木曜日, 9月 03, 2015

iPhoneよ、さらば


2013年のはじめ、ケヴィン・リンチはアップルから仕事のオファーを受けた。そのオファーは奇妙なものだった。彼が何をすることになるかは何も知らされなかった。アップルの徹底した秘密主義は、技術担当副社長」という漠然とした役職名と、彼がまったく新しいプロジェクトに取り組む予定であるということしか伝えなかった。

そもそも、アップルが彼に仕事をオファーをしたこと自体が不思議だった。アドビで8年間を過ごし、直近では最高技術責任者という役職に就いていた彼は、iPhoneはFlashの動画をサポートしないと決めたスティーブ・ジョブズのことを、愚かにも公然と批判したただひとりの人間として知られていた。リンチがアップルへの移籍を発表したとき、なぜアップルはこんな男が欲しいのか?」という反応があったほどだ。アップルの動向を追うブロガーのジョン・グルーバーは、この移籍について「ダメな人選」と書いた。

リンチは多くのことを示さなければいけなかったし、やるべきことも多かった。出社初日、インフィニティ・ループを訪れた彼は、通常の新入社員向けオリエンテーションには参加しないように指示される。当時の彼の上司、ハードウェアの権威であるボブ・マンスフィールドは、すぐさまデザインスタジオに向かって仕事に取りかかるように彼に伝えた。確定拠出年金については後で学ぶことができるから、と。

スタジオに足を踏み入れるや否や、リンチは自分が雇われた目的であるプロジェクトが、すでに期日間近であることを知る。実際、進捗状況は計画よりも遅れていた。幹部に発表するデザインレヴューが2日後にあると告げられる。リンチは準備に取りかからなければいけなかった。

動作しているプロトタイプもなければ、ソフトウェアもなかった。そこには、数多くの実験(iPodのチームはクリックホイールを使って、何かをつくり出していた)と大量のアイデアだけがあった。一方で、期待されていることは明確だった。アップルのデザイン担当上級副社長のジョニー・アイヴが彼らのグループに課したのは、手首に着けられる革命的なデヴァイスをつくることだった。

それは傲慢な挑戦であるのと同時に、もっともな期待であった。過去15年間にわたってアップルは家庭用電子機器の主要3分野に革命をもたらし、地球上で最も価値のある企業となっていた。MP3プレイヤーはiPodができる前からあったものの、それでもアップルはiPodを買いたいと消費者に思わせた。iPhoneはスマートフォンを、ビジネス用のツールからポップカルチャーへと変えた。iPadによってタブレットは2次的な製品から主流なものとなり、ノキアやマイクロソフトの数年にわたる取り組みを完全に圧倒した。そして4度目の挑戦として、アップルは時計を選択した。今回のプロジェクトは、そんなアップル帝国にとっての次のステップだ。スティーブ・ジョブズの指針なしに立ち向かう、初めての挑戦。周囲の注目と期待はとてつもなく大きい。 Apple Watchは、同社特有の表現を借りれば「異常に素晴らしい」insanely great)ものでなければならなかった。

ケヴィンにプレッシャーをかけるつもりはないのだが。








アップルは時計をつくることを決意し、そこにどんな機能があればいいかを探し始めた(もちろん時間を表示すること以外でテクノロジーは身に着けるものになってくるだろうという気はしていました」と語るのは、アップルのヒューマンインターフェイスグループを動かすアラン・ダイ。アップルの歴史的な関連性と重要性を兼ね備えた、次に取り組むのにふさわしい部位は手首だと思いました」

