金曜日, 8月 08, 2014

お稚児さん


八坂の神様が、京都の町を守ってくれる



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18歳で京都に来てから、途中で移動はあったものの、かれこれ16年間住んでいます。それでも知らないことはたくさんあるもので、今年は祇園祭の事をたくさん知る年になりました。
祇園祭というと、有名なのは宵山山鉾巡行です。宵山にかけては、山や鉾を持っている町内会が、一週間ほど前から山鉾の組み立てをし、通りを封鎖して巨大な建造物が出現します。
平日の、普通に会社にみんなが通う時間帯に、通勤路の真ん中に巨大な鉾が立ち並んでいる姿を見ていると、それだけでも何か、腹の底からワクワクするものがあります。夜には毎晩お囃子が奏でられ、町の真ん中に響き渡ります。
それが京都の町のど真ん中、四条烏丸の周辺で、平日から行われているのですから、京都の町の力を感じずにはいられません。
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山鉾の中でも特に人気があるのは長刀鉾です。長刀鉾は、常に巡行では先頭を走ることが決まっている特別な鉾で、その前面には、全ての鉾で唯一、生き稚児、生きた人間のお稚児さんが乗っています。他の鉾では、人形が飾ってあることが多いのですが、長刀鉾だけは本物の子供がお稚児さんとして乗っているわけです。
最近よくお世話になっている方が、かつてお稚児さんを出された家の方だということもあり、今年はお稚児さんについても詳しく教えて頂く機会に恵まれました。
聞けば、お稚児さんに選ばれた男の子は、一ヶ月ほど前からは地面に足をつけてはいけないらしく、トイレに行くのも誰かが抱えていかなければならないし、学校にも行けないそうです。女性と接触することも許されませんので、母親と接することもできず、神聖な期間を作るそうです。お金も数千万円の資金が必要ということで、聞けば聞くほど一般常識では考えられないような特別な存在なのだと分かってきます。
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そんな背景も聞いていましたので、すっかりお稚児さんに興味が出てきてしまい、巡行の日には先頭の長刀鉾に食らいつき、ずっと長刀鉾の少し前を歩きながら、お稚児さんの様子を観察していました。
お稚児さんは、両隣に座る禿(かむろ)と並んで顔を白く塗り、座っているだけでも神々しいのですが、巡行の途中は時たま、通りで言うと二本に一回くらい立ち上がり、鉾から前に乗り出して、左から右へと、そそぉー、っと、すくうような動作をしてくれます。これがまたなんともありがたく、僕と同じように長刀鉾を追いかけているお稚児さんファン軍団が周りにはたくさんいたのですが、皆さんこの動作が出ると、おおーっと歓声が上がります。ここに至るお稚児さんの準備の大変さを知ればこそ、よりありがたく感じます。
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山鉾巡行については、今年は大きな変化がありました。これまで一回で行われていた巡行が、49年ぶりに前祭と後祭の二回に別れたのです。後祭というのは、よく「後(あと)の祭」と言う、あの言葉の語源の後祭です。前祭に比べると少し地味な祭ですが、その分味わい深さがありました。以前は2回に分かれていたものが49年前に一つになり、それが今年また二つに戻ったのです。
なぜ今年だったのかと言えば、もう一つの大きな変化、大船鉾の150年ぶりの復活があったのです。
大船鉾は、150年前、幕末に「禁門の変」で焼失して無くなってしまっていたのですが、それが今年復活しました。
大船鉾を抱えるのは、四条新町を下ったところにある四条町。かつては毎年、後祭のしんがりをつとめていた名誉ある大船鉾が焼け落ちてしまうと、四条町ではご神体や懸装品だけを飾る「居祭(いまつり)」のみが行われてきたそうです。しかし、1995年に人口減少や高齢化で居祭さえも姿を消してしまいました。祭りが町からなくなり、「あの夏はほんまに寂しかった」と、自分たちの町から祭りが失われてしまったことを悲しんだ若手の方々がいらっしゃって、囃子だけでも復活させよう、と活動を開始。本来熟練が必要な囃子に、ほぼ未経験の方々ばかりを集めて、笛を吹かせて音が出た人は笛に、それ以外の人を太鼓と鉦に分ける、というすごいパート分けをするところから練習を開始されたとか。ただその時もまだ、鉾の復活までは誰も考えていなかったそうで、そこから10年間、お囃子だけを続け、2010年にようやく居祭を復活するまでこぎつけられたそうです。
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ただ、居祭が復活すると、ここがゴールでは、また以前のように祭りが廃れてしまう、というところから、やはり鉾を復活させよう、という話が立ち上がり、資金を集めながら大船鉾を再建していったそうです。再建の際には、他の鉾町から車輪を寄贈されたり、船鉾の設計を参考にしたりと、多くの方々の協力があって、150年ぶりの復活を迎えました。
