火曜日, 6月 21, 2016

「LINEの中身」 慎ジュンホ(5)














LINE開発前夜、振り切った「決断」

 

LINE誕生の起点、慎ジュンホ(5)

 



2011年6月、アップストアに「LINE」が登録された瞬間、当時の技術陣に笑みがこぼれた


東日本大震災後の2011年6月、韓国のインターネット大手、ネイバー(当時はNHN)の日本法人であるネイバージャパンから、LINEというメッセージアプリがリリースされた。ネイバージャパンは後にLINEへと社名変更、今年7月中旬、日米同時上場を果たす。

韓国のネイバー本社から慎(シン)ジュンホ氏が来日し、ネイバージャパンという組織の礎を築いてから約3年。慎を中心とするメンバーは、幾多の艱 難辛苦を乗り越え、LINEを生み出した。しかも、本格開発を決めてから約1カ月半で完成させるという驚異的なスケジュールで。

「LINE誕生の起点、慎ジュンホ」編の5回目(最終回)は、LINEの本格開発に着手する前夜、検索事業を捨て、メッセージアプリの開発にすべてを注いだ「決断」に焦点を当てる。

「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)からお読みください)



 

 

報酬「52億円」の理由

 

LINEという会社はあらゆる点で規格外だ。プロダクトそのものの展開もさることながら、経営体制やその処遇も“普通”じゃない。

代表権を持ち、社長CEO(最高経営責任者)を務める出澤剛がLINEの顔であることは間違いない。出澤ら経営陣は今、7月中旬の日米同時上場を 前に、ロードショー(投資家向け説明会)のため海外ツアーに出ており、上場当日は鐘を鳴らす出澤の顔が世界中で報じられるだろう。

だが、報酬を見ると出澤が突出しているわけではない。

上場に際してLINEが提出した有価証券届出書には、2015年度の報酬額が1億円を超えた役員として、出澤のほかに取締役CSMO(最高戦略・マーケティング責任者)の舛田淳と取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎(シン)ジュンホの2人が名前を連ねている。

これによると、出澤が約1.3億円、舛田が約1億円(総額の6~7割がストックオプション)。

対して慎は、約52億円と突出している(約98%がストックオプション)。

これは、慎がLINEの前身であるネイバージャパンを実質的に立ち上げた功績への「報い」なのだが、自らのクビを懸け、組織全体のリソースをLINEへと一気に集中させた、かつての決断への報いでもある。




LINE取締役CGO(最高グローバル責任者)の慎ジュンホ氏
2010年秋、慎を中心とするネイバージャパンの主要メンバーは、途方に暮れていた。

韓国で7割以上のシェアを誇る「NAVER検索」を日本でリリースするも、マイナーなサービスとして埋もれたままだった。ライブドアを買収するという奇策に走るが、それも不発に終わる。

ホームランを狙い何度も打席に立つが、打てども打てども空振り。よくてヒット。先行投資がかさみ、メンバーの精神は限界に達していた。誰よりも責任を痛感していたのが、慎だった。

当時、ネイバージャパンは、ゲーム事業を手がけるNHNジャパンの子会社で、韓国ネイバー(当時はNHN)からすれば孫会社。NHNジャパンの社長だった森川亮がネイバージャパンの社長も兼任していたが、事業開発や現場のオペレーションは、ほぼ慎に委ねられていた。

「自主独立」「カルチャライゼーション」の経営方針のもと、韓国本社からは一線を画した経営を貫き、独自のサービスを矢継ぎ早に打ち出すも、結果を出すことができない。

慎はネイバー創業者の李(イ)ヘジンから絶大な信頼を得ていたが、慎は「必ずしも韓国本社の全員が自分のやり方に賛同していたわけではない」と感じていた。何より、慎が来日して以降、ライブドアの買収も含めて100億円以上は費やしていることへの引け目があった。





「ゲーム、画像、コミュニケーション」に特化

 

次に実績で「証明」できなければ、退場せざるを得ない。追い込まれていた慎は、連日連夜、主要メンバーと議論を重ねる。

慎と森川に加え、企画・戦略・マーケティング全般を見ていた舛田。「NAVERまとめ」の立ち上げなど現場リーダーを務めていた古参の島村武志。慎が韓国から一緒に連れてきた「技術の要」の朴イビン……。

達した結論は、「日本中のユーザーが使ってくれるようなスマートフォン向けのサービスにすべてを懸ける」というものだった。

もはや、「検索事業」にこだわっている場合ではない。「圧倒的な集客力」があるサービスを作らなければ、この数年の「暗黒時代」を正当化することはできない。

ちょうど前年の2009年秋に日本でも初めて「iPhone」が発売され、スマートフォンの波が訪れつつあった。今から挑戦して圧倒的なユーザー規模を得られる可能性があるのは、これしかない。メンバー全員の意志が一致した2010年10月、慎はある指針を打ち出す。


 「ゲーム、画像、コミュニケーション。これに特化しましょう」



ゲーム、画像、コミュニケーション。この3つは、パソコン、フィーチャーフォン、いつの時代も新たなプレイヤーが勃興するチャンスを与えてきた。スマートフォン時代にも同じことが起こると慎は踏んでいた。

このうち、スマートフォンに特化したゲーム事業は、NHNジャパンが手掛けることにした。NHNジャパンの「ハンゲーム」事業は、パソコン向けでは好調だったものの、携帯電話向けゲームサイトで勃興した「GREE」や「モバゲー」に押され、テコ入れが必要だったからだ。

