火曜日, 12月 13, 2016

ピアノが好きな女の子がデビューするまで Chara|INTERVIEW

 

 

ピアノが好きな女の子がデビューするまで Chara

紡ぎだす曲も、個性的な声も、しなやかな生き方も。「Chara」という世界はいつの時代も私たちの心をつかんで離さない。ピアノが好きなちっちゃな女の子が、時代のアイコンとなるミューズへ。そのルーツをCharaさんが語る。






ちっちゃい女の子の音楽の思い出



――幼少期はどんな女の子でしたか? 当時の音楽の思い出は?

背がちっちゃくて、本名が美和なので「みーちゃん」って呼ばれてました。幼稚園の先生がオルガンを弾く姿に憧れて、目で見て耳で聴いて覚え、休み時間にオルガンを触らせてもらって。それを先生が見ていたのか、ある日帰りの会で歌を歌うときに、「みーちゃん、弾いてみる?」と声をかけてくれて。みんなが私の伴奏に合わせて歌を歌ったの。「小さいみーちゃんでも役に立ってる! 何かを動かせた!」みたいな感覚を初めて味わい、音楽ってすごいなぁ、って感動したのを覚えています。

ピアノを習い始めたのは、小学校に上がったころ。隣りに住んでいた同級生の女の子が音楽教室に通っていて、「私も行きたい」と親に頼み込みました。その教室で試験を受け、作曲のメソッドを勉強する専門コースに進むことに。譜面を起こして曲を作ったり詞を書いたりと結構本格的だったなぁ。合奏するカリキュラムなんかもあって、楽しんで通ってましたね。



――ご家族は音楽好き?
 
普通。家にレコードは何枚かあったけれど、映画音楽とかクラシックとか。ビートルズが1枚だけあったなぁ。ただ、実は母が昔バスガイドになりたかったらしく、歌が大好きで。お母さんって即興で適当に歌とか作ったりするじゃん? うちの母はそういうのがめっちゃ得意で、謎のオリジナルソングを歌ってました(笑)。童謡も好きで、よく一緒に歌いました。

あと、私はちっちゃいころからおばあちゃんが大好きだった。妹が生まれたとき、おばあちゃんに連れられて病院に行ったんです。もうすぐ2歳になろうとしていた私は、新しい仲間ができてうれしい半面、なんかヤキモチもあったみたいで、「早く帰ろうよ」ってせがんだんだって。おばあちゃんにおんぶされた帰り道、空には月がぽっかりと浮かんでいた。それを見ながらおばあちゃんと一緒に「月がとっても青いから~♪」って歌ったの。そのときのきれいな月夜とおばあちゃんの歌声は今もはっきりと覚えていて。




「チャラ」というニックネームをくれた先生



――小学校、中学校時代の思い出は?

小学生のころは、おとなしいけどピアノは上手な女の子、っていう感じだったかな。
3年生のときに、代用教員のよしこ先生が「チャラ」っていうニックネームをつけてくれて。「切り替えが早くて、次のことにしゃらっと打ち込む」というような意味だったみたい。背がちっちゃくてチョロチョロしていたところに引っ掛けて、「しゃら」から「チャラ」になったのかもね。小学校の3年、4年って、体も脳も一気に成長して変わる時期。

小さくて泣き虫だった私も、急に足が速くなったり、人前で何かすることが嫌じゃなくなってきたりして積極的な部分が出てきた。そういう時期にキャッチーなニックネームをつけてもらったのは、なんだか特別な感じがして、とても気に入りました。

そして、このころやっとピアノを買ってもらえて。ピアノはずっと習ってたんだけど、家での練習はなんと紙の鍵盤(笑)。長続きしないと思ってたのかもね、親は。結局、父が酔っ払ってるすきに母と注文しちゃいました(笑)。

中学では放送委員に。委員長が音楽好きで、ソウルやニューウェーブのレコードを聴いたりしました。お昼の放送当番は楽しかった。「リクエスト募集中!」なんてDJ気取りで(笑)。そしたらツッパリから横浜銀蝿とかのリクエストが殺到して、曲をかけたら風紀委員の先生が慌てて飛んできたりしてね。時代だよねぇ(笑)。



――どんな音楽が好きでしたか?

