木曜日, 9月 25, 2014

「ダサい社長」が日本をつぶす!|SWdesign代表 和田 智(2)

「ダサい社長」が日本をつぶす!

ミニバンに乗るの、やめませんか?

カー&プロダクトデザイナー/SWdesign代表 和田 智さん(2)


和田 智(わだ・さとし)
カー&プロダクトデザイナー、SWdesign代表取締役
1961年東京生まれ。武蔵野美術大学卒。84年日産自動車入社。シニアデザイナーとして、初代セフィーロ(88年)、初代プレセア (89年)、セフィーロワゴン(96年)などの量販車のデザインを担当。89〜91年、英国ロイヤル・カレッジ・オブ・アート留学。日産勤務時代最後の作品として電気自動車ハイパーミニをデザイン。98年、アウディAG/アウディ・デザインへ移籍。シニアデザイナー兼クリエーティブマネジャーとして、A6、Q7、A5、A1、A7などの主力車種を担当。アウディのシンボルとも言えるシングルフレームグリルをデザインし、その後「世界でもっとも美しいクーペ」と評されるA5を担当、アウディブランド世界躍進に大きな貢献を果たす。2009年アウディから独立し、自身のデザインスタジオ「SWdesign 」を設立。独立後はカーデザインを中心に、ドイツでの経験を生かし「新しい時代のミニマルなものや暮らし」を提案している。2012年ISSEY MIYAKE WATCH 「W」を発表。
SWdesign TOKYO | HomepageSWdesign TOKYO | Twitter
人物写真:大槻純一、以下同

クルマは街のデザインの一部です

川島:東京にいると、クルマの存在意義が少しずつ薄らいでいる気がします。和田さんは、どう思いますか? 若い人、クルマに興味がないという話もよく聞きます。
和田:たしかにそう言われています。しかも、日本車の場合、売れ筋の大半は、大きいものから小さいものまでいわゆる「ミニバン」ですよね。
川島:ミニバン。クルマに詳しくない私としては、どのメーカーのどの車種かがいまひとつよくわかりません(笑)
和田:クルマに詳しいひとでもミニバンは、メーカーと車種の区別がつきにくいと思いますよ(笑)。で、僕は言いたいんです。「日本のみなさん、ミニバン乗るの、やめませんか?」と。
川島:え、なぜ?
和田:話すと長くなりますが、いいですか(笑)
川島:どうぞどうぞ。
和田:僕は、クルマって、いつの時代も、人の暮らしや社会と密接にかかわっているものだと思うんです。たとえ若者の自動車離れが叫ばれようとも。
川島:どういうことですか?
和田:というのも、クルマそれ自体が半ばパブリックな存在だからです。個人として購入して、自分の家の駐車場にあるクルマも、ひとたび車道に出て行けば、その姿は「公共の風景」の一部になる。クルマ離れといいますが、実際に街中にはびっしりクルマが走っていますよね。クルマって、もはや文明の風景の欠かせない一要素になっているわけです。大げさにいえば、クルマとは「動く建築」です。
川島:動く建築。言い得て妙ですね。そもそも建築物そのものが都市や社会のインフラであり、ハードであり、パブリックなものである、という側面がある。
和田:もちろんです。建築も単体で存在するのではなく、人とかかわりながら、都市や社会とつながっている。その意味で、クルマも建築の一部なんです。建築物、クルマ、電車、自然、人……、さまざまな要素が織りなすシルエットの集合体。それが街の風景であり、情緒であり、エッセンスです。クルマって、そういう意味では、「個人の持ち物」以上の役割を負っているんですよ。
川島:ハード面ではもちろん、ソフト面では「交通」を担っているわけですから、誰が所有していようと、クルマって、たしかに公共的な存在ですね。
クルマが走れば映り込む風景も変わる

和田:一方、都市のありかたとクルマのとらえ方は、国によって随分と違う。日本とドイツとを比較しても痛感します。僕がアウディで働いていたときは、ドイツのミュンヘンに住んでいました。ミュンヘンも東京同様、第二次世界大戦後、街の多くが壊滅状態にあった。戦後、いわばゼロ状態から都市を構築せざるを得なかった。スタート時点は東京とそっくりだったんです。ところが、いまのミュンヘンに行くと、東京と景色が全く違う。
川島:昔からあるヨーロッパの整然とした町並み、という風情ですよね。
和田:そうなんです。ドイツ人はミュンヘンをかつての古い町並みに戻そうとした。ゼロから再び古い町並みを再構築した。一方の東京は、過去を振り返らず、無計画に細胞が分裂するように、新しさを求めて自分勝手に成長し、今の混沌とした町並みができあがった。
川島:かたや都市の歴史やかたちを振り返り、それを復権しようとした。かたや、歴史を捨て、新しさを野放図に繰り広げていった。あれ? これって前回和田さんが説明した、ドイツ車と日本車のデザインの違いといっしょですね。

