火曜日, 8月 26, 2014

H・R・ギーガーが遺したもの


『エイリアン』の芸術家H・R・ギーガーが遺したもの

『エイリアン』など数多くの映画や音楽、建築のデザインで活躍したアーティスト、H・R・ギーガーが、自宅の事故で死亡した。同氏の生涯を紹介。


スイスのアーティスト、ハンス・「リューディ」・ギーガーが、自宅の階段で転落したことによるけがで死亡した。74歳だった。
ギーガー氏は、リドリー・スコット監督の映画『エイリアン』のクリーチャーをデザインしたことで最も有名だが、このほかにも、たくさんの映画作品や文化に大きな影響を及ぼした。
映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーが1973年に、フランク・ハーバートのSF小説『デューン』を映画化しようとして、プリ・プロダクションへの参加をはたらきかけたとき、ギーガー氏は、すでに自らの力で地位を確立したアーティストだった。この映画でギーガー氏は、惑星ジエディ・プライムにあるハルコンネン男爵の世界をはじめとする数多くのデザインを手がけたが、数年にわたる作業と数百万ドルを費やしたあと、ホドロフスキー監督の『デューン』は見事に崩壊し、いくつかの夢のように素晴らしいストーリーと不朽の遺産は残ったものの、映画の完成には至らなかった。
その後、彼は『エイリアン』への参加に招待された。創作活動について法外な自由を与えられ、映画の制作のために、一時的にチューリヒからロンドンに移住した。スクリーンに映し出された成果は観客に衝撃を与え、人々を仰天させたが、彼は満足していなかった。時間的な制約などから、自分がイメージする機械と生物が融合した「バイオメカニカルな世界」に一致しなかったからだ。
それでも彼は、この作品でアカデミー視覚効果賞を受賞。その独特のスタイルは、映画ファンたちの心に永久に刻み付けられた。
2012年に撮影。画像はWIkimedia Commons
ギーガー氏は、ほかにも数多くの映画で視覚デザインを支援した。トラブル続きだった『エイリアン3』の制作中も20th Century Fox社にデザインを送り続け、1995年の『スピーシーズ 種の起源』でも膨大な量のデザイン作業をこなしたが、映画業界での仕事は締め切りに追われ、困難で失望しやすいものだという思いは続いた。
共同作業は映画だけに留まらなかった。彼はミュージシャンやレコーディング・アーティストたちと連携して、アルバムジャケットや彫刻をはじめとするプロジェクトに参加。自らをテーマにした数軒のバーの建築デザインも行っている(同氏の故郷クールに「ギーガー・バー」があるほか、東京の白金にもギーガー・バーがあった)。
ギーガー氏は、生涯を通じてしつこい夜驚症に悩まされ、自分のアートの大半は、「目を閉じたときに見えるもの」に直接または間接的に影響を受けていると語っている。彼が個人的に払った犠牲は大きかったのかもしれないが、世界の集合的無意識を、これほどまでに変えたアーティストはほとんどいないだろう。
スイス、グリュイエールにあるギーガー美術館の入り口。写真はWikimedia Commons


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