ピンクレディは好きだった。あと、耳コピして初めて弾き語りをしたのは、小坂明子さんの「あなた」。曲というか、グランドピアノに憧れたんだよね。憧れすぎて、「私がお嫁さんに行くときにはグランドピアノを買って」って親にお願いしたんだって。そしたら、本当に結婚するとき母から「グランドピアノはどういうのがいいの?」と。いやいやいらないから! てか覚えてたんかい!(笑)。お嫁入り道具は何もいらないって言ってたんだけど、親心としては何か買ってあげたかったんだろうね。

初めて買った洋楽のレコードは、アイリーン・キャラの「Fame」。アイリーン・キャラは映画「フラッシュ・ダンス」で有名だけど、この「Fame」も彼女が主演した映画の主題歌。「何これ!? ピュンピュンしててカッコイイ!」みたいな(笑)。このレコードがきっかけでシンセサイザーが好きになりました。





デビューできたのは踊りがよかったから!?




――バンドを組んだりは?

高校に入ったぐらいから友達や知り合いから頼まれて、いろんなバンドで鍵盤弾きをしてました。フュージョン系がはやっていたので、高中正義さんとかガッツリ弾かされて。「これじゃないんだよなぁ」と思いながらも、友達と一緒にやるのは楽しかった。高校は女子校に進学し、学園祭ではガールズバンドを結成。マドンナとかゴーゴーズとか、女の子がやってかわいい感じの簡単な曲をコピーしました。学園祭の1日目は私服の衣装だったんだけど、2日目から私服禁止になっちゃって、制服でやることになっちゃったのはなんか悲しかったな。



――歌は歌っていなかった?

歌ってない。音楽は好きだけど、曲を作ったり楽器を弾いたりする人がカッコいいと思ってたし、そういうクリエーティブなことのほうが自分らしいと思ってたから。そもそも歌った経験がないからどうやって歌えばいいのかわからなかった、というのも正直なところだけど。

歌うことになったのは、高校時代からレコード会社の人と知り合いになる機会があり、「デモテープ作ってあげるから歌ってみない?」と誘われたのがきっかけ。プロのスタジオでデモテープって、なかなかできない経験で、なんかうれしいじゃない? それからライブでも自分で作った曲をちょいちょい歌うように。

そうこうしているうちに、あるライブで「今日はえらい人が来ていて、その人がOKを出したらデビューできる」と。へぇ、と思いながらライブが始まったら、最前列にめっちゃノリのいいおじさんがいて。私もそのおじさんに向けてノリノリで踊ったら、合格しちゃった。その白髪で紺色ブレザー姿のおじさんが「えらい人」だったの(笑)。受かった理由が「歌はまだまだだけど、踊りがよかった」。踊ってよかった~!って(笑)

そしてデビューが決まりました。「芸名どうする?」って聞かれ、何も考えてなかったけど「Charaでいいんじゃない?」って。個性的だけど覚えやすいし、何より呼びやすいしね。




――1991年、「Heaven」でデビューしました。

わからないことだらけで、正直、いやなことも結構あったかな。たとえばインタビューを受けるのも初めてで、今みたいにちゃんと話せないし、きっとプロのインタビュアーが引き出してくれるものだと思ってた。プロのデザイナーも、多くを言わなくてもちゃんとデザインしてくれるものだと思ってた。でも、どうもそうでもないぞ、と。ちゃんと言わないと伝わらないし、ときにゆがんで伝わっちゃうこともあると知りました。あとは、若かったからちょっとセクシーめいた雑誌から取材されたり。「なんか違くない?」っていうことは少なくなかった。91年はバブルの真っただ中、おもしろい時期だったけど、調子のいい人もいっぱいいたからね。

だから、イヤなことはイヤだって言うようになった。ときには泣いて訴えたことも。業界のよくないイメージや習慣みたいなものを、ちょっとずつでもいいから変えたい。そう思ったんだよね。








 

デビュー25年「今、自分の声を鍛えはじめている」



25年間、変わることなく「愛」を歌い続けてきたChara。
音楽、女優、結婚、出産、子育て、離婚、そして今――。
その半生と、ようやく見つけた「本当の声」とは。




グリコちゃんなら演じてみたいと思った



――ミュージシャンとしてだけではなく、「PiCNiC」(96年)、「スワロウテイル」(同)と、女優として映画にも出演されました。監督の岩井俊二さんとの出会いは?