手首に装着するテクノロジーが目指すべきこと、またそれが解決しうる問題が何かということは、Apple Watchのチームがいくつもの新しい操作方法を生み出すなかで少しずつ気付いていったことだ。だが、最初から明らかだったことがひとつだけあった。どれだけ優れたユーザーインターフェイスをつくれるかが、Apple Watchの成否を決めるということだ。そのインターフェイス次第で、Apple Watchは何十もの博物館に展示される作品となるか、またはNewton以来最大のアップルの駄作として人々の記憶に刻まれるかが決まるのだ。
こうした状況下で、アラン・ダイはプロジェクトに参画した。アップルのヒューマンインターフェイスグループのチーフとして彼は、どのようにデヴァイスに指示を与えるか、そしてデヴァイスがどのように反応するかを考えることを任されていた。それはつまり、ラップトップやスマートフォン、タブレットを使うときに得られるちょっとしたクールな体験のことだ。例えばスクリーン上でアプリのアイコンを移動させるときに、アイコンがかすかに震えるような。そんな体験を生み出すのが、ヒューマンインターフェイスチームである。

現場で腕を磨いてきたグラフィックデザイナーのダイは、ブラックベリーというよりかは、むしろバーバリーのような存在だった。髪はきっちりと左右に分けられ、ギンガムチェックのシャツの内側には日本製のペンが留められている。それは彼が、どんなに小さなことも見逃さないということを示しているようである。彼が2006年にアップルにやって来たとき、その履歴書にはファッションブランドのケイト・スペードでのデザインディレクター、オグルヴィ・アンド・メイザーでミラーやリーヴァイスといったブランドを相手に重要な任務を担当してきた経歴が含まれていた。アップルのマーケティング部署で働き、いまでは同社の象徴となっているパッケージのデザインにかかわったのち、ダイはヒューマンインターフェイスグループへの手綱を渡される。

2011年10月にCEOスティーブ・ジョブズが亡くなったすぐあと、アイヴはApple Watchの夢を抱き始めた。それから彼は、そのアイデアをダイとデザインスタジオの小さなグループに共有する。彼らは当時、アップルのモバイルオペレーティングシステムの総点検を行うという、長く苦しい作業の最中にあった。文字通り、デザインスタジオに住んでいるようでした」とダイは言う。少人数でiOS7に取り組んでいたのです。 iPhoneのオペレーティングシステムの7度目の改良であるiOS7は、スマートフォンとタブレットのソフトウェアを単にリデザインする、ということ以上のものだった。それは同社にとって大きな転換点であり、ジョニー・アイヴの影響力を、すべてのアップルデザインに行きわたらせることを意味した。ダイとヒューマンインターフェイスのメンバーは、すべてのインタラクション、アニメーション、ファンクションを考え直さなければならなかったのだ。


サタデー・ナイト・ライヴ」アメリカのヴァラエティ番組)のプロデューサーであるローン・マイケルズは、スタッフを狂ったように働かせたことで有名だ。なぜなら彼が主張するには、人は疲れがピークに達しているときこそ、最もクリエイティヴで、かつ大胆になれるからだという。アップルのデザインスタジオは、まさにそんな状態だった。チームはアプリを立ち上げるときのアニメーションと、新しいiOS7のコントロールセンターに必死に取り組んでいた。スマートフォンのソフトウェアに関する昼間の議論が、夜には別のデヴァイスに関する議論となった。彼らは、時計という概念について問いを投げかけるところから始めた。時計は人々の生活に何を加えるのか。デヴァイスを身に着けることで、何が新しく可能となるのか。このころ、アイヴは時計学の研究を始めていた。太陽の位置を読むことからいかに時計が生まれ、それがどう腕時計に進化したのかを学んだのだ。彼は時計のことが頭から離れなくなった。その執着が、プロダクトとなった。

