水曜日, 12月 21, 2016

「タモリ学」 人間関係をうまくやるには...

 

 

タモリ学

 

「人間関係をうまくやるには偽善以外ない」


みなさんご存知タモリさん。
そんな貴重なタモリさんのエピソードが沢山綴られている「タモリ学」という本を読んでみたところ、人間関係に対しての深いお言葉がありましたので、紹介します。


タモリ学1:自分とは何か?

 

「会社の課長」「芸能人」「妻がいて子供がふたりいる」「友達が何人いる」といった、現時点での自分自身の”状況”を横軸とし、「親は医者」「家系」「叔父が不動産業界にいる」「子供が東大生」など、自分の周囲の人間が持つ”事実”を縦軸とすると、この横軸と縦軸が交差したものが「自分」であるとタモリは言う。

「そうすると、自分というのは一体何か、絶対的な自分とは何か、っていうと、わかんなくなってくるわけですね。それだけこういう、あやふやなものの中で自分が成り立っている」。そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは便宜上「実存のゼロ地点」と名付けた。



はじめに、人間関係を深掘りする上で、まずは自分について知る必要があります。いきなり深いですが、自分を理解する上でとても大切なことですので、しっかり理解しておきたいところです。

自分とは何かとは、一度は考えたことのあるテーマですが、結論も出ずに結局のところ「自分ってよくわからない」、となったりしませんでしたか?それをタモリさんは、横軸と縦軸を用いて「自分とは何か」を説明します。

その上で、自分ってあやふやなものの中で成り立っているので、「自分とはよくわからないもの」と結論付け、「横軸も縦軸も余分なものである」と言い切ります。その余分なモノがなくなった状態を「実存のゼロ地点」と名付けました。

ちなみに「実存」とは、哲学用語で「主観とか客観とかに分けてとらえる前の、存在の状態。ここに今あるということ。」という意味になります。



タモリ学2:人間は不自由になりたがっている

タモリさんは、キルケゴール(デンマークの哲学者)の言葉「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である。」 を引用して、下記のように解説します。



自分で何かを規定し、決定し、意義付け、存在していかなければならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」伴うと。この不安をなくすためには「自由」を誰かに預けたほうがいい、と人間は考える。
(中略)
だから人は、「家族を大切にする父親」であったり「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると、安心するのだ。その「役割」の糸こそがシガラミである。



自由には責任や不安が伴うので、その不安をなくすために、多くの人は何かに所属して安心を得ようとします。そしてより大きな安心を得るために、「一流大学→一流企業」という道を選択するのです。しかし、その分、シガラミも多く、嫌なコミュニティでも辞められず、精神的に疲弊してる人が多いのが現状です。


そんなシガラミだらけの人間関係に対するタモリさんの結論がこれまた凄いのです!



タモリ学3:若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!




大学時代は、そのシガラミがほとんどない時期である、とタモリは言う。そこでその時期にこそ「実存のゼロ地点」を通過しなれればならない、と力説するのだ。「若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。それを経験しているのとしていないのとでは、大人になった後、腹のくくり方や覚悟の仕方が違ってくる

ゆえにそんなシガラミを象徴するような各種行事を排除していかなければならないと、タモリは結論付けるのだ。結婚披露宴、クラス会、そしてクリスマスにバレンタインデー・・・それらの各種行事は「不自由になりたがっている」人間が不安から逃れるための幻想、錯覚、自己喪失の場であり、排除すべきものだ、と。
(中略)
「俺はすべての記念日(のパーティは)やんない。自分の誕生日もやんないもん。(プレゼントも)受け付けない。(他人にも)ほとんどあげない。もらわない、あげない。年賀状出さない」



実存のゼロ地点とは、先述した通り、自分を成り立たせている「余分なもの(横軸と縦軸)」を切り離した、主観とか客観とかに分けて捉える前の存在の状態のことです。これを、「シガラミがほとんどない時期に経験することで、腹のくくり方や覚悟が変わる」というのは、非常に興味深い話ですよね。

学生という役割を与えながらも、日本の多くの学校は、あまり勉強しなくても授業に出席しなくても、卒業できてしまうシステムです。部活やサークル、バイトだって、行かなくても何のデメリットもありません。

よくよく考えてみれば、学生時代は実質シガラミなんてほとんどありません。そんな時期に、わざわざ成人式とか結婚式とか同窓会とかの各種行事にわざわざ行く必要も、パリピでもなければありません。

各種行事とは、ある種の宗教みたいなもので、人間が不安から逃れるための精神安定剤みたいなものです。芸人の有吉さんとコラムニストのマツコデラックスさんも、怒り新党で各種行事について否定的な意見を仰っていました。


タモリ学4:人間関係をうまくやるには、偽善以外にないんじゃないか



しかし一方でタモリは「最近、『人間関係をうまくやるには、偽善以外にないんじゃないか』って思ってる」とも語っている。ネクタイを締める、制服を着る、食事のマナー、そういった「様式」をタモリは「偽善」だという。

そしてタモリは「マナーと美意識も偽善」であるといい、さらに「偽善は善意」「偽善を楽しめばいい」とも述べている。「偽善って、徹底的にやると、これまた、別の楽しみがあるんです



やっと本題ですw

人間関係をうまくやるには偽善以外にないって、もの凄い考えさせられる内容です。偽善とは「本心からでなく、うわべをつくろってする善行。」のことをいいます。

ネクタイとか制服、スーツって基本的に着なくても別にいいものですが、しかし、それを偽善といい、偽善は楽しめばいい、徹底的にやると別の楽しみがあるんだよ!とタモリさんは仰っています。

ホリエモンやFacebookの創始者マーク・ザッカーバーグ、Appleの創始者スティーブ・ジョブズも、「様式なんてクソくらえ!」と言わんばかりにTシャツ、ジーパン姿で重要な会社の打ち合わせに出席していました。

しかし、今までスーツやネクタイといったものに反発して生きてきた彼らも、歳を重ねるごとに、TPOに合わせてスーツやネクタイをする姿をよく見かけるようになりました。

堀江貴文氏の60万部以上売れたと言われる著書「ゼロ」の帯には、「スーツにネクタイ姿の生まれ変わったホリエモンの姿が大々的に掲載」されています。Tシャツ・ジーパン姿でフジテレビや球団買収に臨んでいた彼の姿はもうありません。

それは、タモリさんのお言葉を借りて言えば、「人間関係をうまくやるには、偽善以外にない」と気付いたのかもしれません。そして大事なことは、「楽しむ」ということですね。中途半端に嫌々やるのではないということです。



いかがでしたでしょうか?
この他にも沢山の興味深いエピソードが綴られているので、ご興味ある方はぜひ読んでみてください。











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