それだけの思いと、時間が詰まった復活劇を果たした大船鉾がお目見えするということで、これまた49年ぶりに復活した「後祭」の宵山では、大船鉾が大人気。四条新町の交差点から歩行者さえも一方通行になった新町通を下がっていくと、黒山の人だかり。普段は静かな通りを人が埋め尽くし、行列に並んでから大船鉾に辿り着き、抜けるのに1時間近くかかりました。しかしまた、この人だかりの熱気も、150年ぶりに復活した今年ならではの醍醐味。ということで、たくさんの人の祝福と、長い時間を超えられた四条町の皆さんの誇らしい様子を見ながら、鉾を後にしました。
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翌日の後祭巡行では、この大船鉾がいよいよしんがりとして登場。前祭とは逆走するルートの後祭巡行の出発点となる烏丸御池交差点に向かうと、いよいよ150年ぶりに巡行を開始せんとする大船鉾と、その出発を一目見んとする人々が集まっておりました。いよいよ大船鉾の出発、となった時の、鉾に乗った音頭取と曳手たちの掛け声のそれはそれは勇ましいこと。先に出発した他の鉾とはまた、気合が違って聞こえました。どれだけの思いを込めて、ここに至ったのだろうと考えるだけで、こちらも胸が熱くなりました。
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150年ぶりに鉾が走り始める瞬間を見ることは、もうこれから一生あり得ない瞬間で、そんな歴史的瞬間に立ち会えた喜びとともに、大船鉾を追いかけて歩いて行きました。
河原町通りへの辻回しで前が詰まり始めると、前の鉾が詰まり始め、たまに大船鉾も止まります。少し中休みのような状態になると、音頭取や曳手の方々が、鉾と共に記念写真を撮るシーンも。それを祝いを込めて見守る観衆。喜びと、祝福と、誇りに満ちた空間がそこにありました。
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さて、そんな祇園祭ですが、これまた別の知人から、「宵山山鉾巡行を見て祇園祭を知ったと思ったら大間違い。本物の祇園祭は神輿渡御にあるのです」という話を聞きました。
あんな大きな山鉾以外に、まだ神輿とかなんとか、別の行事があるのか、と思いながらよくよく調べてみると、確かにそちらが神事としての本体である模様。
祇園祭というのはそもそも、京都の町の疫病退散を願って、祇園の八坂神社の神様を神輿に載せて市街にお出まし頂き、一週間「御旅所」に留まって頂いたあとに、また社にお還りになる、という神事だそうです。
山鉾巡行というのは、この神様が神輿に載ってお出ましになる前に、道中を清々しくお祓いする、いわば「露払い」であるとのこと。そして本来、前祭と後祭が2回あるのは、神輿が出てくる前に1回、お還りになる前に1回、道中をお祓いするために2回やっていたのだとか。
山鉾がたくさんあるので、2回に分けないとどうしようもなくなったのかな、などと浅はかな考えをしていたのですが、それを知って、なるほどそうか、と。むしろ巡行が1回になってしまっていた状態がおかしな状態だったのだと知りました。
そんなこんなで、「神輿渡御を見ずして、祇園祭を見たと言うなかれ」とまで知人に言わしめる神輿渡御を、ぜひ一度はこの目で拝見しようと、今年は初めて、巡行の日の17日の夕刻、18時頃に八坂神社の前の祇園交差点に出向き、お神輿のお出ましを待つことにしました。
祇園交差点に着いてみると、すでに人だかりで埋まっており、歩道は人でぎっしり。どこから見たものかとうろうろしていましたが、幸運にも交差点が見える場所を確保。そしていよいよ神輿の登場です。
東大路通の南から、順番に三基、神輿が担がれてやってきます。山鉾巡行と違って、「ホイットーホイットー」と掛け声をかけながら、シャリンシャリンと神輿を揺らして鳴らし、法被を着た男たちがやってくる姿の勇壮なこと。
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三基の神輿それぞれを担ぐために、3つのチームがあるらしく、三若、四若、錦とそれぞれ文字が書かれた法被姿の男たちが順番に現れ、八坂神社の前に差し掛かるとお神輿を揺らしたり回したり持ち上げたり、シャリンシャリンと何度も揺さぶって、神社の前で回ります。
しばらくすると三基の神輿が山の字に整列して地面にならべて置かれ、大勢の担ぎ手たちも地面に座り、一同が鎮まります。八坂神社前での神輿渡御出発式です。
八坂神社の宮司さん、京都市の門川市長、京都府の山田知事などが順番にお話をされたのですが、ここで門川市長が、「この八坂の神様が京都の町を守ってくれる。そして、日本を、世界を守ってくれる。」というようなことを仰りました。これはまた大きく出たものだ、と思いながら、しかしこの数日のあれこれを体験していた僕は、あながちそれも嘘ではないかも知れない、世界まではどうだか知らないけれども、少なくとも日本くらいは守っているかもしれないな、とふと思いました。
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7月17日に町にお出ましになった神様は、7月24日、後祭の巡行の日の夕方、再び八坂神社へと帰ります。