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岩井さんが監督した「フライド・ドラゴン・フィッシュ」というテレビ映画のエンドロールで、私のファーストアルバム「Sweet」に収録されていた「Break These Chain」という曲を使いたい、と。それがきっかけで「スワロウテイル」に出演することに。でも、いきなり大作映画は不安だろうと、「PiCNiC」というショートムービーを経験させてもらうことになったんです。

なんで私を演者として使おうと思ったのか、その理由は岩井さんに聞いたことがないからわからない。でも、「スワロウテイル」の絵コンテは、私の3枚目のアルバム「Violet Blue」を聴きながら描いたと聞きました。



――演じることへの戸惑いや難しさはありましたか?

セリフが中国語だったのは難しかった。長いセリフのときは「代わりに歌わせて!」とかは言ったかも(笑)。でも、私が演じたグリコちゃんは私と同じ歌手だし、娼婦という役どころも大きかった。若いころからゴダールの映画に出てくる娼婦に憧れていて、「無償で与える愛」にも興味があったから。グリコちゃんは、まさに娼婦で愛する人のために歌を歌う役。それなら演じてみたいし、演じられるような気がした。それはあったかもしれないですね。



――驚いたのが、「スワロウテイル」の撮影は、長女SUMIREさんを出産された直後だったとか?

そうなの! 「スワロウテイル」の撮影予定の前の年、「PiCNiC」の撮影で恋に落ち、身ごもり、妊娠7カ月で入籍。出産してドラえもんみたいにパンパンになっちゃったから、実は「スワロウテイル」の撮影は、私の「痩せ待ち」をして始まったんです(笑)。

あのころは仕事も子育てもめちゃくちゃ大変だったけど、迷いはなかった。子どもができて楽しいし、お母さんになれてうれしかったし。音楽でもいろんな人とセッションして、もっともっといい曲を書きたいと思ってた。「まだまだこれから!」という前向きな気持ちが強かった。ただ、妊娠したとわかった直後は辛かった。公表できなかったから。





途中で中断した伝説の武道館ライブ



――妊娠判明の直後にあった94年の武道館ライブは、ライブが途中で中断するなど、ファンの間では伝説になっています。そのライブがドキュメンタリー映画となって、先日公開されました。

妊娠がわかったのはライブの2日前ぐらいだったような気がしていたんだけど、あのときのツアーメンバーによると「ライブの日の午前中に病院に行ってわかったんだよ」と。

あれ、当日だったんだって。メンバーは私の様子がおかしかったこともよく覚えていて、普段ライブの前は何も食べないのに、「あの日のChara、直前までハンバーグ食べてたし」って(笑)。

なにか食べなきゃ、体力つけなきゃ、って思ったんだろうね。衣装もとても妊婦が着るようなものじゃないし、パフォーマンスでジャンプもするにはするけど、母性が芽生えたのか途中からだんだん保守的な気持ちになっていって。そんな自分がイヤでパニックになっちゃったんです。

それでお蔵入りになっていた映像が、今回22年ぶりに解禁。自分のことだからそうそう驚かないだろうと思ってたけど、大画面で見て久々に口があんぐり開きました(笑)。今なら「イエーイ、ママになれたよ!」って堂々と言えるんだろうけど、当時はそれが許されなかった。その業界の常識みたいなものがイヤで、それから色々変えていったんだけどね。



――出産後の97年にリリースした「Junior Sweet」は、ミリオンセラーを記録する大ヒットとなりました。妻となり母となり、創作活動に変化はありましたか?

独身のころは、好きなときに曲を作っていたけれど、特に子どもが小さいときはそれじゃあダメだと思った。実は自宅でヘッドホンしながら曲作りをしていたら、旦那が「子どもが泣いてるよ」って。お前が見ててくんねーかなと思いつつ(笑)、やっぱり慌てて子どものところに行くじゃん。そのとき、どっちも中途半端だと思ったの。子育ても音楽も。そして、曲作りは「行ってきます」と家を出てから「ただいま」と帰ってくる間だけでやる、それができなければ音楽をやる資格はない。そう自分で決めました。
 
作品を作る上で大きく変わったのは、詞かな。

以前の私は、人と同じことはしたくなくて、誰もが使うような言葉をあえて避けてきた。でも、子どもがゼロから言葉を覚えていくのを近くで見ていて、シンプルな言葉が持つ力に気付いたんです。そこらへんに落ちている言葉にどんどん興味が湧いてきて、使える言葉の幅がグンと広がった。そして、自分の言葉に責任を持つようになりました。言葉って、一度出したら戻せないからね。




25周年のベスト盤



――デビュー25年を迎えた今年は、「Junior Sweet」のリマスター盤をリリースし、その全国ツアーを開催。映画「スワロウテイル」の劇中バンドであるYEN TOWN BANDも復活し、さらに11月には25年の集大成とも言えるオールタイムベスト「Naked & Sweet」を発売しました。