クルマが走れば映り込む風景も変わる

和田:ええ。どちらがいい悪いという問題ではありません。ドイツと日本、それぞれが選んだデザインの道です。歴史を振り返り、尊重し、公共性を念頭に置くのか、歴史を忘れ、新しさだけにひた走るのか。
川島:前回、和田さんは、デザインは「新しさ」を闇雲に追求するものじゃない。ヘリテージ=過去からの遺産を尊重した上で未来に提案するスタンスが必要だ、とおっしゃいました。その意味では、日本の戦後の都市デザインも建築デザインも、そしてクルマのデザインも、「歴史や公共性が欠落している」と?
和田:そう思います。たとえばクルマのボンネットって、周囲の光景が映り込みます。クルマが走れば映り込む風景もどんどん変わる。クルマを運転している人は、知らず知らずに街や社会の風景を、クルマを通して目にしている。一方で、道路に居並ぶクルマは、街行く人から見れば、まさに風景の重要な一部です。クルマに乗っている人には街が、街行く人にはクルマが、風景。だとすると、街や歴史を意識せずに、クルマのデザインをできるわけはない——僕はアウディでそれを教わりました。
川島:言われてみればそうですね。
和田:でも、幸か不幸か、日本メーカーのデザイナーで、クルマのデザインの公共性、歴史性を意識している人って皆無に等しいんですよ。
川島:本当ですか? 
ドイツメーカーの社内では「派閥」がない

和田:デザイナーって基本的にエゴイストです。「俺が作ったクルマ」という意識が物凄く強い。で、時として、エゴだけが突出してしまう。「クルマの公共性や社会性」といった考え方がインプットされないと、街や社会から遊離したデザインになってしまうんです。
川島:つまり、プロダクトだけで完結してしまっている。街や歴史や風景と調和のとれたデザイン、という発想がないんですね。

ドイツメーカーの社内では「派閥」がない

和田:日本のメーカーでは、組織のあり方が、デザインの阻害要因となるケースが、決して少なくありません。全然だめなデザインでも、ひと度、デザイン担当部長がゴーサインを出してしまうと、部下のデザイナーは「これは違うのではないか」と絶対に言えないわけです。つまり、「ノー」と言えない。それが、ドイツに行くと、「ノー」と言えない人間は、逆に仕事ができないやつ、という烙印を押される。
川島:「ノー」といえばいいんですか、ひたすら?
和田:いえ、それだけじゃダメです。「なぜノーなのか」を、論理的に説明できなければ、そして対案を出せなければダメです。日本人はここが不得手なのかもしれません。でも、ドイツでは当たり前のことで、自分の意見を明快にせず、曖昧なままにしておくと、仕事から外される、非常に厳しい社会です。厳しいけれど嘘のない働き方です。誠実な企業がきちんと評価されていきます。当然、優れたデザインにも適切な評価が下されるわけです。
川島:なるほど。お国柄がデザインに影響してくるのですね。ドイツ企業と日本企業では、デザインマネジメントのやり方も違うんですか?
和田:アウディのラインナップをご覧いただければわかると思いますが、デザインに一貫性があります。これがアウディ、というデザインアイデンティティが明確にある。
アウディA5(写真提供:アウディ)
アウディRSラインシリーズ(写真提供:アウディ)
川島:たしかにそうですね。アウディだけじゃなく、メルセデスベンツにせよBMWにせよ、ドイツのトップブランドは、誰が見てもベンツ、誰が見てもBMWというデザインです。
和田:なぜそうなるか。それは経営トップが圧倒的なカリスマ性とリーダーシップを持っており、トップの意思が社内に行き渡っているからです。だからデザインもぶれない。
川島:日本の場合はそうではないと?
リーダーシップ不在はデザインに映る