この日も三基の神輿が町中を練り歩き、最後に八坂神社に集結するということで、寺町通付近から、主に錦のお神輿にくっついて、八坂神社を目指しました。
寺町錦小路の交差点では、さすが地元、ということで錦の担ぎ手の皆さんのご家族や親類と思われる方々もたくさん通りに出られ、冷たい飲み物やアイスクリームを用意して待たれていました。
神輿が、地元の人々が待つ錦通に差し掛かると、そこで「ホイットーホイットー」と神輿を揺らし、差し上げをし、そしてしばしお休み。それぞれの担ぎ手に、家族の方などが駆け寄られて励まされる姿に、この神事がいかにこの地域に根ざしたものであるかを見た思いでした。
その神輿がいよいよ八坂神社の境内に入ると、境内を何周も周り、差し上げを繰り返します。最後の差し上げとあって、盛り上がりも最高潮に達し、見物客も一緒になって「ホイットーホイットー」と手を叩きながら参加していました。
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その後、神輿は境内の真ん中の舞殿に収められ、三基が並びます。
この神輿が八坂神社に帰る「還幸祭」の最後には、神秘的な神事があります。それまで明るかった境内の灯りが全て消え、担ぎ手の方々はいなくなり、にぎやかだった辺りが静寂に包まれると、神輿から神様が社にお戻りになる儀式が行われます。時間はすでに24時近く。
激しく勇壮な神輿担ぎから一変、暗闇と静寂の中で神様がお戻りになる儀式が行われました。10分間ほどの儀式が終わると、見物していた人々は静かに帰路につきはじめました。
儀式があまりに神秘的で、かつ、誰もが言葉も要らず「分かった」という気持ちになるからか、立ち去る人々の誰もが、あえて感想などを口にせず、ただ、静かに立ち去っていく様子が印象的でした。
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さて、これが、今年僕が体験した祇園祭です。
150年ぶりの大船鉾の復活、49年ぶりの後祭の復活、という記念すべき年に、しっかりと祭りを見ることができたのは幸運でした。
49年前、山鉾巡行を2回から1回にしてはどうか、という話が出た際には、京都を二分する議論が巻き起こったそうです。
山鉾町の主力産業である呉服産業が、高度経済成長期の波の中で活況を呈し、7月に2回も仕事を止めれいられない、ということで効率化を求めた。それに対し、本来の巡行の意味を守ろうとする人々。
その時、最終的な裁定が八坂神社の宮司さんに託され、そこで宮司は、「今は、長いものに巻かれておきなさい」と仰ったそうです。
日本全体が経済成長に向かい、効率を求めてまっしぐらに進もうとしている流れには、逆らうべきではない、ということでしょう。
とても柔らかい考え方だと思います。
そして、「今は」と言って、一旦本来の形を崩した祇園祭は、49年もの時を経て元の形に戻りました。この「今は」のタイムスパンの、なんと長いことでしょうか。半世紀もの間、「一時的に」形を変えながら、さてそろそろ、と元の姿に戻ることのできる力。
確かに1000年以上も続いている祇園祭であれば、50年くらい短い時間なのかもしれませんが、しかしかつての姿を知っている人も少なくなっている中で、祭りの形をまた大きく変えて、後祭を復活させることができる京都には、長い時間を見据えた融通無碍でいて安定した力を感じざるを得ません。
今回の後祭の復活はまた、経済成長を求め、効率を求めてきた日本の一つの時代の終焉と、新しい時代の始まりを象徴しているように思えてなりません。日本が、経済合理性一辺倒の時代から、成長と心の豊かさを併せて求める時代に変わり始めていることを、祇園祭の姿を変えた京都が宣言しているのではないでしょうか。
京都は、とても古い町でありながら、未来を示す先端的な町でもあるのかも知れません。
門川市長は、「八坂の神様が、京都の町を、そして日本を守っている」と仰りました。
神様は、深夜の暗闇で行われる還幸祭で目を凝らしても、その姿を見ることはできません。
しかし、何千、何万人という人々が、仕事を休み、道路を封鎖し、この祇園祭を行っているその姿は、ありありと目にすることができます。
150年間、消失したままだった巨大な鉾を再建し、誇り高く凱旋する人々の姿、神様を載せた神輿を担ぎ、大きな掛け声で汗を滴らせながら町を巡る人々の姿を、目にすることができます。
これほど大規模な行事を、千年という途方もなく長い間、ずっと続けられる人々の心のなかにあるものが神様なのであれば、僕はその存在を感じずにはいられませんし、それがこの町を守っている、というのであれば、そうだろう、と感じます。
人は、「この土地からはいつ離れても構わない」という人しか住んでいないような場所には、安心して暮らし続けることはできないと思います。
「この町から祭りがなくなったのは寂しい」と感じる人の心、この町には祭りがあって欲しい、と思う人の心が、この町を安定させ、守っているのではないかと思うのです。
そんな京都という町があるからこそ、日本の安定にもまた、少しは寄与している部分があるのではないでしょうか。
古くて新しい祇園祭、機会があればぜひご覧になってみてください。
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