時計の概念を考える過程で、チームはApple Watchの存在意義を見出す。スマートフォンが、みんなの人生をダメにしている、ということだ。誰もが経験したことがあるように、アイヴ、リンチ、ダイ、そしてすべてのアップルの社員は、みな電話の着信音に支配されている。うるさい通知のリストを、絶え間なく確認しなければいけないからだ。わたしたちはいまのテクノロジーによって、つながり過ぎています」とリンチは言う。誰もがスマートフォンをもっていて、スクリーンを終始見ているのです。そこで彼らは、夕食の席でもスマートフォンに夢中になったり、電話が鳴ったり震えたりするたびに無意識にポケットの中に手を突っ込んでしまうような人々に目を向けた。それくらい、人は誰かとかかわっていたいものなのです。リンチは言う。ならば、そのつながりをもう少し人間らしく、誰かと一緒にいる瞬間にも可能にするにはどうすればいいのでしょう?」

携帯は、わたしたちの生活を蝕むようになった。では、理想から逆算をして設計することができたらどうなるだろう。例えば、一度に何時間も使わないよ うにする、もしくは使えないようなデヴァイスをつくることができたら? 余計な情報はすべて除外して、本当に重要なものだけを届けるデヴァイスをつくるこ とができたら? それは現代の生活を変えることができるかもしれない。30年以上もの間、できるだけ長く注意を引きつけられるデヴァイスの開発をしてきた のち、アップルは、その流れに逆らうことを決めたのだ。

アップルこそ、わたしたち現代人の問題をつくり上げた張本人である。そして彼らは、四角い金属板とミラノ製のバンドで、この問題を解決することができると考えている。

ゴールは、人々を電話から解放することだった。だから、最初のプロトタイプがiPhoneをマジックテープで留めたものであったのは皮肉的だったかもしれない。素敵なデザインのマジックテープでしたよ」と、リンチは忘れずに付け加える。

チームは、実物大のApple Watchの画像をスクリーンに映し出すシミュレーターを開発した。ソフトウェアはハードウェアよりもずっと出来上がるスピードが速かったので、チームはそれが、実際に手首の上でどのように動作するかを確認する必要があったのだ。スクリーン上には、時計のつまみを複製してつくられたデジタルクラウンまで再現されていた。Apple Watchではそこを回すことで画面をスワイプできるのだが、スクリーンの上では本物のクラウンを回す感覚を再現することはできなかった。そこで彼らはドングル、つまりコードによってiPhoneに接続することができる実物のクラウンをつくった。ある意味で最初のApple Watchのプロトタイプは、何千とあるKickstarterのプロジェクトと同じように、奇妙なiPhoneケースにおかしなアクセサリーがくっつい ているような代物だったのだ。

手に持つ、いや、腕に着ける不格好なプロトタイプを使って、Apple Watchのチームは携帯から引き継ぎたい核となる機能をテストし始めた。テキストメッセージの送信方法を解明するのは、学びの多いものだった。最初に試した方法は、アドレスとメッセージを入れ、メッセージを確認してからタップして送る、というiPhoneとほぼ同じやり方だった。これは非常にわかりやすい方法でしたが、使うには時間がかかり過ぎました」とリンチは言う。そして苦痛も伴った。腕時計を見るように、腕を上げてみてほしい。そして30秒数えれば、それが“よいユーザーエクスペリエンス”には程遠いことがわかるだろう。人々に、歩きながらそんなことをしてほしくありませんでした」とダイは言う。

チームは、クイックボード」と呼ばれるものを発案する。これはロボットがメッセージを読み上げ、それにふさわしい回答をいくつか提案する仕組みのことだ。デート相手に夕食にはメキシコ料理と中華料理のどちらを食べたいかと聞かれたら、中華料理」メキシコ料理」というリストが自動的に表示される。どちらかをタップすれば、回答完了。
これならもう一度別の確認画面を見たり、別のボタンを押してメッセージを送ったりする必要もないよね、というようなことをわたしたちは話し合いました。リンチは言う。その瞬間に、ただ返事を送ることができればいいわけです。 より複雑なやり取りもできるように、チームはApple Watchにマイクロフォンを付けられるようにし、Siriを使ってメッセージを送ったり指示したりすることを可能にした。ヴォイスコントロールにも理解できないほどの複雑な内容だったら? そのときは電話を使えばいい。

