなくて、鼻をかむときにしかティッシュ使うの見てないよ、という構造です。
完成度が高いですね。


母の手が次々引き出す純白に雛人形は徐々に埋れて
――矢内里

これも「ティッシュ」って書いてないですよね。雛人形はすぐに片付けないとお嫁に行けなくなるんでしたっけ。
雛人形を純白のティッシュで包んで、徐々に埋もれていく。
人形が真っ白い紙に埋もれていくということの中に、深い眠りを思わせる死のようなイメージがあって、それが非常に恐い感じがしますね。


足りないとわかりつつも立ち向かう
ちりがみ一枚牛乳の海
――大川高志

この短歌の見事さは、社会と世界の隙間を捉えていること。
社会的にはないことになっているけれど、世界には絶対的にあるゾーンを書いているということです。これが社会的に「ない」ことにされている理由は、こんなことにとらわれてはいられないからですね。
社会には、世界の段階にあることを決して持ち込むな、というルールが強烈にあるので、みんな世界の匂いに憧れるわけです。
女優さんの写真を見ていて、蚊に食われた跡があるとそこだけ凝視したり。
単に牛乳とちり紙の問題ではなくて、圧倒的に敗北しているということが官能的なんです。「足りない」「つつ」「立ち向かう」「ちりがみ」「一枚」と、タ行も繰り返しつつ、シチュエーションを説明する言葉が最後に来ているのも望ましい。


人の部屋で勝手に鼻をかんでいることの
あわあわとした光よ
――原麻理子

これもまさに、社会の中に持ち込まれないゾーンですよね。
しかし、人のうちのトイレを借りるとかではない。その方がよくあるわけで。
「人の部屋で勝手に鼻をかんでいる」ことのリラックス感というか、奇跡みたいな感じ。
恋人の部屋で、恋人が眠っているぐらいのイメージかな。留守ではないような感じで、僕は読みました。留守だと、もうちょっと当然のように鼻をかめてしまう感じがあります。
こういう瞬間がどれだけあるかが、生きていることの価値だと言いたいぐらいです。
思い出の多い人生がいい人生だ、って考え方が一つあって、さっきの短歌のような、雨なのに傘を持たないで来たとかいうことは、まず忘れない。その一方でこのように、書かなければ本当に儚いことってあると思うんですよね。


320枚160組もどれない
ふるさとの森はあまりに遠すぎて
――川原綾子

さかのぼると、ティッシュはもともと木からできているということですね。その発想を、この「320枚160組」という書き方で表現したことが非凡です。
きわめてデジタルで、社会の側の中枢にあるような表記ですよね。「ふるさとの森」って世界の側にあるもので、結果的に人間の社会が滅ぼそうとしているものなわけです。
その二つのギャップを、最大限に言語表現の中に閉じ込めている。「320枚160組」って言われると、大量虐殺めいたイメージも少しあると思います。


私には来ない種類の幸せを見た日は
ティッシュをふたつに剥がす
――高久麻里

「ティッシュをふたつに剥がす」というのも、いわゆる徒労に属するものです。
効率の反対にある徒労感は、われわれが社会で最も忌避して憎んでいるものですよね。
だけど本当は、徒労こそが一番セクシーで。
丸山健二の小説のタイトルで、『風の、徒労の使者』というのがあって、すごくいいタイトルだなって思ったことがありますけど、やっぱり世界の扉というのは徒労にあり、みたいな感じがあると思います。









穂村 弘 Homura Hiroshi
歌人。1962年生まれ。1990年に歌集『シンジケート』でデビュー後、短歌のみならず、エッセイ・短歌評論・絵本翻訳など幅広い分野で活躍。2008年に評論集『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞を受賞、連作『楽しい一日』で第44回短歌研究賞を受賞。





 http://www.ndc.co.jp/polylogue/report130704/