火曜日, 6月 21, 2016

「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)













LINE開発の引き金となった「暗黒時代」

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(4)


なぜ検索事業での成功を夢見ていたチームが、LINEを開発することになったのか。LINEの前身であるネイバージャパンの歴史を知らずして、その謎を解くことはできない。
 「LINEストーリー」は、ネイバージャパンを立ち上げた慎(シン)ジュンホ取締役CGO(最高グローバル責任者)の来日に端を発する。
 「日本市場で検索事業を成功させる」というミッションのもと、組織の風土を固め、チームを形成。競合だった中国の検索大手、バイドゥ(百度)の日本法人で取締役を務めていた舛田淳氏を迎え入れたところから、本格的なサービスの開発が始まった。
 だが慎が築いたチームはしばらく、苦悶の日々を送る。連載4回目は、舛田氏がネイバージャパンに合流した2008年から、LINEの開発に着手する直前までの、知られざる「暗黒時代」を追う。


(「「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)」からお読みください)







「全社員がうなだれていた」

 

「LINE、純損失79億円」。6月10日、LINEの上場が確定し、有価証券届出書が開示されると、一部メディアはそう見出しをつけて報じた。非上場だったLINEは、連結の最終損益を明らかにしていなかった。

届出書によると、2015年12月期決算(国際会計基準)は、連結売上高が前年同期比39%増の約1206億円。一方、最終損益は約79億円の赤字だった。

赤字の主な要因は、2015年3月に米マイクロソフトから買収した元ノキアのラジオ型音楽配信サービス「MixRadio」の事業撤退だ。成長が見込めず、日本とタイで展開する定額制音楽配信「LINE MUSIC」に集中するために精算した。

ただ、LINEにとって、会社の存続を憂うほどの問題ではない。年間で1200億円以上もの売上げを稼ぐLINEという金城湯池が、今もなお成長の途上にあるからだ。

それにLINEの前身であるネイバージャパンは、ヒットに恵まれず、赤字が積み重なる「暗黒時代」をくぐり抜けてきた。その時代に比べれば遥かにましだ。



慎ジュンホ取締役(左)と舛田淳取締役(右)は、ともに「暗黒時代」をくぐり抜けてきた盟友



「私が入った頃のネイバージャパンは、ひどく落ち込んだ雰囲気でした。せっかく作った完成間際の(Q&Aサイトの)『知識iN』をつぶしたばかりの頃で、全社員がうなだれていたんです」

2008年10月、慎(シン)ジュンホの導きでネイバージャパンへ入った舛田淳は、当時の社内をこう振り返る。

韓国の本社、ネイバーが検索事業のシェアをQ&Aサイトと両輪で伸ばした手法は、日本では通用しそうにない。しかし、ヤフーやグーグルを相手に検索サービス単体では、勝負にならない。

舛田が合流した以降も、日本の文化に合う、新しい形の知識共有サービスの開発、そして、「知識共有サービスと検索サービスの融合」への挑戦を続けていた。舛田曰く、「この時からずっと、暗闇の中でホームランだけを狙って素振りを続けていた」

“素振りチーム”には、慎、舛田の2人に加え、数人のメンバーが加わり、昼夜問わず議論を続けた。そんな折、メンバーは1つの光明を見出す。当時、急速に広まりつつあった、膨大なウェブコンテンツをテーマごとにまとめる「キュレーション」のサービスである。



お酒を飲みながら男泣きした日々

プロジェクトをけん引したのは、現在、LINEでメディア事業を統括する上級執行役員の島村武志。島村はネイバージャパンが検索事業から撤退する前の2004年から同社に在籍する古参だ。

その島村を中心に開発に着手。数回の大幅な手直し、数回のお蔵入りの危機を乗り越え、翌2009年7月、ようやく「NAVERまとめ」をリリースする。同時に、日本では2回目となる検索サイト「NAVER検索」もオープンさせることができた。



2009年7月にオープンした「NAVER検索」の画面(当時)


NAVERまとめは、いわゆる「まとめサイト」の走り。例えば「彼女を誘いたい渋谷の夜景が見えるバー」といったテーマで、一般ユーザーがウェブサイトから独自の視点で情報をまとめていく知識共有のプラットフォーム。ネイバージャパンとして初めて、日本で存在感を見せたサービスとなった。

今では、NAVERまとめは月間約24億件ものアクセス数を稼ぎ、近年、日本で最も成長したウェブサービスとも言える。だが当時は、出足が好調だったとは言え、ヤフーなど国内大手に伍するようなウェブサービスには成り得ない規模だった。

一方、肝心の検索サービスはと言うと、NAVERまとめとの相乗効果はあまり得られず、利用はほとんど伸びない。

検索をテコ入れするため、その後も、慎を中心とするメンバーは馬車馬のように新規サービスの開発を続けた。オンラインストレージの「Nドライブ」、マイクロブログの「Pick(ピック)」に加え、「映画検索」「グルメ検索」など的を絞った検索の新メニューを増やしていく。が、どれも刺さらない。