検証が進むに連れて、Apple Watchがうまく機能するための鍵が「スピード」であることがわかってきた。操作時間は5秒、最長でも10秒以内でなくてはならない。チームはいくつかの機能を簡素化し、単純に遅いという理由で一部の機能を完全に削除した。リンチとチームは、十分な操作速度が得られるまで、Apple Watchのソフトウェアを二度にわたって再設計した。初期ヴァージョンのソフトウェアでは、情報はタイムラインとして時系列に上から下へ流れるように表示されていたが、結局そのアイデアは採用されなかった。4月24日に世に出るアイデアは、ユーザーにとって価値のある情報を見つけやすくすることにフォーカスしたものだった。

ショートルック」と呼ばれる機能はこのようなものだ。手首にわずかな振動を感じるのは、テ キストメッセージを受信したことを示す合図だ。手首を上げると「ジョーからのメッセージです」という言葉が目に入る。すぐに手首を下げれば、そのメッセー ジは未読状態のまま置かれ、通知は消える。再度手首を上げると、メッセージは再び画面に表示される。このような動作によって示されるユーザーの情報に対す る興味のレヴェルが、Apple Watchがその優先順位を判断するための唯一の手がかりとなる。こうしたインタラクションを生み出すことで、Apple Watchのチームは、ユーザーがテクノロジーに没頭しないようにしたのだ。


こうして開発は進んでいった。チームは、アプリを開くことなく情報を見ることができて、操作ができる通知メッセージを開発した。グランス」という名のスクリーンもつくった。スポーツの試合のスコアやニュースといった簡単な情報が見られる場所だ。わたしたちはUIを考え直しました」とリンチは言う。そしてアプリをつくり直しました。メッセージ、メール、カレンダー。とにかく何度も、本当に洗練されたものになるまで」

チームは、ユーザーを情報で圧倒することなく、必要なものをすべて示すソフトウェアをつくらなければならなかった。その目標を満たせなければ、ユーザーは絶え間ない通知にイライラし、Apple Watchを外してしまうだろう。それはApple Watchが、買った直後に返品したくなる個人用デヴァイスになってしまうことを意味した。そのころ、リンチと彼のチームはソフトウェアの3度目の修正を終えており、アイヴ、ダイ、そしてそのほか全員がやっと最適なバランスを見出せたと感じていた。

しかし、ソフトウェアが複雑なものだとすれば、ハードウェアはまた別物だった。ヒューマンインターフェイスチームは、時計が手首に振動を伝える技術に取り組んでおり、エンジニアとともに新しいインタラクティヴィティの開発に励んでいた。そのいわゆる「タプティックエンジン」と呼ばれるものは、指で手首を軽く叩くような感覚を与えるようにデザインされた。わたしたちの身体は触感や振動に対して非常に敏感なので、Apple Watchは振動の速さや数、強さの組み合わせによって、さまざまな情報を伝えることが可能となる。連続するタップは電話の着信であり、微妙に異なるパターンのタップは5分後にミーティングがあることを知らせるもの、というように。

アップルは、それぞれ異なる感触を与えるプロトタイプをいくつも検証した。かなり不快感を与えるものもありました」と、リンチは言う。感覚が小さ過ぎるものもありましたし、手首に虫がいるような感覚を与えるものもありました。 タプティックエンジンを組み入れ、チームは特定のデジタル上での体験をタップや音に翻訳するという、Apple Watchに特化した共感覚を生み出すための実験を始めた。ツイートはどんな感覚だろう?重要なメッセージは? こうした質問の答えを探すためにデザイナーとエンジニアは、ベルや鳥からライトセーバーに至るまで、あらゆる音のサンプルを集め、音を物理的な感覚に変える試みを始めた。

