土曜日, 8月 30, 2014

イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは

イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは



ネットにはいわゆるネタというのがある。ただ話題のための話題というだけで、それ以上の意味はないが、ネタはネタだから話題にしてもりあがろうという不毛な遊びである。
 その手のネタにぱくつくのもどうかとは思うが、たまたま「会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか」というネタを今朝方ツイッターで見かけて、ああ、この人、聖書読んだことないんだなと思った。
 ヨハネによる福音書の話である。イエスの弟子であるトマスは当然生前のイエスを知っていた。その意味ではイエスに実際に会ったことがあるが、イエスが処刑されて死んだ後、復活されてキリストとなったということはトマスには信じられなかった。
 十字架刑で手に釘をさされ、脇を槍で突かれて死に絶えたイエスがどうして復活するんだろう。そんなわけないじゃないか。イエスが復活したとか言っているやつ、どうかしてんじゃないの。頭おかしいんじゃないの、とトマスは思っていたのである。
 だから、トマスは、復活したイエス・キリストが信じられるというなら、まず、その手の釘の傷痕と、脇の傷痕を自分で確かめて、自分で本人確認して、きち んと一度死んでいることを理解して、その上で生きた本人イエス・キリストに会わないと、信じられるわけないじゃん、と思ったのである。
 こう書いてある。ヨハネ福音書20:25から。


かの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 だっからさあ、処刑されて死んだイエスが復活したら、自分の目で会わないと信じられねーよ、とトマスはいうのである。
 すると、その8日後、復活したイエスが家庭訪問してきたのだった。

 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

 というわけで、復活したイエス本人がやってきて、トマスに対して、じゃあ、手に釘の傷痕見えたあ? 脇の傷はまだ穴開いているまんまだからねえ、と、実 演してくれたのである。これでトマスもご納得。ようやく、「わが主よ、わが神よ」とイエス・キリストが信じられたのである。めでたしめでたし。
 どういうことか。
 それいいんじゃないの、ということである。
 イエス・キリストに会わなければ信じられないというなら、それでいいんじゃないのというのがこの話である。聖書である。
 イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物に出会うことはできないと思うかもしれないが、聖書によれば、復活されたのだから、今、ほいっとやってきて、ほらねと会ってくれるかもしれない。
 それだけのこと。
 そんなのあるわけないじゃんというなら、それもそれだけのこと。
 ただ、そこまでして会わなくても、イエス・キリストが信じられる人もいるし、聖書ではさっきの話の先にこうもある。

 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 見なくても信じられたら、そりゃラッキーじゃないのということだ。でもそれはあくまでラッキーというだけで、イエス・キリストを信じることは関係ない。
 復活のイエスに会うまで信じられないというなら、それはそれでまったく無問題である。信じる人もいるし、信じない人もいる。他人は他人、自分は自分。
 トマスのようなことを言うやつは、イエスの弟子とは認めない、不敬だ、不信仰だといった罵詈讒謗を加えたりということはない。
 反面、戦前の日本では、天皇は現人神と言われていたが、そんなのいるわけないじゃんと公言してトマスのようなことができただろうか。

「私は天皇のところへ行って、直接『私は現人神』だという言葉を聞き、『疑うなら、この手にさわってみよ』といわれて、その手にさわり、その感触から、な るほどこれは人間ではない、やはり現人神だなあと感じない限り、そんなことは信じない」といったところで、「トマスの不信」が当然とされる社会なら、たと え戦争中でも、これは不敬でなく、むしろ尊敬のはずである。第一、「信じない」ということは、自分の状態を正直に表明しているのであっても、客観的に「天 皇は現人神でない」と断言しているわけではない。従ってそう私に質問した人間が、本当に天皇を現人神だと信じ、そう書いた新聞記者も本当にそう信じている なら、「なるほどね、そういう機会があるといいね」というだけのはずである。
(『ある異常体験者の偏見』山本七平より)

 戦前の日本では現人神に対するトマスの不信は許されなかった。なぜかというと、たぶん、「天皇は現人神だと信じる」と言う人は、言ってはみるものの信じてはいなかったからだろう。信じていないのに信じるという矛盾が、他者に信仰を強いるという奇妙な行動を引き起こした。
 イエスに戻れば、イエスに会うなんて幻覚だろというなら、それもそれでいい。さっきの聖書の話も、仔細に読むと、「戸はみな閉ざされていたが、イエスが はいってこられ」とあるので、よほど特殊な量子トンネル効果があったか、復活のイエスは微妙に物質のみで形成されたわけでもないのかもしれない。ただ、ト マスが触れたくらいだから、まったくのダークマターであったということでもないだろう。
 冗談みたいな話になってきたが、重要なのは、「こうこうしたらイエス・キリストが信じられる」として自分の真実性に課した条件が、どのように満たされる かということだ。別の言い方をすれば、その条件に課した真実性を上回る確信が生じたら、イエス・キリストが信じられることだろう。もちろん、別段信じなく てもいいと結果的に聖書は言っている。そうじゃなく信じろというなら、戦前日本の現人神信仰みたいなことになってしまう。
 つきつめれば、自分の人生のなかで、真理とされる最終条件は何かというふうに考えてもよい。
 それはなにか?
 自分の死である。
 自分にとって自分の死ほど確実なことはない。自分の死は認識でできないから自分にとって死はないと言うこともできるし、それを信じてもいい。だが、人は心の底で自分が確実に死ぬことを信じている。あるいはそう信じなくても処罰の最終に置かれるのは死刑である。
 しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。
 実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。
 復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。







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