和田:ずいぶん違う、と思います。アウディはフォルクスワーゲングループに属しています。かつてアウディそしてフォルクスワーゲン社長は、フェルディナント・ピエヒさんでした。ピエヒさんは、グループのトップとして各ブランドのコンセプトからデザインに至るまで、常に明確な判断を下していました。売れる売れないという話だけじゃなく、ドイツにおいてクルマがいかに大切かということ、クルマがいかに人を楽しませるものか、ということをきっちり解く。本当のトップダウンというのはこういうことか、と思ったものです。そして、現在ではかつてのピエヒさんの片腕であった Dr. ウィンターコーン氏に受け継がれているのです。
川島:フォルクスワーゲングループって、巨大ですよね。傘下には、アウディだけじゃなくてポルシェもベントレーもランボルギーニもある。日本の大組織だと絶対に派閥が生じて、派閥同士の争いで方針がぶれる、なんてことが起きそうですが。

リーダーシップ不在はデザインに映る

和田:たしかにそうですね。それが不思議なことに、フォルクスワーゲングループは、巨大組織にも関わらず、パーティー(=派閥)ができないのです。理由のひとつは、ピエヒさんのようなオーナー型でかつ強力なカリスマ的なリーダーシップを持った経営者の存在でしょうか。日本の場合、トヨタ自動車のようなオーナー系の企業といえども、経営トップの旗ふりだけで会社が動く、ということはなかなかありません。サラリーマン企業だったらなおさらのことです。オーナーシップと経営が強固に結びついて、明確な経営方針とデザインコンセプトを打ち出す、というのは、自動車に限らず、ヨーロッパ企業のひとつの特徴かもしれませんね。
川島:日本の場合、自動車メーカーくらいの企業規模になると、経営者がトップダウンで全部を決める、というのはなかなかないでしょうね。社員にとっても、経営トップが遠い雲の上の存在になっていて、極端に言うと「自分には関係ない」ととらえている社員が多い。高度成長期はそれでも良かったけれど、時代の転換点を迎え、先行きが見えなくなってきたとき、明確な方針が出せるトップがいないと、企業自身が惑ってしまう。自動車以上に、家電業界でも見られる動きですね。
和田:そんなリーダーシップの不在がデザインにも反映されてしまうわけです。
川島:わかりました。それでなぜ、「ミニバン、乗るのをやめよう」、なんですか?
ミニバンが氾濫する日本は幼稚社会

ミニバンが氾濫する日本は幼稚社会

和田:話をもどしましょう(笑)。理由ははっきりしています。ミニバンばかりの自動車の風景は美しくないし、乗っている人もかっこよく見えないからです。
川島:美しくないし、かっこよく見えない!
和田:昨年まで住んでいた家の前に少年野球場があったのですが、週末、子供たちは皆、お父さんが運転するミニバンで送られてグラウンドにやって来るのです。その光景を見ていると、お父さんが子どもたちの運転手に成り下がったように見えたんですね。
川島:ははあ。
和田:個人的な思い出なんですが、僕が子どもだった頃、父は、いすゞ自動車の「べレットGT」に乗っていたのです。往年のスポーツカーです。思い出すのは、ベレットでドライブに連れて行ってもらったこと。幼心に、オヤジ、かっこいいなあ、と思っていました。
べレット1600GT(写真提供:いすゞ自動車)
川島:かっこいいお父さん像とクルマ像とが、記憶の中で重なっているのですね。
和田:そうです。父は電気系のエンジニアで、忙しくてあまり家にはいなかったのですが、たまにドライブに連れて行ってくれる父を「かっこいい」と思っていました。50歳前後の僕の世代のクルマに対する原風景って、父親やおじさんや兄貴がクルマに乗っている姿ではないでしょうか。それを、「かっこいい」と憧れていたと思うんです。でも、どうだろう、今のミニバンには、「かっこいい」という原風景を子どもたちに与える力はないのではないしょうか。
川島:お母さんが強くなったのかな(笑)
和田:ははは。たしかにクルマの車種の決定権ももっぱらお母さんが握っていて、「お友達の◯◯ちゃんのお宅もミニバンだから、我が家もミニバン」と選んでいるのかもしれません。オヤジの威厳というものが、ミニバンの氾濫とともに消えちゃったのかも(笑)
川島:強いお父さん像みたいなものは、今の日本からどんどん失われていますね。今は母から子供への影響力が圧倒的に大きい。
EVは家と一体化してデザインしよう