ミーティングは毎週開かれ、ソフトウェアとインターフェイスのチームが電話の着信を受け取るときの音と感覚について検証を行った。最終的な判断をするのはアイヴだったが、彼を喜ばせるのは至難の業だった。味気なさ過ぎる」と彼は言う。自然さが足りない、と。アイヴが満足する音とタップができるまでに、1年以上かかった。

ディテールに対する狂ったほどの関心が現れたのは、タップだけではない。このような小さなディスプレイにおいては、小さいことが大きな重要性をも つ。そしてヒューマンインターフェイスチームは、デヴァイスの操作方法について、いくつかの画期的な方法を設計した。もちろん、デジタルクラウンもそのひ とつだ。そして「フォースタッチ」と呼ばれる機能は、スクリーンを少し強く押すことで、隠れたメニューにアクセスできるようにするものだ。チームはまた、San Francisco」という名のまったく新しいフォントもデザインした。アップルの標準フォントである Helvetica よりも、小さなディスプレイ上で読みやすくしたものだ。より角張ったフォントながら、ダイが言うには「角が柔らかくカーヴ」しており、Apple Watchに似せたものだという。より幅広で、小さなサイズでも読みやすいが、拡大すると文字の幅が細まるようになっている。その方が美しいことがわかったんだ」と、彼は付け加える。


The Solar は美しいデジタル日時計の画面だ。古代の測時法に現代のタッチを加えている。
The Solar をタイムラプスで並べたもの。太陽とユーザーの地球上の位置との関係を1日中示すことができる。
インガソールによる1933年のミッキーマウス時計に敬意を表して。アップルは、それに改良を加えることを試みた。
Apple Watchには、3、6、30、60秒の4種類のクロノグラフが備わっている。
ダイはクロノグラフの機械動作の設計、つまりそれをいかにデジタルで表現するかという挑戦に魅了された。
Apple Watchの3秒のクロノグラフ。実際のクロノグラフと同じ精度に見えるように設計された。
Apple Watchのチームは、完全に新しいフォントをデザインした。San Franciscoは、Apple Watchの小さな画面のためにつくられた。
その新しいフォントに課された役目は、多くの文字を小さな画面で見せること、そして少ない文字を美しく見せることだ。
Watchで使われるコンプリケーションという用語は、時計製造分野において時間を表示する以外の機能を指す。
コンプリケーションは、すぐに理解可能な情報すべてを意味する。日付や天気情報に限らない。
Apple Watchと携帯を初めてペアリングする際には、独自の製品証明が表示される。
Apple Watchを使って、誰かにタップやハートビートを送ることもできる。これが画面に表示されるイメージだ。
Siriも同様に機能するが、Apple Watch上では見え方が異なる。トレードマークの音波は、より視覚的になる。
ヒューマンインターフェイスチームは、ユーザーのアクティビティの表し方を、思いつく限り多くの数だけ生み出そうとした。
目的は、ユーザーが毎日のアクティビティの目標を達成し、サークルを完了させたときに、身体の奥からそれを感じられるようにすることだ
アップルの社員にとって、会議中に立つことは珍しくなくなった。Apple Watchが立つように指示するからだ。
日、週、月毎の運動量の目標に達成すると、ヴァーチャルのメダルを獲得できる。
Apple Watchの運動用のメダルは、装飾を施されたオリンピックのメダルに意図的に似せてつくられた。
Apple Watch上で文字を入力することはできないため、チームはそのほかのコミュニケーション手段を考えついた。たくさんの絵文字だ。

プロジェクトにかかわった全員が、人々が腕に装着したいと思うようなマシンをつくることの難しさを真剣に感じているようだった。でも、それはそこま で大きな挑戦ではないのかもしれない。スイスの時計デザイナーは、これまでにもずっとその仕事をしているのだから。彼らからヒントを得て、Apple Watchのチームはモデル数を限定的にするという、アップルがこれまで長らく貫いてきた方針を破ることにした。代わりに、チームは「Sport」Watch」Edition」の3つのモデルをつくることに決めた。アルミニウム製の349ドルのSportは、機能としては17,000ドルするゴールドのEditionとまったく変わらないかもしれない。しかしダイは、ふたつは大きく異なる製品であると主張する。