徒手空拳、暗中模索、迷走……。お酒を酌み交わしながら夜な夜な男泣きをした日々のことを、慎は今でも忘れない。

「その時期、お酒を飲んだりすると必ず、誰かが泣いちゃうんですよ。何回も日本での成功を諦めようかと思うくらい、あまりにもストレスが溜まっていたので。私も、もどかしさや、いろいろな思いが混じって、気づいたら、泣きながら何かをしゃべっていました」

慎、舛田、島村。そこに、慎が「日本のお父さんのよう」と慕う、ネイバージャパン社長の森川亮も参加して、毎日のように昼食と夕食をともにしていた。

森川は、韓国ネイバー(当時の社名はNHN)の日本法人で、ゲーム事業を手がけるNHNジャパンの社長も兼ねていた。ネイバージャパンはNHNジャパンの子会社で、検索事業の挑戦は基本的に慎らに任せていたのだが、苦悶するメンバーを見かねて、飲みに誘うことも多かった。

その森川も、飲みながら泣く慎らメンバーにつられ、一緒に泣いていた。それほど、ネイバージャパンは追い込まれていた。

目先を変えるしかない。悩みに悩んだ末に仕掛けた起死回生の策が、旧ライブドアの買収である。



「新生ライブドア」買収に活路も、不発に

 

2006年1月にライブドア創業社長の堀江貴文ら4人の幹部が証券取引法違反容疑で逮捕されて以降、多くの社員や役員が去っていった。その中で、残ったメンバーは必死でライブドアの看板とサービスを守り続けていた。その筆頭が、出澤剛だ。

2004年にライブドアの前身であるオン・ザ・エッヂに入社した古参の出澤は、事件後の2007年に新生ライブドアの社長に就任。ブログやニュースサイトなど、残された主力サービスを着実に回復させていた。

一方、当時の新生ライブドアの株主だったファンドは、ライブドア株を売却しようとしていた。そんな情報を得た舛田が、触手を伸ばす。

自分たちでゼロからサービスを作るのではなく、既存のウェブサイトを買い、そこに検索エンジンを供給すれば、時間短縮が図れる。ライブドアは売上げもあるし、いい人材も残っている――。そう考えた舛田は、森川と慎にメールを送り、翌日には買収のGOサインが出た。

「ブランドも事業も独立性も守ります」「僕たちが幸せにします」。森川、慎、舛田が総がかりで、出澤を中心とするライブドア幹部を説得。2010年4月、ネイバージャパンの親会社、NHNジャパンによるライブドアの子会社化が決まった。



2010年4月、ライブドアの子会社を発表するNHNジャパンの森川亮社長と、ライブドアの出澤剛社長(当時)



これにより、慎・舛田率いるネイバージャパンとライブドアは兄弟会社となり、シナジーを模索していく。だが、結論を言うと目論見は外れ、いよいよネイバージャパンは、ついに「限界」に達するのだった。



買収発表から約5カ月後の2010年9月、ライブドア上の検索すべてが、ネイバージャパンによる「NAVER検索」へと刷新され、ネイバージャパンの月間利用者数は約1000万人まで増えはした。だが、事業シナジーはそれで頭打ちとなる。

買収当時の力関係を数字で現すと、ゲーム事業の「ハンゲーム」が好調のNHNジャパンは国内で約4000万件のユーザーID数があり、売上高は2009年12月期で約120億円だった。

その子会社となったライブドアの売上高は約93億円(2009年9月期)で、月間利用者数は約3000万人の規模。対して、ライブドアと兄弟会社になったネイバージャパンの月間利用者数は約134万人にすぎなかった。それでも、ネイバージャパンは買った側。一方で買われたライブドアにもプライドがあった。

慎と舛田、そしてライブドアから出澤が出席する会議では、互いの主張が噛み合わない。

「ライブドアさん、赤字でもいいので、膨大な顧客基盤を生むナンバーワンのサービスを作ってください」。そう迫る慎や舛田に対して、収益化を重視してきただけに戸惑いを隠さなかった出澤。ライブドアの独立性を守ると約束した手前、慎や舛田もそれ以上は干渉できない。

結局、ネイバージャパンは独立独歩でヒットを出そうと、打席に立っては空振りする日々に舞い戻り、舛田は、ライブドアの買収を「我々のスキル含めて、上手く生かすことができなかった。失敗だったかもしれない」と思い悩むようになる。



スマートフォンに懸けた不退転の決意

 

結局、不発に終わった起死回生策。舛田は当時をこう振り返る。

「呼吸することも忘れるぐらい、ものすごいスピード感で開発を続けていたので、無理をさせていた組織にも限界が訪れ始めていた」

そして2010年末、慎と舛田は、ある決断を下す。しばらく続いた暗黒時代が2人に決断を迫った、と言ってもいい。

パソコン向けのサービスは捨てよう。「検索」にとらわれるのもやめよう。とにかく、日本中のユーザーが使ってくれるようなスマートフォン向けのサービスを作ろう。それに、すべてを懸けよう――。

組織をリードしてきた慎、そして舛田自身も限界に来ていた。これまで投じた先行投資を考えると、もはや自身の責任からは逃れられない。これがダメなら……。

この不退転の決意が、LINEという超特大級のヒット作を生む直接的な引き金となったのだ。




 (続く)






「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)