25年ってありがちだから、26年でもいいんじゃん? とかも思ったんだけど(笑)、25年をきっかけに懐かしい友だちに会えたり、その仲間たちと一緒に作った曲をじっくり聞き返したりできた。それは純粋にうれしかったですね。それに25年を振り返ることで、自分について気づくことがあったり、自分自身に影響されたりした。それは発見だった。

ベスト盤は3枚組で、1枚目がデビューから結婚、SUMIREちゃんが生まれるまで、2枚目が「スワロウテイル」から「Junior Sweet」、そして息子が生まれるまで。3枚目は離婚後も含めてこれまで、と、もうまさに私の半生そのもの。おもしろいのが、子どもが思春期に差し掛かってきたことで、3枚目に収録されている最近の曲に、私が忘れかけていた思春期を感じさせるものが多いんです。なんだか回ってるなぁ、と。それもまたおもしろくて。


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――オールタイムベスト、どんなふうに聴いてほしいですか?

同世代の方には自分の思い出や人生と重ね合わせてもらうのもいいし、「ママが聴いてた青春の歌。歌詞カードに印つけといたから」みたいな感じで(笑)、親子で楽しんでもらってもステキ。25年分で曲数も多いので、聴く人それぞれの気分やシチュエーションでチョイスし「渾身(こんしん)の1枚」を作ってもらっても。そうやって愛する人や大切な人たちとシェアして、同じ時間を過ごすときに役立ててもらえたらいいな。愛を歌った曲ばかりだから愛の告白にも使えるし、活用法いろいろです。




やさしいミドルボイスを使えるようになりたい




――まもなく50歳。女性としてその年齢になって感じることは?

折り返しは過ぎたけど、その分豊かになってきた部分は多いと思うし、老いていくことにちょっぴり楽しみも感じていて。たしかに若いころにはなかったひざ肉が増え(笑)、生足はきつくなったけど、だったらいいストッキングを探せばいい。コスメもそうだけど、年相応にアイテムを増やすのはアリだし、それも楽しいと思うんです。

それに最近、よく笑ってる気がする。「わはははは!」って豪快に。笑うと目元にシワはできちゃうけど、それもいいじゃん。そんなこと気にする男なんて興味ない!(笑)。いくつになっても恋愛はしたいけど、誰でもいいって訳じゃないからね。恋愛でもなんでも、人がなんと言われようが怖がらずに挑んでいきたいよね。




――年を重ねたからこその豊かさ、それは音楽にも生きている?

生きると思う。歌を歌う「楽器」としては結構ビンテージものになってきたけれど、この5年ぐらいで、この楽器を上手に鳴らすにはどう歌うといいかがようやくわかってきた気がするんです。そんな中で、私の本当の声ってもうちょっと優しいミドルボイスなんだ、と。個性的な歌い方でデビューして、誰からも歌い方を教わることなくここまできたけれど、年齢と経験を重ねてようやくそのことに気づくことができた。

これからも歌い続けていくならば、そのミドルボイスを使えるようになっていきたい。実は、昔から時々お世話になっているボイストレーニングの先生がいて、つい先日のレッスンで「私はこれから『本当の私の声』を探したい。それに向けてのレッスンを手伝ってほしい」と伝えたら、「それを待っていた!」とめっちゃ感動してくれて。デビュー25年を迎えた今、自分の本当の声を鍛え始めてるんです。


先人たち、先輩たちの歌を聴いてグッとくることがある。目指しているのはあそこ。その領域に仕上がるのは……いつだろうね? 

自分でもその日を楽しみに歌い続けていくつもり。






Chara

1991年、シングル「Heaven」でデビュー。
1996年、岩井俊二監督映画「スワロウテイル」に出演、劇中のバンドYEN TOWN BAND のボーカルとして参加したテーマソング「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」が大ヒット。
1997年のアルバム「Junior Sweet」は、100万枚を超えるセールスを記録。
この頃からライフスタイルをも含めた“新しい女性像”としての支持も獲得。
2015年、伝説のバンド「Yen Town Band」 が復活、ライブ・楽曲制作が始動。

2016年、デビュー25周年を迎え、「Junior Sweet」のリマスター盤を9月に、オールタイムベスト「Naked & Sweet」を11月にリリース。



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Naked & Sweet



Charaオフィシャルサイト: http://charaweb.net/















リップヴァンウィンクルの花嫁