それこそが、ダイが時計業界から学んだことである。パーソナライゼーションと美しさこそがすべてなのだ。そして、一企業の製品をさまざまな人の腕に着けることを可能にする唯一の方法は、幅広い好みと予算に合うように、サイズ、素材、バンドなどが異なる、多くのモデルを用意することだ。ユーザーが自分の身体に着けるもの、またそれが腕に装着するものとなれば、わたしたちは細かい注意を払わないわけにはいきません」とダイは語る。

オプションを用意することは、最初から計画に含まれていた重要なアイデアだった。ふたつのサイズと3つのラインナップ、簡単に付け替え可能なストラップ、大量のトップ画面、自分だけのApple Watchにするための「コンプリケーション」と呼ばれる天気や自分の活動レヴェルなどを表示できる追加機能(コンプリケーションという用語はトップレヴェルの時計製作技術への敬意を表しており、何時何分という時間を伝えること以上の機能を指している3種類だけの時計にはしたくありませんでした。何百万という種類をつくりたかったのです」とダイは言う。ハードウェアとソフトウェアを組み合わせることで、それが可能になりました」

Apple Watchを通じてアップルは、このユビキタステクノロジーの時代にいながら高級製品メーカーとしての地位を確立するための道を歩み始めた。なぜならApple Watchは、単に通知メッセージと電話をクールな方法で受け取れる以上の存在であり、つまるところそれはファッションステイトメントであるからだ。アップルはいま、コモディティー化したガジェットの海に溺れかけているユーザーに対して、これこそが生活に価値を加えてくれるものであると説得しなければならない。それはとてつもなく大きな賭けである。もしアップルが17,000ドルの時計を売れる会社としての地位を確立できれば、それはこれまでとは異なる高級品市場での成功を意味するからだ。自動車市場のように。

シリコンヴァレーを拠点とする市場調査企業クリエイティヴ・ストラテジーのアナリストであるベン・バジャリンは、アップルならそれをやり遂げるだろうと考えている。アップルは、この星で最も利益をもたらす、消費額の大きな顧客層をつかんでいます」と彼は言う。それは裕福な顧客層という、まさしく時計メーカーがこれまでターゲットにしようとしてきた人々のことです。 高級時計市場は年間200億ドル以上の収益を生んでいるが、そのお金はすでにアップルに魅了されているような、同じタイプの顧客層からのものだ。アップルが、派手なパテック フィリップの時計よりも多くの資金を使って開発したApple Watchのターゲットとしているのは、こうした人々である。

ビジネスとしての結果はアップルにとってもちろん重要だが、Apple Watchが解決しようとしている問題は、クパチーノの外においても重要なものである。Apple Watchが成功すれば、人間とデヴァイスの関係に影響を与えうる。テクノロジーによってわたしたちは、本来なら最も注意を払わなければならないもの──友人、感動の瞬間、部屋中にあふれる笑顔といったものから注意を逸らされてきた。しかしテクノロジーは、こうした瞬間を取り戻すこともできるかもしれない。アップルがそのテクノロジーを生み出せる企業なのかどうかという問いは、アップルが本当に時価総額7,000億ドルに値する企業なのかという問いでもある。

リンチは前のめりに椅子に腰掛け、自分の子どものことについて話している。Apple Watchに一瞬目をやるだけで、届いたメッセージが緊急のものでないことがわかり、すぐに家族との時間に戻ることができる。それによって、彼も家族も傷つかないで済むことがどれだけありがたいことか、と彼は教えてくれる。

それから彼は立ち上がる。ダイとアイヴに大切な報告をするために、出かけなければいけないという。わたしたちが言葉を交わしている間、彼は一度も電話に目をやることはなかった。