一方、ネイバージャパンには、画像とコミュニケーション関連の新規サービスを模索するチームが立ち上がる。2010年の年末が近づくと、スマート フォンで写真を共有する「アルバム」アプリや、「名刺」を起点としたSNS(交流サイト)など、さまざまなアイデアが現場から上がった。同時に浮上したの が、LINEの原型となるアイデアだ。

「米スタンフォード大学の論文をみんなで読んだりして、人間関係をベースにしたアクションを徹底的にリサーチした結果、『親しい人同士のコミュニ ケーション』に活路があるのではないか、という提案をしました。ツイッターやフェイスブックを使ってはいても、毎日会う友達とは絡まないよねと」

こう振り返るのは、チームのメンバーだった稲垣あゆみ。時期は重なっていないが、舛田がいたバイドゥ(百度)日本法人から2010年5月にネイ バージャパン入りしたメンバーで、今ではLINE本体や店舗向けアカウント「LINE@」の企画・開発を担う最年少の執行役員である。




「もしダメだったら、責任をとろう」

 

親しい人とのコミュニケーションをテーマとした「メッセージアプリ」は、ありなのではないか。2011年の年明けから、稲垣の提案をベースにLINEの骨格が作られていった。

世界を見渡せば「WhatsApp(ワッツアップ)」や「カカオトーク」といったメッセージアプリが勃興しているが、その波はまだ日本には届いていない。そろそろ開発に着手しようか。そんな矢先の2011年3月、東日本大震災が起きる。

電話はつながりにくくなり、福島の原子力発電所の事故で先行きが不透明となり、外資系企業の多くは業務機能を東京から大阪などへ移した。ネイバージャパンも一部業務を福岡へと移し、業務連絡はツイッターなどを通じてやり取りしていた。

実は、メッセージアプリの開発については、ネイバージャパン社内で賛否があったのだが、この震災を経て、慎と舛田が振り切るのである。



「既に、ワッツアップやカカオトークといったメッセージアプリがある中で、それらに勝る機能を打ち出せていない」「カカオトークの韓国での爆発的な普及が日本やアジアにも伝播するのではないか」……。

ネイバージャパンがメッセージアプリを開発することに対して、そういった反発が社内の一部であった。

とは言え、ワッツアップもカカオトークもまだぎりぎり、日本に上陸してはいない。しかも、震災で日本全体が不安に襲われる中、親しい人とのコミュニケーションの重要さが改めて注目されていた。

「今しかない」「絶対にこのトレンドは来る。フルコミットしよう」「もしダメだったら、責任をとろう」――。福岡で震災対応のオペレーションを行う中、慎と舛田がそう腹を決める。

そして社内が落ち着きを取り戻した2011年4月、慎は最後の勝負に向け、大号令をかけるのだった。





「クローズドコミュニケーション」に的

 

世界で普及しているメッセージアプリのことを考えると残された時間はわずかしかない。1秒でも早く出すべきだ。

慎が掲げたターゲットは2011年6月。

開発開始から、わずか1カ月半でリリースするという、開発現場にとっては地獄のような目標を達成するため、社内のエース級の開発要員のほとんどをメッセージアプリ開発に振り向ける決断をした。

開発と平行してコンセプトを担ったのは舛田。徹底して「クローズドコミュニケーション」を死守した。

舛田の頭の中では、買収したライブドアや、グループのハンゲームのIDを活用し、ツイッターやフェイスブックといったオープンなSNSに対抗した方がいいのでは、という思いもあった。

だが、それでは個性が失われる。

「電話番号という身近な人でなければ知り得ないカギを起点としたクローズドなコミュニケーションツールだからこそ、ツイッターやフェイスブックを使わない若い層や主婦のみんなにも使ってもらえるはず」

舛田がそう意を決すると、開発現場は「不夜城」状態に突入する。


開発は、韓国時代からの慎の懐刀である朴が仕切った。1カ月半で完成させるという慎の無茶な要求に、「開発が理由で遅れるようなことはさせません」と満額回答で臨んだ。

落ち着き払った朴は新たに韓国から呼び寄せたエンジニアを含む約15人の開発チームを束ね、土日もなくシャワーを浴びにだけ帰宅する日々をメンバーとともに送った。

かくして2011年6月23日、当時はまだメッセージ機能だけだったが、スマートフォン向けアプリ「LINE」が配信されるのである。

配信から約2カ月後の8月、LINEのダウンロード数は公開後2カ月で50万件を突破。翌9月には中東地域でのダウンロード数が勝手に伸び始め、 100万件を突破。10月に、無料通話機能と感情をイラストで伝える「スタンプ」機能を追加すると、台湾など東アジア地域でも急成長し始め、ダウンロード 数は300万件を突破した。

その後もLINEは、国内のどの企業も経験したことのない、前代未聞のスピードで日本とアジアを席巻していったのは周知の通りである。




「誰でもいいから、決めてやれ」

 

結果として、どんぴしゃりのタイミングで投入されたLINE。絶妙な判断を下した慎は、当時をこう振り返る。

「サッカーで例えると、90分間、頑張って、これで終わりかなという段階で、ディフェンダーでも、ゴールキーパーでも、誰でもいいから、決めてやれ、という瞬間でした。

1度しかない、一瞬のチャンスを見逃してはいけないという意識が、みんなにあった。2~3年の辛い時期を、みんなでともにしたから こそ、1つになれたのだと思います」



「LINE誕生の起点、慎ジュンホ」編 







「LINEの中身」 慎ジュンホ(1)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(2)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(3)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(4)
「LINEの中身」 慎ジュンホ(5)