和田:子供とは、誇り高い父親から多くを学ぶ側面がある、と思うんです。じゃあ、ドイツはどうか、というと、ドイツのオヤジたちは、昔の日本のように、父としての威厳をしっかり持っています。父の言うことに家族は敬意を払い、それを尊重している。僕のアウディ時代のドイツ人の同僚の家はそんな感じでした。
川島:家族のありかたが、クルマの選び方に影響を与える−−。ミニバンばかりの日本の風景は、それを象徴している、と。
和田:さらにいうと、何度も申し上げているように、クルマは街の風景の一部をなす、動く建築です。そう考えると、ミニバンばかりが走っている都市って、美しくない。クルマに乗っている人間の意思が見えない。多様性がない。なにより幼稚に見える。ミニバンって、結局「子どもが主人公」の車種だったりしますから。セダンが走っていたりクーペが走っている町並みのほうが美しい。多様性がある。なによりオトナの社会に見える。「ミニバン、乗るの、やめませんか?」と思わず口走りたくなるのは、そんな理由からです。
川島:だいたい少子化が進む日本で、7人乗りのミニバンを有効に使うチャンスがどれだけあるのか、という感じもしますよね(笑)

EVは家と一体化してデザインしよう

川島:自動車業界では、エネルギー革命が進行中ですよね。トヨタのプリウスやアクアに代表されるハイブリッドエンジン車しかり、最近台頭しはじめた電気自動車=EV=Electric Vehicleしかり。和田さんは、たとえばEVをどうとらえていますか?
和田:日本のEVでいうと、カー・オブ・ザ・イヤーをとった日産リーフが代表的な存在ですね。ただ、僕が思うEVって、リーフのような、従来の自動車のエンジンを電気モーターに変えました、というものではないのです。
川島:え、どんなものですか?
和田:EVに関しては、「クルマ」という枠から離れて考える必要がある、と思います。電気で動くわけですよね。で、充電は毎晩自宅でやる。ならば、EVは最初から「家の一部」と考えたほうがいいじゃないか、と。排ガスが出ないから、家の中に入ってきても空気は汚れない。夜間電力を使って充電できる。停電などがあったら緊急バッテリーとしても機能する。だったら、EVを「家」の拡張手段と考えたらどうだろうか。つまり、家の外に置いておくのではなく、家の中に入ってもらう。ガレージを玄関にしちゃう。もっと言えば、ガレージを母屋の中に入れてしまう。
川島:わ、面白そう。
トップが「デザイン経営」なんて言ってる会社は……

和田:ちょっと昔の日本の家を思い浮かべてみてください。日本家屋には、土間があったでしょう。荷物を積んだ大八車を、外からそのまま土間に入れていた。土間は、台所にもなっていて、家事の機能を果たしていた。
川島:土間は、屋外と屋内とをつなぐ暮らしの場だったわけですね。そこにクルマも入ってくるということですか?
和田:そうです。もしかすると、かつての日本の暮らしが持っていた土間の美しい風情を、今の時代に置き換えて活かすことができるかもしれない。派手でも贅沢でもないけれど、美しい暮らしの風景が生まれる。「EVを家に入れる」という発想には、そんな可能性が含まれているのです。
川島:いっそのこと、クルマと家を一緒にデザインしてしまう時代ということですね。
和田:とあるメーカーのEVのプロジェクトを手伝ったことがあります。その時、建築家と仕事をしました。おかげで、デザインの発想が、プロダクト単体から街へと広がっていった。それが都市のありかたへの思考にもつながっていくのです。たとえば、首都高の景観と機能が気になったりもするわけです。100年後の東京の未来を想像すると、首都高はどうなっている? エネルギーはとうなっている? クルマのデザインは? クルマと都市計画は、密接にかかわってくることになります。
川島:EVからここまで話が広がるとは……。

トップが「デザイン経営」なんて言ってる会社は……

和田:日本のクルマメーカーが、従来の企業体質のまま、次世代自動車を出し続けても何の意味もない。今、登場したEV車は、10年後には粗大ゴミになってしまう可能性もある。新しい価値の創造がなければ、これからEVの存在意義はないと感じています。EVだけじゃありません、自動車すべてがそんな状況に置かれていると思います。
川島:ますます経営にデザインが必要となりますね。
和田:と、思うでしょう? ところが違うのです。今どき、トップが「デザイン経営」なんて言っている会社は、かなりヤバい。
川島:え、いきなりちゃぶ台をひっくり返すような話を(汗)



「ダサい社長」が日本をつぶす!|SWdesign代表 和田 智(1)







関連記事